1. ゆいなわさんの「聞く人」ラジオ
  2. V.74 株式会社コア代表取締役..
2024-02-08 38:54

V.74 株式会社コア代表取締役・川名隔郎さん「もうひとふんばりしなきゃな」

今回は、株式会社コア代表取締役・川名隔郎さんにお話を伺いました。
南房総の地域情報誌「CLIP」を発行されている、株式会社コアの代表をされている川名さん。ロック少年だった、と仰る川名さんの、まずは音楽との出会いからお話をお聞きしました。
南房総生活情報誌CLIP:https://clip.m-boso.net/
【70代男性】
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ゆいなわさんの聞く人ラジオ。みなさんこんにちは。ゆいなわさんの聞く人ラジオのお時間です。
今回は株式会社コア代表取締役・川名隔郎さんにお話を伺いました。
南房総の地域情報誌クリップを発行されている株式会社コアの代表をされている川名さん。
6少年だったとおっしゃる川名さんの、まずは音楽との出会いからお話をお聞きしました。
川名さん、好きなことって言ったら何ですか?
好きなことですね、あの割と、僕は1953年生まれですから
いわゆる音楽的なところで、ミートルズ、ローリングサウンドが出てきたのがやっぱり小学5、6年生から、それから中学に行く頃でしたね。
グループサウンドが本当に中学1年生くらいの時期に盛んでね。
私もずっと大好きな方でしたね。
自分では高校生の時はロック少年だって言って思ってるんですけど、よくね、ビートルズとローリングサウンドどっちが好きっていう質問がありましたよね。
僕はローリングサウンドのほうが派なんですけど、それはなんとなくそっちのほうがかっこいいかなって。
私は逆にその頃ビートルズのことわかってなかったんじゃないかなと思うんですよね。その魅力みたいなのが。
いわゆるすごいメロディメーカーである部分であったりとか、非常に多方面というかね。
ところが深い中かなとかね。
最近4,5年前かな、ビートル全曲学習っていうのがあるんですよ。8000円くらいで売ってるんですよ。
1枚くらいしたかな。それ買ってね。
制覇しようというのはそんなことはできないんだけど、そんなコンプリート学習みたいなのが出ててね。
すごいなーっていうかね、それを眺めてるだけでもなお。
すごいなと思って、ビートルズ再評価しましたけどね。再評価って言ったらね、おまましいですよね。
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中学生の頃からロック全般にはのめり込んでいってましたけどね。
中ではね、黒人音楽とかね、いわゆるリズム&ブルースと呼ばれるジャンルですね。
当時誰がいたんだろう、オーティスレディングとかね、サム&デイブとかね。
リトル・リチャードはちょっと手前の中やかな。
その辺のところって中学生くらいの時にラジオから流れてくるとね、やっぱり染みましたね。
ガーンと来ましたよね。
まだね、レコードとか買って聞くっていうところまで行かなかったんで。
お金がかかるような世界じゃなかったんで。
ラジオから流れてくるのを貪るようには聞いてましたね。
ビートルズストーンズはまさにリアルタイムでやってる時ってことですよね。
ビートルズは解散しちゃいますけど、ストーンズとかもどんどんアルバムが出てる。
どのあたりですか、60年代、70年代?
