1. たべものラジオ 〜食を面白く学ぶ〜
  2. #238(s25-20) 殖産興業と文明..
2024-07-17 1:07:54

#238(s25-20) 殖産興業と文明開化 〜日本ミルク産業の起源〜

江戸時代が終わり、明治時代が幕を開けた。新政府が乳業を引き継ぎ、民間企業が参入する中、とある人物が築地にある外国人居留地に目をつけた。福沢諭吉の著書である「肉食之説」では主に乳製品に触れ、内藤新宿に作られた農業試験場は現在の東京大学農学部となり、福井藩士であった由利公正や前田留吉らによって日本のミルク産業は大きな転換を見せることになった。


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サマリー

『たべものラジオ』は、食の世界を探求する料理人兄弟によるラジオ番組です。今回は殖産興業と文明開化の中での日本ミルク産業の起源について話されています。江戸時代から日本人は牛馬という言葉を使っています。百合木みまさが牛馬商社を設立し、福井市で牛を扱ってミルク製品を作ることになりました。さらに、築地に支店を作り、外国人居留地の人々に牛乳製品を販売することを決定しています。そして、福沢諭吉が肉食きの説を書くなど、牛馬商社の事業が広がっています。明治時代における日本の農業改革と牛乳産業の起源を紹介しています。明治初期の乳酸業の発展を支えたキーパーソンとして、百合木みまさと前田富吉の存在が重要でした。百合木みまさは横井湘南との出会いをきっかけに財政学を学び、ミルク産業の推進に尽力しています。一方、前田富吉は農民出身でありながら、自身の資金力と経営手腕によって牛乳会社を設立し、牛乳の流通を拡大させています。阿波の和は某層の某ですよね。それ故、某層半島は阿波の和の部分になります。前田富吉が牧畜と作乳の技術を学ぶためにオランダに渡り、18歳で独立した牧場を作ると同時に、繁殖や牛乳会社の発展に貢献した丹野信之助も重要な人物として挙げられます。

00:06
たべものラジオ 〜食の世界を探求する食べ物ラジオの掛茶料理むとう、むとう拓郎です。
むとう太郎です。
このラジオは、少し変わった経歴の料理人兄弟が、食べ物の知られざる世界をちょっと変わった視点から学んでいくラジオ番組です。
はい、ということで前回からの続きです。で、今回は
乳製品の消滅と再びの登場
食産工業と文明開化の中のミルク
食産工業と?
文明開化ですね。
文明開化。
もうこの2つの単語が並んだ時点でお分かりの通り、明治時代の話ですね。
明治時代。
はい。で、今回は明治からの話をするんですが、
ですが、食べ物ラジオ第一リスナーのたくさんがですね、前回の話が全くわからんと、情報量が多すぎると。
いや本当にさ、編集しててあんなにわからんことあるぐらい。
何回聞いた?
いやもう何回聞いたんだろう、なんか前後編分けたけどね、それでも何日かかった?5日間ぐらいちょっとずつ進めた感じ、今回。
で、意味がわからんと。
意味?
多分ね、2割くらいわかった。
低いな、2割は低いだろうよ。
じゃあまあいいや、ざっくり概要言うね。
まず前半の古代編です。
古代編。
奈良時代とかね、平安時代の話しましたよね。
で、いろんな乳製品出てきました。
で、いろいろと見てみると、西アジアだったりとか、南アジアや中央アジア、要はアジアあちこちで広がっていた乳製品の形、その系譜を引き継いだものが日本にもあったよねっていう話ですよね。
で、理由わかんないけど、なんか消えてった。
消えていくのが早すぎたので、社会の上流って呼ばれてる、例えば朝廷に近い人とかね、クゲの上位ランクの人たちは知ってるけど、社会の階層で武士に行くとか、その下の庶民に行くっていう段階のスライドが起きる前に消えちゃったという話でした。
で、全くと言っていいほどその文化を受け取っていない武家の時代、これは鎌倉、室町、江戸と行きますね。
江戸時代におけるミルクの注目
で、再びミルクが注目を浴びるのは1650年頃の話。
1650年頃。
江戸時代、江戸幕府が始まって50年ぐらい経ってるんですよ。すっごい後ですよね。平安時代とかに比べたら。
で、武士が初めて出たぐらいの勢いでミルクというものを知るわけですよ。どうやって知るか。
オランダ人から出島のオランダ商館を通して知る。
何?チーズ?バター?なんだこれ?というものを目にするわけですよ。
そしたら、もう知らないじゃないですか。
でも文章とか本を見ると、どうやらすげー昔日本人は乳製品を扱ったことがあるらしいということだけは知識として知ってる。
でも作り方がすげーふわっとしてる。だから、よくわかんないよね、でもすごいいいんだよねっていうのをだんだんと知るようになってきて、
八大将軍吉宗が、これはいいから作ろうって語呂をかけます。
で、千葉の峰岡というところで幕府直営の牧場を用意して、そこに牛を入れて乳製品を作り出すんです。
それが白牛ラクというものなんですが、本来の奈良時代にあったラクとは全く違うものになって、
何の系譜も受け継がない白牛ラクっていう新しい乳製品を作っちゃった。
これを一生懸命、治療競争のためとか体にいいよとかそういう文脈で江戸の街でちょっと一部売る。
で、主には将軍様の食事に使われる。生のミルクも牛ラクの方も将軍が口にする。
こんなところまで来たのが前回までの話ね。これを細かく話すとああなる。
どうしたらああなるの逆に。 わかんないけど。
江戸の話よ。前回の話で最後に言ったけどね。
なんでこの文章量であの情報量になったのかが未だに謎。
そうね。50文字くらいしかないですからね。元台本は。
ないね。
まあまあちょっと暴走してしまいましたが。まずこれは前提なんですよ。
前提ね。
そういう江戸期の乳製品文化が一応できましたと。で、1860年ぐらいになって幕末の動乱というのが来ますよね。
幕末ね。
母親戦争。薩長といが幕府を倒そうみたいなことが動くわけじゃないですか。
薩長とい?
薩長土肥ね。薩摩長州を中心とした討伐軍というのが出てきて、新政府に動いていきますよね。
1867年から大政奉還つって江戸幕府が政治の実権は天皇家に返しますって。
68年明治元年と。これで改めて明治を迎えるわけじゃないですか。
というところからの話が今日の話です。
今日の話。
明治時代のミルク産業の発展
はい。で、何が起こるかというとミルクが産業化するんですよ。
ミルクが産業化。
いきなりね。
なんかヨーロッパとはだいぶ違うんだね。
ヨーロッパってもう1600年代くらいからそういうビジネスっぽい動きをしていくわけじゃないですか。
産業革命の1700年前後にはもうよくわからんことになりつつも、税に金のパワーでニュー産業ってのは動いていきますよね。
その間日本はずっとフリズしてるんで、ただの高級食材、薬みたいな位置づけですから。
生のミルクを飲むなんて基本的に日本人はしませんので。
だってさ気持ち悪いんだよ。日本人から見ると。
気持ち悪い。
これは今回登場する予定じゃなかったんですけど、
日本人にとって牛の乳を子牛が飲む以外のことに使うなんての全くの想像の外にあるんですよ。
外なの?
全く考えてないんですね。
へえ。
例えば、じゃあわかるでしょ。静岡のあたりの田舎じゃないですか。
例えば新潟の方行ったりとかするじゃないですか。
そこに外国人がやってきたとします。実際行った人がいるんですよ。
イギリスの方でかな?ドイツの方かもしれないけど。行ったんですって。
イギリスの人が行った?
