1. アイスクリームが溶けるまで
  2. いいへんじ「われわれなりのロ..
2025-09-05 41:31

いいへんじ「われわれなりのロマンティック」感想ラジオ

aio
aio
Host

演劇「われわれなりのロマンティック」を観に行きました。倍速推奨です。

体調と観劇の決意
前回撮った時からね、だいぶ間が空いているんですけど、話したいことができたので撮ってます。
今日もね、なかなか休職中なんですけど、今も。
まあ、なんかこう、体調が良くなったり悪くなったりしていて、
今日は結構悪かったですね。
なんか、あの、夜があって外に出たんですけれども、そこに向かう途中も吐き気に襲われながら向かい、
それが終わって帰る時も、吐き気に襲われながら帰ってきてました。
まあ、こんなことを話していると、聞いている人はきっと心配になってしまうんではないかなと思うんですが、
まあ、こんなことはですね、心配されたくて言っているものですから、
大いに心配をしていただければと思っております。
まあ、こんなことをですね、吐き気を催している中でも、どうしても行きたかったんですね。
我々なりのロマンティックという演劇でして、これはどうしても見に行きたかったんですよ。
今週末、日曜日まで演劇を、なんていうの、開催っていうか、上映かな、上演かな、上演してたんで、
今週末まで上映だったので、せっかく時間はあるので、平日の昼間に行ってきまして、
体調は良くなかったんですが、どうしても見に行きたかったっていうところで行きました。
クワロマンティックの演劇
我々なりのロマンティックっていう、いい返事っていう名前の演劇団体っていうんですかね、劇団がやっている劇でしたね。
本当にこれが素晴らしかったんで、お話ししたいなと思って、今こうラジオを撮っております。
はい、我々なりのロマンティックという作品なんですけども、どういう作品かと言いますと、これがですね、
クワロマンティックっていう、セクシャリーオリエンテーションの一つ、ラベリングの一つである、クワロマンティックという辞任をしている男女が主人公なんですね。
どちらかと言うと、女子の方が主人公に近かったのかなと思うんだけど、祭っていう女の子と、葵という男の子ですね。
2人ともクワロマンティックという辞任をしていて、その2人が中心となってお話が進んでいくんですね。
クワロマンティックっていうのは何かっていうと、自分が他者に抱く行為が恋愛感情か、友情かっていうところを区別できないとか、区別しないというセクシャリーオリエンテーションのことなんですけど。
まずこのクワロマンティックを題材にした作品っていうのがですね、私は今まで見たことはなくて、クワロマンティックっていう名前、ラベリング自体が全然知られてないものだなというふうに思っているので、
まずこのクワロマンティックが題材にされているっていうだけでもう十分見たいっていう理由になって、どうしても見たいと思って。
思ったのはこの劇団を作っている司祭の方、今回この演劇を作った方のコメントっていうのをホームページで見ることができるんですけど、それを読んだ時に、これはもうどうしても見たいなというふうに思いまして見に行きました。
この演劇を作った方も、このクワロマンティックという言葉を知って、自分の感覚っていうものに名前があったんだっていうふうに救われた気持ちになったというふうに書いていまして、
クワロマンティックっていう言葉っていうのは私自身も、恋愛と友情の違いって何?っていうふうに思っているところってすごいあるので、もともと知っていたし、
そういう感覚がなかなか理解されないだったりとか、親密な関係になりたいというふうに思った人がいたとしても、恋人とかでもないなぁと思った時に、
この関係性は名前がつかない関係性であって、名前がつかないっていうのは保証がないっていうことでもあって、なんかすごいそれが不安でもあるわけですよね。
で、そういう自分が覚えたことある感覚っていうのが、このいい返事の下の方のコメントにも全く同じようなことが書かれていたので、すごいなんかそういう方が作った演劇っていうのが世の中に出てるっていうことで、本当になんかありがたいというか、
