1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #183 神がいると「他者」が消..
2024-01-28 45:53

#183 神がいると「他者」が消える?デカルトやカントの「他者」の定義

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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00:05
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回も引き続き、他者とは何かというテーマをやっていきたいと思います。
はい、これちょっと違うかな。他者とは何かではない。うん。
え、違うの?
そう、他者とは何かと、他者をテーマに考えることは違うんだよね。
他者というものをテーマにはしているんだけど、その他者とは何かって言ったら、もう他者っていうものが前提になっちゃってるじゃない、それこそ。
あー、そういう意味?うんうん。
そう、だから、他者とは何かって言うと、何だろうな、その他者というものはそもそもあってそれを問うっていう感じになるんだけど、
やっぱり話していきたいのは、そもそも他者というものがどうして哲学のテーマになってきたのかって話なんですよね。
そう、そもそも前回の通り、哲学2500年の歴史がある中で、他者というものがある種、話題になってきたのはこの200年ですって話をしたと思うんだけど、
その間の1700年間くらい何だったんだよって話なわけだよね。
つまりは、それまでは哲学において他者というものは別に考えなくてよかったことなんですよ。
うーん、なるほど。
それでなんでとか、じゃあどうしてその他者というものが哲学的なテーマになってきたのっていうことが今回ちょっと実はお伝えしたことなんですよね。
あー、ぜひ知りたいとこそれ。
わかりました、すいませんです。
ちょっと訂正すると、前回から他者っていうテーマでやっていて、今回も他者っていうテーマでやっていきますよと。
そうですそうです。
とは何かっていうのは余計だったの?
余計だったんです、はい。
あー、恐ろしい。言葉は難しいし、たぶん本当にそう思ってたから。
うんうん、そうだよねそうだよね。
どっちもダメだ。認識も言葉もダメでしたね。
ダメではないんだけど、ちょっと雑談っぽくなっちゃうんだけど、やっぱり哲学というかそもそものみたいな話でいくと、
やっぱり他者とは何か、Xとは何かっていうようなことを問いたくなるじゃないですか。
なるなる、うん。
それも実はすごく前提があるとか、なんだろうな、無意識に縛られちゃってるよっていうことはでも大事かもね。
わー、そっか。これって何だろうと思った瞬間に、って何だろうって思わされてる可能性があることを。
そうそうそう、そうですそうです。
ちゃんと疑問に思わないといけないんだね。
思わないといけない、そう。
ただ、他者というものを考えた時点で存在というものを前提としているし、存在と何かということをやっている時点でそもそも非存在というものを考えていないしとか、
そういうふうなことがどんどん出てくるわけですよ。
そこまでスラスラとは言うと普通にいかないだろうけど。
なるほど。
とはいえね、そういうことがあるだろうっていう感覚を持っておかないと、特に哲学においてはすぐ罠にはまるよとか。
03:06
そうそうそう、そうですそうです。
なので、もちろん自分の頭でとか自分の素朴な感覚から考えるのも大事なんだけど、
ちょっとそれを横に置くというか、そうじゃない頭になるとか、そういうスタンスであるのも大事だよっていう。
実は改めて。
ちょっといいですね、ちょっと西洋っぽくなってきましたね、またね。
はいはい、いやいや、だから多分その感覚を並列で多分できてるような人たちが哲学者なんだろうね、きっと。
そうだね、とかそっちに行き過ぎちゃった人たちもいるみたいだけどね。
なるほど、むしろそっちの沼にはまっていくみたいなね。
そうそうそうそう。
まあ確かにあるかもね、それは。
いや、失礼しました。他者はという言葉でね。
そうですね、はい。
私はというテーマをですね、改め近代哲学というところから振り返っていくことで、ある種西洋哲学の復習にもなるしね。
そういうふうなことを今回はやっていけますぞという話ですと。
はい。で、前回もずっと言ってたけれども、デカルトですね。
彼がやっぱり近代哲学の祖というか、やっぱりそこから近代哲学が始まったぞみたいな話っていうのは当たり前になってるんですけど、
こうね、我を思うように我ありという言葉も、ある種哲学を知らない人でもやっぱり知ってるぐらい有名な言葉かなとは思いますと。
