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2023-04-09 36:58

「神様は、生きている者の神」2023年4月9日(日)のメッセージ

東京ぶどうの木教会 2023年4月9日(日)主日礼拝のメッセージです。 牧師:アブラハム黄 
教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com

マルコ-27 復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。19. 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。20. ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで 死にました。21. 次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。22. こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。23. 復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょう か。七人ともその女を妻にしたのです。」24. イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。25. 死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。2 6. 死者が复活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。27. 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
神殿中心主義者と現実主義者の信仰
みなさん ヘッピーイスター、イスターおめでとうございます。
今日はイスターの礼拝として、神様は生きているものの神だというお題をもって メッセージを分かち合いたいと思います。
私は先週、私たちのメッセージのテーマは 杉越祭・十字架・生産式というお題をもってメッセージを分かち合いました。
そこで私が強調したのは、出自エジプトする時に 出自エジプトのきっかけになった
このエジプトの長子たちに対する災い。 エジプトのすべての家庭の長子、また動物のウイゴ
それは全部死にました。 しかしイスラエルの民は誰も死にませんでした。
なぜなのか、 イスラエルの家には神様から言われた通り
羊の血を県館のこのところに塗っていったからです。 だから死の死者が
血を見るなら、それから杉越をした。 それで杉越祭ということを守っていったんですけど
結局、羊の血を塗ったところが
災いから救われ、出自エジプトという奇跡的な見業が行ったきっかけになることでした。
考えてみますと エジプトの災いは
イスラエル人たちに対するそれはチャンスでした。 世の中の災いが
キリスト社たちにチャンスになるということは考えられますか? 先週私はメッセージを準備して、週の日の朝
もう一度メッセージを整理しているところで 神様が私に確かに言われたような気がします。
旧約のイスラエル人たちは 後一時の地によって災いを避け、そして出自エジプトの奇跡を行われたように
最後の時に来るこの世の中の望む災い 7つの封印の災い
7つのラッパの災い、7つの蜂の災いは イエス・キリストの十字架の地を塗ったところからは
それを全部私たちは逃れることができる。 それを災いからペースオーバーができるという感動がきました。
ですから私は先週それを皆さんに強調したことであります。 最後の時
イエス・キリストの十字架の地象が 私たちの心に塗られているのか
私たちの家庭にイエス・アムの血が塗られているのか また私たちの家族、私たちの教会にイエス・アムの地象がしっかり塗られているのか
勝利の鍵はそこにあるんだということを ぜひ覚えていきましょう。
ですから最後に行けばイコール 十字架によって生きるという私たちが一緒に学んだその部分を
ぜひ覚えていただきたいと思います。 そのためにイエス・キリストが十字架で死んでくださったことを覚えていきましょう。
復活を信じることの意義
では詩巡説が終わり、いよいよ今日はイエス様が復活されたというイースター礼拝です。
今日イースター礼拝のメッセージは神様は生きているものの神だという対応をもってメッセージを分かち合いたいと思います。
今日はイースター礼拝です。ここで一番大事なことは何ですか? 皆さんは復活を信じますかということです。
皆さんがこの世の中で私は一度死にます。 その後皆さんは復活されていることを信じますか?