だから73年っていうのが僕が20歳になった時ですから、
68年とか、だから60年代後半だしね。
60年代後半から75年くらいまでかな。
例えば、スティッキーフィンガーズとか、ブラウンシュガーとか、
あの辺のストーンズですかね。
ビートルズが60年代後半で解散というか。
そうですね。
そんなに買えないかあったかね。
いわゆるレッドイットブリードっていうアルバムがあって、
あれは僕高校2年ぐらいの時買ったのかな。
ケーキのケーキですかね。
そうですよ、よく聴きますね。
だから高校のね、
当然音楽興味も持ってたからラジオとかも興味があるし、
オーディオとかもやっぱり少しは興味があって、
高校生ぐらいの時にね、やっぱり小遣いっていうかアルバイトしたりして、
やっぱりステレオ買ったりしてたんです。
当時パイオニアのコンポーレントですか、コンポですね。
一番安いやつでね。
当時いくらだったかなだけど、
アンプで2万3万ぐらいしたかな。
06:01
神山ガキさんってあって、
よく行ってました。
そこはね、結構パイオニアとかトリオとか、
コンポを行ってましたからね。
そういう時代でしたね。
コンポが手に入れたいっていうかね、
なかなか高かったから手に入れないんですけど、
その頃ね、
効率のいいバイトっていうのがあって、
立山カントリークラブのキャディさんのバイトだったんですよ。
同級生たちは結構そこでバイトやってたんですけど、
バイトを持ってた子は直接カントリークラブに行くんですよ。
受付を朝7時くらいからやってて、
そこで順番をとって、
その順番ごとに採用されるんです。
僕はバイトを持ってなかったから、
立山駅からカントリークラブのバスに乗って、
それでクラブに行って、
受付して、
順番を待ってて、
バイトするっていう感じで。
だいたい1ラウンドとか、
1ラウンドハーフとか、
1ハーフとかってやると、
当時いくらになったのかな?
レコードアレバーが当時2500円だった時代に、
ほぼ1回行くと1枚買えたぐらいのやらが出たから、
今にしたらいくらなんだろうな。
1万5000円とか。
じゃあだいぶいいですよね。
ぐらいもらえた効率のいいバイトだった。
それをされてレコードを買うんですね。
今の価格にしてはレコードって、
1万円から1万5000円はしたんですね。
価値観的に。
だから1回行ったら、
じゃあ1枚買えるかって言ったら、
買えなかったんですよ。
で、ぼちぼち少しは買ってましたね。
月1枚かな。
その1枚をすごい利くみたいな。
そうですね。
あとは友達から借りて、
そうですよね。
僕は非常に友達に恵まれてましてね。
やっぱり同じロック好きの同級生がいて、
彼がお坊ちゃんになったのかどうか分かりませんが、
高校3年の時は100枚近くアルバム持ってたんですよ。
高校3年で100枚?
そう。
09:01
で、やっぱり市内に行こう。
これ持ってない、あれ持ってないって言って借りて、
聴いてましたね。
また音楽もその頃ってどんどん新しいというか、
ロックがどんどんそこから出てくる時期じゃないですか。
それは楽しいですよね、そこの。
あとね、やっぱりその頃はロックもずっとあったんですけど、
フォークっていうのもあったじゃないですか。
モデュランとかってその頃ですか?
モデュランはもちろん生徒派なんですけど、
日本のフォークっていうのが出ててね、
もう右から左っていうか、
いろんなのがありましたよね。
社会派みたいな、社会派フォークみたいなね。
ババヤンスとか。
その辺も買いはしなかったけど。
あれは買ったのは高校の時に朝川牧のアルバムを買って、
結構聴きましたからね。
今でも聴きますか?
聴きますけど、
今はレコードまで引っ張り出して聴くっていうのは少ないんですけど、
どうしても今頃サブスクっていうか、
レコードで探して聴いたりとかしますね。
ビートルズ、ストーンズも今も変わらず?