はい。で、いわゆるこの我っていうのが、ここで言うところの事故とか私っていうようなものなんだけど、
ゲーム中と違うっていう話はあるんですけど、一旦ここ置いといて。
ほうほうほう。
はい。我とか事故とか私っていうのは比較的同じようなカテゴリーのものですと。
でね、これをある種疑った上で我っていうものを見出したぞみたいな話があったと思うんですけど、
これを言葉としては方法的会議。会議っていわゆる疑うって話ね。
うんうん。
そういうふうに疑えるものを全て疑うっていう方法を取って物事を考えますよという形で方法的会議と言いましたと。
というふうなのはちょっと驚愕的な話なんですけど。
で、これをやるといわゆる他者っていうものはある種すぐ消えちるんですよ。
要は前回ちょっと僕も人がいっぱいいるところに行くと他者の存在とか重みが薄くなっちゃうとかって言ったと思うんですけど、
他者の存在なんて要は疑おうと思えばいくらでも疑えるじゃないかと。
まあね、はいはい。
これも人によってはいやいや別に他者なんてありありと目の前にあるじゃないかっていう話なんですけれども、
やっぱり他者っていうのはそういうふうに思い込ませられてるかもしれないとか、
要は例えば兄貴だと思ったことだけでは違う人だったっていう見間違いとかっていうのも全然普通にあるわけで、
そんなふうに要は確固たる他者みたいなものがあるというよりはやっぱりその時々立ち会われてくるものとか、
06:00
別にいないと思えば別にいないとして過ごすこともできる窓の鍵も閉めて、
全部家の中に引きこもっちゃったら他者なんて存在なんて消えちゃうんだとかっていうことは考えたらいわゆる疑えちゃうわけですよね。
なので、ある人とデカールとの方法的会議って話していくと他者っていうものはすぐに抹消されちゃいますよっていう感じなんですけど、
でもいやいやと結構この過去の話を覚えていただいている方がもしいらっしゃったら思うかもしれないんですけど、
デカールとは神というものを存在証明するじゃないかと。
やったね。内容は覚えてたけどやってた。
そういうのをやって、そしたら神っていう存在っていうのは要はいるわけだから、
神という他者はいたんじゃなかろうかというふうに思う方がいるかもしれない。
もういたらすげえというか、僕はこれは他の人の話を引っ張っているだけなんで、
僕はそこまで思いたいわけですよ、もちろん。
まあそうだね、神を他者と捉えるかって話だよね。
そうそうそう。というふうな論文から引っ張っているだけなんで、全然僕のオリジナルではないですって話だけど、
実はよくよく考えてみると、
実はデカールにおいて神っていうのは他者じゃないんですって話が書かれてたもんね。
なるほど。
どういうことかっていうと、
まさに我を思うように我ありだから、我というものから出発はするんだけど、
デカールとはそのすぐ後に神を存在証明しちゃうんだよね。
つまり、自分と神が分かれてるんだじゃなくて、
我というものから始めるとすぐに神というものに辿り着くと。
神っていうのは自分のある種根拠だから、
自分と神とか我と神っていうのは分かれてないんだよ、
イコールとまだ言わないんだけど、
結局我っていうものも神としての理性から出てくるから、
つまり別に存在するんじゃなくて、
神の中に自分も存在するっていう意味では、
自分と他者っていうようなふうにはならないんだよっていうのが、
デカールとの次元の話なんだよね。
なるほど、はいはい。
第三者がデカールとは、
さっきお話ししたね、神を存在証明したことをもって、
他者っていうものがいるんじゃないかと考えてるっていうのは、
想定だよと。
そうそう、早いと。
デカールとはそういうふうには言ってないんだよと。
だから、そういうふうに考えると、
他者っぽさが出てくるんだけど、
デカールとの段階ではまだ他者っていうものが問題にはならないっていう、
そういう次元で考えてるんだよね。
09:01
なるほど、そういうふうに神と自分というのを、
他者とはちょっと違う次元で考えてるよって話だね。
そうですよね。
信仰してるよって話だね。
そうだね、確かにまだ信仰してるというのが近いからね。
それが1700年くらいの話です。
続いて関東の話になるんだけれども、
関東っていうのは、
デカールとの方法理解義っていうツールを使ってるって話だと思うんですけど、
彼らは理性っていうものを、
ある種実践理性と純粋理性というものに分けて、
その中で物自体っていう、
理性では認識できないんだけど、
経験の基盤になる存在みたいな、
そういうものを考え出すんだよね。
それが物自体っていう存在って言ってるくらいだから、
これは他者じゃないから、
