家業を引き継ぐ
飛鳥山の窓から、TOKYO NORTH MOVEMENT。
東京都北区飛鳥山。暖炉のある小篠光洋さんの部屋には、未来を思う様々な人たちが遊びに来ます。情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
こんばんは、小篠光洋です。今週も引き続き、株式会社格安グループ会長の佐藤順一さんをお迎えしております。今や大企業となった格安さん。この家業をお父様からどのように事業を象徴されたのか、お伺いしていこうと思います。どうぞよろしくお願いします。
さて、先週のお話で、新卒で大学4年の秋までパワーリフティングに打ち込まれて、新卒ですぐに現在の格安に入社されたということだったんですけれども、あの当時は外で修行しなきゃダメだとか、周りが結構そんなこと言ってませんでした?
言ってましたね。ただ、私は本当に2月の末まで親父に言わなかったんですよ。父親は諦めてたみたいですよ。もううちののはどうせやんねえや、みたいな、そんな感じだったです。
そうですか。でも逆に言うと、佐藤さんが別のところに何か当たってるとか、そういう情報ももちろんやってないんだから入ってないわけだけど。
入ってないですよね。
それでやるのかなとか思わなかった。
正式にやるって言われなかったのが寂しかったんじゃないですか。
なるほど、なるほど。それで2月になってどういう感じでお父様におっしゃられたんですか?
いや、お会社に入りますっていうことを伝えましたよね。
その時のお父様はどうでした?
まあ、あ、そうかって、もうすごく何にも感じないような返事でしたけど、内心はすごく喜んでたみたいですよ。
何にもそのことについてネガティブなことはおっしゃらなかったですか?
言わなかったですね。
あ、そうですか。
それはなかった。淡々とあ、そうかわかったっていう感じだったですね。
そうですか。先週申し上げたように僕もですね、私の父に会社でおって仕事やりたいってこういう話をした時にですね、
私の父はですね、これも内心は嬉しくなかったわけじゃないと思うんですよ。
そうですよね。
だけどね、難しい顔してね、やったらネガティブなことを並べてね、お前ら、もう360度頭下げるような仕事だぞとかね、
もうね、3つも4つもね、やらせたくないのかなと思うぐらいね、何かいろんなこと言われた思いがあるんですけど、会長のお父さんも大正生まれですか?
大正です。昭和3年です。
もうあの頃の人たちはそうなんですよね。素直じゃないというか。
そうなんですよね。
特に息子にはそうだったなって気がしますけども。
さて、そういうことで、修行ということではなく、直接入られたということなんですが、これはこれで社長の息子が入ってきたということで、子さんの事業員の方もいらっしゃるでしょうし、反応とかいかがだったですか?
一言で言ってしまうと、大卒は理屈っぽいんだよねっていう、そういう感覚が結構あったかもしれないですね。
ただ、私もやる以上はちゃんとやろうと思って、毎朝5時に会社に行ったんですよ。
まず、飲食店様からの注文が留守番電話に入っているので、その聞き起こしを約2時間かけて。
飲食店だから、前の日に注文して、午前中に整えて運ぶみたいな。
今度、その2時間かけて電票起こしをするんですね。
そうすると、5時から4時間なので、9時になってみなさん出社してこられて、トラックに荷物を積み込んでいる間に朝ごはんを食べて、一緒にトラックに乗って配達に行くという前日でしたね。
それで、夕方6時くらいに帰ってくるんですけど、そこから今度は食事してお風呂入って、9時過ぎくらいから今度は就勤に行くんですよ。
早ければ11時くらいに帰ってこられるし、遅いと1時くらいになっちゃう。
これが土曜日も含めて、週6日間はこういう生活でしたね。
配送サービスの開始
じゃあ、もう睡眠時間4時間。
4時間くらいですね。
それはすごいな。でも、その姿を見ていたら、理屈だけじゃないというか、本当に事業員の方が、なるほどって思っていたでしょうね。
いや、そうでもないんですよ。
ちょうど私が入ってから、世の中がバブルに向かっていくんですよ。
それで、人を採用しようと思っても、本当に人手不足で、お給料の水準もあまり高くなかったというのもあるんでしょうけど、200万ぐらいの採用費を使って電話一本も鳴らなかったことがあるんですね。
ありました。
そうすると現場の人たちは、こんなに人手が不足しているのは会社側がわかってくれないみたいな、そういう態度にやっぱり出てきて。
あるとき、一番大きなトラック3.5トンぐらいのトラックがあって、ものすごい量が詰めるんですけど、これ大体いつも3人で配達行くトラックだったんですね。
それが留守番電話を聞いて、電票越しをやって食事して戻ってくると、丸々1台、てんこ盛りで残っているんですよ。
あれ、今日は?って言ったら、いやもう人が足りないんで、一人で行ってくださいみたいな。
分かった分かった、そういうことねって思って、ここを把握ししばってやらなきゃいけないという感じで、その日は一人で行って、定時よりも逆に少し早く帰ってきました。
それをやってからちょっと雰囲気が変わりましたね。
なるほどね。
やっぱり今事業処刑をいろいろ考えている、僕らどっちかというと処刑させていく立場だし、逆に処刑する側の人たちもこの番組を聞いてくださっていると思いますけれども、処刑する側の方に、あの当時の会長を思い浮かべてアドバイスするとするとどうですか?
