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2025-09-29 21:35

「無言の帰宅」騒動から学ぶコミュニケーション

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▶話した内容

東京ゲームショー10年ぶり訪問とフィールドワークの重要性 / 生成AI時代における0→1の企画力育成の必要性 / 専門学校ブースから見る人材育成への注力 / 海外出展における日本的表現への接近傾向 / 体感情報がAIに勝る知識ベースとなる理由 / 新潟燕三条「工場の祭典」3年連続参加予定 / X上「無言の帰宅」騒動の発生経緯と拡散 / 訃報表現を知らない人々の誤解とコメント欄の荒れ / テレビ・新聞離れ後の3年間で加速した慣用句の通じなさ / ハイコンテキスト表現からローコンテキスト化への移行 / 知らない人を馬鹿にする風潮への批判 / 炎上の本質はコミュニケーションミスと知識の差 / クイズ経験から学んだ「知らないことを馬鹿にするな」の教訓 / 大学卒業後2-3年でクイズを一度辞めた理由 / 語彙力低下議論の実態はネットによる可視化 / テキストの流し読みと前後文脈からの理解能力 / 知識は判断材料であり生活サバイバルに必要 / そば湯・つづら折りなど知らなくても生きていける知識 / インターネット上ではローコンテキストを意識すべき / ハイコンテキストは通じる場でのみ使用すべき / バイク用語の例:コミュニティ外への説明責任 / メディアビジネス従事者は世間の変化を捉えるべき / 知らないふりをした投稿のエンタメ化批判 / 日本語文化の緩やかな滑らか化 / ポッドキャストにおけるハイ・ローコンテキストのバランス / 「知らなかったら教える・聞く」コミュニケーションの健全性

▶松浦シゲキのプロフィール

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サマリー

無言の帰宅という現象を通じて、コミュニケーションの重要性とその難しさを探るエピソードです。この表現が引き起こす反応やそれに対する様々な視点を交え、現代におけるテキストコミュニケーションの変化を考察しています。ポッドキャスト『無言の帰宅』では、世代間のコミュニケーションのギャップや日本語の表現の多様性を探求します。特に、言葉の共有や情報の伝達におけるコンテキストの重要性が強調され、知識を持つことがコミュニケーションに役立つことが示されています。

東京ゲームショーの体験
松浦シゲキの、それでもメディアは面白い。
この番組、「それでもメディアは面白い」は、メディアコンサルタントで、
コミュニケーションプランナーの松浦シゲキが、
ありとあらゆるメディアの器をこねくり巻きながら語り尽くします。
さて、今回のテーマは、
みなさんこんにちは、松浦シゲキでございます。
まずは近況報告ですが、
先週の放送でノイズの話をしたかと思うんですけど、
私にとっての動きのノイズみたいなイベントとして、
東京ゲームショーにすごく久しぶりに行ってきました。
10年ぶりぐらいなんじゃないかなと思いますね。
たまたまご招待いただいたというのがありまして、
本当はビジネスデーに行く予定だったんですけど、
木曜日、金曜日がですね、とても忙しくて、
結局日曜日のパブリックデーに大勢のユーザーがいる中で見てきました。
あまりにも大勢だったんで、とりあえず全部回ってきたんですけど、
一周するのに2時間ぐらいかかったという感じですね。
直近ゲームのお仕事をしていないんですが、
日本のビジネスにおいて、対グローバルで言っても、
ITビジネスとしてゲームはものすごく強いジャンルの一つです。
手リンクすることはそんな考えづらいので、
日本文化のベースの一部にもなりつつあるゲーム産業というところを、
作るところも含めてちゃんと見ておいたほうがいいかなと思って、
見てきた次第です。
スクエアインクス、カプコン、その他もろもろ大きいブースがね、
ドンドンドンという感じでありましたし、
それ以外の著名なゲームのブースとかもありました。
10年ぶりぐらいに言って印象的だったのは、
ゲームの専門学校の方々も若い時からのプレゼンテーション、
人材育成、その他もろもろ込み込みで、
ブースを出していたことかなというふうに感じた次第です。
やっぱりクリエイター、作り手を育てていかなきゃいけないというのは、
どのジャンルでも一緒ですし、
今、生成AIができている中で、0から1を生み出す部分、
