でもそれで、他にも選択肢は山ほどある中で、
だって今まで芸術の下の字も出てこなかったのに、何がきっかけで芸術行こうと思ったんですか、それを。
でも、トニーさんはなんで吉本行ったんですか。
僕はもう単純に、相方が行ったっていうこと。
田舎はどこですか。
千葉なんですけど。
別に千葉も田舎だからあれなんですけど、田舎前提で話が進んでる。
でも千葉の硬い田舎みたいな。
でも僕は元々は全然真面目だった。今も根は真面目なんですけど、
人前で何かやるなんて相当苦手だったので、
公務員になると思ってたし、小学校の卒業アルバムも公務員って書いてある。
それが相方と出会ってしまったせいで相方に巻き込まれて、
気づいたらお笑いの道に来てたっていう。
相方はどこの相方ですか。
相方は元々関西系ですね。
海外に子供の時に親の仕事で行ってて、
で、関西からこっちに来た。
中学校で出会ったって感じです。
じゃあ結構早い段階で出会ってますね。
だからそれで出会って、人生観が変わっちゃって、
人前で何かやることが面白いと思って、
もうその時から将来の夢はお笑いたくでした。
アートの仕事になるのも全然後々だったんで、
僕は結構早い段階でそっちの道に行きたいなって思えてはいました。
で、NSCです。
大学は卒業を一応したんですけど、
ここからNSCに行って、
1年半は吉本ぐんちを所属してる状態で。
これで違うってなったんです。
あれ、これ誰の番組ですか。
逆に。
でも僕は、その吉本やってて、
二足のわらじを入ってて、アートにも興味持ち始めて、
片屋、芸人ツインツインというコンビの本名を大山橋と。
片屋、アートテラートニーという活動をしてた時期は、
1年半ぐらいですかね、それまで。
で、こっちに主軸を置こうと思ったのが大体2009年ぐらい。
最後相方はどうした?
最初に相方と喧嘩別れしたんですよ。
別れて、相方は相方の弟とコンビ組んでました。
それを見届けて、僕は僕でこっちで行こうみたいな感じ。
相方は今どうしてますか。
相方はたまにこの番組出て、
今は会社作って社長になってます。
だから、小さい時の夢とか、そのままストレートに行くってことないじゃないですか。
ないです。確かに確かに。
やっぱ大半とか、ほぼみんなそう、右を曲折。
右を曲折デフォルトじゃないですか。
そうっすね。
例えば今やってることは転職見えたふり言うけども、
それもやっぱワンオブゼンで。
選択肢もあったけど、でも比べようがないからそうなってて。
そうしてるうちに、体力も落ちてきて、平年きて、死ぬってパターン。
死ぬまで続いてるんですか。
いや、そうそう。だから、
若い時はいろいろ軌道修正もできますけど、
歳とるといろんなものは付随してきて、そんな大胆な軌道修正できない。
だからなんか、
バンジーはそうだと思います。
私はそれで相方の、この番組でも多分第1回言ってる。
相方の栄光で大学4年の時に、
一緒に美術館に行こうって言って行ったのがきっかけで美術に興味持ってたんです。
千葉大ですか。
僕千葉、相方は大学違ったんですけど、
それがきっかけで美術に興味持ってたんですけど、
それはすごいですね。
明確に美術、ここで美術に興味持ったなーみたいなのは田村さんはある?
いや、
なんかね、でもカルチャーには興味はあったんですよ。
ただ、田舎だったんで、
ロマンスカテレビもやってなくて、
唯一NHKが土日かな、遅い時間に、
僕クラ世代だとわかるんですけど、ソリトン、金のうの銀のうの。
わかりますか?
わかります。
どういう番組なんですか?
タカノヒロシっていうミュージシャンが司会してて、
それこそ本当にカルチャー。
そこのナリゲーターが小川珠樹。
あー、はいはいはい。女優さんの。
小川珠樹って結構元祖、
アート、カルチャーの権限みたいな人で。
えー。
アマトは今います。
います、います。
結構ね、小川珠樹が結構その先駆者みたいなところがあって。
カルチャーの番組はアートだけじゃないんですか?
