1. たべものラジオ 〜食を面白く学ぶ〜
  2. #233(s25-15) 新しい乳製品 ..
2024-05-31 44:38

#233(s25-15) 新しい乳製品 〜悪用されたミルクブームに切り込んだ人々〜

前回の話で悪徳商人により白い毒薬と成り果てた牛乳。そんな時代の中、徹底した衛生環境を整えたゲイル・ボーデン氏が保存用コンデンスミルクを開発。その後チャールズペイジ氏、アンリ・ネスレ氏(後のNestle)、ダニエル・ペーター氏によって世界初の乳製品が開発されていく。


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00:06
たべものラジオ
たべものの世界を探求する、たべものラジオの掛茶料理むとう、むとうたくろうです。
むとうたろうです。
このラジオは、少し変わった経歴の料理人兄弟が、
食べ物の知られざる世界を、ちょっと変わった視点から学んでいくラジオ番組です。
はい、ということで、本編いきます。
はい。
はい、では前回からの続きです。で、今回は、
はい、白い毒薬と新しい乳製品、後編。
後編。
つまり、新しい乳製品ですね。
新しい乳製品。
はい。今までに登場した乳製品、どんなものがあったかざっと思い出せますか?
ざっと?
はい。
結構あるな。もう名前も出てこないけど。
たくさんありましたね。
名前覚えきれてないからね。
まあ、ざっくりいくと、タンパク質固めたチーズがありますよ。
で、脂肪分固めたバターやバターオイルがありますよ。
で、あとは、発酵させたヨーグルト系のね、乳酸発酵系がありますよ。
で、あとは、馬乳酒のようなお酒があります。
ざっくり分けるとこんな感じでしたよね。
そうだね。あの、ちょっとプチブームになったキーがね。
エリクサンになっちゃいましたね。
エリクサン。
このカテゴリーに当てはまらない新しい乳加工製品というのが生まれてきます。
まだあるんだ。
はい。これ皆さんよく知ってるんでね、先に答えを言ってしまいますと、
はい。
コンデンスミルク。
コンデンスミルク。
はい。それから、粉ミルク。
粉ミルク。
はい。これが登場してきます。
はい。
で、粉ミルクっていうのは乳児用粉ミルクもあれば、コーヒーに入れたりするね、あの粉ミルク。
クリープみたいなね。
クリープですね。あれは商品名ですけど、
ああいったものがこの時代に生まれてきますよってお話をしていきます。
はい。
これも前回のお話であった19世紀に並行して起こっていくことなんですよ。
ああ、そうなんだ。
うん。もう本当にひどい、白い毒薬が始まったのっていうのは、
1700年代の終わりぐらいから、1800年代の頭ぐらいからああいう状態が、前回の話が始まるんですね。
で、そこから50年ぐらい経って、1850年を超えたぐらいから新しい乳製品が徐々に出てきます。
これが実はこの後、この次の回にお話をするんですが、ミルクがちゃんと飲めるようになっていくきっかけになっていくんですよ。
このワンステップを一回踏まえることで、本当のフレッシュミルクが流通するようになっていく。
この一つのベクトルとはちょっとずれるんですけど、土台にはなっているのは事実ですね。
はい。
アメリカにゲイル・ボーデンという人がいらっしゃいました。
ゲイル・ボーデン。
はい。これはね、食品産業の歴史の中では比較的有名人の一人ですね。
ああ、そうなんだ。
03:00
はい。この方、コンデンスミルクの発明者です。
ああ、はいはい。
はい。もともとね、このゲイル・ボーデンさんっていうのは、もとは促領士かなんかだったのかな、初め。
で、その後になんかジャーナリストになる。自分で新聞社を起こして、ちっちゃいながら新聞をやってると。
で、その後になぜか政治家になっていくんですね。
政治家になるんだ。
それもアメリカ合衆国の政治家ではなくて、出ました。テキサス共和国の政治家ですね。
テキサス共和国?
覚えてますか?これ佐藤のシリーズの中で登場してるんですが、テキサスというのはもともとメキシコの土地でした。
で、ここに人が来るんだったらもう受け入れるからどうぞいらっしゃいって、メキシコの政府が開放してくれました。
開放したらアメリカの人たちがわーっとなだれ込みました。なだれ込んで入った上に、俺たちは独立するって言って独立をするというね。
で、そこでできたのがテキサス共和国。
で、このテキサス共和国が後に俺たちは合併したいんだ、アメリカとって言い出して。
なんかメキシコ側からすると、え、え、え、ちょちょちょ、え、どういうこと、え、え、みたいなうちになしくずし的に持ってかれるみたいな。
内部から突き崩すっていう、アメリカが領土を奪う時に当時やってたハワイとかも全部そういう形で併合してましたよね。
そういう流れの中で出てきたテキサス共和国の政治家になっていった人なんですよ。
で、この人ね、政治家として活動してる間に食品に興味を持ったっぽいんですね。
特に輸送に優れた保存食に対して興味を持ちました。
輸送に優れた保存食。
缶詰みたいなのがあったらいいよねとかいう感じですよ、感覚的には。
なんでそれに思い立ったかというと、軍事行為をするとき、戦争をするときに兵隊が伸びていくわけですよ。
遠くへ遠くへ攻めていくようになっていく時代じゃないですか。
そうすると食料を運搬するのってすごく大変で。
で、食料の運搬がないと現地で略奪とか起こっちゃうんで、それはよろしくないですから。
そのために食料の運搬は非常に重要なんだけども、長期間の保存ができなきゃいけないし、栄養も高くなきゃいけないし、
輸送の時に軽くて便利じゃなきゃいけないんですよ。
そういうのに興味があって、いろんなところに政治的にも働きかけをしてました。
ある時、政治家を引退するくらいのタイミングで、一つ発明をして商品化をします。
商品名、ミートビスケット。
ミートビスケット。
ミートなのかビスケットなのかどっちだね。
大将 代表に混ざってるね。
ビスケットはクッキーみたいな、あれやでって焼いたやつやでってパンみたいなやつじゃないですか。
ミートは肉っていうね。
大将 そうだね。
謎のやつを1849年に特許を取って発売をします。
正体はですね、ビーフジャーキー。
大将 ビーフジャーキーのこと?
