記録と記憶の考察
いちです。おはようございます。今回のエピソードでは、記録と記憶についてお届けをします。このフォトキャストは、僕が毎週メールでお送りしているニュースレター、スティームニュースの音声版です。
スティームニュースでは、科学、技術、工学、アート、数学に関する話題をお届けしています。スティームニュースは、スティームボードの取り組みのご協力でお送りしています。
というわけで、改めましていちです。このエピソードは、2025年11月6日に収録しています。このエピソード、スティームニュース第258号、
2025年の11月7日配信のスティームニュース第258号から、記録と記憶というテーマでお送りをしていこうと思います。
というのはですね、最近、こんなブログ記事を読んだんですね。こんなタイトルです。
多分このままだと千年後、21世紀は歴史資料がない時代になる。もう一回言いますね。
多分このままだと千年後、21世紀は歴史資料がない時代になる。
なんかこう、センセーショナルな見出しですよね。この記事の書き出しはこんな風に書かれています。
2000年前半に始まったブログやホームページサービスはほとんど終了してしまって、当時に書かれた貴重な日常生活やその他個人研究の資料はほとんど失われてしまいました。
この一文、結構僕には刺さりました。僕たちはデジタルアーカイブというふうに銘打った研究テーマですね。
世の中の情報をデジタルデータにして保存する。元からデジタルなものはいいんですが、デジタルじゃないものをデジタルにして保存するというような研究に取り組んでいるので、
元からデジタルなものがもうなくなっちゃうなんて、じゃあ何のためにデジタル化しているのっていう話にすぐつながりますから、
ちょっと聞き捨てならないというか、実は内心ものすごく心配していることでもあるんですよね。
正直に言うと、僕たちデジタルアーカイブの研究者の間では、おそらくデジタルデータがどこまで持つのかっていうのは、心配ごとナンバーワンなんじゃないかなという印象も持っています。
僕たちが取り組んでいるエジプトのピラミッドのデジタル化について、よく聞かれることがあるんですけれども、
ピラミッドのデジタルデータってピラミッドより長持ちするんですか?という質問なんですね。
これものすごく確信をついていて、ピラミッドがざっくり5000年持っているわけですね。
でもデジタルデータって歴史がそんなに長くないので、おそらくデジタル保存され始めたもの、おそらくどんなに遡っても1970年代以降になると思うんですね。
そうですね。みんながコンピューターを使って記録媒体にデジタルデータを残してというのが、
どれだけ遡ってもおそらく1970年代なんじゃないかなと思うんですね。
なので、50年くらいの歴史しかない。ピラミッドは5000年持っている。100倍は違うわけなんですよ。
その50年の間でも、すでに読めなくなったデータがいっぱいありますし、失われてしまったデータもいっぱいある。
じゃあ、5000年持ちますかと言われると、やっぱり自信はないんですね。
残すというのはどういうことなのか、記録と記憶ってどういうことなのかということを、このエピソードでは探っていきたいなと思っています。
これはオープンクエスチョンで、ぜひリスナーの皆さんのご意見もいただければなと思っています。
というのも、ハードディスクとかUSBメモリーとか、100年持たないというのが、僕たちコンピューター・サイエンスとの共通の理解ではあるのですね。
なので、デジタルデータというものもコピーを繰り返していかないと保存できないんですね。
そのコピーをなぜ繰り返していくのかというと、そこに人の思いみたいなものすごくアナログな、これアナログと呼ぶのかどうかわからないけれども、非デジタルなものが割り込んでくるというのが、今回のエピソードの中心的なテーマになると思っています。
万葉集の重要性
まずは万葉集についてお話を進めていきたいと思います。
万葉集、これは奈良時代に編参された日本最古の和歌集になります。
およそ7世紀後半から8世紀後半にかけて読まれた約4,500首の歌が収められています。
偏者は大友のやかもちとされていますが、複数の人物が編集に関わったと考えられています。
万葉集に収められた歌は天皇や貴族だけではなく、兵士や農民など様々な身分の人々によって読まれており、
当時の多様な人々の感情や日常、恋愛、自然に対する思いが表現されています。
また万葉集の万葉仮名と呼ばれる独特な仮名遣いも特徴的です。
その執着で力強い表現や、変化に富んだ内容、時代を超えて共感できる普遍的なテーマゆえに、
万葉集は現代の日本においても高く評価され、国語や文学の分野で幅広く親しまれています。
個人的には日本の和歌、ポエトリー、詩歌の2大クラシックと言うと万葉集と古今和歌集になるのかなと思うのですが、
万葉集派と古今和歌集派に分かれるような気がしていて、僕は万葉集派です。
古今和歌集は洗礼されすぎていて、ちょっと綺麗すぎる印象があるのですが、どうでしょうか。
大雑把に見ても万葉集は1300年ほど前に日本語で書かれたメッセージというふうに言えるのです。