神は確かに他者じゃなかったかもしれないけど、
物自体は他者じゃないかと。
そういう風に考えてみても、
物自体っていうのは実は現実世界ではないんですよ。
そうなんだってか。
存在してるんだけど、現実世界じゃなくて、
ある種理性においてだけ捉えられる、
永遠近いとかって呼ぶんですらしいんだけど、
永遠近いにだけ存在するので、
それも理性の働きによって捉えられます。
そうすると結局それは自分の理性って話なので、
自分と他者じゃなくて、
自分の理性の中に存在する物自体っていう風になっちゃうんだよね。
なるほど。ちょっと時代が前後するかもしれないけれども、
ある意味実存主義に近いような感覚だって話だね。
物自体っていうものがいろんなところに存在してて、
それを認識するとかじゃなくて、
物自体っていうのは現実世界に存在しなくて、
あくまでそれは頭の中の話ですよっていう意味で、
他者ではないよねっていう感覚ってことだね。
そうです。他者とはならない。
実存主義はどっちかっていうと、
いわゆる現実の生きてる世界で考えるんだけど、
このカントの時代ではやっぱり、
現実世界とは違う英知界っていうものがあって、
そういう英知界のことを説明すると、
現実世界のこともわかるよねみたいな。
英知界っていうのが要はイデア的なものとして先にあって、
そこから現実世界っていうものを説明するっていう、
やっぱりそういう風なロジックがどうしても強いんだよね。
なるほど。ちょっとさっきのデカルトンにおける神みたいなものと近い感じなのね。
そうですそうです。
それをいわゆる普遍者とか絶対者とかって言ったりするんだけど、
そういう絶対者とか普遍的なものとか、
12:01
この世ではない世界とか、
そういうものを抜きには議論できないっていうのが、
やっぱりこの近代哲学の限界みたいな感じなんだよね。
なるほど。それは面白いよね。
やっぱり西洋の方が理論的というか、
あまり信仰がないみたいな感覚はあるけれどもね、
東洋と比べるとね。
割とこの辺は東洋の悟るとかと結構近い感覚ではあるのかもしれないよね。
信仰というものがある以上。
そうだね。
自然科学とかもやっぱり神とか、
信仰の端末を舐めた言葉もあるぐらいなので、
実はそれも見えてないだけで、
すごくキリスト教的なとか、
やっぱり宗教的な世界観っていうのが根っこにあるっていう話は聞いたりするけどね。
なるほどなるほど。
とはいえね、その上に乗っかってくる論議自体はやっぱりとてもすごいって感じだよね。
それは仏教でもその世界観の中でっていう話ではあるけれども、
そこはこちらもすごいって話だよね。
そういうふうに。
やっぱりそういうふうな批判というかね、
指摘はできるのもやっぱり僕らがそうじゃない世界に生きてるかっていうのはそれだけなんだよね。
なのでデカルトもファントもそうだし、
あるいは取り上げたヘーゲルっていう人もいたと思うんですけど、
近代哲学の頂点と言われた人も、やっぱり他者の問題は出てこないんですよね。
そうなんだ。
そういうものの種は見えるんだけど、
それを表面から取り上げて、
他者とそれこそこういうものだとか、
他者について考えを得たことはあまりしてないようですと。
それはやっぱりさっき言った通り神とか、
物自体とかそういう絶対的なものがいるから、
やっぱりそこと自分っていう感じになっちゃうと、
結局その他者というものが入ってくる隙間がないみたいな。
だってみんなが同じ我とか同じ理性というのを持っているんだったら、
結局それぞれの理性というのを働かせて、
不変者というものを認識すればOKという感じになっちゃうから、
他者と自分みたいなところのある種の違いを考える必要がなくなっちゃうんだよね。
確かに同じコミュニティを我々と表現するとすれば、
あまりその中で差異を作る必要性というのもないのかもしれないね。
そうなんです。
例えば別の国とか、敵対するところは、
他者というよりは敵じゃん。
そういう意味で国がもうちょっと大きかったかもしれないね。
そう、それもあると思う。
前回、他者の定義について、
いわゆる到達できない無限の差異みたいな言葉を取り上げて、
15:01
分かんないですよねって話をしたと思うんですけど、
常に毎回言ってくれた通り、
そもそも差というものを認識しないと、
他者というものはありえないというか、
そこはニワトリ卵みたいな話なんだよね。
他人だから差を認識するし、
差があるから他人だと認識できるみたいな。
そもそも差というものを問題としないというか、
神と自分とか、絶対者と自分というふうになった時に、
自分と他者というものの差というのは、
すごく小さいものというか、
俺たち家で住んでたのかもしれないね。
