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TOKYO NORTH MOVEMENT 飛鳥山の窓から
東京都北区飛鳥山。暖炉のある小篠光洋さんの部屋には、 未来を思う様々な人たちが遊びに来ます。
情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。 さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
TOKYO NORTH MOVEMENT 飛鳥山の窓から
パーソナリティーを務めます小篠光洋です。
今、私がいる場所は、王子飛鳥山にある邸宅の暖和室。
こちらに帰宅内外の多彩な企業家、経営者をお招きして、 グラスを傾けながらじっくり楽しくお話をする。
そんな雰囲気でお送りしたいと思います。
今月のゲストはこの方です。
柴原誠一です。よろしくお願い申し上げます。
ようこそいらっしゃいました。ありがとうございます。
柴原さんは、実は私の会社が100年以上お世話になっている お得意さまの社長さんでありますし、
地域を代表する上場企業、日本フェルトの会長さんということでございます。
本当に今日はご出演をいただきましてありがとうございます。
よろしくお願いします。
それではまず、この会社名で分かる人は分かるんですが、
どんなお仕事をされている会社なのか、ちょっとご説明いただけますでしょうか。
日本フェルトという会社は、製紙を作る会社なんですね。
そちらにほとんどの売上を収めている会社です。
製紙会社では、紙を作るときに、パルプから私たちが目にする紙、
その精子の工程、消し紙を作るという言い方をするんですけど、
消し工程、そこでフェルトが使われます。
いわゆるパルプというのは、最初ドロドロの状態で水分がたくさんついているわけですよね。
それを吸水して、いろんなことが減るんですけれども紙にしていく。
吸水するための毛布のようなものを作っているのが、日本フェルトさんということでよろしいでしょうか。
はい。ですから、紙を作るには欠かせない存在。
消し用具という言い方をしますけど、用いるという感じではなくて、
お客さんの中では、かなめという字を当てはめて消し用具と、
そういうふうに言っていただけるというところもあります。
和紙を作る工程をご覧になったことのある方ですと、
ドロドロの紙の材料を溶かしたものの中に、ジャブジャブジャブってやって、
あれで濾していく。まさにあれを用紙の世界の中でも、
原理的には同じようにやっていく。こういう考え方でよろしいでしょうか。
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そうですね。工程の中には、後ほどまた申し上げる機会があるかと思うんですけれども、
フェルト以外にワイヤー、カンバス、ベルトと、この4つを使って、
我々が目にする紙に仕上げていくということです。
その中のフェルトというパートになっていると。
ではまた、後ほどそれをお伺いしたいと思います。
いつもこちらにおいでいただいているゲストの皆さんには、
今までの生きてこられた家庭を伺いたいということで、
子供時代からのお話を伺うので、柴原さんにもそのお話をしていただきたいと思うんですが、
柴原さんは横浜生まれ、1952年ということですから、昭和20年代ですね。
その頃の横浜って今とどんな違いがありますか。
私の時の横浜はですね、まだ特に小学校の頃は、
例えば本木、あのあたりはまだ海でした。
そうなんですか。
本木のあたりの小高い丘の上に三景園というのがあります。
有名な美術館みたいなのがあったりとか、素敵な場所がありますね。
もうあの下が波打ち際で。
そうですか。今でいうとずいぶん山の上っていう感じですよね。
もうあの下が海だったんですか。
もう潮騒が聞こえて、潮干狩りもしていたと。
横浜駅でいうと東口の方がまだまだ開発されていなくて、
今でいう赤レンガとか、あの辺はまだ高齢としたところで。
映画の決闘シーンなんか、ロケ現場ですね。
石原雄二郎とか赤井圭一郎とか、来て何となくやってたかなと。
だけど普段は行くと危ないよみたいな。
危ないよと。
そういうとこだったんですね。じゃあもう本当の浜っこですね。
そうですね。たまに高校の時の友達とか横浜で会いますけど、
もう全然違う景色で、もう分かんないですね。
そうですか。
昔からの姿、形を残しているというと、元町ですと。
伊勢崎町とか、日本大通りとか。
その辺に行くとちょっとほっとする。
そうですか。なるほど。
小学生の時代は、すごくワンパクでもいらっしゃったようですが、