658年、これ紀元後ですね。紀元後658年11月11日、19歳で処刑された有馬の御子は万葉集に次の歌を残しています。
家にあれば毛に盛る胃を草枕、旅にしあれば糸の葉に盛る。
大よその意味は、家にいると器によそうご飯を、今は旅の途中なので糸の葉に盛りますということなんですね。
旅といっても、これは囚人として護送されていることを意味します。この後、実際有馬の御子は処刑されてしまうのですが、この歌の中に出てくる毛というのは器のことですね。
土器の歴史から見て文明を作り上げたホモサピエンスが最初に身の回りに置いた工業製品がこの毛、器なんですね。
貴族であった有馬の御子が人類にとって普遍的な道具である器さえ使わせてもらえず、
糸の葉というありふれた葉にご飯、おそらく当時の古い、現代でいうとおこわですかね。これを乗せて食べたということなんですね。
有馬の御子の歌が現在まで残っているのは、万葉集がデジタルデータとして記録されていたからでも、石板に刻み込まれていたからでもありません。
万葉集が現代までに残されたのは、何度も何度も写本が作られたからです。つまりコピーが取られてきたということですね。
ではなぜ写本が作られたのか、なぜコピーが取られたのかというと、コピーと言ってももちろん手書きコピーですよ。
手書きのコピーが作られたのかというと、それは例えば有馬の御子の歌が後世の人々の心を打ったからとしか言いようがないんですね。
万葉集には有馬の御子以外の歌も多数収録されていますが、その一つ一つが後世の人々の心に、
後世の日本人の心に響いたというわけだと思います。
同じような例は万葉集以外にも多数あると考えられます。
世界最古の文学と言われる古代メソポタニアのギルガメシュ・ジョジシも多くのコピーが作られました。
特に第11章版のギルガメシュの洪水神話、これは普遍的なメッセージを人類に投げかけているように僕にも思えるのですが、
やはりギルガメシュ・ジョジシの中でも人気の章なのか、最も多くコピーが見つかっています。
万葉集もギルガメシュ・ジョジシも他に源氏物語だって、ガリア戦記だって、写本がいくつも作られたからこそ現代にまで残っているわけなんですね。
インターネットアーカイブの役割
写本を作るには当然人的資源的コストがかかります。
現代まで残っている書籍には、それらのコスト負担に耐えられるだけの強さ強度があったとも言えるのではないでしょうか。
一方、インターネット普及後のデジタルデータ、とりわけテキストデータは極めて安くコピーを作れます。
例えばデジタル日記をGメールで書いて自分が手に送っておけば、日記のコピーはGoogle社のデータセンターに残り続けます。
では作者が保存しないデジタルデータはどうなるのか。
例えば企業のホームページ、それから冒頭で申し上げたような個人のブログなんかでブログサービスを提供している企業が変わってしまったり、
あるいは閉鎖してしまったりとなると内容が変わったり、あるいはアクセスできなくなったりということがあります。
こういったインターネット上のデジタルデータを僕たちは巻き戻してみることが通常はできません。
何もしなければできません。当たり前ですよね。
そんな時に役立つのがインターネットアーカイブというウェブサイトです。
インターネットアーカイブは1996年にアメリカで設立された非営利団体で、デジタル時代の膨大な情報を保存公開することを目的とした世界的なデジタル図書館です。
インターネットアーカイブの主なミッションは全ての知識への普遍的なアクセスを提供することです。
インターネットアーカイブが最も有名なのはウェイバックマシーンというサービスだと思います。
これはウェブサイトの過去の状態、スナップショットを定期的に記録して、
誰でも昔のウェブサイトがどのような姿であったかを後から閲覧できる仕組みです。
これを使うと、消滅したウェブサイトや書き換え削除されてしまったコンテンツも見ることができる場合があります。
こうしたアーカイブの仕組みがなければ、僕たちが日々アクセスしているネット上の情報の多くは、
サービス停止やサイト閉鎖、リンク切れと共に消えてしまい、後から振り返ることが難しくなってしまいます。
インターネットアーカイブは、デジタル情報も長期的に記憶し、未来へ受け継ぐための現代的な写本の営みと言えるでしょう。
実は、僕が昔書いていて、ドメインの更新に失敗して消えちゃったブログなんかもウェイバックマシーンに残っているんですね。
時々、何を書いたっけというと、自分のウェブサイトがなくなっちゃっていて、僕もウェイバックマシーンを使うことがあります。
デジタルデータの保存
先月、2025年10月、インターネットアーカイブは、保存するウェブページ数が1兆ページの大台に乗ったことを発表しました。すごいですね。
とはいえ、残念ながら全てのウェブページのコピーを保存しているわけではありません。インターネットアーカイブも万能ではないということなんですね。
具体例を挙げると、僕は昔、カナイアフリカという英語ブログを書いていたんですが、消えちゃいました。どこかに行っちゃいました。
古いドメインにアクセスすると、関係ないウェブサイトに飛びます。そういう意味では、ある程度アクセスを集めていたドメインではあったんでしょうね。
