1. 近藤淳也のアンノウンラジオ
  2. #27 五条エリアに携わって20年..
2023-05-25 1:26:55

#27 五条エリアに携わって20年、自分の店を経営しながら地域のために働きかけ続ける生き方|永谷咲子さん

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今回のゲストは、UNKNOWN KYOTOのある五条・菊浜エリアに長年携わる永谷咲子(さっこ)さんです。

えでん: @gojoeden

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【ホスト】

近藤淳也

株式会社OND代表取締役社長、株式会社はてな取締役、UNKNOWN KYOTO支配人、NPO法人滋賀一周トレイル代表理事。トレイルランナー。ときどきカメラマン。

2001年に「はてなブログ」「はてなブックマーク」などを運営する株式会社はてなを創業、2011年にマザーズにて上場。その後2017年に株式会社ONDを設立し、現在もITの第一線で働く。

https://ond-inc.com/


【UNKNOWN KYOTOについて】

築100年を超える元遊郭建築を改装し、仕事もできて暮らせる宿に。コワーキングやオフィスを併設することで、宿泊として来られる方と京都を拠点に働く方が交わる場所になっています。

1泊の観光目的の利用だけではなく、3泊〜1ヶ月以上の長期滞在される方にも好評いただいています。

https://unknown.kyoto/


【おたより募集中】

メッセージや質問などを募集しています。こちらからお送りください!

