100年人生が与えられた理由、これは、
極端に言えば、救いを得るために、私たちは100年の人生を過ごしています。
100年、頑張って頑張って救いを得よう。 そうするなら、人間の運命的な束縛から、
人間自ら自分自身を救うことができますか? 人間はいくら努力しても、
罪から、罪の問題解決できません。 悪魔の支配から逃れることはできません。
自分が努力するんだって、呪いから逃れることできますか? できません。
だから、弱音3章中6節、神様は私たちを愛して、
私たちのために一人子、イエス・キリストを、 救い主としてこの世に送ってくださいました。
イエス・キリストが十字架で、私たちの身代わりとして、 私たちを救うために血を流してくださった。
その恵みを信じることによって、信じて、救いを改めることによって、 私たちの罪を清めてくださり、
その清くなった人に、命の精霊が来てくださって、 私たちを生かしてくださり、新たにしてくださり、
神の子供で、また天国を受けるようにしてくださいました。 これが救いです。
この救われた、この後救われたものとして、 キリストのうちで、神様との共に歩む生活をすること、
これが信仰生活です。 救いに対して立法を守る私たちの人間の努力は、
神様の前で何の意味もありません。 なぜなら、ガラリア三書中節に、
立法を守る行いによっては誰も気にならないと言います。 じゃあ、立法を守る行いで、祈祷されるためには、
私が生きている一生外、立法一つも犯さなきゃいけない。 立法一つでも犯したら罪人です。
99歳まで一回も罪を犯したことがない人が、 100歳の時に一回罪を犯したとしても、その人は罪人です。
地獄に行かなきゃいけない。 だから自分の行いによっては、
祈祷され天国に行く人は誰もいません。 それをわかっておられる神様が、
イエス・キリストの十字架の恵みを通して、 信仰によって悔い改め感謝する私たち。
私たちを正しいと言われ、神の子供にさせてくださいました。
じゃあ、これからはなぜ私みたいな罪人を、 イエス・キリスト同士で救ってくださったのか。
その神様の御胸をして、私たちの残された人生、 主の御胸通り生きること、これが大事です。
その間また弱さによって罪を犯してしまったと言うなら、 再びイエス・キリストの十字架の恵みを覚え、
悔い改めてイエス様の恵みによって許され、 また主の内で、主の愛を通して、その中で留まること、
これが私たちの信仰で一番大事なことではないでしょうか。
このようなイエス・キリストの十字架を通した 人類の救いの御技、これが神様の方法です。
第1コリント2章7節には、これは今まで隠されていたもの、 隠された神の知恵であり、神の神秘だと言っています。
救い論に対して一番大事なのは、 救い主は誰かということです。
私たちはイエス・キリストだと信じます。 それでしょう。だからキリスト教、私たちは教会に来ているのではないでしょう。
そこには意見がありません。
ところが問題は、このようにして救われた、 得られた救いを失うことができるかということです。
ここには意見があります。
イエス・キリストの十字架の恵みによって 救いをいただくということには意見がありませんけど、
救われた後、この救いを失うことができるのか ということには様々な意見があります。
もし私たちがイエス・アマの十字架に、 右と左の高塔、そして三輪の十字架、
カルボリンのゴログワタの丘で三輪の十字架がある。
右の高塔のように、 悔いを改めてイエス・キリストを受け入れたら、
そしてその時、直ちに死んで天国に行ったら、 救いは分かりやすいんです。
イエス・アマの右のところの高塔はこう言います。
我々は自分がやったことの報いとして 十字架にかけられたから、当然だ。
しかしこの方は何の罪もない。
イエスよ、あなたの御国においでになる時に、 私を思い出してください。
その時、イエスははっきり言っておく、 あなたは今日、私と一緒に楽園に行く。
楽園は最後の裁きの前の行くところ。 それが天国に行く。
楽園と天国、黄泉と地獄、同じ意味を持っていることです。
救い主イエス・アマにこのようなメッセージをいただいたら、
これは救いの救われたのに違いがないでしょう。
ところが、イエス・アマの右のところにかけられた高塔と、 私たちの違いは何ですか。
これが信仰生活で大事なことです。
皆さん、どんな人が、最後まで油断しないで、 その信仰、救いを守り、達成することができますか?
