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2024-08-25 31:51

「暑いのに、今更ながら救い論」2024年8月25日(日)のメッセージ

東京ぶどうの木教会 2024年8月25日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄 
▼教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com

▼メッセージの自動文字起こしはこちら https://listen.style/p/tokyovinechurch

(聖書) エフェソ2:8、9事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。9.行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。 
マタイ7:21「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。

メッセージ題 : 暑いのに、今更ながら救い論 (エフェソ2:8,マタイ7:21)
*皆さんは、何のために信仰生活していますか?天国ですか、神を愛しているからですか?信仰生活で救いより大事なことはありません。このような救いに対して「既に得てますよ」軽んじる

 1.今日は、いまさらながら救い論について。 御存じですが、なぜ私たちに救いが必要ですか?

*創世記3章の事件によって、神様ではなく悪魔に属しているから。また生まれるすべての人は悪魔の支配下に生まれるから。そのままであるなら罪の罰、呪いから逃れず死んで地獄に行く!そのような束縛から人間は自ら自分を救うことができるのか、できません。そして神はヨハネ3:16イエス・キリストが私たちの身代わりで十字架で贖罪の死を!この恵みを信じて悔い改めると、聖霊が来られ罪を清め新たに生まれさせ神の子供、天国に。これが救い、これから救いの生活を*救いに対して律法を守る私たちの努力は無意味、ガラテア3:10 すべての律法をいつも?無理

*イエス・キリストの十字架と復活による救いの御業は、神様の方法、隠された神秘Ⅰコリント2:7#問題はこのように得られた救いを失うことがあるのか?例えば)ルカ23章の右の十字架の強盗。救われてすぐ天国に行くなら!しかし私たちは、救われた後もこの世に。悪魔の誘惑、自由意思。事実、初代教会の大問題。信じた後、信仰を捨てる?今の私たちは?ヘブライ6:4-6の警告にも

 2.キリスト教の救い論に対する二つの大事な教理が・・・「カルバンの教理とアルマにアンの教理」

*カルバンの5大教理? 1)全的堕落、全的無能力、ローマ5:12-21 2)無条件的な選択、ローマ4:4-8 3)選択された人だけの特別贖罪、エフェソ1:4 4)不可抗力的な恵み、ローマ8:18‐39 5)聖徒の牽引、Ⅰペトロ5:10 =まさに、予定論、牽引論! *アルマ二アンの5大教理 1)堕落はしたけど自由意思はある 2)予め分かって選択された 3)キリストの贖罪はすべての人の為 4)人を救う為の聖霊の恵みを自由意思で拒否可能 5)救われたとしても救いを失うことある

=ウェスレはアルマ二アンに近い。では、どちらが正しいですか?すべて聖書を通してなのに#ここで注目するべきことは?どの救い論を信じるかによって・・・後の信仰生活に影響がある!又どちらを選ぶとしても、自分の教理にあわない聖書を、無視、捨てる傾向がある。黙示録22:19

 3.ですから、私たちの教会は、不完全な教理で、救い論を問うのではなく、聖書と聖霊によって!

*パウロが教えた救い論、エペソ2:8,9と異なる、パウロが教えた、フィリピ2:12・・・どんな意味?義とされたって救いが終わったのではない。救いは天国に入るとき終わる、従って油断しないで救われた目的に忠実にせよ。Ⅱコリント5:15イエス様の為に、イエス様に見習っていきなさい!

#どんな人がそのような救いの生活が可能なのか?地獄にいく自分を救ってくださった神の恵みに感謝する人だけが教理に縛られないで、いつでも主を愛し、主との親しみの中で聞き従うので!@今は最後のとき、ノアのときとロトのときのようであると!その特徴?←そのしるしで満ちている。もっと大事なのは個人の終わり。油断しないで、フィリピ2:12をもって、主を畏れる心、慎む心で