復活されることを信じるならどのように生きるべきですか? ということが今日一番大事なテーマです。
昔でも今でも復活などないと言われる人が大勢います。 なぜなら理性的に、
科学的にこれはありえない話だからです。 今日の聖書でマルコ12章18節
復活はないと言っているサトカイ派の人がいましたということです。 皆さんサトカイ派、パリサイ人、これはある群れの名前ですけど
サトカイ派は神殿中心としたこの最初の群れ立ちをサトカイ派と言います。 皆さんジャカリア、エリザベト、これはサトカイ派です。
パリサイ人たちは立法を中心としてイスラエル人たちを導いたその人たちです。 しかしこのサトカイ派の人たちは信仰が私たちが理解できないほどおかしい信仰でした。
まず復活を信じませんでした。 天使も信じない。霊の世界も信じない。
死んだ後死後の世界も信じない。 裁きあることも信じない。
悪霊という存在も否定しました。 聖書も孟聖五章だけ認める人でした。
彼らは最主張でありながら 霊的なことは信じなくてこの世の中が全てだと思って過ごしていました。
だから彼らは世俗主義者、現実主義者でした。 この世が終わりだと思ってこの世の中で一番うまく過ごすためには
富、また政治権力と徹甲して 自分たちだけ固執しながら宗教的な特権を味わう人でした。
だからこの人たちは現実主義者だから 信仰という話はするけど霊的な世界は全く信じない。
理性知性だけで全てを考えている人でした。 今今日も理性知性それを基づいて信仰生活する信者たちがいるでしょう。
その人たちは自由主義者と私たちは言っていますけど その方たちは理性的、科学的、公理的な考え方をいつも持って聖書をいつも見ています。
だからその人たちには霊的な命はない人です。 彼らの信仰を見ていますと奇跡、予言認めません。
また神様の御言葉と現実的に相反するなら 現実を中止します。
ですから信仰ができるはずがありません。 じゃあそのような信仰を持っている里会派の人々が
イエス様に来て 復活がないんじゃないかという主張するために
神明記25章古説からの御言葉を持って おかしい質問を作り上げたんです。それをイエス様に言います。
じゃあ何を言うのか 7人の兄弟がいました。
兄弟の中で一人が結婚しましたが子供なしで 兄弟が死んでしまいました。
その時神明記25章では 死んだ兄弟に対する義務として
兄弟の中で誰か一人がこの兄嫁と結婚するようにして そして
子供を産むことを義務的にこれをやらせました。 そして兄の子孫が断ち切られることがないように
だから兄が死んだところには兄弟の中で誰かが兄嫁と一緒に結婚して生活しなければなりません。
そのことを例として話をするんですね。 長男が結婚しました。子供なしで死にました。
だから次男がこの兄嫁と結婚しました。 それでまた子供なしで死にました。
三男がまた兄嫁と結婚しました。 それで子供なしで死にました。
7人の兄弟がいたんだけど7人みんなが兄嫁と結婚して それで子供なしで死んでしまって結局最後は兄嫁も死んでしまいました。
じゃあそのようなことを用いてイエス様に もし復活する時には兄嫁は7人の兄弟とみんな結婚したから
復活する時には誰の妻になるんですかという そのようなことを持ってイエス様にこの話をするんですね。
要するに復活があると言うなら 来世で
復活についての主張と誤解
困難になるからだから復活があってはいけないということではないかという 自分なりの主張していることでした。
このようにとんでもない話をつくってからも人々は復活などないよということを 主張する人が大勢いました。
皆様はどう思いますか。復活があると信じますか。 復活があると言ったら私たちの生き方が変わらなければいけないと思います。
私はいつも申し上げるこの世は100年 この後の天国地獄は永遠です。
この100年の意味をよく考えてこの100年の人生を大切にしていかなきゃいけません。 これが大事です。
シト・パウルはキリスト社の中でも復活などない 生きているこれが全てだと思っている人がいたから
第1コリント15章12節ではキリストは死者の中から復活したと述べられているのに あなた方の中にあるものは
死者の復活などないと言っているこのことは何なのと言いながら 叱られる場面が出てきます。
ですからイエス様はその里会の人たちにこう言われます。 これがマルコ12章24節です。
