社会保険労務士の田村が様々な業種で活躍する人の働き方や信条・哲学をインタビューし、新しい働き方を学ぶラジオ番組『教えて、あなたの働き方!』今回のゲストは、長野県南木曽町で空き家を再生した3軒のゲストハウスを営み、時代に取り残された空き家や休耕地の再生とコミュニティの循環づくりに取り組む、株式会社フォークロア代表取締役の熊谷洋さんと対談します。  

※このご時世ですのでソーシャルディスタンスに配慮して収録しております。  


株式会社フォークロア様の会社HPはこちらです。  

https://folk-lore.com/  


【ハイライト】  

・熊谷さんのご経歴  

・東日本大震災の経験から培った事  

・自分のやりたいことをする為に心がけている事

・人から感謝される上で大事な事  

・外国人観光客が日本に求めている事  

・契約社会と信頼社会 


本エピソードの後編のリンクはこちらです。

https://podcasts.apple.com/jp/podcast/id1507714225?i=1000514383218


ゲストプロフィール:

熊谷洋さん

宮崎県でお生まれになり、高校中退を経て、立命館大学卒業後、株式会社NTTデータに入社し、大規模システム開発のプロジェクト管理や海外事業企画のお仕事に従事されました。2011年3月の東日本大震災を経験し、持続可能な21世紀のライフスタイルを日本の里山から模索したいと、2015年に地域おこし協力隊として東京から長野県南木曽町へ移住されました。2017年、築200年の空き古民家を2年がかりでセルフリノベーションした「里山くらしのおすそわけ」がテーマの「HOSTEL結い庵」を開業しました。2019年に『「Folk(人々)」の「Lore(ものがたり)」を次代へ紡ぐ』という想いをこめて、時代に取り残された空き家や休耕地の再生とコミュニティの循環づくりに取り組むべく、株式会社フォークロアを設立されました。空き家だった古民家を改修して、現在3軒の宿を経営しています。


~お知らせ~

サニーデーフライデーは、社会保険労務士として活動する田村が普段のサムライ業という固いイメージから外れ、様々な分野で活躍する方やその道の専門家・スペシャリストと語るトーク番組です。


人生に前向きでポジティブな方をゲストとしてお呼びし、経営者や従業員として働くリスナーの皆様が明日から明るく過ごせて、心や気持ちがパッと晴れるそんな『働き方を考える』ラジオをお送りします。


話すテーマは社労士業、働き方改革、キャリア、海外駐在、外国人雇用、海外放浪等です。


パーソナリティー:田村陽太

産業機械メーカーの海外営業、社労士法人での勤務経験後、社労士事務所を開業。海外駐在員や外国人社員の労務管理、外国人留学生・技能実習生の就労支援等、企業の国際労務・海外進出対応に強い。ラジオDJ、ナレーター、インタビュアー、番組MC・ナビゲーター等、音声メディアや放送業界でも活動。また、番組プロデューサー、ポッドキャストデザイナー等のPRブランディング事業も手掛ける。


