デウス・エクス・マキナの擁護
ストーリーとしての思想哲学 思想染色がお送りします。
今回は、デウス・エクス・マキナです。 ご存知の方も多いと思いますが、デウス・エクス・マキナとは演劇において、困難な状況に陥った主人公を救い出すために、
舞台の上の方から神様が吊り下ろされてきて、あなたはこっち、あなたはあっちって言って、交通整理をするかのように困った状況を全部解決してくれる展開のことです。
唐突に神様が救いの神として降りてきて、困った状況を全部解決して、ハッピーエンドにして去っていくのがつまらないという意味で、つまらないクソ脚本のことをデウス・エクス・マキナみたいだなんて言うこともあります。
そんな風にクソ脚本という意味で批判的に用いられることが多いデウス・エクス・マキナですが、今回は従来の観点とは別のパースペクティブを提供するという意味で、むしろこれを擁護してみたいと思います。
デウス・エクス・マキナはもはや悪口として使われることの方が多いくらいだと思うんだけど、デウス・エクス・マキナ的だからダメという決まりはありません。
むしろデウス・エクス・マキナ的な超名作ってたくさんあります。
例えばウィリアム・ゴールディングのハエの王。
ハエの王は1954年、今から70年前に書かれたイギリスの文学小説です。
無人島に少年たちが漂流するっていう話なんだけど、なんせ無人島という孤立した環境に未熟な子供たちが閉じ込められるわけなんで、徐々に文明的な態度を失って狂っていくという話です。
今風に言うとデスゲームみたいな感じかもしれません。
ラストは主人公が虐殺されそうになる、もうどうしようもないというところまで追い込まれたところで、救助の船が来ます。
無人島という少年たちの世界に、世界の外側の存在である大人たちが救助に来て、介入してハッピーエンドという構図は、まんまデウス・エクス・マキナです。
でもデウス・エクス・マキナなんだけど、ハエの王がクソ脚本だっていう人ってほぼいないと思うんですよね。
というかデウス・エクス・マキナという展開を非常にうまく使っていると言えます。
文学論的な観点から言えば対比っていうやつです。
対になる比べると書く対比。
無人島という閉鎖された世界の内側にいる文明を失った子供たちに対して、世界の外側から来る文明的で理性的な大人という、こういう対比になっています。
これらが完全に対になっているから、その落差から少年たちがいかに閉鎖空間で狂っていたかが浮き彫りになるわけです。
極限状態における人間の闇みたいなのを描写するにあたって、デウス・エクス・マキナだってちゃんと有効な手段になり得るよという一つの例でした。
逆デウス・エクス・マキナの概念
もう一個くらい例を挙げてみます。
ハエの王は文学好きには有名だけど、世間一般的にはあんまり知名度があるというわけではないと思うんで、次はアニメの魔法少女マドカマギか、略してマドマギ。これは有名でしょ。
知らない人もいるかもしれないから、一応どういう話か言うと、いわゆるループものです。
なんかすごく、ものすごく強い敵がいて、魔法少女たちがそのすごく強い敵を倒せるまで何回も同じ時間を繰り返す、タイムリープを繰り返して何度も何度も敵に挑むという話です。
ラストは結局敵が強すぎて倒せません。
で、主人公がある力によって神様、神になることで全て解決します。
舞台の上から神様が降りてくるんじゃなくて、自分が神様になるという形のデウスXマキナですね。
さっきのハエの王は救いの神を救助に来る大人という形に変形させていたけど、こっちはもうまんま救いの神が出てくるわけで、思いっきりデウスXマキナと言えます。
でもこちらもやはりデウスXマキナではあるけど、窓マギをクソ脚本だという人は少ないと思います。
シンプルに作品としてのレベルが高いし、そもそも魔法がガンガンに出てくる世界観だから、ある力によって神様になるっていうのが不自然ではないというのもあると思います。
以上のことからデウスXマキナもそんなに悪くないというのがわかるんじゃないでしょうか。
共通しているのは、デウスXマキナという舞台の上から降りてくる神様という概念を、船で救助に来た大人とか、魔法の力で神様になった少女みたいな感じに変形させて、うまく脚本に落とし込んでいるという点です。
このコンセプチュアルスキルというか、概念操作の上手さが素晴らしいなと思います。
あと最後に、かなり異質な概念操作の例ということで、カラマーゾフの兄弟の話をしたいと思います。
カラマーゾフの兄弟には、不臭という性があります。
腐るに臭いと書く不臭です。
ロシア聖教のある修道院に、ゾシマ長老っていう偉い長老がいて、宗教の偉い人だから、聖人、聖なる人として扱われていました。
で、聖人は神秘的な存在だから、死んでも死体が腐らないと考えられていたという背景があります。
なんだけど、ゾシマ長老がついに亡くなってしまって、みんな悲しんでいたんだけど、修道院の人たちはみんな密かに、ゾシマ長老の死体もきっと腐らないだろうと神秘を期待していました。
でも数日経つと、普通に死体が腐って、不臭が辺りに漂いだしたというのが、この不臭の章のあらすじです。
これはメタ的に読むと、本当だったら、ゾシマ長老が死んだところで、神様が上から降りてきて奇跡を起こすはずだった、でも起きなかったという構図です。
本来ならば、デウスエックスマキナが起きるはずであったし、みんながそれを期待していた、でも神様は来なかったというデウスエックスマキナが逆転しているわけです。
だから、逆デウスエックスマキナとでも言いましょうか。
みんなが神秘的な展開が来るぞ来るぞと思っていたのに、何も来ないという裏切りが発生するという、意外な展開としての逆デウスエックスマキナです。
これもデウスエックスマキナの変形と言えるかと思います。
これはもう概念操作の巧みさがすごいよね。
こういう脚本の組み立て方もできるわけだから、デウスエックスマキナを単なる悪口として処理するのも違うよねという、従来とは異なるパースペクティブを提示するという話でした。
というわけで今回はここまでです。
次回もよろしくお願いします。