そうですね、この間ストーンズ新しいアルバムを出しました。
すごいですよね。
その頃の話、高校生の頃っていくとね、
ちょうど高校1年の時からニューミュージックマガジンっていうのが創刊になって、
なんかね、感想文募集じゃないんだけど、
募集っていうのがあって、
文章書いて投稿するみたいなやつがあって、
それを書いて送ったら、
2年くらいタラで送ってきてくれてたんですよ。
何だったのかな、なんかそういうのがあってね。
それでラッキーと思って読んでましたけど、
その頃は情報としてはあんまりガンガン入ってこなかったんですよね。
ニューミュージックマガジンやってた中村豊さんっていう方がね、
ラジオ番組を持ったりして、
豊さんが持ってた番組で、
ブルースを書ける番組があったんですよ。
1時間半くらいの番組でね。
その頃は高校2年くらいの時かな、
ブルースの、いわゆるシカゴブルースとか呼ばれるところの、
本物って言ったらああいうんだけど、
12:01
今まで日本でレコードがほとんど出てなかったんですけど、
入盤に頼りしかなかったんですけど、
日本で初めてベストオブマディウォーターズとか、
シリーズが発売されたんですよ。
それはニューミュージックマガジンでも、
今週のアルバムの何番とかで、
チャートに登ってくるような感じで、
結構紹介されてたりして、
ちょうどその頃ブルースに興味を持つようになって、
それと中村豊さんのラジオ番組でブルースが流れてきて、
ブルースも結構好きになりました。
高校3年生の時に中津川フォークジャンボリューというのが、
名前は分かります。
開催されて、
高校3年生の夏休みだったんですけど、
市知早区で中津川まで行って、
3日間くらいだったのかな。
そこでバッタリ高校の時の先輩に会ったんですよ。
え、そこで?
テント持って。
お前何やってんだ。
先輩何やってんですか。
あ、そうなんですね。
東京生活をしていた頃は、
結構6機車とか行ってましたね。
6機車。
6機車って今だと言葉として、
昔はいっぱいあった?
ありましたね。
公園寺に4軒かくらい。
そうなんですね。
市城に3、4軒。
お住まいはどこだったんですか。
最初は、
18歳の時に東京に出られて、
最初に住んだのは小田急線の後徳寺。
後徳寺わかります。
すごくいい場所だったんですけど、
後徳寺住んでて、
下北沢はつい3ヶ月くらい前に、
何年ぶりかな。
行きました。
40年ぶりくらいじゃないかな。
その頃から一切行ってなかったんじゃないかな。
まあ変わりましたね。
全然違いますよね。
僕もびっくりしたんですけど、あれは。
下北沢。
何かいいのかなって感じで、
今一つしっくりこなかったですね。
確かに。
昔はなんかね、
なんかこうのんびりした下北沢って、
ぽつりぽつりとね、
人的の聞いた店っていうか、
15:00
自分好みの店があって、
今行くと古着屋さんだらけ見たらね。
そうなっちゃいましたね。
ちょっと確かに。
いつも綺麗になっちゃって、
だいぶ手が加わってる感じ。
後徳寺に行って、それから三鷹に。
三鷹。
なんかやっぱりね、
中央線の魅力があるじゃないですか。
フォーク好き、ロック好きの人としてはね。
外せないですね。
僕も阿佐ヶ谷に住んでたので、
一匹、友達5、6人で一緒に住むみたいなことしてたので、
その辺は大好きですね。
三鷹まだ行ってないんですよね。
改めて。
行ってないんですよ。
三鷹もこの辺で。
四条寺は行ってたんですけど、
駅も変わったけど、
やっぱり下北とかが大きく変わってる感じでした?
下北は大きかったですよね。
三鷹もなんかすごい変わったって言うんですけど。
駅の前もちょっと綺麗というか、
最近あの辺どんどん変わってるので、
言ったら後援寺もちょっと変わったと言えば変わったのかな。
でも周りの雰囲気はあんまり変わってないとか、
駅自体がどんどん変わってるので。
西尾木とかってあんまり変わってないじゃないですか?
西尾木はそうですね、あんまり変わってないかもしれないですね。
確かに。
南口の方も。
はいはいはい。
あの感じはそうですね。
やっぱりコロナの時期があるから、
飲み屋的な部分が中が変わってたりとかするんですよね。
街とかは雰囲気変わってなくても、
歯抜けになってたりとか、
でも最近は元気取り戻してる感じとか。
東京って僕は結構大好きですけどね。
すごい魅力的な場所で。
今も時々行ったり?
いや、そう頻繁には行ってないですけども、
仕事絡みっていうのはほとんど少ないですけど、
どれくらいかな、やっぱり。
月1で行ってるのかな?
行けてるのかな?
分かんないですけど。
私お酒好きなんでね。
居酒屋的なところをね、どうしても。
そうですね、いいとこいっぱいありますもんね。
行ったらそれは。
二手山でも行きますか?
