その中で神様が喜んでおられる人になる可能性がどれほど低いでしょうか。
それほど世の中には誘惑があります。
苦難があります。
試練があります。
いろいろなことがあって、そこで妥協して、妥協して、やめて、やめて、
それでまあごく普通な人のように、まあとにかく食べて生きよう、
うまく食べてうまく生きることが一番大事だと思って、平凡な人生になってしまいます。
だから本当に主が思われる、願われる、そのような信仰を持って生きる人の可能性がどれほど低いでしょうかね。
だから一人の人として生まれて、100年過ごして、どこかに行きますけど、
100年の間にどんな生活をするのか、とにかく食べて生きる生活人として、
まあ死んだ時にはこれはどこに行くのかわからない、その存在なのか、そうじゃなくて、
100年の短い時間ですけど、その中で神様を喜ばせて、死ぬ時に天国に対する確信、
神様から栄光の冠が与えられるこの喜びを持って天国に入る、
これで永遠に祝福される、
そのような人になる可能性がどれほど低いのか、
その中で今日このような神様から喜ばれ、認められる、
そのようになるために大事なファクターがもう一つありますけど、
それが信仰の決断なんです、信仰の決断。
いやもうアブラモンも決断しましたよ、他の人もみんな決断しましたよ、
しかしモーセはどんな決断をしたので、神様は彼を喜ばれ、
旧学生数で一番大事な働きを彼に任せられたのか、
その部分を一緒に考えていきたいと思います。
モーセの話をしようとしたら、まずモーセのご両親の信仰をまず考えなければなりません。
事実はモーセは生まれながら殺されるべき運命の中で生まれました。
これがシュチュエットの1章に書かれてあります。
シュチュエット1章はヨセフという人物がカナンからエジプトに奴隷として売られてきて、
総理になって、総理になったことを聞いたヤコブの家がエジプトに移住するところから始まります。
初めに70人が移住したのですが、400年時間が過ぎるとあたって200万人くらい、
人間が70人から200万人くらいに人口がものすごい増えていきました。
イスラエル人たちは何を考えたのでしょう。
創世記1章28節、
埋めよ増えよ地に満ちて地を従わせよ、埋めよ増えよということがあったのでしょうかね。
エジプトの女性よりイスラエルの女性が強いですか健康でしょうか、分かりませんけど、
人数はエジプトの人よりはるかに増えていきました。
その時エジプトの王の悩みがありました。
このくらいイスラエル人の人口が増えていくなら、
エジプト人がイスラエル人たちに支配されるんじゃないかということもあり、
また戦争が起こった時にイスラエル人たちができに味方になってしまえば、
我々みんなダメになるんじゃないかと思ってエジプト王が悩みに陥りました。
どうすればイスラエル人たちの出産率をもっと減らすことができるか。
それで考えたのが、イスラエル人たちをエジプトの奴隷にしよう、
そして奴隷にして労働をかけました。
そうしながらイスラエル人たちの人口をとにかく減らすように、
いろいろな政策を考えるんですけど、なかなかできない。
それで最後にパラオが、エジプトの王が考えたことが、
シジプト1章22節です。
パラオは全国民に命じた。
イスラエル人たちの赤ちゃんが生まれる時、
男の子が生まれたら、一人残らずナイル川に投げ捨て、放り込めと言います。
女の子が生まれたらみんな生かしておけ。
男の子は全部ナイル川に放り込む。
これは王の命令なんです。
ですから、モーセが生まれた時、
モーセは男の子だからナイル川に放り込んで、殺されるべき存在でした。
ところがモーセのご両親は、ヘブラリショ中1章23節でこう言います。
その子の美しさを見て、王の命令を恐れなかったから、
モーセを3ヶ月間隠したと言います。
最近、伝道師さんから、サクちゃんがどれほど可愛いかという話を聞いて、
自分の子供は可愛くない親がいるでしょうかね。
みんな可愛いと思うでしょう。
しかし、モーセのご両親が考える時に、
モーセを見たら美しかったと言うのです。
これを私は他の聖書を色々調べてみました。
この他の聖書の中でどんな解釈があるのか。
何か、Something special。
何かスペシャルな何かがあるんだということを親は感じるのです。
