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飛鳥山の窓から、TOKYO NORTH MOVEMENT
東京都北区飛鳥山
暖炉のある小篠光洋さんの部屋には、未来を思うさまざまな人たちが遊びに来ます。
情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。
さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
飛鳥山の窓から、TOKYO NORTH MOVEMENT
パーソナリティを務める小篠光洋です。
今、私がいる場所は、大寺飛鳥山にある邸宅の談話室。
こちらに、北区内外の多彩な企業家、経営者をお招きして、
グラスを傾けながらじっくり楽しくお話しする。
そんな雰囲気でお送りしたいと思います。
コミュニティアクセラレーターの役割
今月お迎えしておりますのは、コミュニティアクセラレーターの川原敦さんです。
ようこそいらっしゃいました。
はい、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
まずですね、私言い慣れない。
ですよね、よく言われます。
この気になる肩書きも含めて、川原さんの活動内容を簡単にお伺いしてもよろしいでしょうか。
はい、ありがとうございます。
私ですね、東京都帰宅在住なんですが、
豊島区に統計しておりますポタージュ株式会社というですね、
会社の代表取締役をやっております川原敦です。
コミュニティアクセラレーターというですね、聞き慣れない肩書きで活動しているんですが、
これはですね、車のアクセルとブレーキってあるじゃないですか。
アクセルっていう言葉をイメージするとわかりやすいんですが、
背中を押す人っていう意味なんです、アクセラレーター。
加速する人、加速をしない人。
つまりコミュニティという人のつながりをつくる力を通じて、
いろいろな方々の活動を支援していく。
そのような活動を主に企業向けにですね、
サポートを提供しているという、そういった事業をやっております。
よろしくお願いいたします。
アクセラって、アセロラだと思っちゃうからゲラゲラ言っちゃう。
酸っぱくなっちゃう、だいぶ酸っぱくなっちゃう。
アクセルだと思えばいい。
アクセル、アクセル。
なるほど、なるほど。
それとちょっと会社名も気になったんだけど、
ポタージュっていうのは、これどういうイメージで作るの?
スープのポタージュなんですよね。
そうですよね。
よくスープ屋さんと間違えられるんですけど、
実はちゃんと由来がありまして、
スープっていろいろな具材が一体となって一つの味をつくるじゃないですか。
ポタージュスープっていうと、
ちなみにこしのさん、何ポタージュ好きですか?
そうですね、僕はかぼちゃかな。
かぼちゃのポタージュいいですよね。
ポタージュには、かぼちゃもそうなんですけど、
玉ねぎとかいろいろな野菜の味が混ざって、
けど一つの色になり味になっているじゃないですか。
こんな感じで、いろいろな価値ある個人が混ざって新しい価値をつくるということが、
僕はコミュニティという存在の価値だと思っていて、
ポタージュっていう、まさにスープが、
そういったコミュニティのメタファーとしてあっているんじゃないかなと思って、
それを社名にした。
なるほど。
そんな感じです。
ぴったりですね、なるほど。
今、名前の由来にも触れていただきましたけども、
今のお仕事というのは、年間大変多くの方とコミュニケーションを取られていると思いますけど、
シャイな性格とイベントの仕事
川原さんは学生時代からも、
そういういろんな外交的にコミュニケーションを取るというのは得意な方だったんですか?
いやいや、これがこしのさん気づいているかもしれないですけど、
こしのさんとお会いしてから、目がほとんど合っていないんですよ。
そうですか。僕もあまり出自然には思っていないけど、そうかもしれないね。
めちゃくちゃシャイなんです。
なるほど。
僕は2008年からイベントの仕事をやり始めて、
そこから場作りの仕事をやっているんですけど、
それまでは全くの未経験で。
ながら大学時代の文化祭も全部バックレていたような人間だったので、
そういったお祭りを作るとか、イベントを作るとか、本当に苦手だったんですよ。
どっちかというと引きこもりの方が近い、そんな人間でした。
だけどどうなんですか?
部活動とかそういうのも割と子でやるみたいなものが多かった?
