1つ目が、知性を放棄した意志による教育。
2つ目が、ワークショップ化する社会。
3つ目が、何だっけ?
ゆっくり、落ち着いて、リラックス、人って書いて飲んで。
上演としての教育。
公開収録だからね。緊張しちゃってね。
ちょっと指が今、すごくマイナス50度ぐらいに触れてるんで。
消滅。
嘘嘘、全然触れてない。
じゃあ、そのキーワードに沿って内容を触れていっていただいて。
うーんだね。
うまく説明できるかな。
一応、星野さんのことなので、教育。星野さんも教育に興味ありますよね。
あります。
ですよね。
超あります。
だから、ちょっと泣きかけながらいきたいなと思うんですけど。
怖い。はい。
じゃあ、1つ目。
お願いします。
知性を放棄した意思による教育って何のこっちゃって話ですよね。
気になるよね。
いろんな仮説を立てつつ、こういうことかな、こういうことかなって思ってますけど。
ぜひ仮説。
一応、いきなりだとあれなんで。
渡辺健一郎さんとこの著者の方、いろんなフランスの哲学者の方の参照されてて面白かったんですけど。
ここは、ジャック・ランシエルっていうフランスの1940年生まれ、今も生きてらっしゃるんですけど。
無知な教師っていう本があるらしいんですよ。
無知な教師。
そこから使って話を展開されてるんですけど。
なかなか面白かったのが、教師と生徒っていますよね。
いますね。
教師が生徒に知を、知識を伝えていく、教えていく。
でも、無能なものを必要とするのは説明家であってその逆ではないって言うんですよ。
無能なものを無能なものとして作り上げるのは説明家である。
説明家で教師側ですよね。
生徒が何も知らないから、知らないやつでしょっていう風にするのが教師だって言うんですよ。
そういう知の格差を作っちゃうっていう。
なるほどって思ったんですよ。
そうだよなって。
あんたはバカだ、理解できないっていう設定をするから教師と生徒っていうのが、今のというかフランスもそうだったのかもしれないですけど。
教部の教室はそこで成り立っている。
なるほど。
なるほどとまた思ったんです。
このジャック・ランシェールさんは、教師の知性が生徒の知性を従わせる、これを愚鈍化って、これはいかんって言うんですよ。
この状態は良くないっていう、そんな話がまずあるんですよね。
先生が生徒を愚鈍化するってことかな。
なるほどね。
知識とかの、お前は知らないだろうっていう立ち位置を取る。
この構図構造がまずおかしいんじゃないかと、ジャック・ランシェールさんは言ってるらしいんですよ。
何、そんな笑ってるんですかね。
わかりますよ、でも。
そこのね、この構図、この関係性に慣れてしまうと、生徒の子たちが考えなくなっていったりとかっていうこともあるのかもしれない。
これを愚鈍化って言うのかなって思いながら聞いている。
そんな感じですね。
で、さっきのキーワードが知性を放棄した意思による教育っていうのは、この知の格差っていうのを、これあかんぞとダメだと。
でも意思の格差はあっていいって言うんですよ。
簡単に言うと、教育っていうのを知性と意思にまず分けますと。知性と意思に。
教師の意思、情熱って言ったほうがいいかもしれないですね。
学ぶのはいい、できたみたいな思いで生徒を従わせるのがいいなと。
でも知識でお前知らないだろう、俺が教えてやるよっていうこの差はいかんぞと。
なるほど。
愚鈍化だからダメだって言うんです。
なるほど、なるほど。
教師が生徒に対して学ぼう、でも学ぶべき何かについて私は知らないっていう、そういう態度で言ったほうがいい。
自分は先生自身が無茶学んでるとか、すごく楽しいとか、背中で見せるに近いのかもしれないですけど、それで意思を示す、情熱を示すのはOKです。
結果何を学ぶかは、それはもう生徒の自由ですよ。