https://forms.gle/rSjtTesStpe4s3BW8

キクハマ盆踊りの始まり
近藤淳也
近藤淳也のアンノウンラジオ
永谷咲子
こんにちは。こんにちは。
近藤淳也
今日のゲストは、永谷咲子さんです。
永谷咲子
こんにちは、よろしくお願いします。よろしくお願いします。
近藤淳也
あれ、なんか静かな挨拶ですけど。
このアンノウン京都がある五条楽園といいますか、
菊浜エリアで、だいぶ昔から地域に入って活動されている、地元ではさっこさんと皆さんが言っている人が多いですね。
さっこさんこと永谷咲子さんです。よろしくお願いします。
永谷咲子
よろしくお願いします。
近藤淳也
だいぶ前から是非と言ってたんですが、ついに実現しました。
永谷咲子
もう少しご紹介しますと、五条モールという施設というかがあって、そこでエデンっていう、あれは居酒屋。居酒屋かな。
をされているということですけど、自己紹介をお願いしてよろしいでしょうか。
永谷咲子です。五条モールの代表をして、五条モールの中でエデンっていう居酒屋をしてます。
あともう一個、梅雨さんから20メートルぐらい下がったところ川沿いに、高瀬川沿いに、あかり商店っていう、たちのみのような雑貨販売もちょこっとやってるお店も、そこは共同でやってるんですが、私が代表をさせてもらっててやってます。
近藤淳也
そんな咲子さんですけども、さっき衝撃の登場の仕方をされていて、いきなり骨折ったわって言って現れたんですけど、何をしたんですか。
永谷咲子
掃除、掃除をしてて、繰り返って、打撲して、右肘を多分ひびが入ってます。
よくあります。
よくあるんですかね。
地域の保護と変化
近藤淳也
ちょっとね、そんな大変な時にわざわざ来ていただいて、ありがとうございます。
最近は、何がホットトピックですか、咲子さんは。
永谷咲子
今年の9月3日に菊浜盆踊りをまた再開するんで、それがホットトピックですね。早く自治連合の皆さんと会議しないといけないんですけど、全然できてなくて、と思ってます。
近藤淳也
菊浜エリアの盆踊りを立ち上げた人ですか、咲子さんは。
もともとあったとかっていうわけでもなくて。
永谷咲子
全くなかった状態で、ずっと盆踊りが好きで、あちこち踊りに行ってて、やりたいなと思ってて、五条網路の前の道路を封鎖して盆踊りやろうかなと思って。
何年か前から菊浜自治連合さんに盆踊りしたいけど、場所がない、運動場は貸してもらえないみたいなことを聞いてて、じゃあもう五条網路の前を封鎖するとか、公民館を借りて公民館の中でちっちゃくやるとかっていうのを思ってて、公民館貸してほしいって言って。
ここの菊浜自治連合っていうのがあって、そこの団長会議っていうのがあるんですよね。各消防団とか、いろんなそういう団があって、それの団長会議に挨拶に行こうと思って。
で、自治会関係の人らに話ししてたら、ふっと向こうが、さこちゃんも運動場を借りるように俺が下町交流館の館長に言うたし。え、言うたんですか?って。
会長さんが、梅川会長さんがやってくれはって、だからさこちゃんもやりって言って、え?って。もう今7月ですけど、やりますって。
それで、門が立つから、菊浜盆踊り実行委員会を立ち上げて、会長は上村さんっていう方。川、この高瀬川保障委員会、菊浜のエリアの会長さんやってらっしゃる方で、
上村さんを長に添えて、私が副になって、ほぼそこから2ヶ月、私が一気にやっつけてしまって。
そんな経緯だったんですか。じゃあでも、共感してくれて、話しつけてくれたってことですよね、運動場のことは。
近藤淳也
あれは2019?何年でしたっけ?
牛島悠紀
コロナの前の年やから、2019かな。ですよね。うん、たしか。
近藤淳也
でも、もともとなかったっていう割には、すごい盛況でしたよね。
永谷咲子
ね、300人ぐらい来てくれさって。
ろうにゃくにゃくにゃんにゃ。
近藤淳也
いろんな方が来て、もう20、30ぐらいになって踊ってたんで、どんどん盛り上がってるお踊りって感じでしたけど、大成功じゃないですかね。
永谷咲子
自治会の人らの協力なしにはね、絶対進めないんで、すごいあれは。
ヤグラ立てたのも自治会の中の人が、足場立ての会社をやってらっしゃる方で、もうさんっていう人で、足場どうしようみたいなこと言ったら、もうさんに言ってみたらどうやって。
もうさん捕まえて、もうさん足場がない。お前が組むんやったら、手伝うんやったら、組んでもええぞって。
ほら、組むって。で、一緒に組んでもらって、もう機材全部タダで貸してくださって、もうさんが。
地元住民との関係
近藤淳也
すごいですね、そうやっていろんな人を巻き込んでいって。
永谷咲子
で、ちょうちんもないって言われて、方園学区の仏子おじさんが盆踊りをずっと何年かやってはって、盆踊りのちょうちん持ってるの知ってたし、仏子おじさんの太刀の佐々木さんって方がいて、お寺さんの方で。
で、佐々木さんに、ちょうちんがないんですよね。
貸してほしいんですけど、って言ったら、ええよって。
で、借りに行って、で、方園学区って書いてるちょうちんがちょこちょこ見えてた。
近藤淳也
あ、そうか。
永谷咲子
そうなんですよ。
近藤淳也
まあ、それが第一回。
第一回。
永谷咲子
で、今年はもうヤグラを組まずに、菊浜の町の中で灯篭流しっていうのを、また覚えてある。
あれの灯篭を、子どもたちが絵描いて毎年灯篭を作って、正方形のやつ、あれを地面に円形に並べて、で、それで盆踊りのヤグラ代わりにしましょうかって。
近藤淳也
運動場で?
永谷咲子
運動場で。2017年か18年ぐらいに、立成小学校がホテルの工事前に、盆踊りを復活させたんかな。
なんかなんかやってはって、で、そこも地元の人が灯篭を作って、地面に丸く置いてやってはって、で、それもすごい情緒があってよかった。
だからそれと同じ形で、今年は開催。
で、自治会の方から、もうやっぱ高齢化がすごい進んで若手がいないから、そういうのを、一つの祭りを合併、合併、二つか、二つを合併させて手伝ってほしいっていう案が出たんで、それに変えた。
今年のキクハマ盆踊り
近藤淳也
どこかと一緒にやるってことですか?
永谷咲子
ここの町の中の灯篭流しと盆踊りを合併させようって。
近藤淳也
なるほど。
楽しみだな。
そういえば紹介するの忘れてましたけど、今日もアシスタントは牛島さんです。
牛島さんも浴衣を着て2019は踊ってましたね。
牛島悠紀
踊ってましたね。
近藤淳也
僕はカメラマンをやってましたけど。
いくつかね、写真を見せてもらって。
あのときはなんかね、いろいろみんなで若い人が手伝ったりとかしてね。
それがじゃあ今年の9月にやって、結構準備は忙しいんですかね。
永谷咲子
まだ会議ができてないから、焦ってるとこです。
近藤淳也
コロナでできなくて、一回なんか五条モールの部屋の中でやってましたよね。
永谷咲子
やってました。
エデンと五条モールの歴史
近藤淳也
一部屋の中で踊ってどういうことって思って行ったら、なんか部屋の中ぐるぐる回ってる人たちがいて、なんじゃこりゃって思ったんですけど。
でもあの部屋が今度エデンになるんだよね。
永谷咲子
学生にして。
近藤淳也
そっちの改装は順調ですか。
永谷咲子
ちょっとね、怪我が心配ですけど、作業がどうなるか。
ちょっと作業止まりましたけど、25日に再開ですよね。
近藤淳也
決まったんですか。
永谷咲子
25日です。
近藤淳也
エデンが再開。
永谷咲子
エデン再開します。もう来週。
早っ。
あっという間。
そうなんや、25日。
今日しようと思ってた作業が何もできてなくて。
近藤淳也
確かにね。
僕も25日にリッスンの正式リッスン目指すかな。
永谷咲子
私会員になりましたよ。
本当ですか。
登録しました。
近藤淳也
ありがとうございます。
早いな。
すごい。
ちょっとエデンのことも教えてもらっていいですか。
はい。
エデンとは。
永谷咲子
エデンは今ちょうど10周年を迎えようとして。
10周年で。
近藤淳也
いつですか。
永谷咲子
本当は4月に10周年を迎えたかな。
いつだったかな。
ちょっともうおぼろで。
近藤淳也
いつだと思ってました。
永谷咲子
正式にいつだったかな。
でも9月に10周年をしようと思ってて。
近藤淳也
そうなんですか。
めでたい。
永谷咲子
五条モールっていう建物を
その時は何人、高西さん4人で出資し合って
運営しましょうっていう
ので立ち上げたんです。
その時にこの町でも今山内財団さんとかの仕事してる
何だっけこの名前。
右尾役とかいろんな方が入っててチームに。
やってて何年前かな。
4、5年前にみんながもう
あんまり五条モール自体の運営に関わることもほぼなかったんで
もう抜けてしまって私一人になって
でも私はずっと一人で五条モールを残って
いろんなことを新しい入会者の人が入ったらして
抜けたらまたみたいなのをずっと繰り返して
でコロナが始まってだいぶ長い間休んでる間に
私がもう五条モールの建物自体を買い取りをして
で今私がオーナーという形で。
近藤淳也
菊浜の中に五条モールという
あれは何って言ったらいいんですか、町屋?
永谷咲子
町屋福岡文化施設。
町屋福岡文化施設って言ったんですか、初めて知った。