イエスは言われたあなたたちは聖遺書も神の力も知らないから そんな思い違いをしているからするのだと言います。
思い違いをしている だから
復活の後どんな生活をするかをイエス様を教えてあげながら 復活があるということだから準備ができるようにイエス様を教える場面が出てきます。
まずマルコ12章25節です。 死者の中から復活するときにはめどることもとつぐこともなく天使のようになるのだ。
じゃあみなさんこれはヒントが出ますね。私たちが死んでそれから復活するなら 私たちが天使のような姿で生きるようになるんだということ。これは素晴らしくありませんか。
じゃあ里会派が間違えているのは 天国をこの世の延長線上で考えたからです。
しかし天国には結婚ということはありません。 今までの夫婦関係は天国でありません。
だから天国で皆さん今までの夫婦を出会うなら 以前私の夫と言われた人です。
以前私の妻と言われた人ですねと皆さん挨拶するかもしれません。 天国では結婚ということはありません。
世の中で結婚システムがあるんですけどこの結婚世の中だけであるんです。 この世の中の結婚の目的は何ですか。
人間が弱いのでこの肉の欲また性的な部分があります。 それを間違えて大きな過ちを犯さないように
性的誘惑に負けないように結婚制度を与えてくださりました。 また創世紀1章28節
埋めよう増えよう地に満ちて子孫の反則のために まだ創世紀2章18節には
2人が男女2人が力を合わせて神様から与えられた使命をうまく全うするように 神様が私たちに結婚ということを許してくださったんです。
しかし復活の後どうなるのか私たちは天使のようになります。 そしてイエス様に使えイエス様から愛される
そして永遠にイエス様と共に生きるそのような生活を 里会派は間違えて思い違いをしてたんです。
天国における生活
またマルコ12章26節には 死者が復活することについては
孟瀬の書、芝の歌書で神は孟瀬にこう言ったんじゃないかと言いながら 私はアブラームの神、イサクの神、ヤコブの神であることではないかと言います。
里会派が認めている孟瀬公書では復活という単語は出てきません。 しかし復活を暗示する部分はあります。
その中で一つが今日マルコ12章26節で引用した シュチエジプト3章15節です。
孟瀬が神様から使わされてイセラリ人たちの中に入って 神様は私にこう言われたと言ったら
イセラリ人たちがあなたを使わせた神様は一体どんな神様なのかと質問したんです。
その時神様がこう言いなさいという言葉が今日この部分です。 神様が何と言われたのか、私を誰が使わせたのかというなら
あなたたちの先祖の神、アブラームの神、イサクの神、ヤコブの神である主が私をあなたたちに使わされたと言いなさいと言われたんです。
ここで神様はご自身がアブラームの神、イサクの神、ヤコブの神だと言われています。
アブラームの神たったんじゃなくて今も私はアブラームの神だ。 信仰経緯として話をしています。
皆さんここには大きな意味があって神様は 永遠に生きておられるお方です。
時間、空間の制約がないお方です。 またここで見てますと人間も永遠に生きる存在だということがわかります。
アブラームが生きていた時にはBC 2200年度でした。
しかし2200年度、今モーセがやっているのは1400年。 その間もアブラームは生きていたんです。
アブラームは死んだんだけど死んだんじゃなくて神様に対しては生きていたんです。 だから人間は永遠に生きる存在
それがいつ明らかになるのかイエス様は来られて再臨なさってその時みんなが蘇られてみれば
目に見えなかった姿が目に見える姿になるだけで人間は全部生きているんです。
皆さんこれをぜひ信じていただきたいと思います。 また神様は永遠に全世界を主観される
また個人個人の人生を主観される主見者、統治者であります。
ある時期イスラエルは神様を勘違いする時期がありました。 いつなのかと言いますとエジプトにヨセブを通して
当時イスラエルというヤコプの家族が70人がエジプトに移りました。 それで人数が大きくなって200万人まで増えているところで
一時期神様がこのエジプトでイスラエル人たちがパラオの奴隷になるように許されたんです。
その時400年間パラオの奴隷の生活しながらイスラエル人たちは神様は私たちを見捨てられた
神様は無能力な神で神様の存在がいるのかと思ったかもしれません。 しかし神様はすでに
創世紀15章13節から見ていますとアブラウニー これからあなたの子孫たちが違法の世界に行って400年間
