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2025-12-21 33:12

「キリストを礼拝する心」2025年12月21日のメッセージ

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東京ぶどうの木教会 2025年12月21日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄 
▼教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com

▼メッセージの自動文字起こしはこちら https://listen.style/p/tokyovinechurch

(聖書)

 マタイ25:1-10「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。2そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。3愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。4賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。5ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。6真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。7そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。8愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』10愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。

 

メッセージ題:キリストを礼拝する心(マタイ25:1-10)

*メリークリスマス!X-Mas礼拝に来られた皆さん、祝福いたします。Christmas=Christ+Masの合成語

キリストを礼拝せよ!意味。なぜ、礼拝しますか?真の神様、真の人間になられたお方、謙遜、犠牲、献身で罪人である私たちを罪と呪い、病から救う為に十字架で血を流し死んで下さった。十字架と復活で敵、悪魔を滅ぼし万王の王、万主の主で統治されるお方、一番大事な、私たちの新郎で、天国に連れて行かれるお方。これから天国でイエス様の愛の中で永遠に住むことを考えるとき、クリスマス礼拝

*キリスト教は2千年間、礼拝し続けましたが…初臨のイエス様と再臨のイエス様に対して心の姿勢が

 

1.初臨と再臨の根本的な違いは?それに対して私たちの心構えは?

*初臨のイエス様?ルカ2:14赤ちゃんの姿で、救いと恵みを与える為に来られた。すべてが許された。

再臨のイエス様は?黙示録1:7勝利の御姿で、恵みの時期を終え、裁く為に、自分の新婦を苦しめた者たちを罰される為に―>従って、心構えを確かに!*初臨のとき、来られるのを誰も知らなかった。でも問題はなかった。しかし再臨のときは?携挙!従って目を覚まして祈っていなさいと警告された!

*従って、私たちはイエス様だけを愛する心で、今が最後の恵みの時期かも知らない、恐れを持って

 

2.信仰生活をする心で油断、変な余裕があってはいけません。しかし、なぜイエス様から離され油断する?

*私の証し!退職して神学校に行きながら…出会った職場の上司の話を聞いて…愚か、情けない、悔しいと??なぜ、そんなに残念と思ったのか?イエス様よりこの世の富をもっと信じ頼りになると思う

悔しいと思った心が感謝の心に変わった理由も?⇔信仰の先輩たちはどうされたのか?*ダビデの信仰?詩編18:1-2,23:1ダビデは羊飼いのときも王になったときも、神様だけを求め、満たされた!

*パウロの信仰?ピリッポ3章の素晴らしい告白!この世のことを排泄物と思い、キリストを従った、主は自足する心を与え、この世のすべてを克服するように、また霊的な驚くほどの祝福を与え豊かにされた

*神の霊的祝福に一番邪魔になるものが、この世による満足!従って主の僕たちには、主だけ委ねるように…

*ヤコブの告白、ヤコブ5:3あなたがたは、この終わりの時の為に富を?富がわれらを救ってくれるの

か?新郎が来られるとき、新婦がこの世を愛して油断し、新郎を迎えることが出来なかったら、喜ぶか?

#ここに対する警告が、マタイ25章の10人の乙女たちの例え!ここで灯火は?油の意味は?油を買いに行くって?儀式と本質?本質的な信仰は、簡単にできるものなのか?5人の乙女たちだけが婚宴に

 

3.どうすれば、新郎を愛し、いつも油を準備しながら、目を覚ましていることができるのか?

*自分が罪人であることが大きく照らされた人です。罪によって地獄に行くしかない存在なのに!イエス様の十字架の贖いの恵みによって天国に行くようになったことが照らされた人は?この世の富と関係なく、主の恵みに感謝する心を持って、イエス様を待ち望むことができます。救われたと言いながらもいつも罪を犯している私たち!御言葉と聖霊の働きによって、照らされ、悔い改め続ける人は、油断したり、変な余裕を持てたりしないで…主にもっと近づき、親しみ、人格的な交わりの中で主を迎えることができます。即ち、初臨の目的に忠実な人が再臨のイエス様を迎えることができます。この世を愛するなら霊的な分別力がなくなります。@今度のクリスマス、心を新たにして、新郎であるイエス様を礼拝しましょう!

