1. 田中健士郎の働き方ラジオ
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2021-04-04 13:50

#35 コミュニティにおける「正しさ」の扱い方

オンラインコミュニティを運営していると、「どちらが正しいのか」を迫られる場面が出てきます。
そもそも「正しさ」は存在するのでしょうか?「正しさ」とどう向き合っていけばいいでしょうか?
を考えていたら、仏教にまでたどり着きました。
▼こんな人におすすめ
・オンラインコミュニティに参加または運営をしている
・良好な人間関係の作り方を模索している

#正しさ #オンラインコミュニティ #オンラインサロン #慈悲 #仏教
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働き方ラジオ始まります。このラジオは、誰もが情熱を持って働く、それを実現するために働くということの改造度を上げていくポッドキャスト番組になります。
今日も働き方エヴァンジェリスト、田中健士郎がお送りします。ということで、いつもお聞きいただきありがとうございます。
今日はですね、妄想ワーケーション、ではないですね。
妻と一度企画した妄想ワーケーション、なかなか第2回ができてないんですけどね、今日は普通の一人語り会にしたいと思います。
はい、妄想ワーケーションを聞きたいという方はですね、教えてください。あまりいないかもしれないですけどね。
はい、今日はですね、正しさとコミュニティという話をしていきたいと思います。
はい、つい最近ですね、ちょっとしたあの出来事があったんですよ。
このラジオでよく話しているオンラインサロンはライターゼミの話ではないんですね。
とある別のコミュニティで起きたことで、自分自身すごく学びの多い出来事だったなというものがあったので、今日紹介したいと思います。
とあるコミュニティでですね、結構人数も多いコミュニティで、その中でこんなことやってみたいんですっていうことを提案した方がいらっしゃったんですね。
で、それに対して結構いいねとかスタンプとかついてたんですけども、とある方が、いや、それはちょっとどうなんでしょうかと。
例えば個人でこういうふうに感じる人がいるかもしれないので、それをそのコミュニティの中で全員がやるっていうのは違うんじゃないかみたいな感じの意見を言った方がいらっしゃったんですね。
結構ですね、その言い方がきつかったっていうのもあって、その提案した方はですね、ひどく落ち込んでしまったというようなところ。
さらに言うと、反対をした方っていうのは結構主張が強い方で、他のメンバーもなんか提案したら、そうやって否定されてしまうんじゃないかっていうちょっと怖さから、なんかそのコミュニティで発言があまりされないっていう感じになってしまったっていうことがあったんですよね。
ただ、その批判した方の主張っていうのも必ずしも間違いではないみたいな。
皆さんの周りでそういうことありますか?ある意味正しいことだったりするんですよね。
プライバシーとかの観点からすると、これは強制すべきではないとかって言われたら、確かにプライバシー気にする人にとっては厳しいかも。
ちょっとあまり具体的なことは今日は言わないですけれども、なんかそのそれ自体は正しいことだった場合って扱い結構難しいですよね。
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皆さんどう思いますか?これって意見分かれると思うんですよ。
やっぱり、明らかに正しくないことを正そうと思って、コミュニティとか仲間うちとか、職場、そういったところでそれは違うんじゃないでしょうかって反対をするっていうのって、ある意味必要な時もありますよね。
それがしちゃいけないってなると、周りを気にして誰も反対しないみたいなのって健全じゃないよねっていう話もあるじゃないですか。
でも、その正しいっていうことを振りかざして誰かを否定するとか批判をするっていうのを起こしてしまうと、さっき言ったようにコミュニティ自体がすごく居心地の悪いものになってしまったり、
誰もが発言できにくくなったりしてしまうっていうことが起きるんですよね。
これ難しいなと。正しさをいかに通すかっていう話と、コミュニティを健全に、いい心地の良い場所にするって結構相反する時もあると思うんですよね。
皆さんならどうしますか?僕はですね、結構その答えはあんまりわからなくて。
ただやっぱり一つ思ったのは、正しさって結構鋭いなっていう、刃物みたいなところはあるなっていう気がしていて、
そのいわゆる正論というところですよね。誰も否定できないようなロジカルな正論って、否定できないからこそ非常に強い鋭い刃物のようなものな気はしていて、
だからこそそれの使い方って結構慎重にしないと人を傷つけるんだろうなっていうのはなんとなかったんですよね。
だからそもそも世の中に正しいことなんてないんだから、正しさを求めるのは忘れようっていうふうにもちょっと思ったんですよ。
そう考えてですね、いろいろ僕も今日はググったりとかしながら調べたらですね、ついに仏教にたどり着きました。
僕が知りたい答えを探そうとすると結構仏教系のYouTubeとか記事が出てきてですね、
僕自身そんなに仏教徒っていうような信仰があるっていうわけではなくて、
本当に一般的なお墓参りとかそういうところでは触れることはあるかもしれないですけれども、
基本的にはそんなに信仰っていうのはないんですけれども、この問いを考えていくとですね、結構仏教にたどり着くと。
そもそも人っていうのは正しさを求める動物なんですよね。そうですよねっていう。
そもそも今僕が考えたその正しさとコミュニティのバランスみたいなことも、結局は何が正しいのかって答えを求めてるし、
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このラジオで毎回話していることっていうのも、こういうことが正しいんじゃないか、関係性を深めることが大事だとか、
習慣化が正しいとか、やっぱり自分の中で正しいと思うことを常に考えてそれを発信しているっていう意味では、
結構自分も正しさを振りかざしてるなって思ったわけですよね。
ただなんか人間ってそもそも何が正しいのかっていうのを一生考え続ける動物みたいなんですよね。