00:00
今日は、「暑いのに、今更ながら救い論」という。 私は日本語正しいでしょうか?
今更ながら救い論という題を持ってメッセージを分かち合いたいと思います。 じゃあ、
みなさんは何のために信仰生活しますか? 信仰の目的は何ですか?
天国に入るためですか? 神様を愛するからですか?
正直に考えて、神様を愛しているから、 だから私は信仰生活するんだということは、やっぱりレベルがあるんですね。
たぶん一番わかりやすいのは、地獄に行きたくない、天国に行きたい。 それがとにかく素直に一番わかりやすい信仰の目的ではないかと思います。
私たちは神様の恵みをたっぷりいただいて、これから信仰生活して、神様を知っていきながら、
ああ、神様、こんな素晴らしい神様を私は信じることができてありがとうございます、 ということは自然にできるでしょう。
とにかく、私たちの信仰生活で救いよりもっと大事なことはありません。
ところが、こんな大事な救いのことに対して、
私はエースを信じているよ、だから救いの問題は問題ない、大丈夫だと。
非常に軽々しく考え、またそれを喋っていることを見るときに、私はたびたび恐れを感じます。
ですから私は今日暑いのに、今更ながら救い論という内容を持ってメッセージを分かち合いたいと思います。
皆さんご存知ですけど、私たちなぜ救いが必要なのか、みんなご存知ですから、
創世紀3章の事件があったんですね。 人間が善悪の知識の木の実を食べて、罪を犯して、
神様との関係が切り離されてしまいました。 神様との関係がダメになったら、私たちは第一要年3章8節、悪魔に直します。
ですから、現在の故に、生まれるすべての人は悪魔の支配から生まれます。
私たちのかわいいかわいいサクちゃん。 サクちゃんを助けなければ、サクちゃんは悪魔の支配のままでずっと生きるようになります。
これは大事なんです。 そのまま生きるなら、
罪の罰、悪魔の支配、呪いから逃れることができなく、
死んで地獄に行ってしまいます。 ですから私たち一生涯、
03:01
100年人生が与えられた理由、これは、
極端に言えば、救いを得るために、私たちは100年の人生を過ごしています。
100年、頑張って頑張って救いを得よう。 そうするなら、人間の運命的な束縛から、
人間自ら自分自身を救うことができますか? 人間はいくら努力しても、
罪から、罪の問題解決できません。 悪魔の支配から逃れることはできません。
自分が努力するんだって、呪いから逃れることできますか? できません。
だから、弱音3章中6節、神様は私たちを愛して、
私たちのために一人子、イエス・キリストを、 救い主としてこの世に送ってくださいました。
イエス・キリストが十字架で、私たちの身代わりとして、 私たちを救うために血を流してくださった。
その恵みを信じることによって、信じて、救いを改めることによって、 私たちの罪を清めてくださり、
その清くなった人に、命の精霊が来てくださって、 私たちを生かしてくださり、新たにしてくださり、
神の子供で、また天国を受けるようにしてくださいました。 これが救いです。
この救われた、この後救われたものとして、 キリストのうちで、神様との共に歩む生活をすること、
これが信仰生活です。 救いに対して立法を守る私たちの人間の努力は、
神様の前で何の意味もありません。 なぜなら、ガラリア三書中節に、
立法を守る行いによっては誰も気にならないと言います。 じゃあ、立法を守る行いで、祈祷されるためには、
私が生きている一生外、立法一つも犯さなきゃいけない。 立法一つでも犯したら罪人です。
99歳まで一回も罪を犯したことがない人が、 100歳の時に一回罪を犯したとしても、その人は罪人です。
地獄に行かなきゃいけない。 だから自分の行いによっては、
祈祷され天国に行く人は誰もいません。 それをわかっておられる神様が、
イエス・キリストの十字架の恵みを通して、 信仰によって悔い改め感謝する私たち。
私たちを正しいと言われ、神の子供にさせてくださいました。
じゃあ、これからはなぜ私みたいな罪人を、 イエス・キリスト同士で救ってくださったのか。
06:03
その神様の御胸をして、私たちの残された人生、 主の御胸通り生きること、これが大事です。
その間また弱さによって罪を犯してしまったと言うなら、 再びイエス・キリストの十字架の恵みを覚え、
悔い改めてイエス様の恵みによって許され、 また主の内で、主の愛を通して、その中で留まること、
これが私たちの信仰で一番大事なことではないでしょうか。
このようなイエス・キリストの十字架を通した 人類の救いの御技、これが神様の方法です。