そして、子供を殺さない、殺すようにしないで隠していきます。
皆さん、自分の子供を殺すのに渡す人がいますか。
しかし、王の命令だから、他の親たちはみんな自分の子供を産んだ男の子だったら、
もう殺すようにエジプトの軍人たちに渡すべき、渡してしまいました。
しかし、モーセのご両親はそれをやめました。隠しました。
もしそれが発覚されたらどうしますか。
殺されるでしょう。王の命令だから。
このような危険性にも関わらず、隠しておきました。
しかし、3ヶ月になれば、泣き声がますます大きくなって、これ以上隠すことができない。
そのところでモーセのご両親は、パピルスの籠を作って、
ここにアスファルトを塗り、その籠をナイル川に流されたと言います。
これは捨てたことではなくて、神に任せたと思っていいでしょう。
親として子供を育てるのに非常に難しい場面が来ます。
今、皆さん考えていらっしゃるじゃないですか。
思春期になって、親の話をこれ以上聞いてくれない正体もあり、
またモーセのような、今、王の命令がある場合があり、
また他のいろいろな事情によって、子供を親の何か力によってケアできない状態になったら、
皆さんはどう思いますか。
この時、今、私もそのようなことを一生考えています。
工夫工夫しながら祈っている時に、私に四編の五十後編の二十二節が与えられました。
あなたの重荷を主に委ねよう。主はあなたを支えてくださる。
主は決して正しいものが揺るがされることをなさらない。
あなたの重荷を主に任せなさい。主はケアしてくださる。支えてくださる。
そのところで大事なのは、神様は決して正しいものが揺り動かされることを許さない。
私はこれを今非常に考えているところで、
私がどうすれば神様が、私が任せられた子供の問題を神様がよく知ってくださるか考えたら、
私が主の前に正しい人になれればいい。
私が主が見られるときに、正しいものなのか正しくないものなのか、
これをずっと考えます。
とにかく主の見舞いで正しいものになろう。正しいものになろう。
それがヘブライショが私たちに教えてくださる。
主が認められる。主を喜ばせる。正しい信仰。
これがどんな人なのかがずっと名前が書いてあるように、
私たちもヘブライショの信仰の人々から学ぶべきことがここにあるのです。
驚くのは神様の手に任せたら、この後驚くことが起こります。
親が何か隠そうとして、
猛瀬を隠して、その地域から他のところに逃げ出したりする。
いつかは捕まえるでしょう。捕まえたら皆殺しなんです。
皆殺されてしまいます。
しかし主に任せたら、主が素晴らしい働きをされるんですね。
まず子供をパピルスで作ったカゴに入れて、
アスファルトを塗り、それでナイル川に流されたんですけど、
それが宮廷の近くに流されていきます。
ちょうどその時、パーロの王女が水浴びをするために川に下ってきたと言います。
それで猛瀬を発見します。
そのカゴを開けてみたら、赤ちゃんじゃないか。
しかしこれはヘブライ人のイスラル人たちの赤ちゃんということはすぐ分かります。
それにもかかわらず、その王女が私が育てようと思います。
それほど何かスペシャルな何かを考えたでしょう。
それで自分が育てようとします。
しかし自分はもうまた子供を育てる準備ができていない状態で、
猛瀬の姉が行って、
ここにいい人がいますよと紹介してくれたのが猛瀬のお母さんでした。
それで猛瀬のお母さんがこの猛瀬の乳母になって、
そして猛瀬を育てるようになりますけど、
宮廷から保育費をいただいてもらって、
そして王女の息子を育てるから、もうエジプトの人たちも何にもできないでしょう。
お母さんの母養を飲ませながら、一番安全な状態で猛瀬を育てることができた。
やはりみなさん、これが神様がなさる御話です。
神に任せたら、一番いい環境、一番安全な環境で、
完璧に猛瀬を助けることができたんです。
猛瀬という名前は王女がつけたものです。
水の中から引き上げたという意味です。
ところがみなさん、猛瀬の母親、今日朝、天道寺さんと話をしながら、
その名前はヨゲベッドという人なんですけど、
猛瀬の母親は、猛瀬を王女様から育ててくれと任せられて、
そのところから、猛瀬の母親は、猛瀬をどのように育てたでしょう。
