00:06
たしづんの日々考察-ヒビコウラジオ
ということで、第34回の放送をしていきます。
例によって外の音が入っていると思います、申し訳ございません。
撮れるときに撮ってますんで、お付き合いください。
本日の放送は、ちょっと雑談会にしようかなと思ってて。
私の小学校の頃の話をします。
もうとっくに引っ越してしまっている場所なので、公開するんですけど、
一番最初に住んでいたのは、東広島市っていうところの西条っていう一番大きな町。
ここに住んでいました。
東広島市っていうのが、広島県の一番ど真ん中にある市です。
最初に東広島市ができたのが、1980年ぐらいだったと思うんですけど、
四町が合併して市になりました。
その後、平成の大合併のときに、さらに五町が吸収されて、大きな市になりました。
ちなみに面積、数字忘れましたけど、だいたい鳥取市と同じくらいです。
人口もおよそ20万人くらいで、これも鳥取市と同じくらいです。
だから鳥取市は、私にとってものすごく住み心地のいい町でした。
本当に東広島市と同じような感じ。
ただ、東広島よりも断然、飲み屋さんの数が圧倒的に多いので、やっぱり県庁とかありますからね。
大手の企業の営業所とかも鳥取市にあるんですよ。
なので、出張のためのビジネスホテルとかも多いし、飲食店がものすごくたくさんあるんですよね。
で、あとはですね、大手のドンキホーテとかカインズとか、あとスターバックスが2カ所あるのかな。
東広島よりも大都会で驚いた、そんな記憶がありますね。
で、その中の東広島市で唯一、都会と言ってもいい西条という町があります。
03:05
私は生まれたのはこの西条なんですよね。
西条っていうのは、大昔に宿場町で非常に栄えた、昔から栄えたところで、
街道ってあるじゃないですか、東海道とか、ああいうのの山陽道っていう道が通っていた地域です。
で、湧き水が綺麗なので、お酒の名産地で有名です。
JR西条駅の駅前に、酒造メーカーが7社集まっているんですよ。すごくないですか。
江戸時代に、日本三大酒どころっていうのが制定された時も、
伏見、奈田、西条で選ばれるぐらいの酒どころです。
毎年秋に酒祭りっていう、頭のおかしいお祭りが開催されるんですけど、
日本全国から日本酒好きが集まってくる、ちょうど新酒の時期なんですよ。
酒舞の新舞が取れるっていう時期でもありますけど、新酒の仕込みが完了する時期にお祭りをやると。
そのお祭りに、いろんな全国の酒蔵も招かれて、
日本中のお酒が飲めるブースっていうか、でっかい広場が作られたりとかしますね。
それと別で、地元の6社だか7社ある酒造メーカーさんは、
自分とこの酒蔵を開放して、試飲会みたいな、有料試飲をたくさんやってるというとこですね。
お酒が有名なんですよ。
あとは、広島大学があります。
広島大学がものすごい山の中にあって、
だから私は子供の頃って本当に大学しかなかったんですよね。
その後、まさか自分がその大学に通うことになるとは思わなかったんですけど、
私が学生の時には、いろんな店ができていて、びっくりしたのを覚えています。
学生がいっぱい住むようになって、ものすごく発展していったような、
そんな街です。
大学が広島市内から移転してきたんですよ。
06:03
それに合わせて、留学生とか外国人がたくさん住むようになったんですよね。
大学院でドクターとかマスターで来ている外人さんもいるし、
もっと言うと研究職とか、本当に先生、助教とか教授とか、
そういう外人の先生もたくさんおられて、
だから私は西条の町内の小学校に通っていたんですけど、
クラスメイトが必ず一緒に、
クラスメイトが必ず一人以上外国人がいるんですよ。
すごかったですね。
大体一学年に5クラスとか6クラスくらいあって、
西条って町が急激に大きくなって、学校がまだできていない時期、
これだったので、すごくプレハブ校舎に押し込められて、
外国人いるし、結構カオスでしたね、私の小学校。
で、何でこの話しようかというと、
いつも聞いてくれている常連リスナーさんのしーちゃんが、
給食の話ししてくれって書いてくれたんですよ。
途中から転校してしまったので、そこの小学校は全然特徴がなかったんですけど、
西条町っていう地域性がすごくありました。
特に国際食を全面に押し出してて、給食が外国の料理ばっかり出るんですよね。
小学校低学年ってもうぬるいんですよ。
熱いの食べたら火傷するから。
低学年の頃はぬるい給食を出してくれるんですよね。
それは給食の先生がいろいろ考えてくれてたんですけど、
