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2024-10-28 38:07

原爆構想の始まり | 核時代を生きる 2

レクチャーシリーズ「核時代を生きる」(全13回)は,核時代を生きた様々な人々を取り上げて,核兵器の歴史を多面的に理解することを目的としています。その第2回となるこのエピソード「原爆構想の始まり」では,原子物理学が急速に発展した1930年代に原子爆弾製造の可能性を思いついた科学者たちの考えと行動,ならびにその時代背景について解説します。

なお,このエピソードは,私(たな)が2017年度後期に大学で行った講義「科学技術と現代社会 第2回 原爆構想の始まり」の録画ビデオを元に作成しました。途中,テレビ番組の一部を観てもらう部分がありますが,そこは省略しています。

ビデオでは,スライドを示しながら説明していますので,そのスライドを下に掲載します。文字起こし欄に,そこで参照してほしいスライドの番号を【スライド1】などと記載していますので,必要に応じて参照してください。

また,録画ビデオ自体も下に掲載していますので,必要に応じて参照してください。

最後に,参考文献を掲載しました。

スライド

スライド1

スライド2

スライド3

スライド4

スライド5

補足と訂正:シラードがナチスに対抗するためにアメリカに原爆をつくってもらおうと考え,有名なアインシュタインの名前でルーズベルト大統領に手紙を出してもらおうとした,と言っていますが,実際の事実関係はもう少し複雑です。実際は次のような話のようです(『シラードの証言』109ページ以降による)。シラードは初め,ベルギー領コンゴにあるウランがドイツに渡らないように,ベルギーのエリザベート王太后(前の王妃)の知り合いであるアインシュタインにエリザベートへ手紙を書いてもらおうと考えたのですが,シラードの知り合いのストルパー博士に相談すると,ザックス博士を紹介され,シラードがザックスに相談すると,ザックスは自らルーズベルト大統領に手紙を渡すと言ってくれました(この経緯から,ザックスはシラードの直接の知人ではなかったようです)。そこで,ベルギー女王に手紙を出すのではなく,ルーズベルト大統領に手紙を出すことに変更されたようです。また,手紙の草稿は,アインシュタインが口述した草稿もあったようですが,結局はシラードが書いた2種類の草稿(短いものと長いもの)の両方にアインシュタインが署名し,長い方の手紙がザックスによって大統領に手渡されたようです。また,アインシュタインは大統領宛の手紙を出すことを躊躇したと言っていますが,これは私の思い込みからきた誤りで,実際は「喜んでこの仕事を引き受け」たようです(『シラードの証言』112ページ)。