行った。日本という国をつぶさに調査する、見聞するためにあちこち旅したんですって。
ああそうなんだ。
で行って、その人ほらイギリスとかヨーロッパの人だからミルク文化じゃないですか。
そうだね。
で田舎の方に新潟かどっかに行ったときにメスの牛がいたと。
やった!これでミルクティーが飲めると思って喜んで自分でミルクティーを作って飲んだんですよ。
そうなの?
そこの土地の農家さんに分けてもらって。
そしたら村人全員が集まってきて大爆笑。
嘘でしょ?って。こいつこれ飲んでるよ。嘘でしょ?みたいな反応。
ああそういう反応になるの?
はい。もうそんなところからスタートですよ。
へえ。
でも幕府の上の方の人たちは知ってるんじゃないですか。一般ピーポーは知らないですよ。
知らない。
知らないってことは気持ち悪いんですよ。
ああそういうことか。
え、それ食えるの?みたいな。
ああ芋虫食べてるのと大して変わるのかな。
ああもうそんなくらいの勢いじゃないですかね。
ここから産業化を進めるんですよ。すごくない?
だいぶあのいろいろ走ったね。
伝統的に2000年前3000年前からその意識があってビジネス化していったヨーロッパとか西アジア中華地域全然文脈ないんですよ。
ゼロからスタートで一気に行くみたいな。
何が起こったかっていう話ですね。
何が起こったか。
これはねあのすごい、なんて言ったらいいんだろうね、政治的な動きが出てきます。
政治的な動き。
まずですね問題になったのはミネオカの牧場とキジバシの大前屋ですよ。
ミネオカの?
牧場ね。
ああ牧場ね。
と江戸城のキジバシ門という門の外側に大前屋って言って将軍のためのミルクとか白牛楽作ってるところがあるよっていうのを前回したじゃないですか。
はいはい。
あそこがいきなり問題になるんですよ。
というのも幕府がなくなった後、新政府ができるじゃないですか。
新政府は幕府が持っていた資産を受け取ります。
接収するわけですよね。
そしたらこの接収した資産が価値があるのかないのかを判断して主射選択をしなきゃいけないんですよ。
良いものは財務というかお金に代えられるもの、財源になるものをそのまま生かしていく。
田んぼとか当たり前じゃないですか。
だけど持ってたら損になるもの、負担にしかならないもの、無駄なものはどんどん売却するでなんなりして整理をしないと負担になっちゃいますから。
これを何とかしようといろいろと整理をしてたんですね。
この岸橋門外の馬屋とか峰岡牧場ね、これって価値あるのって議論になるんですよ。
価値があるのか。
これ自体に資産価値があるのか、政府が維持していく必要があるのかって問題になるんです。
特に問題になったのは岸橋門。
岸橋門。
江戸城のすぐ脇だからね。
峰岡の牧場ってのは馬とかもいるんで、軍馬になるじゃないですか。
馬がいるんだ。
それはそれでいいんですよ。
彼ら軍人としての価値観にも見合ってるし。
だけどね、さっき言った通り、え?牛乳飲むの?っていう感覚の人たちから見たらさ、
岸橋門のとこに10頭ぐらいの牛がいるんですけど、いるこれ。
なんで牛飼ってんの?
そういうふうな仕組みにしたから。それは11代将軍の頃にね。
したくない。
前回までの話なんでもう一回聞き直してください。
ダメだ聞き逃してるわ。
ここで飼ってるんですよ。ここで絞ったミルクが乳製品になったり飲むようになったりして将軍に献上される。
一部の白牛略は江戸市中で販売をされる。その拠点になったのが岸橋門の馬屋でしたね。
これは新政府から見て財源になり得るのかって言ったら、ほとんどの人はんなわけねえじゃん。こんなものがって。
なんて感じなんですよ。
まあそうなるよね。
この牛じゅっとこんなところで飼うの?
だって将軍はいなくなったらそこに天皇陛下が来るわけですよ。そこで飼うの?へへって感じになるわけですよ。これにまた駆ける人が出てくる。
また?
いやいや、おのもの方、これには価値があります。今一度調査をすべきではござらんか。みたいなことを言う人が出てくるんですよね。
ああそうなんだ。
まあこんな物事言葉だったかどうかは知らないけど、そういうことを言った人がいるんですよ。
そうそうね。
そう言ったら、その人がめちゃくちゃちゃんと調査をするんですね。で、文献を調べたところ、どうやらやんごとなき人々が、
古の大和の国では乳製品を食べていたらしい。つまり奈良時代のことをちゃんと調べるのね。で、将軍家はこれを毎日飲んだり食べたりしていたらしい。
それが健康に寄与していたらしいということがいろんな書物でわかってくる。で、調査をします。
で、なおかつ、この人ね、後で名前とか出てくるんですけど、ゆりきみまさという人ね、横浜の外国人居留地とか行ったりとか、長崎の出島とかに交流を持って、そっちでも聞き取り調査をします。
で、西洋人はこれをよく口にしているらしいということがわかってくる。で、峰岡牧場もヒアリング調査をする。
どのようになっていてどんな農業をやっているのか、牧畜業をやっているのかをちゃんとヒアリングします。
で、いやいや、これは価値があるぞと。これはこの先、食産工業という産業を起こしていく中で非常に有効な資材になる、資源になる。だからこれを活用すべきだ。
って言って、新政府の中に牧場を管理する省庁を作ってね、言ってしまうと。
当時は何とか庁、何とか庁って今でいう財務省みたいなのがあるじゃないですか、何とか省っていうの。あれが細かく分割されてないんで、大倉省の中で通産省的なことまでやっちゃうんですけど。
ああ、大倉省っていろいろやってるんだね。
そう、もう全部財務じゃないですか。で、その財務のトップをやってた人が、これはやるべきだって言って、技術開発とか研究だとか、そこに必要な人材をぶち込んだりとか、販路拡大したり広告売ったりして、ぐりぐりぐりぐりって広げて。
で、新政府が頑張ったおかげで、このミルク産業がなんと産業として発展しちゃうんですよ。
産業として発展。
そう、産業作っちゃう。
ああ、ここから?
そう、だから税に儲けのためにいろんなプレイヤーが出てくるっていうのはこれイギリスでもアメリカでもそうじゃないですか。
ちゃうんです。政府がゴリゴリに税に儲けをするために全力投球する感じ。
ああ、うらやましい。
すごいよね。だから国有企業として動き出すんですよ。
へえ。
で、ゴリゴリゴリってやって宣伝やって、これを民営化するっていうのとはまた違うんですけど、
教育をしていて人材プールをどんどんどんどん発展させていった結果、民間企業がドカーンと参入してきて、
明治10年ぐらいを越えたあたりからね、やたらと牛乳屋さんが出てくる。
へえ。
江戸の街中で、東京になってるから東京府の中でいろんな牛乳屋さんが出て、牛乳配達の妊婦が走り回ってる状態になる。
ああ、一気にそこまで行くの。
そう、だいたい10年から15年ぐらいで行っちゃう。
へえ、すごいね。
で、その形が東京でできて、それがだんだんと他の県に広がっていく感じね。もう藩じゃなくなってるから。
まあ広がり方はどこも一緒なんだよね。
はい、そこから徐々に広がっていく感じです。で、この流れでおしまいなんですよ、今日の。
ほう。
これをちょっとストーリー仕立てで順番を追って中身を話していこうってことですね。
ああ、これが大まかな流れで。
ね、左側のところをちょこっと話しました。
はい。
ここから台本でいくと右にぐるーっと時計回りに行きますんでね。
牛馬商社の設立とミルク製品
幕府の資産を接種した時に、これは資産として価値があるかどうかを判断したのは、ゆりきみまさという人物です。
ゆりきみまさ。
はい、福井の人ですね、この方ね。
福井なんだ。
はい、この人が岸橋門の馬屋のところがすごくいいのがわかったので、名前を変えて残します。
この名前を変えたのが商社になっていて、牛馬商社と書いて牛馬商社です。
牛馬商社ね、牛馬。
牛馬。牛馬商社。
へえ、牛馬商社ってあるんだね。
なんか知らんけど、江戸時代から日本人ってさ、牛馬って言うよね。
ああ、牛馬って聞くね。
牛と馬セットなんだよね、常にね。
ねえ、なんかバッカ…じゃではないけど。
おいおいおいおい。
そういう組み合わせ感なのかね、ゴローみたいな。
いやいや、バッカはそれはアボー級の神の始皇帝の次の時に神が滅ぶ時の話でしょ。
またあのくだりは違うのか。
楽器源泉の話だからすっげえ昔。しかも中国それ。
ああ、なんか文字面的にね。
響きとかね。牛馬のごとく働くとかね、ありますから。
馬車馬とかね。
まあそういうセットなんでしょ、感覚としてね。
まあその牛馬商社っていうのを作りました。
で、そこには誰が働いてますかって言ったらもともとさ、幕府の馬屋なわけだから旧幕審がもともといるじゃないですか。
その人たち引き続きそこに残ってもらって、牛馬商社の社員として働いてもらう。
だから自分の直接の部下も送り込む。
じゃないと旧幕審だけだと旧幕府体制のやり方やっちゃうから。
幕審って大臣みたいな感じ?