サマリー

このエピソードでは、「キリストを礼拝する心」をテーマに、クリスマスの意味やイエス・キリストの初来と再来について深く考察しています。特に、イエス・キリストをどのように信じ、愛し、迎えるかの重要性が強調されています。キリストを礼拝する心と信仰の重要性が強調され、神を求めつつ信仰生活をどう築くべきかが語られます。また、ダビデやパウロの信仰を通じて、物質的な豊かさに心を奪われることなく、真の満足を神から得ることが勧められています。さらに、イエス・キリストへの信仰と感謝の心が強調され、再臨の準備についても述べられています。クリスマス礼拝を通じて、心を新たにする重要性が語られています。

クリスマスの意味とイエス・キリスト
みなさん、メリークリスマス。クリスマスおめでとうございます。また、クリスマス礼拝に来てくださったみなさん、感謝します。
今日は、「キリストを礼拝する心」というタイトルをもって、メッセージを分かち合いたいと思います。
みなさん、クリスマスという意味はご存知でしょう。 クリスマスは、
クライストとマスの複合語です。
クライストという言葉は、キリストを意味します。マスは何かと言いますと、カスリックで使うミサという言葉で、
礼拝という意味です。この全体的に、キリストを礼拝せよということが、クリスマスという意味です。
キリストを礼拝する、特別な意味を持って、キリストを礼拝する日が、クリスマス日であり、クリスマス礼拝です。
では、私たちがなぜ、イエス・キリストを礼拝しなきゃいけないのか、これは基本の基本ですけど、まず簡単に考えていきましょう。
イエス・キリストは、まことの神様です。 また、まことの神様が、まことの人間になられました。
イエス・キリストは、神様なのに、謙遜なお方でした。
ですから、罪人である私たちのために、
ご自分の身を捧げながら、私たちを、罪と過ちと呪いから、
また、サタンの支配から、私たちを救ってくださり、解放してくださいました。
そのために、十字架で血を流して、死んでくださいました。
イエス・キリストは、十字架と復活を通して、私たちの敵である悪魔を滅ぼして、
万王の王、万衆と死として、気と平和をもって、全世界を統治しておられるお方です。
また、何より大事なのは、私たちの、救われた私たちの神道です。
ですから、私たちを連れに、再びこの世に来られます。
そして、私たちを連れて、天国に行かれて、私たちと永遠に共に過ごすようになります。
これを考えるときに、罪人から私たちを救ってくださり、
また、私たちの全ての問題を解決してくださり、
私たちの一番の敵である悪魔を滅ぼしてくださり、
私たちの神道として、私たちは連れて、天国で永遠に幸せと祝福の人生を、
これから永遠に過ごして、一生に過ごされることを考えるときに、
私たちには、イエス・キリストしかいません。
ですから、イエス・キリストを愛します。
イエス・キリストしかいません。
その意味で、私たちはクリスマス礼拝を捧げていることです。
イエス・キリストの初来と再来
私たちの信仰生活で、一番大事なのは、イエス・キリストをどのぐらい知っているのか、
どのぐらい愛しているのか、どのぐらいイエス様と親しくなっているのか、
ここに全てが書かれてあります。
イエス様は、2000年前に来られました。
また来られます。
今度、アドベントの時期に、私は大きく強調したのは、
初めに来られた理由は何なのか、
私たちを罪から、悪魔から救うために、
またイエス様は、2番目にまた来られるということです。
なぜ来られるのですか。
ご自分の花嫁をお連れに、
そして天国に行くために、
また、この世を裁くために来られます。
ですから、私たちは、初めに来られたイエス様を礼拝する、
また、再び来られるイエス様を礼拝する、
このことに対して、よく考えていかなければなりません。
キリスト教は、2000年間、クリスマスを礼拝してきました。
今までずっと礼拝してきたことと、