企画力をどう磨いていくのか、サイトも含めて育てていかないと、
全部枯れてしまう状況があるかなと思うので、
だからそこに対して力をかけているんだなというふうに見た次第です。
一方で、作り上げていくフェーズ、
1から9のフェーズにおいては、
生成AIのパワーがどんどん入ってきて、
もっともっと面白い作品が、例えば続編作るとか、
そういう時間を短縮できるんだったら、
それに越したことないかなと。
そういう、0、1を生み出してくれる、
そことなる、専門学校のパワーというのは、
もっともっと大きくなっていくんだろうなというふうに思いました。
あと、国外からの出展も結構見受けられまして、
イタリアとかフランスとか東南アジアなど、
いろいろありましたと。
なんとなく印象深かったのは、
日本のゲーム表現によっているんじゃないかなというふうに思いました。
海外ゲームのバタ臭さみたいなのがあるじゃないですか、
そんなにたくさん私はゲームをやっているわけではないですけど、
ヨーロッパ圏も含めて、東南アジア圏も含めて、
どちらかというと日本の表現によっているんじゃないかなと、
あくまで個人の感想ですよ。
逆なのかもしれません。
日本の表現が海外によっていっているのかなと思いながら見ていました。
グローバル化されつつも、日本国内では
ザ・ジャパニーズみたいなテイストはまだまだ残っているなというのは、
一方で感じていましたけど、
来ているお客さんも、20%いすぎですけど、
10%はいたんじゃないかな、海外の人だったんじゃないかな、
というふうに思いました。
私にとってみれば、あらためてノイズを体験してくるということは
大事だヨーロッパという感じで、
東京ゲームショーに行ったわけで、
金曜日には久々に文化放送に出演しまして、
Aが仕事に与える影響みたいな話を15分くらい
しゃべってきたんですけど、
そこでもフィールドバック大事ですよという話をしてきました。
いろんな事実をちゃんと取ってこれるか取ってこれないか、
これが結局、人の仕事において肝になってくるかなと。
自分の知識のベースが、
オンラインでネット上に転がっている情報だけだと、
精々AIに負けますからね。
体感で得られた情報じゃないと、知識、経験としてAIに勝てるわけないです。
だから、行けるんだったらどんなイベントでも行ってみようという精神で、
東京ゲームショーに行ってみた次第となっております。
今週末はですね、
お仕事の一部でもあるんですけど、
新潟はツバメサンジョで行われる広盤祭典に行ってきます。
去年も一昨年も行っておりまして、3年連続の参加になるんですが、
まさにクリエイターの皆様がたくさんいらっしゃるようなイベントですので、
無言の帰宅の意味
裸でいろんな感触が得られることが大事かなと思って行ってくる次第です。
さてさて、今日の本編でございますが、
名付けるならば、
無言の帰宅騒動から学ぶコミュニケーションという風にしてみようかなと思います。
私こしはですね、メディアコンサルタントであり、
コミュニケーションプランナーという肩書になっております。
何のコミュニケーションというかというとですね、
インターネットも含めて、いわゆるメディア型ユーザーさんと何かしらの情報の
やり取りをする形でコミュニケーションが行われているという風に、
私はざっくりの定義した上で、
メディアコミュニケーション全般をなりわえにしております。
検索するという能動的なコミュニケーションもあれば、
ソーシャル社会性の中で
自動的に回ってくるような情報で楽しむとか、受け身の情報で楽しむとか
いろいろあったりしますが、
そういうコミュニケーションのプランニングを今、あれこれやっているのですが、
最近ね、タイトルで使わせていただきましたが、
X情報で無言の帰宅という表現を知らないという人をですね、
やゆしたような投稿やそれに対する反応とか
というのが、あれこれあれこれ流れてきたと。
それに派生する情報がいろいろと増えている
みたいな状況ですと。
無言の帰宅はこの番組をお聞きの皆様に対して説明しますと、
主に遺体の帰宅を遠回しにね、
表す表現だったりとかしますが、
元ネタで言いますと、行方不明者の捜索で
無言の帰宅となりましたと報告されたところ、
この表現を知らない人々がですね、
無事に帰宅したんですね、みたいな形でコメント欄が
荒れたという感じですね。
もちろん、このソードがですね、ネタみたいな形の投稿になって
語彙力の低下みたいな議論とか常識の境界線ってどこなんですか
みたいな話などね、
たくさん多様な話題に広がっちゃったりしていますと。
まさにソーシャルコミュニケーションのイダボタ会議の中に