第三者の手に渡ってしまったということになります。
もう一つ、デジタルデータの保存に関して悩ましい問題があります。
イギリスの作家、評論家、詩人、ジャーナリストであるG.K.チェスタトンは、短編小説「ブラウン神父の童心の中の一片折れた剣」の中でこんなことを書いています。
賢い人はどこに木の葉を隠すのか。賢い人はどこに葉っぱを隠すのか。それは森の中だろう。というようなことを書かれているんですが、デジタルデータに関して同じ状況が生まれつつあるんですね。
保存しておきたいデジタルデータよりもはるかに多いゴミデジタルデータがAIによって生成されてアップロードされているんです。
論文プラットフォームのアーカイブ、これコーネル大学が立ち上げたウェブサーバーで、未発表の論文なんかをここで公開するというサイトがあるんですが、
コンピュータサイエンス分野に限っては論文の受け入れをついに制限し始めました。
従来は誰でも論文を置くことができたのですが、現在では学会によって作読を受けた論文でないと公開しないというふうに方針を転換したそうです。
どんな論文でも受け入れて記録を残す立場だったアーカイブが大幅な方向転換をしたことになります。
粘土版や用紙紙、和紙に物語が書かれた時代には、強度のある物語や美しい詩歌だけが生き延びました。
コピーのコストが高く、それに引き合うだけの価値が求められたからですよね。
一言で言うと、美しさがメディアだった時代なんです。
一方の現代ではコピーのコストは大変に低くなっていますが、時をほぼ同じくしてゴミの生成コストも低くなってしまいました。
そのせいで記録は確かに残っているのだけれども、人類の記憶としては役に立たないという状況が生まれつつあります。
一体どうすれば人類がこの時代を乗り越えられるのか、僕にはまだ方法がわかりません。
メールマガジンの価値
小さなアイディアでも結構ですので、大歓迎ですので、ぜひリスナーの皆様からのご意見もいただきたいなと思っています。
というわけで、今回のエピソードではスティームニュース第258号から記録と記憶についてお届けをしました。
エピソードの中でお話しした通り、僕は昔ブログを書いていて、それがドメインの移行手続きをやらかしちゃったみたいで消えちゃった過去があるんです。
日本語で書いていたブログの方はまだ残っていますが、英語で書いていたブログが消えちゃったりとか、
それからもっと昔のブログなんかが消えちゃったりとかしています。
このスティームニュースに関して言うと、もともとはブログ形式でネット公開しようかなと思っていたんですが、
結局ニュースレターということでメール配信をすることにしたんですね。
やり始めてから気づいたニュースレター、メールマガジンのメリットなんですけれども、
読者の方のメールボックスにコピーが届くわけですよ。写本ですよ。
スティームニュースはおかげさまで1000人を超える読者さんがいらっしゃるので、
ということは配信するたびに写本が全部作られるわけなんですね。
なので結構未来に残るかななんてちょっと期待をしています。
逆に言うと未来に残るだけの価値を含まないといけないなというプレッシャーにもなってはいるんですが、
そんな下心もあってニュースレターとして配信をさせていただいています。
今週はですね、僕は東京のことを江戸というふうに呼んでいるんですが、江戸に出張をしていました。
顔学会という学会がありまして、その学会のフォーラム顔学という年次大会で発表の機会をいただきまして発表をしてきました。
会場が早稲田大学でちょうど学祭の日と完全にかぶっていて、朝早く学会会場に行こうとしたら、
学祭の入場はまだですよと止められちゃったりとかして入れなかったりとかしたんですが、無事発表をしてきました。
江戸に行ったついでに東京電気大学で非公式に研究指導させてもらっている学生さんがいるので、その学生さんとも会って話をしてきました。
彼は若い学生さんなんですけれども、今後のキャリアについてちょっと相談がありますみたいなことを言われて、僕が偉そうに人にアドバイスできるような立場ではないのですが、
僕自身ふと思ったことをちょっと語らせてもらいました。というのも10年ほど前ですかね、スキを仕事にするっていう言葉がブームになったというか、企業のキャンペーンでそれに乗った人たちが結構いた時代があったと思うんです。
今でも続いているかもしれないんですが、ある意味、スキを仕事にすることが理想な時代というのは、要するに嫌いな仕事はある、嫌いな仕事でも仕事はあるという時代だったということなんだと思うんですね。
これから10年先どうなっているかもうさっぱりわからないですが、無理やり想像すると、好きなことしか仕事にならない時代が来るかもしれない。逆に言うと、嫌々でも仕事さえしていれば食えていた時代、嫌々でも仕事さえしていれば食っていけた時代というのが、
AIによって仕事が奪われたりとかして、終わってしまうかもしれない。何が言いたいかというと、短期的な損得じゃなくて、長い目で仕事を見てみたらどうかなということをお話をさせていただきました。
スティームFM1でした。また次のエピソードでお会いしましょう。