その人は、私みたいに地獄に行く人を、 神の子供にしてくださり、
天国を与えてくださることを、 神様、ありがとうございます。
イエスキリストの恵みに感謝します。
その神の愛、主のイエス様の恵みを感謝する心で、 いつも過ごす人だけです。
救いの恵みを地獄的に覚え、感謝する人は、 距離に縛られることはありません。
いつも主を愛し、神様と親しい関係性の中で、 御声を聞き従う生活をするから、
その人には、聖霊様が強く働いて、 その人を引っ張って、引っ張って、助けて、助けて、
最後まで、救いを達成するところまで、 聖霊様が導いて行かれる、助けてくださるんです。
皆さん、私たちみんな、このような生活をして いらっしゃるのではありませんか?
そうでしょ?
私が一番心痛い思っている人は、 救われた、信じるんだと言いながら、
なぜ救いを与えてくださったのか知らなく、
相変わらず自分の欲のまま、自分の有益のため、 自己中心的な信仰生活をする人です。
皆さん、このような人たちは、信仰が幼いことですか? 初めから信仰が間違えたからですか?
そうしながら、私は救われたよと、 自信満々、天国に行くんだと油断して、
そこに安住しているなら、 私たちとしてはどうすればいいでしょう?
私たちは、イエス・キリストの十字架の恵み、 十字架のイエス様の功労によって、
その信仰によって救われました。 また、恵みに感謝する生活をすることによって、
私たちの救いの確実さを、みんなに表すことができるし、 大勢の人々を救いに導く、天国に導くことができます。
これが、神様が私たちを救われた目的であり、 神様が願われる、救われた人としての信仰生活ではないでしょうか。
今は終わりの時だと言います。 ルカの中七章では、最後の時はノアの時と、
また、ロッドの時と同じだ。 ノアの時はどんな時ですか。
家庭破壊、不倫、離婚の世界。 また、ノアの時の特徴は、ネピリムという人がいた。
皆さん、ネピリムはどんな存在ですか。 偉い人です。
今、アイドル。 世の中で、今、アイドルがたくさん現れています。
アイドルによる世界、それがノアの世界。 ロッドの時代の特徴は何ですか。それは、同性愛の時代。
今度、バリーオリンピックで、同性愛が世界的にどれほど勢いを持って、 勢力を持っている、盛んでいるのか。
全世界にテレビを通して、確実に見せてくれた オリンピックが、バリーオリンピックです。
もう、バリーオリンピックを見たら、今はソドム、ソドムの時代、 ロッドの時代だということを、世界が明らかに分かるように教えてください。
だから、今は終わりの時です。 本当にノアの時、ロッドの時と同じです。
ところが、世の終わりだけじゃ、人類の終わりのより、 もっと至急なことが、私の人生の終わりです。
今、私は70歳。 本当に身体が衰えていることは、皆さん、身体に感じてください。
今、私は70歳なのに、こんな身体が弱い。 だから、息子にいつも言います。
私は、いつどうなるか分からないよ。息子は、怖いと言うんですけど、 本当に本当に、後人の終わりが、いつ来るか分かりません。
今、皆さん、今、忌みなき清本さん、 もう1年前ですよ。
本当に、いつ、誰が、どのようになるか分かりません。 本当に、私が救われたことが正しいですか。
私に、聖霊様がおられるんですか。 そうするなら、
救われた。私は、どう生きれば天国に行くんだ。 油断するんじゃなくて、今も、
私みたいな罪人を救ってくださった。 神様、ありがとうございます。
神様のために、私の命を捧げます。 私を導いてください。という、この謙遜な心。
おそれを敬う心を持って、第一の言いましめ、何ですか。 神を愛すること。第二の言いましめ、隣人を愛すること。
そこに、神様の、私たちの心を精一杯、
尽くして、これからも、信仰生活するべきではないでしょうか。
特に、私たちの信仰生活の姿を見て、
これから信仰生活する、子供たち、理性たち、
皆さん、親の願いは何ですか。 私が天国に行って、子供は地獄に行く。
私が天国に行っても、喜びがあるんでしょうか。 子供は地獄にいるんで、天国に喜びがあるんでしょうか。
だから、私が天国に行くとしたら、子供も必ず天国に行くように、助けるべきではありませんか。