カバーアート制作:小野寺玲奈


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社労士ラジオ サニーデーフライデー
社労士ラジオ サニーデーフライデー 田村陽太です。
この番組は、社会保険労務士として活動する田村が、 普段の侍業という堅いイメージから外れ、
様々な分野で活躍する方や、その道の専門家、 スペシャリストと語るトーク番組です。
本日も素敵なゲストをお呼びしております。
株式会社フォークロア代表取締役の熊谷裕さんです。 熊谷さん、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
サニーデーフライデーに来ていただきまして、ありがとうございます。
こちらこそありがとうございます。
熊谷さんとの出会いのきっかけなんですけれども、
私の大学の先輩の方が、ちょうどあの御社の方で働いていらっしゃって、
その方が以前、求人情報のネット記事を上げていらっしゃって、
フェイスブックをよく見ていて、
その場所でホステルを開業されたという経緯というのを、
僕の先輩が語っていて、それですごいなと思って、
しかも僕もあまりその渚について、そういう歴史があったというのは知らなくて、
いろいろ読んでいくうちにちょっと泊まってみたいなと思って、
一度泊まらせていただいて、
今回の収録の1年前ぐらいに一回初めて泊まらせていただいて、
すごいこういうところでホステルを開業されて、
どのような形で経緯でやってきているのかなと、
私に興味があって、もしよければインタビューさせていただけないかなと思って、
今日来させていただいたという形になります。
ありがとうございます。
私から簡単に熊谷さんをご紹介させていただきます。
ご出身は宮崎県ということで、お生まれになって高校を中退を経て、
リスメイカン大学を卒業後、株式会社NTTデータに入社し、
大規模システム開発のプロジェクト管理や海外事業企画のお仕事に従事し、
2011年の3月の東日本大震災を経験して、
持続可能な21世紀のライフスタイルを日本の里山から模索したいというお考えになり、
2015年に地域おこし協力隊として東京から長野県の渚町へ移住されました。
その2年後、2017年に地区200年のアキコミンカを2年掛かりでセルフイノベーションされて、
里山暮らしのお裾分けというテーマのもとにホステルユイアンサーを開業されました。
2019年にフォーク、人々という意味とロア、物語というものを次の代へ紡ぐという思いを込めて、
時代に取り残された空き家や旧工地、そのままにされている土地の再生とコミュニティの循環づくりに取り組むべく、
株式会社フォークロアを設立されました。
03:00
空き家だったコミンカを改修して、現在では3軒の宿を経営されているということです。
宮崎県でお生まれになって、大学卒業して今の仕事に就かれていると思うんですけれども、
経歴というとどんな感じで流れてきて、今まで来ているかというのを教えていただいてもよろしいですか。
子供の頃というか、結構小さい頃から地元が結構嫌な子だったね。
都会にずっと憧れていて、東京に行きたいなという思いもありつつ、
学校との相性があまり良くなくて、高校に行きづらくなって、
勉強する理由とか、大学に行かなきゃいけない理由とかがよくわからなくて、
周りのクラスメイトたちはそういうことをあまり考えないで、
勉強しないといけないから勉強しているみたいな雰囲気があって、そういうことに違和感があって、
友達とか部活は楽しくて、そこは全然問題なかったんですけど、
学校に行くとお腹が痛くなっちゃうようになって、生活リズムが合わなくなって、
割とさらっと辞めましたね。
親にも自己報告するぐらいでしたから、辞めてきたみたいな。
その後でも高校を辞めたからって、中卒という最終学歴で、
働けるのか俺って考えた時に、全然そういう社会的な能力がなかったので、
このままじゃダメだなと思って、そこで初めて大学に行かなきゃと思うようになったんですよね。
高校を辞めたことによって、逆に勉強する意味というか理由ですよね。
目的みたいなものが見えてきて、そこから結構ちゃんと受験勉強するようになったかな。
結局一浪するんですけど、一浪して大学に入りますという感じですね。
大学でも学校との相性が悪くて、全然大学の授業に興味持てなくて、
京都まで来られてというか、
わざわざ京都の私立大学に行かせてもらうわけですけど、
全然面白くなかったですね、大学の勉強ね。
でもここでもサークルとかは楽しくて、大学生活時代はすごい楽しくて、
でも本当に奇跡の卒業と同じです。
ギリギリの単位で卒業したというか、
06:00
就職活動だけはちゃんとやって、
行きたい会社に行きましたと。
私卒業は2008年なんですけど、
ちょうどWikipediaとかYouTubeとか、
あとSNSですよね。
