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2024-08-08 15:30

#9-2ゲスト: 阿部貴明さん 清涼飲料業界の黎明期を築いたトーキョーサイダー / 「アイデアと文化を美味しさと一緒に日本に紹介」の信念

【今月のゲスト】

阿部貴明さん

【テーマ】

・清涼飲料業界の黎明期を築いたトーキョーサイダー

・「アイデアと文化を美味しさと一緒に日本に紹介」の信念 



東京商工会議所北支部会⻑である越野充博が

王子飛鳥山の邸宅の談話室で、北区内外の多彩な起業家、経営者の方々をお招きます。

情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。

グラスを傾けながら、北区の未来を語り合います。


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TOKYO NORTH MOVEMENT 飛鳥山の窓から
東京都北区飛鳥山。暖炉のある小篠光洋さんの部屋には、未来を思う様々な人たちが遊びに来ます。情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
こんばんは、小篠光洋です。今月のゲストは、丸元飲料工業株式会社代表取締役、阿部貴明さんをお迎えしております。
第1話では、阿部さんのパーソナル部分やお父様からどういう風に聞き継がれたのか、そういったところを伺ってまいりました。
今日も阿部さん、よろしくお願いいたします。
はい、改めましてよろしくお願いします。
ということでございまして、もうちょっと丸元飲料工業さんの成り立ちみたいなお話に戻るんですけれども。
先ほどお話しされたように、108年ということですから、大正5年。
大正5年、1916年。
当時、スタートされた時の主力商品はどうでしたか。
スタートの時はですね、初代創業者、阿部玄能錠って言うんですか、それで丸元って言うんですか。
あ、なるほど、そうか。
玄能錠さんの玄を取って、昔ヤゴで丸つけたり三角つけたりしてた。
なので前掛けに真ん中に玄能錠が書いてあって、それで丸元なんですけど。
丸元飲料阿部商店って言ってた時代に、新潟、柏崎から出てきたっていう風に聞いてます。
出てきて、ご縁があったんでしょう、ラムネの仲買いの仕事を始めて、
しばらくして自分で作るぞということで、ラムネの製造業を始めて。
それを細々とずっとやりながら、というのが初代創業の時代ですね。
そこから戦後になってくるってことですか。
そうですね。おそらく最初は本当に水に炭酸を吹き込んでシュワシュワする、得体の知れない新しい飲み物。
そこに相当の新規性があったんだと思います。
それまではお茶だったりお水だったりというのが飲み物主力だったので、楽しい飲み物が一つ。
大正10年生まれのうちの親父はね、本当にラムネ好きで。
縁日行って子供連れて行ってくれるじゃないですか。
その時にね、母親はあまり買い食いを勧めないんだけど、
うちの親父は本当にラムネが好きで、ラムネ飲むかって言ってよく買ってくれましたよ。
やっぱりですね、これね、今の時代とは全然違う価値観の中で明らかに晴れの日だったんですよね。
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日常と非日常の境があって、日常は本当に一生懸命仕事をして、
今風で言うとライフワークバランスとか言いますけど、そんなかっこいいことじゃなくて、
泥まみれになってみなさんそれぞれ頑張って仕事をする中で、晴れの日には何かあって。
ラムネなんかもあれば、その後戦争で一旦全部リセットされてしまいましたけども、
戦後、東京サイダーというブランドで、王冠戦のサイダーをスタートしてですね。
それもラベルの真ん中にですね、旧両国の国技館。
これが復興のシンボルとして使わせていただいたようなんですけど、当時ですね。
下町隅田の周り焼け野原になって、一面何も見えない、真っ平な状態の中で、
その国技館だけがしっかりとしたビルで残っていて、それが復興のシンボル的なことですね。
その後、GHQで使われた時代があったりとかですね。
ですけども、これを使って復興のシンボル、東京サイダーを戦後スタートしたと。
これもみんな疲弊をして戦争負けちゃったし、みたいなところから、
力強く日本中が明るく元気で復興していく過程の中で、それぞれ役割分とあったんだと思いますけど。
当初の役割としてはご褒美飲料というか、あれの日に子どもたちに。