そう。
大将 なんでビスケット?
06:00
わかんないです。
それはボーデンさんに聞いてください。
なんでビスケットなんだって言いたいところですけど、
先住民の干し肉、ネイティブアメリカの方々がもともと干し肉を作ってる文化があったので、それを見てこれだって言って。
これなら軍事で輸送するときに肉だしね、いいじゃないかということでミートビスケットというものを開発をしてこれを売りに出します。
これがまたヒットしちゃうんですよ。
美味しいんだろうね。
大将 美味しいしね。
温かいものの方がいいと思いますが、今までのものより良かったんでしょうよ。
これがヒットしたきっかけがなんと戦争ではなくてゴールドラッシュ。
ゴールドラッシュ?
大将 金を掘りに来る人たちですよね。
アラスカ行ったりとかカリフォルニア行ったりとかするじゃないですか。
ちょうどいいの。
ちょうどいいの?
大将 特にカリフォルニアで爆発的に人気になったらしい。
ここで人材産ができて、あちこちにも評判が広まっていって、他の国にも欲しいよみたいな風になっていくと。
じゃあこれを広告も兼ねて技術として出展をしましょう。
展示会のところに出しましょうということで、1851年、第一回ロンドン万国博覧会に出展をします。
万博。
大将 万博、世界で最初の万博ですね。
51年ロンドン万博、52年だか53年がニューヨーク、その次はパリですね。
1回ニューヨーク行ってる。
大将 1回目がロンドン、2回目がニューヨーク、3回目がパリで、このパリ万博に日本の施設団が行ってるみたいなイメージの話になるんですけど、
その1回目の時に出展をしてます。成果は上々だったっぽいんですけど。
テキサスからロンドンに行って、当時飛行機じゃないですかね、船で行って帰ってくるじゃないですか。
この帰りの船で衝撃的なことに彼は気づきます。
なんと船の中で乗客がたくさんいますよね。この中で子どもが数人亡くなるという事故が起きます。
亡くなる。
大将 死因は病気です。
病気。
大将 病気だってことしか分かってない。それが血格なのか共有病なのか何なのかは分かりません。
当時の船というのは、新鮮なミルクを手に入れるために船の中に牛をスーッと乗せていくっていうのがパターンだったらしいんですよ。
乗せていくんだ。
大将 それが一般的に行われたことらしいんですね。
ボーデンが乗ってた船の中にいた牛が病気にかかっちゃったんですよ。
牛は一箇所に固まってますから全部感染しちゃいますよね。
このミルクで作られた料理の方はたまたま大人は体調を崩した程度でよかった。
もちろん加熱調理をされてますからね。
例によって子どもは健康のためにいいから、子どもの飲み物だからということでフレッシュミルクが与えられた。
これによって体調を崩した子どもがたくさんいてそのうちの数名がお亡くなりになると。
09:00
そういった事故に遭遇することになりました。
これを見てですね、このミルクをミートビスケットのように長期保存できて輸送ができれば、
これは軍事用としても非常に助かるし、こういった不幸な船の事故もなくなるはずだということを思い始めます。
すごいちゃんとした人。
大将 政治家としてそういったことを多分考えてたんでしょうね。常日頃から。
ここでもうミートビスケットはポンってしちゃいます。もういいやって。
あんなに売れてたの。
大将 倒産したか何だかわかんないですけど会社がもう畳まれちゃいます。
そこまでか。
大将 もう譲っちゃうのか畳んじゃうのかしちゃう感じなんですよ。
で、牛乳の保存技術の開発に興味を持って一気にそこに突っ込んでいます。
すごい人だね。
大将 でまたねこれ本にはあんまり書いてなかったんだけど保存技術を考えるにあたってヒントになったのが濃縮フルーツジュースの真空釜。
濃縮フルーツジュースの真空釜?
