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#22 ルネ・デカルト「我思うゆえに我あり」
2023-06-20 29:36

#22 ルネ・デカルト「我思うゆえに我あり」

「近代哲学の父」ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」は、デカルトの言葉としてもとても有名。では、デカルトはどのようにして、その言葉に辿り着いたのでしょうか。デカルトの足跡を辿りながら、デカルトの思想を知り、その後の時代に与えた影響を見ていきましょう。 #哲学  #デカルト #近代 #近代哲学 #物理学 #科学

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どうも、身のない話チャンネルのタカーシーです。
今日はトマス・ホップスに続き、
近代哲学の祖、近代哲学の父と言われるルネ・デカルトについてやっていこうと思います。
ルネ・デカルトは、私が哲学をやる上で、初めて読んだ哲学者の一人でもあります。
すごい思い入れがあるので、やろうと思えば1時間でも2時間でも喋れるんですけど、
そんなに長く聞いてもいられないので、何十分から25分の間で、どうにか納めたいと思っています。
それではやっていきましょう。
歴史上、哲学史上、最も影響力のある哲学者の一人であるルネ・デカルト。
彼が哲学、数学、科学の領域に与えた永続的な影響力を今回は探っていきます。
1956年3月31日、フランスのトゥルネ県ラヘイというところに生まれたデカルトは、しばしば近代哲学の父と称されます。
デカルトはイエズス海師官学校のラ・フレッシュカレッジで、幅広い分野にわたる総合的な教育を受け、知的な業への道を歩み始めます。
この全人的な教育、幅広い分野にわたる教育というのが、後の彼の画期的な思想の基礎となります。
デカルトの初期としては、科学革命の知的熱狂というものに非常に興味をそそられていました。
この科学的・哲学的な覚醒の時期は、彼の思考を形成する上で重要な役割を果たしています。
デカルト自身、観察者、要は単純に結果を見ていただけではなくて、時代の流れに積極的に参加しました。
要は、科学的なもの、哲学的なものに自ら参加していったということですね。
デカルトの知的発見は、確実性と真理を求める旅に出た時、極めて重要な転機を迎えます。
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彼は一般的な知識に不満を持ち、自分の信念の体系を構築するための確固たる基盤を求めていました。
そのため、デカルトは、懐疑という方法を導入し、それまで信じていた信念に体系的に挑戦して、疑いようのない真理に到達することを目指しました。
この方法的会議というものを説明していきましょう。
幼児の時から無批判に受け入れてきた先入観を排除し、真理に至るためには、一旦全てのものをデカルトは疑おうとしています。
この方法的会議論の特徴として、2つ特徴が挙げられます。
1つ目は、会議を委ねることに本人が意識的・仮定的であること。
2つ目は、一度でも戸惑いが生じたならば、すなわち少しでも疑わしければ、それを完全に排除すること。
つまり、方法的会議論とは積極的会議のことである。
積極的じゃなくて、もうちょっとでもこれどうなんだろうと思った時には、排除していくという考え方です。
この強力な方法的会議は、もう何も確実であるとは言えない。
もう何も確実であると言えるものはない。
そんなところまで続けられます。
まず、肉体の与える感覚、外部感覚はしばしば間違うので、偽と書いて偽と言いますけども、偽とされます。
また、痛い、甘いといった内部感覚や、自分が目覚めているといった自覚すら、
覚醒と睡眠を判断する指標は何もないことから、偽とされます。
さらに、正しいと思っている場合でも、後になって間違っていると気づくことがあるから、計算、2足す3は5、1足す1は2のようなものも排除されます。
僕たちにとって、そんな計算なんて当たり前じゃんと思うかもしれないけども、デカルトにとっては、この計算すらも排除されます。
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そして、究極的に真理の厳選である神が、実は欺く神で、自分が認める全てのものが悪いで、悪霊、悪霊の策略に過ぎないかもしれないとされ、このようにあらゆるものが疑いにかけられることになります。
この方法的解議論の特徴は、当時の哲学者としては、ほとんど初めて表象と外在の不一致を疑ったことにあります。