部活はただ高校時代に合唱を始めていて、
合唱部はすごいショーにやってましたね。
ただ基本的には何だろうな、
合唱って一緒に音楽を作るっていう目的意識がわりと明確だし、
だんだんやっていくうちに自分の歌い手としての立ち位置みたいなのができてくるんですよね。
役割が明確な時は僕はすごくハマるんですよ。
けど文化祭とかってなると自分で役割を見つけなきゃならないとか、
いろいろ面倒くさいことが多い中で、なんかやりたくないなみたいな。
あとどっちかというとちょっと外交的な方々のお祭りみたいな、
そんなイメージがあったから、
いやー自分どっちかというとインド派だしなとか、
どっちかというと打ち気な方だし文化系だしなとか思いながら、
なんとなく距離をとっていたという、そんな感じだったんですよね。
分かるなー。
そうですか。
僕なんか特にね、
自分の役割がどこにあるのかって分からない進み方、
すっごい気持ち悪くて、
そうなんですよ。
確かに自分で見つけるっていう、だいたいこうだよねと。
例えばホームパーティーやりますねって言って、
役割決まってなくてって言って、
今だったらじゃあ俺別にそんな料理とかやらないから、
椅子並べるのやろうかとか、
じゃあ素材をどうしようかとかって自分で考えてやれるみたいなのあるけど、
なんかそれが本当にさっき言われたように、
外交的な人たちが楽しむみたいな雰囲気でやってて、
なんか言われた役割が途中で変わってみたりとか、
はいはいはい。
すっごい気持ち悪い。
そうそう、めっちゃありますね。
あるよね。
あるあるある。
マニュアルとかなくて、
永遠、去年やったこととかを、
あーだったこうだったって、
ずっと言い合いしててそこが長い組織とか。
あれ?
いやそんなのさ、記録しておけよみたいな。
僕も若い頃下っ端で動いててね、
随分そういうこと感じましたよ。
だからやっぱりそういう体験って、
今のお仕事にもなんとなく投影されてると。
観察力と場作りの重要性
おっしゃる通りで、
僕よくあずさんさんとコミュニティ作りの仕事やりたいんだけどとか、
イベントプロデュースしてみたいんだけどとか、
やっぱりなりたい人ってだんだん増えてきて、
相談受けるんですよ。
どういう人向いてますか?って聞かれるんですね。
イベントとか大好きな明るい人ですか?とか、
合コンとかでおしゃべり上手なタイプですか?
真逆なんですよ。
そうじゃなくて、
内気な人、シャイな人、実は向いてます。
なぜなら場の観察をするんですよ。
観察をして、そこで取り残された人がいたらどうするか。
手を差し伸べて、
さりげなくそこをフォローすることができる。
これが重要な資質なんです。
僕はそっち側の人間だったから、
その取り残される側の気持ちがわかるんですよ。
だからこそ、
誰も取り残さないような場作りができてると僕は思ってて、
そういうちょっと外から目線で見たときに、
あるいはそこに渦巻く感情みたいなものがあるから、
その感情の流れみたいなのを捉える中で、
どこに詰まりが起きているかとか、
どこがスムーズに流れているかとか、
そこを見て適切にリアルタイムに
そこの流れを整えていける人が向いているんですよね。
だからちょっと外側で観察するとか、
あるいはぼっちなそういった状態になって、
ちょっと気まずい思いをしたことがあるとか、
後ろめたさを感じているとか、
そういう経験というのが、
実は礎になっているというところはまっさにあります。
なるほどね。
お話ちょっと戻りますけれども、
学生時代はあまりそういうことにタッチしてこなかった。
就職をされてから、
そういう部署に配属されたのかなという役割になったから、
そこの時に抵抗というか、
今あるわけだから、
そこで川原さんは負けなかったというか、
頑張って乗り越えたと思うんだけど、
その辺はどうでした?