第1コリント2章7節には、これは今まで隠されていたもの、 隠された神の知恵であり、神の神秘だと言っています。
救い論に対して一番大事なのは、 救い主は誰かということです。
私たちはイエス・キリストだと信じます。 それでしょう。だからキリスト教、私たちは教会に来ているのではないでしょう。
そこには意見がありません。
ところが問題は、このようにして救われた、 得られた救いを失うことができるかということです。
ここには意見があります。
イエス・キリストの十字架の恵みによって 救いをいただくということには意見がありませんけど、
救われた後、この救いを失うことができるのか ということには様々な意見があります。
もし私たちがイエス・アマの十字架に、 右と左の高塔、そして三輪の十字架、
カルボリンのゴログワタの丘で三輪の十字架がある。
右の高塔のように、 悔いを改めてイエス・キリストを受け入れたら、
そしてその時、直ちに死んで天国に行ったら、 救いは分かりやすいんです。
イエス・アマの右のところの高塔はこう言います。
我々は自分がやったことの報いとして 十字架にかけられたから、当然だ。
しかしこの方は何の罪もない。
イエスよ、あなたの御国においでになる時に、 私を思い出してください。
その時、イエスははっきり言っておく、 あなたは今日、私と一緒に楽園に行く。
楽園は最後の裁きの前の行くところ。 それが天国に行く。
楽園と天国、黄泉と地獄、同じ意味を持っていることです。
救い主イエス・アマにこのようなメッセージをいただいたら、
これは救いの救われたのに違いがないでしょう。
ところが、イエス・アマの右のところにかけられた高塔と、 私たちの違いは何ですか。
09:03
彼は救われて直ちに天国に行ったんですけど、
私たちは救われた直ちに天国に行くんじゃなくて、 救われた後もこの世に残されています。
何か意味があって、私たちがやるべきことがあって、 この世に残されているでしょう。
この世に生きている間、相変わらず私たちは 悪魔の誘惑を受けるしかない。
また、相変わらず私たちの心には自由意志があります。
だから、神の御胸に従って生きるよりは、 自分勝手に生きようとする心があるんです。
そして見れば、誘惑を受けて罪を犯す可能性が高い。
また、信仰から切り離される可能性もあります。
このように、救われたと言いながら再び罪を犯し、 過去の罪の生活のところに留まってしまえば、
せっかく恵みとしていただいた救いを 失うことがあるんじゃないかという、
そこに私たちの問題があります。
事実、これは諸大業界の大きな課題でした。
イエスサムを受け入れた人たち、キリスト者が、 ローマの迫害が怖くて、
信仰を捨てますという人がたくさん現れたからです。
また、諸大業界には、パウロが国を述べ伝えて、 正しい信仰を受け入れて信仰生活する人が、
偽りの人たちが、教会に、 偽りの預言者たち、先生たちが、
教会に入ってきて、偽りの福音を捨てて、 偽りの福音を信じて受け入れて、
正しい信仰から離された人が、 たくさん現れたからです。
これが諸大業界の悩みでした。
今、私たちはどうですか。
私たちには迫害はありません。
私たちは何があるんですか。
肉の欲、目の欲、この世の奢りという誘惑が、 私の心の貪りと合わせられて、
この世を愛し、お金を愛し、 そして、いつかはユダのように、
バラモン預言者のように、アカンのように、
信仰から自分自身をこの世に愛して離れてしまう人たちが、
可能性がある人が、たくさんいるということです。
ですから、ヘブライショー記者は、 このように言っています。
ヘブライショー6章4節から6節。
一度、光に照らされ、天からの頼ものを味わい、 精霊に預かるようになり、
神の素晴らしい言葉と、 来るべき世の力を体験しながら、
この後に堕落しても、
皆さん、こんなことを体験しながら、 この後堕落する人がいますか?
12:02
言ったんですよ。
ローマの迫害が怖くて、 信仰を捨てる人が現れたんですよ。
そのような人たちは、再び悔いを改めて、 信じることが難しいということを、
ヘブライショーで、ヘブライショーの記者が言っています。
なぜなら、神の子を自分の手で改めて、 十字架につけ、
神様のイエス・キリストを侮辱するから、 ということを言っています。
怖い話ですね。
このような状況を見ながら、 救われたという人たちが、
その後、信仰を失うことができるか、 という疑問が生じます。
皆さんはどう思いますか?
これと関係して、
キリスト教の救い論の中で、
2つの大きな救い論に対する行為があります。
皆さん、ご存知ですか?