いろんなのを取り上げる。
いや、うらはらのこととか、
音楽のこととか、東京のカルチャーを結構やって。
そんなチャラついてはなくて、
なんか落ち着いた番組でした。
へー。
それと憧れはあったんですか?
そう。で、東京出て、
で、小川珠樹はそのソリトンのオープニングで、
一眼レフカメラ。
一眼レフじゃない、コンパクトカメラ。
けどフィルムのハーフのオリンポスペインのFTっていうので、
レイグロのバラ屋でバラをとってるのがオープニングのシーンです。
で、小川珠樹に憧れてて、
わーって東京出て行って、
小川珠樹が好きで、
銀座の散歩道かな、
銀座の新鮮なカメラ屋に行って、
オリンポスペインFTを買ったんです。
それ持ってて、
で、専修大学がもういいやってなったときに、
手元にカメラがあるから、
写真学科を受けた、その時期。
そういうきっかけなんですか?
けど日芸の写真は第3規模、第1規模は映画学科。
第2規模は放送学科。
ミーハー兼カルチャーみたいな感じなんで、
専修大学って小田急線の向こう側が御苑駅なんです。
で、僕そのとき学生で住んでて、小石川、飯田橋なんですよ。
飯田橋から総武線に乗って新宿で乗り換えて、
小田急線で上り戸の先向こう側が御苑駅で降りて、
めっちゃ坂上がんなきゃいけないんですよ、大学。
それを思うと、結構新宿で挫折してこうやって。
だいぶ早いですけど。
総武線に新宿降りて、その足で新宿、武蔵野、
カルチャー系の映画館行って、映画を観て潰してたと。
飯田橋に銀礼ホールっていう関係があって、
そこで映画観たりとかしてたんですよ。
だから、今の状況があんまり好ましくないってなったときに、
毎日映画院の映画っていうのがすぐ輝いてねえと。
映画放送、写真、放送ってテレビも好きだったので、
テレビ台に絞って。
それで落ちると、また先週通わなきゃいけないんですよ。
いろんなことで落ちてますよね。
先週のオディスってわけじゃないんですけど、
映画放送、写真と似て違ったので、
第三審某で写真向けたんですよ。
そのときは、小川たんまきさんに憧れてカメラを買って、
結構使ってはいたんですか、写真は。
ちょっと使っていましたね。
けど、周りにゴリゴリの人たちはいなくて、
男の男子寮で、男子をモノクロ写真で撮ってるって感じですけど、
全然趣味程度。
だから言ったらそのときには本当第三審某ぐらいなんですね、写真。
そうです。
映画放送落ちたんですよ、第一代に。
写真だけは良かったんで、写真に進む。
でも、きっかけって本当そんなもんなんですねって言ったらあれですけど。
けど、一芸の写真で美術に目覚めるかって言うと、そうでもなくて。
一芸の写真ってどっちかというと、そんな作家の先生っていなくて。
どっちかというと代理店系の人。広告と撮影とか。
で、どっちかというと、バイトでみんなマガジンハウスに行くんですよ、一芸の写真って。
最初僕もブルータス行って、同級生とかいろんなマガジンハウスに行ったりハマったり。
当時リラックスになりましたけど。
東京って感じの生活してますね、その時は。
そうですね。だからブルータス行った時に。
ブルータスは少し学生からすると上ですけど、当時リラックス世代じゃないですかね。
だから、リラックスの本を拾っては持ち帰ってました。
銀座も出た時代ですね。
あー、はいはいはいはい。
え、じゃあその時に、それは写真撮ったアシスタントみたいな感じ?