コミュニケーションの課題
放り込まれたネタみたいな感じで広がっているんですが、
このソードに対してちょっと言及していきたいなと
いう風に思います。
まずですね、第一にメディアコンサルティングをしている身として
またお仕事としてですね、
インターネット上のテキストをあれこれ
20年近く見てきた人間として言いますと
ここね、最近テレビの総視聴時間と
インターネットの総利用時間がひっくり返った3年くらい前から
インターネット上のテキストの表現において
いわゆる対応的な表現がどんどん通じづらくなってきてるなぁ
という印象があります。
実際、数字でもですね、いろいろ見るとそんな感じかなという風に
私は思っております。
いろんなコミュニケーションの場で行われているテキストをですね
ベースにしたインプレッションとかクリックとか様々な数字をですね
たくさん浴びるように経験している身からするとですね
本当にこの3年で
本当に関与句は数字なくなってきているかなと
関与句ってある意味知識がないと使えませんからね
ハイコンテキストですよね。
無言の帰宅って何を意味しているのかわからないとそもそも通じませんという話ですから
これね、昔テレビの視聴時間が長かった頃
新聞がたくさん読まれた頃、雑誌がたくさん読まれた頃
読ませる時間の制限
紙面の制限がある中でこういう遠回し的な表現とか
関与的な表現ってある意味コミュニケーションの時短
文字数の時短になるんですよね
だからよく使われていたというのもあるかなという風に思います。
そういう知識大全体の表現が
テレビ、新聞読まなくなった
雑誌は読まなくなった、テレビ見なくなったみたいな形で
継続的に使われていくと
コミュニケーションの橋渡しとなるような言葉も
使われなくなってくるから忘れられるわけですよね
その関与表現の共有基盤というところが
この3年くらいで一気に抜け落ちてきているんだなという実感が
すごくあります
いろいろ起きているコミュニケーションの中で
知らない人をバカにするとか、しゃかすとか
やっちゃうような話もあるんですけれども
そもそもダメですね、論外ですね
知らない人がいる前提でやるべきです
知らない人をバカにしちゃいけないです
もちろんこういう状況に対する嘆きはわかりますよ
関与表現とか日本語の言い回しが
通じなくなってきているという嘆きは
でもそもそもで言うなら
私的には直接的に
伝えなければいけないようなローコンテキストで
より多くの人に情報を伝えるのであるなら
ローコンテキストを意識するのは当たり前の話
なのではないかと思うんです
ハイコンテキストで前提知識で
情報が無言で伝わっていると思わない方がいいです
コミュニケーションプランナーとして言うなら
基本的にコミュニケーションミスの延長線上ですからね
なぜコミュニケーションミスが起こるかというと
大抵が知識の差なので
コミュニケーションプランナーのプロトコルが合っていない
これが原因だと思うので
大前提で考えた方がいいです
私クイズを趣味にしている一人だったりするので
クイズで知っている知らないゲームだったりします
特に早押しクイズ競技クイズと言われているのは
ある一定の知識量を
いかに早く答えにたどり着くか
断片的な情報からどういう形で答えにたどり着くかという競技なので
そうなったら早押しボタンは押さないわけですよ
ただインターネットがなかったような
20何年前
大学時代に私は
メインの趣味がクイズだったりするんですけど
そこで知らないことでバカにされたという経験がありました
本当に
お前そんなこと知らないのかとバカにする人がいたんですよね
そういうのが
ある程度強くなってきているんですけど
とはいえまだ知識に
穴があるような状況でそこが強くなりきれない
ところでもあったりしたんですけど
ちょこちょこバカにされる時期が続きまして
細かい知識でボロっと抜けているところがあったり
私の弱点で言うと漢字の読み方が若干
適当に覚えていることがあるので
適当に答えて
軽減な顔される
みたいな感じで言われる時がありまして
それが続いて実のところ大学卒業して2,3年くらいで
一回フェードアウトしちゃったようなこともありました
本当に知らないことをバカにするなというのは
本当にそこで
思いまして
結果そこからメディアの世界に入ってきて
ローコンテキストというところを
私なりには意識してきたところがあります
みんなが知っているんだという前提で
全てのコンテンツを組み立てない方がいい
極力ローコンテキストだというのは
常日頃意識しているところはありますけど
もちろんクイズという競技でいるんだったら