終わりが付けてきた今、私たちが礼拝することは、
少し異ならなければいけないかなと思います。
なぜなら、イエス様の救いの愛、恵みを考えて、
イエス様を褒めたたいますという礼拝と、
これから再び来られるイエス様、
このイエス様を迎える心、
その心で捧げる礼拝は、
考え方が違う、
それを私たちが理解していかなければなりません。
初めに来られたことと、
再び来られることの根本的な違いは何ですか?
そのために私たちが持つべき心構えは何ですか?
初めに来られた時に、聖主は、
意図高いところには栄光神にあれ、
地には平和、御心にかなう人にあれ、
イエス様はこの赤ちゃんの姿で来られて、
私たちは救ってくださり、
全てに対して許してくださり、
私たちが失った全てを回復するために来られました。
初めに来られたイエス様には、
私たちの罪、過ち、問題、
もう私たちの全てが問題ありませんでした。
全て許されて、理解してもらって、
慰めてもらって、
それを全て解決してくださるために来られたからです。
だから、初めに来られたイエス様の前には、
私たちは、いくら汚い、いくら問題、
汚い、いかなるものでも全てOKでした。
恵みによって全て解決してもらいました。
ところが、再び来られるイエス様、
再びイエス様が来られたら、
恵みの時期は、
これ、終わりになります。
再び来られるイエス様は、
裁くために来られるから、
裁き主として来られるものですから、
ですから、イエス様が再びなせる時から、
恵みは、もう終わりです。
これ以上、恵みは許されません。
また、イエス様は、
ご自分の花嫁を連れに来られるんですけど、
今まで、信仰を持って、
花嫁は信仰を守るために何かを頑張っている、
花嫁を苦しめた者たちが、
世の中にいっぱいいます。
敵、悪魔、悪霊、
もう、まだ、キリスト教の敵がたくさんいます。
この全ての敵に対して、
イエス様は来られて、
全てを報いを与えてくださる、
許されないという覚悟で、
来られるイエス様ですから、
初めに来られたイエス様と、
再び来られるイエス様は、
信仰の心構え
完全に異なる姿で来られます。
イエス様が再び来られる時の、
この厳しい顔、見えませんか?
このことを私たちが考えながら、
クリスマスを迎えなければなりません。
イエス様の初めに来られる時には、
イエス様がいつ来られたのか、
世の中で東宝の博士、
また、七次会たち、
もう、この世の中で何人しか分かりませんでした。
しかし、誰も知らなくてもよかったです。
なぜなら、恵みをくださるために来られたから。
しかし、サイリンは誰のもとに来られるのか、
ご自分を待ち望んでいる人たちの前に来られます。
言葉を変えれば、
ご自分を待ち望んでいるキリストの花嫁に前に来られます。
また、イエス様が来られたら、
この人たちは全部、軽挙、引き上げられます。
空中でイエス様に出会います。
イエス様を待ち望まない人は、
軽挙もできないし、
イエス様を迎えることはできません。
ですから、その時期、そのことが、
どれほどどれほど、
私たちの人生に厳しいことなのか、
私がすぐ来る。
目を覚ましていなさい。
これで、聖書は何回も警告されたことがありました。
ですから、私たちが今捧げているこの礼拝、
サイリンを待ち望んでいるイエス様を礼拝せよという、
この礼拝は、
もしかして、これが最後の恵みかもしれないという覚悟を持って、
イエス様を、
イエス様しかいません。
イエス様、愛しています。
あなた、早く来てくださいという心で、
イエス様を迎える準備、
それがサイリンを迎える、
私たちの心構えではないかと思います。
サイリンなさるイエス様を迎えるために、
私たちの信仰生活は絶対あってはいけないことがあります。
これは油断することです。
まだ余裕、
変な余裕があってはいけません。
では、なぜ私たちが信仰生活から油断したり、
変な余裕を持っていったりしますか?
私はここでいろいろ工夫しながら、