対象が意識の中に現れている姿を表象と呼びますが、デカルトは観念、異例と呼んでいます。
これは、プラトンやアリストテレスにおいては、外在の対象と一致すると思われていました。
しかし、デカルトは、方法論的解議論を推し進めることによって、この一致そのものを問題に付したのであります。
かなり疑わしい、というか全てのものが疑わしい、神様すらも疑わしい、真実だと思うものは悪霊の策略だ、そんなふうに考えたんですね。
この会議の枠組みの中で、デカルトは有名な命題、古義とエルゴスム、我思うゆえに我あり、I thinkI am、というものを打ち立てました。
この命題は、デカルトの哲学体系の根幹を成すものであり、思考する存在である自分自身の存在を確信するものでありました。
この命題を基に、デカルトは自分の知識を再構築し、神の存在を証明し、さらには現実そのものの本質を問うことを目指したのであります。
古義とエルゴスム、我思うゆえに我あり、私が考えている瞬間その時だけは私がいる、ということですね。
ずっといるわけじゃないんですよ。
私が考えている瞬間は、神も悪霊も存在しない。私が考えているその瞬間だけはいる、ということを指し示しています。
そして神の存在証明ですけれども、欺く神、悪霊を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは3つの証明の存在証明を行います。
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第一証明としては、意識の中における神の観念の無限な表現的実在性、観念の表現する実在性は、対応する系層的実在性、現実的な実在性を必然的に導く。我々の知は常に有限であって、間違いを犯します。
しかし、この有限であるということを知るためには、まさに有限の観念があらかじめ与えられていなければなりません、というふうに考えました。
第二証明として、継続して存在するためには、さっきコギトエルゴスムで、私が考えるその瞬間だけと言いましたけれども、その瞬間を継続しなければいけないんですね。
瞬間を継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にはないと考えたわけです。
第三証明、完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。これはアンセルムスをやりましたけれども、アンセルムス依頼の証明です。
完全な神の観念というのは、神の存在そのものが、保持する力が必要だと言っているんですね。
悪い例、悪霊という仮定は、神の完全性、無限性から否定され、誠実な神が見出されます。
誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的解議論によって退けられていた自己の認識能力は、改めて信頼を取り戻すことになるわけです。
ここまで来ないと、自分自身のことを、自分自身の存在を証明できない。神がいる、それも欺く神でもなく、悪霊によって、これは存在するんじゃないのっていうような形で誘惑されてきたものも排除した上で、
神の存在を認識したことによって、自己の認識能力が信頼を取り戻すことになるわけです。
物体の本質、そして存在の説明も、デカルト的な自然観というものがあります。
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デカルト的な自然観を考えるための準備として不可欠なものがあります。
3次元の空間の中で確保される性質、3次元というと幅、奥行き、高さ、すなわち延長こそ物体の本質であり、これは解析的、科学的的手法によって把握されることになります。
この延長という言葉は非常に重要です、デカルトの哲学において。
延長されたもの、元から延長されたものが物体として存在するんだということ、言ってる意味わかります?
言ってる意味わかんなくなってきたでしょう。
物体そのものじゃなくて、物体の延長こそが物体の本質なんだっていう話なんです。
一方、物体に関する感覚的条件、熱いとか甘いとか臭いとか、そういうものは物体が感覚器官を触発することによって与えられる。
何ものかが与えられるためには、与えるものがまず持って存在しなければならないから、物体は存在することが確認される。
感覚的条件を与えるものがあるから、私たちは感覚的条件、熱い、甘い、臭いというものをやっと手に入れる、感じることができるということです。
しかし、存在するからといって、方法的解議論によって一旦知りづけられた感覚によってその本質を理解することはできません。
じゃあどうすればいい?
