レクチャーシリーズ「核時代を生きる」(全13回)は,核時代を生きた様々な人々を取り上げて,核兵器の歴史を多面的に理解することを目的としています。その第3回となるこのエピソード「マンハッタン計画」では,第二次世界大戦中のアメリカの原爆開発計画(マンハッタン計画)と,それに関わった科学者たちの考えと行動,ならびに機密保持をめぐる科学者と軍人・政治家との対立について解説します。
なお,このエピソードは,私(たな)が2017年度後期に大学で行った講義「科学技術と現代社会 第3回 マンハッタン計画」の録画ビデオを元に作成しました。途中,テレビ番組の一部を観てもらう部分がありますが,そこは省略しています。
ビデオでは,スライドを示しながら説明していますので,そのスライドを下に掲載します。文字起こし欄に,そこで参照してほしいスライドの番号を【スライド1】などと記載していますので,必要に応じて参照してください。
また,録画ビデオ自体も下に掲載していますので,必要に応じて参照してください。
最後に,参考文献を掲載しました。
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補足:ロスアラモス研究所は,当初軍の管理下に置かれるものと計画されましたが,科学者の士気を下げないため妥協が図られ,研究開発段階は文民管理下(具体的にはカリフォルニナ大学が管理),生産段階に(1944年1月以降のある時期から)軍の管理下に置き,しかも文民管理下時代に雇用された者は陸軍任官を義務付けないこととされました。それでもラビはロスアラモス研究所の一員とはなりませんでした(マーティン・J・シャーウィン『破滅への道』89-91頁)。なお,結局戦時中にロスアラモス研究所が軍の管理下に置かれることはなく,またその後も現在に至るまで同研究所はカリフォルニア大学が管理しています。
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録画ビデオ
授業で上映したビデオ
- 失われた世界の謎「極秘の核施設」ヒストリーチャンネル,2006年。
- ジョン・エルス監督「The Day After Trinity」1980年。授業で上映したビデオ(日本語字幕付き映像)は,ジョン・エルス監督,富田晶子・富田倫生訳『ヒロシマ・ナガサキのまえに——オッペンハイマーと原子爆弾』ボイジャー,1996.8.6,CD-ROM(エキスパンドブック)所収。このCD-ROMは現在入手不可能ですが,動画部分を除いたものが電子書籍の形で読めます(有料ですが,初めの方は一部無料で読むことができます)。
参考文献
- 山崎正勝・日野川静枝編著『原爆はこうして開発された』増補版,青木書店,1997年,第2章「研究と開発の組織化」,第7章「核と科学者たち」。この本は,アメリカの原爆開発に関する基本的な文献です。
- R.P.ファインマン『ご冗談でしょう,ファインマンさん(上)』大貫昌子訳,岩波書店(岩波現代文庫),2000年(初版1986年),第3章「ファインマンと原爆と軍隊」。マンハッタン計画に関わった科学者の手記。
- J.ウィルソン編『原爆をつくった科学者たち』中村誠太郞・奥地幹雄訳,岩波書店(同時代ライブラリー),1990年(初版『われらの時代におこったこと』岩波書店,1979年)。マンハッタン計画に関わった12人の科学者の手記。
- マーティン・J・シャーウィン(加藤幹雄訳)『破滅への道程——原爆と第二次世界大戦』TBSブリタニカ,1978年。
- ジョン・エルス(富田晶子・富田倫生訳)『ヒロシマ・ナガサキのまえに——オッペンハイマーと原爆』ボイジャー,2012年(電子書籍)。
AIによる比較的詳細な要約
マンハッタン計画の概要と意義
今日の講義では、アメリカの原爆開発計画である「マンハッタン計画」について、その成り立ちから規模、組織の変遷、科学者の動員状況、さらには科学のあり方の変化について解説します。マンハッタン計画は、20世紀に入って初めて行われた巨大な研究開発プロジェクトで、総費用は20億ドル(現在の価値で約240億ドル、日本円に換算すると約2.4兆円)に上ります。この計画にはおよそ13万人が関わっており、その中には多くの科学者や技術者、さらに施設の運営や建設に従事する労働者も含まれていました。
マンハッタン計画のように国家資源を集中投下する大規模科学技術プロジェクトは、後に「Big Science(巨大科学)」と呼ばれるようになり、その後の宇宙開発(アポロ計画など)やソ連での大型プロジェクトにも影響を与えました。アポロ計画は人類初の月面着陸を成功させましたが、平和目的だけでなく、軍事的な要素も背景に持っていたことは重要な点です。マンハッタン計画も同様に、兵器開発を目的としたもので、科学者が政府や軍、企業と密接に協力しなければならなかったことが、科学のあり方に大きな影響を与えました。
科学者と軍の関係:研究の自由と機密保持
マンハッタン計画の進行にあたり、科学者と軍の間では「研究の自由」と「機密保持」の対立が大きな問題となりました。従来、科学は科学者が自由に研究を進め、その成果を公開し合うことで発展してきました。特に、自由な情報交換や討論が科学の進展には欠かせないと科学者たちは信じていました。しかし、軍事目的で行われるマンハッタン計画では、原爆という兵器の開発を秘匿するため、情報の厳格な管理が求められました。このため、軍は情報を細かく区分して担当者以外にはアクセスできないようにする「区分化(コンパートメンタリゼーション)」という方式を採用しました。