そうそう、カメラバイト、カメラアシスタント、カメ足ですね。
でもそれで、一応4年ですか、学校では。
4年やって、そっちの道に行くっていう選択肢もあるけど、そっちの道には行かなかったんですか、カメラマンについてカメラマンの道にはいかなかったんですか。
いや、だから、日下って写真学が同期して160人、入学時で160人っていうんですけど、
得たの90人とかで、60人、3分の1は辞めます。
っていうのは、写真って技術職なんで、アシスタントついたらもう学校でやることないやって感じで、今日辞めていく人多かった。
え、でもその、たまたまその4年間やってる時にも構えもしながらも、美術館に行って、その写真家の写真とか見て、
僕はああいうの撮りたいなみたいな感じの憧れみたいなのが出てきてたんですか、その4年間。
うち2年とかは、やっぱり組写真みたいな、その写真の、
日本のなんかちょっとしっとりした感じ。
まあでも、それこそ、僕が入った時には、
木村英平賞がヒロミックス、長嶋ゆりえ、稲川美香、その次が本間たかしだったかな。
まあそういう時代なんで、写真の波は明らかに来てたんですけども、
でも、じゃあ自分が写真撮るとなると、やっぱりあんまり芸能心がなくて、というか、
なんかあんまりこう、作品を撮るみたいな、自分はじゃあ作品を撮るってことはあんまりわかんなくて。
行った時に、3年生の時に、ウォルフガンのティルマンが登場した絵。
畠山さんも出てきて。
意外になんかその、彼女が、ワンルームの彼女。ワンルームの部屋に彼女と住んでて、
彼女がユニットバスに使ってる写真。わかるじゃないですか。
というか、シングルベッドのシーツがちょっとヨレてる。
そういうなんかね、ジトッとしたものがあったんですよ。
それを収めて、モノクロ化。さないさんとかも出てきたんで、
カラーでやって、みたいな。でもそれの感情というか、なんか情感みたいなものは最後に僕はわかんなくて。
時にティルマンスとか、ルフとか、ストリュート、トーマスストリュートとか、デマンドとか、
畠山さんとか出てきて、わしっと。
ちょっと撮るみたいな。被写体を俯瞰して撮って、ちょっと乾いた感じはありますね。
一歩引いてる感じがあります。
それはね、結構衝撃的で、そっちに行くじゃないんですけど、
面白い世界があるなっていうふうにしたのを覚えてて。
撮影とか写真のことはちょっと興味はあったんですけど、
取り手としてはやっぱりあんまり何にもならなかった。
だけど、エディトリアルのことはマガジンハウスでやってたので、
その後プラシの手帳社に募集があるよって、同級生から言われて、
受けるんですよ、カメラマンで。
で、それから4年半、カメラマン、社員カメラマン。プラシの手帳社でカメラマン。
じゃあもう今、プラシの手帳のバックナンバー見たら田村さんの写真が載ってるんですね。
載ってますね。
けど、トータルではハマってなかったと思うんですよ。
やりながらもってことですか。
そうですね。でもその時は、それこそ仕事なんで。
今からすると過去を振り返ってハマってないなって言いますけど、
当時はそれが仕事だと思ってやって、
ある程度頑張ってやってたと思うんですけど。
言ったらでも一流企業と、仕事としてはいい仕事ですよね。
普通の人から考えたら憧れの仕事じゃないですか。
ひとつマスコミではありますね。
それと、雑誌が売れない時代に突入したっていうのもあったりとか、
僕がいたプラシの手帳社の時代って結構、
いろいろ半径変えたり、編集長も3回ぐらい変わったし、
デザイナーもね、3、4回変わってるんですよ。
そうなの。
迷存の時代。
デザイナーとかは自主的に辞めたとかじゃなくて、
会社が変えてって。
編集長変わると変わったりもするし、
だから本当に、僕が言う、
例えばプラシの手帳って言った時に、
やっぱり初代の編集長の花村さんとか、
例えばNHKの連続テレビドラマ小説になった、
トト姉ちゃんとか。
花村さんはさすがにいなかったですけど、
トト姉ちゃんになったしとか。
その時ですでに、
過去の財産というか、
いい時の。
で、もう食いつぶした後の。
なるほど。
今関係ない速報というのはあんまり言わないですけど。
なって、本当に迷走してた時代で、
その後に最後、編集長、
が変わって、その人は結構どっちかというと、
カルチャー、マガジンハウス系っていう感じの人で、
センスはあって、大きな編集方針とか作り方を変えたんです。
その時に僕は必要なくなったんです。
で、その時にもう必要なくなったんです。
もうやめよう。
思い入り芸大の映像研究科を受けるんです。
映像はあれですか、映画を撮りたいとかだったんですか?