当時はMixiというやつがあって、
知らない人もいるのかもしれないですけど、
Facebookとかちょっと出てくる前で、
そういうものですよね。
人々がその代わり、
権威を持ったマスコミが情報を一方的に伝達するんじゃなくて、
市政の人々が自分たちで情報を発信できる、
そういう時代になったことに対してものすごく希望を感じていて、
世界がすごく良くなるんじゃないかなというふうに思って、
インターネットは世界を変えるんだなと思って、
IT系の企業、IT系とか通信系の企業を志望していましたね。
そこらへんが軸にあったんですね。
そうですね。
実際、NTTデータという会社に入るんですけど、
インターネットの志望みたいなところと結構かけ離れた、
結構システム開発の現場で、
私自身は全然プログラミングとかはできなくて、
そういうセンスも全然なかったんですけど、
主にプロジェクト管理というかコミュニケーションですよね。
プロジェクトに関わる人って、もちろんお客さんがいて、
自分の会社のチームメイトがいて、
さらに協力会社さん、一緒にやるベンダーさんといって、
システムの動かすハードウェアを納入してくれる会社さんだったりとか、
一緒にプログラムを作っている、プログラムを書いてくれる人ですよね。
コーディングをしてくれる会社さん、たくさんの会社さんがいて、
それをみんなでまとめて、まとまっていかないといけないんですけど、
一丸となって、そのためのプロジェクト管理のやり方ですよね。
というのをたくさん学ばせてもらったなと。
そういうところですね。
人を動かすというコミュニケーションの取り方とか、
全然できる人じゃなかったんですけど、
そういうのを必死で学ばせていただいたというか、
鍛えられましたね。
私自身は世界をつなぐみたいなことに興味があって、
事業に興味がずっとあって、
当時私が入った頃は、まだNTTデータ全然グローバル化できていなくて、
09:01
うちの会社で海外事業ができるわけないんだろうって言われてたんですけど、
どんどんたった数年で変わってきて、
会社が海外事業に本腰を入れ始めるという中で、
ずっと手を挙げ続けてたんですね。
自分でもずっと英語だけは勉強してて、
やりたいなみたいな。
そうですね。
社外選抜みたいなのがあって、
インドに実務研修行かせてもらって、
帰ってきて、社外公募で海外事業企画の部署に行くんですけど、
そこで2年くらいやって、
トータル7年くらい全職に東京で仕事してたんですけど、
だいたい自分のやりたいことはやりきったかなということで、
30代は自分で独立して、
自分の力を試したいなという気持ちもあったりとか。
もたなされる思いはあったんですね、プランというか。
31の時に会社を辞めて、
渚町に移住したという感じですね。
なるほど。
途中で2011年3月の東日本大震災を経験して、
そこから考えが変わっていったって話があるんですけど、
教えていただいてもいいですか?
原体験みたいなのは、
地震の直後に、
揺れている最中に死ぬと思ったんですよね。
その時は東京にいらっしゃったんですか?
東京にいて、何回だったかな?
36回だったかな?
ビルにいて、死ぬほどビルが揺れたんですよ。
ビルが折れると思って。
ちょっと大げさかもしれないですけどね。
死ぬかなと思ったんですよね。
人間って死ぬんだなっていうのはね。
死ぬかもしれないって覚悟した瞬間があったっていうことが、
人生いつ終わるかわかんないんだなっていうことを、
リアルに感じさせてくれたということですかね。
だからやるべきことをやらなきゃダメなんだろうなっていうことをまず思ったんですね。
もう一つは、
その直後に、
豊洲というところで働いていたんですけど、
お台場から黒煙が上がっているのが見えたりとか、
千葉のプラントの方面からまたすごい煙が見えて、
東京が壊滅しているので。
その日は帰宅困難者になって、
何時間も歩いて帰宅するんですけど、
年インフラみたいなのが完全に麻痺した状態に遭遇して、
12:03
その日がすごい寒かったんですよね。
3月というとまだ寒い月というか。
コート着てたけど、全然寒くて、
タクシーとかも何時間待っても来ないしみたいな状況で、
文明の力気とか都市生活みたいなものに対する信頼みたいなものが当然あったわけですけど、
それまでは。
そういうものに守られて生きていて、
そういうものは不変というか、崩れるものじゃないと思ってたけど、
割と簡単に崩れてしまってしまって、崩れてしまった後は非常に脆くなっちゃうっていう、
自分の弱さみたいなものというか、生き抜く力みたいなものをすごく足りてないなということを感じたというか、
そういうことを思いましたね。
審査員になって、
それと地方中心に大変な災害被害があって、
何かできることはないかなと思うわけですけど、
結局何もできなかったなという思いがあって、