嬉しい気持ちになるわけですよね。で、見に行ったんですが、本当に素晴らしかったですね、結論。
ストーリーと社会的背景
まず思ったのは、まずその席について、演劇ってパンフレットとか、パンフレットというかフライヤーが置かれていることが多いんですけど、席に。
それを見て、ストーリーとキャラクターとかが書かれているものを見たときに、キャラクターのところにその登場人物たちの、なんですか、セクシャルアイデンティティが書かれていたんですね。
これにまず私はすごい感激しまして、シス男性とかシス女性、デミロマンティック、デミセクシャルか、ロセクシャル、スクワロマンティック、ヘテロセクシャルとかそういう風に書かれてるんですよ、ノンバイナリーとか、デミ、言ったわデミは。
書かれてて、で、あ、まずここで感激しまして、なんだろうな、こんな作品ままでなかったですから、レズビアンも書かれてました、ありましたね、いましたね。
なんか、あ、いるんだっていうその、いていいんだというかその、存在してるんだっていうことを、フィクションなんですけども、実際存在してるんですよ、そういうラベリングが存在してるんで。
で、それがフィクションの中ではいつも透明化させられてきているわけですよね、最近はレズビアンの作品だったり、ゲイの作品だったり、アセクシャルの作品もね、ちょっと前にNHKで恋伊勢の二人っていう作品ありましたけども、基本的にないわけですよ、そういったものは。
なので、いつも私たちにそういうラベリングを必要としている人たちが透明化させられているこの社会において、今回の演劇はもうそうやってキャラクターのところに書かれてるっていうことがまず感激ポイントでしたね。
ラベリングをするっていうのは、そのラベリングに自分を固定化するような感覚を伴うものなので、それは間違っているっていうのは補減しておきたいんですけど、
なんですかね、でもやっぱりまず書かれてるっていうことがすごい感激しました。
で、作品の内容も本当にすごく良くて、私はその祭り、クワロマンティックの祭りにすごい共感しながら見ていて、クワロマンティックと一言で言っても、その内実は様々だと思うんですけど、
私は幸いというか嬉しいことに、主人公の祭りにはすごい共感できて、そうそうみたいな、そういう気持ちなんだよなみたいなこととか、
あと祭りがクワロマンティックなんだけどデミセクシャルでもある。デミセクシャルっていうのは、
親密な関係性になった人に対しては性的な欲求を抱くっていうセクシャリティなんですけど、そこで、性的な欲求と恋愛的な欲求っていうのか分からないけど、
思考かな、恋愛的な思考というものと性的な思考っていうものは別物なんだよっていうことをちゃんと描いているのがものすごく良かったんですよね。
なかなかこの辺を理解されることってなくてないんですけど、
基本的に好きになった人と性的なことをしたいっていうのが、
マジョリティ、ヘテロセクシャルがマジョリティになっているこの世界では前提みたいになっているので、
そこは分けられて考えられるんだよっていうことがなかなか難しい問題なんですよね、そういう人たちにとっては。
でも分けられている側からすると、分けられていることは当然だしリアルなんですよね。
そこが祭りという主人公によって描かれていたのが本当にすごく良かったです。
そのストーリーを見たときには祭りと葵は、祭りはシス女性で、葵はシス男性なんですけど、
この2人がクワロマンティック同士、親密な関係を築いているっていうふうなあらすじがあって、
それはまず見たときにすごい素晴らしいと思って、これはどうかなどうなんだろうと思うんだけど、
シス女性とシス男性でわざわざ描いたということが私は結構嬉しかったんですよ。
異性愛規範がはびこっている世の中では、男性と女性が一緒にいたりすると付き合っているというふうに仮定されてしまうわけです。
仮定というかほとんど確定されてしまうというか。
実際そういうシーンが劇中にもありましたけど、男性と女性でわざわざ描いたということがすごく良かったなと思います。