カルバンの救い論と、 アルマニアンの救い論です。
私たちは、みんなカルバンの救い論しか 分かっていませんね。
なぜなら、バーフティスト業界、 長老業界の出身で、
そこにはすこりを信じるからです。
しかし、他の行為もあるんだということを、 ぜひ理解していただきたいと思います。
カルバンの救い論、簡単に申し上げましょう。
5つの行為があります。
はじめは、人間の全的な堕落と、 全的無能力。
2番目、その中で救われるべき人の、 無条件的な選択。
3番目、キリストの十字架は、
その選択されただけの人に対する、 制限的、特別な職材だ。
キリストの十字架は、 全ての人ためじゃなくて、
選ばれた人のためだけの職材、 制限的な独特。
4番目、選ばれた人は不可抗力的な恵み。
その招きを逆らうこともできない。
聖霊様は必ずその人たちを導く。 キリストに導く。
5番目、これは問題ですけど、 神徒の牽引ということです。
一度選択された神徒は、 ある時堕落する可能性があったとしても、
究極的には必ず救われるということです。
ですから、これをカルバンの救い論を、 予定論、牽引論、引っ張っていく、牽引論と言います。
これをご覧ください。
一度救われたら、永遠の救い。
牽引をしたとしても、 必ず天国まで連れて行くということです。
安心ですね。一度救われた人の安心。
ここに反駁して、 アルマニア主義の救い論があります。
15:03
この救い論は、人間は完全に堕落していない。
なぜなら、自由意志は残っているということです。
2番目、神様は人の心をあらかじめして、 その人を選択された。
3番目、キリストの十字架の食材は、 全ての人類のためだ。
全ての人のためのキリストの十字架だ。
4番目、精霊様は人を救われるために、 恵みを施すんですが、
人間はそれを十分に拒否することもできる。
自由意志があるから。
5番目、一度救われた人は、人も過ちをしたら、 救いを失うことも可能。
ここ、怖いですね。
これがカルマン主義に対する アルマニア主義の広大・公論ということ。
イギリスのリバイバルの主役であった ヨアン・ウェスレー。
ウェスレーはアルマニア主義に近い 救い論を述べていました。
この距離をよく見てください。
救われたとしても、失うこともできる。
じゃあ、救われたら失うことはできない。
これはカルマン。
救われたとしても、失うことはできるから、 気をつけろよ。
ということは、アルマニア主義の救い論。
皆さん、2つの中で、どっちの距離が正しいですか?
2つの距離は全部、全て聖書に基づいて この距離が作られています。
ですから、2つとも正しいです。
キリスト教の歴史から見ていますと、 中世のヨーロッパには、
このような距離の問題によって、 教会が分けられ、
宗教裁判によって、お互いに殺し合う。
怖い、怖い話がたらきがあります。
その中で、結局、どんな行為に従うことによって、
パーティスト教会、長老教会、中福音教会、 これはカルマン主義を従います。
また、ウェスレイのメソディスト、 聖傑教ということは、
アルマニア主義の距離を採択しています。
そして、みんな自分たちが一番正しいと信じています。
多分、私は、信徒たちは、
これを、距離を知らないから、 教会に通っているのです。
信徒たちは、この距離を全部分かってから、 その教会に通っている人は、少ないですよね。
また、神様は、どんな距離を指示されると思いますか。
私は、ここで注視しているのは、
どの救い論を信じるかによって、
18:02
救われた後の信仰生活が、 異なる場合があるということです。
カルマン主義は、救われた、私たちは救われた。
どんな罪を犯しても、天国は行くんだと。
だったら、皆さん、油断しやすいです。
その後の信仰生活が、怠けにやりやすい。
救われたから、どのように過ごしても、 天国は行く、予定論。
また、牽引をするんだとしても、 天国には、あなたを引っ張っていくんだと言うから、
救いは終わったと思って、油断しやすいです。
罪を犯したら、後、悔いを改める。 いいでしょう、と言います。
だから、そのような考えを持っている信者たちを、 サタンがどれほど攻撃するでしょう。
ですから、事実、教会の中で、様々な問題がある。
世の中の罪が、全部、教会に入っています。
しかし、アルマニア主義は、救い論が厳しいです。
だから、伝道は非常に難しいと思います。
しかし、一度は信じたとしては、 信仰生活に油断することは難しい。
油断しないんじゃないか、ということ。
なぜなら、救われたと油断すれば、 救いを失うこともあるというから、
厳しいですね。怖いですね。
だから、その信仰は、やはり、あまり嫌じゃないですか。