一方で漫画も大変お好きでということで、
小学生というと、実は柴原会長さんの小学校1年生って、
僕の生まれた年なんですね。1958年、昭和33年ですが、
あの頃でお好きだった漫画家の方ってのはどういうことなんですかね。
小学校の時に夢中になったのは横山光輝の鉄人28話とか、
あとですね、これはまだ漫画が週刊誌になる前は月刊誌だったんですよ。
そうですね。いわゆる少年マガジンとか少年サンデーが出たのが
昭和33年、34年ですが、その前は冒険王とか昔ありましたね。
少年画法とか。そういう月刊誌の時代でしたね。
そうですね。あと歌詞本屋というのがありまして、
これは大人向けの漫画なんですけども、それも夢中になっていて、
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その中に斉藤孝夫ですとか、
ゴルゴ13の。
白人三平とか。
これはカムイデンですね。
水木茂もそうですね。その辺が結構主流で、そっちの方がむしろ好きだったです。
水木茂さんの漫画なんかも、テレビになってからは、
なんとなく可愛らしいような、愛らしいキャラクターになりましたけど、
歌詞本屋さん当時のというのは何か驚々しい、怖いあれでしたね。
あの当時はゲゲゲの鬼太郎って言わないで、タイトルも墓場の鬼太郎って呼び名も違ってましたね。
なるほど。そういうのを夢中になって読んでされていた小学生の時代。
小学校3年4年くらいから少年サンデーマガジンと続々、週刊誌にシフトしていきましたね。
中学になった時に、実は漫画家になりたくて、弟子入り志願に行かれた。これはどちらに行かれたんですか?
漫画家志願ほど大げさじゃないですけども。
でも書かれていた作品を見てもらいたい。
そうですね。一応書いて、赤塚富士夫と角田二郎。
全然違うじゃないですか。斉藤貴男と白人三平じゃん。
プロダクションの所在地が分かったのがその2人。
なるほど。どうでした?その評価は。
持って行って、僕上手いね。ここを直したらいいよとか。親切だったんですよ。
タバコを買ってきてくれとかね。いろいろ駒使いまでさせて。
最後はもう暗いから早く帰るんだって。
もう一粘りしていれば、ちょっと違ったかもしれないですね。人生。
後でみんなから言われて、そこで帰ってきてダメなんだって。
楽しい記憶ですね。
高校に進められた時がスポーツということで、剣道に極められたと聞いてますけれども。
これはどんなきっかけから?
剣道は中学から始めてました。
うちの中学は公立の中学だったんですけれど、結構強くて。
いつも県や横浜市で優勝争いをするぐらいだったんですね。
私は戦法でいつもやってて。
そこそこは勝ってましたんで。
私立の高校から声は掛かったんですけど、
ただランキングから言って、授業料免除の特待制まではいかない。
入れてくれるけど授業は払わなくてはならない。
やっぱり私立は高学ですから、それでそのまま公立の高校に行きまして。
うちの高校からも何人か行ったんで、高校そのものが強くなったんですよ。
ですからベスト8までは必ず残るようなシードコではあったんですね。
じゃあ剣道という世界もそこから学ばれたことって何かございましたか?
学ばれたというより、高校の時に高2の2学期から高3の夏休み終わるまで、
当時大学紛争が華やかなりし頃で、それが高校にも波及してきて。
なるほど、なるほど。
うちの高校も神奈川県で一番最初にやったんですね。
私たちが修学旅行から帰ってきたら、もうバリケード封鎖されて、
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ロックアウトってやつですね。
ヘルメットかぶった学生たちが足くれ飛行るみたいな、そういう状況で、
高3の夏休み終わるまで全く授業はなくて、最初のうちはそういう政治的な議論だとか、
やったりしてて、そのうちだんだん日常の中間接続の廃止とか、
制服の自由化とか、そんなことで最後は収束したんですけど、
ただ高校生らしいのか、そういう状態でも、3時からの部活は平常通りやると。
県道があったから、まだ良かったですね。
その間の授業がない時は、友達と将来のこととか、文学論とか人生論とか、
心置きなくいくらでも話す時間があったので、
もし人生でいつの時代に戻りたいと聞かれたら、高校のその時で、今でも思いますね。
濃密な青春を高校で送られたってことですね。
そこから実は早稲田大学の小学部に進学をされて、
実は私の大先輩でいらっしゃるんですけれども、
こちらでは、勉強の話、私が得意じゃないんでお聞きしませんが、
ボクシング部に入られた。これもすごいですね。
これはどういうきっかけで入られたんですか?
