孫泰蔵さんの『冒険の書』のカバーのそでに「答えようとするな,むしろ問え。」と書かれています。その意味がやっと腑に落ちたという話です。
参考:『冒険の書』pp. 242-248
AIによる要約
私が好きな本に、孫泰蔵さんの『冒険の書』という作品があります。そのカバーのそでに「答えようとするな、むしろ問え。」という言葉が書かれているんです。このフレーズは本文にも関連する内容として出てきますが、ここに大きく掲げられているということは、孫さんが特に伝えたかったメッセージなのだろうと感じました。最近になってようやくこの言葉の意味が少しわかってきたので、そのことを話します。
学校では、先生が問いを出して、それに生徒が答えるという形が一般的ですよね。テストなどでも、先生や試験官が出す問いに対し、生徒が正しい答えを記述したり話したりすることで評価されます。これは当たり前の流れですが、この「答えようとするな、むしろ問え。」という言葉は、そうした考え方を覆すものです。
もちろん、「問いを立てることが大事だ」という意義は頭で理解できていました。しかし、「答えようとするな」「答えなくていい」という部分については、どうしても納得がいきませんでした。やはり答えを出すことも重要ではないのかと考えてしまったからです。この言葉が持つ強いメッセージの意味を考え続けてきましたが、最近になって少し理解が進んだように思います。そのきっかけは生成AIの使用経験でした。
孫さんは、一般の人々に先駆けて新しい技術に精通されている方ですから、生成AIの可能性を深く理解したうえでこの本を書かれたのでしょう。今の時代、問いさえ立てれば、生成AIが満足のいく答えを返してくれるようになりました。つまり、「答えを出す」という行為自体が以前ほど重要ではなくなったのです。問いが与えられれば誰でも答えを得られる時代になったわけです。
AIで言うところの「プロンプト」、つまり適切な問いをどう立てるかが鍵になります。そしてその問いさえ立てられれば、AIが答えを導き出してくれるのです。この流れを考えると、従来のように先生が生徒に問いを投げかけ、生徒が答えを考えるという授業の形は意味をなさなくなるかもしれません。なぜなら、生徒がその問いをAIに入力すれば答えがすぐに返ってくるからです。そうなれば人間が考えるべきこととは何なのか。それは、問いを生み出す力ではないかと思うのです。
私が授業をしている中でも、このことを実感しています。以前と同じように学生に問いを投げかけ、意見を書いてもらっても、返ってくる答えは大体似たようなものばかりです。つまり、常識的でパターン化された内容です。これを見ていると、まるでAIが考えたように見えてしまうのです。だからこそ、学生には問いを作らせることが重要だと思っています。問いを作り、それをAIに入力して答えを得る。そして、その答えをもとにまた新たな問いを立てる。こうしたサイクルが新しい学び方として必要になるのではないでしょうか。
孫さんの本には、このプロセスについても図を使って説明されていました。AIの登場により、この考え方が一層現実的で重要なものになったと感じています。
さらに、孫さんは「問いを立てたら次に行動せよ」とも述べています。この行動には、AIに聞くことも含まれるでしょうし、実際に自分で何か試すことも含まれるでしょう。AIから得られた答えを実行してみて、それがうまくいくのかを確かめること。その過程で失敗もあるでしょうが、そこからまた新しい問いを生み出す。この循環がこれからの時代に求められるものだと強く感じています。
私自身、まだ生成AIを使い始めたばかりで、使いこなせているとは言えません。それでも、学校や大学の先生がAIをきちんと使いこなし、その方法を生徒や学生に教える必要性を感じています。ですが、そうした学びの場がまだ非常に少ないのが現状です。
その点で、私は平野友康さんが立ち上げようとしている「テレポート学校」に大いに期待しています。おそらく間もなく開校されるのではないかと思いますが、開校したらすぐにでも参加して、そこで学んだことを学生たちに伝えていきたいと思っています。
サマリー
孫泰蔵さんの著書にある「答えようとするな、むしろ問え」というメッセージが、生成AIの時代において問いを立てる重要性を再認識させています。AIが簡単に答えを提供できる時代だからこそ、問いを考えることが価値ある学びになると強調されています。