だから、そこに入るのは難しいけど、
最後まで信仰を守る可能性は、 高いじゃないかと思います。
ところが、私は、どちらを選ぶんだとしても、
自分の行理に合わない聖書を無視するか、 捨てる可能性があると思います。
考えてみてください。
この世の中が無くなっても、 神の御言葉は、一点一角も変わりがない。
無くならないと言っているんじゃありませんか。
そのような御言葉を、神の御言葉を、 私たちは勝手に無視し、勝手に捨てる。
これ、ありえないでしょう。
牧師録21章の中級説を見ていますと、
このような聖書に加わると、 世の中の災いを加える。
このような聖書から取り除くと、
あなたは天国で受けるべき報いを取り除く、 と言われるほど厳しいメッセージがあります。
だから、聖書に加わることも取り除くことも、 私たちは絶対やってはいけません。
そこから見ると、私たちはどんな救い論を 教会が持つべきなのか。
カルマン主義に従うか、アルミヤン主義に従うか。
私は、不完全な教理に従う救い論を言うよりは、
聖書と聖理に従って、そこに戻って、 救い論を考えるべきではないかと思います。
21:08
ですから、皆さん、エペソー2章8節9節。
「事実、あなた方は恵みによって、 信仰によって救われた。
このことは、自らの力によるではなく、 神の頼むものです。
おこないによることではありません。 それは誰も誇ることがないようにするためです。」
そのように教えたパウルが、 エペソーもパウルが書いたと思うでしょう。
ピリッポの手紙もパウルが書いた。
パウルは何と言うのか。同じパウルですよ。
ピリッポ2章12節。
だから、私を愛する人たち、今も忠順であったように、 私が共にいる時だけではなく、
いない今も、なおさら忠順して、恐れおののきつつ、 自分の救いを達成するように努めなさい。
すでに得られたと言っているパウルは、 自分の救いを達成するように努めなさい。
何を言っているのですか。
きっと、された。
これで、あなたの救いが終わったことではない。
みなさん、救いはいつ終わりますか。
私たちが天国に入る瞬間、救いは終わりです。
だから、救われたとしても、救いは完成されていないから、
天国に入るまで、あなたの信仰が失わないように、 救いが失わないように、あなたはそこまで注意しなさい。
だから、パウルのように、達成するように、 努めなさいということなんです。
その間、私たちは、救いの目的は何かをよく、 神様はなぜ私を救ってくださったのか、
その目的をよくして考えなければいけないのですが、 それが、第二国連と交渉中口説です。
私たちのために、十字架で死んでくださった、 イエス様のために生きるため、
また、イエス様に従って生きるためだということです。
事実、救われたって、直ちに天国に行ってしまえば、 このような議論も、意味は要らないのですが、
相変わらず存在する悪魔、 相変わらず私の内にある自由意志に、
か、罪を犯しやすい、 また、神様から離れやすい可能性があるから、
私たちは、その誘惑に負けないで、 自分を下ろして、天国に入るその時まで、
油断しないで、特に悔い改めを熱心にして、
今日、大仰祈り、本当にその中身大事です。
悔い改めを熱心にして、主の中でとどまることを力をつけながら、
イエス様に御習おう、聖火と栄火の糧に至るまで、 私たちは忠実に行くこと、
24:07
これが信仰生活で大事なことです。
皆さん、どんな人が、最後まで油断しないで、 その信仰、救いを守り、達成することができますか?
その人は、私みたいに地獄に行く人を、 神の子供にしてくださり、
天国を与えてくださることを、 神様、ありがとうございます。
イエスキリストの恵みに感謝します。
その神の愛、主のイエス様の恵みを感謝する心で、 いつも過ごす人だけです。
救いの恵みを地獄的に覚え、感謝する人は、 距離に縛られることはありません。
いつも主を愛し、神様と親しい関係性の中で、 御声を聞き従う生活をするから、
その人には、聖霊様が強く働いて、 その人を引っ張って、引っ張って、助けて、助けて、
最後まで、救いを達成するところまで、 聖霊様が導いて行かれる、助けてくださるんです。
皆さん、私たちみんな、このような生活をして いらっしゃるのではありませんか?
そうでしょ?
私が一番心痛い思っている人は、 救われた、信じるんだと言いながら、
なぜ救いを与えてくださったのか知らなく、
相変わらず自分の欲のまま、自分の有益のため、 自己中心的な信仰生活をする人です。
皆さん、このような人たちは、信仰が幼いことですか? 初めから信仰が間違えたからですか?