私の恥ずかしい部分を明かしする必要があるかなと思います。
皆さん、これで理解していただきたいと思います。
変な余裕。
私は部長として会社を退職しました。
退職して新学校に行くときに、
会社から退職金をもらいました。
この退職金をどうしようかというと、
当時がIMF時期だったから、
一番利息が高いところに入れようと思って、
武産のあるところ、妻が知っているあるところの、
信用基金という金庫に入れておきました。
しかしIMFが厳しかったので、
その金庫さえも倒産してしまいました。
金庫が倒産したら、
お金を預金したものの中で、
ある一部分だけは、
国が返済してくれる制度があるそうですが、
私は新学校の学びで日本で工夫しているところだから、
全然分かりませんでした。
後々になって分かったということでしょうか。
結局、私の退職金は全部なくなってしまいました。
悔しいでしょう。
ところがその間、私は、
私の上司だった、私のある先輩に、
この後、不思議な時間ができて、
出会おうことになりました。
その方は、私が会社を辞めている間に、
その方は取締役になりました。
皆さん、社員から部長までが社員です。
取締役になったら、これはもう役人なので、
社員ではありません。
だから社員を終わりにする、
退職して取締役になる。
その方は取締役になった時から、
会社の株を持っていったら、
取締役はパワーが強くなるものですから、
退職金全部、また自分が持っている余裕資金を全部入れて、
会社の株を買いました。
その株が今どのくらいになっているか知っていますか。
当時、多分、一株に5千円か8千円くらいのものだったかもしれません。
今、サムソンの株が11万円です。
何倍になったんでしょうか。
私は退職金を全部なくしたんですけど、
私の先輩は退職金を株に投資して、
会社の株に投資して、
株だけでもかなりの財産を持つようになりました。
その話を聞いて、私は平気になったことはできませんでした。
なぜ私はその時、それを持って、
信仰の根本的な考え
会社の株を一番安い時、買えばよかったのに、
買えなかったんだろうかという。
先輩は賢かった。
私は愚かだった。
情けない。
その考えが、皆さん、顔には当てていないんですけど、
私の心の奥の奥の奥の奥に、
その考えがあるんです。
神様に祈る時も、
心の奥深いところには、
なんとか、
気の毒だなぁと。
ああ、なぜ私はそれを知らなかったんだろう。
先輩は賢かった。私は愚かだった。という。
ある意味から見たら、私の愚かさに悔しい。
皆さん、なぜ私はここにこんなにこだわったんでしょう。
私がイエス様より、
お金を、
もっと、牧師なのに、
イエス様よりお金を、もっと貴重だと思っていったんじゃないでしょうか。
それを悩んで悩んで、祈って祈って、
なんとかなんとか、祈っている間に、
私の心が感謝の心に変わりました。
なぜ感謝したのか。
お金がなくなったから、
これからはイエス様しかいないから、
イエス様だけを愛し求め、
イエス様だけに委ねることができたから、
これは感謝ではないかなと思いながら、
それから感謝するようになりました。
もし皆さん、私が先輩のように、
これを全部株に入れて、
今、たくさんお金ができたと言うなら、
私の祈りのやり方はどうなったと思いますか。
主は助けてください、助けてくださいと言いながら、
助けてくれなくてもまあいいんじゃないか。
なぜ、私お金あるから、それでやればいいから。
これを私は油断する、また変な余裕と思います。
変な余裕を持っていたら、絶対に信仰はできません。
信仰はもう、神様が今度助けてくださなきゃ、
私は死にますという、
この緊迫な状態で、
潔癖な状態で、これで信仰ができるんです。
ダビデとパウロの信仰
余裕を持っていくなら、信仰はできません。
私たちは神様を求めながら、
このような変な余裕、油断する信仰で、
私たちはこの信仰生活ができますか。
難しいです。
しかし、私は聖書を読みながら、
