「ままならジオ」は、人生の「ままならなさ」を、『弱さ考』著者であり、オンライン読書プログラムの「問い読」主催者でもある井上慎平が、みなさんと一緒に、もたもた、まったり考える番組です。
▶︎ お便り(ご質問・ご感想)はこちらから募集中
▶︎オンライン読書プログラム「問い読」はこちら。コンセプトは、「ちょいムズ本を、仲間と読み切る」
▶︎著書『弱さ考』
▶︎読む「ままならジオ」(本編の台本・文字起こし)
「意見と人格は切り離せ」っていうけども、それ〜無理あるんちゃう?今日はそんなお話です。ままならジオ。『弱さ考』著者の井上慎平が、人生の"ままならなさ"を、焚き火を囲むように、一緒に考える番組です。もたもたと、割り切れないまま。割り切らないまま。よくビジネスの現場でこういうこと言われません?「あなたの意見を否定しても、別にあなたの人格を否定してるわけちゃうからね」要は、切り離して考えんとあかんよと。ビジネス書にもよう書いてますよ。でもなー、どう思います?無理ちゃいます?そんなん言われても。やっぱり否定されるのって怖いやないですか。怖い。ビジネス書ではよくこんなふうに書いとるやないですか。会議室のなかでは侃々諤々で議論しまくって、で、会議室一歩出たらニコニコ冗談言ったり、パブで肩を組んでビール飲んだりするのだ、それが外資系では当たり前だ、みたいな。いやいや。わかるけど。わかるけども。人間、そんなふうにできてへんやろってやっぱ思ってまうんですよね。いや、僕は「意見と人格は切り離せ」を全否定したいわけやないんですよ。前提として。仕事って、やっぱいい結論を出すためにガンガン議論をしてかなあかん場面もあるわけで、そんなときに「相手を傷つけたくない」「怖い」みたいな気持ちを大事にしすぎたら、話が1個も進まんからね。だからといって全肯定もできんよな〜っちゅうんが今日の話です。なんか、ここに考えるべきことがある気がすんねんな。「ままならなさ」とか、割り切りたくても割り切れない、って気持ちとか。そんなことをめんどくさく考えるのがままならジオなんですわ〜。まず、みんなやせ我慢して、ほんまは意見と人格を完全に切り離すなんて無理やのに、強がっている。ビジネスの論理が、弱い人間に強さをリクエストしてくる。『弱さ考』という本の著者としてはそこから始めたいなって思います。そういう視点から書いてる本やから。ほんで、実際どんなことが現場で起こってるかっちゅうと、意見と人格切り離すんが得意な人と、切り離すん苦手な人のあいだですれ違いが生じてるんと思うんよね。切り離しが得意な人たちは「意見と人格は切り離せ」を忠実に実践して、ばんばん思ったことを言うわけよね。んで、切り離すん苦手な人たちは、やっぱり立場とか、役職とか、相手の顔色とかを察しちゃって言えへん。意見と人格の切り離しゲームに乗れる人と乗れへん人のあいだで、ちっちゃな差が蓄積されてく。そしたらどうなるかっていうと、片方がオフェンシブに、片方がディフェンシブになっていくんよね。それが、よーない。んー、何がようないんかな?あー、うん、あれやな、「意見と人格は切り離せ」が「攻撃的に発言していい」カードみたいになってんのがよーないんやな。カード発動!みたいな。たぶん、切り離すん苦手な人の本音としては「意見を否定しても、別にあなたの人格を否定してるわけちゃう」とだけ言っとけばOKと思うなよ、みたいな感じで思ってんちゃうかなあ。こちとら機械やあらへんで、っていうな。「意見と人格を切り離す」って言葉が、相手に対する配慮をサボる言い訳になってしまいがちなんが、ちょっとなあって思うねんな。話してて思ってんけど、この「意見と人格は別やねんで」っていう言葉って、ほんまは人格の部分がキモやんか。つまり、「どんな話をしても、あなたをひとりの人格として尊重しますよ」っていうのが前提としてめっちゃ大事。それが、実際は人格の尊重の段階をすっ飛ばして、ブレーキを外すための言葉として使われてることが多いんちゃうかな。あなたは一人の人間として、ちゃんとシェルターに守られてるんやで。そのうえで、今この課題を前に進めるためには、シェルターから一歩出て、言いたいこと言い合ってええもんつくろうやっていう話でしょ。でも、よーあるんは、シェルターに守られてるんや、自分はここにいていいんや、っていう安心感とか居場所感が抜け落ちたままに話が進んでいってまう。