だからもうそれはしょうがないと。正しさを捨てることはできないっていうことなんですよね。
ただ、その正しさっていうことに執着をしすぎると苦しみを生むみたいなことは結構仏教では言われるみたいなんですよね。
その正しさって結局は人によって違うし、絶対的に正しいことってほぼないと思うんですよね。
法律とか国の中で決められた法律とかっていうのはあるかもしれないですけども、
それだって国が違えば正しくないものになったりしますし、
そもそも宗教とかって宗教同士考えが微妙に違ったりするじゃないですか。
それを押し通そうとする、そこに執着していこうとするから戦争が起こるわけですよね。
宗教対立とかも結構昔から歴史あると思うんですけども。
だから正しさっていうことに執着してはいけないと。
こうやって正しさを求めて自分で見つけてそれを発信するっていうのはもちろんいいんですけども、
結構僕も考え変わるじゃないですか。
ラジオで昔言ってたことを否定することもあると思うんですけども、
正しいって思うことは常に変わっていくし、それに執着してしまいすぎると、
そうやって人を傷つけたりしてしまうみたいなことが書いてあったんですよね。
なるほどなぁと、まさにそうだなというところは感じました。
で、ここからさらに仏教に入っていくんですけど、
今日は何の回答っていう感じなんですけども、
仏教にはですね、非常によく使われる言葉があって、
それが慈悲っていうものです。
皆さん慈悲って聞いたことありますか?
僕もなんとなく聞いたことはあったんですけれども、
あんまり深く考えたことはなかったですね。
慈悲っていうのは仏の心らしいんですよ。
人間の心とは反対なんですよね。
人間の心っていうのはある意味常に正しさというものを求めるし、
正しくないものを否定したくなるものなんですけども、
慈悲っていうのは直訳すると情けとかそういった言葉なんですけど、
分かりにくいと思ったら、
結構具体的にこういうことをするのが慈悲ですよっていうのは書いてあったんですよね。
これを読んで、正しさというものに執着しないようにするために、
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その正しさと一緒に心がけるべき慈悲の心っていうのが、
すごく分かりやすく書いてあったんですよね。
5つありまして、ぜひ聞いていただければと思いますけど、
1つは困っている人を助ける。
周りに困っている人がいたら助けようと思うということですよね。
本当に利己的にだけ言ったら、
誰かを助けようなんてなかなか思えないじゃないですか。
2つ目は公平に接するっていうところですね。
結構固定関連とか、あるいは誰かを差別したりとか、
あいつは違うやつだ、周りと違うからということで、
公平に接しないっていうんじゃなくて、誰に対しても公平に。
年齢が違っても性別が違っても性格が違っても公平にまずは接しよう。
国が違っても接しようっていうところ。
3つ目は他人を許せるっていうこと。
やはり他者に寛容になるとか、
何か他の人が失敗をしてしまった時、
それを許せるかどうかっていうのが慈悲の心みたいですよね。
あとは偏見を持たない。
これは公平に接するとかと近いですね。偏見を持たない。
5つ目は笑顔みたいな感じですね。
常に笑顔を持っていようというようなところですね。
そのあたりを気をつけながら、
人間としてのその正しさを求めるっていうものも、
やっていくっていうのが大事なんですよ的な教えが仏教らしいです。
深いですよね。
実はさっきの私が最初に話したストーリーには、
実は続きがありまして、
そのコミュニティのそのグループ上ではですね、
かなり殺伐とした雰囲気になってしまったんですけれども、
そのグループから発生した小さいチームみたいなチャンネルがありまして、
そこで批判した方はたまたまいないチャンネルだったんですけれども、
ショックを受けた人がですね、
2日ぐらいかなり落ち込んでたらしいんですけれども、
いろいろと考えて、
確かに言われたことは正しかったし、
皆さんにもちょっとそういう雰囲気にしてしまって申し訳なかったみたいなことをね、
それも勇気あるなと思ったんですけれども、
言ったんですよね。
それに対して結構多くの方が、
そんなことないですよと、
正直かなり大変な瞬間だなと思ったし、
まずは提案してくれたことが素晴らしいと思うし、
むしろ今後一緒にいろいろやっていきたいと思いましたみたいな、
結構言葉をかけて、
その小さなチームというか、
もう一つのところはすごく雰囲気良くなって、
じゃあ今度一緒にやりましょうとか、
っていうふうにある意味コミュニティの質が上がっていったんですよね、
対象的に。
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それってまさに慈悲みたいな話なんだなと思って、
すごく困っている人がいたら、
それに対して助けてあげるっていうのを、
率先してやったメンバーが結構出てきたっていうところで、
そのチームの心理的安全性みたいなものが作られていて、
ある意味結束が強まったみたいなのを目の当たりにしてですね、
非常にコミュニティというのは深いなというふうに思いました。
というのが今日のお話になります。
皆さま、正しさとか正義みたいなものって、
やっぱり常に考えるものだし、
それを求めることは全然悪いことじゃない。
僕もね、ついつい結構こう、
正論をこうやって話したりとか人に言ってしまうんですけども、
ふと立ち止まって、
そういった慈悲を忘れてないだろうかと、
誰かを否定して困らせたりしていないだろうかと、
そこの正しさに執着していないだろうかというのを、
ちょっと考えるっていうこと、
その正しさっていうのは、
その相手にとっても確実に正しいことなんだろうかとか、
一歩こう引いて、
少し立ち止まって考えるっていうことをやっていくことで、
コミュニティとしても質が高まっていく、
正しさとコミュニティのバランスが取れるってことなんじゃないかなと、
なんとなく思った出来事だったので、
今日はそこを話させていただきました。
ということで、
今日もこんな感じでサクッと終わりにできればなと思います。
ではまた来週お会いしましょう。
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