最初は修行でしたね、感覚としては。
もともとイベントの授業に移動になった経緯というのも、
ほぼ成り行きというか、
もともと音楽サービスの立ち上げをその当時やってたんですけど、
当時の会社のその部署で、僕リストラにあったんです。
音楽性の違いだったんですけど、音楽サービスの仕事をやって、
上野上司の課長がメタル大好きで、ヘビーメタル大好きなんです。
僕J-POP大好きなんですよ。
それだけじゃないけど、なんかうまく合わなくて、
それで次の4月1日から、
川原君は営業行くからと言われたんですよ。
当時インターネット会社だったから、
そういういわゆるNTTさんとかKDDIさんとか行くような、
そういうお仕事ですよ。
それはちょっと僕には合わないかもなって思って、
それで上司の上司に直談判したんですよ。
僕ちょっとサービス寄りのことやりたいんですけどって、
いろいろ話してたら、いや、ごたくはいいから何やりたいって言われて、
その時にパッと閃いたのが、
当時その時の半年前ぐらいに、
お台場で立ち上がった東京カルチャーカルチャーっていう、
当時の会社が出たイベントハウスの名前で、
そこ行きたいって反射で行っちゃったんです。
そしたら移動内地に出て、3日後ぐらいに、
課長もびっくりで、え、営業じゃないの?
カルカルってみんな呼んでたんですけど、
カルカルなの?頑張ってねって言って、
最初の仕事がビール運びですよ。
もう飲食店だったから、みんなお酒飲みながらイベント楽しむんですね。
飲食は業者に発注してるんですけど、その発注業者のスタッフから、
ちょっと母さんやることないならビール運んでくださいって。
時給900円の仕事ですよ。
会社員、正社員なのに。
でもそれは仕事、何やっているのか分かんないから運んで、
富士通での経験
そしたら終わっちゃって、何やってるんですかって言われて、
そんなとこから始まったから、
もう1日でこれ後悔しましたね。
でもなんかやっていくうちに、
やっぱそこで自分から言い出したってのもあるし、
ゴミ跡残さない限りはやめれないじゃないですか。
とにかくじゃあイベント作りっていうその領域で、
自分なりの形になるものを見出していかないことには、
もうちょっとカッコ悪いなみたいなのもあるし、
ここで多分折れてしまったら、
せっかく自分で選んで、
なりゆきにせよ自分で選んで掴んだステップなのに、
自分で封印してしまう。
それはやっぱり多分この先もなんかいろんなことやった時に、
多分あったんですよね。
それでもうしがみついて、
とにかくイベント作りのイロハみたいなところを、
アシスタントみたいなことをやりながら、
1年ぐらいですかね、ずっと見て学んで、
みたいなことをやってましたね。
なるほどね。ざっくり言うと、
やっぱりある種の挫折から、
やっぱりだけど踏みとどまって、
新しい道を自分で切り開いたって感じだね。
そういうとカッコいいんですけど、
もう完全に自分でなりゆき作っちゃったから、
もうこのなりゆきに乗らないことには、
何者にもなれないなっていう焦りとか、
当時若かったのもあって28だったんで、
まあ何とかしなきゃ、
ここで何とかしないと、
自分この先何やってもあかんなみたいな、
そういう必死感みたいなものは、
どこかあった気がします。
やっぱり何かことをなす人の話を、
いろいろ今までも聞いてきてますけど、
やっぱりそこを1つ決切点というか、
ポイントでしたね。
28年から今2025ですけど、
結果的に17年間そのスキルで僕、
喰えて起業までしてるんで、
あの時だから挫折してたら、
もう今の僕は間違えなくないし、
そういう意味でも本当に、
あの時の直感に従ってしがみついて、
大正解だったなって、
今から言える感じですけどね、思います。
その後、サンフランシスコの方でも、
サンフランシスコでの挑戦
お仕事をしたりとか、
参考経験の話もちょっと聞かせてください。
最初にサンフランシスコに行ったのは、
2011年なんですけど、
インターネットの会社だったので、
インターネットサービスの聖地、
シリコンバレー、サンフランシスコなわけですよ。
そこに3ヶ月間行ける研修プログラムが、
立ち上がったんですよ。
それで、
僕、社内の掲示板みたいなところに、
掲示されてたんだけれども、
あんまり気にしてなかったんです、正直。
ところが、
3.11の震災の当日、
今でも忘れないんですけど、
その時に、
イベントが普通にお台場のイベントハウスであって、
芸人さんのイベントが企画されてたんだけど、
中止になりますってなったんです。
その時の上司が、
現場に向かわないといけないからというので、
タクシー探してたんですよ。
全然捕まらなくて。
タクシーを当時、本社大森にあったんですけど、
大森のところで色々探して、
ようやく捕まった。
上司がタクシーに乗るじゃないですか。
乗って、ドアを閉める時に、
そういえば河原君って言って、
シリコンバレーの研修プログラム知ってる?