そう、俺たち家で住んでたのかもしれないね。
そういうふうな話だったんだと思うんだよね。
なのでそれがいわゆる啓蒙思想みたいな感じになっちゃうんだけど、
正しく認識すればみんな同じ認識とか、
理性に到達するみたいな話っていうのも、
そういうところに起因しているというか、
そういうところの世界観だからこそ行われてくるんだよね。
なるほど、この啓蒙思想っていうのは、
一旦個人主義みたいなものがあってから出てきた言葉なのかな、啓蒙というのは。
元々こういう時からあったのかな。
元々はあったんじゃないかな。
結構やっぱり一人一人の自覚を促すというよりは、
やっぱりより正しい認識をみんなしようぜみたいな意味合いもあったから。
なるほど。
そう。
ところでこういう時代の流れがありましたっていうのが、
この近代という話だよね。
じゃあどんなところから他者の問題が明確に哲学的になってくるかっていうと、
これもいろんな話では多分あるんですけど、
大きなものとして取り上げられがちなのはやっぱりフッサールの現象学なんだよね。
フッサールも以前やってたかなと思うんですけど、
彼はいわゆるカントの議論と結構発展させるんですけど、
この一言で言うと、そのカントの議論はやっぱりこの現実の世界というか、
そういうことは実存主義の根っこにある感じなんだけど、
私にとって起こっていることっていうのは、
どんなものとして現れているんでしょうかっていうことを明らかにしようとするんだよね。
カントっていうのはその経験っていうものをある種そういう、
英知界みたいな理性の世界から引き下ろして経験するとは何かっていうふうに考えるんだけど、
フッサールっていうのは経験っていうそのものがどういうふうな、
まさに現象、まあ現象学って言われるぐらいなので、
現象なのかっていうことを考えますと、
もっとわかりやすく言うと、例えばさ、
いわゆる、よくさ僕目の前にパソコンがあります、マイクがありますとかって、
有し存在しますよねって存在の時に言ったと思うんですけど、
あくまでもその存在するっていうのは、
やっぱり私にとってどんなものとして現れているかっていうことと、
18:02
きっと切り離すだよねっていうふうにフッサールは言うんですよね。
単独でマイクとかパソコンっていう存在が自分とは無関係にあるじゃなくて、
自分とパソコンとか自分とマイクっていうふうなもののある種関係というか、
そういうふうなものっていうのってある種切り捨てちゃダメだよねっていうふうに考えていきますと。
何がいいかっていうと、
要は近代の哲学が陥ったような不変性とか絶対者みたいなものに囚われなくてよくなるんですよ。
ああ、そうなんだ。神からの脱却的な話が可能になるみたいな。
そうそうそう。
なんとかっていうと、別に神っていうものを前提しなくても、
それとも自分にとってこの目の前のマイクというものはこういうふうに存在すると言えるっていうことで、
世界をある種記述できちゃうというか、説明できちゃうんだよね。
なるほど、そっかそっか。はいはいはい。
だから、自分の世界にとってマイクとは何か、パソコンとは何か、
このソニックスラジオとは何かっていうことを課されるようになるから、
そこにおいて神とか絶対者とか理性とかっていう、
理性は一応世の中をどう認識するかっていう意味では役立つんだけど、
それに対して自分以外の存在っていうものを、
ある種想定とか根本に置かなくて済むようになります。
あー、その話だったか。ちょっと聞き直さないとな。
ちょっとその、ミュージシャン君のときにそこまでの話をしたかは忘れちゃったんだけども、
もともとそういうふうな発想からして行われているものなんだよね。
で、そこにやっぱりおつじゃっていうのが出てくるんだけど、
つまりね、自分と同じように他者もさ、
要は自分なりの世界っていうものを立ち現れていって、
どんなふうにマイクとかパソコンが自分の世界にあるかっていうことを考えることは多分できるよね。
なのでここで初めて自分のこういうふうに立ち現れた世界と、
他者が立ち現れた世界って何が違うんだろうみたいなことを考える種が出てくるんだけど、
それはちょっとまだ行き過ぎで実は。
その手前で起きてくるのが要は、
他者においても立ち現れているはずの世界っていうものが、
どうやって自分、私の世界に立ち現れてくるかっていうふうなことなんだよね。
前回のサルトルの話とかもやったと思うんだけど、
要は自分の世界の中に他者がいるってやっぱり不思議な現象で、
例えば僕の世界に今姉貴が立ち現れてくるとしたら、
僕の世界に立ち現れた姉貴の中に姉貴の世界が現れてくるみたいな、
なんかこういう入れ子構造というか、
21:00
なんかそういう不思議な現象が起きるんじゃない?