当時おそらく甘いもの、炭酸飲料ももちろんそうですけど、甘いというだけで相当特別だった。
そりゃそうでしょうね。地元のお菓子屋さんに聞いたことありますよ。
戦前代くらいの人に。砂糖を使う量が、当時昭和60年代にその話聞いたんだけど、今の3倍くらい使ったよっていうね。
甘いってことが価値だったんだよっていう話は聞いたことある。
砂糖が贅沢品だったっていうのは、もう象徴してるのは、砂糖は物品税の対象だったので。
なので、ずっと平成元年、それも結構前になっちゃいましたけど、今の消費税が最初に導入される前までは、砂糖物品税がついこの前まで存在してましたね。
あと、御社の仕事に関わることで言うと、昭和40年代からやっぱり外国のやり方の外食産業が入ってきてっていうのは、
かなり転換点になったっていう話もあるんですけど、それはどういうことなんですか?
一つは、いわゆる外資の大手飲料メーカーさん。今、どなたでもご存知の大きな飲料メーカーさん。
これが日本に入ってくるのを、中小、地場の飲料水屋は団結をして阻止をしてたわけですけど、
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いつまでもそんなことは許されるわけなくて。
日本にいわゆる外資の大手さんが入ってきたのと、ほぼ同時期に、というかゲームツイートはちょっと遅れて、
今で言うファーストフードさん、あるいはファミリーレストランさん、あるいはアイスクリームチェーン店さん。
マクノダルドのね、1号店銀座なんだけど、ごく初期の時にね。
なんか3号店で聞きましたよ、そこ王子の駅前。
そうそう、ここも3号店だし、それからね、僕の通ってた高校のあったね、江古田駅っていうところ。
これはね、たぶんかなり早いんですよ。
すごいびっくりした思いがある。
その頃だね。
で、その頃って、バーガーが入ってきたじゃなくて、ハンバーガーを食べる文化が入ってきたんですよね。
で、銀座に1号店がオープンして、歩行者天国が始まって、
ハンバーガー屋さんでハンバーグ買って、右手にハンバーグ持って、左手にミルクシェイク持って、
で、外に出て歩きながらハンバーグを食べると。
そのね、ミルクシェイクのね、容器をね、飲み終わったら捨てるっていうのはね、これがものすごいカルチャーショックだったよね。
びっくりしたの、これどうすればいいんだろうと思ったら、そこに捨ててくださいって言われてね、ほんと驚いた記憶がある。
物は食べながら歩っちゃいけないものですよ。
なので、買った物を両手に持って、相手の手に手づかみで両方持って歩きながら食べるって、
そのこと自体が相当新規性のあるショッキングな文化流にあるんですね。
で、そのハンバーガーもそうですし、アイスクリームもそうですし、ドーナツもそうですし、今まで日本になかった。
日本初のファミリーレストランさんでも洋風メニューをやるので、例えばパンケーキにメープルシロップをかけるとかですね、
あるいはチーズケーキにブルーベリーのトッピングをかけるとか、メープルシロップなんか誰も見たことない。
で、ブルーベリーってなんだろうみたいなことになるわけですけど、
それぞれがアメリカ行ったりヨーロッパに行ったり、日本国外にそれぞれの立場でシェフだったり、新しい店舗展開をしようとする方々が行かれて戻ってきて、
じゃあチーズケーキやろうみたいになった時にブルーベリーのトッピングって言われて、実はですね、うちの仙台技術屋なんですね。
これも話すと長いんですけど、炭酸飲料って薬事法が一時コントロールした時代があって、
それが薬の代わりみたいにセルセルスイーツってですね、飲まれた時代があるんですよ。
夏目漱石の小説なわけだよ、なんかそういう話が出てる。
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なので炭酸飲料の製造現場には必ず薬剤師がいなきゃいけなかったんです。
で、先々代の時代は薬剤師さんを雇っていたんですけど、他人に給料なんか払いたくないみたいなことがあってですね、
息子たち捕まえて、学校行かせてやるから薬剤師になると。
それはもう親父死ぬまで言っててですね、薬剤師なんか実はなりたくなくてですね、
違うことをやりたかったらしいんですけど、もうしょうがないんだねって言われたから。
ただそのおかげでですね、海外から入ってくるいろんなもの、
それこそ実はミルクシェイクのフレーバーショップなんかもうちでやらせていただいてたし、
マクドナルドさんが一番最初に持ってきたチョコレートのドリンクなんかもうちでやらせていただいてたりとかですね、