スライド6

スライド7

スライド8

スライド9

スライド10

録画ビデオ

授業で上映したビデオ

参考文献

サマリー

このエピソードでは、原子物理学が急速に発展した1930年代に原子爆弾製造の可能性を思いついた科学者たちの考えと行動,ならびにその時代背景について解説します。

原爆構想の始まり
【スライド1】この授業では、前回のガイダンスでも言いましたけれども、 基本的には、「核兵器の歴史」を古いところから現在に至るまでたどっていく、
その中で、現代における科学技術と社会の関係を、 いろんな側面から考察していく、そういう話をしました。
その古いところの一番最初が、今日の話です。 原爆、核兵器というのが、最初どういうふうに誕生してきたのかという話です。
【スライド2】これは、おそらく皆さんは、歴史の授業とか、 あるいはテレビその他のマスコミ等で、あちこちで聞いた話があると思います。
それは、第二次世界大戦中に、アメリカが極秘計画「 マンハッタン計画」というのを実施していて、そこで密かに原爆を開発していた。
それを、いきなり戦争が終わる直前に、日本に対して使用した。
その極秘計画ということで、当時は全く知られていなかったわけですけれども、
その後、戦後は、この極秘計画についても、いろんな情報が公開されて、 今では大体その概要はよくわかっているわけですね。
だから、このようにして講義ができるわけですけれども。
では、この「マンハッタン計画」ですね。
第二次世界大戦中のアメリカの原爆開発計画というのは、どういうものだったのか。
どうして始まったのかというところを見ていきたいと思います。
マンハッタン計画そのものについては、次回詳しく取り上げますので、
今日は、それが始まる前の歴史を見ていきたいと思っているんですけれども、
このマンハッタン計画は、多くの有名な科学者が関与したということでも有名です。
特に原爆というのは核エネルギーを使いますので、物理学者が非常に大きな役割を果たした。
それまでは物理学というと、非常に原理的な問題を取り扱っていて、
実際問題にそんなに大きく関わるということはない分野でした。
言ってみれば、雲の上みたいな、現実とはあまり関わりのないような話をしている人たちと考えられていた物理学者が、
いきなりこういう戦争という非常に現実的な問題に関わるようになってきた。
今では物理学者は、いろんな形で現実に関わっていると思いますけれども、
当時はまだまだ物理学というのが、そんなに実用と関わりがあるというところはなかった時代です。
ですので、これは非常に大きな歴史的な転換点でもあったんですね。
特に皆さんが一番よく知っている物理学者の一人だと思いますけれども、
アインシュタインという人がいますよね。
20世紀の非常に有名な物理学者です。
理論物理学者で、特に相対性理論を唱えたということで非常に有名な人です。
その相対性理論自体は、本当に理論でして、
実際問題にそんなに関わるようなものではないと当初は考えられていたと思います。
けれども、それが大きな役割を果たしていくことになるんですね。
それだけではなくて、その理論が果たしたというだけではなくて、
アインシュタイン自身もこの原爆の誕生ということに大きく関わっていくことになります。
その有名なものが「アインシュタインの手紙」というもので、
アインシュタインが当時のアメリカ大統領ルーズベルトに対して原爆を作るようにと進言したという、
そういうことでよく知られている手紙があります。
そのアインシュタインが大統領に進言したことがきっかけとなって、
アメリカで核開発が始まり、そして第二次大戦末期に完成して、戦争で日本に使われたと。
そういう筋書きが一般的には知られているかと思います。
今日はその話を扱うんですけれども、
ただアインシュタインは具体的にどういう役割を果たしたのか。
アインシュタインがこの手紙を送ったから原爆が作られるようになったのか。
あるいは、そもそもアインシュタインはどういうつもりでこの手紙を出したのか。
自分から積極的に原爆を作るようにというようなことを言ったのかどうかですね。
そういうところも考えてほしいと思います。
そういうのはなぜかというと、アインシュタインというのは、
これも皆さんどこかで聞いたことがあると思いますけれども、
根っからの平和主義者です。
戦争なんていうものには根本的に反対をする、そういう立場の人なんですね。
そういう人が戦争前ですね、まだアメリカに関しては。
ヨーロッパでは戦争が始まりつつありましたが、