ダビデとパウルを見ていますと、
その方たちは、王様になっても、
羊飼いの時でも、
変わりがなく神様を愛したことがわかります。
ダビデの聖書の一番素晴らしい、
四辺の十八章一節、
主よ私の力よ、私はあなたを従う。
主が自分の力、
これからずっと信仰告白が出てくるんですけど、
また四辺の二十三章一節、
主は羊飼い、私には何も欠けることがない。
この四辺は、
ダビデの人生全てを通して、
振り返って見る時に、
神様は自分の羊飼いだった。
羊飼いが私をうまく導いてくださったから、
私には乏しいことがない。
欠けることが全くなかったってこと。
だからダビデは、
いつも同じような心で、
神を愛したってことです。
パウルの信仰はもっと素晴らしいです。
皆さんピリッポ三章を、
ぜひたびたび読んでみてください。
素晴らしい聖書です。
パウルは世の中の全てを、
排泄物として思いながら、
イエス・キリストを追いかけていったんです。
その時神様は、
パウルに満足する心を与えてくださった。
物があり余る時も満足する。
何にもない時も満足する。
苦しむ時も満足する。
平和の時も満足する。
満足ということが、欲をなくす唯一の方法です。
それも神様がくださる満足。
自ら満足。
それによって、
パウルは神様からものすごい大きな礼儀的な祝福をいただきました。
だからそれによって自分はいつも豊かになりました。
神様の祝福、礼儀的な祝福に一番邪魔に乗ることが、
この世に満足することです。
ですから神様は主のしもべたちに、
主のしもべたちが委ねやすい、
もの、人、そのことを取り除いてくださることではないかと思います。
ヤクボはこう言います。ヤクボ5章3節です。
信仰の準備と警告
あなた方はこの終わりの時のために、
宝を蓄えたのだ。
宝があなたを救ってくれると思うのか、ということです。
最後の時イエス様が私たちを救うために、
花嫁を連れて来られるのですが、
裁きのために来られるのですが、
花嫁がこの世のことで夢中になって、
それが欲しくて欲しくて、心が全部奪われてしまって、
神道であるイエス様には関心がない。
自分が願っている世の中のことを得ようとして、
祈り、信仰生活するような状態。
神道じゃなくて、別のものに心が奪われているなら、
再び来られる神道は、その花嫁を見て喜ぶでしょうか。
ここに対する警告が、今日読んでくださった、
マタイ25章の、十人の乙女の例えです。
十人の乙女が、神道であるイエス様が、
再びなさることを待っていました。
しかし、五人は賢かった。
五人は愚かだった。
なぜ賢かったのか、灯火だけじゃなくて、
油も用意して、神道を待っていたということです。
結局、婚姻に参加することができました。
しかし、他の五人は、灯火は用意していたのに、
油は準備していなかったということです。
皆さん、考えてみてください。
灯火は持っているのに、油を用意していない。
車を買ったのに、車のガソリンは入れていない。
ことと同じなんです。
これは話にならないものですね。
油の用意に気にしないほど、
彼らの、彼女たちの信仰は、
信仰時代が飾りだった。
飾り。信仰は飾り。
多分、信仰は飾りだけでも問題なかった時があったでしょう。
自分たちは、いつも口癖のように、
神道が来るのを待っているよ、と言っている。
しかし、いざ、神道が来られた時に、油がない。
油を買いに行く間に、扉が閉められた。
今日、読んではないんですけど、
マタイ二重交渉、十二節、何があるか知っていますか?
神道が来られて、参加していなかった子に、
この姉妹たちは、扉を叩きながら、
イエス様、イエス様、扉を開けてください、開けてください、と言う。
その時、イエス様は扉を開けて、彼女たちに何と言うのか、
はっきり言っておく。
私は、お前たちを知らない。
十人が全部待っていて、十人がイエス様を待ち望んでいるように見えました。
五人が、今宴に参加して、五人は参加できなかったんですけど、