近藤淳也
がありまして、もともと何人かで所有してたってことですか。
永谷咲子
そうです。家賃借りて、それこそ八瀬さんに
大屋さんで借りてやってたんです。
近藤淳也
そういうことですね。
っていうのを作子さんが買い取って
でその五条モールという建物の中にある居酒屋さんがエデンなんですよね。
五条モールの買収と事業拡大
近藤淳也
そうです。
で隣の部屋と今くっつける工事をされていて。
永谷咲子
壁をぶち抜いて横に広げて
大きなテーブルを一つ入れて
そこで大人数が座れる形に
今まで5席しかなかったんで
もっと人が入れる店にしようと思って買えたんです。
近藤淳也
事業拡大ですか。
永谷咲子
はい。
牛島悠紀
大変だね。
永谷咲子
大変です。
近藤淳也
大変ですか。それを一人で回すんですか。
永谷咲子
回せるのかな。
近藤淳也
大人数来たら断るけど。
すごくね、なんか雰囲気のある居酒屋さんで
僕と牛島さんが会ったのは多分エデンが最初だったと思うんですけど
なんて言ったらいいですかね。
とりあえず一回行ったらってみんなに言ってます。
この辺、五条楽園とかどこかオススメですかって言われたら
一旦まずエデンに挨拶に行ってくださいとか言って
五条楽園の母がいるんで
永谷咲子
いやいやいや、横川橋みたいな。
近藤淳也
一旦そこへちょっと行ってみてください。
永谷咲子
五条楽園の母は八千代さんじゃないですかね。
牛島悠紀
その辺ちょっとわからないですけど。
近藤淳也
いろんな母に守られていると思うんですけど。
でも5席なんで、グループというか何人かというかだとあんまり行けないし
一人二人でちょっと面白い店って言われたらちょっとオススメいつもしてるんですけど
そういう人も来ます?新しく始めて。
永谷咲子
結構あかり商店で来てくれた人たちが
うちのことは言わなくていいってスタッフさんたちにも言ってるんだけど
でもあかり商店を調べてるうちに
うち五条モールを見つけてエデンを見つけて来てくださったりとか
ですね。
近藤淳也
なるほど。
じゃあもうちょっと振り返っていきたいんですけど
なんでこの菊浜エリアに関わってるんですか?
永谷咲子
私も逆に聞きたくて
古い建物を改装工事せずにこのまま使おうって言い出したのはきっと八千代さんですか?
近藤淳也
いつの話?どこの話?
古い建物を使わずに?
壊さずに。
アンノウのこと?使ったらどうかって言い出したのは八千代さんか?
建物ありきっていうよりは
京都の市内で宿とコアキングの複合施設みたいなのをやりたいねっていうのを
エンジョイワークスさんと八千代さんとうちで喋っていて物件を探していたところ
今のアンノウの建物が見つかったのでこれはどうだってなったんですけど
その時点でそもそも壊すなんていう
永谷咲子
3社全部リノベーション系の会社じゃないですか
近藤淳也
だからそんな新築立てるっていう発想がそもそもなかったと思いますね
永谷咲子
八千代さんが街は壊し始めたらちょっとびっくりしますけど
ちょっとイメージと違う
多分きっとこの町の古い建物を存続させたいっていうので始めたっていうのが一番ですね
近藤淳也
さっこさんが?なるほど
でも古い建物は他のエリアにもあるじゃないですか京都の中で
永谷咲子
私子供がすぐそこの高瀬保育園に行ってたのと
自分が河原町五条の角でずっと飲食をやってたんで
ここの町は毎日通るルートですごい情緒のある町
その頃はこの町がまだ五条楽園って現役で言われてる町で
それが2010年に摘発されてしまって
もう10年前だから行っていいと思っててこの話は
10年どころじゃないのか
近藤淳也
13年前ぐらいですかね
永谷咲子
で摘発されてしまって
お茶屋免許みんな返戻したのかな
多分そうなんだったはず
さらちになる物件とかも出てきたんですよお茶屋さんが
そのさらちに通売法の家とかが建つとちょっと悲しいなと思って
地元とは違う京都で農業を始める
永谷咲子
こんな素晴らしい建物がさらちになるとか駐車場になるとか
なんとかしたいと思って
モデルの一つとして五条モールっていうのを立ち上げようってなって
物件を色々探してるうちに
魚谷くんが八瀬さんの方と話してくださって
五条モールを見つけてくださった
近藤淳也
そうなんですか
じゃあ元々このエリアの建物をなんとかしたいっていう気持ちがあったってことですか
永谷咲子
狙い撃ちです
近藤淳也
それはあれですよね地元とかでは別にないんですよね
永谷咲子
全く地元じゃないです
近藤淳也
地元はどこなんですか
永谷咲子
香川県です
近藤淳也
で京都は
永谷咲子
京都は何年住んでるんだろう
20、30年弱
近藤淳也
なんで京都に来たんですか
永谷咲子
大学が京都だったんで
で就職そのままして
結婚して
で今に至る
近藤淳也
そういえばそういうのあんまり知らないですけど
どういう仕事してたんですか
永谷咲子
私大学の先生がやってた
生協みたいな会社があって
そこの会社で働いてて
そこが食品卸しとか製造もやったり
配達
二トン車で私配達回ったり
無農薬野菜のそういうのも扱ってたんで
日曜日とかに
伊賀上野とかあっちのほうまで
トラックで回収に行ったり
園出場で回収に行ったり
近藤淳也
農家さんの無農薬野菜とかを回収に行って
京都に運んで売ったりしてたってことですか
永谷咲子
多い時1日100キロぐらい運んでて
近藤淳也
なかなかたくましい
体使う感じのあれですね
永谷咲子
その流れがあるから
あかり商店で商品日曜日扱うようなことができたらなって
思ったんですけど
甘くはないですね
近藤淳也
じゃあそういうお仕事をしたくて
製薬業の仕事をしてたってことですか最初
永谷咲子
最初はそもそも農家になりたかった
高校卒業して
自家が農家だったこともあって
どっかで農業を携わりたいなと思ってて
でも無農薬で農業がしたいって
実家に言ったら
無農薬で農業をやるのはこの田舎ではダメって言われて
農業は都が好きないからって言われて
じゃあ帰らないと思って
近藤淳也
実家に戻って実家の畑で無農薬農業をやろうとしてたんですか
ダメっていうのは
永谷咲子
農薬を使わない畑って
やっぱ虫が発生しやすいんですよ
そしたら自分ところだけ発生するんじゃなくて
お隣にもうつる
どうしても近所から怒られる
おたくんところが農薬使わへんから病気が発生してる
農薬使わずにするっていうのは
あの時代はまだまだ30年前だから
無農薬なんてまだまだの時期だって
そこでやろうとするのは難しくて
京都でどっかで就職したいなと思ってて
音楽活動との並行
永谷咲子
なんかないかなと思ってたらたまたま
大学の先生がやってるところが無農薬とか
野菜をやるって書いてあったから
行ってみようかなって
近藤淳也
そうなんですか
でも大学出て無農薬の農業をやりたいって
そういう専攻ではないんですよね大学は
永谷咲子
専攻がそうだった
農業だったんですか
近藤淳也
そうなんですか
永谷咲子
それは一貫してるんですか
大学で環境学をやってたから
大学の最後の2年間の時は
もう1年の半分くらいは全部無農薬でやってらっしゃる
日本の農家を渡り歩いてた
近藤淳也
そうですか
じゃあ実際いろんなとこ見て
本当にやられてる様子とかも見た上でだったんですね
牛島悠紀
バックパッカーインジャパンみたいな
近藤淳也
そうですか
それでじゃあ無農薬を扱う仕事に就かれて
でもそういうにとんとらく運転してやってて
どうなったんですか
永谷咲子
すごい勉強になりました
無添加食品とか
オーガニックっていう認証が
いかに脆い認証であるかとか
すっごい勉強することもできたし
いかに自分が未熟かっていうのも
あの時代に学んだし
25、6、7とか
ほんまに自分がいかに愚かだったかって
近藤淳也
モテたんじゃないですか
永谷咲子
モテません
近藤淳也
そういうとこじゃなくて
永谷咲子
それと並行して音楽をずっと好きでやってた
同級生が結構農家に就農する子も多いけど
作耕せえへんの
私メトロ通いたいしな
近藤淳也
メトロに行ける範囲でっていう制約が付いたんですか
永谷咲子
たくたくずっと暮らえべきたいしなとか
近藤淳也
音楽やってたって自分でもやってたんですか
自分でブッキングしてさせてもらったり
何をしてたんですか
永谷咲子
10得でブッキング組んでライブ回すとか
たくたくとかメトロさんとかも借りたりしたり
近藤淳也
ライブ回すってどういうこと
永谷咲子
自分で呼んできてブッキングして
それで企画持ち込みでさせてもらう
近藤淳也
そういうことですか
自分で演奏とかじゃなくて企画屋さんってことですか
そんなことしてたんですか
永谷咲子
だから仕事が休みの日はすべてライブハウスに行くみたいな
近藤淳也
じゃあさっこさんが企画したライブイベントっていうのは結構あったってことですね
知ってた?
牛島悠紀
知らなかったです
初めて聞きました
近藤淳也
どういうジャンルの
フォーク
永谷咲子
でもいろいろ何でもいいし
近藤淳也
京都の人ですか
永谷咲子
いろいろ
そんなこともあって
うち一緒にやってた別れた夫も出会って
別れた夫は兄弟の吉田寮食堂ライブをずっとやった
五条楽園の立ち上げ
