1. 飛鳥山の窓から -TOKYO NORTH MOVEMENT-
  2. #11-1 ブルーオーシャンだっ..
2024-10-03 15:37

#11-1 ブルーオーシャンだったフラ専門誌をお一人で始められたきっかけや苦悩|ゲスト: 平井幸二さん

【今月のゲスト】

今月のゲストはフラ専門誌「フラレア」編集長 平井幸二さん


【今月のトークテーマ】

・お一人で切り開いていくそのバイタリティは学生時代から?

・広告代理店を辞めて、お一人で誌面づくりを始めたきっかけは?

東京商工会議所北支部会⻑である越野充博が

王子飛鳥山の邸宅の談話室で、北区内外の多彩な起業家、経営者の方々をお招きます。

情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。

グラスを傾けながら、北区の未来を語り合います。


 ▼しぶさわくんFM公式サイト

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://shibusawakun.fm/⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

 ▼公式X →@shibusawakunfm⁠

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://twitter.com/shibusawakunfm⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ ▼公式Facebook

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://www.facebook.com/shibusawakunfm?locale=ja_JP⁠⁠⁠⁠⁠

00:06
TOKYO NORTH MOVEMENT-飛鳥山の窓から
東京都北区飛鳥山。暖炉のある小篠光洋さんの部屋には、未来を思う様々な人たちが遊びに来ます。情熱とアイディアが交錯した素敵なおしゃべり。さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
TOKYO NORTH MOVEMENT-飛鳥山の窓から
パーソナリティーを務めます、小篠光洋です。
今、私がいる場所は、王子飛鳥山にある邸宅の談話室。
こちらに、北区内外の多彩な企業家、経営者をお招きして、グラスを傾けながらじっくり楽しくお話をする。そんな雰囲気の中でお送りしたいと思います。
今月のゲストは、日本初のフラ専門誌、フラレアの編集長、平井浩二さんをお迎えしています。平井さん、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
2年くらい前に、私も渋谷クロスFMの方の番組に出ていただいて以来ということですし、もちろん、2022年、2023年と行われました飛鳥山ハワイアーフェスティバルに全面協力いただいている平井さんでございますけれども、
改めて、平井さんは日本初のフラ専門誌を創刊した第一人者であり、雇用なくフラハワイを愛する方として、今月は特に北区の一大ハワイイベント、飛鳥山ハワイアーフェスティバルの主催者の一人として、
今日は色々お話を伺いたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
さて、そんな感じで平井さんとは旧知の中みたいにさせていただいているんですけれども、
今日は視聴者の方に平井さんの少しパーソナルな話を伺いたいということでございまして、
平井さんは、僕が昭和33年生まれですけど、2つぐらい弟というか、1960年、昭和35年の生まれということなんですけれども、
学生時代とかも、やっぱりハワイ関係されていたんですか?
いや、全く学生時代はそんなこともなくて、もう普通というか、あまり学校行きたくない学生でしたね。
だからやっぱり当時、ディスコ、土曜日行って、日曜日の朝帰りというのがもう習慣になっていたような。
すごいですね。一泊二日でディスコ行ってた。
寝ないんですよ。
あの頃というと、1977年とか。
そうですね。
03:01
サタデーナイトフィーバーはもう。
ありましたね。あと番組だとソウルトレーンとかね。3Dグリズムとかしてましたね。
なるほど。そうすると、じゃあもうそこで真ん中で踊ってみたいな。
そうですね。もうそれですね。やっぱり好きでしたね、踊りが。
でも、そもそも結構お金かかるじゃないですか。一泊二日、月に4回、5回行けたら。それはどうされていたんですか?
今はね、写真館だけかな、残っているのが半蔵門のところにね、登場会館という結婚式場がありまして、そちらでアルバイトしていました。
じゃあ、蝶ネクタイなんかして。
はい。白のジャケットに蝶ネクタイをして、ボーイさんやってました。
なるほど。あの頃だとアルバイトどのくらいだったんですか?
どのくらいだったんですか?