神道が何と言うのか、イエス様、イエス様、待てました、待てました、と。
しかし、イエス様は、私はお前たちを知らない、と言う。
知らないって、どんな意味ですか?
関係がない。
あなたは、私と関係ない。
天国に連れて行こうと、これはできない。
信仰の、これは絶望的な宣言になります。
じゃあ、皆さん、信仰の灯火と信仰の油は何でしょう?
信仰の灯火は、形が見えるから、これは儀式的なことです。
恋愛に参加したり、賛美したり、祈ったり、これは皆さん、すぐすぐ参加できます。
恋愛に来ても、すぐ恋愛に参加することができるでしょう。
しかし、油は何か?
油は、中身、信仰の中身、本質的なものです。
皆さん、信仰を分け与えてください。
信仰を変えましょう。
信仰は変えるものですか?
神を人格的に知り、人格的に親しみを持つ、これは皆さん、どう変えますか?
これは一日二日でできるものですか?
私たち教会で一番今、難しい、神の御声を聞いて従いましょう。
神の御声を聞いて従うのが、一日二日でできるものですか?
また、イエス様愛しましょう。イエス様の愛が一番大事です。
信仰であるイエス様を愛しましょう。
信仰であるイエス様を愛することは、すぐすぐできるものですか?
愛するためには、イエス様を知ること、イエス様と時間を過ごすこと、
それでイエス様を少しずつ知っていきながら、お互いの愛の告白をしながら、やっと愛に入ることではありませんか?
だいぶ時間がかかるものです。
結局、この人たちは神道の公園に参加することができなかったということです。
できなかったということは、信仰の死亡宣言と同じです。
これは天国にも入れないということで言っても過言ではないでしょう。
では、どうすれば神道を愛することができ、
また、最後の時のために油を用意すること、また目を覚ましていることができるのでしょうか?
また、どうすれば世の中のことに暗中しないで、いつも切磋な心で死を待ち望むことができるのでしょうか?
その信仰生活の秘訣があります。
これが、自分が罪人だということ、これが徹底的に照らされることです。
自分は自分の罪によって地獄に行くしかない人間なのに、
イエス・キリストの十字架の贖いの支のよと言って、
イエス様の十字架の支障のおかげで救われ、天国に行くことになったということが悟られた人、
それによって、アメイジング・グレイス、どれほど素晴らしい恵みなのか、
それを切に悟る人は、世の中でお金をたくさん持っていっても、持っていなくても、
主の恵みにいつも感謝し、イエス・キリストを待ち望むこともできます。
私はイエス・キリストの十字架の支障によって、恵みによって救われました。
救われた後も、私たちはまた罪を犯しています。
救われた後も、私たちは信仰生活をしている時に、
見言葉と精霊によって照らされてみますと、私たちは罪深い人間ということがわかります。
自分のいろいろな問題、いろいろな罪、過ち、神様の前で今、とんでもない人間だということを明らかに照らされる時に、
皆さんその前で、泣かれ、もう悲しみ、何でしょう、また悔い改め、
イエスへの信仰の深まり
主をこんな人間、憐れんでください、叫び祈り、また主ともっともっと近づくために、
聖書を読んだり祈ったり、信仰生活に夢中になることではありませんか。
そのような人は、油断する、また変な余裕を持つ、このことはできません。
毎日悟られた罪を悔い改めて、イエス様、イエス様、いつも主の前で祈っている間に、
イエス様が自分の心で大きく大きくなります。大きく大きく見えます。
世の中のことはもうどうでもいい。私にはこのイエス様しかいない。
イエス様に委ねる私一人生、これしかないということがやっとわかります。
これで私は昨日、三筆画を探したら、これがありました。
罪と我を許され、神の子と成り立る、我が魂の喜び、比べ得るものなし。
皆さん、自分は神様の前でどれほど罪深い人間なのか、
イエス様の恵みがどれほど大きいのか、悔い改めながら、この恵みに感謝しながら、