そういう社会的な背景があって、その上で男性と女性がそういう異性愛規範に劣らないパートナーシップを結ぶという物語が本当に必要だと思うんですよ、世の中に。
世の中に必要なものを本当に世の中に出してくれたっていう意味で、
このドラマ、演劇はそれだけで賞賛に値するなと思いますね、本当に。
実際その話、演劇の内容も本当に良かったし、面白かったですね。
物語としてめっちゃ面白かったし、ただただそういうテーマだから賞賛しているのはそうなんですけど、それだけじゃなくて全然そのドラマの内容もすごい良かったですね。
フェミニズムの話とかもかなり話題とかも出てて、もともと祭田は大学のフェミニズム研究会に入会して、そこの同期で出会ったっていう設定なんですけど、
結構その観客席には論脈何如本当に幅広い方々がいて、どういうふうに思ったんだろうなというのはすごい気になりましたね。
祭前の方におじさま方がいらっしゃったので、これもねミスジェンダリングの可能性あるんですけど別に。
まあまあまあどう思ったんだろうなというのはなんか気になりましたね。
先輩の方とかそれそれ結構若い人と同じぐらいいたような気がするので、半々ぐらい。
演じている人たちはみんな若い人たちでしたけど、私と同年代ぐらいの方々が演じられてたと思うんですけど。
何ですかね、いい返事の我々なりのロマンティックのホームページに書かれていた主催の方のコメントがそのまま演劇になっていたなっていう感じなんで。
本当に見ていただきたいんですよね、皆さんに。
今週末までしかやってないんですけども。
見てほしいなっていうふうに思って。
私は自分のセクシャリティを、ラベリングを公の場でもしないし、
友達の前でも、そういう話をする友達の前でもしたことなくて。
ラベリングをすると、そこに固定化されてしまう怖さみたいなのがあって。
もっとぐちゃっとしているので、枠組みに当てはまれないわけですよね。
言葉っていうのは、枠を作る。
言葉にするっていうのは、枠に当てはめる、無理やり枠を作る行為なので。
ラベリングっていうのは危ういんですけど、
自分が自分のことを分かるためにラベルを探して、
これ近いなとか、これかもなとか思うことに意味はものすごくあると思うんですけど。
周りに説明するときに言葉を使うっていうのがものすごくない。
私個人的にはあんまりできない、したくないんですよね。
違うから、別に。
それが全てじゃないので。
分かりやすく説明するっていうのは大事なんですけど、
演劇と多様性の探求
そこを説明してあげる必要もないというか。
劇の中にもノンバイナリーの方が登場するシーンがあるんですけど、
その方を女性という風に名指してしまって謝るっていうシーンがあって、
マイノリティっていう言葉を使ってたのかな。
マイノリティは辞書ではないんだぞと。
何でもかんでも説明してもらえると思うなよみたいな、
そういう言葉を発していたんですね。
めっちゃそれって思って、こっちばっかり説明させられるみたいな感覚なんですよ。
ヘテロセクシャルのシスジェンダーの人間は何の説明もせずに生きてられますよね。
そういう風にすごい思っていて、何でそうじゃない人は説明をすごくするのに、
ヘテロセクシャルの方々は説明しないで生きていけますよねっていう、
そういう不均衡にもなっているんです。
本当に本当に、
ヘテロセクシャルの人間は何を説明をしないで生きていけるかっていうのが、
説明しないで生きていけてますよねっていう
そういう不均衡に対する怒りってすごい私は持ってて
だからなんかそこシーンがあったのはなんか嬉しいなっていう感覚になりましたね
とかまぁ演劇は私あんまり見ないので
人生で3,4回ぐらい
3,4回目ぐらいかなと思うんですけどコントとかは見るけどね
コントって割とワンシチュエーションの中で繰り広げられるこう
ものだなぁと思って演劇はもっとカットが変わるというか
カットが変わるといっても生で舞台は1個しかないので
場面が切り替わったなっていうのが
こう観客側が判断することなんですよ
カメラが切り替わるっていうことはないので
まぁ中盤中盤でこうちょっと暗くなったりとか
暗転明転みたいなのはあるんですけど暗転明転せずに
画面とかシチュエーションが切り替わっているっていう部分もあるわけですよね