行きますよ行きますよ。
だけどそんなに頻度はないですからね。
結構お酒好きなんですか?
すごい好きなんですけど、
ちょっと飲めなくなっちゃって、
体調悪くなっちゃうというか、
飲むと胃が痛くなるみたいなのが翌日に。
なので前は本当に毎週、
週一飲まない日があるかないかぐらい飲んでたんですけど、
最近はだいぶそれに比べると。
東京でも相当いろんなとこ行ってましたね。
18:02
東京すごいですよね。
ピンから切り上げるんですよね。
いいとこいっぱいありますよね。
また街がそういうところが、
その街の雰囲気も大好きなので、
酒場と街みたいな。
じゃああそこなんか知ってます?
門の中の魚さんって。
もちろん知ってます。
あそこいいですよね。
名店は本当に。
それこそ、前の会社にいたときは、
NEMという喫茶店を経営してたんで、
ちょうど今はなんだろう、
シンゲンっていう東京都防止店って、
東京都っていう防止屋さんがあったの知ってます?
知ってます。
千葉銀のこっちから行くと千葉銀の先のところ、
右に曲がって駅の方へ行くところがあるじゃないですか。
だから曲がってすぐ左側に、
あそこの上になったんですよ、喫茶店。
そこでだから、前の会社にいたとき、
始めたのが24くらいのときから、
やめてから若干やったから、
24から30くらいまでの間に、
月一でそれこそライブやってたんですよ。
そうなんですね。
ライブやってたっていうのは?
ライブを呼んできて、
バンドみたいなの?
バンドだけど、
大体フォーク系の歌手一人でやるところだったんですけどね。
高田渉も来たし、
そうなんですね。
でも3万円しか払えないから、
もう3万円で来てね、みたいな感じで。
それやってたんですか?
そうそうですね、仲間と。
呼ぶコーディネーター的な?
そうそうそうです。
前の会社でやってたんで、
会社が絡んでたって言えば絡んでたんですよ。
仕事の大きなこととしては同じことかもしれないですけど、
最初に僕30で始めた頃って、
アナログですよね?
そうですね、そこの部分。
アナログでやってて、
デジタル化したのがちょうど90年くらいかな。
ようやくパソコンが出てきた頃で、
NECのPCなんとかとかって、
98とかあって、
マークが初期のマークが出てきて、
めちゃくちゃ高くて、
っていう時ですね、
これからこれだよなって思って、
ちょうどね、最初の1台レボを買ったのが、
下に置いてありますけど、
ありましたよね?
クラスチックっていう、
モノクロの1台型のちっちゃいやつですよね。
21:03
クラスチックが出て、
当時30万円しましたからね。
ハードディスクが一応積んでたんですよ。
20メガっていう。
メガ1万円って言われてましたからね、当時。
ハードディスクが。
その時に、うちの会社では、
CIだったかな、当時の。
一応マッキン・トッチの400万円ぐらいで、
1匹揃えたんですよ。
当時はね、
グラフィックで使えるんじゃないかっていうので、
結構2とかっていう、
デザインの用具を売ってる会社があるじゃないですか、
昔のイズミヤっていう会社で。
そこが売ったりとか、キャノンが売ったりとかね、
マッキン・トッチのアップルの製品も売ってましたけど、
最初はね、なんか、
おもちゃみたいな感じでしたね。
本当だって、
私一番最初の頃って、
ミンチを1書体、ゴシック1書体しかなかった。
そうなんですか?