近藤淳也
吉田寮
永谷咲子
あそこでうろうろしてた人で
近藤淳也
なんかすごいぐちゃぐちゃのっていうか
僕も吉田寮のライブは行ったことありますけど
ぐちゃぐちゃっすよね
あれを企画してた方だったんですか
永谷咲子
そう
近藤淳也
だから多分かぶってる
同い年ですもんね
永谷咲子
うちの別れた夫は2つ上
でもそれはもしかしたらかぶってる
牛島悠紀
ちょうど
永谷咲子
なんか言ってたかぶってる
近藤淳也
そうなんですか
1998年ぐらい
僕94年入学なんで
96年に中退してるんで
永谷咲子
2000年に中退したのか
近藤淳也
じゃあもうストライクリール時代
ですね
牛島悠紀
そんなところに共通点が
近藤淳也
そうか
永谷咲子
それで
出会って
今この五条楽園に来る前にさっき言ってた
古道具屋から飲食店へ
永谷咲子
五条河原町でやってたお店で
毎週ライブを組んで
近藤淳也
そうなんですね
永谷咲子
それで音楽やってる人たちに
友達がつながりが結構あって
近藤淳也
それはなんていうお店
永谷咲子
それがハライソっていう
細野春尾美さんのアルバムで
ハライソっていうのがあって
回転する
どれぐらい前かな
半年ぐらい前か1年前に
西武高等に
細野さんがライブに来てて
それを見た時に
ハライソっていう歌を張って
近藤淳也
ハライソって決めた
永谷咲子
ハライソっていうのは
楽園っていう意味で
多分日本語的には
パライソ
けど明治ぐらいまでは
パピプッペっぽい表記が
書物上はない
だからハライソって表記で
言われてたらしくて
それが本当なこそなんかは
民族学的に私も
そこまでつけつめてないから
分かんないんですけど
でもハライソとして
五条楽園に来て
楽園つながりで
エレって
ずっと楽園を作ってきてる
近藤淳也
本当ですね
確かに
五条河原町のどこにあったんですか
永谷咲子
今もしも屋さんになった
近藤淳也
それがもしも屋さんになったんですか
そんなライブできるほどの
広さありましたっけ
永谷咲子
奥がね深い
近藤淳也
そうなんですね
入り口はね結構狭く見えるけど
永谷咲子
いまだに覚えてるのが
吉田少年くんって
くるりのメンバー一時期
彼がライブしたときが
もうあふれるばかり
彼のバンドにファンファンもいたんで
ファンファンちゃんも
彼女もずっと最近までね
くるりの後ろで吹いてた
近藤淳也
だからもう人気がすごかった
永谷咲子
立見やけどギューギューとか
なんかシークレットって言われてたんで
松本隆さん
ダンタンのお兄さんのライブとか
あったり
近藤淳也
それも全部作家さん呼んでくるんですか
永谷咲子
それはなんか場所貸してくださいって
松本さんの方から言われて
間に入ってる人がいて
どうぞどうぞって
でもシークレットでって言って
お客さん5人とか
何がしたいんですかそれは
日曜の昼間で
牛島悠紀
シークレットすぎる気がする
もうちょっとお客さん呼んでも
12人くらいいてもいいかな
近藤淳也
あそうですか
永谷咲子
謎のライブでした
そんなにいっぱいいました
ゴンジチさんとかもあったし
近藤淳也
なんかご縁があっていっぱい色んなライブが
それは何年くらいの話ですか
永谷咲子
10年前かな
エデンが10年やから
近藤淳也
ほんまにスライドした感じなんだよ
永谷咲子
そうですか
近藤淳也
でその時は
永谷咲子
そのじゃあその野菜の仕事はもう辞めてるんですか
もう辞めてその時すでにもうだいぶ経ってた
近藤淳也
その隙間は何してたんですか
育児ですか
永谷咲子
育児です
近藤淳也
なるほど
出産があって
永谷咲子
出産子育て20年くらいはもう
近藤淳也
家にいるというかそんな感じの生活して
その後ライブハウスを始めたんですね
永谷咲子
でも下の子が生まれた時に店を立ち上げ
下の子がもう18歳なんで
18年前くらいですね
20年前くらい
近藤淳也
すごいな
でその中はやっぱり古い感じですか
もうだいたいさっこさん好きなのはそういう感じなんですか
永谷咲子
そうだいたいそういうちょっと
近藤淳也
いつからそれは子供の時からですか
永谷咲子
そう子供の時から多分古いものが好きで
ちょっとレトロなものが好き
なんでなんだろう
それ前昔学生の時にも友達と喋ってて
なんでそういう古いものとかレトロなものみたいなのに
心が揺れるんだろうって
わかんないよねって
その友達もそうだったってことですか
やっぱ好きな子同士はこうね
だから結婚する前とかしてからもあるけど
大学卒業してから結婚してしばらくまで
牛島悠紀
ずっとベルボトムってラッパーになってる
永谷咲子
すごい裾がこんなズボン履いて
近藤淳也
それも古いものってこと
いろいろ10本以上持ってて
牛島悠紀
なんかちょっと古着ブームみたいな
昔あったような
近藤淳也
私もお父さんのお下がりとか着たり
お母さんじゃなくてお父さん
牛島悠紀
お父さんの方がなんかおしゃれやったのか
ちょっとこうスマートな服が多かった
永谷咲子
でも明らかに浮いてた
近藤淳也
別に友達みんながそうだったわけでは全然ないってことですよね
世間とあまりにも浮きすぎてて
なんなんでしょうね
その古いもの好きの人たちっていうのは
永谷咲子
なんでそういうのにノスタルジーを感じるのかがわからなくて
牛島悠紀
古い食器とか見るとちょっと買いたくなるとか
永谷咲子
今ねアデリアとかレッドロロシェンがねまたリバイバル
牛島悠紀
なんでああいうのにこう
なんでしょうね
近藤淳也
あとその新しいものが好きな人と何が違うんやろうっていう
生まれながらにそういう思考があるのか
永谷咲子
なんかこうおいたちでそういう
それがそうだ完全に忘れてた今
その河原町五条で店をやる前に
数年間川端五条ちょっと向こう渡ったところで
古道具屋をやってて
古いもの好きで
うち別れた夫はレコード屋の店長をやってたんで
古道具市場につてがあったのが
で市場に買い付けに行って古道具屋をやってて
で飲食をするつもりは一切なかった
でもその建物の中にキッチンがついてきてて1階に大きい
でコーヒー出すビール出すぐらいはできたんで
近藤淳也
でそこから飲食を始めて許可取って
永谷咲子
で2軒目の店今のもしも屋さんになってるところが
物が古道具で物があふれすぎて屋が狭くなっちゃって
今もしも屋さんになってるところ結構大きい物件だったんで
しかも子供がちっちゃいから住居兼店舗でも行けるし
でそこを友達がやってたのを
抜けるっていうからじゃあ私借りるって言って
近藤淳也
でなんか弾みで飲食になっちゃって
永谷咲子
住んでたんですか?
生活とライブハウス
近藤淳也
住んでたんです
永谷咲子
住んでてライブハウスで子育てもしながらで飲食も始めたの
近藤淳也
そう
そうなんですか
近藤淳也
もしも屋になったのはなんで?
永谷咲子
その払い相はどうなったの?
その払い相やってたら離婚することになって
別々になりわいするから
その時にもしも屋さんの彼女が
家を場所借り昔してくれてた時期があって
人柄もすごいいいしお料理も上手やし
で彼女に私らが辞めた後
ここ借りる再契約して借りたらどうやって
言ったら借りるってなって彼女が始まった
近藤淳也
じゃあそこは作家さんがやってたわけじゃなくて
最初から今のもしも屋さんの方がじゃないですか?
私がやってて
永谷咲子
最初はやり始めたんですか?
近藤淳也
そう私がやってて
永谷咲子
あの建物も全部私が作って
自分たちでDIY
近藤淳也
作ってっていうのはDIY的な作ってですか?
永谷咲子
本当に天井ぶち抜いて
天井抜いたり
カウンター1から作ったり
水道とガスとかは専門職の人にしてもらったけど
あとはほぼ自分たちで
近藤淳也
すごい可愛い
急に家作り始めますよね作って
今もエデンの階層怪我してますけど
飲食店とライブハウスの歴史
近藤淳也
いろいろやってますけど
永谷咲子
その技術はどこで身につけたの?
ハライソの工事です
近藤淳也
最初にライブハウス作る時に
その時自分でやったってことですか?
自分でやった
永谷咲子
いきなり?
近藤淳也
いきなり
永谷咲子
どうしたんですか?
一緒にやってる
お願いしてやってた大工さん
素人の人が何人かいて
その人らが各自なんとなくできる人たちで
近藤淳也
みんなでせーので一緒にやりながら
そうなんですか
それでやりながら身につけて
お店作ろうかって言って
飲食店作っていったんですか?
すごいな何かたくましいなやっぱり
牛島悠紀
センスがいい
近藤淳也
すごい居心地がいい
懐かしい感じがする
居心地がいいですね
それでもしも屋さんが
作って初めて飲食を始めたってこと?
永谷咲子
いや
近藤淳也
じゃない?
永谷咲子
もしも屋さんは忘れてもらっていいです
近藤淳也
原井さんが飲食をやってた
そういうことですね
五条楽園への移住と感想
近藤淳也
それを継いでもらってもしも屋さんになって
どうするんです?
永谷咲子
私はエデンに
近藤淳也
それでエデンですか
それはじゃあそういう
永谷咲子
代替わりあそこはしたっていう
近藤淳也
なるほど
それでいよいよ五条楽園に入ってきたってことですね
永谷咲子
本当は並行してどっちもやろうと思ってた