家臣。幕府の家臣。
幕府の家臣を略すと幕審?
そうそう幕府の家臣、幕審ね。江戸城で働いていた人と思ってください。
たぶんそんな階級高くないはずですよ。だって作乳業やってんだから。
ああ確かに。
それは偉い人じゃないと思うんですけど。
普通に現場の人。
現場の人だと思います。そういう人とか、
あと峰岡の牧場で働いている人も、あれ幕府直営だから当然幕審になるわけですよね。
ああそういうことなのか。
そこにいる人たちもいるんで、峰岡もその人たちに運営させつつ、
自分の直接の部下を入れます。
で、2つのルートがあってね。1つこれすごいなと思うのが、
ゆりきみまさという人は元々福井出身の福井藩、藩市なんですよ。江戸時代はね。
福井藩の藩市、はいはい。
今の福井県ですよね。福井藩の藩市でした。
で、この人の部下、直接の部下は当然福井藩市なわけですよ。
その人を2人選抜して、賢い人を2人選抜して、
ちょっとお前ら横浜一滴って言って、横浜に送り込むんですね。
横浜で何をしてるかというと、横浜にはイギリス人だのオランダ人だのがいるわけですよ。
ああはいはいはい。
横浜外国人居留地の中に牛も来てて、馬もいて、
で、ミルクを絞ってバターやチーズを作ってるわけですね。
築地支店と外国人居留地
ああそうか。
持ってきてるから。
確かに。
何なら出島でもやってたぐらいだから、そんなに、
出島に比べれば横浜ははるかに広いですからね。
ああそうなの。
出島は本当に180m×70mだったから、そんなちっちゃいところなんで。
そんな狭いの?
もうだいぶ狭いです、出島って。
500×500は最低あると思ってた。
小学校のグランドよりも狭いくらいじゃない?
マジで?
そういうところから比べて横浜は相当広いわけなので、
当たり前だけど楽能やってるんですよ。始めるわけ。
で、それを学びに行かせる。
ただ、この福井の藩士をですね、元福井藩士を旧幕府の家臣と一緒に働かせるのは、
わりかしめんどくさい。
分かります?
いろんな摩擦がね。
階層も江戸時代のもの引きずると階層ずれるんで。
なので、ちょっとめんどくさいのもあって、この福井藩士はどうするかっていうと、
学んだ西洋式の乳産業の技術を持って福井に戻って、そっちで楽能事業を起こす。
マイホームでね。
もうホームタウンでやらせると。
ここできちんと西洋式楽能事業っていうのを成立させていくんだよね。
もう一人、やっぱりこの西洋式の楽能技術、ミルクの技術っていうのを取り入れたいわけですよ。
だからどうしたかというと、エキスパートを引っ張ってくる。
専門家的に。
専門家。千葉県出身の前田留吉さんという人。
前田留吉さん。
留吉さん。もういかにも武士じゃないよね、名前がね。
ちがうね。
出身農家です。
だよね、たぶん。失礼だけど。
思いっきり農家なんだけど、オランダ式の乳業を現場で修行したことのある人。横浜にいた。
その後独立した。
そうなんだ。
この人を引っ張ってきて、一緒に牛馬商社に入れると。
お前、やっとくれと。
分かりました。
言ってこの牛馬商社を事業として動かし始めて、場所は木地橋なんで、
土地勘がない人わかんないよな。
グーグルマップで見たらすぐわかるんですけど、神田とか神保町とかあっちの方面。
皇居を中心にして言うと、江戸城を中心にして言うと北、北東かな。なんか北のほうなんですよ。
ちょっと上のほう。
ちょっと上のほう。だけどここだとちょっと都合が悪かったんですね。
都合が悪い。
ゆりにとっては。ゆり鬼馬さんにとってはちょっと都合が悪い。
そこで牛馬商社の支店を築地に作ります。
築地まで下ろす。
築地牛馬商社っていうのを作ります。場所をね。
築地支店を作ったので、ここで峰岡で作った白牛楽とか、木地橋で絞ったミルクとかを集約して、そこを拠点にして販売をすることにするんですよ。
ではなぜそんなところで販売をしたのか。なぜ築地なのか。ここなんですポイントは。
なぜ築地なのか。
築地という場所はイメージなんかありますか。
築地市場は?
って思うじゃないですか。築地市場ってのはすごく古くからあるように思いますよね。
築地が市場になって菓子になっていくのは昭和10年の話なんです。
昭和10年。
今話してるのは明治1年とか2年とかの話してます。
100年ぐらい違う?
100年弱かな70年とかあるかな。
70年ぐらい。
なんでそこは築地はまだ市場じゃないんです。
まあ確かにそう言われると。
かつての築地市場のあったあたりですね。あそこはもともと何だったかというと、あのあたりは築地外国人居留地なんです。
築地外国人居留地?
はい。だからそこにイギリス人もいるしオランダ人もいるしドイツ人もいっぱい住んでるしっていうゾーンなんですよ。
ああそうなんだ。
だから横浜にも外国人居留地あるけどそれのスモール版みたいのが築地にあるっていう状態なんですね。
でも築地は横浜ほど田舎じゃないので当時すでに。当時の横浜って死ぬほど田舎ですから。
横浜が田舎だった?
漁村なんで。
ああ漁村。まあそうか海だもんね。
横浜の歴史ってこれちょっと調べたらわかると思いますけど横浜の歴史が華やかになっていくのは明治以降なんでそれ以前はねほとんど記録ないぐらいですよ。
ああそんなに違うの?