大将 濃縮ね。濃縮関係の濃縮ね。
真空釜わかるかな。砂糖のシリーズを聞き返していただくとわかるんですけども真空にすると沸点が下がりますよね。
でそれを利用して低温で水分を飛ばして濃縮していくっていうそういう技術です。
これ砂糖を作る生糖の技術の中にもありましたよね。
でこれがなんとですね1851年に真空釜がロンドン万博に出展してるんですよ。
本に書いてなかったのでそれが直接のきっかけだったのかどうかわからないですけど
僕が思うにロンドン万博に行って出展されてる真空釜に興味を持ったって考えた方が自然じゃないですか。
おそらくね。そういったところがヒントになってこの真空釜を使えば
そして真空釜でデモンストレーションが何かあったんでしょう。
フルーツジュース濃縮できますよみたいなのがあったのでこの技術を使えば牛乳もいけるんじゃないか。
ということでその研究開発に人脈とか自分の持っている資金を投下していきます。
すごいよね。バイタリアティがすごい。だってゲイルボーデンさん生まれ1801年ですから。
1801年。
これに思い至って会社手放して一気にその研究に行くのが50歳の時ですよ。
51年だからね。
何回も何回もチャレンジするんですけどそれは簡単にうまくいかないですよね。
3年5年とやって全然うまくいかなくて何度もチャレンジした結果1858年。
ついに特許を取るまでに至ります。
7年。
7年かかった。
そこでよく挫折しなかったね。
間に地元の資本家の方々にいわゆる今でいうピッチですよ。
やって資金調達をしたりとか。
何度もチャレンジしたら裏切られるとか。
中田買いしてもう一回バツチャレンジして資金調達したりとか繰り返して。
12:03
7年かかってこの缶入りコンデンスミルクというものを確立させます。
この1858年か前年だったか忘れちゃったけどとんでもない出会いがあるんですよね。
とんでもない出会い。
たまたまなんですけどニューヨークで電車に乗っていた時ですよ。
たまたまとある地元の有名人にばったり出会う。
地元の有名人。
ばったり出会う。
その方の名前はジェレマイア・ミルバンクさんという方でね。
当時の地元では有名人だけど僕らは全くわかんないしググっても出てきません。
出てこない。
出てこなかったです。
日本語ではずっと少なくとも検索できなかったので。
英語で検索してそれを翻訳して読むって二度ともやったんですけど。
この方はニューヨークの鉄道王であり銀行家なんですね。
そんなすごい人。
超金持ちです。
金持ちだね。
この方にたまたまばったり出会って、もともと知ってたかなんかなんですよね。
なので缶入りコンデンスミルクに関することを情熱的にわーって語ったところ。
その場でよし俺が出す私がやりますって言って10万ドルをその場で融資確定させるんですよ。
10万ドル?
乗ったって言って。
すご。
ただこの後々ですよこの10万ドルの融資はジェレマイアさんが亡くなるときに800万ドル以上になって帰ってきてるんで大成功なんですけど。
すごいね800万。
ぐらいになってるらしいんですよ。
すごい金額だね。
ビジネスパートナーとして会社ニューヨークコンデンスミルク社っていう会社を作るんです。
ここで生産工場を作って缶入りのコンデンスミルクを作り始めます。
このゲイルボーデンさんの偉いなーっていうのが、偉いというか当然やらなきゃいけないことだと思うんですけど、
楽能の実会っていうのを決めてですね。実会っていうのはモーセンの実会と同じ字格ですけどね。
10の会立ですよ。楽能家さんたちに自分の作った衛生基準を守らせる。徹底的に守らせるってことをやります。
そこからね。
絶対手を洗えとかね。当たり前なんだけど、それは前がひどいからね。
使う毛をこすザルは絶対に洗って干して乾燥した状態から使いなさいとか、牛舎は必ず清潔にしなさいとか、そういったことがいくつか書かれてるものを作って、
これを自分が取引してる楽能家さんのところに持ってって、これが飲めないんだったら契約切るぞって。
はあ、10回か。
徹底するんですよ。
すごいね。
徹底しないと濃縮して缶詰にしますから、真空状態の缶詰じゃないですか。
コロナ禍で不潔だったらもうどうしようもないわけですよね。
やばいね、それはね。
そもそも彼が求めていたのは輸送に優れた長期保存が効くミルクですから。
そのために絶対に守らせないと製品が成り立たない。
15:02
そうか、加工品っていうのは衛生が結構命だからね。
実はアメリカにおける衛生基準の走りって言われてます。
他にもいるんですけど、このくらいの時代に衛生基準を厳しく言う人たちが何人か現れていて、
その人たちが後の衛生基準の元になるのを引っ張っていくような格好ですね。
この当時いろんな技術が発明されていったのもそうしたのかもしれませんね。
このコンデンスミルクは2年後大ブレイクをします。