自由というか任せますよ、何を学んでるかとか、そこから学ぼうとしているかはもうお任せですよっていうそんな話なんですよね。
なるほどね。今聞いてて思ったことで言うと、生徒側から学ぶための動機っていうものを奪ってしまうのが先に言っていた構図なわけよね。
そうですね。動機とかそれ以外の学びとか知識っていうのを教師が教えたことが正しい知識になっちゃう感じですかね。
もうちょっと生徒が学び取るものは、生徒側に選ばせたりとか意思を持って取らせたりするような余地とか動機とかそういう、何て言うのかな。
そうですね。星野さんも公開収録でちょっと世帯で。
もうさっきからずっとおじっこちびってるかも。
今ちょっと軽く鼻笑いをいただいた気がしますね。
よかったですね。ありがとうございます。
すっきり笑ったんじゃなくて、このオフィス汚さないでっていう。
そうかもしれない。
まあまあ、そういう生徒側の主体性を奪っちゃうかもしれないっていう、そんなイメージみたいですね。
ここから2つ目のキーワードもちょっと繋がっておくんですけど、結局ハラスメントって大きいじゃないですか。
パワーハラスメントですよね。格差があることによって教師が生徒を従わせるみたいな。
それダメってなるじゃないですか。
でもこのジャック・ランシェルさんはその生徒と教師の意思の格差はいいって言うんですよ。
知識で定義をつけちゃうのはよろしくないけどって、ここが一つのポイントなんですよね。格差はその意思による差はあっていいっていう。
意思っていうか情熱ですよね、彼氏側の。それはあっていいんじゃないか。じゃないと成立しないでしょっていう感じだと思うんですよね。
意外だね、そこはね。意外というか、今のと知識の差があるから先生なんだみたいなイメージがあるけどさ。
この人はとてもよく知っているから学びに行こうってなりそうな気がするけど、違うんだね。
ピンコンプロジェクトでちょっと出てきたのは、教習所、自動車教習所の教官は先生なのかどうかみたいなのが出たの覚えてますかね。
覚えてます。
たぶんあれを出したのは内田達郎さんとかなんですけど、そこら辺を絡んでくるんじゃないかと思うんですが、やっぱり自動車教習所の先生って全員じゃないと思いますよ。
基本的に基準があるわけじゃないですか。ここまで教えることがある。教えなきゃいけない。それを超えることはやらないわけですよね、はっきり言うと。
ずっと同じことを繰り返して教えていく。多少変わるかもしれないですけど。だからジャック・ランシエルさん的に言うと、自動車教習の教官さんは先生とか教師じゃないんですよね。
たぶん情報の伝達者って感じですかね。
なるほどね。情報の伝達者は先生じゃねえんだ、教師じゃねえんだ。
ジャック・ランシエルさん的に言うとね。
はいはいはい。
もちろん全然そうじゃない方もいらっしゃるかもしれません。この定義が正しいかっていうのもまたありますし。
それを提唱されたってことね。
学びを学び続けていく人なんですよ、たぶん。が先生なんですよ。それが学びに到達点はないけど、やり続けてってその情熱を示し続ける人が先生なんでしょうね。ジャック・ランシエルさん的に言うと。
知識を教えるんじゃなくて、姿勢を見せろみたいな、影響をしろみたいなことなのかね。
いいなと思いますね。そこによる格差はいいんじゃないかっていう話。
その差がないと、情熱の差がないと教育は成り立たんぞみたいなことまで言ってるってことなのかな。
そこまでは僕は読み取れてないし、もしかしたらジャック・ランシエルさんの本とか読んだらまた違う書いてあるのかもしれないですけど。
教育学に2つの大きな衝撃、インパクトがあったっていうふうに渡辺健一郎さん言うんですよ。
1つが風光インパクトっていうやつですね。
ミシェル風光。
ミシェル風光、フランスの。
それ何かというと、これ僕もいつも言っちゃってるんであれなんですけど、