そういう危ない時期に恐るべき兵器を作るようになんていうこと自体が非常に矛盾しているようにも思われるわけです。
そういうことに普段から関心があって、戦争にどんどん協力したいという科学者であれば別ですよ。
そうであれば、そうだろうなという感じがします。
でもアインシュタインはそれとも正反対の人物なんですね。
実際に、第二次大戦後はずっと核兵器に反対をし続けました。
そして、自分がこういう手紙を送ったことを生涯悔やんでいました。
しかし、アインシュタインは当時は手紙を送ってしまったわけです。
なぜなんでしょうか。
これはやはり当時の背景を知らないと理解できないので、その辺も今日は見ていきます。
ということで、今日はアメリカの原爆開発計画が始まるまでどういうことがあったのかという前史と、
そこで大きな役割を果たした科学者たち、これを見ていきます。
科学者はそこでどういう役割を果たしたのか、また科学者にはどういう責任があると言えるのか、
あるいは科学者に責任はないのか、その辺も考えてもらいたいと思います。
仮定の話ですけれども、もし当時の科学者たちがこういった政府に対して原爆を作るようになどということを言わなかったとすれば、
第二次大戦中に原爆が誕生することはなかったかもしれない。
原爆開発は何らかの事情で始まったかもしれないけれども、
でもそんなに早くは進まなくて、第二次大戦が終わるまでには間に合わなかったかもしれない。
そして広島・長崎には落とされずに、広島・長崎の被害者ですね、犠牲者、こういったものが生まれずに済んだかもしれない。
けれども、実際には科学者たちは原爆を作るようにという方向に動き、
原爆が作られてしまい、戦争で使われてしまって、多くの人が犠牲になったんですね。
であるならば、科学者の行動からその後の結果というのがですね、
単純にではないですよ、一直線につながっているわけではないけれども、
でも大きな意味を持っていたというふうに考えることも可能ですよね。
もしあそこであいうことをしていなければ、という思いがどうしても後の時代には残ることがあります。
これは皆さん自身にも関係あることなんです。
皆さんがこれから何か仕事をしていくときに、あることを皆さんがしたために、
ものすごい大きな被害が生じてしまって、多くの人が苦しむということがあるかもしれない。
もしそうしなかったらば、それが起こらなかったかもしれない、
そういう場面に皆さんは出くわすかもしれない。
そういうことも考えながら、今日の授業を受けていろいろと考えてもらえればというふうに思います。
時代背景
【スライド3】では、私の講義を始める前に、ここで導入として一つのビデオを見てもらいたいと思います。
これから見てもらうのはNHKのドキュメンタリー番組で、『アメリカの20世紀』というものです。
第2回が「第2次世界大戦と原爆開発」ということで、第2次大戦中の原爆開発について描いていますが、
その中からこの原爆開発が始まるまでの時代のところを見てもらいます。
当時のヨーロッパの政治情勢、それから当時の物理学の発展の状況、
この2つがちょうど組み合わさることによって原爆開発というものが進んでいきます。
その2つの点に注目しながら、注意深くこのビデオを見てもらいたいと思います。【ビデオ上映部分は省略】
【スライド4】では、私の方で少し解説を加えていきたいと思います。
まず、レオ・シラードです。
今見てもらったビデオの中でも、シラードの名前が繰り返し出てきたかと思います。
先ほど紹介した「アインシュタインの手紙」というものも、
アインシュタインの名前でもって出された手紙なのでそう言われていますが、
実際に手紙を出そうとしたのも、それからその文面の下書きを書いたのもこのシラードでした。
ですので、このシラードという人について少し見てみたいと思います。
この人は1898年にハンガリーで生まれたユダヤ人です。
このシラードは皆さんと同じように、ハンガリーでエンジニアになるための勉強をしていました。
しかし、第一次世界大戦が起こって、若者ですから戦争に行かされた。
戦争が終わった後、ハンガリーではなくてその隣にあるドイツのベルリン工科大学という、
ドイツの中でも最も有名で立派な工科系の大学に転学をしまして、ここで勉強を続けるわけですが、
皆さんも学んでいると思いますけれども、工学を学ぶためには物理学をまず学びますよね。
シラードは工学よりもむしろ物理学のほうに興味を持って、物理学に専攻を変えました。
そしてこのベルリンでその研究を進めていきます。
1927年にはベルリン大学の私講師という教員職の一つですけれども、そういうのにまでなっていました。