同田舎なんで。
まあそうか。江戸時代もそうだもんね最初はね。
東海道からすげえ外れてるからね。
ああ確かに。
同田舎っていう状態なので広いけど築地っていうのは言ったら江戸城から近いわけですよ。江戸時代でも。
元々大名屋敷があったりとかするぐらいなんでそれが全部いなくなるわけじゃないですか。大名が崩壊するんで。
その空き地を使って外国人居留地ができるんだけどさすがにまだそこに外国人が楽能をやるような余裕はない。
でも彼らは乳製品が欲しい。そんなことはもうわかってるじゃないですか。
だから百合は築地に支店を作って彼らをマーケットとして見てるわけです。
ちゃんと商売だね。
だって日本人に売ったってキモって言われるんで。
まあね。
だったら日本人が理解をしてくれるまでの間は始めから欲しがってる外国人を売ったほうがいいわけですよね。
まあそうだね。
でめちゃくちゃ売れるんです。
売れるんだ。
で明治2年に支店を作るんですけど支店を作ったらすぐに東京府に交渉をして
明治政府に交渉して土地貸してけろって言うわけ。
土地を増やすってことか。
ちょっと土地貸してって言って土地を広げるんですね。
足りないからか。
まず先にやったのが牧場を作る。
牧場を作る。
明治の初期なんと皆さんご存知かどうかわかりませんが築地に牧場があったんですよ。牛飼ってたんです。
築地で牛を飼っていた。魚ではなくて。
魚ではなく牛を飼っていた場所があったそうです。そこでミルクを絞って。
そしたらフレッシュミルクが売れますよね。牛楽は美濃国から来るしそこでバターとかチーズも作れるじゃないですか。
牛増やしたいからその辺にいるなんとか商会っていう外国の商人たちから牛買うんですよ。
日本の和牛ではなくて西洋の牛を購入してホルスタインとかジャージー種とかでしょうね。
そういうのを入れてどんどんミルクを生産して削乳機械も1860年代を超えてますからゲルボーデのコンデスミルクが普通に市場にあるような時代なんでこの頃は。
削乳機みたいなのも出始めなんですよね。
削乳機械みたいなのも徐々に出てくる時代なんですよ。ヨーロッパとかアメリカでは。
それを買って政府の金で牛場商社で取り入れてミルク製品ガンガン作るのと同時にマーケットである外国人は肉食うじゃない。
牛いるじゃん。オスの牛もいるじゃん。だから横に土札場も作って肉を作って売るってことやる。
加工場まで作っちゃうんだ。
明治3年ぐらいに決算報告出てるけど普通に黒字。
黒字が早いね。
マーケットの設定がいいよね。
需要がわかってる前提だし他に作ってる人全然いないし。
独壇場ですよ。
独占市場です。
一部一般ピーポーが入ってたりするんで横浜とか築地とかでもなんとか商会というイギリス側の商会の中で一緒に働いてる人がいるんだけど
こんなに大々的にやってる日本の企業っていうのはもう牛場商社しかないので独占できますよね。
これで土台ができました。
東京子たちはなんだなんだと。
海外に住んでる人たちはなんだなんだってことになるわけですね。
もう慣れてくるんですよ。
その方の人は壁岸の公務人が来たら外国人なんだみたいになるけど築地界隈の人たちはもうすぐ慣れちゃうわけじゃないですか。
幕末からいるんだからそこには。
1865年の話、70年の話してるんですけど今。
でも1860年頃からもういるんですよ。
もう10年ぐらい経ってる。
ピリ来たのは51年とか53年とか確かその辺だからね。
ピリ来てからもう20年。
幕末の動乱の間にはもういるんでその辺に外国人が。
そんな感じなんだね。
たくさんじゃないけどある程度いるのでやっぱりその辺の界隈の人たちは慣れてくるじゃないですか。
その人間になれなくても彼らの食文化に興味を持ったりして始めは気持ち悪いなと思ってもそんなもんなんだ変わってんねとか言って慣れてっちゃうわけですよ。
これ現代人でもありますよね。
その人たちに向けて次のマーケットを開拓するんですよ。
田舎も相手にしない。
初めから東京の街中の人をターゲットにこの牛馬商社の商品を売ろうとする。
福沢諭吉と肉食きの説
ここで活躍するのが出ましたかの有名な福沢諭吉でございます。
福沢諭吉がここで出てくる。
そうなんですよ。
福沢諭吉といえばついこの間まで一万円札の顔でございましたが引退なされましたね。
昨日引退されました。
そうですね。収録日4日ですので。
そうだね。
昨日でもって変わりましたが福沢諭吉が書いた書物といえば何ですか。
学問ですね。
ですが食のジャンルにおいては肉食きの説というのが有名なんですね。
なんか前どっかで言ってたね。
日本料理の変遷か何かで一度触れたことがありますね。
この肉食きの説、実は原文読むとわかるんですけど福沢諭吉は福沢諭吉として書いてるんだけど
一人称が我が会社になってます。
面白いでしょ。
わが会社?
だから牛馬勝者になり変わって書いてるんですよ。
どういうこと?
興味があったら限定のほうかなんかで原文読み合わせやりますけど、
ざっくり概要言いますね。
まず肉食動物は肉を食うじゃん。
食べるね。
草食動物は草を食べるよね。
入ってこない入ってこない。
何キャラ今。
草、草、草食は草食べる。
雑食動物は両方いろいろ食べるでしょ。
人間は雑食だよね。だから野菜ばっか食べたら体がおかしくなっちゃうでしょ。
そうですね。
で、肉食べたらいいじゃん。
でもほとんどの人たちは肉は怪我らしいもので、
昔から食べてる魚とかそういうのはいいって言うじゃん。
でも慣れたものだけが善であり、慣れてないものを悪というのはそれはいかがなものですか?
っていう話になる。
この善文で結構みんな揺らぐじゃん。
この話の元にはうまいなと思うよね。
確かに福沢先生がそうおっしゃるのであればっていうのもあるし、
このロジックって確かにそうだね。
でもそんなものどこにあるのかな。
肉食べると言っても臭いしな、慣れないものと言っても慣れるにはあるよそれ。
いいのあるよって言って効能をバーって差し込んでくるんですよ。
何の効能か?それは乳製品の効能である。
あそこ肉じゃないね。
肉食ロスって言ってるのに後半にね、1なんとか2なんとかって項目ごとにPRポイント書いてある。
1牛乳なのよまずいきなり。
そこ赤身肉とかじゃないの。
じゃないの。で次がチーズね。
でバター、ミルクパウダー。これはミルクだね。
で4番目にコンデンスドミルク。
お肉どこ行ったみたいな。
最後まで出てこなかったね。
最後はねもうミルクをしてくる。
ミルク化成製品だけだね。
その少し前にちょっと肉をしてるんだけどねちゃんと。
でもうミルク製品だーって言ってそういったものがどこにあるかと言えば我が会社にすでにありけりと。
そこで会社が出てくる。
あのね興味があったらググったら出てくるんですけど文字数少なくてね肉食の説っていうのは
ワードに書いたら3枚から4枚程度。
短。
短い文章なんですよ。
そうなんだね。
なんで3枚も書かないかもしれない。
なんでぺらっと読めますから。ただ時代が時代なんでね現代語訳してないものだと読みづらいかもしれませんけど
こんなような内容で宣伝文として書かれるわけですよ。
はいはいはい。
でこれがね大当たりするの。
大当たり。
びっくりするぐらい当たるの。
大当たり。
むちゃくちゃ売れんだこのミルク製品がニュー製品がね。
えいきなり?
いきなり。チーズとかバターとかめちゃくちゃ売れるわけ。しかもコンデンスミルクうまいじゃん。
まあおいしいね。
こういうのも一緒に売れていく。輸入品とその牛馬商社で作ったものが一緒に売れていって市場がぐーっと拡大していく。
で拡大していきそうだなこれ波乗りそうだなっていうのが分かったらもう3ヶ月後ぐらいに経営形態変えちゃう。
大変だ動きが。
3ヶ月で変わるの?
