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チョロっとラジオ。家族になるってどういうことの4回目、最終回ですね。
前回まででいろいろお話ししてきたんですけども、
家族同士で、各々がいろんな立場を持っているという認識をした上で、
家族という関係性を認識するのが、家族という強い繋がりになるんじゃないかっていうところで、前回終わったんですけども、
いろんな立ち位置があるよっていう中で、これが家族っていう括りが、
私にとって、僕にとって必要なとか大事な関係性なんだって認識されると、家族になるっていう一つ強い意識になるんじゃないかなと思ったわけですよ。
そうね。親は親の立場。子供は子供の立場。そして旦那は旦那の立場。
妻は妻の立場。それぞれがあって、一番その中でわかりづらいのが、やっぱり今、女の人も外で働いていることが多いから、旦那が外で働いている大変さはわかると思うよね。
なんだけど、やっぱり一番わかりづらいのは子供の立場なのかな。
そうね。
親だからいろいろ経験してきて、これをやったら危ない、これをやったら大丈夫、こうやってやってって覚えるのにそれはダメよっていろいろ思っちゃう。
でも子供は子供の中で、親が知らない人間関係もあり、そして子供はその経験をまだ積んでいない。
そして一番違うのは、今、学校の環境も自分たちが育ってきた環境とは違うこと。
その中で親と子供のギャップでどうしてもズレが出ちゃうってことかな。
そうなんだよね。例えば子供が学校に行ってますと、学校というコミュニティでいる子供と家族というコミュニティの中にいる子供って別の立ち位置にいるわけじゃない?
それをさ、前回の立ち位置、視点の話だと、親という視点のままで子供の学校にいる子供の立ち位置に入っていくと、それコミュニティが違う、イコール立場が違う人が入ってきたって、その文脈で話せないじゃん。
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だから個人として、俺の学生時代とか、学校での生き方はこうだったけど、お前どう?っていうのだと、学校というコミュニティの話になるから、ちょっと歩み寄った感じがするんじゃない?
それが視点の変化っていう導入としては入りやすいんじゃないかなと思ったんだよね。
昔と違ってね、たぶん私や小松くんが育ってきた環境とすごい大きく違って、親が自分たちの恋愛のことに関して入ってくることって少なかったじゃない。
相談に乗るとか、今はそれこそ娘の彼が家に遊びに普通に来たりとか、そういう家も多いし、もう好きなんだけどどうしようかな告白とか、親と覇親とそんな話を普通にする親もいるし。
この間、今年の年末年始、お父さんがやってる音楽のプロデューサーの家で過ごすんだけど、そこのプロデューサーの息子さんが中3なんだけど、彼女を連れてきて年末年始、彼氏の家で過ごしてるんだよ。
今言った通り、多いのよ。
マジか。
マジマジ。
俺、大学になってから初めて彼女できた。
今、幼稚園生からだからね。
ね。
そうよ。
っていうぐらい違うだろうけど、立ち位置はね。
親の立ち位置はそれで結構変わってきてる人もいて、もう友達のような親子がすごく増えている。
その中で、やっぱりそういう人たちは問題なく家族。
みんな家族だから、そうやって手をつなぎ合いながらうまくやってるんだよね。
でも家族になってない人は、うまくいってない人は、やっぱりそこの話ができてなかったり、相手がどういう状況かも分かっていないから歯車が噛み合わなくて。
で、じゃあ子供と親が、じゃあ母親がうまくいかなかったら、母親と父親が相談できればいいけど、時にそこで喧嘩しあっちゃって、より歯車がおかしくなっちゃったり。
まずは喧嘩じゃなくて、じゃあどうしようかって話し合うこと。
それが大事なんだけど、なかなかそれがそうなるとうまくいかなくなる。
その時にはとにかく本当に話を聞く。
ある総理の岸田さんじゃないけど、聞く耳を持っているって。
聞くっていうのは、ただただ耳を傾けるだけじゃなく、ちゃんと自分の心に落とし入れる。
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ちゃんと自分の中に入れた上で、ちゃんとそういうことねって分かった上で話をする。
それが聞くっていうこと。
ただ相手の話を聞いてますよって耳から左に抜けました。
じゃあ聞くことじゃないから。
聞く力、聞く漢字二つあるじゃないですか。
聞くと耳へとね。
耳への聞くって、やっぱり注意深く聞くっていう意味になっていくんだけど、聞くって強要いるよね。
知らんもんは知らんっていう態度で、強要ある態度じゃないよねってなっちゃう。
あと余裕がないとできないんじゃない?聞く側に。