しかし、その間はドイツはヒトラーが率いるナチスが政権を取りまして、
この1933年、ヒトラーが首相になった年にユダヤ人の迫害が始まります。
例えば、ユダヤ人は公務員になってはいけないというような法律を作ったりします。
当時ドイツの大学の先生というのはみんな公務員でした。
大学というのはみんな国立大学だったんですね。
ですので、ベルリン大学の教員をやっていたシラードもその職を追われることになります。
シラードはイギリスに亡命するんですね。
そこで研究を続けます。
当時はこういう政治的な非常に大きな変動があった時期ですけれども、
もう一つ、物理学の分野でも大きな発展がある時代でした。
それは原子の中身ですね。
原子の内部構造について次々といろんな発見が行われていた時代なんです。
原子の中には原子核と電子というものがあって、
しかも原子核にはさらに小さな粒の陽子というものがある。
そういうことが分かってきました。
さらに原子核には陽子以外にも中性子という電気的に中性な粒子もあるんだということも分かってきました。
そういうことを聞いたシラードはあるアイデアを思いつくんです。
つまり原子核の中にある中性子が他の原子核にぶつかると、
その原子核が分裂してまた中性子が出てくるのではないか。
その出てきた中性子がまた別の原子核にぶつかるとまたそこから出てくる。
そうやって次々と中性子を媒介にして原子核が分裂していく。
これを核分裂の連鎖反応と言うんですね。
よく例えられるのがビリヤードです。
ビリヤードの球のように一つの球がぶつかると次々といろんな球がぶつかっていくのと同じように、
次々と連鎖的に核分裂が起こる。
核分裂が起こるとそこから大きなエネルギーが出てくるということも理論的にわかっていました。
これはアンシュタインの相対性理論から出てくる結論だそうです。
したがって、もしこれが実現するならばそこから大きなエネルギー、
それまでにはないとてつもないエネルギーが出てきて、核エネルギーが出てきて、
もしこれを悪用すれば今までにない爆弾のようなものが作られるということもシラードの頭の中に生まれてきました。
この当時はまだそんなことを考えている人はほとんどいない時代です。
まだ核分裂なんてことが起こるかどうかすらわかっていない、そういう時代なんですけれども、
でもシラードは非常にそういうところはいいひらめきをする人のようでして、
実際にそれは現実のものとなっていくんですけれども、そういったことを思いついた。
シラードらしいのは(次のようなことです)、こういった優れた思いつきがきらめいたときに、
科学者はどうするかというと、それをみんなに言いたがる。
自分はこんなすごいことを思いついたということを言いたくなるのが科学者です。
そしてこのすごいアイディアを最初に言い出したのは私だと。
だから私は非常に科学者として有能だということをみんなに認めさせるというのが、
科学者の基本的な性質なんですね。
しかし、シラードももちろんそういうところはありましたけれども、
シラードがちょっと変わっているのは、もしこれを発表したらば、
それを悪用する人が出てくるかもしれないということを考えたところです。
もしこれを悪用したならば恐ろしいことが起こる。
だからこれは発表できないというふうにシラードは考えました。
しかし発表しないで自分の頭の中だけに留めておくと、
少し経ったらば他の人が思いつくかもしれませんね。
他の人が思いついてそれを発表してしまったらば、
そのアイディアを最初に発表したのはシラードではなくて、
その別の人になってしまいます。
それはシラードにとってやはり悔しいことなんです。
そのアイディアは実は私の方が先に思いついていたんだということを後から言ったってだめなんですね。
それは負け惜しみです。
そんなことを後から言ったって誰も相手にしてくれません。
だったらなんで早く発表しなかったんだというふうに言われるのがオチです。
ですのでシラードはジレンマに陥るわけです。
自分が一番早く思いついたということを記録に残したい。
しかしそれを発表すると悪用されるかもしれないというジレンマの中で
シラードが考えた方法がこれを特許にとって軍に譲渡するということでした。
そうすることによってこれを秘密特許にすることができます。
秘密特許というのはこれは公開されないんですね。
しかし公の機関がちゃんと特許として認めるということなので、
いついつ誰がどういうアイディアを持っていたかということはちゃんと記録に残る。
公の文書の中に残る。
ということでシラードはそういう方法を取るんですね。