違法の王様を使えるようになるんだということを予言しておいたんです。 その予言通り時になった時に神様が孟子を通してイスラエル人たちを救い出してくださるんですけど
その時 私はアブラムの神 イサクの神 ヤコプの神だということを説明したんです
このように私たち神様がいらっしゃらないんじゃないかと思われるその時も神様は全て
コントロールしておられることがわかります 全世界の歴史もコントロールされ
私たちの個人個人の人生も神様は全てコントロールされるお方です その中でアブラム イサク ヤコプは神様の前に生きていったということを教えてください
神様に対する死んでいる者と生きている者
そうしながら大事なメッセージがバルコ12章27節 神は死んだものの神ではなく生きているものの神だということです
ここで死んでいる 生きている これはどんな意味なのか
私たちの教会は死んだ犬の訓練 皆さん訓練を受けたことありますよね
じゃあ死んだ犬 死んだ犬は何をしませんか
蹴ってもげげんという反応しません 死んだということは反応しないと
神様に対して死んだということは神様が何と言っても自分は自分なりに自分勝手に過ごす 神に反応しないことが神に死んでいるということです
神に対して生きていることは神様が何を言ったらすぐすぐ答えすぐすぐ反応する これが生きていることです
皆さんこれが大事です 神様に対して死んだ者は里会派の人のように復活を信じない
この世が全部だと思って生きている人です その人たちは信仰があると言いながらいつも見解的敗北的な考えを持っています
また彼たちは信仰と言葉だけで信仰で生きていません 神の御言葉と堅実が相反するなら違うなら堅実を中止します
例えばイエス様が私に従いたいのは自分を捨てて自分の十字架を背負いなさいと言ったら 自分を捨てません
自分の十字架嫌だということを背負いません 神の言葉と自分のやり方と自分がやりたいとおりすることです
また狭い門から入り
また狭い門から入りなさい細い道に行きなさいと言ったら 細い道は危ないんじゃないか広い道が安全じゃないか
自分の十字架を背負うよりは自分の楽なところに行きたいと思って生きる人です その方たちは神様に対する礼拝も自分自身のために礼拝する人です
徹底的に実行中心的な人 このような人に対して神様は
あなたたちは私に対して死んだものだということです 死んだ人たちはいくら信仰的な姿を持っていても神に出会うことはできません
神様はその人たちに対して 悲しんでまだ怒られております
反面神様に対して生きている人は アブラム・イサク・ヤクブのように信仰によって生きる人です
その人たちは神様が生きておられ 神を求める人たちには報いをしてくださることを信じます
この人たちは神様との親しみの中で神様と共に歩み また神の御言葉
それを通して自分の力をいただけます また信仰のような話をして考えも神様中心
神の栄光のために生きます だから神様はこのような人たちを喜ばれ共にいることを願っておられます
その人たちはなぜ自分を捨てて自分の十字架を背負うかということを その意味を知っています
だから喜んで細い道に歩みます また神の御言葉と自分の堅実が相反する時には
死ねば死ぬぞと思いながら御言葉に従って信仰の道に行きます
この人たちはすべてまず神の国と神の義を求める生活をします その方たちのこの口癖が
この世はカリスマへ この世は旅人だ私のふるさとは天国神の国だ
いつも思っています 旧約から新約に至るまで神様すべてこの世の人たちを通してご自分を表し
神の奇跡的な御業を行いました 神様はこの人たちを私に対して生きている人だと思います
では皆さん 私たちは今神様に対して死んでいる人ですか生きている人ですか
神様に対して生きている人は今も生きている神様に敏感に反応します 親しみを持ちます
plo の生活をします その人たちはいつも信仰によって話をし信仰を持っていきます
だから神様はこの人たちを喜ばれ命と恵みを豊かに与えてくださいます しかし神様に対して死んでいる人は
神様との関係が関係性が全くないから神様が何を言ってもわかりません 神の見事もあるとしてもそれをやろうとしません
考えが違うから神様との全く違う道に歩むことになります 神様と共に行きたいと言ってもいけません
だから神様はその人を使うことはできないんです このように神様に対して死んでいる人たちは