何をしていたでしょう。
猛瀬よ、お前は宮廷からこれから育てることになりました。
あなたは必ず生き残らなければいけないよ。
旧エジプトの中で出世しなければいけないよ、と言われたでしょうか。
たぶん、お母さんは、あなたは神の民だ、イスラエルの子供だ、
先民としての民族の正当性、神様の身群と神の子いと、
また、信仰の先祖アブラム・イサック・ヤコプから、
神様が私たちにくださった約束、
これを任せられて、王女様に引き渡す時期がどのくらいかわかりませんけど、
短い時間預けてもらったその猛瀬に対して、
お母さんとして言いたいすべてを話したでしょう。
赤ちゃんが何かわからないんじゃありませんか。
ちっちゃい赤ちゃん、何にもわからないかもしれないけど、
その赤ちゃんに対して、あなたは私の子だよ、イスラエルの子供だよ、
あなたは神様の子だよ、神様の身群はこれだよ、これだよ、これだよ、
あなたは王宮廷でこれから成長しますけど、
実はあなたの大事なのは、あなたのアイデンティティはこれだよということを、
ずっと教えられたと思います。そうじゃありませんか。
そうしながら、猛瀬を抱いてどれほど祈ったでしょうか。
猛瀬のためにも、必死に必死に必死に祈ったでしょう。
それで、ある決められた時間になって、王女様に、
猛瀬を、当時はあなたの子供ですと言いながら引き渡したでしょう。
私はこれを考えながら、私たちの教会学を考えました。
教会学は今皆さん、お母さんお父さんが教師です。
もう私たちの子供たちが今、子供としています。
お母さんお父さんは、メッセージを準備するとき、どんな考えでメッセージを準備しますか。
私の子供たちが、神様の御胸を一番よく知っているように、
神様の御声が本当に子供に届けるように、どれほどどれほど準備して、
私の子供、他の人じゃない、私の子供だから、
何か心を込めてメッセージを準備して、
心を込めて子供たちにこれを食べさせようと、飲ませようとするでしょう。
その心、親の心で教えるんじゃありませんか。
また、子供たちのためにどれほど祈るでしょうか。
私は教会で育てられる子供たちは、みんな猛瀬と同じような、
このような環境で今、教会学をやっているんだなと思いながら、
私はこれで本当に大きな意味をもたらすことができる。
みなさん、他の人だったら、
まあ、適当に私は教師だからメッセージを準備するでしょう。
そして、子供たちに時間ができたから、私が同伴だから、
私がメッセージしようという気持ちかもしれないけど、
自分の子だから、自分の子だから、私はもうとにかく、
一番聖書をよくよく解釈して、
自分が噛んで、これを子供の口に入れてあげるような気持ちで、
メッセージをされるんじゃありませんか。
だから教会学のメッセージで、私が恵みを受けているところなんですよ。
本当にみなさんお疲れ様です。
それで王女様に引き渡しました。
その後、使徒行伝7章22節を見ますと、
そして猛瀬はエジプト人のあらゆる教育を受け、
素晴らしい話、またおこないをするものになりましたと言います。
そして猛瀬はもう世の中、人間的に見ては完璧な人になった。
定洋学を学んで一番素晴らしい人になったと言います。
じゃあ次は猛瀬の決断です。
その後猛瀬は成長しながら、深い人生の葛藤がありました。
何が葛藤ですか。
自分のアイデンティティー、一体私は何者なのか。
私はエジプト人なのか、イスラエル人なのか。
イスラエル人なのに、なぜ私は宮廷で生活しているのか。
イスラエル人たちはみんな奴隷として今労働しているのに、苦労しているのに、
なぜ私は宮廷でこんなに楽な生活をしているのか。
イスラエル人なのにそれを隠して、私はなぜここで逃げているのでしょうか。
私だったらイスラエル人だとしても、とにかく宮廷でエジプト人のようになったから、
エジプト人を不利にして、とにかくエジプトの中でうまく出世するために、
もともと私はヘブライ人を大嫌いと言いながら、
本物のエジプト人のように私が生活するように、
そうしたらうまく食べて、生きて、出世して、成功するでしょう。
だからイスラエル人だということは、徹底的に隠していきたいと思うんですけど、
しかしモーセは違った。
素晴らしい聖書、ヘブライ書、中一書、24節、25節、