あのね、私が心がけることは一つだけ。
親もプライドを捨てる。
それはあるね。
プライドを持って接してしまうと、聞く力も、もちろん今小松君が言ったことも、全部無理なんだよね。
そんなものを全部脱ぎ捨てて、一対一の個人、だって別人なんだもん。他人なんだもん。
それで話し合った上でうまくいけば、絆がつながる。
ゲームでさ、ジョブチェンジとかあるじゃない。
それをやる感覚に近いよね。
そうかもしれないね。
結局ほら、家族の親って子供を育ててきたっていうプライド、実績があるわけじゃん。
それがプライドになって、俺は正しいとか、親が正しいっていう観念になると思うし、
例えば社会に出て、稼いできて、当然育ててるわけ。
それが金銭的な実績があるから、プライドになってくると思うんだけど、
個人っていうステータスにジョブチェンジしたときに、そんなないよねっていう。
何やってきたっていうのが、プライドを捨てるってことに近いのかなって思う。
大きな一例で言うと、うちの親は本当に古風で固くので、
自分のやってきたことが正しくて、自分は親に言われたことはダメだと言わればやらなかった。
それが正しいという人。
どちらかというと抑え込みにかかってしまう。
本当に昭和古風だ、いいえ。
ところがうちの旦那の実家は、これをやりたい、どうだ。
反対する前に、じゃあやってみな、私も見るから。
じゃあ私も一緒に見てみるから、いいよ、じゃあやってみてってやらせてみる。
それでダメだったら、ほら危ないって。
これがこうだからこれ危ないよね、じゃあやめなさいって。
それで何かがあって自分で怪我しようと、自分の責任だからねって。
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ちゃんとそこまでやった上でやっていくのが旦那の実家。真逆なんだけど。
どっちがやっぱり親子関係が今もずっと繋がりが強いかというとやっぱり旦那の実家なんだよね。
何でも話をするし、びっくりするぐらい仲いいもん。
例えばよく教育論でもないけど、教育の仕方として子どもに学ぶみたいなことがあって、
子どもに教えてもらうみたいなことをすると子どもが喜んで学問を学んでいくみたいなやり方もあるんだけど、
それって最初ポーズでもいいからそういうふうなことをやってみると意外とスッといけたりするもんね。
そうだと思う。
よくほら孫にね、おじいちゃん、おばあちゃんがポケモンを教わってるもんね。
あるあるある。
進化をね。
そうそうあるある。
結局全部覚えさせられるっていうさ。
それで覚えてないとね、孫にいろいろ言われちゃうのね。
あれも結局そうだよね。
例えばおじいちゃん、おばあちゃんスッと孫と同等とか孫の下に入っていけるじゃない。
あれもだからいわゆるプライドとかを、視点を変えやすい余裕があるからね。
そういうのは立ち位置的にスッといけるっていうのはあるんだろうね。
そうだと思う。
やっぱりそれで考えると、昔の家、各家族じゃなくって、
おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に住んでる家っていいよね。
そうね。
やっぱり。
今俺も喋って気付いたけど、今各家族で完全に俺たち考えてたじゃない。
親子。
そうだよね。
おじいちゃん、おばあちゃんだっているし。
ひよおじいちゃん、ひよおばあちゃんご存命の場合だってあるし。
そこまで含めるもんね、考え方としてはね。
そういうふうに、世代がたくさんで一緒に仲良く過ごしているってなると、
ちゃんと年齢がいった目上の人は助けてあげようって思うようになるし、
お互いがもう、じゃあ私が動くとか、
みんなが勝手な役割が何も言わずにもできていて、
それでスムーズにできると思うんだよね。
そんなちっちゃなちっちゃなゴメ事がないような気がする。
ものすごく自然な社会の拡張を認識できる感じ。
そうなんだよね。
今、結婚しないとか、じゃあ子供がいないとか、各家族とか、
やっぱりそういうのが増えていると、何が生まれているかって思いやりのなさ。
本当に他人に対する思いやりのなさ。
じゃあ、こう街を歩いていました。
私なんかでも気をつけるんだけど、子供ってどこまかするのが当たり前。
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どこかで転ぶのも当たり前。
でも誰かにぶつかっちゃった時に、子供は自分の目線で歩いているから謝れない。
親がごめんなさいってその人に謝れば終わっちゃう子供だもん。当たり前。
なんだけど、謝れない親が増えているんだよね。
昔ならそこにおじいちゃんおばあちゃんがいて、ごめんなさいって言ったり、
ちゃんとそうやってやって、それを見てみんなが言うようになるとか、