学校の教室を考えてもらうと、前に先生がいて、生徒がずらっと30人とか前を向いて座らされてると。
この状況がある。これ自体は、既立訓練型権力を発揮しているという。
生徒は先生に見られてるかもしれないんで、ちゃんとやらなきゃいけない。
で、自分の行いとか言動とかをより良きものにしていこうとする。先生に合わせてですね。
それっていうことは結局、教師の裏側には教育委員会とか文科省がいて国がいるっていうバックがいるんで、
結局その権力者に通合のいいことを身につけていく生徒を生み出す装置じゃないかっていうのは風光インパクトなんですよ。
なるほどね。
これはダメだと。
で、それ故に1970年代後半から90年代、我々が小中ぐらいだね。
脱学校教育論っていうのが教育学で展開されたらしいですよ。僕知らなかったんだけど。
えー。
家中に学ばされてたのを僕自分は知らなかった。
知らないよね。
知らないよね。
知らないですけど、学校じゃダメなんじゃないかってことでしょうね。
はいはいはい。
で、その次に2つ目のインパクトがグルーズインパクトっていうのがあったみたいで、
これは風光インパクトって古いんじゃねえかと、そんな非効率的なことやってんじゃねえよっていう話なんですよ、簡単に言うと。
そんなことで、風光インパクトの場合、先生が生徒を見てる、そこで個々人がとはいえ反省したり何々しながら成長していく機会を作るっていうことだと思うんですけど、
そんなことは時間かかるし効率的じゃないんで、人々をデジタルデータで把握管理する方が権力者、国にとって便利じゃねえって。
で、それをあずまひろきさんが環境管理型権力っていうふうに名付けたらしいんですけど、もうそっちになってるよって言ったのがグルーズインパクトらしいんですよ。
もう個々人の成長とか何だかんだじゃなくて、もう管理しちゃえばいいっていう行動を。
例えで書いてある一つアリだなとは、例えば飲酒運転しちゃダメよっていうのが元々の教育。
それに対して飲酒運転は別にしてもいいけど、したら捕まえますよってたくさんパトカーで張り込みをさせたり、
例えば居酒屋から出てきたらスマホで管理して車運転できないようにするとか、
そういうのが環境管理型能力。だから人間の中身なんてどうでもいいよっていう教育になってきてるんじゃないかっていうのがグルーズインパクトです。
なるほどね。パノプティコンみたいな?
が風向ですね。
それが風向?
風向。管理して、観光の管理みたいな。
なるほど。
でもそれをやると人間ってなんだよって話してるじゃないですか。機械と一緒じゃねえって話してるじゃないですか。
もう個々人の考えとか関係ねえってなると思うので、管理すればいい。デジタル化させるってことなんで。
今だよね。
うん。
起きつつある。
起きつつある。
そこからまた、やっぱり教育って大事だよねってなったらしいんですよ。だからこそデジタルデータに化する人間じゃおかしいよね。
でも風向インパクトって前の教室の前にいて生徒たちを見るスタイルはおかしいっていう議論を通っちゃってるんで、じゃあどうしようかってなってるのが今らしいです。
なるほどね。
渡辺健一郎さんの見立てで言うとですね。
はいはいはい。
なるほどと。教育、興味あったけどわからなかったんで、なるほどなと。これが正しいかどうかわからないですけどそういう見立ても一個あるんだなと。
なるほどなるほどなるほど。
まあね、いろんなこう螺旋階段を登っていくんでしょうけど、じゃあこの反対側に行って次はどんなね要素の変化を進化を遂げた風向インパクト的なものになっていくかって話はね。
あるかもしれないですね。
ちょっと余談ですけど、去年の夏ぐらいかな、埼玉県の九木市の中学校でリストバントをつけて脈絡を図って生徒たちの授業集中度を一括管理するっていうのが話題になったんですよ、ご存知?
中学校?