信仰によってモーセは成人した時、
ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、
儚い罪の楽しみにふけるよりは、
神の民と共に虐待される方を選んだ。
ファラオの王女の子だということを、いや、捨てたということです。
神の民と共に虐待される。
虐待が何ですか。
虐待されることを選んだ。
気が狂ったんじゃありませんか。
私はモーセの人生で一番素晴らしい決断、素晴らしい場面がここにあるんじゃないかと思います。
モーセは葛藤がありました。
その葛藤に対する決断をやりました。
支配者であるエジプトの王女の息子として生きるか。
奴隷である神の民として生きるか。
エジプトの栄光なのか。
神の子供としての身分なのか。
この世の中の栄光なのか。
神様に対する信仰なのか。
モーセはものすごい葛藤の中で工夫工夫しながら人生に対する決断をしました。
王女の子だということを拒んで、私はイスラエル人だ。
奴隷として取り扱われてもいい。
私は元々の私のアイデンティティのところに行きたい。
ある方はこう言うかもしれません。
パーロの王女の子だとしても、いくらでも神の働きはできるんじゃないか。
今まで育ててくれた王女をこんなに裏切っていいのか。
二つともにできる道がないのか。
パーロの王女の子として、またイスラエル人たちを、ヘブラ人たちをよく助ける道はあるかもしれません。
皆さん聖書でオバダオバディアという章があります。
アハブの家来としてイスラエルの預言者たちを生かしてあげた人です。
今、韓国では、日本でも同じでした。
お医者さんなのに牧師です。
大学教授なのに牧師をやっています。
また、ある人は社長をやりながら牧師をやっている先生もいます。
しかし、モーセンに対する神様の計画は、そのような働きによってはできるものではありませんでした。
ここでモーセンがなぜ決断したのか、聖書は二つを教えてください。
ここにモーセンの礼儀的な価値観が現れます。
これが中一章の25節、26節です。
25節に、儚い罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待されるを選んだ。
モーセンは40年間宮廷で過ごしながら、
いや、エジプト人からも追い出され、ヘブライ人たちからも追い出され、
自分の居場所がなくなったとき、孟子はアラノに逃げていきます。
アラノで、そしてミディアンの人たちに自分の身を任せて、
そこで40年間、羊飼いの生活をします。
孟子の人生は完全にためになったと思われるそのところ、
神様の計画がありました。
神様のせちりがありました。
孟子は人間的には優れた知識、優れた知能、優れたものを全部持って、
判断力を持っていました。決断力もありました。
しかし、孟子は礼儀的なところには全く何にもできていませんでした。
だからアラノで40年間、神様と共に歩みながら、
もう孟子は神様と共にいることは分からなかったでしょう。
しかし、40年間、神様と共に歩む時間を過ごしました。
40年が過ぎた後、時になって、神様は孟子を呼ばれます。
そして、孟子を再びエジプトに戻りなさいと言います。
なぜエジプトに戻らなきゃいけないのか、それは大きな意味があって、
創世紀中号章中三節、アブラムと神様の約束があったから、
アブラムと神様の約束を実現するものが孟子だったのです。
では、読んでみます。
主はアブラムに言われた、よく覚えておくがよい。
あなたの子孫は異国の異邦の国で起留者となり、
400年間奴隷として使え、苦しめられるでしょう。
しかし、私は彼らを奴隷として使えるその国を裁く。
その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。
アブラムと神様が何をされたのか、
400年後、イスラエル人たちがエジプトでどんな生活をするか、
また、苦しめられたエジプトを滅ぼして、そこから脱出することまで、
アブラムと神様の間ではすべて約束されていました。
その約束を実現するしもべとして、神様が孟子を選ばれ、
孟子をずっと育てられたのです。
40年前、よ逃げをするように脱出したエジプトに、再び戻ってきた孟子。
イスラエル人たちから歓迎されたのですか?