こっちもあっちも
けど離婚したからいいタイミングなんでもと思って
私はこっちで
近藤淳也
そういう感じなんや
じゃああれですね
野菜のところから入ってライブハウスやって
飲食を始めて
永谷咲子
ライブハウスをやってたんじゃない?
近藤淳也
違うんか
永谷咲子
飲食店の中でライブをやってた
そっかそっか
近藤淳也
その前が道具屋さんになって
永谷咲子
でもその道具屋も腹いそで
場所を移転しただけ
近藤淳也
そうなんですね
永谷咲子
ずっと変わらず
近藤淳也
なるほど
お店をやってて
子供のお国迎えで五条楽園を通っているときに
いい建物がいっぱいあるのに
これが壊されるのは忍び台となって
五条楽園に入ってきたっていうことなんですね
分かってきた
牛島悠紀
やっと分かってきた
永谷咲子
すみません
近藤淳也
いやいやいや
そうやったんですね
昔から五条楽園を知ってたんですか?
永谷咲子
知らなかった
最初保育園に子供預けるのを探してて
そのときもこの辺りに住んでて
で、うろうろして高瀬保育園に子供を後ろに乗せて見学に行って
鴨川が見えるからと思って
フッと曲がって入ったら
こっから先は入ったらあかんってめっちゃ怒られて
近藤淳也
誰に?
誰に?
永谷咲子
誰なんだろうあれ
怖い人らに
近藤淳也
町の人?怖い方に?
永谷咲子
姉ちゃん今どこ走ってると思ってんや
みたいな
道?みたいな
近藤淳也
道っすよね
こっから先は入っちゃあかんって言われて
永谷咲子
ダメ、Uターンして戻れって言われて
すいませんって
近藤淳也
あ、そうですか
牛島悠紀
え、それ10年…
永谷咲子
20年前
近藤淳也
あ、そういう時期あったんや
永谷咲子
で、私京都の人間じゃないから
よくわかってなくてそのときも
あれ?と思って
で、そのとき住んでた町内がからすま五条に住んでて
町内の人らに東本願寺さんと高瀬保育園と迷ってたし
で、どっちも待機しないといけなくて
そのときに
でも私パートの仕事他に行ってたから
私立保育園に子供を一時期預けてて
したら高瀬保育園さんが
そんな私立に預けるんやったら
もう待機待たなくていい
無理くり入れてあげるから連れておいでって言って
入れてくれはって
すごい良い保育園で高瀬さんは
で、預けるようになって
で、町内会の人に
自分のところの大谷さんに
あんた結局高瀬保育園に子供やってんの?って言ったら
そうですって言ったら
わかってへんなーって言われて
え、なになになにって
なにそれ
近藤淳也
からすま御所の方に言われたんすか
結構近いですよね別に
そんなに距離ないけど
そういう扱いというか
位置づけだったんですね
永谷咲子
私がそこから次
川端御所に引っ越すときにも
あんた次どこ引っ越すねって言ったら
川端御所です
北か南かというか北側です
そうか、あんた京都の人間たちはわかってしないしなーって言われて
近藤淳也
それ言われて
どんな感じなんすか
永谷咲子
何にもわかんないしピンとこないし
はーってなる
牛島悠紀
何がダメなのかよくわからない
近藤淳也
で、まあ通ってたらわかっていくわけですよ
永谷咲子
だんだんね
近藤淳也
それのときにどういう感情
永谷咲子
でもやっぱ今もそうですけど
京都の人間じゃないから全然ピンとこないでしょ
近藤淳也
そうですね
もともとの話はよくわからんって感じですね
永谷咲子
何が何でそうなんなのかが
全くピンとこなくていまだに
近藤淳也
ふーんぐらいの感じで
そういう感じなんですね
牛島悠紀
まあなんか住んでみたら別に楽しいというか
永谷咲子
別にいい人いっぱいいるし
情緒のあるいい町だなーぐらいしか思ってなくて
わかんない
牛島悠紀
でもなんか家賃とかもこの辺は
永谷咲子
本当に昔はすごい安かったよね
牛島悠紀
マンションとかむちゃくちゃすごい広いマンションなのに
なんでこんな安いのかなっていうぐらいなんか安かったイメージだった
なんとなく京都の人もあんまり来たことがない場所でもあったかもしれないですね
永谷咲子
梅雨さんの横の今はもう変わっちゃってますけど
あそこがあったからゆえに抑止力になって
やっぱ不動産屋さんも簡単にはこのエリアには
っていういい意味でこの情緒感を
近藤淳也
守ってきてこれてたんかなって思う
なんか事務所があってということで
永谷咲子
不動産取引はほとんどその当時行われてなかったっていう話なんですよね
近藤淳也
まあそうですけど
でもなんかそのまあわかってないなみたいなこと言われて
なんですかちょっとこういやそんなの気にしないよ私はみたいなので
逆に入っていってやろうみたいなのがあるんですか
永谷咲子
わかってへんしなって言われて
え何が?みたいな
えなんかわかってない
まあいっかみたいな
近藤淳也
まあでもそのねその保育園預けるぐらいはあるかもしれないですけど
その中にあえて自分で店を持って
自分が入っていって言ったらなんて言うんですか
今まちづくりみたいなことされてるわけじゃないですか
それってかなりなんて言うんですか
避ける避けないっていうレベルじゃなくて
入って自分がその中から新しいことやっていくっていうのは
全然またレベルが違うことだと思うんですけど
いやなんかそこのモチベーションっていうか
なんでそこまでしようってなったんかっていうのは
永谷咲子
もうそれもすごい聞かれるんですよね
でなんかさっこちゃんは宗教やってんのかとか
ネズミ校かとか
近藤淳也
みんな不思議があるってこと?
なんでそこまでやるのみんな
永谷咲子
何でしょうね自分でもわかんない
近藤淳也
その古いものが失われてきてほしくないみたいな
永谷咲子
思いってことですか
こういう人がいても一人いてもいいんじゃない
って思うのがスタートかな
そしたらね今結構増えてるでしょ
この町にそういう人たち
そうやって池に石を一個ポチャンと投げた
いろんな形で影響が出てるんであれば
建物古いままみんなリノベーションして使うっていう
近藤淳也
いいんじゃないかなって
永谷咲子
すごいな優しいんですね
近藤淳也
古いもの守りたいって人のためのことですからね
永谷咲子
あれですね今ちょっと最近言ってないけど
八代さんの存在とかもだいぶ大きかったし
近藤淳也
すごいお世話になったし
それはどういうところで
永谷咲子
この町に入る窓口
絶対みんな八代さんに挨拶に行くし
行ったらみんな虜になるし八代さんも
確かに行ってはる人多いですもんね近くに
八代さんの独特な雰囲気とか
お客さんに対する接し方とかがほんまに京都やなっていう
近藤淳也
優しい丸い感じ
結構エデンじゃあやることになって入ってきて
割と順調に立ち上がっていったんですか
永谷咲子
全然ですよ全然です
近藤淳也
どうなったんですか
当時ってだからそんなに新しいお店がどんどんできるような
状況じゃなかったですよね
女一人だったし怖いから夜はやってなかったんです
永谷咲子
夜間営業しだしたのってほんとこの5年ぐらいだし
全然順調にいろんなことがいかないから空回りもするし
でもホテルができるとか
いろんなことが食べていけない時期ももちろんあったし
子供育ててないけど
養育費のこととかいろんなこととかもあったし
違う仕事もしつつこの街でやっていくのであれば
不動産の勉強ももっとしたいと思ったし
ホテルがどういう形で運営されていって
どういう形で立ち上がってっていうのも
アルバイトやパートに行って勉強させてもらって
近藤淳也
宿泊の仕事されてたって言ってましたねそういえば
永谷咲子
ゲストハウスを作る仕事を1年ぐらいさせてもらったり
40越えてからどこかで働くってなかなかない経験で
1からもう1回叩き直された感じでいい勉強になった
近藤淳也
それがそのホテルの仕事っていうか
それもしてたんですね
地元の人とは?
永谷咲子
ここの街の?
何も変わらず
近藤淳也
わりとそこは最初から受け入れられてっていうか
永谷咲子
だったんですか?
どうなんだろう
どうなんかなどう思ってんねやろ
聞いたこともないし特に何も
近藤淳也
今やねだってモノドリ作りたいって言ったら
みんながそうやって協力してくれてるわけですから
少なくとも認められてるというか
永谷咲子
嫌に思ってる人ももちろんね
いっぱい言いますよ私のこと
この前も近所のおばあちゃんに
あんたのこと嫌いやったわって言われたし
近藤淳也
過去形なんやね
永谷咲子
なんか言ってはったな
近藤淳也
でも過去形なのは何か変わったってこと?
永谷咲子
明かり商店にその人が今来てくださってて
ちょっと喋ってたら
そんなん言ってはったやん
近藤淳也
そういうのもあるんや
でも来てくれてるしそうやって言ってくれるっていうのは
もう大丈夫ですね
永谷咲子
京都の人はよくわかりません
近藤淳也
そこはもうあれなんですよ
永谷咲子
自分は京都人じゃないっていうポジションなんですね
わかりませんっていうスタンスなんですね
わかりません
いまだに京都の人はわかりません
近藤淳也
僕もちょっとわからないですけど
牛島悠紀
京都の人が知り合いの人が少ないイメージがありますね
近藤淳也
どういうこと?
牛島悠紀
京都じゃない人が京都に来て大学とかで来て
近藤淳也
何かお店を始めたりとか