中学校、九木市の埼玉県の九木市の和忍宮中学校って言うんですか?
公立かな?公立でそのことできるのかな?
実験的にやってらっしゃるし、IT企業が提案して。でもものすごい議論になったんですけど、むちゃダメですよねっていう感じ僕は思いましたね。
集中度を測るんですよ、常に。管理されて、集中管理してて、校長掴み入れて、あれ1年3組の和忍くん集中してないな今って言ったらビートされてビビビビってなるんですよ。
ビビビビ、まあとはいえ、その暗所にはなるんだね。
で、それを見て君、授業集中度低いよね。成績下げるよ。みたいな話なんですよ。
集中度まで測れちゃうんだ。
脈絡なんで、たぶん、すごくゆったりしていたら、たぶん寝ているとかいうことだと思うんですけどね。
サーバー管理みたいなやつとかね。
まずデジタルデータですよね。
ホントだね。
一応言い分としては、それによって教師の授業の質も上げましょうみたいな話なんですよ。
集中度が高い授業を作りましょうねっていう話なんですけど、その後どうなったかわかんないですけどね、取り組みが。
おもろいけどね。
いやー、やばいと思いますよ。
ゲームとしてはいいかもしれないですけどね、それをずっとやったら、だってずっと生徒起きてなきゃいけないですよ。
ずっと起きて、だって集中力がないって見なされたら、成績表に何か書かれるんですよ。
あなたはこんだけ見てください、この数値を、つって。
平均値ここに対してこんなにも低かったと。
どんだけゆったり授業受けてんだと。
焦れと、とかなるんでしょうね、きっとね。
なんかそんなのもあったり。
でもそんな感じでさ、生徒の集中力がうちの授業はこんなに高いです、みたいなさ。
データとして使えるから予備校なんかとかはいいんだろうね。
かもしれないですね。
親としては素晴らしいって思いやすいよね。
それが成績に結びつくかちょっとわかんないですけど、緊張感を与えるだけのかもしれないですよ。
わかんないですけどね。
なるほど、そんなのあったんだね。
その後どうなったのかわかんないですけど、結構いろんな議論を読んでると思いますね。
面白い。
さっきの中島さんというかワークショップする社会に行くんですけど、
今の技術問題の話は超横道なんで、最初のキーワードにもつながるんですが、
結局格差が良くないって話じゃないですか。
その教師と生徒の間、部活動なんか考えるといいですね。
監督と生徒、ここのパワーハラスメントダメだよねって論じゃないですか、今。
権力の格差。
格差。やらせるとかダメだと。
それより生徒の主体性を引き出していく。
で、教師とか監督指導者は後ろの方に静置なさいっていう。
後ろから見守りましょう。
で、支えてあげる。
とはいえ、その前のタイミング、前の工程とかね、そもそも社会の雰囲気自体の部分とかで、そこに逆らえない圧力みたいなものを生んでるっていうのはあるだろうけどね。
例えばね、ファシリテーションとかを、地元の公民館とか、ファシリテーションをやります、参加した人は来てくださいでやるんだったら全然それ成り立つと思うの。
でも授業の中でそれやってっていうのは成り立たないよねっていうね。
そうですね。
今は参加っていう話だったんで、地元の公民館とかあったと思うんですけど、自発的に参加した時であっても、
その場で起こっていること、ワークショップの中で起こっていることで、
なんかこうあると思うんですよ。発言する自由、発言しない自由みたいなのあるって言ったら結局喋らなきゃいけなくなると思うんですよ。
前向きにチームのワークに参加したい人は、以前の僕みたいなのは疎開されちゃうんで、やらなきゃいけないってなると思うんですよ。
はい。
っていうのはまずあると。それを渡辺健一郎さんは自由促進型権力って言うんですよ。
そういうことだね。
自由があるふうに振る舞っているけど、本当に自由はないのにっていう状況が繰り返されていく。