そうだね。
合わせ鏡みたいな感じでどんどん伸びる。
そうそうそうそう。
しかし、2人なら悪いけど3人に分かってくると、
僕の中に現れてくる姉貴の中にいるAさんの中のBさんみたいな、
その中にどんどん不屈になっていって、
しかもそれは自分はどうやって認識するんだみたいな、
ここに初めて自分が他者の世界を認識するとか、
自分が他人の心とか意識を認識するっていうふうな問題が、
初めて出てくるんだよね。
というところで、やっと神とか絶対者みたいなものから離れた時に
初めて他者っていうものの自分との差がやっぱり大事になってきますよと。
なるほど、確かにそうだね。
確かに神と我々の段階では必要ないんだ、他者っていうのはね。
そもそもね。
はいはい、面白い。
好きなような感じなので、ここに来て初めてっていう感じなんですけど、
フッサールはどんなふうに考えましたかっていうと、
自分自身は自己移入とか感情移入みたいな言葉を使って考えますと、
感情移入って言うと世の中的に誰かに感情移入するとかってなっちゃうから、
ちょっとニュアンスが分かりにくくなっちゃうんで、
感情移入っていうちょっと分かりにくい言葉を使うんだけど、
どういうことを言ってるかっていうと、
自己と他者っていうのは確かに違うよなと。
そういうふうに感じられますと。
それは自分の世界というものを感じるときに、
自分と他者、僕と兄貴っていうのはどうやら違う存在として、
やっぱりどうしても考えられますと。
ふんふんふん。
実はそれっていうのは体とか外見とか似てるからに他ならないんだっていうふうに
ふっさわりは考えるんだよね。
ふんふんふん。
同じとか違うとかっていわゆる似ている部分がないと、
そもそも同じとか違うって判断をしたいと思わないと。
要はマイクと自分は同じですかとかってそもそも考えないじゃん。
あー確かに。
それはやっぱりマイクと自分は似てないからなんだよね。
はいはいはい。
逆に、
等身大の人形と自分は似てますか、
同じですかっていうと、
ちょっとそれは考えたくなる。
なぜならそれは身体的に似てるから。
ふんふんふんふん。
っていう話で、
僕と兄貴っていうのは、
それこそ椎茸とか男性であるとか、
日本人であるっていう意味でやっぱり似てる。
同じような人間だという風に感じられると。
ふんふんふんふん。
そうすると、
自分と同じように兄貴も感じているとするならば、
自分が兄貴の視点に立った時に、
きっと兄貴はこういう風に世界を立ち現せているだろうということは考えられるっていう。
24:05
要は他人の視点に立つとか、
兄貴として考えるということができるよねっていう風に考えられる。
これがちょっと当たり前すぎるというか、
あんまり問題解決になっていないという風に感じるんじゃないかと思うんですよ。
ふんふんふんふん。
実際そうで、結構後世の哲学者からの評判は悪くって。
あ、そうなんだ。
これなんでかっていうと、
他者っていうものをせっかく考えたのに、
他者っていう問題から、
他者を追い出している。
要は自分が、
要は他者っていうものの問題を、
自分の問題にすり替えちゃってるんだっていう風に批判されてるんだよね。
なるほどね。
せっかく他者って出現したのにね。
あ、そうそうそうそう。
そうなんです。
ちょっと今入り組んだこといろいろ言っちゃったんだけれども、
結局やっぱりその、
自分の世界に入って、
自分の世界に入って、
自分の世界に入って、
自分の世界に入って、
やっぱりその、
自分の世界って考えてる限り、
やっぱり他者の問題ってのは、
ちゃんと扱えないよねみたいな。
ふーん。
しかも前回と通り、
そもそも身体は分かるし似てるけど、
心は分からないっていうのは、
デカルトのやっぱり心身二元論に囚われてますよね。
っていう風な批判もやっぱり受けちゃうんだよね。
まあね、うんうん。
確かに確かに。
人間で身体と心が分かれてるんでしたっけ?
心とか精神でも理解しないと人を分かったことにならないんでしたっけ?
っていうものはやっぱりあって
いやーそうだね あとはさっき言った
似てるからこそ才利が気になるみたいなものも
ちょっと難しい気がするよね
そこはなんかさっき納得した
神と我々と次のさ
自分と他人みたいなところの
根本的な解決がなってなさそうだよね
それで言うと昔からあっても良さそうじゃん
他者っていう感覚って思っちゃうからね
だからやっぱり流走教的なというか
神との関係っていうものがあったときに
発展進化というか
いわゆる中世は暗黒時代だみたいな話で
ちょっとそれは違うよとは言ったと思うんですけど
中世中学のときに
やっぱり神とか絶対者っていうのが強すぎて
その前提から超えられなかったっていうのは多分あったと思うんだよね
これ以上掘り下げられないっていうところが決まっちゃってるってことだもんね
そうですそうですどうしても枠ながら叶わなきゃいけなかったから
27:01
やっぱり仏教とかそれを超えて
神とか絶対者っていうものからは自由には一転になってるんだけど