大きな会社にいて、大きなプロジェクトの仕事をしてますって、
会社の中では色々やってる感じなんだけど、
会社を一歩出たりとか都市生活を一歩出たら、
自分の力の無さというか、
一個の人間としての力の無さを感じて、
そういうものを身につけていかないと、
次の3.11、同じような災害の時に、
何かとても後悔するんじゃないかなというか、
誰かの役に立てないで終わってしまうのがすごく嫌だなと思ったし、
そういう意味で生き抜く力とか、
みんなで生き抜くためのコミュニティを作っていくということとか、
すごく大事だなと。
そういう問題意識を触れたのが3.11だったかなと、今は思いますね。
力の無さを感じた具体的なエピソードって何かありますか?
私が結局震災の支援に行ったのは、
具体的にボランティアに行ったのは、震災から2年か3年後くらいなんですよね。
それは石巻に行って、柿の養殖をやっている漁師さんのお手伝いに行くんですけど、
できることって肉体労働なんですよ。
私は別にそんなに人より力があるわけでもないし、
結局漁師さんとかが結構60歳くらいのおじさんなんですけど、
よいしょって持つようなものが、私には重すぎて持っていない。
でも、確かに漁師さんがやっていることをそのまま手伝うこと、
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手伝って同じパフォーマンスができないかもしれないけど、
少なくとももっと他にできることがないのかなと思ったんですよね。
少なくとも自分は戦略とかプロジェクトマネジメントとかやってきて、
一人の人間の体を壊せるだけ以上のことができるはずなのに、
それができないということの限界みたいなものを感じて、
限定されている感じですよね。
そこに対するもどかしさみたいなのを感じましたね。
先ほど自分でスキルをつけていかなきゃいけないというところが、
そこに今つながってきているというのがあったんですか。
先ほど言っていた東日本大震災を経験して、
自分のやりたいことをやっていきたいということをおっしゃっていたんですけど、
その地域おこし協力隊につながっていった経緯はどんな感じになっているんですか。
結局3.11が引っ掛けを与えてくれたんですけど、
当時の自分はまだまだ社会人としての力がついていなくて、
まだまだ社会人として判認前だったんですよね。
結局自分はそこからまた4年ぐらいかかるわけですけど、2015年に辞めるまで。
地域おこし協力隊として渚に移住するまで。
その数年間で自分の中では会社の中でいろんなスキルを蓄えてきたと思っていて、
自分は海外の授業に携わっていて、それをずっとやりたかったんですけど、
当時はもともと海外に行くつもりだったんですよね。
海外で仕事をしようと思って、海外の学校に行って、
もうちょっとちゃんと英語とか勉強し直して、
ビジネスのMBAでも取ってと思ってたんですけど、
学校との相性が悪いというか、勉強が苦手で。
18:00
MBAを取っても海外の大企業に行くか国連に行くかと思ってたんですけど、
また大きな組織の中の一つの歯車になって、
行くことが本当に自分がやりたいのかなということがずっと違和感としてあって、
違和感というとどういう?
海外に行くことが目的なのかなというと、本当にそうなのかなというところとか、
ロケーションが変わっても大きな組織の中で何か組織の論理で動いていくということ、
本当に自分がやりたいことに対してコミットできない可能性が高いところでやっていくことに対する腹落ちのしなさというか、
全職の中で、大きな組織の中でやっている仕事の規模だけが大きいんですけど、
誰のためにやっているのかわからないみたいな、
そういう感覚ってあって、
例えばM&Aの案件とかで、どこどこの会社をいくらで買収しましょうかという検討をするんですけど、
一生懸命みんながんばるわけですよ、考えてやるんですけど、
これ例えば何百億円で買ってきて、それでやったと、買えたぞと言って、
これ誰の役に立っているのかというと、それはもちろん株主のためとか、
それはあるのかもしれないですけど、具体的な顔が全く見えないし、
監督たちは困っているわけではないですから、
ITの力って本当は力のない人に力を授けるというか、
その姿勢の人々でも声を発せるようなパワーを与えてくれるのが、
そういう武器を与えてくれるのがネットじゃないですか、
ITのハウスだけど、別にそういうことを会社の偉い人は考えていないし、
売上がいくら増えた、やったみたいな、そういうKPIが達成みたいな、
そういう世界だから、自分たちはその人たちのために働いていて、
でもなんかありがとう言われないよね、これって思っていたので、
ありがとうもすごく増えていて、ありがとう言われたいなっていうのが単純にあったんですね。
東京はもう3.11もあって、その静寂性みたいなことは痛感していたし、
地方の中で自然に寄り添って生きていくみたいな暮らしに興味があったんですよね。