純粋な数学、幾何学的な知のみが外在としての物体と対応する。このことから考述する機械論的世界観が生まれます。
後で機械論的世界観というのも説明するので、ちょっと待っててください。
デカルトのこの明石判明の規則というのは、存在証明によって絶対確実な信念をもって適用され、さらに物体の本質と存在が説明された後で、明石判明に知られる数学的力学的知識はそのまま外部に実在を持つことが証明されます。
結果、数学的力学的世界として自然は理解されることになります。
世界というのは、この数学的力学的世界をもって実在を明らかにされるのであります。
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感覚じゃないんですね。今までの論理、単純なる言葉遊びじゃなくて、数学的な力学的な説明をもって実在というものが明らかにされるわけです。
1641年出版されたデカルトの代表作として、精察というものがあります。
精察は彼の方法論と哲学的洞察を証明するものとなっています。
この精察という代表的な著作の中で、デカルトは読者を自生と試作の旅に誘い、自らの信念を疑い、真理への道として疑いを受け入れるように読者に挑んできます。
だから、単純に読むだけじゃなくて、そうじゃなくて、真理への道を歩むためには疑いを受け入れろ、懐疑することを受け入れろと言っているわけです。
デカルトは精察の中で、神の存在、外界の性質、精神と肉体の関係についての根本的な問いに取り組んでいます。
デカルトは厳密的な哲学的議論と綿密な推論によって他の全ての真理に取り組んでいます。
この他の全ての真理を構築することができる知識の基礎を確立するために書かれた本が精察です。
デカルトの思想というのは、哲学の枠を飛び越え、数学と科学の分野にも大きな貢献をもたらしました。
解析幾何学の研究は、大数学と幾何学を結びつけることで、数学に革命をもたらしたのも特徴的です。
今日でも使われているデカルト座標系というものがありますが、それはデカルトの革新的な考え方から生まれたものであります。
ちょっと時代は前後しますが、デカルトは方法序説という本も書いています。
この方法序説は1637年に書かれたものですが、内容としてあるのが、知識に対する方法論を提示し、体系的な疑い、またここでも懐疑するわけですね。
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遠域的推論、複雑な問題をより扱いやすい部分に分割することの重要性を強調しました。
この扱いやすい部分に分割することって、前々回ぐらいでやったオッカムのカミソリというものと似ていません?
どれだけシンプルに考えられるかということです。
この著作を通じて、デカルトは自らの哲学的洞察を伝えるだけでなく、知識探求と発見のための青写真を提示しました。
デカルトの思想には賛否両論があります。しかし、彼の著作は賞賛と批判の両方を集めました。
その一つがデカルトの二言論です。
この二言論がその後の哲学や科学における意識の研究に大きな役割を果たしたことは間違いありません。
二言論って何かっていうと、心身二言論って言われるやつですね。
今までは心と体っていうのは一つ心身一言論だったんですけども、デカルトにおいては心と体は別々だっていう心身二言論っていうのが提唱されるわけです。
このようにデカルトの人生と思想を振り返るとき、彼が残した遺産を考えることは極めて重要であります。
合理主義の枠組み、体系的な疑いの強調、確実性の追求というのは哲学の分野に大きな影響を与えました。
デカルトの数学、特に解析科学への貢献はこの分野の進歩の基礎を築き、現在も様々な科学分野で活用されています。
さらにデカルトの機械論的世界観と宇宙の決定論的性質に対する信念は、その後の科学思想に影響を与え、近代物理学の発展とニュートン革命への道を切り開きました。
さっきからちょこちょこ出てきている機械論的世界観、これも重要な言葉なので説明しておきましょう。
機械論的世界観とは何か。
デカルトは物体の基本的な運動は直線運動であること、動いている物体は抵抗がない限り動き続けること、いわゆる感性の法則ですね。
一定の運動量が宇宙全体で保存されること、運動量の保存の法則など、神によって保持される法則によって粒子の運動が確定されると考えました。
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この考えは、精神に物体的な風や光を、宇宙に生命を見たルネッサンス期の哲学者の感覚的物活論的世界観とは全く違っており、力学的な法則の支配する客観的世界観を見出した点で重要であります。
