「生きづらい」という言葉の危うさ|ままならジオ(ままなラジオ)#6
「ままならジオ」は、人生の「ままならなさ」を、『弱さ考』著者であり、オンライン読書プログラムの「問い読」主催者でもある井上慎平が、みなさんと一緒に、もたもた、まったり考える番組です。
▶︎ お便り(ご質問・ご感想)はこちらから募集中
▶︎オンライン読書プログラム「問い読」はこちら。コンセプトは、「ちょいムズ本を、仲間と読み切る」
▶︎著書『弱さ考』
▶︎ 読む「ままならジオ」(本編の台本・文字起こし)
「生きづらさ」という言葉は、大切なんやけど危うい。今日はそんなお話です。ままならジオ。『弱さ考』著者の井上慎平が、人生の“ままならなさ”を、焚き火を囲むように、一緒に考える番組です。もたもたと、割り切れないまま。割り切らないまま。はい。僕は、『強いビジネスパーソンを目指して鬱になった僕の 弱さ考』という本を書きました。鬱になった、と聞くともう治ったかのように聞こえるかもしれませんが、全然治ってないんですよね。いまもちょっと鬱とけっこう鬱のあいだを行ったり来たりの毎日です。具体的にいうと、人と会話するのにすごくエネルギーを使う。ちょっと仕事したらすぐ頭が回らなくなる。脳がめちゃくちゃ疲れやすくなってるんですよね。だから、けっこう生きづらいっちゃ生きづらい。あと、社会的にどうかはさておき、2026年現在、障害者手帳を支給されて福祉のお世話になっとるんで、いわゆる「弱者」だと言えないこともないと思います。でも、僕は極力「生きづらさ」とか「弱者」とかの言葉を使わんように意識してるんです。なんで使わんのかというと、大きく理由は二つあって、一つは、誰だって、いつの時代の人だって「生きづらい」ことに変わりはないからです。おもろい本があるんで一冊紹介させてください。『生きづらい明治社会』っていう歴史学者松沢裕作さんの本なんですけどね。着眼点がおもしろい。今は変化の時代だ、ってよくいうけど、それでいうと明治社会の生きづらさはすごかったぞ、と。もちろん変化が激しい社会だからこそ「時代のヒーロー」も生まれるわけですけど、その一方でふつうの人にとってはものすごく不安な時代だったはずだと。ちょっと話題が逸れるんですけど、明治時代の不安について、おもしろいことが書いてあるんで、引用しますね。私がこの本のなかでこれから述べることは、不安のなかをいきた明治時代の人たちは、ある種の「わな」にはまってしまったということです。人は不安だとついついやたらとがんばってしまったりします。みんなが不安だとみんながやたらとがんばりだすので、取り残されるんじゃないかと不安になり、ますますがんばってしまったりします。これは、実は「わな」です。なぜなら、世の中は努力すればかならず報われるようにはできていないからです。これは、僕が初回で言った、「人生は残酷だ」っていうテーマそのものです。人は不安から頑張る。でもその頑張りが報われるとは限らないっちゅうね。で、著者がこの本で明らかにしていくのは、明治時代というのはめちゃくちゃ生きづらかったという話です。その詳細をここでは語りませんが、人権なんて考えもありませんから、困ったって僕みたいに福祉が助けてくれるなんてこともないし。めちゃくちゃ大変やし、今よりもっと自己責任的です。現代ももちろん、生きづらさを抱えている人はたくさんいるでしょう。それは事実です。でも、それは何も今だけのことやない。どの時代にもそれぞれの生きづらさがあった。たとえば、現代でハラスメントを受けるのはとても辛いけど、それをハラスメントだと、いけないことだと言っていい、思っていいこと自体は、少しだけ生きづらさを少なくしてるはずなんです。ハラスメントなんて言葉がなかった時代はずっと泣き寝入りやった。問題は少しずつマシになっていく。でも、マシになるともっと細分化した問題が生まれます。今も、「なんとかハラスメント」って言葉は何十個とあるでしょう。もちろんハラスメントはあっちゃいかんけど、一個解決されたらまた次のハラスメントが解決の対象になっていく。一生なくなりはしないんですよね。どの時代にもそれぞれの生きづらさがあるっちゅうんはそういうことです。世界は残酷ですね。それに、同時代の人同士でもそれぞれの生きづらさがあります。僕は「人には人の地獄がある」って言葉が好きなんですね。これは太宰治の言葉らしいですけど。以前、宇垣美里さんが「私には私の地獄がある」って言ってて、ほんまにそうやろなって思いました。誰もがうらやむ美しさを持って生まれてきてる彼女がなぜそんなことを言うのか。それは、美しいからやと思うんですね。人って、恵まれた人には上から目線ならぬ下から目線でいくらでも残酷な言葉を投げつけられる怖さがある。ほめられるようなふりをして妬まれるような言葉を、反論しづらいような言葉を宇垣さんはたくさん投げつけられてきたように思うんです。そもそもそうやないと宇垣さんも「私には私の地獄がある」なんて言わないでしょう。誰から見ても恵まれた人生を生きている人にだって、生きづらさがあるんです。これは、「みんながつらいから我慢しろ」って話じゃないです。あなたがつらいなら他の人と比べる理由なんかない。ただ、そのときに、自分だけがつらいわけじゃない、と知ったうえで、「私はつらい」と言えるのと、「自分だけがつらい」かのように「私はつらい」というのは大きな差がある。さて、僕が「生きづらさ」とか「弱者」を使わない、もう一つの大きな理由。それは、被害者的になると自分の人生が始まらないからです。人生はままならない。僕で言えば人とふつうに会話することも、仕事することもただ、立っていることも、すべてがままならない。でも、「なんで自分だけがこうなんや」「おれはがんばって働いただけなのにあんまりや」とか嘆いていると、楽になる代わりに、いつまでたっても自分が「被害者」ポジションから動けなくなってまうんですよ。もちろん、最初は僕だって嘆きますよ。理不尽に対して嘆かないなんて不自然です。人間そんなに強くない。でも、いったん嘆き散らしたら、その後は、立ち上がって歩いていかんといかん。人生は続きますから。理不尽やままならなさが襲いかかってくると、人はしばらく「こうでなかった可能性」を考えます。大切な人をなくしたときのことを想像したらいい。ああすればよかった、こうすればまだ生きてたかも、そう思って当たり前でしょう。でも、「こうでなかった可能性」を考え続けているうちには、自分の人生が始まらない。この考え方は哲学者千葉雅也さんが『欲望哲学』のなかで語ったことに大きく影響を受けてます。彼はざっくり言えば「たまたま偶然でこうなってしまった。その偶然性を引き受けないと主体化できない」って言ってるんです。主体化するというのは、自分が他ならぬ自分として生きていくということです。たまたまを、偶然性を引き受けないうちは、自分のことを「誰でもない、他ならぬ自分」として生きていくことはできへん。だから僕は、自分が生きづらいとも弱者やとも、あえて言いません。今の時代は「被害者性の時代」です。あらゆることに対して被害者やと無限に主張できてしまう。そんな時代やからこそ、僕は、それでも被害者的に生きていくかどうかは自分で決めないとあかんのちゃうのって、そんなことを思います。もちろん、被害者であることは事実やとしてもね。それでは、今日のままならジオはここまで。この番組は一緒に考える、をやりたいんで、質問・感想も募集してます。僕が主催している、「ちょいムズ本を、仲間と読み切る」オンライン読書プログラム「問い読」と一緒に、詳細を概要欄に置いておきます。井上慎平でした。ほんじゃあ、また。
感想
まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!