そうですよ。
だけど、うちのディスプレイとプリンターと、
こうやって揃えると400万円でした。
じゃあデザイン事務所何やってたかって言ったら、
大変綺麗に描けるとかって喜んでましたけどね。
そうなんだ。
それに400万円かけてましたよ、みんな。
だけど基本的に、
ワープルの手のいい機械みたいなところで、
当時は、
今までいうイラストレーターとかフォルショップとかっていう
出始めてた頃ですからね。
だから文字のハンドリングとかある程度できたんですけど、
今から比べたら、
満々ですね。
できることって言ったら本当に限らない。
ただ可能性は感じましたよね。
これが主流になっていくのかなと思って。
それでこの建物を建てた時って、
もうLANが入ってるんですよ。
ここですか。
下から上まで。
そうなんですか。
千葉県で初めてなんじゃないかって。
そのLANに関しては、
かなり早かったですね。
近藤市中自体は、
アップル自体は最初からLANでつなぐっていうのがあって、
コンネットっていう、
ネットワークを最初から持ってたんですよ。
ただそれを活用してるところはほとんどなかった。
Windowsマシンでそれをやろうとしたら、
相当高度なことをやらなきゃできなかったんだけど、
なんか簡単に、
24:00
いわゆる電話線のケーブルでつながって、
ネットワークが作れたっていうのがあって。
それを想定して、
これからはそういう時代だろうと思って。
それで入れた時は、
ネットワークが張ったんですね。
そう思うと今の仕事というか、
扱ってるものは全然違いますよね。
全然違いますよね。
だから逆に、
社長くんの時代のほうは、
お金取れたっていうのはありますよね。
そうか。
価値が高かったと。
そうですよね。やれるところが少ないというか、
専門家的な部分。
今はもっと一般的になってきてる。
もっと誰もできるっていうかね。
当時だってハガキだって、
ちゃんと活字っていうかね、
一枚組んで打つっていうことで、
じゃあ一枚5000円もらえますとか。
はいはい。
そうですよね。
それくらいの価値はありましたからね。
本当そうだと思います。
やろうと思えば個人で、
フォトショップ使って、
AIで使って、
全部やるっていうのは。
だから手作業の時代、
いわゆる写職を手打ちして、
印刷に印字してっていう時代は、
一文字直すのは大変ですよね。
だから相当原稿を周到に作って、
もらわないと。
今みたいに、
とりあえずこれで打っといてみたいな。
そうか。
一字加えるだけで、
前後をずらしていかないといけない。
そうすると打ち直しするか、
手で一字ずつずらやすいみたいな作業が。
そうか。
仕事っていうもの自体の感じが変わってきてる。
例えば今言ったら、
スマホにも使うというか、
みんなそっち行っちゃってたりとか。
例えば若い子って言ったら、
大学生とか、
これしか持ってないみたいな人の中にいる中で、
ここに情報を出していくっていうことを
考えていかなきゃいけなかったりとかってなると、
仕事の感じが変わっちゃってますよね。
たぶんね。
そうか。
本当そうだと思います。
あと動画に行ってるとか、
そういうのは。
ただデザインの基本的なところ、
例えばインパクトのデザインは
あるいは綺麗なデザインとか、
そういったところは、
その辺の価値観は変わらない。
そうですよね。
グレーはないんでしょうけど。
ただ作業的なところ、
作るっていうところでいくと、
相当省力化っていうか、
満点がかかったのか、
満足感がかなくなっちゃったっていうのは。
そうですよね。
それはいいのか悪いのかって言ったら
ちょっとわからないですけど。
いいんじゃないですか。
非常にいいかもね。
後ほどにできないし。
ただ当時は当時の良さは確かにあったかもしれないけど、
絶対的にいいですよ。
だって簡単にできるし、
表現の範囲が広がってるだろうし、
27:00
いろんな可能性も増えてきてるし、
マイナス面ってほとんどないじゃないですか。
デジタル化とか、
デジタル化したいときに
デジタル化したいときに
デジタル化したいときに
デジタル化したいときに
デジタル化されたことによってですね。
最初はね、
30年のときだから、
84年か85年くらいかな。