それはワークショップっていうのが、ハラスメントを回避するっていう中で生まれてきて、
そういうロジックがすごく広がっているんじゃないかっていう、見せかけの自由みたいな感じですね。
ロジカルにハラスメントをなくすための進め方だね。
形状はハラスメントしてないけど、ダブルバインなので、本音ではやれよって言っている感じかな、言わせたり。
これ日本じゃなかったらまた違うと思うけどね。
かもしれないですね。日本ならではなのかもしれないですね。
ならではだと思いますね。
かもしれない。かもしれないですね。
面白いね。自由を尊重するという態度をパフォーマンスするポジティブな権力って書いてあるんですけど、自由促進の権力って。
そういうのを僕は個人的には感じちゃって、そういう場に。
コーチングとかもそうですし、ワークショップ的なものも。
なんかしっくりこないなーみたいなのがあるよね。
わかりみ。とってもわかりみ。
結局のところコーチングにしろ、こういうワークショップにしろ、羊は日本の文化じゃないんだよねきっとね。
そうですね。アメリカとかじゃないですかね。
そっちである程度理論立てられたものを文化的背景の動花ライズ的なものをある程度はしてるんだけどね。
でこっちに持ってきてるから、なんとなく頭では理解する。そのロジカルにはわかるけれども、腹ではわからんみたいな。
あると思いますね。
だから日本型この場の作り方みたいなものは、もうちょっとこうさ、三日三晩飲むみたいなやつ。
同じ闇鍋をとか。
闇鍋食うとかね。そういうことになってくるような気もするね。鍵盤状作るとかね。
日本人って特に裏表というか、本音と縦まで使い分けること多いじゃないですか。
それはとてもネイティブにやるから。
いい時もあると思うんですけど、綺麗事ばっかりになるワークショップっていうのもあるんでしょうね。
なんとなくそれっぽいことをしてる風に見えちゃうっていう。俺はそれっぽいことをしたぜ!みたいな満足感もあるけどね。
渡辺圭一郎さんも別にワークショップ全否定はしてなくて、
でも自分が今日のファシリテーション良かったぜ!とか、一部の人が盛り上がったワークショップほど、他の参加者にとって超嫌だった。
嫌な経験が、そういう可能性が非常に高いんじゃないかっていうのは感じている。
はいはい。
そうかもなーって。
なるほど。
これがワークショップ化する社会に対しての継承というか。
そうですね。
これもちょっと横道だけチラッと行くと、野球の一郎さんっているじゃないですか。
若い人はちょっとわかんないかもしれないけど、一郎っていうバッターがいて。
名選手です。
名選手ですよね。
で、なんか最近その優しさという残酷みたいなことを結構言ってるみたいで。
一郎さんが?
一郎さんがな。
それに近いこと。
いろんな全国の高校とかを回って教えてるらしいんですけど、今は指導者が厳しく言えないとハラスメントになっちゃうんで。
でもそれって結局自由だよって言いながら、選手たちも自分たちで考えて動かなきゃいけないっていうことが実は大変だって言ってる。
やらされないから。
だから差はできるだろうし、それって実は選手にとって全然優しいことじゃないよねみたいなことを言ってる記事としては書いてありました。
ここ今出て、今後出てくるだろうねって思うよね、その辺り。
そう思いますね。
会社のマネジメントなんかとかでも多分そうだよね。
結局のところ優しすぎるところが人気出ないもんね。
多分。
それよりもある程度厳しく言ってくれて能力伸ばしてくれるところの方がと思うね。
キャリア関係で言うとゆるブラック企業って一時期というか、少し前から早く言葉として出てきてるんで。
ゆるブラック。
ゆるいからこそブラックっていう、何にも身につかないってことですね。
なるほどね。自主性に任されちゃって。
きついこと言わない、きついってか指導がないってことですよね。