牛島悠紀
そういうコミュニティがすごい
近藤淳也
このエリアでってこと?
牛島悠紀
そうですね
京都じゃない人の方が多いイメージ
永谷咲子
でもそれで言うと
エデンを立ち上げた頃は
京都じゃないお客さんが8割
が今蓋開けてみたら
近藤淳也
京都のお客さんが9割
永谷咲子
県外の人の方が少ないぐらいになってきて
ひっくり返った
近藤淳也
すごいですね
それはじゃあ10年やって
地域に溶け込んできたというか
永谷咲子
やらしい人間になったんですかね
近藤淳也
さんこさんが尖ってたみたいなのもあるんですか?
始めた頃は
店舗立ち上げの歴史
近藤淳也
そういうわけでもない
永谷咲子
でもそうやったと思います
尖ってた
苛立つことも多かったし
近藤淳也
顔にも態度にも口にも出るし
うめゆさんが出てきたのはもっと後ですか?
永谷咲子
うめゆさんが何年?
近藤淳也
8年目かな?
永谷咲子
私もともと原いそをやってた時に
うめゆさんのバンダイのバイトに入ってて
京都先頭部っていうサークルみたいな
社会人の人とか学生の人とかみんなで
京都のいろんなバンダイのサポートバイトみたいな
なんすかそれ
牛島悠紀
そんなのがあるの?
近藤淳也
先頭部さえね
永谷咲子
吉田レナさんって言って
今町屋専門の診断師かな?
資格を持ってらっしゃる建築の方でレナさん
レナさん今うちの図面おこしもやってくれてたり
うめゆのユトナミ社の階層工事もレナさんご夫婦がやってて
レナさんを中心に京都先頭部っていうのがあって
私は家が近いし子供もいたから
うめゆぐらいだったらいけるかなと思って
この町の人と顔つなぎもしたいと思って
うめゆのバンダイに入ってた時に
みなとくんもそのバンダイメンバーだった
近藤淳也
そうなんですか
元々の今の体制じゃない
起業家の人脈形成
近藤淳也
元々の体制の時にさっこさんとみなとさんがバンダイに入ってた
永谷咲子
何人かいて私ら若い子
それこそ音楽やってる頃とか若い子たちで
いろんな先頭みんな掛け持ちしてたけど
私はうめゆだけで
みなとくんと私はうめゆのバンダイでよく会ってて
私がそのやってる最中に五条モールを立ち上げて
みなとくんが
僕いずれ先頭やりたいんですって話をしたって
まだ学生やったんかなみなとくんその頃
私がエデンを始めて2年目ぐらいの時に
みなとくん大学卒業して就職して
メゾンドキツネおしゃれブランド
近藤淳也
シャツのね
永谷咲子
あそこにみなとくん就職してた
近藤淳也
そうなんですか
全然先頭と関係ない
京都じゃないですよね東京
永谷咲子
大阪かな東京大阪とか県州であちこち行って
言ってるうちに私もうめゆがその頃すごいメンテナンスが悪くって
言っていいと思うけど
裏の巻き置き場になってるところの扉を
あそこの中にスイッチがいっぱいあるから
要はサウナが水かけて止まるとかがよくあって
小学生や中学生がかけて
そのたんびにあんたらお母さんに言うでとか
いたずらでやってるってことですか水かけって
梅雨の運営としてリスク管理
近藤淳也
子供が
永谷咲子
そのスイッチを入れに行くんやけど
最後も閉めに行かなあかんやけど
で常に電気消してる
扉を開けた左にここに電気があって
でこうガサッと開けた瞬間に
牛島悠紀
ズワズワズワズワって真っ黒黒透け状態
永谷咲子
ゴキブリ
牛島悠紀
やばい
近藤淳也
先頭にそんなんが湧くの
永谷咲子
裏がもう一面真っ黒くらい湧いてて
で開けた瞬間ズワズワズワ
牛島悠紀
怖すぎる怖すぎる怖すぎる
近藤淳也
めっちゃ苦手なやつやろ
牛島悠紀
もう絶対行き止まるかもしれない
永谷咲子
もう行き止まるほんまに
だから開ける前に扉をコンコンってノックして
裏のでガンガンガンって
牛島悠紀
一回逃げすんね一回しといてもらって
永谷咲子
でこう開けて棒で壁こうして
でこうスプレー持ってシャーってしながら
牛島悠紀
そんなことになってたんだ
永谷咲子
でもそれが怖くて
梅雨のバイト入るのちょっとやめてて
牛島悠紀
怖いわ分かる分かる
近藤淳也
パプリカ豆腐
でもそれ何食べてんのそんなに
永谷咲子
あそこってボイラー室やから
冬でも生息してるわ
近藤淳也
あったかいからか
あいつらあったかいとこ好きなんや
牛島悠紀
風呂場の風呂側の中とかに実はいっぱいいる
永谷咲子
いいね
近藤淳也
風呂場の風呂側の中あったかいから
牛島悠紀
実はめちゃくちゃいるらしい
近藤淳也
でもその餌はないからね
何を食べてんの
牛島悠紀
飲食店とかに行くんかな
近藤淳也
近くね
永谷咲子
ゴミとかを食べ散らかしてるかもしれない
もうサイズこんなんちゃうねん
牛島悠紀
それちょっと京都のサイズじゃないよね
永谷咲子
ないよね
近藤淳也
ボイラー室サイズ
ボイラー室サイズ
牛島悠紀
2倍になった
やばい
近藤淳也
マジっすか
永谷咲子
それでもうちょっと行かへん間に
梅雨さん運営してたんが
無門舎さんって今そこにある金魚食堂さん
が母体のところがやったはって
それでもう赤字があまりにもひどくって
スタッフさんも減ってきてるし
で梅雨の運営からも手を引きますと
手を引いてしまったらもうあのセントはもう
使わなかったらどんどんボロボロになっていっちゃうから
そこでみなとくんが
さんこさん僕都合かどうしようか思ってる
ついだらええんちゃうん
近藤淳也
さんこさんは言うよな
永谷咲子
お金なんとかなるん?ってなるかもしれない
じゃあやったらいいやん
近藤淳也
って始めた
永谷咲子
彼もいっぱいあちこちセント行ってたし
あちこち相談してて
でまあさんこさん五条モールやめへんよねみたいな
そこはなんかそういうのがあったんだ
あの頃まだまだ店がね少なかったから
近藤淳也
確かにね
さんこさんもやってるなら自分もここでやっていこうみたいな
永谷咲子
うちと六賢さんと八丁さんぐらいしかなかった
あの頃は要はトライアングルって言ってた
バミューダと帰る
近藤淳也
帰れなくなるやつやんそれ
牛島悠紀
確かにね
近藤淳也
どっかで失踪してしまう
酔いつぶれて消えていく
永谷咲子
三元をはしごするみたいな街の人らが
確かに全然なかった
近藤淳也
なかった
そういう楽園なのかもしれないね
永谷咲子
それでみなとくんが作って決まって動き出した
近藤淳也
じゃあだいぶ立ち上げに関わられてるんですね
永谷咲子
全然全然全然
私なんかいらんこと言うだけのかかり
近藤淳也
いやいやいやいや
今やでもね全国からサウナ好きの人とかもやってきてますよね
牛島悠紀
今梅友さんは
取材とかもあちこちからね
近藤淳也
みなとさんもね多店舗展開というか
あちこちでそういう戦闘再生みたいなのされてますけど
永谷咲子
なんてやかみなとくんとか六賢さんとか
近藤淳也
もう戦友みたいな気はしてる
そうなんですね
初期にこの辺で入ってお店お互い頑張ってたみたいな
永谷咲子
みんな賃貸でね
五条エリアの変化と街づくり
近藤淳也
当時は事務所とかもあったと思うんですけど
その辺はどういう感じだったんですか
永谷咲子
いやもう
どうなんだろう
どうなんかな
私がバイトというかバンダイ入ってた頃
そろそろすごかったですよ
近藤淳也
だって一回発砲事件になりましたよ
永谷咲子
それはね後かな
後ですか
もうちょっと後
私がバンダイ座ってた頃はまだ
今みたいな解体みたいになってなかったから
月一回
産科の人たちが集まってきて
今はもう見ない
帰国食堂さんところの道沿い
高瀬川沿いに
月一車黒塗りがずらーっと並ぶとか
ほうじとかがあるともうすっごいとか
でまあ多分産科のいろんな組が
組がゆうでもだ
がまあね多分月一ご挨拶に来るの帰りに
梅湯でお風呂入っていかはるんで
そらーいかつい
近藤淳也
お風呂入っていかはるんだ
永谷咲子
なんでなんだろう
なんでお風呂入っているかわからないけど
近藤淳也
じゃあお客さんやったんですね
じゃあ結構普段も接していてというか
永谷咲子
すごかったですよ
もうみんなの想像を上行くすごさでしたよ
そうなんですね
近藤淳也
私もこの住んである人にそういうの聞いたことがあります
そうですか
なかなかね
確かにそこでお店やっていくっていうのは
結構貴重な経験というか
牛島悠紀
でもやっぱ京都じゃない人だから
永谷咲子
できるあれがあったんですかね
なんとなく
近藤淳也
でもそこがね最近いろいろお店ができて
あんのんもそうですけど
いつ頃からですか
そういうちょっと新しいお店とかが
来始めたの
ビアラボさんとか
牛島悠紀
この10年くらい
永谷咲子
いやでもビアラボさんが何年前ですか
牛島悠紀
ビアラボさん
近藤淳也
2017とか
8とかですか
牛島悠紀
あそこができてどれくらい
どうだったっけ
知っときゃって話だね
近藤淳也
でも2017、8くらいじゃないですか
5年前くらい
永谷咲子
そんなもんなんですか
近藤淳也
じゃないかな
あんのんが2019なんで
そっかそっか
牛島悠紀
あんのんがちょっと前ぐらいなんですね
なんかもう普通に長くあるイメージでした
永谷咲子
たぶん梅湯さんが8年くらいで
梅湯さんが軌道に乗り始めたか
分からんけど
2年くらい3年くらいかな
立ち出したあたりからこう街が
先駆者で言うと