そこの殻破ったところで力尽きたみたいな
すごいことなんだけどっていう
そうなんだけどやっぱり
いわゆる心と体とか精神と理性っていうのが違うみたいなところの
感覚を引きずってたよねっていうようなことが
やっぱり高生の人からすると
言えちゃうよねみたいな感じらしい
怖いな
どんな天才でもねそりゃね
100年100年経ってます
そうなんですそうなんです
逆に言うとそういうところまで議論が及ぶというか
それそもそもの
それって精神と身体っていうのを
分けちゃってるじゃないかみたいな話まで
初めて本当の意味で他者の問題とか
他人にとっての我
でかいとか我を思うゆえに我ありって言ったんだけど
他者にとっての我って何って話が
初めてやっぱりこういうテーマにして出てくるみたいな
なるほどね批判してる人はこの仏祭りが作ってくれた土俵の上で
ただ相撲をとっておりすぎないっていう話だね
それもあるっていう感じ
仏祭りがそういうのを切り開いてくれたからこそ
そういう批判もできますよみたいな
そういう話ではあるんだけど
なので冒頭にさやっぱり
他者とは何かじゃなくて
他者をテーマにしてるんだって話をしたと思うんですけど
それがまさに今言ってきたような話なんだよね
はいはい確かにそうだね
ここまである種西洋の実学が進んで
初めて他者とは何かっていうのを問う土台ができるというか
やっと土台だもんね
そうそうそうやっとですやっとですとか
そういうことを議論して意味があるよねっていう風に思える
そういう時代になったって感じなんだよね
そうだねだし歴史的にというか
さっき言ったハヤトがさ
環境的にも災害が生まれてきたからこそ
他人が生まれてきたからこそ
それが話題になるというか
認識されるっていう部分も含めてってことはね
そうですそうですそうです
だからねこれもちょっと余談っぽくなっちゃうけど
やっぱり問題発見が一番難しいみたいな
やっぱりそもそも問題を解くことよりも
何が問題かを見つけることが難しいみたいな話ってあると思うんですけど
まさに他者ってもそうだよね
これまでは全然問題にしなくてよかった
問題にならなかったものが
初めて他者とは何かとか
他者というものが実は自分にとって大事なんじゃないか
ということになってくる
やっぱりそういう瞬間
瞬間って言ってもいろいろ積み重ねられたけれども
そういうものが思想の流れの中にある
こと自体は結構ね僕としては面白いなって思うんですよね
30:03
いやーそうだねなんだこれって思った人はいたわけだもんね
フッサールはそこにきちんと答えを出したって話なんだもんね
そうそうそう
逆に言うと普通のものを問題にしなくてよかった人間
ってものを考えることができるんだよね
ここで初めて
例えば500年前の西洋の人について考えると思ったときに
彼らはやっぱり今の自分たちとはそういうことがそもそも違った
そして考えるとやっぱり見えてくるものがあるというか
やっぱり今の自分たちの考えというのも当たり前じゃないか
ということもやっぱり気づくなって思うんですよね
なるほどそうか
他者の範囲って話だね
今生きている人たちを他者と捉えるのか
500年前も遅れて他者と捉えるのかみたいな話で
そこはねまたね
そうです
みたいなことを考えちゃうからいつも話が止まらなくなっちゃうんだけど
ちょっと先に進みますと
ここで初めてそもそも他者とはみたいなことが捉えるようになってくるんですけど
そういうふうになってくると実は
ここからは問題が爆発的に増えていくみたいな話で
要は例えば
他者っていうものをふらって考えればいいんだけど
前回も言った通り
事故と他者っていうけど
そもそも自分と他者って分けれる存在なんでしたっけ
みたいな話も出てきたりとか
そうするとふっさがったように
自分っていうものを通して他者を理解するという風に考えちゃうんだけど
そもそも自分がどう他者を理解するかっていう
問いの立て方が違うんじゃないかっていう風な話も出てくるし
要は理解できる
例えば自分が算数の計算を理解するとか
ある意味理解の使い方を理解するというと
同じ意味で他者って理解できるんでしたっけみたいな話なんだよね
なるほどあれだね
今回最初に言った存在とは何かがテーマで
セイターと同じような問題が起こるってことだね
おそらくそう
なのでやっぱ存在とは何か
今例えばアニキュラとはどんなふうに近いだと思った
やっぱり存在とは何かって問うた時点で
存在っていうものがあることが前提になってしまうとか
そうだね
わかるわかる
色眼鏡とか存在についてまつわっている
いろんな前提とか常識っていうのが別についちゃう
っていう話に思ったけどあってるかな
そうそうそう
そういったものを自分で考えたことじゃなくて
そういった常識っていうものの中の枠の中だよね
その時の枠の中でしか考えられない状態に
33:02
自分を追いやってるんじゃないかっていう
本当そう本当そうです
やっぱり他者とは何かって言った瞬間に
やっぱり他者と自己が違って
自己っていうものを他者も理解するっていうふうな枠組みに
