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おはようございます。コーヒーでも飲みながらゆっくり考える時間の朝の言葉ラジオパーソナリティー タカーシーです。
今日は哲学の中でもとても有名な言葉を取り上げてみたいと思います。
皆さん聞いたことある言葉です。
デカルトの我思う、ゆえに我ありという言葉です。
この言葉とても有名ですよね。
そして一般的には、デカルトの方法序説という本に出てくる言葉としてよく知られています。
その後、デカルトは政策という本も出しているんですけども、
この中でもっと直接的に、私は考える、私はあるという形でも示しています。
ちなみに、我思う、ゆえに我ありというのは、
コギとエルゴスム、コギとエルゴスム。
呪文のように唱えておくといいですよ。コギとエルゴスム。
つまり、この言葉は単なる名言というよりも、
デカルトが自分の哲学の一番大事な場所で何度も確かみようとした中心の考えだったと言えます。
では、この言葉、我思う、ゆえに我ありというのは一体何を言っているのでしょうか。
なんとなく聞くと、考えることは大事だよね、とか、
人間は理性的な存在だよね、そういう意味にも聞こえるかもしれません。
でもデカルトがやっていたことはもっと切実なことでした。
彼が本当に知りたかったのは、絶対に疑えない確かなものは何かということだったんですね。
絶対に疑えない確かなもの、これは何だと。
そこでデカルトはかなり徹底したやり方をとります。
自分が見ているのは本当に正しいのか。
触れているものは信じていいのか。
今こうして起きていると思っていることももしかすると夢かもしれない。
あるいは自分は何かに騙されているだけかもしれない。
ここまでくると少し極端に聞こえますよね。
でもデカルトはここであえて極端になることで、
多分正しい。多分正しいではなくて、本当に揺るがない確実さを見つけようとしたわけです。
これがいわゆる方法的会議と言われる考え方です。
会議って疑うっていう意味ですね。別にミーティングするわけじゃないですよ。
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本当はここなんでこんなに方法的会議という方法を使っていたのかというと、
神様の証明をしたかったんですよ。
で、騙しているのは何かって悪魔ですよ。
ダイモン。デーモンではなくてダイモンという言い方になりますけども、
ダイモンが私を騙しているのではないか。
そんなことを考えていたんです。
話を元に戻しましょう。
疑うるものを一旦徹底し知りづけてみる。
世界も感覚も知識も常識も全部一旦保留してみる。
するとほとんど何も残らないように見えるんですね。
世界も怪しい。
身体というのも怪しい。
記憶も怪しい。
何もかも当てにならないように思います。
でもその時デカルトは一つのことに気が付くんです。
それは疑っているその私だけを疑えないという存在だということです。
どういうことかというと、
たとえ世界が幻だったとしても、
たとえ何かに騙されたとしても、
これはあくまで騙されていたとしても、
今、騙されているって考えているものはいる。
今、疑っているものはいる。
今、考えているものはいる。
だから全てを疑った先に最後まで残るのは、
思考している主体の存在というものなんですね。
思考している主体の存在。
ちょっと難しくなってきましたよね。
大丈夫ですよ。ゆっくりいきましょう。
これが我思うゆえに我ありという言葉の本当の重みなんです。
考えている限り、少なくとも考えている今の私の存在だけは打ち消せない。
そこにデカルトは最初の確実性を見つけたわけです。
この言葉の面白さは、
世界の説明から始まっていないところにもあります。
社会がどうか、宇宙がどうか、他人がどうか。
そういう大きな話の前に、まず今考えている私がいるという
とても小さくて、とても強い地点に戻っているんですね。
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哲学というと、遠い世界の話に見えることがあります。
なんか難しいことを考えているんでしょう?
私には関係ないよ。
この我思うゆえに我ありという言葉は、むしろ逆でものすごく近いんですよ。
世界の外側じゃなくて、世界の内側から始めている。
そしてこの言葉が今でも生きているのは、
私たちもまた日々たくさんの情報に揺さぶられているからだと思うんですね。
どういうこと?
ニュースもある、SNSもある、AIもある。
よくできた要約、最もらしい答え、素早い結論。
そういうものが次々に流れてくる。
そんな時代だからこそ、デカルトの鳥はもう一度響く気がします。
自分は何を本当に確かだと思っているのか。
何をそのまま信じてしまっているのか。
そしてその中で自分は本当に何を考えているのか。
AIは答えを出してくれますよね。
整理もしてくれます。説明もしてくれます。
でも考えるということそのものを引き受けるのはまだ人間の側です。
人間の役割です。
だから我思うゆえに我ありはただの有名な一説ではなくて、
自分の思考に立ち返るための言葉なんじゃないかなって思うんですね。
まあ世の中早くなりすぎなのかなーなんて思いますよね。
世の中が早くなればなるほど、人は考える前に反応してしまいやすい。
そんな、読んですぐ納得する。見てすぐ判断する。聞いてすぐ結論を出す。
なるはやで。
でもその早さの中で一回立ち止まって、これは本当にそうなのか。
自分はどう考えるのか。
今考えている私はどこにいるのか。そこに戻ること。
その意味でデカルトの言葉は古い哲学の一説というより、
むしろ今の時代のための静かな抵抗の言葉、
抗う言葉なのかもしれません。
今日は我思うより我ありというデカルトの言葉を取り上げてみました。
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途中なんかね、ちょっと難しい感じになってしまったかなと思うんですけど、
大丈夫です。ゆっくり聞いてみてください。
ちゃんと理解できますから。
疑えるものを全て疑った先にそれでも残るもの。
それが考えている私だとしたら、考えることは能力というより存在の真、中心。
そういうものなのかもしれません。
ということで今日はこのあたりにしましょうか。
なんか白熱したトークになってしまいましたが、
またね、コーヒーでも飲みながらゆっくり考える時間を一緒に持っていたら嬉しいです。
お聞きくださりありがとうございました。
朝の言葉ラジオ、パーソナリティ高橋でした。
それじゃあね、バイバイ、いってらっしゃい。