大学から入学してから、県道部から入らないから、電話があったんですけど、
運動部はもういいかなと。どうせならバラエロの学会生活。
昔からフォークギターとかビートルズとかやってたんで、
どうせならクラシックギター極めたいということで、ギター部入ったんですよ。
でもそのうち気がついたのは、クラシックギターは難しいということと、
ボクシングそのものは、いきなり私立大学の体育会でボクシングなんて、
そんな無茶なのはとても怖くてできませんし、
ただ好きだったんで、体育の授業で履修したんです。
そうですね。私たちの大学は超一流のアマチュアの指導者が揃っているんですが、
その人たちがあらゆるジャンルの先生になって教えてくれるという仕組みでしたね。
そこでボクシングを選ばれたと。
そうですね。
一時募集で選ばれたんですか。
そうなんです。大体ボクシングを選ぶ学生というのは、スキーとかテニスとか人気の科目。
そうなんですよ。大体一時募集で落ちて、それでなくなくボクシングになるんですけど、
それを最初に希望された。
最初に希望したんで、向こうもよく見てるんですよ。
この柴原って男が最初から希望してる子、こいつ好きなんだろうという目をつけられてたんです。
なるほど。
大体授業が始まると、一年生部員がコーチとしてサポートでついてるんですよ。
そこで擦り寄ってきて、柴原お前いいもの持ってるよって。
ちょっと練習に来ねえかって。
で、行ったら入部希望者ですって。なんか断れない雰囲気で。
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まあ、よろしく。
なるほど。
バラ色のつもりが血の色に変わってっちゃうんですよ。
先ほど打ち合わせの時にお伺いしてたら、読書の方なんかでは結構英国、欧米のハードボイルド小説読まれたりとか、
それから漫画も齋藤貴雄、白津三平ということで、やっぱりハードボイルドなところにある種憧れというか、
そういうことも作用しましたか?
言われてみるとそういうところがあるかもしれないですね。
なるほど、そうですか。
ボクシングってすごい過酷なスポーツだと思うんですけど、
柴原さんがボクシング生活の中で、これはいい気持ちだったなっていうものがあったら、そのエピソードを教えていただけますか?
逆はいっぱいあるんですけど。
まあ、いい気持ちというかどうかですけど、初めて試合出た時に相手もランキングの1位の選手でかなり。
競合だったんですね。
競合ですから、僕なんかカマセイヌで出されてたんですけど、
たまたま目つぶって振ったら当たって芯を食って、相手も腰に来てくらついて、これ勝てるんじゃないかと思って。
めちゃめちゃ振りましたけど、やっぱりうまくかわされて。
やっぱりキャリアの差で、その以降はずっとアウトボクシングされて、結局勝てなかったんですけど。
それは結構。
入ったっていうその感触というか。
そうですね、逆に振り抜けた感じですよね。
軽い感じだったわけですね。
それは確かに僕ら野球やっててもそういう感じわかりますね。
なるほど、そうでしたか。
せっかくボクシングの話があったんで、1つだけ話飛ぶんですけど、今の井上直弥選手についてちょっと一言教えていただけますか。
いや、日本の歴史の中でも最強じゃないですかね。
僕はバンタム級ですから、前の井上直弥の、今スーパーに上がりましたけどバンタム級、同じ階級。
感覚的に同じものがある。
とても同じ階級と思う。
それはまあそうでしょうけど。
いわゆる軽量級になりますよね。
軽量級のボクシングっていうのは、井上直弥みたいにワンパンチで倒すっていうのはほとんどいないんですよ。
昔の原田選手なんかもラッシュでね。
連打でダウンに追い込むということがほとんどで、あの階級でワンパンチで特にテンカウントも数えさせるというのはいないですね。
なるほどね。
見てワクワクしてご覧になってるって感じですかね。
それとやっぱりストレート、フック、ボディーブロー、どのパンチでも倒せる。
なるほど。
世界を見渡してもいないと。
なるほどね。会長はやっぱりボクシングはやるスポーツじゃなくて見るスポーツだということなんですね。
はい。
ありがとうございます。
ぜひ体験してみてください。
もう勘弁していただきたいと思いますが、楽しく若い時代の話を伺ってまいりました。
また来週もよろしくお願いします。
ありがとうございました。