歓迎されませんでした。
しかし、パラを相手として、十国目の災いをずっと広げていくときに、
イスラエル人たちは孟子を受け入れました。
また、そのところで、エジプトで一番王様のパラオ、
パラオのことを神様が裁かれ、
パラオが神様に屈辱する、このような事件がありました。
それで、そこを出張するようになりますけど、
その中で、十国目の中で決定的な場面が、十番目の災いでした。
これは、長子の災いです。
長子の災いは、エジプトの全ての老い子、初め生まれた者は全部殺すことでした。
しかし、エジプトの全ての老い子は殺されるのですけど、
イスラエル人たちの老い子は誰も死にませんでした。
なぜ?
イスラエル人たちは、神様からの指示によって、
羊の血を、この玄関の門の傍らに塗れたからです。
だから、死の死者が各家に入るときに、
その中で羊の血を塗ったところには、それを過ごしをした、
ペスオーバーしたということです。
これは何を意味するのか?
これが、イエス・キリストの十字架の血を意味する。
この十字架の血を塗ったところには、死の死者がここを攻撃することができない。
災いを下すことができない。
この肌だけを見せてください。
そして、エジプトの老い子は全部死んで、
イスラエル人たちは誰も死ななかった。
その場面、パーラオの息子も死んだんですね。
だから、パーラオが怖くなって、「出ていけ!出ていけ!早く出ていけ!」
それで、シチュエリティの記録ができました。
皆さん、モーゼの人生を通して、神様は何を見せてくださったのか?
一人の人間が救われる、救いの両手を全て見せてくださいました。
皆さん、簡単に申し上げます。
エジプトの生活は何を意味するのか?
これが、私たちは救われの前の人生を意味します。
その中で、パーラオは何ですか?
これが、サタン。サタンを意味します。
昔、私たちはサタンの支配家で、
昔は神様をわからない、そのような人生を過ごしました。
それで、私たちは、杉越の羊の地によって、救われるように迷いました。
この杉越の羊の地は、イエス様の十字架の地下を意味します。
それから、イスラビットはシチュエージとして、後悔を渡るようになります。
後悔を渡ることは何でしょう?
第一コリン島の中心を二節に見ますと、
これが、洗礼を受けたということです。
そして、アラノの生活、40年間、
これは、今、私たちがやっている境界生活を意味します。
そして、ヨルダン川を渡ります。
これは、死ぬということを意味します。
それで、カナンに入る。
カナンは天国を意味します。
じゃあ、エジプトの生活をした、昔の私たち悪魔の奴隷として救えた、
私たちが、イエス・キリストの父親によって救われ、
洗礼を受け、境界生活をし、それで、この世を去って、
それから天国に入る、全ての過程を、
シュチュエジプト、またカナンに入る、そのような両手を通して、
王政が見せてくれたんです。
素晴らしい、王政の人生は、人類の救いの全てが書かれてあるものでした。
ここで一番大事なのは、10番目の災い、コイチジの地震でした。
これが、イエス・キリストの十字架の地震を象徴して、
その地震によって、私たちは救われた。
そして、私たちが救われた後には、洗礼を受け、
アラノの生活を通して、天国に入る。
これ全てが、私たちが分かるようになりました。
王政の人生を、私たちの救いの全てが一目瞭然と見せてくれる働きでした。
王政がこのような人生を偉大に持ち入れられた決定的なきっかけは、
王政の信仰の決断でありました。
神様は私たちに自由意志があるから、私たちを勝手に何かさせておきません。
私たちが決めたら、神様がそこに働くんです。
そこに大事なのは決断ですけど、