人間って弱い生き物やから、ほんで社会的な生き物やから、ここに自分の居場所があるっていう安心感なしでは生きてかれへんのんよ。それが人間の弱さなんよ。でも、ビジネス書に書いてあることって、あんまそういうこと考えられてへんやんね。ほら、あれあるやん、「会議に出てずっと黙ってるやつはバリューゼロだ」みたいな。でもなあ、働くも暮らすの一部やん?暮らすときに「バリューを出さなければお前に居場所はない」みたいな脅し文句言われなあかんのかって、ちょっとなーって思うやん?自分がここにいていいんやっていう安心感を与えられへんままに、人間は働いたり暮らしたりできんのか?っていう、そこを問いたいねんよ。人間は不安で動く生き物やからね。良くも悪くも。やからこそ、不安を利用して原動力にするんやなくて、不安を取り除いたうえで、それでも気持ちよく働けるようにしたいやんか。あとこの、「意見と人格は別やねん」理論が日本の文化とめっちゃ相性が悪いってことも言っときたいな。ビジネス書とかの格言ってだいたいアメリカから入ってくるやん?でも日本的な感性がそれとそぐわへんときもある。というか元ビジネス書編集者として、文化が違うのに表面だけ真似してもうまくいかんで、っていうのは声を大にして言いたい。『弱さ考』っていう本を書いたときも文化の差についての問題意識はごっついあって、やから僕は日本とアメリカの気質の違いを教育システムにまで遡って考えたんですよ。アメリカって自分の意見を主張してなんぼの文化なんよね。やから、小学一年生から、「私のオピニオンはこれだ!」って、自分の意見をガンガン主張する教育を受けとる。で、日本はどうかっていうと、自分の意見はあんまり求められへんし、仮に意見を言ったとして、その意見が周囲から浮いてなければよしとされるけど、完全に浮いてたら、やんわーり正されんのよね。前提としてアメリカには強烈な個人主義の文化がある。個人の人格は尊くて、誰も否定できない尊厳みたいなもんを持ってるってことが当たり前になってる。やから、会議室で侃々諤々しても、そのあと飲みに行こうぜ、っていう話が成り立つんですよ。つまり、自分というものの尊厳はなんぴとたりともおかすことができんっていう前提がある。その前提が全然違うのに、表面的に「意見を否定しても、別にあなたの人格を否定してるわけちゃうからね」っていう部分だけを輸入しても、そりゃあうまくいくわけないですわな。この「私は私。誰にも私は変えられないし、変えない」みたいな個人の強さはすごい言語に表れてるよな。英語って一人称はIだけやけど、日本語って、俺はな、とか僕はな、とか私はですね、とか先生はだな、とかお父さんはね、って相手との関係によって主語がめちゃくちゃ切り替わる。英語が個人ありきやとしたら、日本語は完全に関係性ありきの言語。やから、「意見と人格は切り離せ」は基本的には苦手なんよ。それは、言い換えたら「言葉と文脈を切り離せ」ってことやからね。それは日本の文化に馴染んだ人には難しい。はい。「意見と人格は切り離せ」っていうのは「より良い答えに早く辿り着く」ための必要悪みたいな物言いやとやっぱり思うんですよ。ただ人間本来の性質と合ってないし、特に日本的文化との相性はごっつい悪い。だから、「これ言ったら何をいってもいい」みたいな攻撃のカードになってまうんよね。でもほんまに大事なんは守備で。「自分はここに居場所があるんや」「存在を認められてるんや」っていうシェルターが、働く全員の心の中にあるんが大事なんちゃうの?それができて初めて「意見と人格は切り離せ」が必要悪じゃなくて、ちゃんとした道具として使いこなせるようになるんちゃうって言う話を言いたかったんです。あ、最後に。このままならジオ、多くの感想をリスナーの方からいただいてます。読み上げたりはできてへんけど、全部みてます。めっちゃ嬉しいです!概要欄にフォームもあるんで、ぜひ質問も投稿してみてください。リスナーからのお便り会、やってみたいんよな〜!僕が主催している、オンライン読書プログラム「問い読」の詳細も概要欄に置いときますね。井上慎平でした。ほんじゃあ、また。
感想
まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!