大ブレイクする。
実は2年後、3年後か、1861年。
ちょっと世界史詳しい人だったらもうピンときてるかもしれませんが、
アメリカ南北戦争が起きる年ですね。
1861年。
アメリカ南北戦争を勃発です。
ここから数年間続くんですが、
北軍側が自分の食料調達の一環でこのボーデンのコンデンスミルクを大量に購入します。
純度は高いし、保存性はいいし、安いし、最高じゃないですか。
これを大量買いしてくれます。
大量買いする。
甘いしね。
そういうのは忘れたけど、長期保存のために濃縮するだけじゃダメで、
砂糖入ってますからね。
砂糖も入ってんの。
だから今でもコンデンスミルクって甘いじゃないですか。
甘いね。
僕らの世代だとイチゴ狩りに行ったら必ず好きなやつだったんだけど。
あのチューブ状のね。
あれの缶入りの元の方ですね。
缶入りだったね。
僕もちっちゃい時缶入りでしたけど。
確かに。
あれを見てその軍の人たちがこれはいいということで、
軍の供給品に使われます。
砂糖入って栄養価高いもんね。最高だよね。
これがすごい売れるんですね。
まあ軍が買いますから大量買いしてくれるじゃないですか。
これがきっかけになって
銃軍兵士たちとかそれに伴ってジャーナリストが行ったりとか
いろんな人たちが来るわけですね。
その人たちもその供給品に預かるわけですから
これいいなってことで慣れていくんですね。
特に一番使われたのは他にもコーヒー。
コーヒー。
特に一番使われたのはコーヒー。
ああそうなんだ。
みんなバカみたいにコーヒー飲むんで。
コーヒーにコンデンスミルク入れればさ
砂糖とミルク入ってますからちょうどいいんですよ。
ああ確かにお手軽だね。
で高カロリーで栄養をとれますからね。
そうだね。
もう最高。
スポーツドリンクの上だもんね。
僕らの現代の生活をしてるとわかんないですけど
戦時中、19世紀の戦時中の過酷な環境にいたら
疲れたところに糖質の塊が来たら
しかも脂質があってねとか言うんだったら
もうむちゃくちゃうまかったでしょうね。
美味しいだろうね。
でこれで味を知った人たちが
後にみんな戦後も自分で買うようになっていくんですね。
どんどんどんどん拡大していく。
拡大していくと自社工場では生産が追いつかなくなってくる。
そこでどうしたかというと
18:01
自分のレシピを公開し始める。
公開するの?
ただもちろん無料じゃないんですけどね。
売ったってこと?
そう、ライセンス販売をします。
いろんな工場にそれをライセンス販売して
そのライセンス販売を受けた人たちが
後に一部が独立して会社化していくんですけどね。
これでコンデンスミルクを作る会社が
いくつも出てくるって感じなんですけど
この時にやっぱりボーデンはね
自分とこのブランドだったらもちろんあるんだと思うんですけど
徹底的に衛生基準だけはこだわったみたい。
衛生基準は絶対なんだ。
自分が経営者のトップから降りた後でも
徹底的にライセンス販売した先の契約した人たちも
絶対これだけは守ってくれっていうのを
啓蒙活動し続けたっていうふうに書いてありましたね。
へえ、偉大な人だね。
結構偉大だと思いますよね。
で、冒頭で僕が衛生基準の橋になった人の一人だよって
言ったのはこういうことなんですよ。
確かに。
コンデンスミルクを作った、発明したっていうのも
もちろんすごく重要なポイントなんですけれども
同時にこの衛生観念を関わった楽能家さんや
ライセンス販売した相手の生産者さんたちにも
徹底的にやっていくことで
その人たちも啓蒙されていって
衛生観念っていうのが根付いていくということですね。
これが大きなポイントです。
すごいね。
そしてこのゲイル・ボーデンを見て
感銘を受けた人たちがたくさんいるんですよ。
そのうちの一人にチャールズ・ペイジという人がいます。
チャールズ・ペイジ。
この人はもともとジャーナリストなんですけど
後にアメリカ通商副領事、役人ですね。
国の役人になるような人なんですよ。
外国に行ったりとか。
通商なんで貿易とかね。
商売に関するところの省庁の偉い人。
若くしてなったらしいんですけどね。
この人ね、もともとジャーナリストの時代に
新聞記者として北軍に従軍してるんですよ。
北軍に従軍。
南北戦争時代の北軍に従軍してます。
ジャーナリストとして。戦士じゃないんだけど。
そういうことね。
そこでボーデンのコンデンスミルクに出会ってるんですよ。
そういうことね。持ってってるからね。
これいいなーって美味しいなーって言って
自分が後も購入したりとかしてるんですけど。
まだ戦争が終わり切るか終わり切らないかぐらいの時に
アメリカ通商副領事として出張に行くわけですよ。
行った先がたまたまチューリヒだったんですよね。
チューリヒ。
スイスですね。
スイスね。
スイスの観光名所といえば何がありますか?