先ほども述べたように、感覚的なものでは欺く神や悪霊がいるかもしれない。
そうではなくて、物理学的、力学的にどのように証明されるのかということをデカルトは追求したわけです。
さらにデカルトは、見出した物理法則を世界論、宇宙論において宇宙全体にも適用し、粒子の渦上の運動として宇宙の創生を解く可動説を唱えました。
その宇宙論は、宇宙が誕生から粒子の運動を得て今ある姿に達したという発生的説明を与えた。
地上と無限に広がる宇宙空間において同じ物理法則を適用したという点で過去の宇宙論とは一線を隠すものでありました。
ただし、デカルトは見出した法則を数学的に定式化せず、また実験的検証を変えたことで、法則の具体的な値にも誤尾が多いとされます。
誤尾という言葉は、哲学的な議論の中でよく使われる言葉なので覚えておいてほしいです。誤尾、誤りですね。
単純に言うと誤尾。
そのために、科学史の上ではガリレーとニュートンの間で独断論に陥った例として取り上げられることが多いのがデカルトです。
しかし、今日ではニュートンはデカルトの哲学原理を熱心に読んでいたことが、科学史家ヘリベルの研究によって明らかにされるなど、その位置づけが見直されているのも確かです。
単純に間違っているデカルトは、数学的に定義化しなかったからダメだという話じゃなくて、ニュートンの発想の上ではデカルトは非常に重要なポイントとなったということですね。
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デカルトの思想は画期的で変革的なものでありましたが、先ほども述べたように批判がないわけではありませんでした。
学者や哲学者たちは、心と体の二元論や合理主義的認識論の意味など、彼の哲学の側面について議論し、異議を唱えてきました。
現代の文脈においても、デカルトの考え方は依然として適切であり、批判的思考と哲学的探究心を刺激し続けています。
デカルトの懐疑・疑うという方法は、私たちに思い込みを疑い、信念を批判的に吟味し、厳密な推論と証拠を求めることを促しています。
デカルトの心身問題の探究と意識の本質に関する考察は、認知科学や神経科学の分野で現在進行中の議論とも共鳴しています。
主観的な体験が物理的なプロセスからどのように生まれるのかという疑問は、今なお激しい調査と哲学的な考察の対象でもあることはよくわかることですよね。
さらにデカルトが合理主義を強調し、正徳的な考え方を信じたことから、知識の獲得や認識論的な議論における理性と直感の役割について考察することが求められています。
デカルトの作品、これまで出てきた方法除説や政策、その中には合理主義と経験主義の間で進行中の議論というもののルーツを見出し、現代の哲学的議論を形成しています。
ここまでいろいろデカルトについて語ってきましたが、結論としてデカルトは近代の知的パイオニアであり、その人生と思想は哲学、数学、科学の領域に忘れがたい足跡を残しています。
彼の方法論、基礎となる信念、そして様々な分野への貢献というのは、世界とその中での私たちの位置づけに対する理解を形成し続けています。
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複雑な現代社会を生きる私たちは、デカルトの真理への悪なき追求、懐疑ですよね、これこそ、理性へのコミットメント、神様って本当にいるの、神の存在、神の子が存在するから私たちがいる、
そういう風にコミットメントしていくこと、そして厳格な探求の呼びかけからインスピレーションを得ることができます。
デカルトが考えてきたことっていうのは、もう400年も前の話です。
古いことかなというふうに思われがちですけども、そうではなくて、今でも使われ続けている方法論もあるし、今でも考えなければいけないこと、特に考え方ですよね。
真理への悪なき追求、理性へのコミットメント、こういうことを頭に入れてデカルトを読むと、ああなるほどっていうふうに思うことが多いかなと思います。
というところで、デカルトについてはこんなところでいいかなと思います。これ以上しゃべると30分を超えてしまうので、疲れてきちゃうのでやめときましょう。
ということで、もっとデカルトについて知りたいよとか、ここをもう少し説明してほしいなとか、そういうことがありましたら、このスタンドFMのコメントやデータ、またツイッターの方にコメントいただければ、また新しく録音したり、何したりと対応しますので、ぜひぜひ。
ご意見、ご指摘、コメントいただければ幸いです。今回も身のあるようで身のない話でした。それではまた。高橋でした。じゃーねー。
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