シラードは当時亡命していたイギリスの海軍にその考え方を特許にとって譲渡するんですね。
シラードはしかし自分のアイディアが本当に実現するものなのかどうか分かりません。
やっぱりこれは実験してみないと本当にそうなるかどうか分からないので、
シラードは恐ろしいと思いつつも本当なのかどうか知りたい。
これが科学者ですよね。
ですので、それをなんとか証明する実験をしようとしていたんです。
しかしシラードはなかなかそれが証明できませんでした。
原子核を分裂させるというのはそう簡単なことじゃないんです。
そうこうするうちにシラードはイギリスも危なくなってきたので、
イギリスとドイツは戦争していましたから(←間違い:英独戦争が始まったのは1939年9月)イギリスも危なくなって今度アメリカに移住しました。
それが1938年です。
この1938年という年は非常に大きなことが起こった年でもあります。
それはドイツでウランの原子核が分裂するということが発見された年なんですね。
1938年の暮れです。12月の終わり頃にそれがベルリンで発見されました。
世界中の科学者たち、物理学者たちはウラン原子が分裂するということについて、
もしそれが大々的に起これば巨大なエネルギーが出てくるということは理論的に分かっていたので、
シラードと同じようなことを考え始めるわけです。
もちろんシラードもウラン原子を使って連鎖反応が起こるかどうかを知りたかったんですね。
アメリカで実験します。
コロンビア大学というところで仲間たちと一緒に実験をして、
それでウランの核分裂が連鎖的に起こるということを実験で証明しました。
これは科学的に非常に重要な発見です。
もちろんこれは論文に書いて発表したいというのが当時のコロンビア大学の研究者たちの思いでした。
しかしシラードはその実験結果の公表にも反対したんです。
これを公表してしまったらば、みんながどんどんそれを追試して、
さらにはウランを使って原爆のようなものを作るようになっていくかもしれない。
それがもし使われたら恐ろしいことになるから、
そんなことを進めないように、あるいは少なくとも遅らせるように、
この発表を控えたいというふうに言ったんですけれども、
他の科学者たちはそれを認めませんでした。
結局発表されることになってしまうんです。
それが発表されればもう世界中でこの研究ばかりです。
今までにない新しい知見が得られたわけですから、
1939年、ウラン核分裂の発見の次の年は大騒ぎだったわけですね。
先ほどのビデオにもあったとおりです。
しかしシラードはそれでただ研究をしていくだけの研究者ではありませんでした。
つまり原爆が作られるということを非常に恐れたわけです。
しかもそのウランの核分裂を発見したのがドイツだったわけですね。
ドイツはヒトラーが支配しています。
つまりヒトラーが原爆を持つかもしれないという可能性を危惧したわけです。
なんとかしなきゃいけないと考えたシラードは
アメリカの大統領に手紙を送って
アメリカもドイツに対抗して原爆を持つように、
あるいはその研究をするようにと言いたかったんですね。
それしかもう手はないと。
放っておけばドイツが先に原爆を持ってしまう。
ヒトラーは何をするか分からない。
非常に残忍だから原爆を使うということもあり得るだろうと。
ということで、アメリカにその対抗力を持ってもらおうと。
今日でいう抑止力ですね。核抑止力を持ってもらおうと。
そういうふうに考えたわけですけども。
でも当時シラードは無名の科学者でした。
アメリカの大統領にそんな手紙を送ったって相手にされないだろうと。
とにかく言っていることが夢みたいな話ですからね。
今まで誰も聞いたことのないような話だった。
物理学者はそういうことを考えていたんですけども
それ以外の人は原爆なんてことが全く頭にない時代でしたので
いくら言ったって相手にしてもらえないだろうということで
当時においても超有名人だったアインシュタインに相談をして
アインシュタインの名前でルーズベルトに手紙を出してもらおうとしたわけです。
ちなみにシラードとアインシュタインは
ベルリンで同じ物理学者同士として面識があったんですね。
同じユダヤ人でしたから何かつながりがあったんでしょう。
同じようにドイツからアメリカに亡命してきた
そういうユダヤ人として何か通じるものがあるに違いないと
多分思ったと思います。
アインシュタインの手紙
【スライド5】ではその「アインシュタインの手紙」はどういうものだったのか。
これは短いものですからぜひ皆さん読んでみてください。