どんな風景が思い浮かびますか?今。
何だっけ?三脈。
三脈。マッターホール。
マッターホール。
暗いねマッターホール。
雪山の綺麗な空気があって。
まるで中世を思わせるようなかわいい建物がいっぱいあってね。
はいはい。
レンガの道があってね。
景色もすごくいいじゃないですか。
そうだね。
そんなのにはあまり感動してないっぽいんですけど。
21:02
何のフリやね。
いいなー気持ちいいなー。いい空気だなー。
牛多いなー。牛多いなー。いや牛マジで多いなー。
チーズめっちゃうまいけど。
あそこの牧場、うわすげー綺麗な牧場だよ。
この牛のミルクなら美味しいよなーって思ったのが1865年のこと。
1865年。
はい。そして1866年、アングロスイスコンデンスミルク社を設立します。
一年で。
早っ。
早っ。一年は早いね。
すぐやる。牧場も何にもないんだけど、とりあえず会社だけ登記します。
で、チャールズページは自分で農家さんとの契約だったりとか、
牧場を作る準備だったりとか、資金繰りだったりとかを、
その後もずっと走り回って一年間ぐらい頑張って準備します。
その間にお兄ちゃん、お兄ちゃんかな、たぶんお兄ちゃんのジョージページにお願いをする。
ちょっと兄ちゃんごめん、ジョージ悪いけど入浴行ってきてくんない?
ってニューヨークにいるんだけどね、もともと。元がニューヨークの人がさ。
ニューヨークでさ、ちょっと工場で働いてきてほしいんだよね。
ゲイルボーデンって人がやってるニューヨークコンデンスミルク社ってのがあるんだよね。
あそこ行ってちょっと働いてきてくれかなって言って、一年間修行に入るね。
もう登記した後からそこも動くんだ。
みたいですよ。今でもスタートアップそうじゃないですか。
資金調達して会社があって、その状態から研究開発したりとかありますよね。
まんまそれなんですけど。
それで行って、ボーデンのところの落納の実会とかね。
工場の衛生基準とかいろんなシステムを勉強して、
もしかしたらそのライセンス契約とか話あったかもわからないですけど、
それは関係なくすでに会社あるので。
落納家にいろいろやるもんなにもスイスですからね。
ニューヨークやロンドンと違ってもう水はいいし空気はいいし、
そんな閉じ込めてるんじゃなくて基本放牧ですから。
なんなら垂直異牧してますからね。
垂直異牧ね。
めちゃくちゃ環境いいんですよ。
そっちの心配はせずに、これならばニューヨークや周辺のニュージャージーとかとは比べ物にもならないミルクが手に入る。
これでコンデンスミルクを作ればいいじゃないかということで、
なんと会社を設立したその翌年1867年スイスツーク州シャム市に工場を設立します。
工場もできるんだ。すぐ作っちゃう。早かったね。
めちゃくちゃ早い。やり手ですよこの人。
すごいね。
そして同年翌年をかけて37万4千カートンのコンデンスミルクを出荷します。
結構な量。
工場1個ですよまだ。
そのでかい工場じゃないと思いますよ。
そこで約40万弱のカートンね。
カートンだからカートンって12だね。
数にしたら×12ね。
すごい量。
24:01
400万個くらいを出荷するまでに至ると。
400万個。
これが特にイギリスやイギリスの植民地に大人気と。
1日1万個以上作ってる計算だからね。
バカバカバカバカバーって売れてくるんですよ。
すごい量だね。そんな1年でできるんだね。
ねえ、すごいことだよね。
それはたぶんね、もともと落納の生産が確立したって大きいと思いますよ。
水もいいし。
地図で見るとわかるんですけど、
ツーク州シャム市っていうところ。
カムとかシャムとかっていう表記売れありますけど。
Googleマップとシャム市かな。
湖の隣、ほとりですね。
そうなんだ。
本当にそういう立地なんでしょう。
水はいいのはいいよね。
まあね、ヨーロッパの水源地ですから。
全体の水源地はここですから。
みたいなところですね。
そして一方同じスイスの国内で、
同じ年1867年にシャム市から南西方向におよそ180キロほど行ったところに工場ができます。
スイスボーシュブベイシ、もしくはベベイシ。
VEVEYですから、ちょっと読めませんけど。
カタカナにすると表記売れってわかりませんけど、
ボーシュのブベイシっていうところに工場ができます。
ボーシュのブベイシ。
ブベイシ、スイスの国内ですね。
距離にして180キロほど離れてるところです。
これ何の工場かというと、ベビーフードの工場です。
ベビーフード。
赤ちゃんのためのベビーフードですね。
これを建設した方というのが、もともと薬剤師なんです。
出身はドイツ。
ドイツの人なんだ。
ドイツの人で薬剤師ですね。
当時ドイツっていうのは、かつてなんちゃら健康法とかなんとか療法が流行ったところなんですよ。
これこのシリーズでやったんだっけ?カットしてなかったらやってると思うんだけど。
ミルク療法とかね。
ミルク療法。
いうのが流行ったりしてたんですよ。
ある時代に。やってないか。
ミルク療法とかクミス療法とかヨーグルト療法とかっていうのが出てきて、
いろんな人たちが病気で亡くなったり、特にコレラで亡くなったりとかいうのもあったですし、
その前のペストだったりとかいろんな病気が流行ったりしていたので、