最初のもともとの夢が大志望だったみたいな。
いや、映画はもう全然、映画史になりたいとかなくて、
横浜の東京芸大の映像研究科って、
僕入った時3期生だったので、新しい学校なんですけど、
映画とアニメーションとメディアだったので、
僕はメディアの方に入るんですよ。
で、なんでメディアだったかというと、
カルチャーの鉄橋で今も連鎖してる佐藤雅彦さんって、
もともとSFCで、ピタゴラス1が、
古くはダーモさん兄弟。
なんなら来年横浜美術館で大的な個展やりますよね。
あ、そうなんですか。
佐藤さんが連鎖してて、
最初ねSFCって方が来たんです。
途中から東京芸大映像研究科ってなって、
こういう学校あるんだって認識して、
面白いなと思って受けたんですよ。
で、受かって辞めた。
でもその時にはまだ美術家田村、アーティスト田村雄二郎は誕生してないんですか?
全然ないですね。
なんか道のり長いっすね、ここに来る。
そっからどうなるんですか?じゃあ卒業もしました。
だから、会社辞めたの30歳。
30歳から院に入って。
で、その時は何になりたくて並んでるか、何を学びたくてって感じですか?
いや、仕事以外とかですね。
もう写真。その時は写真以外とか持ってたし、
なんかほんとリセットした。
それは何を教えてくれるんですか?映像研究科では。
映像の撮り方的なことですか?
いや、映像研究科で、映画でもない、アニメーションでもない、メディアなんですよ。メディア。
で、当時はメディアとICCがあったりとかして、今もありますけど、
メディアとはまだですけど、
勢いもあったけども、メディアって結局何でもなんですよ。
シンデレラメディア、メディアの扱い方みたいなところで、
本当に総合格闘技、虎の穴みたいな。
そこで結構、制作と公表が本当にみっちり入って、
作品作ることをルーティンに入っていったって感じもあります。
今の話聞いてると、絶対ここからどうやったら美術家になるかが全然読めないですけど、
そこで卒業しました、もう一回会社どっか入ろうにはならないんですか?
いや、なくて、今ね、トーカス、あと東京とかやってる。
本郷にあるやつ。
当時は東京ワンダーサイトやってたんですけど。
渋谷にもあったり、本郷にあったり。
もう一個ね、青山にあって、東京にあって、そこはレジデンス施設なんですよ。
毎年4人、アーティストを採用じゃないけど、済ませてっていうのがあって、
そこがよりもっと虎の穴でしたね。
1年に青山の国連ビルの中の窓開かない部屋に行って、
そこに短期で海外アーティストが何百人、何百人って100人ぐらいは入れ替わってくるんですよ。
その時に、いわゆる海外作家に出会う。
プロジェクト儲かってたし、こういうふうに制作するんだとかっていうのを知った気にはない。
でもそこに選ばれるってことは、何かしらのものでも、作品は何かしらは作ってたんですか。
芸大の時にも修行制作はしてるし、みたいな。
そうですね。修行制作とか。
その時は、田村さんの第一号作品は何になるんですか。
4人出てるのは、ナイトレスっていうGoogleストリートビューのスクリーンキャプチャーだけで、
それを並べて、ロードムービー作ったっていうのがあって。
まぐれって言ったらちょっと言葉を選びますけど、そんな感じだったんですかね、その時の一発目はどうですか。
そうですね。もともとはまってなかったなと思うんですけど、メディアアート。
でもそこまで行ったら、でもちょっと悔しいなも出てきて、
じゃあちょっと他の方法でアート活動をしてやろうにはなるんですか、そうなったら。
いや、でもそれこそワンダーサイトとかはやることいっぱいあったんで、プロジェクトみたいなのが。
だからもう結構その、ものづくりじゃないですけど、結構もう没頭してて。
毎月オープンスタジオがあるんですよ。
みんなが見に来るってことですか、その時。
そうなんです。でも僕の作品のプロセスはないので、
毎回自分の部屋をなんか変な感じになってるっていうのを見せてるんです。
例えばボディービルダーがいるとか、
呼んでくるんですか、ボディービルダー。
呼んできてとか。
どういう作品なんですか、それは。なんかさせるんですか、ボディービルダー。
いや、ただその、ポージング撮ってるみたいな。