英語の原文もインターネットで簡単に読めます。
それから日本語の訳もインターネット上にありますので
簡単にサッと読めますので読んでほしいんですが
ここでは簡単に紹介しておきます【以下の説明には補足と訂正があります。概要欄スライド5の下を参照】。
まず先ほど言ったようにこの手紙はシラードが起草して
アインシュタインのところに持って行って多少の修正はあったかもしれません。
アインシュタインもこれに署名するには相当悩んだそうです。
やはり平和主義者のアインシュタインとしては
こんな恐ろしい兵器の開発を進めることに
手を貸すということにはそう簡単に乗れなかったようですけれども
でも悩んだ末にやっぱりナチスが原爆を持つのは怖いと
そこではシラードと一致したんだと思います。
39年の8月2日に署名をしています。
すぐに大統領に出したかったと思うんですけれども
そこでヨーロッパで戦争が始まるんですね。
ナチスのポーランド侵攻、これによって第二次世界大戦が始まりますので
ちょっと大統領に手渡されるのは遅れます。
シラードの友人で大統領の知り合いでもあるザックスという人が
手紙を直接大統領に渡したのが10月の11日でした。
その内容ですけれども、そこには原子エネルギーというものが
利用可能になるかもしれないということが書かれていました。
その原子エネルギーというのは今までにないような強力なもので
それによって爆弾を作ると今までにないような爆弾ができるかもしれない
ということも書かれていました。
そしてドイツはそういった研究を進めているようだと。
例えば、チェコのウラン鉱山からウランの輸出を禁止したりもしているのは
そういうことの現れではないかというようなことも書かれていました。
そしてアメリカは政府と科学者が機密な連絡をもって
そういった研究を進めていく必要があるというような内容のものだったんですね。
ただ、この手紙には本当に原爆なんてものはできるのかどうかということの
科学的な裏付けは非常に乏しいものでした。
理論的にも実験的にもそれはまだ証明されていない状態。
ただ今までの理論と実験結果からすると
そういうことがあり得るというその程度の段階です。
ルーズベルトはどうしたかというと、
そんな夢みたいな話をすぐに却下したかというと、そうではなくて、
一応アンシュタインというノーベル賞を受賞していた有名な学者が言ってきたことでもあるので
無視はしませんでした。
大統領の下に「ウラン諮問委員会」という委員会を作って
政府の関係者と科学者が連絡を取るような委員会は作りましたが、
でも当時は先ほどのビデオにもありましたように、
軍の側は全く相手にしていなかった。
そんなことが可能なのか信じられないというのが
軍の対応だったようです。
ですが、この理論的には可能だということなので、一応話は進めると。
ただし、これは爆弾としてはちょっと使えそうもないので、
動力源として、つまり今日の原発みたいなものですね。
そこからエネルギーを取り出して何かに使う、
そういう動力源として開発を進めるということで、
一応話は進んだわけです。
【スライド6】その「アインシュタインの手紙」にどんなことが書かれていていたか、
具体的に引用してみます。
こんな文言がありました。
「この新しい現象(つまりこれはウランの核分裂ですね。
これ)はまた爆弾の製造にも通じるでしょう。
しかも、あまり確実ではありませんが、
非常に強力な新型爆弾が作られることも考えられます。
この爆弾を船で運び港で爆発させれば、
一つで周囲の地域もろとも港をそっくり破壊しつくしてしまうかもしれません。
ただ、飛行機で輸送するには重すぎることがはっきりするかもしれません」。
こんなふうに言っています。
非常に強力な新型爆弾、これは原爆のことですね。
こういうことを予想しているんですけれども
「あまり確実ではありませんが」とかいう、
ちょっと自信なさそうな感じで書いてありますね。
書いている本人もまだできるかどうかよく分かっていない。
それから非常に大きなものを想定しています。
船で運ばないと予想できないぐらい重い、あるいは大きいそういうものだと。
そうしますと爆弾のように飛行機で積んでいって落とすとかそれはできないわけですね。
船でそんなものを運んでいって敵の港で爆発させるといったって、
普通はそこへ行くまでにその船は攻撃されますよね。
ですから、兵器としてこれを軍人が見たときにどれだけ魅力を感じたか疑問だと思います。
ですので、だったらば爆弾ではなくてエネルギー源として使おうという、
そういう話になるわけですよね。