あなたの好きなようにやってくださいって言われると、やること仕事ねえみたいな。
お前はどうしたいんだ、ブラックみたいな感じ。
そうですね。難しいですよね、これほんとね。
なるほど。
ワークショップ化する社会とか自由促進型権力の全部否定ではないんですけど、危険性があるよっていうのは認識しといたほうがいいんじゃないか。
だからこの1個目の気軽に戻ってちょっと理解できるところがあるね。
そうだと思う。
今の話がね。
なるほどね。だから先生が何でもかんでもOKだよとか、あなたと私とは対等であるよという状況からでの教育っていうのは結構難しいんじゃないかっていう話がね。
危険じゃないかっていう。
ある程度格差付けたほうがいいし、その格差付けるポイントは知識じゃなくて情熱であるべきじゃないかと。
ないかと。
なかなか難しい。
仕事でも多分そういう話だよね、きっと。
かもしれないですね。
より楽しんで仕事をするための工夫に労力を占まない人が上司にいたら、部下はそこの情熱とか意思を見習って、自分も仕事に向けての姿勢を学んでいくかもしれない。
かもしれない。
それがね、仕事だけじゃなくて生き方全般ですごい全力で遊んでる先輩が会社にいる、そしたらそれに刺激を受けて、そういう人生の楽しみ方あるんだなって気づけるかもしれない。
かもしれない。
でも手取り足取り、土曜日は釣りに行って、日曜日はこれしなきゃいけないんだよって教えられたら嫌だなって。
いい時もあるかもしれないですよね。
そんなのはちょっと違うんじゃないかって。
もうね、肩から入ったほうがいいのかみたいな話もあるしね。
これはちょっと非常に難しいなと思いながら、理想論かもしれませんけど、一つ頭に留めておいてもいい考えかなとは思いますね。
頭に留めておきましょう。
というところで最後のキーワード。
もうですか。
もう。
話し足りないところはぜひ。
いい塩梅というか、なかなかたっぷり話しております。
カットカットが続きそうですが。
三つ目のキーワードは。
上演としての教育ってやつですね。
これもちょっと難しい話かもしれないんですけど、難しいというか説明しきれるかちょっと不安なんですけど。
じゃあ教育とか演劇の上演って考えた時に、ものすごい難しいじゃないですか。
ワークショップダメだ。
知識で格差をつけるんじゃなくて情熱意志で格差をつけろって、むちゃ難しくねって思うんですよ。
はかれん。
どうやるんだっていう話で、そんなのを教師全員にやれとか。
上司全員にやれとか、親全員にやれって、常にやるって無理だと思うんですよね。
した時に一つの回答というか考え方として、
教育も舞台もその頃限定されているその場での上演だよって、正確に解釈できるかわかんないですけど、引いてみなさいね。
ちょっと距離を置いて客観的にやってみましょうやっていうことが、上演都市の教育だと思うんですよ。
ここからは、ジャン・リュック・ナンシーさんという渡辺健一郎さんが、大学院時代に研究テーマとした、この人フランスの哲学者みたいですね、の話になってくるんですけど、
キーワード一つ目二つ目で言ったのは、教育とかワークショップとかの危険性ですよね。
ハラスメントとか風光インパクトとか、危険性を回避するために何すべきかというと、教室とか舞台の上の世界に完全に投水しないこと。
引けと。
舞台上で演じられた、教室の中で話された内容が正しいものだと、それだけが正しいものだと、思い込まないこと。
当たり前の話なんですけど、そこがまず大事なのだろうかと。
やっぱり自分なりに解釈すると、上演とか学校での教育っていうのも、一つの演ためっていうふうに考えてもらえばいいと思うんですよ。
一つの、別にお楽しみくらいでいいと思うんですよね。
劇だと。
劇だと。それが終わっちゃえば、別にそれに引きずられることないっていうぐらいに思えばいいんじゃないかなと思うんですよね。