演出としてそういうのを見るのが新鮮だったし
すごい面白かったなっていうこれは純粋に演劇の感想なんですけど
そういう演出が面白かったな
なんか1,2,4箇所ぐらい5箇所か5箇所ぐらいのシチュエーションが
一つの舞台の上に揃ってて
そこを演者が行き来したり同時にいたり
別のシーンが同時にシームレスに進展していったりとか
そういう演出がなんかすごい面白かったし新鮮でしたね
なんかそこも結構なんかわかりやすいというか
見る人に対してなんか親切な作りだったなっていうふうに思いましたね
なんかすごいなんかなんだろう
教育的な感じでもないんですよ
別になんか説教臭いような感じでもなくて
ただただこう生きてる生きてるよっていう
そういうふうに感じて考えている人がいるんだよっていうことを
生きてますよっていうことを本当に感じる演劇で
なんかねあの逃げるが
逃げるが恥高くんたちのスペシャルドラマーみたいに
なんかすごいフェミニズム的な感覚だったり
社会的な問題を提起したりとか
育児出産に関わるそういう問題を提起しているドラマだと思うんですけど
結構社会派ドラマというか
逃げるが逃げるは恥高くんたちの場合は結構それはあからさまにやってて
これ問題だよねっていうことをなんか訴えるために
ドラマがあったみたいな印象を私は受けたんですけど
我の間に関してはなんかそういう感じではなくて
普通に生きてるそれぞれの個人が抱えてる問題だったりとか
そういうのがちゃんとドラマとして描かれていて
というような感覚を覚えてそれもすごい見やすかったし
みんなにも見てほしいなという気持ちにさせられましたね
個人の苦悩と社会の不均衡
なんかアレロマに出てくる登場人物たちはみんなそれぞれ仕事をしてるんですけど
その中でこう編集者まつりは編集者で
そういう多様なパートナーシップを実践している人にインタビューをして
それを本にするっていう企画を運営していたりとか
葵は社会科の教諭になって図書館司書の先生とかとコミュニケーションするシーンが結構多いんですけど
図書館司書の先生が
そういうジェンダーセクシャリティ関連の本を図書室に置くことをしてたりとか
それを葵がサポートしたりとかするっていうこととか
あとはお笑い芸人になった女芸人
女芸人って言い方は問題だよねっていうのはあるんですけど
女芸人になった登場人物が
自分が置かれている状況
芸人の世界って本当に男性中心して
例えば女っぽいお笑いっていうものをしないようにすると
男っぽいお笑いになってしまっていじってしまうとか
そういった苦悩を見ながらもレズビアンなんですけど
その芸人の登場人物はレズビアンとして
お笑い芸人をやっていくことの教示みたいなものを語ったりとか
なんかそれぞれ戦ってるんですよね
で戦ってるし
周りに自分と似たような戦いをしてる人がいるっていう状況で
なんかすごくそれが羨ましいなと思って
それぞれ苦悩がすごいあるんですけど
なんかそれを私は一人でずっとやってるなというか
誰も共有できる人がいないというか
で普通に働いて今は休んでるわけだけど
なんか誰とも出会えないというか
なんかそういうことをやってても普通のところに馴染んで
人生を淡々とではないようにしようやってるのは
なんか本当になんか私はどこにいればいいんだろう
みたいな気持ちになってきて
最近は本当にそういう自分のセクシャルオリエンテーションのこととか
もう誰にも理解されないし
説明を試みようとしたけど
そもそもなんで説明しなきゃいけないんだろう
みたいな気持ちになったりとか
もう疲れましたって感じなんですよ
もうどうでもいいわっていう
なんか自分が理解できてれば
他人に理解してもらわなくても全然問題ないというか
誰かに理解してもらおうとすることがすごい疲れてしまって
メンタルにも影響があって
だったらまあ人に理解されたいという気持ちはやめて
自分が自分のことを理解してあげてればいいや
というふうに思っていたんですけど
この演劇を見て私はなんか
どこに行ったらいいんだろうみたいな気持ちになりましたね
どこに行けば私は息がしやすくなるんだろうみたいな
もっとそういう結構でかい悩みを