なんですか?
ちょっと応募してみたら、じゃって言って。
タクシーで行っちゃった。え?と思って。
こんな大変な時に、この人は何を言ってるんだ?
え?と思って。
でも会社帰って、みんなごった返してる中、
ネットの掲示板を見るわけですよ。
そしたら見れば見るほど、
こういうことがあった直後というのもあったし、
なんか運命的なものを感じて、
興味もやっぱりあったから、
何やるかわからないけど、
フリーテーマだったんですよ。
何やるかわからないけど、
とりあえず飛び込んでみようというので、
その場で何百文字の死亡文みたいなのをガーって書いて、
送って。
そしたら通って、3ヶ月行っていいよ。
そこの11月から3ヶ月半、結局行ったんですけれども、
サンフランシスコを行くことになって。
そこで平たく言うと、
サンフランシスコ・シリコンバレーの人たち、
夢中になっちゃったんですよ。
そこで会社の中でまた行きたいという話をしたら、
1年半後くらいかな、
駐在員1人目として派遣するという話が決まって。
決まって。
そこから3年間行くことになった。
経緯としてはそんな感じです。
どうでした?
向こうでのビジネス上のコミュニケーション、
今に生きているという点がありますか?
全ての礎という感じで、
一番ショックというか、
完全に価値観をひっくり返ったのが、
当時富士通というグループ会社だったので、
富士通の名刺を持っていくわけですよね。
けど、富士通なんて現地の人、あんまり知らないんですよ。
ITやってる人だったらなんとなく知ってる人もいたけれども、
そういう人って結構マニアな人で、
富士通という名刺を出すと、
カメラ作ってるんだろうって言われて、
いやそれ富士フィルムなんだけどみたいな。
そういう世界なんですよね。
そういう中で、
名刺を出しても、
自分の価値って何も伝わらないという状態になったんです。
日本で富士通の名刺渡したら、
富士通さんみたいな感じになるじゃないですか。
とんでもない。
アメリカ行ったらそんなことはなくて、
みんな誰も会社のこともよく知らないし、
それよりも聞かれるのが、
What do you do? という問いかけなんですよね。
あなたは何者なんですか?
っていう意味の問いかけなんですけど、
何をしにここに来てるんですか?って聞かれるんです。
そうすると、
いや会社に言われてリサーチしに来ましたとか、
言えないんですよ。
会社に言われてってなんだ?
俺はお前が何したいのか聞きたいんだって言われる。
え、なんだろう?って最初なっちゃって、
なんで自分はシリコンバレーに来たいと思ったの?
マンフランシスコに来たいと思った。
そこから必死に言語化する癖が身についたんです。
なるほど。
まさにことしてどうなんだ?
そういうことにぶち当たったと。
そうです。
経営者ってみんなぶち当たるじゃないですか。
お前会社運動は言えないと。
お前がなんで事業やってるんだってことを
多分問われ続ける。
そういう経験を33くらいの若輩者でしたけど、
当時できたっていうのは、
今まさにこうやって起業して、
いろいろなビジネスをやっている。
それぐらいで戦艦で来るんですよ。
それぐらいで戦艦で来るんでいいんだよね。
そうなんだね。
それが名著と言えると思いますけども、
コミュニティづくりの教科書につながっていると思います。
次週はそのお話を伺いたいと思います。
ありがとうございました。
ありがとうございました。