いや、すっごく良かったんですよ。
そうですよね。だいたいどうだろうな。普通にその辺で新聞配達とかってやると、時給500円とか600円まで行ってなかった気がするんですよね。
学生だったんでね。行ける日、行けない日があるんですけども、基本的に1日だいたい6000円くらいですかね。
10時、夜8時くらい。で、2食ご飯ついて。
またね、結婚式場だから当時といえばなかなか食べれないような4食も食べるんですよ。
なるほど。
ご主義ももらっちゃって。
結婚式で。なるほど。じゃあそれを原始にして。
そうなんです。
衣装っていうんですか?お洋服だったり。
そうですね。買いましたね。六本木だ、新宿だって言ってました。
じゃあトラボルタみたいに白い上下でとか。
それはなかったんですけどね。
なるほど。
平井さん、実は北区にも学校のお友達とかがいらっしゃってて。
もう何十年も会ってないんですけども、中学の時にね。中学からずっと同級生で。
シガっていうのがいるんですよ。それが田畑なんですよ。
そいつがね、いつも学校に納豆持ってくるんですよ。
大きい大粒の納豆で有名ですよ。
それで納豆を覚えたっていうか、僕はですね。
彼のロッカーの中には醤油があるんですよ、いつも。
それで平井、食っていいよって納豆くれるので、こう食べるんですけども。
納豆の食べ方、初めて教わりましたね。
いきなり醤油かけちゃダメだぞって。混ぜてから。
糸を引いてからね。
そうなんだっていうのが覚えて。
納豆の味って、あの味が僕の頭の中に刷り込まれている。
なるほど。
納豆帰宅で平井さんと結びつく。
納豆帰宅。シガ君ですね。
なるほど。分かりました。
シガさん元気でしょうか。聞いてていただけるといいんですけど。
ということでございまして。
高校を卒業されて、もちろん大学もその勢いっていうか。
時代もね、だんだんバブルに入る頃でしたしね。華やかなそういう。
そういう意味では、フラダンスではもちろんなかったけれども。
06:02
いわゆるダンスというか。
そういう原点みたいなのは、もしかしたらそこにあったかもしれないですね。
多分そうだと思うんですよね。
ダンスという意味では。
やっぱりディスコだと群舞なんで。
みんなステップ揃えてるじゃないですか。今とは違ってね。
だからそういう面でいうと、フラのステップ揃える。
ディスコでステップ揃える。手の動きも一緒っていうのは。
同じだったなと思います。
ちょっと後でお伺いしますけど、それが後にも生きてくるみたいなところもあったっていうことなんですかね。
そしてバブル期、まだまだ続く中で就職をされてということなんですけども。
スタートはどういうお仕事でいらっしゃったんですか。
デザイナーですね。
デザイナーでもっての、何でしょうね。それからディレクターになっていくという。
なるほど。じゃあ広告代理店みたいな。
そうですね。なのでお客様との打ち合わせも行ったりとかしていたので。
当時はパイオニアですね。それからワーナーパイオニアとかですね。
知っている方だったら中森明さん、矢沢恵吉さんとか。
縦川男子もそうだったりするんですかね。
そんな方たちの広告のデザインを作っていましたね。
そうですか。
打ち合わせからなんで全部なんですけど。
だからもう本当にある意味トータルで一気通貫でお仕事されていたという感じですね。
そうするとどうなんでしょう。そこでずっと一生やられていても。
いや一生やりたかったんですよ。なかなかね。人生って別れ道があるもので。
僕の知り合いが今勤めていたときの会社にいまして。
彼がちょっと辞めることになって、じゃあ僕も辞めるよということで辞めちゃったんですよ。
何も後先考えずに。
じゃあもうちょっと正義感でもって。
そうですね。そんな感じですね。
それで翌日から何も職がなくなってしまったというのが始まりなんですよ。
当時独身だったんですか。
いやもう結婚してました。
子供いましたしね。
勢いで辞めて、後から奥さんに報告みたいな。
その晩報告ですね。
そうですか。素晴らしい奥さんと支えられて独立された。
ご自身の広告会社というようなことでスタート。
そうですね。鎌倉も海辺に近くにいましたので、当時もうナミノリにハマってたんですね。
それでアドバタイジングでアド、ナミノウェーブという会社を作りまして。
一人で始めたんですよ。
それがぼちぼちとどんどん大きくなって育ってくれましてですね。
やっぱり湘南育ちの人は会社を作る人もかっこいいですね。
いやいやいや。
でも一歩ずつそういうことをされた。
そうですね。はい。
なるほど。フラとそのお仕事をされている中で出会ってということだと思うんですけれども。
09:02
そもそも今大変素晴らしい雑誌を作りになられているんですけども。
ここに至るきっかけというのは何だったんですか?
きっかけはね、ゴッテスっていう。
今でもありますね。
今サーフショップね。茅ヶ崎の。
そこがロングボードの大会を主催してやってたところに僕が選手として出てたんですね。
その大会のエキシビション、お昼休み。
