武力と正当性
ストーリーとしての思想哲学
思想染色がお送りします。
前回、統治、アドミニストレーションには単に武力による支配だけでは足りず、正当性があることも大事という話をしました。
それは何でかっていうと、統治って統治する側だけじゃなくて、統治される側もいて初めて成立するものだからです。
統治される側がある程度納得して統治されていないと、武装した蛮族が暴力によって支配しているだけという形になってしまうから、中長期的には社会が不安定になるから長続きしえないわけですね。
ということは、武力を独占している人たちからすると、統治される側の多数の人たちに向けて、自分らは蛮族ではありませんと示す必要があるということになります。
じゃあ、なぜ野蛮な暴力集団ではないと言えるのか。
もし武装勢力が、俺たちが守ってやるから、おとなしく言うこと聞けよっていう形態の統治も、中央アジアとかだとよくあるわけだけど、もっと正当性がないといけないという話です。
そこで正当性を示すため、自然発生的に出てきた美意識が武士道なのだと僕は考えています。
僕は武士道って美意識の形式の一つだと理解したらいいと思うんだけど、統治される側が、まあこの人らだったら統治者としての資格があるなって認めるって、冷静に考えるとめちゃくちゃハードルが高いじゃないですか。
それは結構感情面における話で、めちゃくちゃ平たく言うとエモーショナルな感じ、エモくないといけません。
力によって統治する支配者に、もし感情を揺さぶられる何かエモい逸話があったら、統治される側はやはり気持ちを揺さぶられるという意味だけど、
例えば王族であれば割とシンプルで、建国神話を作るってのが定石です。
なんとかっていう偉大な昔の王様が国を作り上げた、その末裔である王族にはこの国を統治する資格があるみたいな。
建国神話って基本的にどの王国にもありますよね。
一方で日本の場合、武士階級を支配階級として民衆に認めさせたかったわけだから、そこを補強するストーリーが必要だったのであろうという話です。
もちろんストーリーといっても誰か作者がいるというわけではなく、必要性という土壌があるところに自然と立ち上がっていったという感じだと思うけど、
武士道ってやたら感情を揺さぶられるような逸話が多いじゃないですか。
そもそも武士階級は軍人として戦う人々だから命のやり取りに関する逸話が多いわけだけど、そこに美意識が入り込んでいるように見えます。
具体的なイメージとすると、武士道の実践ってこんな感じだと思うんだけど、
何か武士たるもの、戦いの日に備えて日頃から訓練を怠らず、生活は簡素にして、いつでも戦地に赴けるよう準備をしておく。
戦場での死に備えて常に身を清め、出前を正し、最後の時まで勇気と潔さを持って戦えるよう万全を期す。
こういうイメージですよね。
単に孫徳で言えば、どうせ戦って死ぬ可能性が高いんだから、蛮族のように突き勝って野蛮に振る舞うのが合理的だと思うんだけど、
むしろ逆に、いつ死んでも称えられるような高潔な人間たれって感じじゃないですか。
文学的見地から見ると、これって結構逆説的表現だと思います。
上杉謙信も、「生を必する者は死し、死を必する者は逝く。」と言ったとされています。
これは生き延びたいと思って戦場に行くと死んでしまい、死を覚悟して戦うとむしろ生き残るという意味だけど、
こういう逆説性が武士道には結構あるよね。
まるでシークスピアのマクベスに出てくる、「綺麗は汚い、汚いは綺麗。」ってセリフのようです。
あるいはモンテーニュのエセイっていう本でも、我々は時に死から逃げようとして急ぐことで、
ますます死に近づいているのであるっていうセリフがありますけど、
逆説的表現で文学だとよく見られる手法で、武士道の中にある種の文学のような美意識が見て取れるわけです。
はい。
三戸稲造の仕事はもちろんすごいんだけど、でも読んでも、武士道とはつまり何なのかってよくわからないと思うんですけど、
僕は武士道とは美意識の一形態だと思うよって話でした。
美意識の重要性
美意識だけで国家統治をしているわけじゃないですけど、でも国家統治に美意識を使うって面白くないですか?
なんかオシャレですよね。
それなりの美意識を持つ人たちにだったら任せてもいいって思ってる庶民の方もオシャレだし、
ということは美意識って僕たちが思っているよりも、もしかしたら遥かに大事なものなのかもしれないです。
同様にヨーロッパのノブレス・オブリージュなんかも、人の上に立つ人間には美意識を持っていて欲しいという規範の表れなのかもしれません。
というわけで今回はここまでです。
次回もよろしくお願いします。