うまく演じたぞと。
そう。演じてる側も、見てる側も。そこでやっぱり非対称性ってすごい大事だなと思うんですけど。
同じ舞台にいたら同じ演じをしなきゃいけないじゃないですか。生徒と先生が。
同じ設定の中でね。
一緒になって頑張っちゃう。そこの世界を守るために演じちゃう。
なっちゃうんで、だからこそ演じる人と見てる人っていうのは分けなきゃいけない。
そしたら見てる方はあいつバカだなと思った人は別にそれ、あの教師の授業、演劇つまんなかったよねって思えばいいわけじゃないですか。
一緒にいたらよくするために頑張んなきゃいけなくなるから、ここの差はつけなきゃいけないっていうのはすごく納得するんですよ。
なるほどね。
でもその授業は、その教室の1限目の授業はそれで終わり。2限目は別の先生が別の情熱で語れば企画できる。
ヒューマンがそんな感じだと思います。
なるほどね。横道タイムでさ。
はい。
インプロっていう話よ。多分中野さんとかもでしょうね。
インプロでね、演者と見る側って必ず分けてやる。
全員参加でのインプロとかしなくて、必ず観客側作ってやるんだけど、それを何度か交代してやっていくんだけどさ。
これが大事なんだよね。あの人たちのルールを旗から見てる人たち。で、やる側もそれを意識しながらやっていくっていう。
なんかでも、すごい冷めた味方にはなるけどね。
そう思いますね。変なことやってるなみたいな。
自分ね。
でもやっちゃおう。これはなぜなら劇だからみたいな。
うーん。でも今大島さん言ったインプロみたいな感じですかね。
ね。とはいえその冷めた視点っていうものをある程度持っておいた方が安全だよみたいなことなのかも。
これ僕パッと思いついたのが野球のワールドベースボールクラシックでしたっけ。
はいはいはい。そうですよね。
たかがランニング。
今僕、超市民ランナーなんで別に。
超市民ランナーってすごいことだね。
超市民ランナーってすごいことだね。
超市民ランナーって普通の市民ランナーなんですごく平凡な別になんかあるんですけど。
超市民ランナーっていい言葉だと思ったよ今俺。
そうですか。
プロ市民ランナーってことでしょ。
そんなそうじゃないかもしれない。プロだったら市民ランナー当たるべきはみたいなのあるかもしれない。
でもプロの市民ランナーみたいな人いますよ。競技力でいうとですね。
はいはい。
プロ顔負けみたいな人たちもいますし。
そうそう。顔負けになっちゃうとまたあれで。
でも自分の方は多分市民ランナーとして置くみたいな話。
市民ランナーって言っていいのかな自分。
それさえも怪しいでしょ。
それ言ってたら怪しいです。
年間30万円食ってみて癒やしてるんだったら大丈夫ですよ。
今やってない。
そこまでやったら。
はい。
学校の話とか経営の話とかしてましたけど家庭でも全然起こり得ると思うんですよね。危険とかって。
子育て。
家事もそうだと思いますし。
ちょっと危険性を認識しないとね。子供に自由だって言いながら自由を与えてない。
子供なんか全然自由じゃないですからね。
知識の格差で従わせようとしている。
むしろ力づくですからね。
もしくはお菓子を開けていい権利で従わせるっていう。
全然自由じゃないよね。
そうですね。全部やるのは無理だと思うんですけど、それがずっと繰り返されると分裂病になるとか変わるよね。
そうだね。
さっきのダブルバインのところが面白いなと思ったの。
お母さんが愛しているって思いたいけど実は嫌いだみたいな場合。
子供がいるじゃないですか。3歳の子がいて、例えばですよ。
こっちにおいで抱きしめてあげるって愛情を示そうとするけど実はすげえ嫌だみたいな。来てほしくなる。今仕事で忙しいから。
来た時にそれは伝わっちゃうとか。
そうね。部下と上司とかでも、いつも話しかけてこいよって言いながらパソコンから目を離さないやつでしょ。