その反動でなんたら療法っていうのがヨーロッパのあちこちで流行しました。
その中でも特に今のドイツ、ドイツではプロレスチェンとかですけど、
ドイツあたりとロシアあたりでは特にミルク療法っていうのが流行していました。
その中で同じくドイツの科学者ですね、リーヴィヒという方がいらっしゃるんですが、
この方は普通に研究者として、科学研究者としていろんな化け学の研究をされていて、
27:05
その過程でベビーフードを発明して作ります。
小麦粉とか薄片とかそういうので普通にベビーフードを作るんですよ。
肉のエキスとかそういうのを入れてベビーフードを作って、
これにミルク入れたら良質なるベビーフードになるよっていうのでやってたんですよ。
それを見て薬剤師さんが、いやいやそれだとちょっと足りないんじゃないのとかいうことになって、
だいたいそのミルクを手に入れるかってね、白い毒薬ですよ、東島だ。
そんなミルク入れたってダメでしょうよということになって、
しかもこの時代ね、産業革命の近代化の流れの中でミルク加工品増えている。
これは今新しいミルク加工品の話をしてますが、
チーズとかバターとかもパンパン機械化されていく、工場化されていく時代なんですね。
バターめちゃくちゃいっぱい作る工場ができるんですよ。
ロンドン万博ぐらいの時代に遠心分離器なんかっていうのも登場してくるので、
そうするとクリームも置いとくとかじゃなくて遠心分離器でブーンってやって脂肪分離できるじゃないですか。
そうすると脱脂乳が大量にできますよね。
これほっとくとダメになるだけじゃないですか。
これ近代化の弱点なんですけど、
余ったものはその工場の中では副産物として使わずにゴミになっちゃうんですよ。
家庭だったら全部使い切れるのに、工場っていうのはそういうところが弱点だったんですね、当時。
今みたいにまだサスティナブルの関連ゼロですから。
この脱脂乳でも困ったな、でももったいないなっていうのはわかってる。
一方でボーデンが作ったようなコンデンスミルクみたいなのも出てくる。
これに対抗するかのようにこの脱脂乳を乾燥させて脱脂粉乳っていうのを作る。
粉にすれば保存も効くし、容器も袋でいい。缶じゃなくて袋でいいからすごい安上がりだよねってことになる。
それを見たこの薬剤師さんはリービヒが作ったベビーフードにこの脱脂粉乳を混ぜて砂糖も入れてあげる。
そうすると水を入れ替えすればベビーフードになるよねっていうので、これが今に続く乳児用粉ミルクの原型になっていくんですね。
このリービヒのベビーフードと新しい改良型ベビーフードっていうのがスイスドイツあたりを中心にヨーロッパで普及し始めていくと。
この薬剤師さんはもともと子供の乳幼児の死亡率があまりにも高いことに心を痛めていたので、それを解決するためにギャローという動きをしたんですね。
そのためにわざわざスイスに行ったんですよ。それがちゃんとハマってたまたまだんでしょうけど、実際母乳の出が悪くて、育児に困ってるお母さんのところに届けられたら、そのおかげでたくさんの子供たちの命が救われたっていうことが実際に起きて、
30:01
それがニュースになったことでこの新しいベビーフードがだんだんと売り上げが上がって増えていくんですよね。
これを発明した人という薬剤師の名前がアンリ・ネスレと言います。今に続くネスレの創業者ですよ。
ネスレってそうネスレ? 今コーヒーの乾燥コーヒーとか売ってますよね。クリープみたいなとか。原型は乾燥ミルクしかも乳汁用粉ミルクがスタートです。
そうなんだ。 この時代薬剤師スタート多いよね。
多いね。 多いと思いました。ネスレさんもそういう高い志を持ってやったんですよ。
ネスレって最初そういう志があって始まったんだね。 スタートは粉ミルクですね。
これねちょっと脱線というかティップスになるんですけど、このアンリ・ネスレさん工場のあるブベイ市に住んでるんですけど、近所でよくカフェで一緒になるお友達がいました。
この人ねロウソク職人さんなんですけど、メッポーゴ仲が良くてしょちょ買わせてたそうです。この方の名前ダニエル・ペーターさん。
知ってる人は知ってるけど知らん人には全く縁のない名前ですね。地元の友人で、ただこの人ロウソク職人なんだけど、ロウソク売れなくて困ってるんですよ。
もうこの時代ランプが出てきちゃってるから。ガストーの時代なんでね。日本ですら明治時代ガストーがバーっと付くような時代にロウソク売れねえやってて。
でちまちま作ってるロウソク職人さんも困って考えて考えて考えあぐねた結果、どうやら最近あのお菓子流行ってるらしいじゃないかって。何だっけ昔飲み物だったやつ。チョコレート。あれなんかお菓子になったらしいね。
ああいうのこねたりするの俺ちょっと得意だし、やってみようかなって言ってやり始めるんだけど、まあうまくいかない。まずねチョコレート高いのよ原料が。
原料が高い。 まあカカオも豆が高い。
まあカカオこの辺じゃ作ってないもんね。 輸入品だからさ。
そうだね。 何でそれに行ったのかちょっと俺もよくわかんないんだけど、やり始めたんですよ。
でそれをまたカフェかなんかでダニエル・ペーターがアンリーネスル友達だからね、いやどうしたもんかなって考えてんだよねーって言ったらミルクで行ってみたろ。