どなたかと言いますとこの世の中のすべての人は神様と全く関係がない 神様に対して考えもしてないから死んでいる人だと言えるでしょう
ところが今日の聖書では里会派の人に対して 神様に対して死んでいる人だと言います
また初代業界から今に至るまで 信仰理性知性で科学的に合理的に考える人たちは
神様に対してこれを死んでいる人になります 皆さん神様に対して死んでいる人が天国に入ることができると思いますか
できません 神様に対して生きている人だけが命の復活をするし
生きている者の信仰
生きている人だけが神の国に入ることができます じゃあでは私は生きているものなのか死んでいる人なのか
よくよく考える必要があります 生きている人は信仰が生きていることです
神の見事ばと現実が相反するとき 見事ばに従う人がこの生きている人です
聖書でたくさんの事例があるんですけど皆さん ガデスバニアの事件ご存知でしょう
民数記14章ではイスラエルがアラノの生活1年目でカナーンの入り口まで行きました
もともと神様の計画はアラノの生活1年でした 1年でカナーンの生活の準備をしっかりして
イスラエルたちの信仰をしっかりしてカナーンに入って それからカナーンで神の国を建てることでした
しかし1年目になってガデスバニアまで行って 神様が入りなさい
このカナーンを占領しなさいと言いました あなたたちが足へ踏むすべての土地をあなたたちに与えるからと言いました
ところがイスラエルたちは何と言うんですか ちょっと待ってください
一度私たちがちゃんと調べてみてそれから入りますからと言います だから一つの部族に一人ずつ12人が40日間ずっと調べてみました
それで帰ってきてから彼らが何というのか 12人の中で10人がこんな報告をします
確かにその土地は良かった しかしその土地に住んでいる住民はどれほど強いのか
彼らに比べて私たちは稲妓のようだった 私たちはそこに入ればみんな死んでしまう
だから入れない 私たちエジプトに戻ろうとします
神様が確かに カナンの地をあなたたちが足へ踏むすべての土地を与えると言われたのに
自分の目で見て カナンが難しいと思うから私たちは入りませんということです
神の御言葉と現実が 相反するなら彼たちは現実的な考えをしてたんです
だから彼らたちはカナンの地に入ることができなかった
彼らは神様が見られるのには神に対して死んでいる人だった
ヨーシュワとカレブ、モーセ、エリアによって生きているものの信仰
でもそこで生きている人もいました ヨーシュワとカレブです
ヨーシュワとカレブが民に報告する言葉が 民粹14章9節
ただ主に背いてはならない あなたたちはそこの住民を恐れてはならない
彼らは我々の餌食にすぎない 彼らを守る者は離れ去り主は我々と共におられる
彼らを恐れてはならない ヨーシュワとカレブも現実的には
カナンの地方に征服するのは難しいと思いました
それでも神様がおられるから 神の御言葉通りできることを信じました
ヨーシュワとカレブは神様に対して生きているものでした
結局死んでいる人は誰もカナンに入ることができなく
生きているヨーシュワとカレブ また第二世代がカナンに入ることができました
また皆さん事例があります モーセは神様に対して生きている人でした
彼の信仰告白ヘブライショー11章24節から26節
私はこの御言葉が大好きだから毎週のメッセージでこれを語るんですけど
信仰によってモーセは成人した時 パローの王女の子と呼ばれることを拒んで
儚い罪の楽しみにふけるよりは 神の民と共に虐待される方を選び
キリストのゆえに受けるあざけりを エジプトの細胞より勝る富と考えました
与えられる報いを信仰の目で見てからです と言います
皆さんモーセは生きているものでした 神様に対して生きているものでした
エリアも同じです レチオキ帳の18章21節
エリアはすべての民に近づいていた あなたたちはいつまでと近づかず
迷っているのか もし主が神であるなら主に従え
もしバールが神であるならバールに従え 民は一言も答えなかった
エリアは一人でバール預言者たちと戦いました それだけではありません
当時のアハム王と戦い また民たちと戦いました
ただ一人で信仰によって一切の信仰の リバイバルのために挑戦した人でした
私がなぜモーセとエリアを皆さんに 申し上げるかと言いますと
マルコ旧書でイエス様は山に登って姿が 変わったところがあります
これ変化山という軌跡だと言うんですけど そこで神イエス様と誰が現れて一緒に対話したんですか