フリッシュ・パイエルス・メモ
【スライド7】しかし、この話が実際に爆弾として使えるんだというふうに思われるように変わっていきます。
その話を出してきたのが、やはりヨーロッパからイギリスに亡命していた物理学者たちのメモなんですね。
フリッシュとパイエルス、ここに写真をあげましたけれども、この2人の亡命物理学者です。
当時イギリスのバーミンガム大学というところにいた人たちですけれども、
この2人が1940年の3月にある計算をするんです。
このウランの核分裂によって爆弾ができるかどうか。
それを理論的に計算してみようと。
計算した結果、この2人は実は600グラムあれば爆弾になる。
つまり連鎖反応が起こって爆発するというようなそういう計算を出すんですね。
600グラムなんて手で持てるぐらいですよね。
飛行機で運ぶのは当然簡単です。
それぐらいの小型の爆弾ができるというような結果が出たので、
これはやはり軍もちょっと関心を持つようになっていくわけですね。
このフリッシュとパイエルスのこのメモからですね、
話は原爆を開発する方に変わっていくわけです。
そういう意味で「アインシュタインの手紙」も重要ですけど、
それだけでは多分そんなに原爆開発には進んでいかなかったでしょう。
この2人の亡命科学者の計算の結果が
その後の発展に非常に大きな役割を果たしていくことになるわけです。
ただこの600グラムというのは実際には過小計算で、
実際にはもうちょっと何十キロか必要だったんですけども、
でも何十キロだって飛行機で運べるぐらいですから、
話はあまり違っていきません。
この2人もイギリス政府に対して早く原爆を作るようにということを進言するんです。
これはシラードやアインシュタインと同じです。
つまり当時の亡命していたユダヤ人たちは
みんな原爆を作るように政府に言っているんですね。
原爆の被害想定
【スライド8】この2人のメモはかなり難しい理論的な計算があって、
私なんかもよく理解できないので、ここでは説明できませんけど、
もし関心がある人はこれもネット上に公開されていますから
自分で読んでみてください。
ここではそういう理論的な話ではなくて、
もっと注目すべきこういった内容をお話したいと思います。
この2人は被害想定までしているんですね。
この爆弾が使われたらどういう被害が起きるだろうかということまで想定している。
つまり、まだ原爆というものはできるかどうかよくわからない。
そういう段階において被害まで想定していて、
それでこの爆弾の使用方法について
科学者なりに注意を喚起しているということは、
これはものすごい先見の明だと思います。
シラードもすごい先見の明があった人だと思いますけども、
このフリッシュとパイエルスも私はものすごい人だなというふうに思うんですけどね。
皆さんどうでしょうか。
このメモにはこんなことが書かれています。
「放射性物質が風によって散らばるので
この爆弾が多くの市民を殺害することなく使用されることはたぶんありえない。
このため、わが国が使用する武器としては不適当となろう」。
こういうふうに言っているんです。
この爆弾というのは単なる強力な爆弾ではない。
これは放射性物質、いわゆる放射能を大量に撒き散らすので
それによって多くの人が死んでしまうんだと。
そういうふうに言っているんです。
これまさに広島・長崎で起こったことですよね。
実際に起こったことをこの5年も前に予言しているわけです。
しかも単に予言しているだけではなくて、
したがって「わが国が使用する武器としては不適当」だとまで言っているんですね。
つまり市民を無差別に大量殺傷するような
そういう兵器というのは戦争で使ってはいけないという、
私から言わせれば健全な倫理観を持っていた。
当時もうヨーロッパでは戦争が始まっていました。
けれども戦争には使っていい兵器と使ってよくない兵器というのがあるんだという、
そういう良識がまだ科学者の中にはあった。
実際にはそういう良識がどこかにすっとんでしまって原爆が使われてしまうことになるわけですけれども。
さらにこの爆弾は市民を標的にするんじゃなくて、
軍事施設ですね海軍の基地を標的にして爆雷として使うということも可能かもしれない。
けれどもそれだってものすごい爆発ですから、
港で爆発すれば洪水が起こったり、放射能ももちろん出ますから、
やっぱり周辺に犠牲者を出さないわけにはいかないだろう。
だからともかくこの爆弾は使ってはいけないような兵器であるんだということをこの二人は言っているんです。
核抑止の考え