海外から来るもので、そのまま輸入してスタートするものもありましたけど、
言葉が正しいかどうかわからないですけど、今でいうとコピーをしてですね、同じものを日本で再現するっていうようなことを相当。
だから直接食材を輸入して、日本国内でそうやって今のコピーで加工して出すみたいなね。
そういう事業システムというか、モデルを確立したのがその頃だということですね。
臆せず申し上げると、ほとんどの洋食、外食チェーン店さんなり、居酒屋さんのチェーン店さんなり、
お取引があるんですけど、ほとんどが1号店からですね。
ほとんどが1号店からお取引ですね。
1号店からお取引でも、結局今残っているところ以外に、
捉えはしたけど、今は影も形もないお店というのがたくさんあるので。
とにかくだから、外国から来たり新しく事業を始めたら、
まずマルゲンさんに相談しないとみたいなボールがあるってことですね。
素晴らしいね、それはね。
そんな形で1つビジネスモデルを確立された。
さらに1990年代になると、いわゆるオレンジの自由化とか、
世界中からそういう果物が自由に入ってくるみたいな時代になって、
またここでマルゲンさんの世界に強いみたいなのが発揮されるっていうところになるんですかね。
そうですね。実はですね、非常にローカルなジバの炭酸飲料メーカーが、
外食に目をつけながら、先代の時代、今申し上げたように、
海外のものをコピーをして生産できる体制を作ってきたこの流れの中で、
1974年に初めてアメリカとの合弁会社を作ったんですね。
その合弁会社は今でも販売してますけど、
アメリカにあったチョコレートドリンクを日本に普及させるためのアメリカの会社との合弁で、
これをきっかけに海外との取引というかが始まって、
先ほど申しましたように私、仕事始めあってすぐアメリカの生活を経験させてもらいましたけど、
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今でもこの1974年の合弁からスタートした海外との仕事の仕方がずっとつながってきながら、
その時々アメリカとの仕事の仕方が、
アメリカとの仕事の仕方がずっとつながってきながら、
その時々にアイデアと文化をおいしさと一緒に日本に紹介するということをずっと続けられてきているのは、
先来がやった1974年の合弁会社が一つの大きなきっかけだったなというふうに思ってます。
なるほどね。今も安倍さん、本当にお忙しい国内での業務や公務の合間を縫って、
南アフリカに行かれたりとかほぼ行かれるじゃないですか。
あれはやっぱりさらに新しい職材探しみたいな。
そうですね。本当はもっと外に出たいんです。最初責任を持って仕事を始めた頃、
社長になる前は年間のうち延べで3ヶ月分ぐらいは外に出てたんですよ。
さすがに社長になって常にいないというわけになかなか行かなかったり。
ましてや今となってみると、1週間完全に空けるのって結構厳しいんですけど、
それでも頑張って調整しながら、自分が見て判断したいものとかですね。
あるいはもっと言うとこれ、日本と全く同じで人間同士の仕事なのでですね。
特に日本以上に気をつけないといけないのは、何千キロ、1万キロ、1万5千キロ離れた向こう側で、
弱小マルゲン量を信じてフルコンテナの荷物を積んで船に乗せてくれる。
逆の立場から言うとすごいリスクですよね。
なるほどね。
ありがたいことにほとんどが信用取引でですね、LC開いてくれみたいな先は結果的に一切なくて、
ちゃんと送金ベースでもって役場に従って仕入れさせていただける関係を続けるためにも、
やっぱり頻繁にはお会いできないんですけど、向こうから日本に来ていただく、
あるいはこっちからお伺いする、お互いの気を殺しネタで、
一番重要なのはこの人は嘘つかないねと、この人は逃げるようなことは絶対ないなっていう風に
思っていただけるような人間対人間の信頼関係を海外取引の中で作り続けるっていうのは、
やっぱりリアルが重要で。
なるほど。
コロナの間、出張できない期間が結構あって、オンラインでやってましたけど、
やっぱりオンライン通じないことってたくさんありますよね。
なるほどね。また次回はですね、今度それを踏まえた今後の展開なんかから話を伺っていきたいと思います。
また次週もよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
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