最初は味方いなかったんですよね。ただそのトラックの話があった以降、一番の反対分子みたいな人が逆にこっちについてくれたんですよ。
もう分かったっていう感じで、そこから傾きが随分変わりましたね。
なるほどね。
右腕ができたっていうことですかね。
たぶんその象徴的な出来事もそうですけれども、普段からの会長のいろんなお人柄も含めてね、それがだんだん浸透していってということだと思いますけれども、そういう意味では焦っちゃいけないですね。
そうですね。
一つ一つ自分の目の前のことをしっかりやっていくっていうことがやっぱり一番大事な。
1年や2年でうまくいくわけないんで。
僕はもう全然そんなしっかりしたこと何もやってきてないですけど、でもこっちの方が時間があるんだっていう。
待てるとか、僕には時間があるっていうのはやっぱりすごいアドバンテージだった気がしますよね。
ですからちょうど4年半ぐらいそんな生活を送りましたよ。
店舗展開のアイデア
そうですか。さて、先ほどもお話が出たように、まさにそこからバブルに入っていってということなんですけれども、
このバブルの中でもっていわゆる店売りっていうことも結構やり始めた。
今すごく目立つピンクの看板っていうことなんですが、あれも会長がやっぱりアイデアだったんですね。
そうなんですよ。これも本当に偶然で、ちょうどそのバブル絶頂の頃、人手不足で、トラック配送車両の入れ替えがあったんですね。
私当時専務をやってましたんで、そのディーラーの方とお話をしていて、いつも白か紺だったんですよ、トラックの色が。
今回どちらに支払いますかっていう側に聞かれて、今ちょっと殺伐としてるから、なんかちょっと心が温まるような色がいいな、
例えばピンクとかさっていう側に私は話したつもりだった。ただ本当にピンクが納車されちゃった。
でもね、本当に今となっては車を運転してて、なんとなくパッとピンクがあったみたいなね。本当にアイキャッチもいいし。
そうなんですよね。だからお酒でピンク使うってなかなかなかったんですけども、結果としては正解だったかもしれないですね。
そうですね。あの頃だからちょうどなんかピンクっていうのがちゃんと使われるようになってきて、
ジャルがグレーとピンクにしたりとかね、そういう時代でもあったし、時代にマッチしたところだったかもしれないんですが。
さてですね、お店を展開し始められると、そこで現在のビジネスモデルの核ともなっておられる自宅への配送サービスということがスタートしたんだと思うんですけれども、
この背景はどういうものでしょうか。
これはですね、実はバブルに向けていろんな飲食店ができたんですね。
酒屋業務の苦境と配送の導入
でもそれはもうバブルを前提にしてたんで、バブルが崩壊したと同時に、バブルに向けてできたお店がどんどん潰れていったんですよ。
飲食店さんが潰れると当然2か月分ぐらいの売りかけ金が引っかかるわけですね。
ここも潰れた、こっちも潰れたっていって、不良債権がどんどんどんどん膨れていくんです。
そうなると今度お金が回らなくなってくるので、なんとかお金を回さなきゃいけないということになって、お金を回すためには現金商売をやらなきゃいけない。
当時お酒の安売り屋さんが流行っていたので。
そう、本当に安いのが正義みたいなね。
そんな感じですね。
ですからうちもちょっと真似事みたいなのをやってみようかと。そんなにたくさん売れなくてもキャッシュが入ってくるから、会社の資金繰りも楽になるだろうということで始めたのがお酒の安売り屋さんだったんですよね。
当時、徳島にご実家の卸を中心にやっている当時から一つお店があって、まずそこでそれをスタートさせていただいて。