具体的には、各担当者が自分の担当分野に関する情報のみを持ち、他の分野の情報にはアクセスできないようにし、情報が計画外に漏れないよう徹底しました。この制約は科学者にとって士気の低下を引き起こすものであり、彼らは自分が行っている研究の目的や全体像がわからないため、意義を見出せないという問題を抱えることになりました。こうした制約にも関わらず、マンハッタン計画の情報は最終的にソ連に漏洩し、戦後の核開発に利用されることになります。
マンハッタン計画の成り立ちと組織の変遷
マンハッタン計画を進めたのは陸軍の「マンハッタン管区(Manhattan District)」であり、これは1942年6月に設置されました。マンハッタン管区は工兵隊(Corps of Engineers)の一部として創設され、初期の責任者は工兵隊のグローブス准将です。マンハッタン管区という名称は、当時陸軍内で用いられた秘匿名であり、原爆開発計画の実態を隠すためのものでした。元々は「DSM計画(Development of Substitute Materials)」という名称が使われていましたが、「代用材料開発計画」という名前は関心を引きやすいため、ありふれた地名の「マンハッタン」を採用したのです。
当初、計画は科学者たちが中心となって進めていました。科学研究開発局(OSRD)という大統領直属の組織が担当し、ブッシュ局長やコナントといった科学者がリーダーシップを取り、カリフォルニア大学やコロンビア大学、シカゴ大学の研究所で研究が行われました。例えば、電磁分離法を用いたウラン濃縮はカリフォルニア大学の「放射線研究所」で、気体拡散法によるウラン濃縮はコロンビア大学の「SAM研究所」で、プルトニウムの研究はシカゴ大学の「冶金研究所」で進められました。ただし、いずれも秘匿名で、実際の研究内容が外部に知られないようにされていました。
しかし、1943年5月にマンハッタン管区へと権限が移され、以降は軍が指揮を取るようになりました。責任者にはグローブス准将が就任し、工場や研究所の管理も軍の監督下に置かれました。実際のウラン濃縮は、ユニオン・カーバイド社が運営するクリントン工場(オークリッジ)、プルトニウム生産はデュポン社が担当するハンフォード工場で行われました。そして、原爆の設計と製造は、物理学者オッペンハイマーが所長を務めたロスアラモス研究所で進められました。
科学者の動員とその役割
マンハッタン計画には、大学から物理学者や化学者など多くの科学者が個別に招聘され、動員されました。例えば、若き日のファインマンは、プリンストン大学の院生でありながら計画に参加しました。彼は「ドイツが先に原子爆弾を開発する危険性」を理由に参画したと述べています。他方、シカゴ大学で核連鎖反応の研究を行っていたウィルソンは、原爆の破壊力に恐れを抱き、いったんはレーダー研究に転向しましたが、日本による真珠湾攻撃の報を受けて原爆開発に復帰しました。このように、多くの科学者がナチス・ドイツへの対抗や日本との戦争を動機に動員されましたが、一部には計画に参加しなかった科学者もいました。
例えば、MITでレーダー研究を行っていたラビは、オッペンハイマーからの参加要請を断りました。その理由は、ロスアラモス研究所が陸軍の管理下にあり、科学者としての自由が保証されていないからです。ラビは、研究所が軍から独立し、機密保持体制や人事の権限が科学者の手にあるならば参加すると条件を出しましたが、グローブスはそれを認めませんでした。したがって、すべての科学者が計画に強制的に従事したわけではなく、一定の選択の自由があったことが分かります。
科学者の士気と機密保持の対立
ロスアラモス研究所では、科学者と軍人、政治家、企業の派遣研究者が異なる価値観を持ちながら共同で研究にあたりました。大学の研究者は「自由」を最も重要視し、軍人や政治家は「国家的利益」、企業の研究者は「利潤や安全性」を重視していました。このような価値観の違いがしばしば対立を引き起こし、研究の進行を妨げる要因ともなりました。特に、科学者たちは自分たちの意見が計画に十分反映されていないことに不満を募らせ、プロジェクトが進まない原因を科学者の権限が制限されていることにあると考えました。
さらに、機密保持の徹底に関しても対立が起こりました。科学者たちは自由な情報交換が研究を促進すると信じていましたが、軍はスパイによる情報漏洩を懸念し、厳格な秘密主義を敷きました。これに対処するため、ロスアラモス研究所では外部との接触を遮断し、所内ではある程度自由に情報交換ができるような環境を整えました。しかし、軍は研究所内での討論会に対しても出席者を制限し、内容を科学的なテーマに限定するなどの規制を行い、政治的な議論が起こらないようにしました。
マンハッタン計画の成功とその影響
こうして厳格な機密保持がなされたため、ナチス・ドイツには原爆開発の情報が漏洩することはありませんでしたが、同盟国であったソ連には一部の情報が流出し、戦後ソ連が核開発を進める際に利用されました。このような一部の機密保持の失敗はありましたが、自由な討論を制限したことには、ある意味での「成功」もありました。すなわち、科学者たちが原爆開発そのものに集中し、開発した原爆の使用の是非について討論が分散しなかったことです。これは、軍が迅速に原爆を完成させることを望んでいたためであり、科学者たちが余計な議論に意識を向けることを避けたことにより、計画は効率的に進められました。
以上、マンハッタン計画を通じて、科学と軍事が協力しつつも対立し合いながら進められた歴史的経緯が描かれます。この計画は、科学者と軍が協力しながらも価値観の違いで軋轢を生み出し、それを乗り越えつつプロジェクトを推進した例であり、20世紀における科学と軍事の関係性に大きな影響を与えた重要な事例として位置づけられます。