ちゃんと背中を見てみんなが言ってくるんだけど、
それがないからどんどんそういうのが薄れているんだよね。
不寛容っていうのは、ものすごく社会的な空気としてあるよね。
だってほら、公園で子供の遊び声がうるさいっていう話は、
それはもう不寛容の極みじゃん。分かりやすく。
じゃあどうせ一周年っていう話で、学校の公園のうるさい時は。
家族っていうお題で今回やってきたけど、
一番思うのは、みんな自分の家族は大事に思うかもしれないけど、
他人に対してどうなんだろうね。
やっぱり家族の中で、家族同士がそれぞれに別の立ち位置があって、
人間的な不完全な話をしちゃうとややこしいんだけど、
少なくともいろんな側面を持っているんだっていうことを認識すれば、
それは他の社会に出た時に、
誰もがいろんな側面を持っているんだっていう認識になるわけじゃない。
その中で少なくともここの家族という共同体関係性というのは大事なんだっていうことを認識できれば、
やっぱり家族というつながりは認識として強固になるよね、とは思っている。
本当に家族として強固になる家が増えれば、
今ボランディアとかいろいろ外でもやる人増えてるけど、
そういう温かな人がどんどんどんどん和が広がっていくんだろうなと思うんだね。
やる人とやらない人との差がすっごい増えちゃっているから、
そういう一つ一つの小さな家の中の家族という単位で、
それを大切に温かいものにして、
その和が少しずつみんなで広がっていくのが一番いいんだろうな、理想なんだろうな。
そうすると結局、そういう認識が生まれるためにはコミュニケーションしかないし、
それはやっぱり心がけ次第で、時間とかイベントとかに限らず構築はできるよ。
お互いがコミュニケーションを取ろうとすると、関係性は強固になっていくので。
そうね。よく思うのよ。犬とか猫とか見てると、
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あ、この子たちを見習いたいって。
無邪気に笑って、無邪気に楽しんで、無邪気に寝て。
私たちは働いたり、他のいろいろ悩みがあるからそこに加わってきちゃうけど、
でも根本そうやって家族は、家の中に戻ってきた時はみんなそうやってできれば、それが幸せなんだよ。
他のことは全部、ああ嫌だった、家に帰りた、嫌だった、
私たちの隣だったら、ああもう嫌だね、お酒入んか、あとだったら、ああもうこれか、
それでみんなで笑って話せれば、それが一番いいんだよね。
そういうみんな家族になれるといいね、こまつくんもね。
バツが一ですけどね。
おー、バツ一男、モテるんだから。
いやいや、それがね、いいやこの話は。
今回のエンディングみたいな感じですけど、今回お題が家族ってどういうこと?っていうことなんですけど、
寛容さっていうかね、ものすごいチョロキュウさんのペットの犬にものすごい手をなめられてる。
これ愛です。
コミュニケーションだからね。
愛です。
コミュニケーションを取ろう。
心理的安全性を目指して、個人としてコミュニケーションを積極的に取ろうという感じですかね。
いいたとえですね。
そうね、一個だけ加えると、韓国の知り合いの人に昔言われたことがあって、
韓国人の方が家族のつながりは強いよって言われたの。
今最後にふっと思い出したのが、その先のおじいちゃんおばあちゃんじゃないけど、各家族家じゃないけど、
やっぱり座主上の人はちゃんと立てるっていう頭があって、他人であっても自分より目上の人はちゃんと立てるっていうものがある。
まだね、授業がね強いからね。
日本人はそれが少ないよねって、なんであんな風に親にできるの?って言われたことがあって、
私がしたことのことで言ったわけじゃないけど、
あ、そうなんだなって。
それを考えると、日本人の家族に対する考えっていうのが一体何なのかなって、
今こう話してても、それぞれが家族って何なのかな、どう思ってるのかなって、
私にはまだわからないから、みんなが考える機会になってくれればいいなって思う。
そうですね。
なんだかんだ家族って大事。
一人になって一人ぼっちになるより、
二人だったり三人だったり、それが一緒に暮らしてなくても離れていても、
家族がいるって幸せなことだから。
そうですね。
そう思うんだ。
小松くんも家族を作って。
余計なお世話だ。
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おばあさん、非常に人形かけなんて言ってない。
こんな可愛いのもいるし、ハムスターでもいいし。
相棒って選択がある?
もうないよ。
相棒ない?
もうない。
うそー。
この辺全部カットします。
だと思った。
第1回目はこんな感じですかね。
では次回もお楽しみに。
またねー。
どうもありがとうございました。