エフィッシュ
近藤淳也
そうかまずエフィッシュさんがね
永谷咲子
エフィッシュさん
でも言うてもエフィッシュさんは角
御所はそりゃあそこの角やんだから
近藤淳也
中ではないから
入り口というかね
牛島悠紀
端っこの方で
永谷咲子
梅湯さんが来だして
合わせて六軒さんもやっぱ
すごい人気店に育ちだして
たぶんあそこ2年くらい
1年か2年であっという間に
ガーって人気店になったんじゃないかな
それで五条モールもそこそこ
来てくれる感じになって
ですよね
事務所も動かなくなってきて
それが決まったからきっと
ビアラボさんもね
入ってきて
カフェさんが川沿いにできたりとか
ちょっとずつちょっとずつ
増えてきましたね
5年くらいの間に
牛島悠紀
たくさんお店ができたかな
永谷咲子
インバウンドの影響が大きい
近藤淳也
そうかそれもありましたね
宿が大量にできましたもんね
永谷咲子
一等菓子の宿みたいなのが
良くも悪くも
ゲストハウスインバウンドの影響で
リノベーションしてるでしょ
建て替えじゃなくて
あれも良かったなと思って
近藤淳也
それは街のみが残ってってことですか
永谷咲子
建て替えてマンションが建っちゃうんじゃなくて
リノベーションで
古い街にする方がやっぱ
海外の方たちは来てみたい
この街に泊まってみたいっていう
良い方向にあれば行ったんじゃないかな
近藤淳也
確かになくなってしまうよりは
宿でも残った方が
街並みとしては京都らしいというか
ここにしかないものが残ってきますもんね
永谷咲子
ここ今アンノンさんもやっぱ海外の方すごい
近藤淳也
増えてきましたね
桜のシーズンとかは7割以上
外国人って感じでしたね
ですよ
外国人今年の2月ぐらいまで
一人も泊まったことなかったんですよ
英語を喋る
英語っているんだっけみたいな感じだったんですよ
英語なんてできなくても大丈夫だよねみたいな感じで構えてたら
急に半分以上外国人みたいな
この数ヶ月です本当に
僕たち宿やってたんです
牛島悠紀
インバウンドとか
宿技
普通に旅行の人が泊まるっていうイメージが
最初になったんです
コロナとともにスタートみたいな
近藤淳也
それでほぼキャンセル
2019の秋に開業したけど
宿のオープンは免許がおりた2月
2020年2月だったんですよ
2月にオープンしてすぐに春の予約は入ってたんですよ
外国人が
特応ができなくなってすぐに
全キャンセルになって
幻の外国人予約みたいなのが
桜シーズンに入ってたんですけど
その外国の人とは一人も会わずに
そっから3年間
牛島悠紀
日本人だけの宿としてやってきて
確かにそれもリモートワーク
近藤淳也
宿っていうかシェアハウスみたいな状態に
1回も観光とかは全然なかったんで
マンスリーで賃貸として住んでる人の
シェアハウス状態みたいなのに
1回なったりとかしながら
何とか続けてきてって感じですけど
宿泊施設の変化と影響
近藤淳也
ここに来ても
いろんな言葉が飛び交っており
永谷咲子
英語のメニューやっぱりいるって
近藤淳也
そうですね
そうかって海外の人来る宿だったんだよな
ここみたいな
永谷咲子
宿だったそういえば
牛島悠紀
そうですね
永谷咲子
なるほど
きっとインバウンドとかコロナとか
世の中本当に変わってしまった
近藤淳也
そうですね
最近でもエデンの向かいというか
五条門の向かいは大和道さんも
永谷咲子
あれはすごいの来ましたね
近藤淳也
あの路地に向けてショールームに
ライティングされてショールームになってるじゃないですか
誰に向けてショールームしてるのか
永谷咲子
エデンに向けてみたいな
たぶん
並び沿いにお店ではないけど
京都情報省の社長さんが移住してきた
近藤淳也
そうですか
永谷咲子
すごいなこの通りに
牛島悠紀
これはすごい
近藤淳也
あれもその路地で
面白い通りになってましたね
永谷咲子
すごいと思って
牛島悠紀
盛り上がり方がすごいですね
永谷咲子
すごい
五条門の向かいの平岩さんもね
すごい建物もいいし
平岩さんの向かいの角のところもね
新進系のキュレーターさんが入らはったし
近藤淳也
そうなんですか
永谷咲子
その人も兄弟で
私らの一個舌
近藤淳也
え、どこ?
ネオンのとこですか?
平岩のほんまに向かい側の角
その五条門のちょっと南ってこと
永谷咲子
そこに入られてるんですか
あかり商店のキュウちゃんの後輩
キュウちゃんに大谷君と先輩後輩
大谷君と同級って言ってたのかな
そのつてでそこに入らはって
って言ってあった
近藤淳也
どう思います?
そういういろんな人
いいと思う
いいですか
永谷咲子
すごくいい人でその人も
この前うちゴミ荒らされてた
お連絡くれて片付けてくれてて
すみません、ほんまにすみませんって
近藤淳也
なんかクリエイティブな方多いですね
永谷咲子
多分そうじゃない人が入ってたら
違う形の街になってたかもしれないけど
多分梅湯にしても五条門にしても
比較的そういうクリエイティブ寄り
庵野さんももちろんそうやし
なんかやっぱ寄りやすいかなって
汽さんにしても幾星さんにしても
近藤淳也
一筋縄じゃない感じでしょ
永谷咲子
一筋縄じゃない感じでどういうこと?
キーさんに行ったってなんだっけ
近藤淳也
レバノン料理とか聞いたことないみたいな
牛島悠紀
確かにレバノン料理ってなんやって
近藤淳也
カフェとかじゃない
そういう意味ね
永谷咲子
一筋縄じゃいかないっていうことね
近藤淳也
幾星さんもカクテルがすっごい凝ってるというか
ノンアルコール漂流カクテルみたいな
杉の香りのやつ飲ましてもらいましたけど
水がまず違うんですみたいな
杉の香りですとか言われて
永谷咲子
すごい香りだったけどびっくりしました
そういう本当クリエイティブな人たち
近藤淳也
この街に参入してんのかなって
永谷咲子
それは裏で佐古さんが全部呼んでるとか
そうなんですか
牛島悠紀
わけない
永谷咲子
そんなわけない
作ってみなでもないんですか
牛島悠紀
最初に
近藤淳也
何でしたか?
なんかでも分かってない名の裏っていうか
そういうのあるかもしれないですね
そういうものに対して
それが面白いって思うような気質というか
永谷咲子
ある気がするけど
近藤淳也
鴨川沿いに広場みたいな飲食店ができてるの知った
噂は聞きました?
永谷咲子
見てないけど
近藤淳也
すごい
永谷咲子
晴れた日にあそこでビールとか最高です
牛島悠紀
行きたいですね
近藤淳也
行きましょう行きましょう
最高です
キーさんとかもすごい人気ですね
永谷咲子
行列できて
牛島悠紀
川間食堂さんもこんなに並んで
近藤淳也
確かにそれも朝モーニング行列で
観光客が持ってきたっていうのもあるんでしょうけど
いよいよこのコロナの間に作られていたお店に
人も入り始めてみたいな
永谷咲子
なってきましたね
マルフクロウさんも来たし
街がほんまに変わってきてる
近藤淳也
急ピッチで静かをとめてる
永谷咲子
でちょっとそこ行ったら
ブルーボトルさんのセントラルキッチンがあってね
近藤淳也
どこかすごい
確かに
それは最初に作子さんが来られた時から見たら
だいぶ覚醒の感があるというか
10年でそこまで変わるのかっていう
昔を知ってる人はみんなびっくりする
牛島悠紀
静かな風情のある街だった
永谷咲子
大和道さんの外観とかすごい
牛島悠紀
見たことないこの辺で
近藤淳也
割と全面ガラス張りの
街をショーウィンドウが
なっていて
牛島悠紀
でもすごい速さでね
永谷咲子
作られた
牛島悠紀
あっという間だったかな
もうできてるんです
永谷咲子
すごかった
地域のお店の難しさとあかり商店のコンセプト
近藤淳也
そんな中作子さんはあかり商店も
そういえば立ち上げられましたけど
あれはどういうお店ですか
永谷咲子
本当は街の人たちのサポートをしたりとか
居場所であるようなお店にしたいと思ってたけど
やっぱ京都の人は難しいですね
近藤淳也
なんすかそれは
京都でくくりました
永谷咲子
3年間は対岸から見とくって言ってありました
近藤淳也
そう言われたんですか
誰に
永谷咲子
誰かが言ってあったの忘れちゃったけど
近藤淳也
3年間は対岸から見とく
エデンを7年10年見守ってもダメなんですか
永谷咲子
ダメですね
そうなんですね
近藤淳也
それはじゃあ地域のお店にしたいって言ってるけど
永谷咲子
うちは食べ物が弱いんですよ
常に誰かキッチンの回せる人っていうのがいないと
人って今の時代
この時代っていうか今は
食べるものを求めてくる人が多いんですよね
アルコールだけじゃどうしてもならなくて
で今メニュー開発ずっとしてるところだけど
それを常に作れる人がいないんですよね
近藤淳也
なるほどなるほど
永谷咲子
料理人の確保は難しいってことですか
近藤淳也
ちょっとあかり商店の解説をすると
さっこさんが立ち上げた町の商店ですか
永谷咲子
そうですね町の商店
牛島悠紀
って言ったらいいのかな
近藤淳也
でもともと地元の方の日用品とかを
買いに行けるお店にしたいっていうのがコンセプトだったんですかね
永谷咲子
そうです
オフィススペース不足の課題
近藤淳也
結構いろんな方が関わって立ち上げられてましたよね
