はい、どうもこんにちは、たからんです。
今日はですね、インスタのリールで見た話題からちょっと取ってきたテーマなんですけども
子供たちがですね、幼少期には自分のことが大好きって言っているのに
小中学校に上がると、ちょっと自分なんてっていう風になってしまうっていう話が多いっていうことと
あとは大人自体もですね、自分が独立したアイムスペシャルっていう風に思えている人って少ないんじゃないの?っていう話があったっていう
そういうリールの紹介と考えたことを話していきたいなと思っています。
どんなリールだったかというと、こちらはですね、元看護師さんのあややさんという方がですね
包括的性教育の話をいろいろ発信されている方なんですけども
その方の一つの動画リールでした。
公園みたいな場面でですね、たぶん聴衆の方たちは保育園の先生、保育士さんたちなんじゃないかなと
幼稚園とかの方だと思うんですけども、その先生たちに向かって話している中で
ちょっとそのまま言葉を引用させてもらおうと思うんですけども
子供たちに自分のことを好きな人って聞けたら、園児さん、幼稚園保育園の子供たちは
はいはいはいって言って、自分が大好きって手を挙げる。
だけど小学生、中学生になると全く手が挙がらなくなるんですよね。
恥ずかしくて手が挙がらないとかっていうんじゃなくて
自分なんて、自分を好きなんておかしいんじゃないかとか
私なんて別にいなくても、みたいな感じでになっている子が多いということなんですね。
私は、私っていうのは、あややさんですね。
その方が、その現状がすごく悲しいなと思っていて
みんな一人一人に、自分って最高だよと
アイムスペシャルって言える子供たちを増やしたい
ただそう思った時に、大人自身がそうなってないんじゃない?っていう風に思ったっていうんですね。
アイムスペシャルってピンと手を挙げられる先生方、その場のね、聞いている方々いらっしゃいますか?
っていうようなところで動画は思ってます。
コメント等を見るとですね、その後ね、研修この後いろいろ話した中で
その最後の方では先生方もアイムスペシャルって手を挙げたっていう話が出てたりするんですけれども
ちょっとこの中でお話でやっぱり気になった、私が気になったところですね、お宝が気になったところは
一つは、二つあります。
一つは、演じは私が自分が好きだって手を挙げられるのに
小学校に上がると挙げられなくなるっていうところ。
なんでだろうっていうところっていうのと、あとは大人ですね。
大人も自分が特別だって手を挙げられるかって言ったら、好きにはやっぱり手が挙がらない。
ちょっとその二つがちょっと気になっていますっていう話をちょっとしたいと思っています。
一つ目の、保育園から、幼稚園から小学校に上がるとき
なんでここで手が挙がらなくなっちゃうんでしょうねっていうのをちょっと考えたんですよね。
ちょっと理由が二つほどの絡みかなって思ったりしていて
一つは保育園って保育園保育指針とかですね、幼稚園保育指針だったかな
そのような名前の保育の指針というのが厚生労働省から出ていて
そういうのに従って子どもたちをどういうふうに見ていこうかというようなことを考えて保育園さんたち
普段からやってくれているんですね。
学校っていうのは教育指導要領、学習指導要領というのがあって
それに従って、ある程度1年の間にどのくらいの探検をするということを踏まえて
授業が組まれたりとか、そういう活動がされている、教育がされているというような感じになります。
なりますとか言いながらですね、私は別に保育教育の専門ではないんですけれども
今までに保育士さんのコミュニティに入ったりとか教員支援のコミュニティに入ったりとかという中で
内情を聞いたりとか、そういうものがあって
そういうのを考えながらやっているということを聞いたことがあるという感じですね。
特に保育士審のほうは話をじっくり聞いた機会があって
どんな内容になっているかというと、非認知能力というんですかね
点数とかでは測りきれない人間の感情とか性格とか社会性とか
そういう自己肯定感、協調性、やり抜く力とかですね
そういうところ、あと単純に身体能力とかそういうのも含まれるんですけど