でもそれで今思い出しました。俺田村さんの作品最初に見たのって、横浜美術館のビリヤードって、なんか三島行きを行った時に、内覧会で行かせてもらってたんですけど、
マジのボディービルダーが四方に、なんかビリヤードのあれを囲んでいましたよね。
あれはじゃあその原型はその時には。
原型はそうですね。ワンダーサイトのオープンスタジオですね。
その時に、いや、本当は落語がいるっていうのもあったし、タップダンサーがいる、福和術師がいるっていうのもあったし、
外国の人のセキュリティがいるっていうパターンもありました。
でも本当になんかそれは今の田村さんにちょっと通じて、あれなんですね、キャスティングなんですね。自分で消してやるじゃない。
例えば、一ヶ月あるんだから落語を俺が覚えて落語やろうとか、一ヶ月体鍛えてボディービル見せようではないんですね。
そうなんですよ。だから毎回サーカスみたいな。
教員の部屋、ダーカンマンで毎月やるから、毎月やるから結構固定客も。
そうですよね。ファンはいますよね。ファンもいるし、そしたらでも、毎月やるってことは、やっぱりネタをちょっとずつ強めていかなきゃいけないですよね。
そうなんです。
だんだんネタも切れていくし、みたいな。
滑る時もあったりとか。
自身の中であれはちょっと滑っちゃったな、は今だから言えるやつはあるんですか。
落語が滑ってましたね。
意外と。
意外と。
それは落語が悪いとかじゃなくて落語をやるっていうことは良くなかった。
なんかね、合わなかったです。
一番最後は、その取りは何だったんですか。
結局ね、最後はボディービルダーですね。ボディービルダーはやっぱりやってての衝撃度があって。
っていうのは、他のアーティストは、今やってるプロジェクトを見てるために部屋を片付けて、その生活物じゃないんですか、経過物とか見せるんですよね。
オープンスタジオっぽい感じ。ワークインプログラスみたいな。
僕はその生活してるそのまんまの部屋の中に異物が入ってるってことになってました。
でも確かにだんだん今の田村さんができてきました。
確かに。
ボディービルダーやった時に、僕の部屋を見た記憶がないってみんな言うんですよ。
だからボディービルダーのネクタイが強すぎて、その部屋がどうなってたかっていうことを誰も覚えてないんですよ。
なんかあの時に、このメディアをやってましたけど、
ネクタイっていう筋肉ってメディアの強さをそこで改めて知って、
そこから何個か減って、最終横浜美術館に繋がられたんですよ。
でも、他の方は1ヶ月オープンスタジオに向けて何か作ってたりとか、その中間のものを見せるわけじゃないですか。
でも、田村さんはボディービルダーとか落語が見せてましたけど、その1ヶ月は逆に何やってるんですか。
オープンスタジオに向けてはやってないですけど、最後、日が迫ってきたらキャスティングです。
そのキャスティング以外の時はどういう作品は作ってたんですか、その1ヶ月。
作ってないですね。
作ってない。でも、基本はそのキャスティングに賭けてる感じなんですか。
そう。プラス、ワンダーサイトが進めるプロジェクトとかあったりするので、それのことをやったり。
今でこそボディービルって結構今、一つ知名度が増えてきた感じがあるんですけど、
一昔前ってそんなにテレビでも取り上げられてないじゃないですか。
マイノリティですね。
どうやって探したんですか、そのボディービルダー。
当時はミクシーがあったんで。
ミクシーで探したんですか、ボディービルダーって。
全部ミクシーですよ。
マジっすか。
すごい。
今よりかはミクシーの方がたぶんね、人材を探しやすいと思う。ミクシーは。
いや、でも僕もだからミクシーがきっかけでこの仕事やってるんですけど。
でも、そのボディービルダーをミクシーで探すのはすごいっすね。
コミュニティに入ってって、書けば反応あるじゃないですか、ミクシー。
ありますあります。
そう、ミクシーですね。
その方とは今もやりとりするんですか。
いや、ないですけど。
でも、ワセダのバーベルクラブってあって、
そこと長い間結構キャスティングはワセダのバーベルクラブから変わることになってました。
すごい、やっぱりキャスティングっていうのが一個大事な仕事なんですね、田村さんのなんか。