そしたらチョコレート100%に比べたらミルクの方が安いわけですよ。何なら脱脂粉乳使えば安く上がったりするわけじゃないですか。
これである意味薄めることもできるし、当時のチョコレートって今のに比べてもさらに苦かったらしいんだよ。
ああそうなんだ。 だいぶ苦かったんだって品種的に。
だからミルク入れたらまろやかになるし薄まるんだけど逆に価値上がっていいじゃん。ちょっとやってみなよっていうことでなんとこのネスレの助言を受けてダニエル・ペーターミルクチョコレート開発に励むんですよ。
33:09
ミルクチョコレート。 で当然ネスレも一緒に来てね。一緒に研究して実験したりするんだよ。
うまくいかねえなーって。うちの粉ミルク入れてもいまいちだなーって。そうだコンデンスミルク入れたら甘いしあれとろみあるし濃縮されてるから薄まっちゃわないしね。
何しろ水分が多いとカビたりする原因だから。なるべく水分ない方がミルク入れるにしてもいいよ。普通のミルクじゃない方がいいから。
じゃあコンデンスミルク入れてみるか。ちょっと行ったところにアングロスイスコンデンスミルクって会社あるからあそこのコンデンスミルク買ってくるわって言ってライバルのツークッシュのシャムシーで売ってる。
もちろん近所でも流通したんでしょうけど。ライバルのコンデンスミルクを買ってきて実験するっていう無茶なことやりだすんですよ。
この辺がアンリーネッセルの面白いところでさ。それ入れたらめっちゃいい感じになった。これうまくね?って甘いしさ。このままだとドロドロしてるから乾燥して固めて板状で並べたらいいじゃんって世界で初めて板チョコ作るんだよこの人。
板チョコ作るんだ。 原型箸なんですね。1875年くらいかなにある程度の形になって。そのタイミングでアンリーネッセルももう別に金儲けをしたいわけじゃないので元々がね。
十分もう裕福にもなっちゃったし人の命が救える環境になったので経営大変だから俺そういうの向いてないしこんなに拡大しちゃったら無理だから誰か買ってくんないってなって。やっぱり地元の資本家というかビジネスマンいるじゃないですか。
そういう人たちに何人かに声をかけて会社買ってもらうと。そしたらよりダニエルペイターの助言したり手伝いとかできるじゃないですか。やったらできましたと。これは高タンパク高栄養でいいよ美味しいし。これでもどうやって売る?ってなって自分が元行った会社に売り込みに行くんだよね。
ネスレ社から販売したらどうかって言って持ち込んで。それで契約取っていく。これが問題なの。ネスレ社から販売させるでしょ。ということはネスレはコンデンスミルクを持ってないんですよ。ペイジのコンデンスミルクを使っちゃったから。かといってライバルの買ってきてやるのもなんだかなってなるじゃないですか。
出汁粉乳は持ってるわけですよ。ミルクの流通もスイスだからなんとかなるわけですよ。ということで1880年頃あたりかな。アンリーが辞めた後のネスレ社はコンデンスミルクの製造を始めます。
自社で作り始めるんだ。 ネスレ これでチャールズ・ペイジとアンリー・ネスレが作ったそれぞれの会社がライバル関係になります。そしてなぜだろうね。1878年チャールズ・ペイジ率いるアングロスイスコンデンスミルク社は粉ミルクの製造販売を始めます。
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今度粉ミルク作るの? お互いに得意分野をまたいでいきますね。ガチンコ勝負になります。後にアングロスイスコンデンスミルク社はアメリカに進出をしたりとかイギリスに地盤をもう一個作ったりとかどんどん海外に向けて販路を拡大していきます。ネスレ社も同じように海外に工場を作ったりして販路を拡大していきます。地元だけではなくて海外でブンバンビジネスバトル始めるんですね。
おとちかばなのにね。 大変じゃない。それを見ていた出資者、融資した人、銀行ですよ平田区って。どっちにも金出資してるんだよね。近所だからね。
当時の地元の大手銀行といえばスイスフランス銀行ね。あとは投資銀行として世界的にも有名なクレディスイスがありますね。この辺りが融資をしていたんですって。どちらの会社にも。1905年お前らいい加減にしって言ってちょちょちょちょ一緒に会って話しませんかということで1905年この2社は対等合併をします。
でこれが今のネスレになるんですね。 ああそうなんだ。今どっちか残ってないじゃなくて両方とも残ってるんだ一緒になって。 名前はネスレ社が残ってますがこれねグーグルマップで見てもわかりますが、アングロスイスコンデスミルク社の工場があった場所、ツークッシュの社務市ですね。これチーズ上で拡大アップしてもらうとわかりますが、そこにネスレの工場がありますよ。
ああそうなんだ。 社屋があります。なのでその一番最初のチャールズペイジが作った工場のあたりもそのものではもちろんないでしょうけどそこにもちゃんと工場がある。残ってる。でこのチャールズペイジとお兄ちゃんのジョージペイジの話とアイリレスレのこの話はネスレの公式ホームページもちゃんと載ってますんで。
ああそうなんだね。 こうして新しいニュー製品が生まれたのです。これね面白いなと思うのがこれ発想が子供のためっていうのが一つともう一つが伝統的な保存のためっていうのがリンクして来てるんだよね。