文明がどれだけ発達しても、自然ってすごくてっていうのを3.11で経験していて、
21:05
自然の中で生きるということを一回やってみたいなと思っていたんです。
その中でちょっと自分も強くなりたいなと思っていて、
サバイバー、サバイバーできるような地下鉄の自然の中で身につけたいなと思っていて、
地方に行くことに決めていて、
地方の中でも、例えば社会的課題をいっぱい抱えているような過疎地の方がいいなと思ったんですよね。
それはもうありがとうに増えているから、人が少なければ少ない、行くほど人間の数減るんで、
1,000万分の1の価値と、1,000万人いる中の1人の価値と、4,000人しかいない街の1人の価値って全然違うじゃないですか。
高まりますね。
そういう考え方で人口の少ないところに行くのがいいかなと思ったのもありますし、
実際自分が地方に行って、何らかの独立するというのは起業するということですけど、
何で食っていくんだということですよね。
考えたときに、自分はもともと海外の仕事やグローバルな仕事をやりたいと思っていたのもあるんですけど、
日本の田舎で伸びる産業って、これからは外国人向けの観光業だろうと。
そこは自分がやりたいことにリンクするからいいなと思っていたし、
本とかでは里山の暮らしみたいなことだけは知識としては学んでいて、
そういうものの実践が21世紀のライフスタイルというか、
そういうものを世界中に発信することにつながるのかなと思ったりしていたんですよね。
それで、じゃあ観光業だなと。田舎で観光業だと。外国人向けの。
さらばってきて。
そういう場所ってどこに日本の中にあるんだろうというので、
いろいろネットを使ってリサーチするわけですけど、
そうしたときにこの渚町という場所が出てきて、ここには外国人が来ていると。
観光に来ていて評価されるような観光スポットがあると。
他にも日本の中で、ここはこれから伸びるんじゃないかみたいな地域があったんですよ。
あと単純に京都とか当時から京都とか金沢とか高山みたいなところって、
外国人観光客がすごい来ていて。
あったんですけど、そこにはすでにすごい強力なプレーヤーがいて、
外国人観光客が相手にゲスターハウスをやっているところとか。
結構いらっしゃったんですか。
もうすでにいたんですよね。
自分も全く観光業の経験がない中で、いきなり強豪がいるところに飛び込んでも勝てないというのはよく分かって。
24:05
勝てないというか、大変ですよね。
競争仕掛けに行くわけですから。
自信がなくて。
というのもあって、田舎であるほうがいいなと思った。
競争相手がいないところに行こうと思ったというのもありますね。
そういう葛藤の中で行動してきてというのがあったんですね。
そこまで結構ロジックで詰めてきたんですけど、
長居村に一回来てみたんですよ。
協力されてくる前に。
見に来て。
他にも候補地はあったんですけど、長居村にまず最初に来たんですけど、
それだけ近かったからなんですね、東京から。
自分が当時住んでいたところから一番近かったから長居村に一番最初に訪れたんですけど、
そしたらすごく気に入ったんですよね。
この街すごい綺麗だなっていう。
冬ですごい雪降ってて、
すごい寒々しい感じなんですけど、
観光スポットに全然人いないんですけど、観光客とか。
でも逆にそれがすごい風情があって、
こんな街に住みたいなと思ったんですよね。
実際、街の人と話してもすごく気さくな感じだし、
外国人の観光客を捕まえて話したら、
すごいめちゃくちゃ良い横行っていう話を、
してくれて、
じゃあなおさらここは良いとこだなと思って、
移住しようと決めたという感じですね。
そうなんですね。
外国人観光客にとって長居村ってどういうところが魅力っていうのがあるんですか?
聞いてみると。
あのですね。
景色だけじゃなくて。
景色だけじゃなくてですね、
例えば日本の、日本的な建築が、
街並みとして残っている場所って、
割といっぱいあるんですよね。
例えば京都の清水ゼロの三能とか、
いっぱいある偽音とかもそうですけど、
日本各地にそういう場所ってあるんですが、
そこってもう外視で、
ツーリスティックっていうのかな、
そういう言葉を使う人が多いですけど、
お土産屋さんとかいっぱいあって、
めっちゃいろんなものを売りつけてくると。
それやっぱり疲れると。
外国人観光客にとって。
確かに景色すごく綺麗だし、
風情があっていいけど、
でもすごい情報量が多いし、人も多いし、
疲れちゃうと疲れると。
でもここは、
誰も何も売ろうとしてない。
なるほど。
その一方で観光地なのに、
そこにツーリスティックがあって、
観光地なのに、
そこに住んでるおばあちゃんが、
干し芋とかを自分の家の置き先で干してたりするわけです。
干し柿とか干し芋とかを。
それを1個100円とかで売ろうと売ってたりしてて、