そうですね。ディレクターですか。
ディレクターですね。
でも、じゃあそれで強威の部屋をやって、ちょっとこう、これ受けがいいぞってなってったら、
これでちょっと自分はもうアーティストでこういうのでやっていけそうっていうのが芽生えたんですか、それ。
いや、そういうのはないっすね。
いや、そこからは本当、同期というかいろんなタイプにはいりますけど、
やっぱりスタジオを持ってなんか作る、こういうメディアで決めてるわけじゃないので、
本当、来た仕事をこなすってことですね。
でも、そうなってくと、ギャラリーデビューとか美術館デビューのきっかけは何なんですか。
いや、どうだろう。
というか、自分の中で田村さんが、俺はアーティストだなって自覚した瞬間はいつ来る。
すいません、いつ来るんですかっていうのも失礼な話ですけど、来るんですか、これ。
いや、だからね、多分ね、いわゆる絵を描くとか、チョーク作るとか、スタジオなんか描いてて、
それをギャラリストが来て、君に所属するかとか、
これ美術館でとか、これをっていうタイプじゃないので、
明確なそういうストーリーはないかもしれないですけど。
だから、ワンダーサイト自体はプロジェクトを結構やってたし。
でも、2013年に元日でモットー・アニュアルだって。
何か選ばれるやつですね。
それは結構、東京の美術館だし、東京のパブリック、現代美術館、今も大きいですし、
それを2013年にやったのが大きかったというか。
動画世代が結構出たんですよ。
それこそ、上は田中さん、田中浩樹さんも出てたし、
奥村有希とかもあったりとか出たりとかして。
結構みんな若かったので、ここで目立たないとみたいな。
なるほど。
2013年、それは結構バチバチでした。
M1みたいな感じっすね。
かましたろーみたいな感じですか。
あれは結構バチバチで、みんなライバルじゃないけど。
ネタを言わないって。
今の若手の人たちは結構仲良いっすよね。
どうなのって振ってもみんなバチバチ感ないっすけど、その時すごかったんですね。
すごかったですね。
バチバチで、かましたろーって時の田村さんは何で勝負したんですか。
結構勝負しましたね。
その時どんな作品だったんですか。
展示室3階か2階かちょっと忘れたんですけど、
そこをいったら人数船が割ってくるわけじゃないですか。
空間もらえるわけですね、スペース。
で、当時結構若い、僕らより若い人が一人入ってたんですよ。
その彼が結構スペース取ってて、
僕ら同世代3人ぐらいで、
学芸員に、「どういうことですか?」みたいな。
M-1で例えることじゃないから、この子だけ人数多いんですね。
そうそうそう。
自分たちを。
っていうぐらいバチバチだったんですけど。
で、僕は、作品の内容はあれとして、
とにかく広い場所が必要。
原備の地下駐車場があって、
地下1、地下2、地下3ってあって、
地下3ってあんま使わないんですよ。
で、そこが空いてると、
そこ全部使わせてくださいって言って。
すっごい東部に出ましたね。
見えてるんですか?何かこう…。
じゃなくて、先にまずスペース確保って。
そうですね。
暗いので、その奥に民家があって、
セットですけど、民家があって、ポット。
光がついてるんで。
インスタレーション、インスタレーションなんですけど。
それだけでいいじゃないですか。
そもそも地下に降りないですもんね。原備なんか何回も言ってるけど、
地下3階駐車場行ったことないですよ、僕。
そう。で、そのサワリが、一応展示室にあって、
最後のキャプションで、タムラの展示は地下3階に続きますってなるんですよ。
で、サワリの僕のスペースって結構狭かったんですよ。
で、クリームに行ったときに、その暑さかわかんないですけど、
僕はクリーム行ってなくて、他の2人が言ってて。
田中さんとか。
で、「お前はどうなんだ?」って振られたときに、
お前一番狭いじゃないかって言われて、
どうなんだって言われたときに、僕はこう、いや、これでいいって言ってて。
言ってないですか、僕は地下駐車場に乗ったより。
戦略だから言わないんですね、それを。
言ってないです。
で、オープニングの前の日とかに、
どうもタムラは地下駐車場全部使ってるよって。
