カタリ派の悪の問題
ストーリーとしての思想哲学、思想染色がお送りします。
前回の続きです。
カタリ派がカトリック政党派からこれ以上ないくらいブチ切れられていた理由のところですが、
カタリ派が何より問題としていたテーマは、悪の問題で、
カトリックに対して悪の問題について論争を吹っかけて、
カトリックが論理的に答えることができなかったためブチ切れて、暴力に頼ったという感じでした。
カタリ派の主張はこうです。
この世界は死と腐敗と道徳的欠陥にまみれており、終わっている。
どうして善能で、公正で、慈愛にあふれているはずの創造主が、
疫病や自然災害や罪深い衝動の存在を許しているのか。
そもそもキリスト教徒の大多数は、悪の問題について、
悪は神が創造したものではなく、
善が欠如した状態であるというセイ・アウグスティヌスの解釈を受け入れていました。
今はだいたい1100年代の話をしていて、
セイ・アウグスティヌスはだいたい西暦400年くらいの人だから、
これは700年くらいの伝統ある解釈です。
語り派は、とはいえ実際には、
とんでもない悪党は現実にそこらじゅうにいる。
伝統的な解釈においては、
悪という概念は単なる幻想であり、
単に善が欠如した状態であるにすぎないというが、
悪党は強烈な悪い欲望に突き動かされているようにしか見えない、
というところから反駁しました。
善能の良き神が想像したはずのこの世界で、
悪いことばかりが起こるという矛盾は現実に存在する。
したがってアウグスティヌスの解釈は全く意味をなさないというわけです。
それにそもそも、
どうして善能の良き神がこのような不完全な代物を作ったのだろうかというシンプルな疑問もあります。
また旧約聖書に呼吸ってあるじゃないですか。
呼吸では、無垢な正しい人であるヨブが神によって愚弄されいじめ抜かれます。
これが良き神のやることかっていうのが一つ。
もう一つには呼吸の中でエホバは神の無限の力を繰り返し宣言しています。
にもかかわらず悪いことばかりが起きヨブが愚弄されいじめ抜かれているわけだから、
神が悪の存在を許しているとしか受け取れないと主張しました。
やや語り派に肩入れするような言い方になってしまうけど、確かにって思います。
割と論理的ですよね。
で、これに対してカトリック政党派が行った反論は、
人間は理性を用いるだけでは悪と称される出来事や衝動を理解できないというものでした。
現代人からすると、全く論理的に反論できていないどころか、答えられてすらいないように見えるんだけど、
そもそも伝統的には論理ってあんまり重要ではないとされていたんですよ。
理性よりも啓示が重要で、論理よりも信仰が重要である。
だから教会の見解をそのまま受け入れるべきなのだという価値観が何百年も続いてきたわけだから、
当時の常識からしたらカトリックも別に変なことを言っているわけではありませんでした。
ただこの時はアリストテレス哲学の影響で、「理性をもっと使おうぜ!」って風潮が高まっていたから、
語り派は信仰の話に対して、あくまで論理的に次のように申し立てます。
もし神が悪を想像したか、あるいは悪の存在を許しているのであれば、神は善ではありえない。
神が善であるなら、神は人間に罪と苦悩を貸したりはしないはずだ。
従ってこの世界を想像した神は善ではない。
それどころかあらゆる悪の源泉であると解釈せざるを得ない。
このような従来の解釈に対して語り派が展開した反論がカトリックに破壊的な影響を及ぼしかねないことは明らかです。
この段階ではカトリックとしては、理性で考えるのではなく信仰しろって言わざるを得ないから、
だから悪に関する議論っていうのはカトリックが一番やられたくないことだったから、そういうわけでブチ切れたわけですね。
カトリックの反論
怒らせると怖いイメージのカトリックですが、この後どんな戦略を用いて語り派を殲滅していくのかという話を次回したいと思います。
次回に続きます。