この配送をなんでやったのかっていう話もあるんですけども、当時のディスカウントっていうのは広い倉庫型の店舗で広い駐車場、大量陳列、大量販売、セルフ。だからローコスト、安いというロジックだったんですけど。
自分がやろうとした店ってすごいちっちゃかったんですよ。車も入れなかったんですね。
ですのでああいう商売はできないなと。少なくとも自分がお客さんだったら自分のお店に来ないであっちの大型店に行くなと。
なるほど。
自分でそのお店をやろうというときに、自分がお客さんだったら自分が来ないっていうお店をやるときのつまらなさっていうのがあるんですよね。
なるほど。
何か持ってないのかということで始めたのが配達だったんですよね。
なるほど。
ディスカウントのロジックに配送というのはものすごくコストがかかりますからないんですよ。ですから誰もやらないんですね。
ですので配達するディスカウントだったら売れるかもねっていう程度の感覚で始めたのが配達、宅配ですね。
なるほど。でも先ほど先週お話し出たように20数年前に初めてお会いしたときに、僕はほぼ初対面のときに会長からうちの会社は20数年後は物流中心の会社になっているかもしれないよと。
お酒売ってないかもしれないよって言われたのがものすごく印象的なんですけれども、そういう発想っていうのは当時からもあった?
なんとか店の売り上げを補完しようという必死の思いで宅配だったですね。
店舗展開と市場の変化
ですから売れる売れないっていうことよりも、なんとかして大きい店に勝ちたいなということで始めたものだったんですけれども、やはり店頭ばっかり売れちゃって宅配あまり売れなかったんですよ最初は。
なるほど。
ただ配送料も無料にしたりとか、お店の数を増やしていってどこでも行けますというふうにしたりだとか、そういったことをずっとやっているうちにだんだん浸透してきたというのはありますね。
なるほどね。さらに3年間で約100店舗を出店されたということなんですけれども、かなりのスピード感だと思うんですけれども、この辺のところはどういう感じだったんですか?
これはですね、お酒のマーケットって実は1996年にピークアウトしてるんですね。それから一貫してマーケット減ってるんですけれども、その縮小マーケットの中でその翌年1997年にお酒の免許の自由化を内閣が決めるんですよ。
そうだ。
それでそれまでは都内で新しい酒屋さんを開けることはできなかったんですよね。
なるほど。
ただ2003年の9月っていう期限を切られて、その2003年の9月に自由化をしますと。
となると2003年の9月に大手流通はみんな酒やってくるよねと。それまでに勝負つけちゃわないと多分ダメだろうということで、この少々県の中でお届けを武器にして選ばれるということを考えると、
都内で約137店舗ぐらいの店舗がないと東京23区どこでも。
自分のところの商権を要するに面積で割るということね。
割ると。
となって137に向けて出店をしてね、東京23区どこでも1本から2時間で無料配送っていうこの仕組みじゃないと勝てないと思ったんですね。
なるほど。
1年間で30店舗ぐらいずつ出していくんですけれども、ここにもすごく大きな錯誤があって、それまで安売り屋さんをずっとやってましたから、安売りの店舗って実は売り上げが立つのが早いんですよ。
買う前から比べられますよね、チラシ入れて。ですのでオープンから結構売れるっていうところがあるんですけど、お届けで差別化っていうのはこれなかなか難しかったですね。
なるほど。その錯誤の話は来週続きをまたお伺いしていきたいと思います。またよろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。