障害期全然ないわけですよ。
すごいリアルなわけですよ。
27:01
おばあちゃんは干し芋を自分で作って、
自分のお小遣い稼ぎに売ってるわけですけど、
生活の一部が垣間見えるわけですよね。
日本の生活というか。
ゲーム系みたいな生活がまだ残ってて、
本当に門店みたいなのを来て、
農作業してるようなおばあちゃんとかがいる、
まじかに横目に見ながらね、
観光地巡りができるわけですけど、
それはね、やっぱり飾って、
作られてないというか、
防災服という言葉をよく聞くことが多かったですけど、
それは本物とかという意味ですね。
正当なとかそういう意味ですけど、
飾りも作り物じゃないという意味ですよね。
そういうところに感動していただいてるんじゃないかな、
というのが感じますね。
そういう日本人から見ても魅力があって、
外国人からも魅力があったとか。
私自身もそこを感じて移住を決めたんですけど、
同じようなことを海外の方も感じているように思いますね。
じゃあ移住を決めて、
渚で協力隊として働かれてきたと思うんですけど、
そこへの経験とかを教えていただいてもいいですか?
そうですね。
2015年に地域拡散協力隊として移住されての、
そこからの経験というか。
結構カルチャーギャップがめちゃくちゃ大きいですね。
大きかったです。
東京から渚に移住するときのカルチャーギャップは、
これ全然失礼な、
捉えられ方によってはちょっと失礼に聞こえちゃうかもしれないですけど、
私インドに赴任してたことがあるんですけど、
インドのIT会社で働くのと、
東京から渚に移住して地域よっこしをやるのでは、
カルチャーギャップは同じぐらいでしたね。
どういうところがカルチャーギャップか?
一番最初のギャップは、時間の流れが全然違う。
時間流れ。
全然違いましたね。
特に私がITの世界にいたかというのもあるんですけど、
早いことこそが正義なんですよ。
早くて、めちゃくちゃ早いことが何より大切。
新しいサービスをローンチするのとか、
っていうのも含めて、スピードが結構命の世界なんですけど、
ここから本当にゆっくりというか、
例えば、天気とかによるんですよね。
農業とか大工でもいいんですけど、
明日仕事をやろうと思ってたけど、
30:00
雨降ったらできなかったりするわけですよ。
全部止まっちゃうわけ。
でもそれはもう天気のせいだから。
どうしようもないわけなんですけど、
でも天気によって仕事が止まるなんて、
東京じゃありえないじゃないですか。
怒られますよね。
雨の翌日もまだちょっとぬかるんでるから、
今日もちょっとできんかなみたいな世界とか、
あったりするわけですね。
大工の世界でもあるし、農業だともっとそういう、
天候に左右されることっていっぱいあるんですけど、
そうですね。
そういうものとか、
あとはやっぱり、
自分の仕事によって、
自分の仕事によって、
自分の仕事によって、
そういうものとか、
あとはやっぱり、
なんだろうな、
東京っていうか、
基本的にグローバルの世界もそうだと思うんですけど、
契約がベースなんですよね。
契約に応じて法令遵守の原則で動くんですけど、
ここは契約社会じゃなくて、
信頼がベースなんですよ。
人と人の人間関係がベースで、
まずそこを作らないと、
誰も話聞いてくれないんですよね。
そうなんですか。
自分は何者で、何がしたくて、
っていう思いを伝えることから、
自分を知ってもらうこと。
地域との人の関係を作っていって、
初めて、
仕事の話ができるというか、
ゲストハウスを作るにしても、
大工さんだけじゃなくて、
電気屋さん、
酒屋さんとか、
水道屋さんとか、
いろんな業者さんの協力が必要なんですけど、
そういうところに対して、
自分を知ってもらわないといけないし、
それは信頼環境が大事なんですよね。
街の行事にたくさん参加していって、
やっていくと。
だから、私は三越にも呼んでいただいて、
三越の活動に参加させてもらったりとか、
消防団の活動に参加させてもらって、
引き死に行ったりとか、
消防訓練をしたりとか、
そういう地道な地域の活動の中で、
少しずつ認めていただいて、
初めて自分がやりたいことに協力、
協力していただけるというか、
別に、
市民になって話を聞いてもらって、
じゃあ応援してやるわって言って、
一緒にチームみたいな感じで、
やっていけるようになるというのを感じましたね。
それすごいですよね。
いかがでしたでしょうか。
次回もこのお話の続編をお送りいたします。
魅力的なお話たっぷりです。
33:01
お楽しみに。
以上、サニーデイ・フライデイ。
DJの田村洋太でした。
それでは次回も、
リスナーの皆様のお耳にかかれることを楽しみにしております。
今日も気をつけて、行ってらっしゃい。
33:30

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