まずいんですよ、ぬるいと。
だから、例えばボルシチっていうロシアのシチューみたいなのが出るんですけど、
赤株かなんかのシチューがあって、
バターを溶かしてだんだんバターの味が濃くなっていくっていう変化を楽しむ料理でね。
とてもオシャレな料理のはずなんですけど、
ぬるいシチューにカチカチの凍ったバターがつけられてて、
めっちゃまずかったの覚えてます。
しかもバターの味って小学生には無理じゃないですか。
広島弁でムツコイって言うんですけど、
09:03
結構しつこいんですよね、味がね。
今はすごく好きですけど。
だから、結構ですね、
外国の料理ってまずいんだって思ってました、本当に。
いろいろあったんですけど、忘れましたね。
めっちゃまずかった料理が何品もあったのを覚えてます。
本当失礼な話なんですけどね、今となっては。
ブラジルのなんとかっていう料理もまずかったし、
なんだろうな、てかアジアの料理がめっちゃまずく感じたんですよね。
でも大人になって、本物のロシア料理店とかベトナム料理店とかで
自分がお金を払って食べると、おいしいじゃんってなるんですよね。
給食は結構特徴的でしたね、西条は。
酒どころっていうことで、酒かすの入った鍋があるんですよ。
それを冬に出されて、美しいお酒の鍋って書いて、
美酒鍋って言うんですよね。
それこそ酒祭り、年に1回ある西条酒祭りに行くと振舞われるんですけど、
美酒鍋って書いてるんですよ。
その読んで字のごとく。ただ、美酒鍋ね、私が小学校で習ったのは美酒鍋だったと記憶してます。
どなたか西条町出身の方他におられませんが、審議を確かめたいですね。
美酒鍋はおいしかったですね。今食べても本当においしいです。
アルコールは完全に飛ばしてるんですけど、酒かすの風味がちょうど。
寄せ鍋とかちゃんこ鍋みたいな醤油ベースの出汁だったと思います。
あとはね、8月、8月じゃないな、8月か。
に、戦時中の給食みたいなのが出るんですけど、めっちゃまずいんですよ、あれも。
でも、出汁粉乳を飲まなきゃいけなくて、本当に泣きながら半分だけ飲んで、
残りの半分を飲める友達に飲んでもらって、OKみたいな。
でも苦痛すぎて、なかなかあの日が、戦争の給食が出る日は苦痛でしたね。
しかも当時平成初期の頃でしたから、食べれないやつはいつまでも残って食べるまで、
休憩時間もダメだし、掃除の時間までずっと食べさせられてました。
だから、給食、昼休憩、掃除っていう順番だったんですよ。
12:02
でも、普段は食べれない人がいつまでも残ってて、今思うとアレルギーだったんじゃないかなとか思うんですけどね。
掃除の時間までグズグズ食べてるわって思ったのに、出汁粉乳だけは僕も、
そのメンバーに混ざって掃除の時間まで残らされてたのを覚えてます。
あれは情けなかったな。だからもう、今だったらちょっと問題になりますよね、さすがに。
まあ、そんなんがありましたね。
あとは、1月、ごめんなさい、兵庫県の人がおられたら本当に申し訳ないんですけど、
阪神大震災の日、日にち忘れちゃいました。ごめんなさい。
1月5日か、は防災の日ってことで、
災害時に配られる、避難所で配られる食料みたいなのを給食で食べてました。
あれがね、なんだっけな、かんぱんと、かんぱんと、バナナ、でもバナナ食べれるかなって思うんですけど、
正直、避難所で、かんぱんとバナナとなんかだけだったので、すっげえお腹空いたのを覚えてます。
そんな感じで、いろんな勉強させてもらったんですよね。
やっぱり大学が移転してきて、すごい教育委員会とかもものすごくモチベが高かったんだろうと思うんですよ。
給食のメニュー一つとっても。
そういうのも、食育、やっぱり経験しててよかったなって、今だなって思います。
ボルシチとか食べないし、だし粉に飲まないし、きっと地域性がいろいろあるんだと思います。
例えば愛媛県の、どこだったかな、宇和島だったっけ。
みかんで炊いた炊き込みご飯が出るとかね、もう絶対おいしくないじゃんって感じですけど、そんなの聞いたことがあります。
もしよかったら、変わった給食、皆さんのも聞きたいので、よろしくお願いします。
ということで、第35回の日々子ラジオ、この辺で終わろうと思います。
すいません、聞き直したらですね、冒頭34回って言ってました。
正しくは35回の放送です。
給食の話あれこれ、ということでした。
皆様、お聞きになっている方の給食トークもぜひコメント欄でお待ちしています。
それでは、さようなら。