そういうところを10個の視点とか項目があって
それぞれ子供たちがどういうところに成長だったりとか
気づきだとかがあるかなというようなことに見守っていくというような
そんな指針になっているんですよ。
これも数年前に変わったらしくて
もう本当にこの指針って古くからなかなか変わらなくて
70年ぶりとかって言ってたかな
本当に古い時代のものがそのまま変わらずに生きていたけど
最近変わったという話だと思います
それに当たって点数とか集団行動とかってだけじゃないところで測られるところに
でもどっちかというとね 自分を大切にすることって自己注意で他の人を大切にしないかというと逆だと思っていて
自分を大切にするっていう感覚は当たり前だっていうにあれば 相手も相手自身が自分のことを大切にしているよねっていうのが当たり前なんですよね
で 自分も大切だよね相手も大切だよね自分に大切な部分がある
譲らない部分がある これ包括適正教育の中でバウンダリーとか境界っていう言葉は使われるんですけど
自分の中ではここまでは許せるけどここまではちょっと入ってこないで欲しい領域だ ここは自分にとっては
あなたがいいとしても誰かがいいとしても自分には違うんだからっていうところっていう のがある
っていう考え方があるんですよ この境界という考え方私は習ったことがなくて
包括適正教育の中で知った言葉なんですけど あと境界とか同意ですねいいよっていうこと言うってこと同意を得るっていうこと
その人とその人の境界があるからバウンダリーがあるから それはみんな持ってることだよね当たり前だよねっていうのがまず感覚としてあって
で ただそれぞれの境界のあり方って違うからそこはわかんないよねその人にならないと
だから自分には相手のことがわからないからそこはちょっとどうなのかと聞くっていうこと 聞いて確認して同意を得る
大丈夫なんだねってなったらそれで握手しようって言って握手して触るのがいいのか とかさ
僕遊びに行こうとかっていうふうに言った時にそれが自分にはいいことだと思って言ってるけど相手によって
いいかどうかわからない それを確認しようっていうところっていうのはそれぞれ自分を大事にするっていうところがあるからだよねってことなんですよね
逆に自分はいいから人のことを大事にしようだけになっちゃうと相手が大事だ 周りが大事なんだよ あなた自分のことなんだからいいんだよっていう風になったら
逆に お前は自分のことばかり考えているのか他のことが大事じゃないかっていう
いうふう側の視点で 正確正解だと思っていることだけで
他を否定して お前は何でかって言ったら周りのためにやっていないっていう理論で
ダメだしすることになるんですよ それってその相手のことを結局のところを大事にしなくて
それって自分を大事にするという 前提がないからっていうのを言えるんじゃないかなと思っていて
だからねその感覚がないんですよね じゃあ
じゃあその感覚がない そんな教育を受けていない私たちが
自分のことを
アイムスペシャルって思うのって何かって言ったら 自分はこういうものなんだっていうことをただ知るってことだと私は思っています
好きだとかっていうこととか じゃなくとはちょっと違って
自分は自分でいいんだっていう 自分でいいんだっていう そので?で?っていうのが超消極的な言葉だと思っていて
自分でいいんじゃないんですよ 自分はこうだっていうだけなんですよ
それのためにはやっぱり人と比較っていうのは大事なことだと思っていて 人と比較して
優れていることがスペシャルってわけじゃないと思うんですよね 自分はこれができる相手はこれができる
自分は相手よりもこの部分はできない とかそういう
自分はどのくらいできるとかねそういうことが 1点だけ見てたらサッカーができるとか勉強ができるとか
料理ができるとかってそれだけ1点だけ見るとここはすごいここはすごくないって言うだけ になっちゃうけど
それこそ非認知能力ですよ周りのことをよく見ることができるとか その場を盛り上げることができるとか気軽に話しかけることができるとか
じっくりその人のことを静かに見守ることができるとかなんかそういう