そうですよね
地元のメンバーが集まってやってる印象でしたけど
永谷咲子
今はどうなってるんですか
近藤淳也
あれ
永谷咲子
昨日ちょうど会議があって
この存続させるにあたって
ちょっと1回きちっとやり直さないとダメですね
って話をしてたところで
コンセプトからもっと基本的なことから
もうちょっと考え直してやらないとダメだよね
近藤淳也
そうなんですね
さっこさんが一応メインでそれをされてる状態なんですね
じゃあエデンもやりながらあかりもメインでやられて
そっちはいろんなスタッフの方が
基本は普段回してるっていう状態
永谷咲子
そうです
学生さんが多いんですかね
最初は学生さんが多かったんだけど
社会人というか学生じゃない人たち増えてて
近藤淳也
その方は何の目的にやってくるんですか
永谷咲子
なんかみんな各自違うことをやりてて
それこそクリエイティブなことをギャラリーとか
歌を歌うとか
いろんなことを各自絵を描いてるとか
近藤淳也
いろんなことをやりながら働いてくださってて
面白い店ですけどね
高瀬川沿いでなんか気持ちいいし
何か行くとね
安くて
せんべろとかも
永谷咲子
あります
近藤淳也
1000円払ったら
牛島悠紀
おでんとか食べながら酔っぱらいてみたいな
おでんとか揚げ物とか
近藤淳也
結構地元の方いるイメージですけど違うんですか
永谷咲子
結構いらっしゃいますよね
もっと本当はしたいけどなかなか難しいとか
牛島悠紀
理想の形が
近藤淳也
でもちょっと小店っていうところから
飲食店的な方になってきてるって感じなんですかね
永谷咲子
ちょっとコンセプト見直しをしないとなーって
思ってるとこです
牛島悠紀
難しいですね
永谷咲子
フレスコもできたしね
牛島悠紀
小店で言ったらね
24時間空いてますからね
もともとね
なかったんですよね
気軽に
そういうのが日用品が買えるところっていうのは
永谷咲子
明かり商店を専属で引っ張ってってくれる誰かみたいなのが
いないと先には進めなくて
私も他の人も自分の店もやりつつでは
どうしても難しい
近藤淳也
最近のその動きで言うと
まるふくろうさんもそうですけど
山内財団さんが
そういうことさっきの梅井の横とかも
なんかすごい変わった建物を今作られてますけど
あの辺の動きはさっこさんは関わられたり
永谷咲子
ノータッチです知らないです
近藤淳也
そうなんですね横から見てるって感じですか
だけです
永谷咲子
そっちはどういうふうに見てるんですか
面白いの来たなぐらいの
いいんじゃないかな流れが生まれて
近藤淳也
と思います
なんかねその梅井の横もコンテナが積み上がって
上に大きな屋根がかかって
あれはアトリエみたいになるんですか
永谷咲子
ウォーヤー君の設計とかって聞いてますけど
アトリエアーティストレジデンスみたいなのも
するんかな
牛島悠紀
なんかそういう話を聞いてました
近藤淳也
まるふくろうに地元の人の招待してもらって
今後の計画を発表しますみたいな感じで
説明していただいてるんですけど
すっかり入り込んでもっとこういうの作ったら
作家さんが言ってるのかと思ったら違うんですか
全然ですよ
あそこに本間はステージとか作ってほしかったけど
永谷咲子
寄せができるとかライブできるとか
近藤淳也
あれでも裏の土地空いてませんまだ
永谷咲子
なんすんのこの庭作るとか
近藤淳也
どんな感じなんですか
牛島悠紀
最終公演とか言ってなかった
永谷咲子
説明会の時にね
近藤淳也
なんかだんだん木が生えていって
それに埋もれていくんですみたいな説明されて
ちょっとよくわからんかったけど
牛島悠紀
埋もれていくってどういうことやろうみたいな
そこをなんかこう多目的スペースというか
なんかねそういうライブじゃないけどね
なんかいろいろ寄せとかもできたり
永谷咲子
いいよね
確かに
言おうと思いながらずっと忘れてたなって今思い出した
近藤淳也
ぜひ言ってください
僕はねオフィスがもっと欲しいんですよ
それも言っといてほしいんですけど
なんか結構アンノウンもコワーキングがあって
オフィスもあるんですけど
数人の部屋はあるんですけど
それ以上規模拡大となった時に
アンノウンの中にないだけじゃなくて
このエリアで例えば10人ぐらいに
会社が成長してきて10人になりましたって言って
借りれるオフィスがほとんどなくて
結局なんかどっかに移動していくしかない
永谷咲子
そうですよね
近藤淳也
思ってるんですけど
なんかそれももったいないじゃないですか
わざわざこのエリアに魅力を感じてきた会社が
ちょっと大きくなったりとかしていった時に
それの受け皿がなくてどっか行っちゃうっていうのも
すごいもったいない気がして
もうちょっとそろそろオフィスに人も来始めるだろうし
街づくりの動向と展望
近藤淳也
って思ってるんですけど
そんな大きな建物をそんな簡単には
永谷咲子
10人ね
近藤淳也
もしそういう仏教持ちの方がいて
使っていいよって方がいたら
ご連絡ください
牛島悠紀
秋屋とかで
近藤淳也
そうですね
牛島悠紀
活用できたら
近藤淳也
そんな感じかな
なんか今後やりたいこととか
計画してることとかあったりしますか
永谷咲子
もうやりたいことはあるんですけど
体がついてくるみたいな
牛島悠紀
今日はちょっとね
永谷咲子
しんどい
近藤淳也
今日はちょっと元気ないもんな
永谷咲子
しんどい
まさかのね
しんどいとか言ったらダメなんですけど
体が本当につかない
近藤淳也
気をつけてくださいね
いい歳なんでねお互いね
永谷咲子
ここ2年くらい私も怪我がいろいろ
なるね
牛島悠紀
やっぱり歳が
永谷咲子
私ほんまこの2年くらいで
エリアでの地域貢献
永谷咲子
シミがブワーって始めて
それを年配の上の
年上の人が友達にしゃべってたら
せやであんた50手前なめっちゃシミ出んねんって言われて
それな今のうちに取っときって言われてそれで
今タウンオーバーが来てて
再来週くらいに一回プロプロプロ落ちて
牛島悠紀
一回バッと出て
永谷咲子
出ないといけないね
牛島悠紀
それはもうなくなっていく
永谷咲子
でも思ったらだいぶ濃いでしょ
これがほんまにバラバラって取れる
近藤淳也
そうなんですか
永谷咲子
バラバラバラバラ落ちていく
どうでもいい話よ
そのやりたいことはどんなことなんですか
近藤淳也
じゃあ体がどんだけでも動くとしたら
何がしたいですか
永谷咲子
本当はもっと物件買って
それこそ展開いろいろしたいんですけどね
近藤淳也
基本はじゃあそういう物件
不動産というか場を加工して作っていくっていうのがやりたい
永谷咲子
例えばどんな
さっき言ってたみたいにアトリエを作ったりとか
いろいろ
近藤淳也
内緒
いろいろあるんですね頭の中に
その時はでもやっぱり古い建物で
自分でも手を貸して作る感じですか
永谷咲子
わかんないんですけどね
前に昔おっと言ってた
だからシェアハウスとかももちろんまだ諦めてないし
近藤淳也
それもいいですね
永谷咲子
住む場所もしたいですけどね
でもやろうと思ったら
今も大事だってしゃがんだ瞬間に
すごい膝が痛くて
階段これ登るよりそんなきついんだろうなと思うと
牛島悠紀
って思いながら
怪我は気をつけて
永谷咲子
本当に
牛島悠紀
切れと思って
永谷咲子
あかんね
近藤淳也
ちょっとずつね
牛島悠紀
骨を負ったばかりの今はちょっとあれですね
永谷咲子
あれもこれもっていうモードじゃないわね
近藤淳也
痛み止めがよく効いてる
なるほど
でもあれですねキックハマエリアには
拠点をずっと置いて
何なら何かまた新たな場所を作るっていうことも
やっていきたいっていうところなんですかね
牛島悠紀
ぜひ
近藤淳也
同じエリアにいるものとしてよろしくお願いします
将来の展望
永谷咲子
こっちこそです
近藤淳也
お互いに盛り上げていきましょうみたいな
牛島悠紀
そうですね
近藤淳也
さっこさんの幸せって何ですかっていうのを聞くんですけど
永谷咲子
幸せ?
何だろう
ご飯食べてる時
寝てる時
ご飯食べてる時かな
近藤淳也
もうお酒じゃないな
永谷咲子
お酒も楽しいですけどそれは楽しいかな
牛島悠紀
すごい日常にあった
近藤淳也
ご飯食べてる時
永谷咲子
ご飯食べてる時幸せやなって
牛島悠紀
じんじん割り
永谷咲子
それも自分で作って
何でも美味しいかったら何でも
近藤淳也
でも美味しいものを食べれるって幸せですよね
永谷咲子
何なんですか?
僕ですか?
近藤淳也
急にこの返しは初めてやな
ちょっと待って幸せ?
何だろう
まずい急にこれるとは
今は別に幸せですけどね
何でしょうね
前に進んでる感じの時は楽しいかな
牛島悠紀
見ててそんな感じします
永谷咲子
すごい楽しそうですね
近藤淳也
なんかそんなもんかな
永谷咲子
大丈夫ですか?
牛島悠紀
大丈夫ですよ
近藤淳也
大丈夫ですか?
面白かった
結構知らない話があって
今からまた楽しみやなって思いますね
牛島悠紀
今日はどうもありがとうございました
永谷咲子
さよなら
01:26:55

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