1. ストーリーとしての思想哲学
  2. #93 続・〈遊び〉とはなにか?..
2024-10-27 09:28

#93 続・〈遊び〉とはなにか? プリミティブな身体性

サマリー

このエピソードでは、ホイジンガとカイオワの遊びに関する思想や分類を深く探求しており、遊びが人間の生活や能力発揮にどのように関わっているのかを考察しています。特に、平尾雅宏の著作「人生はゲームなのだろうか?」を通じて、遊びが人生の外側にあることや身体的な喜びにも言及しています。

ホイジンガとカイオワの思想
ストーリーとしての思想哲学
思想染色がお送りします。
前回の続きです。
ホイ神話の話をしたからには、カイオワの話も一応しておきたいと思います。
ホイ神話の次に遊びというテーマで有名なのが、ロジェ・カイオワという人です。
カイオワは1913年生まれのフランス人で、1978年まで生きていました。
遊びと人間という本が有名で、遊びの定義については、やっぱりホイ神話と似たようなことを言っています。
一方で、遊びというものには4種類があると言っていて、遊びを4つに分類しました。
4つの分類とは、競争・モノマネ・運試し・めまいです。
これは紹介程度で簡単に言います。
1つ目、競争とは言葉の通りなんだけど、
サッカー・陸上・ボクシングといったスポーツ全般など、要は力比べのことです。
パワーだけじゃなくて、テクニックを競うというタイプの力比べもここに含まれます。
2つ目、モノマネ。
おままごとごっこ遊び・文化祭の模擬展・演劇・模型やミニチュアといったもののことです。
3つ目、運試し。
ギャンブル要素の強いもの、サイコロ・スゴロク・ルーレット・トランプ・パチンコなどが当たります。
最後4つ目、めまい。
めまいを起こすような感覚を揺さぶる遊びという意味で、
バンジージャンプ・ジェットコースター・ブランコ・スキー・お化け屋敷などが当たります。
大まかにこういう分け方ができるよねと言っています。
実務的には、これらの分類を組み合わせることで遊びをさらに面白くしたりできるから、
平尾雅宏の視点
ゲーム会社の人とか、新しい遊びを作る仕事の人にはこの分類は結構有名だそうです。
はい。いずれにしてもホイジンガにせよカイオアにせよ、
遊びの定義自体は似たようなことを言っているので、まとめていきます。
遊びとは何かというテーマについて、すごくよくまとまっているなと思ったのが、
平尾雅宏先生の「人生はゲームなのだろうか?」という本です。
正確に言うとこの本はホイジンガやカイオアをまとめるという趣旨の本ではないんだけど、
遊びの本質というものをわかりやすく言語化しています。
遊びというものを死という概念をアナロジーとして使いながら説明します。
そもそも死ぬという行為は、僕たち人間が絶対に経験できないことです。
というのも、自分が死んだ瞬間、意識が永遠になくなるでしょう。
死というのは、僕たちの人生全体を終わらせるものであり、
僕たちの人生全体の内側と外側とを分ける境界線の外側にあるものです。
人生全体の外側、境界線の外側という言葉がキーワードになります。
遊びというのも、人生全体の外側にあろうとするものです。
人生というのは一つの連続したものだから、本来は外側なんてないんだけど、
遊びは人生全体の外側に仮想の世界を作り、僕たちはその中に入り込んで遊ぶわけです。
そしてゲームや遊びが終わると、ゲームや遊びの世界から人生に戻っていく。
つまり人生全体という重苦しい、本来であれば逃れられない巨大な世界の外側に一時的に行けるのが遊びだということです。
遊びの喜びの探求
またもう一つ重要な点があります。
遊びは境界線の外側の世界で何らかの能力を発揮するものです。
さっきの海洋話の言う競争でもモノマネでも、設定されたルールに沿いながら何らかの能力を発揮します。
重要なのは、人間は能力を発揮することそのものに喜びを覚えるということです。
例えば速く走れる人は、速く走ることそのものに喜びを覚えるし、
ボールを強く投げること、ボールを狙ったところへ蹴る、歌声を響かせる、テレビゲームで精密な操作をやってのける、
そうした能力を行使することそのものに喜びが伴う。
それはプリミティブで身体的な喜びです。
いずれも本来的な生活、いわゆる人生の内側ではなかなか行使する機会がない。
言ってしまえば利益をもたらすものではなく、人間が生存するということには必要のない能力ですが、
遊びの世界の中でだったら必要とされます。
だから遊びの世界の中でだったら大手を振って、その能力を行使する喜びを味わうことができます。
この2つのそもそも論、1つ目は、そもそも遊びとは人生全体の外側にあるものであるということと、
そして2つ目は、僕たちは遊びの世界の中でだったら普段必要とされない能力でも行使することができ、
人間はそもそも能力を発揮するという行為そのものに喜びを覚えるという2点が、
人間はなぜ遊ぶのが好きなのかという疑問への回答になるかと思います。
はい、今の話を別の角度から誰にでも当てはまりそうな具体例を挙げて繰り返します。
前にネットかなんかで見てそうだなーって思ったのがあるんだけど、
小さな子供って走り回るのが好きですよね。
一方で大人は別に走り回るのが好きというわけではありません。
でも、もし魔法家なんかで急に大人に翼が与えられて自由に空が飛べるようになったらどういう挙動をとるかっていうと、
間違いなくいい歳した大人であっても、翼で空を飛び回るなんてめちゃくちゃ楽しいから飛び回りますよね。
これってさっきの、人間は能力を発揮するという行為そのものに喜びを覚えるという話を思い出してほしいんだけど、
空を飛べるという能力を行使することに喜びが伴っている状態です。
子供の場合は、体が彼らの翼に当たるわけです。
体が成長して、どんどん自由に力強く体が動くようになってきて、
それを行使することが楽しくて仕方ないという状態です。
だから走り回るわけですよね。
これがプリミティブで身体的な喜び、能力を発揮することそのものに喜びがあるということの典型かと思います。
遊びという概念は、人間のプリミティブな部分に端を走っているから、考え出すと哲学になってくるという話でした。
あと、僕の個人的なイメージなんだけど、ホイジンガとカイオアはなんとなく基礎科目というイメージがあります。
というのも、ホイジンガやカイオアの理論は楽しく遊ぶという状態を説明してくれます。
これが基礎科目、基礎だとします。
この基礎の上に乗っかっている応用科目としては、悪いことや禁止されていることをすると楽しいというのも人間にはあると思うんだけど、
これはホイジンガやカイオアだけでは説明ができません。
だから、ホイジンガやカイオアの理論の上に、例えばジョルジュ・バタイユという人の理論を乗っけることで、
1階部分のその上、2階部分にその理論を乗っけることで、
悪いことや禁止されていることをすると楽しいという状態を説明していく、みたいな使い方ができると思っています。
他にも、もっと強靭な思考力が要求されるテーマもあると思います。
学校におけるいじめ問題に潜む過虐的な楽しさ、暗い喜びについてとか、
ホイジンガやカイオアは思考の基礎を固めてくれて、
強固な基礎がそういう難しい問題、強靭な思考力が要求される問題に取り組むための基礎になってくれるという、
彼らの概念にはそういうイメージを僕は個人的に持っています。
というわけで、今回はここまでです。
次回もよろしくお願いします。
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