そう。明治2年に支店作るじゃん。で明治3年に体制を整えて3年の9月に肉食の説が出て12月に体制変更するのよ。
で今までは言ったら明治制服直営なわけですよね。もう政府の役人が会社を運営してる感じ。
これをやめてそういうのに特化した人に受け負いをする。サードパーティーに委託するような感じですよ。
ぶん投げると。でそこから月々の三日寿命をもらうというかお金を売れてもらうと。
ある種の税金だったりとかあとその資産を売るのでとか貸すのでみたいな感じでカップで買ってもらってそれを毎月入れてもらうという感じでやると大体月80両くらいになるらしいんですよね。
月80両。 政府に対して払う金額がね。
現代の価値にするとこれ計算方法いろいろあるんですけど少なく見積もっても160万はくだらないんじゃないかって言われてて。
結構あるね。 結構あるでしょ。でも160万から200万って言われてるこの80両払っても全然儲かるくらいなんだよ。
ああまあ確かに。 その体制は政府で作ってあるんで。
でこの事業を受け負ったのが誰かというとこれが素晴らしいミネオカの牧師たちを連れてくるのね。
ミネオカの牧師? そう、牧畜業を営んでいた現場の人たち。
ああそういうことね。 この人たちに声をかけるわけ。
でそこの代表の人に言ってちょっと悩んだけどわかりましたということで5人ぐらい引き連れてきて業務を受けようと。
でもう旬風満帆ぐいぐい見方上がり。 まあ事業のほう爆発してるからね。
で資本投下も民間のほうから入ってくる。その税にもっている人たちが。
有名な渋沢なんちゃらとか後代なんちゃらとかの人たちがちょこちょこちょこお金を投下してね盛り上げてくわけですよ。
まあ渋沢一入れてなかったと思うけどまあなんか入ってくるわけですよ。
俺はいけるぜと思っていたところでこれ明治3年ですよねで4年に12月なんですぐ4年になりました。
よっしゃいけるぜ4年の決算完璧明治5年もっといくぜ2月26日大火災。
えっそこまで旬風満帆みたいなこと言ってるのに。
はい築地全体が火の海になりまして。 築地全体が?
はい銀座も燃えました。
銀座も燃えるめっちゃ広範囲だね。
広範囲の大火災が起きましてあえなく築地牛馬商社は灰になってしまうわけですね。
もちろん逃げたりとかね避難はしてるんで被害は少ないそうですがもう牧場がないんだよね。
牧場がない。
うん牛はあるんだけど周りもなんか大変なことになってるしそもそも外国人居留地も燃えちゃってるからね。
確かに。
マーケットないじゃん。
消失だねまんま。
終わったー。
ということになりましてたまたまその時代にね日本も西欧列強に負けないように軍備を整備しなきゃいけないということになってですね
あの界隈っての海に面してるんだよね陸軍とか海軍とか整備するのにちょうどいいじゃないですか。
使わないんだったらじゃあ土地買いっこしてくんないかな。
うち今新宿にあるんだけどそっち使いたいんだよねいいかなって言って陸軍省と財務省当時の大蔵省が土地買いっこします。
買いっこするんだ。
だからあそこの築地の牧場跡地は燃えちゃった跡地は陸軍省の軍の土地に変わります。
残ってた牛とか牛舎ですね牧舎は民間の商人とか農民に払い下げをします。
そこに一緒にあった他の動物牛たちとかあと植物たちね一緒に飼ったりとかしてたんですけどその築地買いっこでね。
これは全部内藤新宿に持って行く。
内藤新宿。
土地買いっこしたんでね。そっちに持って行くわけですよ。
そうなんだ。
持って行っちゃってさあどうなったったら単純に築地を中心とした牛馬商社は消滅です。ゼロ。
ゼロか。しょうがないね。
しょうがないですね。ただこの解散したことによって新たなムーブメントに繋がっていくんですよ。これ面白い。
ここから?
ここからですね、この内藤新宿に移すじゃないですか。土地も動物も。この内藤新宿に政府がお金を出して農業試験場を作るんです。
ここで農業試験場を作るの?
そうなんです。研究しているのは西洋から入ってきたような農業を研究するんでね。
農業試験場と乳産業の創設
日本のものと掛け合わせて何がいけるのかどういうふうにすれば日本の農業が活性化するのかということで、まず筆頭に畜産、牧畜ですよ。日本になかったから。これを研究しましょう。
だから西洋野菜、果樹こういったものを全力をもって研究する研究施設っていうのを作るんです。
その中に農業修学所という農業の勉強する場所みたいなのを作ってね。試験でやって実践をやって農業を学びたい人はここに入ってくる。いわゆる農学校を作るんですよ。
学校ね。
そこで牧畜を学ぶんですね。明治5年の火災をきっかけにすぐ作るんですよ。火災の後。明治5年のうちにこれだけそぼろいちゃうからね。
早いよね。
すげえパワーだよね。まさかこの時代、明治政府が財政難とは思えないぐらいのスピードで動く。
財政難なの?
大変なことになってるんで。この時代。なのにこんだけやるんですよ。
やった結果、これ番付表とか商法改正とか出てるんですけど、明治10年ぐらいから急に東京市内の牛乳業者増えまくる。
そのほとんどが農業試験場や他の企業で勉強したとか、前田富吉の下で働いたことがあるとか、
ユリキンマスオの部下の下で働いたことがある人たちがみんな独立してバーっと一気に乳産業を盛り上げていく。その土台になっていくのが、の一つがこの農業試験場新宿。
ちなみにどうでもいいチップスなんだけど、この農業試験場の中にあった農学所ってあったでしょ。学問勉強するとこ。農業勉強するとこね。
これ数年後に駒場に移動するんですよ。
駒場。
それが今の駒場灯台前って駅あるでしょ。
あれ東京大学農学部がある場所なんですよ。
つまりこの農業試験場内にあった農事修学所が現在の東京大学農学部につながっていく。
この農業試験場もちろん今新宿にあるわけないんですけど、跡地があるんですよ。
明確にここだっていう場所があるんですよ。
これが新宿漁園。
新宿漁園。
公園ですね。
あそこですよ。
あ、そうなんだ。
その中で動物とかも飼っていて、この動物たちも後に引っ越します。
引っ越した先がどこか。
どこか。
上野です。
はい、上野。
上野にある動物がいっぱいいるところといえば。
上野動物公園。
上野動物園の前身になってるのはこの農業試験場からだそうですね。
ああ、そうなの。上野動物園ってそんな流れだったんだね。
だいぶ時段の差をすっ飛ばして、かなり未来の話してますけど、そんなことがありましたと。
この頃に農業試験場は新宿だけじゃなくて、今、都営三田線とかで言っている三田ね。
浜松町のちょっと隣の隣くらいかな。三田ってところがあるんですけど、あの辺りとか。
あとは千葉県の北の方だね、下鎖。
下鎖。
下鎖農業試験場っていうのができるんですけど。
単的に言って今の成田空港。下鎖農業試験場の跡地にできたのが成田空港だから、ざっくり言うと全部じゃないけど。
ああ、そうなの。
あの広大な跡地が農業試験場になって、明治政府はこの3つの農業試験場を軸に日本の農業改革っていうのを進めていくんですよ。
明治8年に大久保利道内務局長が方針発表してますからね。
大久保利道。
出たーって感じだよね。髭のおじさん。
髭のおじさんね。
がそういうことをやっていくと。
そうなんだね。
公牧舎とその関係者
という感じですね。で、この民間企業がバンバン参入してくる中の1プレイヤーとして、公牧舎っていう会社が出てきて、これがまた大ヒットとしてでかくなってくるんですけど。
公牧舎はどこで聞いたんだ?