やっぱりガチってはまっちゃうんだよね
なので今言ったように
そもそも自分と他者っていうのは
どんな違うのかとか
あるいはそもそもさっきの通り
理解するっていうことができるのかみたいな
はいはいはい
それってやっぱ機械とかとも違う話もあるし
やっぱり理性とか認識っていうレイヤーで捉えるのが
そもそも間違いで
さっき何か言ってる通り
そもそも実生活
だから前回からこれを言ってくれたけど
倫理とかやっぱり正義とか愛とか
そういうふうなものとは切り離して
他者っていうものを考えられないんだみたいな
そういう話がもちろん出てくるわけではね
おもしろいね
そこはおもしろいと思う
そうそうそう
そこもぜひ次回やりたいんですけど
あとはね
みんな大好きウィトゲン社員
言わせればやっぱり
他者についての我みたいな話っていうのは
他人の心っていう要素が
言葉の上でしかないもの
本来存在しないものを表現しているために
生まれている擬似問題だから
そのものは哲学の問題ではありませんみたいな
なるほどそっちに分類されちゃうんだね
そうそうそう
そういうことも言えちゃいますよと
そんな感じで
他者っていうものはテレワークの瞬間に
こんなふうにいろんな切り口が出てくるから
問題が爆発するみたいな
のが起きておりますよというのが
現代哲学の話とか流れですという感じなんだよね
なるほど
はい
やっぱり僕らが他人とは何かとか
他者と自分っていうものを
当たり前だよね常識だよね
言えるのもやっぱりこういう流れがあったからこそというか
こういう土台の上で考えているからこそ
まあそうか誰か一人じゃないけどね
具体的にはフッサールが
そこからを破ってくれたって話だからね
今回の話で言うと
もちろん他の人もいるし
全然違う人の名前もレベルでも上がってはいるんだけど
はいはいはい
なのでもちろんねこう
さっき言ったような問題に対しても
例えば自分と他者って区別できないとか
っていうのに対してさらにね
事故とか他者ってやっぱりこう
理解できることの差はあるよ
自分については知ってるけど他者について知らないことはあるとか
それしか解消しないよね
問題を解決してはいないよねみたいな話とか
あとは実生活について考えようって言った瞬間に
これもまさに兄貴が言ってくれたんだけど
他者って言ってもいろんなレイヤーがあるじゃないかと
例えば異性もそうだし
あるいは世代間もそうだし
36:00
さっき言ったように500年前の人間と今の人間みたいな
他者もあるし
異文化とかね
いろんな質問中は他者がいるけど
それってどう扱うんですかみたいな
逆にこんな問題が出てくるじゃないかみたいな
確かにそうだね
話もあるし
やっぱり一個のテーマが定まると
あるサブテーマというか
いろんなものが出てきて盛り上がっていきますよという感じなんだよね
なるほど
確かに他者をどう定義するかでいろんな話ができてしまう
そうなんです
本当にこの最先端がどうかみたいな話は
僕もちょっとわからなくて
ご存知の方がいたらぜひ教えていただきたいんですけれども
いずれにしても
他者というものを巡る問題というのは
デカルトとかカントとかヘーゲル
という間の170年
もちろんその手前のいわゆる中世といわゆる時代とか
というのはもちろんほとんど扱われませんでしたという風に
言われているんだけど
ただフッサル以降の200年というところで
ここまで広がりを持つようになりましたと
同じ170年とか200年という時間の流れなんだけど
カントとかヘーゲルの間は発展しなくて
フッサル以降は発展したということも含めて
やっぱり一つの思想とかテーマというものが
どんな風に広がっていくとか
扱うようになるかというのは
すごく面白い流れなんじゃないかなという風に思うんですよね
そうだね私
最先端の他人論みたいなのは
分かんないね
まだ終えてない
多分ね僕はそれが勉強と時間不足って感じです
あーはいはいはいはい
そこまで手を伸ばせなかったな
もちろんね日本人での
広松さんっていう有名なコラボ作者がいて
これはもうなくなった方だけど
そういう人もサシャについて考えている
らしいぞというところまでは掴んだんだけど
広松さんが何を考えたのかとか
広松さんの思想に影響をしているだろう
西田競馬の哲学がどうかとか
そこまでは無理だよね
なるほどあと海外ではさらにまだあるだろうし
みたいなところで含めるとということはね
なるほどなるほど
それはそうだよね
ウィトリエンシュタインだけで一生過ごす人もいるのは
哲学者みたいな話でいくと
30年ウィトリエンシュタインのことをやって
やっと分かってきましたっておっしゃる方が
おられる世界のコミュニケーション
これはね無理だよね
そんな簡単に最先端の今これですとか
全部網羅するのも一苦労って話だね
そうですそうです
みたいな感じで今回他社というものが
どんなふうに取り扱えてきたのか
テーマとしてそれになったのかという話をしましたけれども
どうでしたか聞いてみて
39:02
最初の話に戻るとあえて言うけどさ
