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TOKYO NORTH MOVEMENT 飛鳥山の窓から
東京都北区飛鳥山。暖炉のある小篠光洋さんの部屋には、未来を思う様々な人たちが遊びに来ます。
情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
こんばんは、小篠光洋です。今週もゲストには、渋沢資料館顧問井上潤さんにお出かけいただいております。よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
さて、先週まで井上さんが渋沢資料館の館長に御就任されての、どちらかと言えば国際関係と言いますかね、海外に向けての展示というようなこともお話を伺ってまいりました。
今日はですね、僕がものすごい仕事だなと思っている2つのお仕事。
1つは、写真データベースの公開。そして、デジタル版渋沢市電機資料の公開。この2つについてお話を伺っていきたいと思うんですけれども。
まず、2014年の4月にですね、写真データベースというものを公開された。これはどういうものなんでしょうか。
渋沢栄一、数多くの企業の設立育成に関わったということで、日本にはですね、その会社における写真っていう文化があって、他の国にはなかなか残らない、そういう資料的なものが数多く残されています。
海外ってあまりないんですか、写真。
写真っていうのはないです。
そうなんだ。
日本の文化と言ってもいいかもしれない。
で、それを渋沢栄一、数多く関わったということで、世に情報として提供していった方がいいだろうと。
ただですね、図書館のように、こんな写真が何年に発行されたということの初始データを紹介するだけのデータベースじゃちょっと面白くないだろうと。
むしろその写真を読み込んで、その写真の中にある、例えば企業が何かしらをくじけそうになった時、またこんな成功に導かれた時というような様々な事象を抽出して、写真の中にある様々なその事象をわりと横断的に見ていく中において、
この分野の企業においてはこの時代こういう風に発展したとか、というようなところが見えてくるというようなところを鑑みて、そのデータベース化しようというような考え方だったんですよ。
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単なるその写真の紹介ではないというところで考え出したものだったんです。
要するに、相互関係も当然それだけ数集めていけば出てくるし、そういうものをきちっと整理していくということですかね。
渋沢市が関わった会社って500とか言われてるんですけど、こういう会社の写真というのがある程度優先的にという話でありましたけど、当然それ以外の会社もいろいろ集めて研究をされていくという。
他の図書館で全国の写真のコレクションとして有名な図書館はあったりもするんですけども、その中で同じようなものを作るのではなくて、我々がその中から見出せるいわゆる企業文化だとかというようなものを描き出せるようなデータベースというのはどういうものなのかということを頭に置きながら考え出したものだったんですね。
今1600冊以上の写真が収録されている。
そうですね。その中で渋沢市との関わりのあった企業だとか、少し距離のある企業だとかというのが多少見え隠れしてくるんですけども、そんなものをまたまとめ直して渋沢市関係写真編成図というような形で、これは今どうなっているのという質問が結構あったりするんですよ。
今に至る過程において、例えば一番最初に出かけた第一国立銀行というのは、こういう変遷を経て今、みずほ銀行になってますよというようなところがわかるような図化して、可視化するような形でそれも表明するというようなことも併せてやったんですね。
なるほどね。実は私の会社というのは113年くらいになるのかな。本当に長くお世話になっているお得意先の一つが、実は先月放送に出ていただいた日本フェルトの柴原会長が出ていただいたんですが、日本フェルトさんという会社が本当に100年以上お世話になっているお得意先なんですね。
この会社は紙を作るための製紙用フェルトを作られている会社ですから、当然紙の会社との関係が深い。関係が深いということは、人的にもものすごく、当時は今以上に同族的であったり、同族の広がりの中で経営者が決まっていくみたいなところがあるので、そういう関係がものすごく深いんですね。
ですから、変な話ですけれども、私どもの会社には写真というようなものはそれほどきちっとしたものはありませんけれども、私たちの会社の歴史もまたそこに連なっていったりとか、つまり大企業同士のつながりだけじゃなくて、その中小企業がどう成り立っていたのかということへも、たぶん研究のこの写真データベースというのは活かせることになると思いますよね。
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どういう連関の企業とのつながりがあったのかというようなところも見出せるようになりますし、まさに同じ業界の中において、その連携の中でこういう事業が展開していったんだという、意外と結びつかないような、自社だけしか見ていないようなところがあったりするんですけれども、
またそういうつながりの中で実際になされていく時の理念の共有がどういうふうに図られていたのか、当時どういうぶつかり合いがあったのか、また合同することによることの何かしら波風が立っているようなところを乗り越えて、こういう形になったよというような変遷図と合わせて、冊子の中から読み取れる問題。
それから例えば、昨年は関東大震災から100年の年だったんですね。震災の時にそれぞれの企業がどんな被害を受けて、そこからどういうふうに立ち直っていったのかというのを冊子から探り出して、またそれを冊子のデータベースから描き出して、一つのコンテンツにまとめたようなこともできたんですよ。
なるほどね。まさに今名前を出した日本ウェルトさんなんかも、まず大正8年かな、創業されたんですけど、すぐに関東大震災にあって、戸島の工場が壊滅的になるんですね。そこにやっぱり今みたいなお話が当然歴史として出てくるんですよね。