漢字で言うと、たがやす、牧畜の牧、舎はヤシロという字ですね。公牧舎という会社が。で、今日この話しないんですけど。
しないんだ。
公牧舎のトップ経営者だったのが有名な渋沢栄一、新しい一万円札の肖像になりましたね。
渋沢栄一。
と、三井物産初代社長の増田隆。
ああ、三井物産。
それから現場のトップを張っていたのが下瀬農業試験場で働いていた新原俊三という人。
新原俊三。
この人全然名前有名じゃないんですよ。たまたまさっき出てきた農業試験場下瀬で働いていた優秀な職人というか役人というか職員ですよ。
これを渋沢栄一と増田が視察に行った時に、館長、所長に相談して彼をスカウトしてくる。
始めは手伝ってもらうだけなんだけどそのうちに完全に転職してもらうみたいな感じで、
新原という人は後に東京のど真ん中で牛乳を売って財を成していくんですけど、実はこの新原さん本人はほとんど有名じゃないんですよ、歴史上。
聞いたことないでしょ。
初めて聞いたわ。
だけどこの人の奥さんの旧姓を聞いたらなんとなくわかるんですよ。
芥川龍之介と関連するエピソード
この人の奥さんの名前が芥川福さんなんです。
芥川。
聞いたことあります芥川って名字。
いやーなかなか珍しいか知らないかもしれないけどね。
逆に一人しか知らない。他に持ってる人は知らない。
実はこの新原さん、この方の実の息子が芥川龍之介です。
息子になるの。
実の息子です。
実の息子。
芥川龍之介はもともと新原という名字なんですもちろん。
なんですけどいろいろあって福さんってお母さんが亡くなっちゃった後に芥川家に養子に行く。
おじさんところでずっと生きていくので12歳以降ですね。
だから苗字が芥川ということになる。母方の姓を名乗って芥川龍之介と。
そういうプレイヤーもその辺につながってて面白いなと思ったんですけど。
そうなんだね。
百合木みまさと財政学の学び
この話は本当チップスのラッシュなので本編と関係ないですからね。
チップスとしてこういうところでもちょっと有名人絡んでるよと。
そうか。
というのがこれが明治の初期の乳酸業の発展のブーストしてるところね。
っていうのが今日の話。
そういうことね。
でこれをやったのは仕掛けたのは百合木みまさだし、
これを仕掛けたことでお茶と一緒だよね。
明治の食産工業で農業の面から国を復興させていくっていうのが一つありますね。
お茶が日本の代表格たる日本を象徴する食品産業になったわけですよ。
一つね。アジアっぽいもの。
まあオカクラ天使が出てきて茶の本を書くぐらいですから。
茶とは日本だよみたいな。
お茶が日本の心を体現しますよみたいなことでいくわけですよ。
一方でこのミルクというのは西洋の近代文明の象徴になっていくんですね。
すごく後の時代ですけどバタ臭いっていう表現が出てくるんですよ。
バタ臭い?
バタ臭い。当時はバタあなので、もしくはバタが表記なんですよね。
そうなの?バタとかバタあなの?
バタあって現代人はちょっと音が違うっぽいんですよね。
このバタ臭いっていうのは読んで字のごとくバタの匂いがして臭いよって話なんですけど、
これは後々に西洋かぶれしてるとか西洋の事情に通じているとか、
あとはあいつの文章はバタ臭いねとかね。
そんなような言い方をする時代があるんですけど。
ニュアンスとしてね。
いい意味から悪い意味で使われたりもするんですけど、
ただこれが通じるという時点でバタを使うつまり乳製品を使うこと、
食べること自体が文明開化の象徴であるというふうに段々と位置づけられていく。
これは社会の流れの中でね。
そういうふうにここから動いていく感じ。
ああそうなんだ。
そのタイミングはそこだからね。
タイミングがそこ?
そう。つまり文明開化のタイミングでミルク産業が入ってきてるからこういうことになるんだよね。
ああまあ確かにそうか。
文明開化のタイミングにミルクが入ってきて、
しかも食産工業で産業化させるっていうブースターが重なった結果、
そうなっていくしかないっていう感じの大きな流れでしたと。
その裏でいろいろなことだね、本当にね。
という感じなんですが、ここまで聞いていただいてね、
まだ紹介していないことがあるんですよ。
紹介していないこと。
ここから先は本当に興味がある人だけ聞いたらいいと思います。
キーパーソンを紹介します みたいな感じですもうすでに登場
してます 登場している
ゆりきみまさって誰 まあそれはちょっと思っていた
さっきが散々出てるけど お前誰やねんって話じゃないですか
何なら農民の前田留吉ってもっと 誰って話じゃないですか
一瞬出てきたわけだね
でもこの人たち完全なる キーパーソンで彼らが活躍しなかったら
その先の乳産業は成立してない ので
もうもうもう こっから先は消してもいいし
限定に回してもいいんだけどちょっと 話しますね
限定にここで聞いたらみんな 怒られるのこれ
限定の方は限定の方で僕は 渋沢栄一と新原さんとまささんの
話用意してるのでそれをやりましょう これは分割してもいいしおまけ
でつけてもいいですよもう1時間 喋ってるんで
そんなに経った
1時間喋ってないから40分 くらいか
うん
もうちょっとだけいきます ね
ユリキミマサさんこの人1829年生まれ 江戸の終わり頃ではあるけども
文化分析の生まれかな福井藩の藩士 として生まれました
福井ね
だから江戸時代の普通の 武士なんですよ
武士か
役人お父さんの父が百穀 だから貧乏御機にみたいなああいう
感じではないけど波の武士って 感じでしょうね
百穀
ユリキミマサ当時は三谷八郎
だったかななんか違う名前だったん ですけど財政の立て直しで活躍した
人なんですよそもそもが
財政の立て直しそんな傾いた の
そうなんだよ幕末の藩 なんかさどこ見たってみんな財政
なんですよ
そっか幕末だからか
江戸200年の間にもう仕組み が崩壊しまくってるじゃないですか
何の会だっけ米違うな日本料理 酒何かの会で喋ったと思うんですけ
どもうだんだんだんだん全ての 藩がボロボロになっていくわけ
じゃないですか福井藩もご多分に 漏れずなんですよ
まあまあしょうがないね
でたまたまなんですけど
横井湘南という受学者が福井を 訪れます
受学者
横井湘南の話をするとそれ だけで長くなるので割愛です
吉田松陰とかねいるじゃないですか ああいう感じの人だと思ってください
雑に言うとめっちゃ雑ですけど 横井湘南という受学者がいます
この人がいろんな繋がりがあって 天野藩にあって福井に来てました
とそこでユリキンマーサーは横井 湘南に会ってしまいますで横井
湘南からその食産工業の財政学 みたいなのを学んじゃうんですよ
食産工業は財政を立て直すためには 産業を起こしてそれで利益を上げ
ていくのがこの道が素晴らしいんだ っていうことを横井湘南から聞いて
そこで塾に入ってで横井湘南から この財政学というのを学びます
これがさっきの話に通じるわけね ミルク産業を没効させていく話
の元になってる話ですよ だから学びに行って帰ってくる
前田富吉と牛乳会社の設立
そうそうそう福井藩司 ってところの肝でユリキンマーサー
が仕えていた福井藩のお殿様が 幕末の四賢公四賢公とも言うけど
4人の賢いお殿様っているじゃん 四賢者みたいだね
四賢者みたいなのどこだっけ 伊達さんと山内さんと島津さん
とそのうちの一人が松平俊学さん なのね松平俊学っていう人が12
代将軍のいとこかなんかぐらいの 血縁なんですよ
12代将軍のいとこ そうだから松平なのねそもそも
ね その松平と一緒なの そうそうでなんやかんや
いろいろと政権争いみたいなの があって14代目将軍くらいのとき