すごい。
そういう時代です。
なんかわかんないけど、豊臣秀吉の話聞いてるみたいな。
戦略すごい一夜情みたいな話ですね。
でも、田中さんは、その2013年にベネティアンボー日本館のソロ決まってたんで。
そうか、それはでかい。
1人、世代からちょっと上がってたんです。
抜けてたんですね。
抜けてて、それ以外の同世代でバチバチやったんです。
それで勝負に出て、実際そこから本を途切れることなく呼ばれてるってことは、
やっぱり反応よくて、一般の人も含めて、美術界の人たちから。
どうなんでしょう。
ドワンションでやらせてもらってますけど。
ちなみに、その話だけ聞いて、僕はタムラさんの20回の話を聞いてるんですけど、
すごくタムラさんの味方というか。
だから、おおって拍手だなと思って聞いてましたけど。
何も知らないキュレーターからすると、
だとしたらめんどくせえこと言うやつだなとも思われかねない行為ですよね。
この地下3階使わせの。
そうですね。
あれは若い時ですね。
今は言わないですから。
今言わないです。
今タムラさん、教えてらっしゃるじゃないですか、学校で。
で、学生たちからも多分聞かれると思うんですよ、どうしたらいいですか。
その時には今のようなアドバイスはするんですか、その勝負に出ろよみたいな。
いや、そういうのはないですね。
それは自分の時代の許されたことだなって感じですか、あれは。
個人差というか、その人がどこで美術を始めるかとかもあるじゃないですか。
なので、例えばやったとしても、始めたとしても、どこでその人に見られるかとかっていうのも、
人によって様々な。
そうか。
長生きした方がいいよっていうアドバイスぐらいですね。
その2013年だと、タムラさん、今その時はおいくつになってるんですか。
おいくつ。
30代。
36とかですね。
あ、そうか。でも、そこからはアーティストとしても自覚も奪えてというか、ずっとアーティストとして出るって言われて、
そこから10年くらい。
たまにね、それだけで食べられてるわけじゃないって。
なんでなんでなんで。
なんか、自覚があるかどうかってちょっと、あんまり。
自覚を持ったとしても、お金が入るわけでもないし。
タムラさんの作風って、誰かが個人がコレクションできるもののスタイルじゃないじゃないですか。
平面なくなんでもないし。
購入しますってならないから、そういうの作ろうとは思わないんですか、でも。
いやー、そこまで感などはあるんじゃないのでしょうね。
この、でも今のスタイルは自分的にはあってて、気に入ってて、これからもこういうのやっていきたいな。
それともまた別に、映画作ってみたいなとか、そういうのもあったりするんですか。
いやー、ビジョンはないですね。
今のことやる。
オファーが、でもそこは僕が似てんのかなと思ったのは、
この番組でもちょいちょい聞かれて、トニーさんは何やりたいんですかって聞いてて、僕もないんですよ。
でも、例えば仕事として美術館がトーク、こういうトークショーやってくれって言われたら、その中で範囲で面白いことやりたいなっていうタイプで。
僕も、僕はだからそういう意味で言ったら、オファーが無茶振りであればあるほど燃えるタイプなんですよ。
この枠組み、好きにやってって言って、無茶振りされる方が楽しいんですけど、タムラのオファーされるときは。
まあ、制約ある方が作りやすいです。
自由にお願いしますって言われるとやっぱり困りますよね。
何かこう、テーマは欲しいと。
あった方がいいと思いますけど、まあ、なきゃないでやるはやると思いますけど。
なんか、僕はタムラさんの作品が好きでっていう、あれで聞くんですけど。
この番組、いろんなアーティストが出てくださって。でも、大半のアーティストは表現したいものがあって、
作品を通じてこれを見てほしいとか、作品について私のこういう考え方を知ってほしいっていうアーティストも多いじゃないですか。
タムラさんは作品を通じてというか、観客というか見る側にどういうリアクションを求めてるんですか。
いや、全くないですね。今日学生にも聞かれましたね。
じゃあ、どこで自分のモチベーションを保ってるんですか。
いやー、難しいですね。
まあ、頼まれたからやる。