いつも主の前で感謝し感謝し感謝している間に、
イエス様は私の心の中で大きくなって、世の中集まらない者たちは全部消え去ってしまったような、
そのような信仰の心がちゃんとできます。
その人たちは、世の中のものがあるかないか関係なく、イエス様を待ち望むことができるんです。
一番大事なのは、この救いの恵み、救いの愛に感謝する心が、いつまでもいつまでも続けることです。
すなわち、イエス様が初めに来られた目的、
あがないの恵み、あがないの死、この救いの恵みに感謝し続ける人が、
終わりの時に来られるイエスキリストを迎えることが、ちゃんとできる、準備できた人になるんです。
再臨への準備
皆さん、なぜ私が牧師なのに、牧師というのに、
世の中の富を得るチャンスがあったのに、それを逃してしまったことに対して、
悔しく思って、自分を責めたり責めたり、愚かな愚かなと、こればっかり言っているんでしょう。
イエス様より、お金が正直に、
イエス様よりお金がもっともっと貴重であり、お金がもっと切著実著だということが、もうこれを言うことになることではありませんか。
イエス様よりお金をもっと愛したものだから、
お金を得るチャンスを逃したことに、こんなに悔しくて悔しくて、私が思ったのではないでしょうか。
まあ、これからはお金がないから、イエス様を求める、情けない牧師です。
パオルは世の中を反射物として思ったのに、
旅では世の中に何もなくても、イエス様神様によって全てが満たされたと告白していたのに、
私は牧師でありながら、イエス様の中にある宝は見ることができなく、
世の中にある富、成功、出世、
そのことばっかり考えている私たちを考えるときに、恥ずかしくてたまりません。
もしか教会学校の子どもたちがそのメッセージを聞くか、もうこれは怖いほどです。
神様が私からこの富を全部取り除かれてしまったのは、
100%の心で種をあがめなさい、また種だけを求めなさいという意味があるでしょう。
まあ、私の恥ずかしいことが今日のメッセージだったんですけど、皆さんこれを申し上げる理由があります。
再臨なさるイエス様に迎えるためには、変な余裕はダメです。
油断することはダメです。
私、花嫁である私の心は、イエス様以外、他のところ、何でも他のところに奪われることをイエス様は許されません。
ですから今度、このクリスマス礼拝を通して、私たちの心を新たにしましょう。
再臨なさるイエス様は、裁きのために来られるんです。
恵みを施すために来られるんじゃなく、恵みを終わらせるために来られるんです。
こんな時、これからは心を新たにして、イエス様の内にある、これは永遠の価値をよくよく見て、
イエス様は竹を愛し、イエス様を自分の唯一の宝物として思う私たちになりましょう。
そのような心を持って、イエス様を求め、イエス様を愛する私たちになれれば、
イエス様はこのような花嫁に、ご自分の愛を全部与えてくださり、
天国の救いと天国の喜びを全部与えてくださると信じます。
その時、イエス様は、私が長く待っていたのが良かった、こんな花嫁が酔えてきた、素晴らしい。
私はあなたを愛します。一緒に天国に行きましょうと言われる私たちになりましょう。
お祈り出します。主よ、私たちを罪、呪い、悟の試合から救ってくださるため、
初めに来られたイエス様、これからは私たちを天国に入れてくださるため、
私たちを苦しめた悪魔を滅ぼすために、裁け主としてイエス様が再臨なさることを感謝します。
私たちはイエスキリストの花嫁として、
ふさわしい心をしっかり持って、再臨なさるイエス様を迎える準備、また再来なるイエス様を礼拝する私たちにならせてください。
このクリスマス、キリストを礼拝せよと言われる、この時期にふさわしい私たち教会、ぜひともならせてください。
イエス様の皆を通してお祈りいたします。アーメン。ありがとうございます。
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