そうしながら、私は救われたよと、 自信満々、天国に行くんだと油断して、
そこに安住しているなら、 私たちとしてはどうすればいいでしょう?
私たちは、イエス・キリストの十字架の恵み、 十字架のイエス様の功労によって、
その信仰によって救われました。 また、恵みに感謝する生活をすることによって、
私たちの救いの確実さを、みんなに表すことができるし、 大勢の人々を救いに導く、天国に導くことができます。
これが、神様が私たちを救われた目的であり、 神様が願われる、救われた人としての信仰生活ではないでしょうか。
今は終わりの時だと言います。 ルカの中七章では、最後の時はノアの時と、
また、ロッドの時と同じだ。 ノアの時はどんな時ですか。
家庭破壊、不倫、離婚の世界。 また、ノアの時の特徴は、ネピリムという人がいた。
27:04
皆さん、ネピリムはどんな存在ですか。 偉い人です。
今、アイドル。 世の中で、今、アイドルがたくさん現れています。
アイドルによる世界、それがノアの世界。 ロッドの時代の特徴は何ですか。それは、同性愛の時代。
今度、バリーオリンピックで、同性愛が世界的にどれほど勢いを持って、 勢力を持っている、盛んでいるのか。
全世界にテレビを通して、確実に見せてくれた オリンピックが、バリーオリンピックです。
もう、バリーオリンピックを見たら、今はソドム、ソドムの時代、 ロッドの時代だということを、世界が明らかに分かるように教えてください。
だから、今は終わりの時です。 本当にノアの時、ロッドの時と同じです。
ところが、世の終わりだけじゃ、人類の終わりのより、 もっと至急なことが、私の人生の終わりです。
今、私は70歳。 本当に身体が衰えていることは、皆さん、身体に感じてください。
今、私は70歳なのに、こんな身体が弱い。 だから、息子にいつも言います。
私は、いつどうなるか分からないよ。息子は、怖いと言うんですけど、 本当に本当に、後人の終わりが、いつ来るか分かりません。
今、皆さん、今、忌みなき清本さん、 もう1年前ですよ。
本当に、いつ、誰が、どのようになるか分かりません。 本当に、私が救われたことが正しいですか。
私に、聖霊様がおられるんですか。 そうするなら、
救われた。私は、どう生きれば天国に行くんだ。 油断するんじゃなくて、今も、
私みたいな罪人を救ってくださった。 神様、ありがとうございます。
神様のために、私の命を捧げます。 私を導いてください。という、この謙遜な心。
おそれを敬う心を持って、第一の言いましめ、何ですか。 神を愛すること。第二の言いましめ、隣人を愛すること。
そこに、神様の、私たちの心を精一杯、
尽くして、これからも、信仰生活するべきではないでしょうか。
特に、私たちの信仰生活の姿を見て、
これから信仰生活する、子供たち、理性たち、
皆さん、親の願いは何ですか。 私が天国に行って、子供は地獄に行く。
私が天国に行っても、喜びがあるんでしょうか。 子供は地獄にいるんで、天国に喜びがあるんでしょうか。
だから、私が天国に行くとしたら、子供も必ず天国に行くように、助けるべきではありませんか。
30:04
だったら、子供たちに、どんな信仰を教えたいんですか。 どんな救い論を教えたいんですか。
不完全な、どんな行為が正しいかわからない、 行為による信仰生活ではなく、
確かな、イエス・キリストを信じることによって、
また、イエス・キリスト様が私を救われた目的は何なのかをわかって、 そこに尽くしていく、そのような信仰生活。
天国に、民としてのふさわしい生活をするべきではないでしょう。
だから、私は福音書をよく読んでみますと、 イエス・キリストはどんな信仰をして救われるんだということを、
この救い論、単なる救い論を言ったことではなく、 救われた人としての生活、天国の民の生活を教えたんです。
ああ、イエス様はこのことが大事だと言われたんだ。
皆さん、もう一度考えてみましょう。エペソン28、 「事実、あなた方は恵みによって信仰に救われた。
これは、自らの力によることではない。神の賜物だ。 恵みによって救われたという御言葉と、
マタイ7章21節、私に向かって死をしようという者が、 みんな、天の国に入るわけではない。
私の天の父の御心を行う人だけが、入るのである。
私の天の父の御心は何ですか? それを行う人が天国に入るという。
その意味は、聖書には極端的な2つのメッセージがある。
どっちに偏るのではなく、両側全部合わせて、どっちに偏ることではなく、 全部2つを合わせて、
禁拒を取る。
31:51

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