なるほど。そしてもう一方、2016年の11月にですね、デジタル版渋沢栄一電気資料を公開ということなんですが、まずそのベースになった渋沢栄一電気資料というのはどういうものなんでしょうか。
はい、これはですね、渋沢栄一の電気表伝というのは、渋沢栄一生存中から身近な人が書き始めたりしていろんなものが出てました。
で、実は渋沢栄一の孫である渋沢慶三自身がですね、身内の人間がそういうものを書いたって偏りのあるものになるだろうしということで、渋沢栄一をどの時代においてもその時代においての評価の中に対処になるようにということで、やり残した実績をですね、片っ端からその資料を集めて活字化しようということで考え出されたものなんです。
で、まあ編集、いろんな形で途中で途絶えてまた新しい事業展開というようなことで何時かの時期を経て最終的に形になったんですけども、で、例えば銀行明治6年7月7日というようなその資料を読み込んだ中での公文という目次にあたる文章を編集の方で書いて、
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それに関係する第一次資料から原資料として残っているものから、二次的な資料、それから後に渋沢栄一が雑誌等で講演した資料、それから当時どういうふうに報道されていたのかというようなその一つ一つの事象に関係する周辺の事象を表す資料までを全部まとめた資料集なんです。
例えば渋沢さんがご自身の日記として、いついつ飛鳥山邸で誰々と会談したとかって書かれて、それの新聞記事みたいなのがその次に報道がその会合がどんな会合だったみたいなことが報道されて、それに出席されてた人がその時の感想で渋沢王はこんな感じでお話しされたとかっていう、そんな段階になってそういう資料が全部集まっているということですよね。
参考資料までを全部並べられるだけ並べてということで、一つの巻がだいたい600か700ページのもので、本館だけで57館、日常の周辺の新編のことも含めてのことも項目として立ってますけども、
1館から3館までは生まれてから明治政府を辞めるまでが時代ごとでずっとまとめられてるんですけども、4館以降それをやってるともうぐちゃぐちゃになってしまうんで、それこそ渋沢の生き方がそこに表現されるんですけども、
業界ごと、業種別に第4館は金融だとかというふうにして57館まで行って、58館が作品なんです。これがどうしても当時としての限界だったんですけども、いわゆる事業別年風にしかならなかったんですね。
ですから、その時は誰々との交流を調べたいといっても、その人はどこの事業に関係してたのかってことがある程度分かってないと調べられない。
つまり、いわゆるアナログ版が昭和46年にまとまるんですけども、この要するにいろんな角度から横櫛、縦櫛を入れていったのがデジタル版ということで、実にこれが私たちのような研究者ではない、素人にも使いやすい、渋沢さんに興味があってっていう人が、誰もが使いやすいものになってますよね。
全くこんなこと関係ないだろうなという言葉を入れたところで、意外と渋沢栄一こんなことにも関係してたのとか、この人との繋がりもこういうふうにあったんだっていうのが発見できる。
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デジタル版にすることによって、その紙の作品での何十倍のヒット率、検索率が増して。
最近僕、休日、渋沢栄一電気資料をサーフィンするのが、本当に渋沢さんと共にあるような、そこの時代にタイムスリップしたようなものすごく臨場感のある資料ですよね。
決して肩意地張らなくても、あれちょっとした思いつきで、こんなことって何か出てこないかなっていう、その興味本位で調べてみると新たな発見があったりとか。
だからね、このところいろんな諸国会社とかいろんなことで出張するじゃないですか。そうするとね、もちろん徳橋清水町とか深川ごとよりなんですけども。
例えばこの間静岡行ったんですけどね。静岡のことで。データベースで静岡って言うと、静岡に徳川よしのぶのところに渋沢さんが山陰亭園長を連れてって落語を聞かせたとか、そういうのも全部出てくるとか。
本当に楽しいんですよね。極めてマニアックかもしれませんけれども、やっぱりね、渋沢さんにちょっと興味のあった人は、ちょっとなんかね、このデジタル版渋沢市電気資料で使っていただくとですね。
本当に今越野さんがおっしゃったように、触れてみてくださいっていうこと。
これね、画期的、当時多分2016年ですが結構画期的だったのは、これ全部無償なんですよね。
はい、そこはもういろいろ議論ありました。私はその事業を遂行するために、当時の役員会、まだ私は理事にもなってなかったんですけども、乗り込んでいって認めてもらうようにということでプレゼンを大きな声で何度も説明しました。
やっぱりそれを課金しろというような意見も確かにあったんですけども、その課金制度を設けること自体がですね、その仕組みを組み込むことのお金が。
どこまでやったらいくらなのか。
というようなお金の余計にかかってしまうということと、もう一度渋沢の精神に立ち返って、これの意義を問い直すという意味ではですね、渋沢栄一ならそういうことはしなかったんじゃないでしょうか。
むしろ世のため人のためにこうやって役に立つもの、それを有効に活用できるような仕組みを、うちの財団が世に提示しているんだと、提供しているんだということに関して渋沢さんは目を細めて喜んでくれるんじゃないでしょうかね。
というようなことで、何とかとさせていただいて、もうそれだったら無償でいきましょうということで、最後はそれで提供することになったんですよね。
今、飛鳥山でハワイアンフェスティバルということでね、渋沢栄一の飛鳥山のお屋敷に、当時のカラカワ王が来たと。
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こんなご縁で、そんな素晴らしいイベントができているんですけども、こういうこともこの電気資料があったからできるということなんだろうと思います。
今日はこの館長として手掛けられた2つの素晴らしいお仕事について伺ってまいりました。
次週もまたよろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
ありがとうございました。