なかなか他社とは何かってところまでたどり着かないね
たどり着かないね実は
なかなか今回も他社についてだったもんね
そうそう他社についてだねあくまでも
他社が生まれた背景みたいなやつを話したもんね
そもそも論って本当は難しいのよ
これは結構声を題名して言いたい
世の中的にそもそも論を考えましょうとか
という記事とかもよくあると思うんだけど
ネットとかで調べるとね
言ってもそもそも論って全然そもそも論じゃないよね
っていうふうに思ったりするのよ
1個か2個とかあと3回なぜか繰り返したくらいで
そもそも論にたどり着いた気になるなと思いましたね
これは次回も込めてなんですけど
やっぱり深く考えるって難しいし
そんな生半可なものじゃないよなと
やっぱり僕は深く考える人になりたい
というふうなことで人よりも優れていたいって
エゴがあるから
そこを引き続き頑張っていきたいし
まだまだ自分の足りないから
深くある種考えるようになったことを
皆さんにちゃんと伝えることまで潜ったからこそ
見えたことを伝えることには
意味があるんじゃなかろうかと思っているわけなんだよね
なるほど
その部分においてはっていう話だよね
深く考えることで他人より優れているじゃなくて
深く考えることにおいてはっていう
自分の頭で考えるどうみたいな
そういう話があった時の話ね
人より優れていたいじゃなくて
深く考えることにおいては
人よりも優れたものを持っていたい
そういうスキルや経験を持っていたい
だからもちろん
まだまだ浅いよって
それはその通りだし
だからこそやっぱりやりたいとかやれることがある
って思っているわけですね
他者とはないかまで全然たどり着かないけど
他者っていうテーマが
こんだけ意外と最近だなってのもあるし
ただそれもそうだっていう話だし
ネルキューシェ君とは確かに
フランス革命である程度人権だったりとか
そういう個人みたいなものに
それぞれ我々じゃなくて
光が当たるというか
人々が築いていくみたいなところで言うと
1800年とかだからね
そう考えると確かに
他者みたいなものがちゃんと認識されて
もしくは紙とか書いたときの他者っていうのは
異端?異教徒とかだったかもしれないですね
42:02
他者っていうのが
今から考えると
ざっくりとしたというか大きなカテゴリーで
他者ってものが認識されてたかもしれないですね
あると思う
階級みたいな
貴族と平民と
そこら辺の次元が
細かくなったのか何なのか
変わったっていうだけの話で
より他者ってものが
一人一人の人間にとってだよね
なんかのリーダーだけじゃなくて
一人一人が他者ってものを認識し始めてより
本当に短いなってきたからこそ
語られてるんだなみたいなところが見えてきたね
そもそもって大変だね
他者ってこと知りたいのにさ
全然たどり着かない
だからね
僕にそこに気づけてよかったなと思うし
そういうのを直してくれてるのは
嬉しいなと思う
確かに
今まではその人が何をやったかみたいなところで
あれにその人の人となりにすぐたどり着いたし
その人が何を乗り越えたかったか
それに向かってこういう論理をやってたっていう意味では
知識を教えてもらっていて
それは楽しいなっていう覚悟もあったけれども
たどり着かないしそもそもって
そこの捉え方みたいなのは面白いね
そうですね
これは苦しくないぐらいでやっていきたいと思うので
次回はやっぱり抽象的な話とか
まだまだたどり着かないって思うのも辛いと思うので
具体的に先に
さっき言ってた倫理みたいな話とか
その中でどういう風に立ち上がってくるんだっていう
その名前だけ前回出したレビナスっていう人の話
っていうのをやっていこうと思うし
さらに次はブーバーっていう人が考えた
我と何時っていう自分
どう生きるかとかどう世の中に自分として
あるべきかみたいな結構そういう話に近づいてくるので
助かりますね
僕もやっぱり他者っていうものを抽象的に知りたいというよりは
前回の話の通り
自分と他者っていうものがどう関わり合って生きていくのかとか
その関わり合いっていうのはどんな意味を持っているのかっていうところが
興味関心の肝ではあるので
そういうところでちゃんと次回以降はお伝えしていきたいなという風に
思っている感じですね
分かりました
今回他者の追い立ちを見てきたからね
今どういう話を具体的にされているのかとか
自分たちの生活にどう密着してくるのか
45:00
みたいなところまでいけると
しっきりするかなと思う
間違いない
次回以降より具体的に
次回はもう言っていいのかな
存在とは何かみたいなものを見ていくって言えるのかな
次回ぐらいになると
他者というものは
自分にとってどういうものであるか
ぐらいまでは言っていいかな
分かりました
次回も他者をテーマに直しにいきたいと思いますので
引き続きよろしくお願いします
今回もありがとうございました
45:53

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