たくさん知っている方が楽しいというのはあるので
今もそういう意味では情報収集力をもとに
いろんな情報を知るというのは個人的にはやっていますけど
コンテキスト的な部分
ローコンテキスト的な部分はずっと気にかけてやっております
自分が出すクイズも基本的には答えてもらいたいな前提で
極力コンテキスト
つまり前提知識をどれくらい最大公約数で
うまいこと引っ張ってきて知識をつけるかという
このバランスを意識しているのは正直あるかな
というふうに思っています
改めてですけど
その議論の中で言うと
とはいえ語彙力低下している世代間ギャップあるみたいな
議論もあるわけですよ
テレビになくなった新聞読まなくなった雑誌もなく
読まなくなったみたいな形で
でも私からするとそもそも
世代間のギャップ
習ったかもしれないけど基本的には使っていながら忘れるんですよ
世界史日本史地理
みんな一回に何かしら通過しているんですけど
世代間ギャップで言うんだったら
世代上の人は長らくネットがない時代から使ってきたというのがあるので
ずっと使っているからこそ
そういう表現がボロっと出ちゃうというのもあったりするんですけど
これもって日本語が貧しくなってきているとか
日本文化の損失みたいな話で言うと
そもそも論で言うと
そういうのがネットで可視化されただけかなと思うんですよね
長らくクイズやっている身からすると
そもそもみんなこういう言葉を知っているかというと
それもどうかなという気持ちですよ
テキストって流し読めちゃったりするので
前後の表現でなんとなく理解できちゃうこともあるんですよ
読めちゃうこともあるんですよ
だから全体の語彙力の問題ではないと思うんです
文章全体でこういうことなんだと理解できる能力があったら
別に極端な話を個別の関与区とか知らなくたって
読めるわけですよ文章って
なのでそういう関与区でないやら知らないこと自体は
悪いことじゃないかなという風に思います
もっともっと極端に言えば
知ろうとしないことを恥をかくという言い方も
個人的には言い過ぎなんじゃないかなという風に思っています
もちろん情報というのを知っておいた方が
事故の判断に
自分が生きていくための判断に役立ちますし
生活におけるサバイバルにおいても必要になってくるんです
なんだかんだ言って私はそう思っています
知識でそういうものだと思っています
知識は判断材料のもとですし生きる力になります
だから知っていた方が良いですよというのは言いますけど
恥をかくというのは言い過ぎなんじゃないかなと
例えば無言の帰宅の発声ネタで
あれちょっと目にしているのであると
蕎麦湯がなんで蕎麦湯って言うんだったっけとか
蕎麦湯の作り方とかつづら折りみたいな表現でどういう折り方をしているのか
みたいな日常表現について
知らなかったら別に知らないでいいんですよ
知らなくても生きていけるんだから
常識のラインが曖昧みたいな話もあるんですけど
昔からそんなの曖昧です
もちろん何かしらの検定で磨き上げて
得点みたいなところで分けるというのはあるんですけど
知ってたらもっと人生楽しくなりますよ
ぐらいに思っていた方がいいと思うし
私もそういう言い方をした方がいいんじゃないかなと思うんですよ
もちろん知らないからこそ
無言の帰宅の影響
無言の帰宅に対してよかったですねって書いちゃうのは
無言の帰宅をした人にはネガティブな状態で
よかったですねでコミュニケーション上のミスで
ぶつかっちゃっているわけだからそれはよろしくないねというのがあります
逆に言うと無言の帰宅とかそういうような表現が
やっぱり知識の大前提がずれてきている
共有されてない言葉になってきているというのがあるので
インターネット上で何かしら
たくさんの人が見られているような場でコミュニケーションするときは
極力ローコンテキストで考えた方がいいと思います
というのを無言の帰宅という言葉を発した人に言うのは
ここなのかもしれませんけどそういうものかなとも
一方で思うんですよ
でも確実にそういう風に思うんだという話で言うんだったら
お仕事でちゃんと言葉を使う人方はそれを考えなければいけないかなと思います
特にこれを聞いている方々は
何かしらメディアのビジネスに関わる方々
コミュニケーションに関わる方々
マーケティングにその他諸々に関わる方が多いかなという風に思うんですよ
もちろん松浦茂樹自体に興味がある方に聞いていただいているかもしれませんけど
それで言うと私的には
世界の変化をちゃんと捉えて
言葉のプロですよ
コミュニケーションについてやっぱり
何かしらビジネスを考えられている方であるんだったら