小港に内浦山県民の森ってのがあって、
そこにステージができたんですよ。
その子犬落としでコンサートがあったんですけど、
その子犬落としでコンサートがあったんですけど、
それを企画してたのが、
僕同級生で
ウエストコーストっていうお店を
ユウカダンとか、
センチメンタルシティロマンスとか、
加藤豊彦さんとか、
そうそうとあるメンバーを
2日間のライブやったんですよ。
2日間のライブやったんですよ。
それのスケットで来てね、
お手伝いで来てねって言われて、
3日くらいも
3日くらい前から
泊まり込みで
手伝いに行ったんですけど、
それをなかなか
思い出に残ってるけど、
なんだかね、
プロモーションが足んなかったのか、
宣伝が行き届いてなかったのか、
宣伝が行き届いてなかったのか、
わかんないんだけど、
お客さんそんなに入らなかったし、
2日目は雨降っちゃったり、
ちょっとコンディションよくなかったんですけど、
だけどとにかく、
希望って、
出てたメンバーも
すごい面白かったし、
その子はお手伝いしてたんですけど、
その子はお手伝いしてたんですけど、
竹山に
竹山に
ニューマミーっていう
ジャズバーがあって、
そこでも、
月1で
ジャズのライブやってて、
そこでポスター作ったり、
お手伝いしてたんですけど、
まあ 音響は 割と自前というか ちっちゃかったんで
特に音響使ってやる 本当の生音で ほぼね
ボーカルは ちょっと ボーカルは マイクで拾ってましたけど
他の音は ほとんど生音で できちゃうような感じでやってて
そこは 立山の だから なんていうんですかね
音楽カルチャーの…
ああ
発信みたいなことがあって
それが 85年代の半ばから 90年くらいまでかな
20年近く やってたと思うんですけどね
ああ そうなんですね
これは 非常に貴重なライブだったんですよ
ちょうど ニューマミーっていうのがあって
それから ニューマミーの マスターと一緒に
ちくらの昇降会青年部が
30:00
ちくらの港のとこに 漁村センターっていうのがあって
2階に 100% 300ぐらいのホールがあったんですよ
多目的ホールですね いわゆる 会議ができたりとか
そこで ジャズのコンサート
あれも 10年ぐらいやったわけです
ああ そうなんですね
それで その後 その時は 音響っていうのは
立山に揃ってる方が いらっしゃったんで
その方に任せてたんですけど
コンパクトでやった時に やっぱり予算取れないわけですよね
ああ そうか
それで
やっぱり 機材を自前で揃えて
少しは自分たちで できるようになったほうがいいよね
っていうところで やっぱり揃える
揃えてっていうところから
揃えて なんとなく素人ながら 音響のほうもやるようになった
それから 2003年に
ちくらでサンバのイベント やろうよっていう人が現れて
それで そのサンバのイベントを
ちくらサンバフェス…
何だっけな これ
ちくらでサンバのイベント っていうのを始めたんですよ
これがまたすごいイベントで
ちょうどちくらの港のところに
にあげ場って古い建物があったんですよ 木造のね
本当 世界遺産になるっていうぐらいの 建物があって
そこの場所がいいんじゃないかっていうので
山本っていうのが
松戸のサンバチームがあって
そこのサンバチームがちくらに来て
イベントして
それから藤井光一さんっていう
ウシャコダっていうバンドでボーカルやって
サックス吹いて ウクレレ弾いてっていう
藤井光一さんという人が弾き入る
リトル・ジャイブ・ブーツっていう バンドが出て
セットで大体出て 盛り上がるという感じでやって
第1回目の時はちくらの商店街を サンバがパレードしたんですよ
あ そうですね
そこのチームはあそこ
浅草のサンバカーニバルに出てますけど
パレードするという画期的なことも やりましたよね
通行止めして
まだその頃ちくらの商店街って 元気だったんですよ
今はほとんどシャッター通りになっちゃって 寂しい限りなんですけど
その頃はまだ商店街の人たちが 手伝ってくれて
33:01
1キロまでないかな 600メートルかな パレードしたんですよ
結構ね
じいさんばあさんもちょっと見に来てね
ばあさんがサンバのダンスを見ると 手を寄せて
観音様が来たんじゃないかって 思ってね