みんな大事にしてるよって言いながら、あいつお前嫌いだみたいな。
そうなると良くないみたいですね。でもそういうの起こり得るしな。
起こり得るよね。なるほど。でもそこで自由なんだね。
自由っていうのは、一瞬目の話に戻っちゃうかもしれないですけど、特定の自由があるっていう感じじゃなくて、その場その場での自由に向かう姿勢みたいなものがあると。
でもそれも、今目指した自由が明日同じ自由、必要な自由かわかんないから演じられるっていう、その場の演じられる限定性っていうのを持ってやっていきましょう。
自由に到達することはできないからっていうのが結論というか、最後の話の中でもね。
なるほど。
完璧な自由とか上演とか教育はできこないんだから、そこに向かおうという姿勢が大事、スタンスというか。
今手元に持っている材料とか情報から導き出される世界には、その場ではこだわれようみたいな。
どこかで手放すっていう必要もあるっていう。
そんなバランスだね。
難しい話だなと思いながら。
すげーバランスだ。
難しいなと思いながら。
これこそ分裂病になった。
今日の自由でやって、明日の自由で。
そこまで極端にはいかないと思うけどね。
でも書くタイミングごとにそこら辺のリセットとか作り直し、自分の中での定義し直しみたいなことっていうのは必要そうだね、思った。
なるほど。
ここからも完全カットな話なんですけど。
ちょっとだけ沼地先生って知ってます?
沼地先生って知らないかな。
どういうの?
40代の附属小学校の先生で、変わった教育をして話題になった人がいるんですよ。
30代か40代くらいの男性の教員なんですけど、沼地先生って言うのかな?
沼地って言われてるらしいんですけど、小学6年生の子供たちが、自分たちでお金を稼いでいろんなコンテストを出してですね、
お金を稼いで帝国ホテルで卒業パーティーをするみたいな。
リムジンに乗って行くみたいな。それを実現しましたよみたいな。本も出してた。
小学6?
小学6。それをどうやってやったのかみたいな。子供の主体性を発揮させた先生みたいなことで。
しかも資本主義だ。
資本主義。
沼地って学校であるじゃないですか。日本の学校。それみんな嫌だからダンシング掃除をさせるんですよ。
踊りながら音楽をかけて、2分間僕見たんですよ。YouTubeで。
子供たちが変に踊りながら、イエーイってやりながら掃除してるんですよ。きびきびと。
きびきびと。
楽しそうに。
今月は例えば数学について無茶苦茶勉強したら、数学マスターライセンスを発行する。
それ1ヶ月終わりなんで、翌月は何か目指しましょうみたいな。
子供たちが小さな資本主義社会を生き抜く術を教えるという先生がいるんですけど。
すごくもてあわされてて、本を読んだんですけど、しっくりこなくて。
こういう本を読んでると、結局主体性って言いながら、自由奪ってんじゃないかって思うんですよね。
性を持ってる子はいるだろうね。
多分いる。
6年1組のクラスは沼地先生。2組は違う先生だから全然違うらしいんですよ。
周りからバカにされたりもするけど、最初ダンシング掃除なんて恥ずかしいって言ってるけど、一回やってみなと。
やらなくてもいいけど、一回やってみたら楽しくなるよみたいな声掛けをするんですって。
さっきのダブルバインドだと思うんですけど。
学校ルールと仲間ルールと。
でもそれやらなかったら沼地クラスでいくと仲間外れになっちゃう。
打ちあごがね。なんだよみたいな。
嫌われるわけですよね、沼地先生から。
なんだあいつ。やるしかないじゃないですか。
小さな世界でなってるんじゃないかなって思ったんですよね。
一見すごくいい話なんですけど、とっても主体性を伸ばして、小学生がいろんな何とかビジネスコンテストに応募して、
お金稼いで何十万稼いでみんなでリムジンの平行ホテルに行ってパーティーをするとか。
そうそうじゃないですか。
そうそうだね。