私は安全に倒した方がいいかなという風に思います
極力ちゃんと説明すべきという考え方も含めて
だと思うんですよねそれで言うと
論コンテキストで
きちっと伝えていくというところが本当に
このソードからの学びです
ハイコンテキストはハイコンテキストが通じるような場だけで考えた方がいいと思います
それはコミュニティですね
どんな場であってどういう設計をした上で話すと決めた上だったら
私は別にハイコンテキストでいいと思うんです
例えばバイク乗りの空間で言えば
バイクの用語とかそういうの全然使っていいと思うんですけど
バイク乗ってない人に対してバイクの面白さを説明する時に
ハイコンテキストでバイク用語を使っちゃダメだと思うんですよね
それは当たり前じゃないですかそれで言うと
喋っちゃう人もいると思うんですけど
何かしらやっぱり
言葉をビジネスにしている人は
改めて考え直してやっていった方がいいと思いますし
別にビジネスじゃなくてプライベートというか
一般のところでも先週のね
金曜日文化放送でも話したんですけど
生成エアが出てきていろんなコミュニケーションがネット上にあふれる形で
何が一番重要視されるかといったら
そういうコミュニケーションスキルなので
一般って言うとあるですけど
ローコンテキストで話す癖っていうのはですね
この世の中を生き抜くサバイバルツールとしては
私は大事なんじゃないかなと思います
今日お話ししてきた
無言の帰宅騒動なんですけど
勧誘とか楽しいわけですよ知識として
こういう形で出来上がってきた言葉とかっていう
言語の多様性というか
言葉の多様性
日本語の表現の多様性を尊重したいですし僕も好きです
それ好きなんですけど一方で
どんどん多くの人々に情報が伝わっていく現代というか
そういうコンテキストにおいてで言うと
日本語という文化もですね
一番最初ね近況のところでゲームで話しましたけど
どんどん伝わりやすくなってくると
どんどん言葉というのは単純になっていくものかなと
いう風に思うんです
そんなに簡単に大幅にどんどん用語が簡単になるわけではないと思うんですけど
緩やかにですね滑らかに
なんでもかんでもやっぱりある程度
単純化していくと思うんですよ
コミュニケーションのプロトコルなのでそれ前提に喋ること書くこと
その他諸々は考えた方がいいかなと
私もですね英語で言うんだったら英語のプロトコルで言うんだったら
勧誘とかわからないわけですよ
一応本当に旅行行く分ぐらいには
困らないぐらいの英語は使えたりとかするので
そういうローコンテクストで全然
コミュニケーションの重要性
読めるような書けるような喋れるような
世の中であるんだったらそれでベースで考えていった方が
いいんじゃないのって思うんですよね
ただこのポッドキャスト
コミュニティと一緒にやってた時代も含めて
メディアとかコミュニケーションについて考える皆様方に
サブスクライブしていただいて聞かれていると
これがメインなんですけど
ハイコンテクストも全然喋るんですけどそれ以外の可能性の人もですね
改めて聞く可能性もあるわけですよ
面白そうなことを言ってるぞみたいな形で
聞いてらっしゃる方もいると思うので
ここ最近は極力ハイコンテクストすぎないように
心がけてるつもりですよ
ただローコンテクストすぎるとある意味
角が取れちゃうんですよね
AAが喋ってるとあんま変わらないような形になっちゃう
それはこれで自分の喋りがそがれてしまう
AがAに聞けばいいじゃないかになっちゃうんで
そのバランスを取ること
何がマツーラシンクトって90なんだったっけ
っていうことを考えながら喋るのが第一
何があなたの喋りとかアウトプットに置いて
90なんだったっけ9から10なんだったっけ
あと01のところですね
知識は判断のダイルになる生活のサバイバルです
だからこそ知らないことをバカにするのではなく
知らなかったら教えてあげるとか
知らなかったら聞いてみるという
そういうコミュニケーションの方が私はよっぽど健全だと思いますし
よっぽど人生を豊かにしてくれるんじゃないかな
聞く前に私は探した方がいいかなという立ち位置です
そんな感じでコミュニケーションに関わる皆さん
メディアに関わる皆さん
別にこの他の皆さんもそうなんですけど
ぜひ何かしら私のこの視点というところは
何かしら皆さんの次のヒントになかったのであれば
幸いですという感じです
本日はここまでにしたいと思います
また来週よろしくお願いします
マツーラシンキでした
21:35

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