拝んでましたけどね
そうか
それはなかなかいいイベントだったですね
今でもちょっと検索すると 出てきますよ
ちくらサンバが
見てみます
なかなかその時できた 藤井さんが作った
オンダラでヤンベーヤっていう 曲もあるんですけど
それをうちのほうでビデオ撮って 編集して
今YouTubeに上げてるんです
これがなかなかね 後藤一孫グップ歌で
なかなかいい歌ですから これ
ちくら オンダラでヤンベーヤで
オンダラでヤンベーヤって
オンダラでヤンベーヤ
だからオンダラって 防臭弁で
それもオンダラわかりますね
ヤンベーヤって
ヤンベーヤ
オンダラでヤンベーヤって
やろうやっていう
そうです
というのが出てきますから ぜひこれ
のこのこ すごい秀逸な
歌詞も秀逸だし
よくこれね さすがプロだなっていう感じで
うまいとこついてますよ
聞いてもらえばわかります
最近思うのは やっぱりね
自分もなんか70になったから
で 引退しようかなとかね
そろそろリタイヤかなとか 思ってたんですけど
そんなことも言ってらんないなっていうのが
実は自分の中にあって
もうひと踏ん張りしなきゃな って思ってるんですよ
70の前にはもういいかな的に
70に行きたいかなって 思ってる気持ちがあった
そうそうそう思ってます
なったら なったらなったで
いやいやっていう感じ
いやいや まだまだ頑張らなきゃいけないなっていう
ただね もう違うステージ みたいなのがあるわけですよ
若い時はあんま考えないで ガムシャミンやったり
30代 40代だったり
周りには 例えば先輩だろうが
同じくらいの年齢であろうが 下であろうが
30 40ってそんなにね 間の歳だから
上も下も関係なしに付き合って
みんな同世代だ みたいな気持ちがあったり
最近はもう70になるとね
やっぱり自分たちの息子くらいの世代って
40代近辺の人たちと
20代の人たちと
世代ギャップみたいなのが当然あって
その中に入ってやっていこうっていうのは 結構無理があるなとか
もちろんそれは付き合い切れないわけですよね
付き合い切れないっていうのは 世代的なギャップっていうよりも
36:00
彼は体の世界があるから
そこに踏み込んでいくっていうのもなって
それはね ちょっと引いちゃってるっていうよりもね
やっぱり違うなって 違い感が
違うなっていう感覚は若干持ってるんで
違うステージで自分が自分なりに頑張らなきゃな
っていうところは思ってます
今だからできることみたいなことが 強いですよね
あとは年関係ないなっていうのがあって
確かに体力が劣れてくるんだろうし 体が豊かくなってくるんだろうし
頭もボケてくるんだろうけども
その年代なりのやり方
だってストンズだって80近くなってね
いや ほんとそうですよ
リランだってやっぱり それは未だもってね
現役やってるから
やっぱり生涯現役って考えてものをやっていかないと
急速になんかが劣れちゃうようなことも あるかもしれないですね
そうですね なんか張り合いみたいなやること
やるべきことがあれば そこに向かっていくけど
ないとって
確かにね リタイアしてのんびり暮らして
あるいは自分の好きなことしかしないとかね
そういう生活もある意味では 少数的かもわかんないけど
お金があったらそれでできちゃうかもしれない
お金だとそんなにないし
そんなにいろいろ見るとできないし
やりたいことはまだいっぱいあるし
70歳になったからってか
これからあと10年ぐらいは 頑張ってみようなとは思ってます
やりたいことはほんと山ほどあるんですよ
それは自分の趣味的なところでもあるし 仕事でもあって
小中学校時代にビートルズやローリングストーンズを聞き
リアルタイムでロックの盛り上がりを 体感していたというお話
そしてさまざまなミュージシャンを呼んで ライブを開催し
南暴走の音楽カルチャーの発信をしていたということ
そして70歳になった今も
まだまだやりたいことは山ほどあるとおっしゃる川名さんに
たくさんのお話をいただきました
川名さんありがとうございました
それではまた次回 結城直さんの聞く人ラジオでお会いしましょう
38:54

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