その時イエス様とモーセとエリアが現れて対話した
当時に比べてモーセが生きていることは BC 1500年だから1500年前の人が当時現れたんです
エリアはイエス様を超える850年前の人でした
ところがイエス様が来られた当時に 1400年前の人が現れ
850年前の人が現れてイエス様と共に対話をしたことを 驚くことではないでしょうか
モーセとエリアは生きているものだったんです
私はいつもこれを大事にします
聖書は私たちが死んだと言うんですけど 聖書は主の中で生きている
イエス様と命の復活について
眠っている 休んでいる 安息していると言います
私は私のおふくろが大好きで いつも私は今もおふくろを考えています
いつ私はおふくろを出会うことができるか イエス様が再現なさる時おふくろが生きていることを私が見るでしょう
今も生きていると私は信じています だから会いたいんです
皆さんも会いたい方いませんか 私はおふくろが生きていって私とまたイエス様が来られたら出会うことを楽しみにしています
今は終わりの時です 私たちは神様に対して死んだ人のように
この世が全部だと考えて生きていることではなく 神様に対して生きている信者らしく
神様との親しい交わりの中で この世の中がどのように変わっても神の見事もがそうであるなら
その通りに成し遂げることを信じて 信仰によって生きる私たちになりましょう
そうするなら神様は私たちを あなたは私に対して生きているものだと言われるでしょう
最後に今日はイースターですから 聖書の中で復活の章というところがあります
それが第一コリン島の中古書です 中古書二十節にこう言っています
しかし実際キリストは死者の中から復活し 眠りについた人たちの初穂となられましたと言います
キリストの復活は眠っている人 眠っている人ということは今世の中から死んだ人という意味でしょう
この死んだ人の初穂とされた イースターは死んだ人の初めの復活された人だということです
その意味はイースターも復活されたように 今眠っているすべての人がみんな復活するということを意味するでしょう
すべての人が生きている 死ぬことが確かであるなら すべての人が生きることも確かです
ところがここで大事な問題があります ヨハネ古書二十八節二十九節 驚いてはならない
時が来ると墓の中にいる者はみんな人の子の声を聞き 善を行った者は復活して命を受けるために
悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくるのだと言います
復活はするけどこの二つの復活があります 命の復活もあり裁きの復活もあります
私たちが言っているこの復活は命の復活を意味します 皆さん復活して裁きを受けて地獄に行くために復活する
これが復活と言えるでしょうか 私たちはみんな命の復活をしなければなりません
ところが誰が命の復活をしますか 今日イエス様は言われた神様に対して生きている人が命の復活をするんです
ですから私たちは命の復活に預かる者として これからどう生きればいいのか
私たちのこの100年の人生の残りの時間を 私は神の前で生きているものだと神様が言われるように
これから準備していかなければなりません まずイエス様との親しみです
また現実の状況より神の見言葉がそうであるなら 神の見言葉を信じて生きることが大事です
そうするなら神様は私たちは生きているものだと 認めてくださるし命の復活を預かることができるでしょう
私は人たちのこの言葉が好きです この世の中は旅人
神様に対して生きている信者らしく生きることが大事
カリスマだ 私の故郷は神の国天国だ
いつもその心を持って私たちは神の国天国のために生きる その準備をする私たちになりましょう
私たちに天国をくださるためにイエスキリストが十字架で死んで 復活なさったからですお祈り出します
全人類を苦しみに預けた罪 呪い 死 地獄 悪魔から私たちを救われ
救うためにこの世に来られて十字架と復活を背負って 全てを解決してくださったイエス様ありがとうございます
私たちが神様に対して生きているものになって イエス様が与えてくださった勝利
また天国の祝福をみんな受け入れ預かるものにならせてください イエス様の皆を通してお祈り出します
アーメン アーメン
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