かなに幕府で活躍することにな るんですよ政治総裁職とかね
政治総裁職どういう意味だ まあ総裁ですよ総理大臣
のこと総裁って言うじゃないですか うん言うね
老中は別でいるんですけど 大老尉直介がさ打ち倒されてその
後の立て直しを任されたのこの人 の ほうほうほう
安倍山本正寛とかこの辺 出てくるんだけど松平俊学さん
がそこで幕府の中で活躍するとき に百合汲み政はそれまでに藩の
財政を立て直した経験があった ので側近として幕府に連れてか
れるんで幕府の財政立て直しとか 頑張るのねで一回その俊学がなんか
駄目だって言ってまた弾き出された ときに福井帰るわけですよしたら
坂本龍馬が福井に来るんですよ ここで坂本龍馬
百合汲み政を訪ねてねで そこでなんかすげえ仲良くなった
らしくてこの先この幕末ですから ね江戸幕府が倒れて新政府ができた
暁にはどのように国を動かして くるのかまつりごとはどうする
のがいいのかっていう話をする わけですよ有名な戦争発作みたいな
話ですよねで新政府の経済政策 談義に花が咲いて坂本龍馬は非常
に感銘を受けたと百合さんあん たしかおらんということになった
らしいんですねで幕府が倒れて 新政府ができたときには百合さん
あんたしかおらんって言って金融 政策の担当者として東京に呼ば
れていくっていう大罰的ですよね へえそうなんだそうだね
この百合汲み政の功績 のもう一つは五箇条の御政門の
起案をしたということですね 待って五箇条の御政門ってめっちゃ
聞いたことあるけど これから明治政府はこういう
方針でやってきますよっていう のの原案を叩き台作った人がこの
人だったりしますし幕府もそうだ し福井藩の財政立て直しでも長崎
とか横浜とかに商館を作って出張 所を作ってそれで海外との取引
を小さくやりながらだんだんと 大きくしていくようなことをやって
る方ですねそういう方なんですよ 最後めちゃくちゃすごくなってる
この人何がすごいかってさっき 明治5年の大火災があったって言
ったじゃん あの時この人東京府知事 になってるのよ
東京府知事 国の政治の金融トップ
やった後に東京府のトップやってる すご
今の都知事ですよねやって まして火災になっちゃったので
火災の事後勝利を全部するわけじゃない ですか陸軍省と都知事がどうたら
こうたらとか払い下げしてこれから はレンガ作りにしないとだめだと
じゃないと火事があった時に全部 燃えちゃうから銀座は全部レンガ
街にするんだみたいなことをやって 有名な銀座レンガ通りっていう
のができるんだけどそれも大正期 に関東大震災で崩壊しちゃうん
だけどねそんなのを提案したり とかしてぐりぐり動かしていく
わけですよこの後の東京をどう していくのか国をどうしていく
のかっていうのでもともと明治 3年だか4年ぐらいから岩倉施設団
っていうのが海外ぐるぐる回って ましたんで遅れて火災の処理が
終わったらすぐに岩倉施設団に 合流してヨーロッパを歴報して
乳産業も一緒に見たんでしょう けど基本的には政治のこととか
も学んで帰ってくるとで明治6年 に帰ってきて井野一番に何した
かっていうともちろん仕事とは 別に小壁町の自宅ね
小壁町の自宅 自宅小壁町っていうのはね今の
歌舞伎座だから新橋縁部城のあたり かなあの辺に自宅があってそこ
ももちろん燃えちゃったからレンガ 作りでちゃんと作り直してこの
邸宅の中に牛乳会社を設立するん ですよ
家の中に作るってこと そう牧場付きだよ
牧場付き 牧場っていうか牧舎付きか
牧舎付きでも数はつかないん だ普通の家には
何十頭か牛買ってきたんだよ でかいんだよ
まあお金は持ってそうだしね 持ってますから
でどーんって作って何をしたい かというと外国人相手だったり
とか江戸の街の中でせっかく動き 始めた牛乳産業ねこれをちゃんと
支えて回し続けるエンジンはまだまだ 必要だとすべてを民間に手放す
には早すぎるだったら民間だったら 俺も入って俺が動かす役割の
一端を担おうっていうことでやり 始めるんですねここに実務の担当者
としてもともと大倉省にいたときの 財務の担当者福祉の部下ダンの
信之助っていう人名前覚えなくて いいんだけど名前がかっこいい
からちょっと言っておくねダン の信之助というね
響きはいいね 福井藩士の時代からの福祉の部下
が会計のプロだから彼に会計と 経理財務もう一切任せて自分は
不知事だからさで牛乳関係の現場 の監督者総指揮官として出ました
前田富樹長をもう一回呼んできて ねやってくれと前田富樹さんも
入ってそれでゴリゴリ回してく るんですよそしたら一気に会社
がでかくなっていって土地が足りない わけですよこんな小壁町ぐらい
前田富吉による牛乳産業の発展
じゃ板橋ですね今の板橋区のど 真ん中辺り板橋宿っていうのが
中仙道の宿場町としてあるわけ ですねそこに関与地って国が持ってる
土地があるんで貸してくれって 言って牧場作って半年後にはもう
足りないからって牧場どんどん 拡大してそれで牛乳会社を大きく
していくでこれで府内市内東京 市内に牛乳を流通させる一つの
エンジンになっていくんですよ すごい中心地を作った感じ
だねその牛乳に関する 前田 だからねこの時代の人すごくて
この有利産はもちろん税に儲け の部分もあるんだけど国のために
食産工業のために必要だと思ったら 国の政治としても動かすし政治家
としても動かすけど個人として もこういうことやっちゃうんだ
よね 今だったらなんかめちゃくちゃ
叩かれそうだよね会社なんか作ったら 前田 叩かれそうだけどこれは町の
ために国のために必要だと思う からやるみたいな感じですね
お金持ってる人がちゃんと 会社を作るという
でちゃんと民間に還元するために
頑張る 理想だよね
っていう感じでだからもう ここまで来ると有利君はキーパーソン
だなと思いません すごいね確かにどっちの動き
が欠けてもここまで牛乳とかミルク に関する文化っていうのは広が
なかったかもね そうですねじゃあもう一人
の人は前田富吉さん生まれは1840 年だと言われてます多分戸籍上
そうです一応ね下瀬の国の農民 です今の千葉県はわかります実
思い浮かべてもらって一番上の 方が下瀬の国半島の真ん中あたり
がカズサの国で半島の先端あたり が阿波の国だから下瀬カズサっていう
のは下に総合の層上に総合の層 で下瀬カズサじゃないですかで
前田富吉の独立
阿波の和は某層の某ですよねだから 某層半島っていうのは阿波の和
の部分ですね某と下瀬カズサの 層で合わせて某層なわけですよ
そういうことだねくっついた から名前もくっついたんだ
どっちが先かわかんない ですけどそれが全部くっついて
千葉県に今なってますねだから下瀬 っていうのはかなり北の方って
ことになります千葉県の中でも 北部ですね
いや欲しいな下と上だな 本当そう思う北を上に
しといてくれよとか思うんだけど そういうことじゃないらしいです
違うんだね京都中心だったのかな なのかなそういうことに
しておきましょう農家なんだけど 農村がすごく貧しかったんですって
経済的にもこれから先発展の先 がないなっていうのがあったので
一人飛び出して18歳で江戸に登り ますそのまんま江戸を通過して何
を思ったのか僕知らないですけど 記録に残ってないので横浜に行
くんですよ横浜に行ってオランダ 人の会社に入ってそこで牧畜と
作乳の技術を学びますこれが18歳 18歳 すごない
18歳に行ってオランダ人から 学ぶのすご 特攻ですよ
突っ込んでっちゃう そうだね で学んで2年間頑張って
二十歳1863年もう幕末動乱期ですね 武蔵野国大田村大田区だね今の