そこにフラの団体が子供から出てきて。
自分の中で持っているフラダンスというものと違ったんですよね。
生で初めて見たっていう。
なるほど。我々子供の頃って結構ミノみたいな腰巻きをして。
で、ちょっと何ですか。
ココナッツブラつけて。あれタシチアンなんですけども。
それがもうぐちゃぐちゃになってた時代。
そうですね。それが波の形で手でやってみたいなイメージですけども。
そういうものじゃなかった。
なるほど。しかも年代も子供さんから若い女性、男性、そして高齢の方も参加だったんですね。
本当にイメージ変わりましたね。
当時はだからまだ、もっと前だとエルビス・プレスリーの映画なんかも白人女性が手をやって波とかも。
ああいうイメージがやっぱり強かったなと思うんですけども。
全くも違うものでした。
なるほど。で、それでフラに出会って。
でもまだなかなか雑誌にまで届かないと思うんですよね。
そうですね。そういうのがあって、結局接続してうちの家内とかがフラを始めて。
なるほど。奥様がご自身で始められて。
あまり熱心にやってるから、本でも買っていってあげようかなと思って。
東京駅のエアイスブックセンターに行って聞いたら、フラダンスのもんないですねって言われてしまいまして。
なるほど。で、前の番組の時にもちょっとお伺いしたんですけど、ご自身も始められたんですよね、フラダンスを。
そうなんです。それちょっと後ほど、もうちょっと後なんですけども。
それで本がないので。
先に本を探しに来たのが先なんだ。
本屋さんでなかったから、東京駅の丸の内にあったハワイ州観光局に行って、フラダンスの本ありますかって聞いたら、ハワイでも日本でもないです。
これでもちょっと意外ですよね。
で、仕事が出版関係とか関わってましたから、ないんだなっていうところからちょっと調べ始めたんですね。
そしたらやっぱり日本ではないし、フラメンコの本はあったけどないんです。
フラ違いですもんね、全然ね。
だからどうなのかなって一回見学に行ってみようということで。
そこでご自身が行かれた。
そこで行ったんです。
それで見たら、これはサーフィンの筋肉とは使い方が違うし。
お教室はやっぱりお近くの。
鎌倉の在木座にあった。
もうだから夕方、夏の8月かな、水曜日に行ったんですけども、まだ日が夜7時頃でもあって、ちょうど稲村の岡崎のところの日がこうずっと落ちて。
12:05
いいロケーションだ。
富士山が見えてね。そんなところのスタジオだったので、いやこれはやるしかないなということで先生にね。
僕もちょっとあの、弟子入りさせてくださいってダメって。
なんでですか?
そうか。
男の人一人じゃできないっていうことで、男性何人か連れて行って始めたのがスタートのきっかけです。
なるほど。じゃあそこでご自身も体験をされながら、書籍もまだ出てない広告代理店で培われた館の中で、ある種ブルーオーシャンで行けるかなっていう感じになったんですね。
なるほど。どうですか?スタートされて、いろいろスタート当初ご苦労もあったと思いますけれども、雑誌を始められて。
見本になるものが何もない。
それはそうですね。
日本にもハワイにも。作ったものは本当紙何枚かの企画書ですよね。それを持ってハワイに乗り込んで行って取材をしたのがやっぱり大変でしたね。誰も信用されない信用してくれない。
なるほど。
最初はフラマナって名前にしたんですけども、ハワイのフラの先生有名な方が、マナなんて日本人が言うものじゃない。重いよ。
だから楽しむってレアだから。フラを楽しむんでフラレアにしなさいっていうことで、名刺から何かの全部作ったのを書いちゃったんですね。
なるほど。これはまだその雑誌を実際に出す前の事前の取材みたいなところで、フラレアという名前が決まった。
名前だけと紙っぺらを持ってハワイに取材に行ったっていうのが最初ですよね。
だからショップ取材させてくださいって、どこの雑誌?っていう感じだったんですよね、当初は。
見本も何もないし。
印刷して上がったら、やっぱりやりやすかったですよ。
最初、創刊出た時は、みんなこんな本売れないだろうって言われ続けてきたんですよ。
表紙も暗いし、なんかわけわかんない踊りの本って。専門家たちからは出版の。
ところがその出た日が電話も鳴り止まなくて、書店からの注文注文で。
雑誌で増刷するなんていうことはありえない話なんですけども、絶対変本になるから。
それでも増刷して出ましたね。
すごいロケットスタートを切れたっていう感じだったんですね。
自分でもどうしようかなっていうぐらいの喜びがありました。
そうでしたか。
何号か出たら、やっぱりハワイでの取材はやりやすくなりました。
なるほど。
まさにね、持ち通りのブルーオーシャンのところでスタートした雑誌フラレアということだったわけですけれども。
次回はですね、平江さんの紙面作りに対するこだわりとか、その辺のところをもう少し深掘りして伺っていきたいと思います。
よろしくお願いします。
15:00
ありがとうございました。
15:37

コメント

スクロール