【スライド9】しかし、この二人はこの爆弾を作るようにとイギリス政府に進言しているんですね。
使ってはいけない兵器をなぜ作るべきなんでしょうか。
その理屈がここに書かれています。
フリッシュ・パイエルス・メモの続きをちょっと読んでみますと
「もしかりにドイツ人がこの兵器を現在所持しているか、将来所持すると仮定した場合、
大規模に使用可能ないかなる効果的シェルターも入手できないことを認識すべきである」。
このように言っています。
当時イギリスにいた人たちはドイツが原爆を研究してもしかしたら持っているかもしれない
あるいはまだ持っていないかもしれないけれどももうすぐできるかもしれない。
もし使われたらどうなるか。
それに対抗できるようなあるいは身を守ることができるような大規模な効果的シェルターは入手できない。
つまり全国民を核兵器から守るようなシェルター防空壕というものは作れないんだということですね。
つまり核兵器で攻撃されたら必ず大きな被害が出るんだということです。
だから防御できない。
基本的には。
そういう兵器。
そういう防御できないような兵器からどうやったら身を守ることができるかというと、
この二人の見解はこれです。
「もっとも効果的な応戦は、同種の爆弾による対抗的脅威であろう」。
これはどういうことかというと
こっちも原爆を持って相手を威嚇するということ。
原爆をもし使ったらこっちも使うぞというふうに脅すということ。
それしか相手に使わせない方法はないんだ。
今日でいう核抑止力を持つしかないんだというのがこの二人の考え方でした。
「したがって、攻撃のために爆弾を使用するつもりがなくても、
できる限り早く、迅速に生産を始めることが重要だ」とこういうふうに言っているんですね。
核抑止力の考え方というものがこのように非常に早い段階から生まれていて、
この考え方は今日まで多くの人たちが持っている考え方です。
北朝鮮が核を持った。
使わせないためにはこっちも核を持たなきゃいけない。
こういうふうに考える人は多いわけですよね。
その考え方の元はこの辺から来ているわけです。
この時代に生まれているわけです。
【スライド10】そういった二人のメモから、その後原爆開発へとつながり、
そして最初に言いましたマンハッタン計画までどういうふうにつながっていくかという話を
ちょっと簡単に見ておきますと
まずこの二人のメモはイギリスの秘密の委員会であるモード委員会、
これ暗号名ですけど、
モード委員会という秘密の委員会で検討されました。
約1年余り検討されまして、
このモード委員会はやはり原爆はできそうだという結論を出します。
当時アメリカとイギリスは同盟関係にありましたので、
その情報をアメリカに伝えました。
アメリカに伝わってきたのが1941年の夏頃です。
そしてアメリカもこれを受けましていろいろ検討した結果、
やはり原爆はできそうだ、だったらば作ろうという話になるわけです。
1941年の10月にアメリカの大統領、ルーズベルトですけども、
大統領は原子力の利用を動力の開発から原爆という爆弾の開発に変更します。
原爆を作ろうという意思がこの頃固まるんですね。
まだここでは日本とアメリカの戦争は始まっていません。
その後、真珠湾攻撃があるわけですね。
アメリカ時間でいうと12月の7日です。
真珠湾攻撃があるんですけどもその前日に
まだ日本からの奇襲攻撃がある前に
アメリカの研究開発のトップであったブッシュという人がいますけども、
その代理のコナントという人、
この人は後に破綻計画の責任者的な位置を占める科学者ですけれども、
原爆開発に全力を挙げるというふうに言明するということで,
決して真珠湾攻撃があったからアメリカは原爆開発に踏み切ったわけではないです。
つまり、原爆開発というのは決して日本を相手に想定した兵器開発ではなくて、
あくまでもドイツに対抗するために
抑止力として核を持つというのがそもそもの始まりだったということ。
このことは知っておいていいと思います。
よく日本に原爆を落としたアメリカに対して、
アメリカは非難されるそのときに、
そんなことを言ったって先に攻撃してきたのは日本だろうと、
だからアメリカはそれに対抗するために原爆を作って落としたんだと、
そういうふうに言われることもあるんですけれども、
そう話は単純ではない。
もともとはドイツに対する対抗措置として作られたものが、
戦争の成り行きによってドイツは先に降伏したので、
日本に先に使われたという話なわけです。
38:07

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