ね 大田区のことね ここに作乳場を作って独立します
20歳です すご 日本人初の作乳場
を開設します やっぱり河合間に見られた
だろうね すごいでしょこれを見た
百合気味政は生地橋の牛馬勝者 を作るときに目をつけるんですよ
生地橋の牛車を作るときが 牛馬勝者を作るときにね
牛馬勝者のね そのときに現場上がりの自分の
直属の部下で優秀な乳産業に精通 した人が欲しいじゃないですか
目をつけたのがこのときなんですね このタイミングでもね
じゃあなぜ前田留吉に行った かというと藩の財政を立て直す
タイミングで横浜に藩の商館を 作ってたからなんですよで知人
も一人挟んだら前田留吉の名が 挙がったとしかも一人で作乳場
をやってると独立してだからぜ ひ来てくれということで牛馬勝者
に来てもらう そういう流れでね
で明治元年にそれで立ち上げ を手伝ってもらって社員になるんだけ
と峯岡牧師に請いて出したタイミング でもう今度前田留吉の立場がなく
なるじゃないですかで前田留吉 は独立をしますで芝区ですね新
仙座という場所なので今の浜松町 あたりですかね芝蔵城寺ってお
前田富吉の留学と牧場設立
てらありますけど 聞いたことある
行きましたねあそこねあのあたりに牧場を作って独立
してましたところがなんですけど 明治6年から7年にかけて関東一円
で牛がかかる病気が大流行して しまうんですよでなんと留吉が
飼っていた飼育していた牛が全滅 します
全滅ね もちろん倒産です
だろうね ついでに言うならば
内藤新宿の農協試験場にいた牛 も大半行っちゃいますね大変な
ことになりますでもう前田留吉 もそんな状態だったので百合金
マスがね自分のプライベートの牛乳 会社を作ったときにじゃあどう
だって言ったらお世話になります ってことになるわけですよちょうど
なくなってるんで 確かに
でこの牛乳会社を設立 したとき百合金マスの自宅の中
なんですねこのときに飼ってた 牛っていうのが羊牛なんですよ
西洋の牛を100頭ぐらい飼ってきて 飼ってるんですよね40頭とか30
頭だったかなちょっと忘れてた けど何十頭か飼ってるんですよ
それはその直前に和倉施設団で いてたりとか横浜の外国人居留地
から飼ったりとかしてるのでそういう 状態でスタートするんですね強い
んですよ 自分で仕入れできちゃうからね
牛自体が強いまず 牛が強いの
日本で流行った牛の病気 ねもちろん西洋の牛だってかか
りますよかかるんですけどその 以前からいた和牛に比べると体
性があったそもそもこの牛液と 言われてる病気が海外からやって
きたものだからねしかも乳量が 多いミルクの量が圧倒的に多いん
ですよそれを自らの自衛のときに めちゃくちゃ被害を受けた前田
富吉は目の当たりにするわけじゃない ですかユリさんこれはっていうこと
になってもっと洋牛を日本でやらない とこの先の乳業の未来はないですよ
私もそう思うここはどうにか ぜひ私を海の向こうに行かせば
もらえませんかということで留学 を志願する
すご
ゆりきまさんがうんとそんな り言ったかどうか分かりますが
行くことになるんですよ事務方 がやってたダンの信之助さんが
バババババッともう留学の手を 全部手つけてくるんですね多分
当時大変だったと思うんですよ いやまあ大変でしょう
船で渡ってくわけですよ ね面倒くさいことをダンのさん
がバーッと手続きをしてくれて では行ってまいりますって言って
アメリカのカリフォルニアに留学 します
カリフォルニア
あっちに行って何をしてる かって言ったら牧畜と乳業ですよ
これをごっつりやってきて1年間 やって明治8年めでたく日本に戻
ってきた前田富吉はゆりきみま さの元の牛乳会社に変えるのでは
なくではなく芝区新千座という 場所ねもう浜松町のとこねそこ
で牧場を作って独立します すぐ独立しちゃうね
これ何をやるかっていう とね今度前田富吉は乳業のための
牛を育てるための牧場やるの ああそういうこと
そう繁殖 繁殖場か
そう まあ確かにそうだね牛乳会社
戻ってもホルスタインとかジャージー なかったら結局増やさないときつい
もんね つまりアメリカから日本に
帰ってくるときに前田富吉はおよそ 100頭のホルスタインとジャージー
州を連れてくる めっちゃ連れてきた
めっちゃ連れてきた
繁殖のためか うん百ドルかけてね
ああすごい まあその資金は誰が出した
かはもう多分ゆりきみまさだと思います けど
まあ他に思い当たらないよね その会話の方々がお金
を出してそれを繁殖させて売る とでもホルスタイン純粋種とか
だとどうしても数が限られるので 少なくなってしまうあんまり数
が作れないということで民間の ほかの小さいラクノカさんたち
も買えるように例えばジャージー 種と和牛の掛け合わせとかホルスタイン
と和牛の掛け合わせとかその孫 とかっていうのを繁殖させてですね
そっちは価格を下げたりして小規模 に事業者でも購入できるような
仕組みを作ってで東京市近辺の ラクノカたちがこれでもうまた
ブーストされてくわけですよだから 明治10年頃からラクノカが急増
してきて牛乳の産出量がガンって 増えるのはさっき農業試験場で
勉強した人たちもちろんあるんです けど一方でこういう底座採用して
くれる前田富吉みたいな人がいる と
前田富吉さん重要だね
丹野信之助の貢献
結構重要人物ですよ
繁殖する人いなかったら その後もずっと輸入に頼るって
ことだもんねそれは産業として はかなりえぐいハードモードだよね
実際この前田富吉とさっき から僕名前がかっこいいから繰り返し
言ってる丹野信之助さんとその 丹野さんの息子あたりが明治期
の乳産業を支えた人としてその 業界では記録に残っているし同業者
組合を立ち上げたときにやっぱり この二人が中心人物になっている
そうですという話ね
へえすごかった
なかなかすごいよね
どちらの方もすごい
他にもいるんですけど特に ピックアップするならばこの二人
かなっていうところですね
この二人が動いたからこそ 周りがいろいろ動けたんだろうね
確かにキーパーソンでした
いつもとちょっと構成 変えてみたけど
うん変わったねガラッと
ちょっと聞きやすくなった じゃないかな
そうだねこれこれで面白い ね
はい疲れた
ずいぶん喋ったね
はいずいぶん喋りました が残念ながら渋沢一の話はもう
完全に消し飛んじゃったので僕の 勉強ノートを数10ページ近くはもう
なかったことになってます
そうなんだ
いずれどっかで成仏させ たいと思いますが
本当にね
はいということできょう は以上ですね
はいということで今回は この辺で終わりたいと思います
ありがとうございました
ありがとうございました
はいじゃあおねがいしまーす
ウイッスこんにちは食べ物 ラジオサポート
なに食べられるごめん
だめだごめん
こんにちは食べ物ラジオサポーター
兼オフィシャルラジオオフィシャル ダメ酔っぱれたらダメだね全然
回ってないね口がごめんね
こんにちは食べ物ラジオサポーター 兼オフィシャルデザイナーの西村
です
今食べ物ラジオでは活動を応援 してくださるサポーターの方を
大々的に募集しておりまーす
もっと食べラジオの話を聞きたい
andご一同集というそこのあなた 私たちと一緒に一緒に一緒にサポーター
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はい
変な人がいるっていう感じでどっち みて変な職業なんだからいいや
と思った
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