そういう部分っていうのがいろいろいろいろそれぞれ持ってるでしょ そこがあの人はでこれができる私はこっちの方ができる
明日これができない私にはできないできない部分は頼ることへ頼ればいいってことに なるだろうしできる部分は生かせばいいってことになるだろうし
っていうそこの違いっていうのを知るっていうのが ただ知るっていうのが自分を認めるというか自分を認識するというか
自分を持つってことかなと思う それがあれば自分なんてとかそんなどっ
そういう発想にはならないと思ってるんですよね 自分なんて
って自分は劣っているという言葉なんですよ を通るかを優れているかどうでもいいことなんですよ
自分が こうだこういうものだっていうふうに分かれば
それでいいはずなんですよねでしかも自分には何もないという 人がすごく多いのはそういう子供たちが多くなっているって言うんですけど
何もないってことはまずなくって 自分にあるものが
わかんない っていう状態だと思いますほとんどの人の子供もそうですよ大人もそうだし
でなんでわかんないかって言ったら自分とって当たり前のことをやっているだけだから なんですね
その人が当たり前にできていることって人にとってすごいことなんですよ実は そんなことばっかりですね別に何と思ってないです当たり前だからやってやってるつもりのことが
人から見ると すごいねとかって思われることがあって
自分では例えば短所だと思っているようなことも実は違う視点からすごいねと思われることが あったりとかして
それって自分じゃ多分気づけないんですね 自分
でそれが気づけるのは人なんですよ人が 人が自分より優れているっていうことって気づくんですよねっていうか自分が私
っていうか自分がそうじゃないですか相手の方が優れてるとか見えじゃないですか まあ相手のことを劣っていることも見えるけど
でも自分が優れてるっていうことってやっぱり見えないんですよね なんかそれって人と話したりとか人から聞いたりとかして
そうなんだ私そういうかまあそれ確かにやってるけどそれっていいすごいことなの じゃないけど
そんな風にしてそういう見方をするとそれってすごい子だったりとかそれって立つ 人の助けになることだというか
そういうことがあるんだなぁっていうのを 人から教わるんですよね
だからそういう比較の仕方方仕方かなって思います自分が自分の視点で誰かを比べて 見るんじゃなくて相手の視点で自分と比べてもらったことを聞いて自分の考え方と
比べて そういう違いがあったのかということで気づく
でそこに気づいたときに 自分てこういう人間なんだって客観視ができるようになるんですね
だからその時にあ自分はこういう人間なんだな っていうのが
自分なんてなんだかわからないにはならないと思うんですよ 少なくとも
そこが一番大事かなと思いますねでその自分が何でもないものじゃなくて自分はこう なんだっていうのがそこがスペシャルだと思うんですよ
特別って意味そういう意味で特別 自分がただ自分でなんかできてないけどちょっと何か優しい心があるそれでいいんだと
なかなかねそういう 取ろうとしたことではなくて
カッコたるああこういう違いがあるなあっていうことを知るっていうことが 自信にもなると思うし自信になるというのが自信になると思いますけど
それで自分を把握するというのがとても大事だと思っています それが今まで私たち大人には多分そういう教育そういう考え方っていうのは多分あんまりされてなくて
ないと思うんですね フォーカス的性教育この愛屋さんという方もフォーカス的性教育をやりながらこういうことを言っている
とか私もフォーカス性教育っていうのが大事だって言っているのは性教育って あの
別に 性行為をすることとか繁殖はどうなのかそういう知識はもう本当にすごい
狭い自分のことであって 人が自分がどうであるかということをちゃんと認識するっていうことにの意識づけというか考え
方っていうのがあるからとても大事だと思っています そこを
うまく これから習ってない人私たちが感覚として持ってくれば
私に何もないなんてありえないからっていうふうになるからって思うんですね で相手にとっても相手に相手も自分にはないけど相手が持っているものってわかるし