でも、例えば頼まれたオファーに対して、今回例えばATM10とかみたいなのが自分の中で出来上がったときに、
だから要するに、多分テレビのディレクターで言うと、いわゆるカンパケしたときとか、オンエアしたときとかで言うと、
カンパケのときが自分の中で満足というか、一番テンション上がるときですか。
いや、じゃあテンション上がるときどこかって言うならば、やっぱ設営ってか、
現場入って仕込んでるときは楽しいっすよね。
でも、そのワンダーのときにキャスティングしてっていうのを聞いてると、やっぱ観客の反応は楽しみだったりするんですか。
そうですね。けど、結局この仕事ってあんまり観客に出会わないじゃないですか。
納品したらもう終わりなんで。テレビはそうかもしれないですけど、視聴者って見えないじゃないですか。
雑誌作っててもそうですけど、読者って実は見えなくて。
舞台に立ってだとありますけど、仕事の大半はやっぱ観客と出会うことはないですね。
じゃああれはしないですか。エゴサーチみたいな。
あ、します。
あ、しますか。じゃあ今回も見とげーってやったりするんですか。
しますけど、昔ほどやっぱTwitterXがアクティブじゃなくなってるから、
みんなが。だからあんまりエゴサーチしても出てこなくなってるなって気はしますね。
なんか本当に一部のコメントが。
やっぱり今エゴサーチしてもあんまり、僕のメンションしてる人が少ないのかもしれないですけども、
なんかあんまり捉えづらくなっては。けど、それをあんまり危惧してるわけではなく、
自分は自分で。
ちなみに、そろそろ収録時間が来ちゃって、いろいろと聞きたくなったんですけど、
一個だけ個人的にすごい聞きたいことがあって。
今回田村さんとお話しするにあたって、いろいろとネットで調べたときに、
ある記事で、例えば豊田市美術館の展覧会に絡めてたんですけど、
ミラクル光さんと対談をされて、モノマネについて、
面白いなと思ってたんですけど、お笑い自体はお好きなんですか?最後に聞く質問がこれでですけど。
お笑いは好きというか、高度なものだと思いますけど。
それこそちっちゃい時は、うちの親はかつらしじゃく好きで、
読演会もね、4,5回は行ってました。
富山に来たんですか、かつらし。
富山に来たときは行ってましたね。
今も作品で、過去作に3作品、4作品ぐらいは落語家の人が入ってもらって、
語りの部分というかストーリーテリングをやってもらったこともありますし、
漫才師とかコント紙の人には入ってもらったことないですけど、
落語家の人には入ってます。
3個か4個ぐらい作風。
そういうアンテナじゃないけど、だから常にテレビ見たりとか、
今こういうアイドル流行ってるなとかは抑えたりするんですか?
いや、テレビは見てないです。
YouTubeで流れてきたものみたいにしますけど。
ミラクルさんは、
一つ仕事のときに、
兵庫県の木之崎温泉の豊岡市。
コウヌ鳥が有名なとこですね。
そうそう、あそこで美術館とかアートセンターで仕事したときに、
その土地の資源を使おうってなったときに、
ウィキペディア調べると、ミラクル光さんが豊岡市出身。
で、ミラクルさんにオファーして、
ある映像部分の出演に出演してもらったときに、
モノマネ芸に触れたんです。
そのとき、ボディビルダーじゃないですけど、衝撃を受けて。
モノマネってなんでこんな面白いんだよ。
そこから研究会立ち上げたりとか、
学校の研究費取ってとか、
最終、去年は豊田市民、今年から豊田市民につなげて、
ミラクルさんに出てもらってっていうことにしました。
研究会を立ち上げたんですね、モノマネについて。
そうですね。
なんかその話もめちゃめちゃ気になりますけど。
いや、モノマネって、
模倣っていうのは元々ギリシャ時代から、
フラトンとかアリストテレス、
そこら辺からの大きな議論の、
議題の一つであったんですよね。
そこが、今モノマネっていうのと、
AIのところとかもつながったりだとして、
結構面白いイッシュではありますよね。
でも、これが不思議なのがやっぱりモノマネって、
たぶん日本が一番だから、そういうあれですよね。
発展してますよね。
海外もたぶんモノマネ自体はあるけど、
たぶん政治家モノマネするとかはあるけど、