悩みというかテーマを抱えさせられることにもなったって感じかな
今このこの先どう生きていくかみたいな局面に立たされているんで
よりそう思うというかずっとそう思ってるんですけど
ずっとモラトリアムだなという感じがあるんで
大学を卒業してからずっと
だからそのキャリアっていうものを考える時に
セクシャリティの問題って無関係のように人は思うかもしれないけど
全然私は無関係じゃないなと思っていて
キャリアってその仕事のことに限定したような言い方だけど
本来は人生全体のことをキャリアというのであって
そこに仕事も一部含まれてるよってだけなんで
まあでも仕事選びっていうものも結局
自分のセクシャルオリエンテーションとかに無関係じゃないんですよね全然
私は今の会社にいて
周りの同期とか先輩とかが結婚したり出産したりするのを見るわけですけど
そうすると
忘年会とかで祝い金をもらえるんですよ
みんなの前に立って一言言ってみんなにお祝いしてもらえるんですよね
これ別に何にも悪いこととは思ってないんですけど
私いいことをむしろいいことよりと思ってるんですけど
例えばそういうことが起こる時に
なんだろうね
そういうことを説明しなくても祝ってもらえる人とそうでない人がいて
そこの不均衡性とかはやっぱり思いを走るわけですよ
私は毎年毎年その忘年会でそんなことを考えない人もいるわけじゃないですか
なんかこう普通に生きてるだけで
ダメージを受ける感覚
なんでダメージというかなんか精神的な負荷がかかるわけですよね
ダメージとまで言わなくても
だからその例えばそういうことですけど
何ですかねあんまりそのこの例のなんか賃を食ったとは思ってなくて
その忘年会ってその仕事は仕事だけど
仕事の終焉的な部分の話じゃないですか
でもやっぱりお金を稼ぐということをしていく中で
自分の精神衛生だったりとか体力とか
なんかそういうものは必ず関係してくるわけで
前向きに生きれる健康状態っていうものを考えた時に
やっぱりその自分のセクシャルオリエンテーションとかが
なんかいていいんだなっていうふうに思えてない状態と
そう思えている状態で仕事するって全然違うと思うし
パフォーマンスにも影響はもちろん出るし
なんか全然無関係な話じゃないんですよね
クワロマンティックな関係の描写
正直じゃあどうしようっていう
なんかどこに私はいたらいいのかっていう
その仕事にかからわらず友達関係とかもそうだし
全然理解してもらえない結婚の話とか
年齢の話とか恋愛の話をするんですよ
やっぱりこの年ってみんなするんですよ
でも私は全然したくなくて
それは自分のそういう感覚が
皆さんの感覚と違うし
わかってもらえないっていうことを
散々わからされてきたというか
そういう経験があるから
物足りなかったなーって思う部分が何個かあって
物足りないって言っても別にこの作品の歌詞ではないんですけど
例えばこういう物語があればいいなー
みたいに思ったりするのは
その今回の話ってクワロマンティック同士なんですよ
で祭りは葵に対してすごい大切だと
自分にとってでかめの存在だと
恋愛とかではないが
友情かと言うと妄想とも違くて
そうでかめの存在なんだって訴えることによって
葵もそう思っていたことがわかって
二人はパートナーシップを結ぶわけなんですけど
例えばじゃあ葵がクワロマンティックじゃなくて
ヘテロセクシャルだったらどうだったんですかっていうことで
葵がヘテロセクシャルの場合は
クワロマンティックの探求
シス女性女性を好きになるわけですよね
で祭りはクワロマンティックだから
そういう恋愛っていうものに対する
なんだろう違和感義義がある
で葵に対して祭りはめちゃめちゃ大事だなと思うけれども
葵がヘテロセクシャルで彼氏が彼氏じゃない彼女ができたよ
彼女ができたよってなった時に祭りの存在は
彼女にとってどうなんですかねっていうヘテロの文脈だと
祭りは邪魔ですよねっていうことになって
そういうふうなところの問題
ヘテロセクシャルもいていいし
クワロマンティックもいていいってなった時に
そこに起こる祖母がなんかあるよなっていうのをすごい私は思っていて
その辺の祖母とかもテーマに昇ってきてたら