そうだね保存のためってそうねずっと保存のためにいろいろやってきてさ結局次の課題に対しても保存でどうにかしようっていう。 そうそれを新しい技術で言うなれば当時のフードテック最先端の万博に出る技術をギュッとやって具現化してこうやって社会に実装していくっていう感じですよね。
そうだね確かに缶詰なんてねこの当時新しいもんだからね。 まだまだ新しいですね。真空缶使った濃縮もまだ新しい技術でした当時っていうようなことが出てきたりその脱脂粉にも新しい製品ですしこういったものを組み合わせて新しいニュー製品が生まれてくる。
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本当だね。なんかいいね当時のフードテックみたいな動きをさ今見るとさその後どうなったかはっきりわかるからさ。今から見るとこういう動きだったんだなってはっきりわかるけど多分当時の人たちは僕らが今そのSKSとかセスとか見てる感覚なんだろうね。
まあそうなんでしょうね。 いや不思議だねこうやって見ると。 だからねこのネスレが登場したことによって哺乳用ミルクが登場するんですよ。
哺乳用ミルク。 いわゆる今あなたが哺乳瓶で子供にあげてるあれですよ。前回までの話で有害なミルクの一番の被害者は子供だったわけでしょ。そりゃどれだけの命が救われたことか。
相当の数救われたよね。 そうなんですよ。 ミルクかなり影響あっただろうからね子供に対して。
でコンデンスミルクもそれは当然本来の哺乳食品ではないですけど貧しい人たちにとっては高タンパク高脂質高カロリーのものですからね。かなりの命を救うことにもなったんだと思うんですよね。
そうだね。 捨てることなく保存ができますから。という感じですかね。どう前回に比べてだいぶ明るくなれたでしょ。
だいぶ明るくなれたしすごいいい話だったね。急展開がすごいけどね。 すごい希望が出てきましたね。ただですよまだミルク問題の根本解決にはなってないんですよね。
根本解決というと結局ロンドンの方はまだ公害は治ってないのか。 治ってないですしニューヨークでもネスレが作った粉ミルクやボーデンのコンデンスミルクは流通し始めてますがまだフレッシュミルクがフレッシュであるかどうかの問題は残ってるんです。
つまりニューヨークやロンドンで流通している肩書だけヘルシーフレッシュミルクってやつはあれは白い毒薬のまままだあるんですよ。
まだこれ1850年頃から1900年くらいの話ですからね。わずか50年くらいの話なのでちょうど裏側で前回の話が動いてるんですよ。
さらに次のステップではいよいよ本丸フレッシュミルクを本当に衛生基準を設けてきれいにしていく。健康的で飲めるようにしていく。そして今の我々がミルクを飲んでるかのように流通するようになっていくというそのチャレンジをしていく人たちがまた出てくるんですよ。
ああそうなんだ急に厚い話ばっかりになってきたね。
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ということでこれきっとこういう話みんなワクワクすると思って今まで1地域で1本内心2本でやってきたのを急に引き伸ばしたわけですよね。
そうね他が結構長かったのにここのところギュってしちゃったらね。
まあまあこのミルクのシリーズの一番のテーマはなぜ私たちは生でミルクを飲むようになったのかですから。
ああそうねここから急に変わってくんだね。
だからそれまでのモンゴルの話とかインドの話とか全部壮大である前振りですからね。
前振り長ぇな長かったね長かったけどあれを聞いたからこれが面白いよね。
だと思ってますよ。
ちなみに今ディスコードの方で裏で公開収録のチャンネルで収録してるんだけどコメントでゲイルボーデンさんの話がチラッと出てきて
グレさんはねボーデンってレディーボーデンとなんか関係してるのかなっていうので調べたところレディーボーデンとドンピシャでしたと。
ああそうなんだ。
そのボーデンなんだっていう俺も好きでレディーボーデンのいちごストロベリー味かあれが一番好きでさちょくちょく買ってくるんだけど
そのレディーボーデンの名前と一緒っぽいちょっと中開いてないからあれなんだけどこの辺はみんな調べてもらったんだけどそこも繋がりがあるそうです。
なるほどね。
いろいろ残りは残ってんだねまだね。
まあボーデン社はそのまま続きますからね。
そういうことね。
はい。
いやすごかったな。
楽しんでいただけましたでしょうか。
はい。
ということで今回はこの辺で終わりたいと思います。ありがとうございました。
ありがとうございました。
サポーター 無頭太郎の娘無頭花です。食べ物ラジオでは活動を応援してくださるサポーターを募集しています。もっと食べラジの話を聞きたいというそこのあなたサポーターになりませんか?詳細は概要欄またはホームページをご覧ください。サポーターコミュニティでお待ちしています。
はい、OKです。
やっぱ滑舌いいな。
サポーター めっちゃリリシース。
メルバラ。
サポーター なからず格好いいですよ。
大地魔王になれる。
44:38

コメント

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