ものすごいなんかもっといいなぁとか思ったりしますね
なんだっけなクワロマンティックなんですよ祭って
でもその中でノンバイナリーのパートナーに
結構祭りはロマンチストだと思うよみたいなことを言われるシーンとかって
すごいいいなぁと思ってそれもクワロマンティックって
なんでクワだと自分で思うかって
まあ私個人の解釈ですけど
ロマンティック要は何も恋愛的に惹かれないっていう
何もないっていうラベリングがあるわけなんですけど
アロマンティックを名乗るのではなくてクワロマンティックを名乗るっていうことは
なんかこうちょっと何もない人からしたら
ちょっとは恋愛っぽい感情を抱いてるみたいな風にも
なんか言えるんじゃないかなと思ってて
何もなかったらアロマンティックでいいんですよ
でもなんかこれもっと友情とも違うし
なんかでも恋愛かなでも恋愛と言うにもなんかちょっと違うなみたいな
そういう曖昧な気持ちを抱くから
クワロマンティックっていう辞任に
なんかたどり着くんじゃないかなって思うんですよね
なんかそこをちゃんと描いてくれたのが嬉しくて
でもそこをちゃんと言葉にしたから祭りはクワロマンティックってそういうことねっていう風に
きっと観客は理解したと思うんですけど
でもそれをなんか言葉にしてなかったら
割と祭りがやってることってフテロと何がちゃうねんみたいな
そういう気持ちになるんですよ
その辺が言葉で説明する以外の道で説明はされてなかったかなっていうのはあって
でもそれってすごい難しいことなんですよね
それは本当に私も友達に説明を試みようとして全然理解されなくて
ヘテロセクシャル文脈に飲み込まれてしまって
演劇の評価
毎回話が終わるみたいな疲れ果てたんですけど
でも仕方ないんですよね
それはなんか違いがわからない
違いがわからないっていう辞任なんで
クワロマンティックっていうのは
まああの周りから見てもわかんないよねみたいな
と本人がわかってないんだもんみたいな
でも違うんですよ
ということだけは本人はリアルにわかってて
何が違いがわからない
何が違うのかっていうのを説明できないのはヘテロセクシャルも同じなんですよね
ヘテロセクシャルの人に
まあ私今セクシャルとロマンティックを分けずにヘテロのことは言ってますけど
ヘテロセクシャルの人に恋愛と一緒の違いって何?って聞いても
はっきりとした答え返ってきたことないですよ
正直でもわかってるんですよね
ヘテロの人たちは何が違うかって明確にわかってる
でも言語化するとはできない
っていうなんかその辺の描き方みたいな
結構私はそうだよねっていう
アロマンティックとの違いみたいなところをちゃんと描いてくれたかなっていう感じはしてて
すごいそこも良かったですね
わかんないんですよ考えれば考えるほどね
ノンバイナリーのキャラに
祭りは結構ロマンチストだよねって言われたとき祭りの心情やいかにって感じ
難しいよね考え込んじゃうよね
でも違い分かんないんだよっていう分からないがあるんだよっていうことをね
まあなかなか難しい本当にどうしたらいいんでしょうっていう感じはしますけど
なんかその最初に祭りと葵が結構仲良くなった時
仲良くなったっていうシーンの時にレズビアンの子がそれが恋だよみたいなことを言うシーンがあって
まあこれすごい危ういシーンなんだけど
まあなんかそれに対してなんか違うんだよと祭りは答えるわけなんだけど
なんかそこに対するレズビアンの子の反省みたいなものが描かれてたらもっと良かったなとかもちょっと思いますね
何が違うのかわかんないでしょって思うんで
レズビアンの子は分かったかなみたいなところを気になったかな
そこは描かれてなかっただけだったのかもしれないんですけど
どうだったんだろうっていうのも結構気になったかな
はいまあそんな感じかな
なんかねとっちらかってるんですけども
はいこんな感じで今回我々なりのロマンティックという演劇についてお話をしてきました
非常にねあの面白い演劇でしたんで
もしなんかこう見る機会が皆さんもあれば是非見てほしいです
はいここまで聞いてくださってありがとうございました
41:31

コメント

スクロール