では早速、今日のゲストをご紹介します。
図志在住の映画監督、長谷川友美さんです。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
長谷川友美と申します。
長谷川友美さん、木島と申します。よろしくお願いします。
いまだに映画監督って言われるのがすっごい慣れない。
慣れない?
ちょっともうやめてって思いました。
やめてなんですか?
私なんか全然もう肩紙にも置けない。
いろいろとね、映画監督になれないっていうところも、またちょっと詳しく聞きたいなと思っております。
今日は長谷川さんに海の環境やドキュメンタリー映画制作について、じっくり伺っていきたいと思うんですが、
まずは僕の方からリスナーさんにですね、軽く紹介をさせてください。
お願いします。
現在逗子市在住の映画監督、長谷川友美さん。
ご出身は東京都港区、港区女子じゃないですか。
港区女子、女子という年齢じゃないですけどね。
いえいえ。
邦楽演奏家のご家庭で育ち、和のあれですか?
そうですね、清本って言って、簡単に言うと歌舞伎の伴奏ですね。
邦楽の演奏家と。
はい。
そのご家庭で育って、幼い頃から芸術文化に囲まれて過ごされていたということですね。
そして、幼少期に出会った映画をきっかけに、映画に興味を持ち始めたとのことですが、
日大日本大学芸術学部で映画を専攻されて、大学卒業後はカメラマンの柴野志孝秀さんに弟子入りし、キャリアを積み重ねてこられました。
その後、映像作家、これはあの有名な肩書に。
いいんじゃないですか。
ハイパーメディアクリエイター、元ハイパーメディアクリエイターの高城剛さんと出会って、撮影だけではなく編集も手がけていたとのことです。
そして世界各地を回って、アマゾンのジャングルを口へ録影に行くこともあったということですね。
すごい。
そういった海外での経験もあって、今回ご紹介する長谷川さんが監督も務められたドキュメンタリー映画へとつながっているのかなと思うんですけど。
確かに。確かにそうかもしれない。
ここまでの紹介の中でも、詳しく聞いてみたいお話がポイントとしていっぱい出てきたなと思いますので、盛りだくさんでお届けしたいと思います。
お願いします。
まずは、小さな頃から映画に興味を持ち始めたということですけども、何がきっかけだったんでしょうか。
きっかけは、小学校1年生の時に、友達の今でも名前を覚えている八百屋の渡辺くんのお家で、グーニーズを見たんです、みんなで。
その時に、なんて面白いんだろう。自分とほぼ同い年ぐらいの子供たちが大冒険をする映画なんですけど、それですごいワクワクして、映画ってめっちゃ面白いなと思って。
そこから母親のレンタルビデオ、若いリスナーの皆さんはわかんないかもしれないですけど、当時はレンタルビデオというのがありまして、今みたいにサブスクでポチってやると映画が流れる時代じゃなかったんですね。
大丈夫です。リスナーの皆さんね、30代以上の方も多いです。
レンタルビデオ屋のカードを握りしめて、毎日のようにビデオ屋に通って映画を見てたんですね、ずっと小学校の頃から。
大学の進学を考えた時、何しようかなって考えた時に、もともと物を作る人にはなりたいと思ってて、学生時代にバンドやってみたりとか美術部に入ってみたりとかしたんですけど、いかんせんどちらも全然才能がなくてですね。
本当ひどいんですけど、映画だったら本当に小さい頃からいっぱい見てるし、私でもできるんじゃないかなって思ったのと、ちょうどその時、長役してた人たちがすっごくくだらないマトリックスかなんかのパロディー映画を作ってたんですよ。
それをたまたま一緒にやった時に、なんかやっぱ面白いなと思って、それで迷わず二次大の映画学科に行きましたね。
なるほど。クーニーズを友達みんなで見たって超楽しそうじゃないですか。
そうそう、超楽しかったです。
その後クーニーズごっこみたいなこともやりたくなる感じ。
本当やってたんですよ。だから映画見て、その映画の中の世界ごっこみたいなのをやっぱり家で一人で、お姉ちゃんとか弟とかとやったりとかっていうのをすごいやってたんで。
それが原点だったと。
そうですね、原点でしたね。
二次大芸術学部にご留学されて、映画について学んでいる中で恩師と呼べる方、先生の方で印象的な方いらっしゃいますか。
厳密に言うと日芸で教えてらっしゃったんですけど、私が出会ったのは予備校で、日芸対策の小論文の授業があったんですよ。
私日芸行きたかったからそこ行ったんですけど、いわゆる予備校の先生と全然違って、日芸の小論文はこういうことが出るからこういうふうに書いたらうかるみたいなのが全くなくて。
真部理一郎先生っていう映画音楽家の人だったんですけど、もともとは大島渚プロダクションに入っていらして、初期の大島渚の音楽を作っていらした方なんですけど、
やっぱりあの時代を生きてきた方だったなって今思うと、学生運動とか大島監督ですからと一緒にやってたような方なので、社会の動きに対してもすごい敏感で、
お会いした時たぶんもう70とか80、70代近かったですけど、当時20年ちょっと前ですけど、リナックスとかを自分で使ってるぐらい最先端のものにも常にアンテナを張っていらして、
そこで社会の見方を教わったっていう感じですね。私が今までふんわりとしか知らなかった社会の本当の動きというか裏側とかものの見方を教えてくださった先生だなというふうに思いますね。
真部理一郎先生。
真部理一郎先生。
日芸ではなく予備校の先生。
日芸でも教えてたんですよ。
日芸の時代はどうだったんですか。
日芸の時は私当時、時代もそうだったと思うんですけど90年代って社に構えるのがかっこよかったじゃないですか。なんかガンバンド出せたり、みたいなそういうのがかっこいいとされてた時代じゃないですか。
サークルとかクソダサいと思ったんですよ。ただ授業は映画制作はすごい楽しかったんで、そこだけはすごい真面目にやってました。
特に3年生4年生になると班ごとに分かれて自分たちで短編映画を作るんですけど、それが本当楽しくて夏休み仲良しのみんなと20人ぐらいかな。
でもう合宿しながら5本ぐらい短編映画を作ったんですけど、それが本当楽しくて、映画作るのってマジ楽しいなと思って。で卒業してからも映画の業界で働きたいなってそこでは思って。
で私は卒業審査の当日まで作業してたんです。フィルムで作ってたのでプリントをしなきゃいけないんですけど、そのプリントがお前これ失敗したら卒業できないからなって教授に言われて、
その最後のプリントが上がってチェックもokで、その教授は本当にお世話になったの宮沢先生って言って、日芸の獣人みたいな先生で私を現場にも連れてってくれた先生なんですけど、みんな宮ちゃんって呼んでたんですが、
もう宮ちゃんが私のそのプリントが上がったフィルムを手に掲げながら審査会場にパーって入って、長谷川終わったぞーっつって、で無事審査にかかって卒業が決まったっていう。
ドラマチックですね。
本当皆さんのおかげで、宮田先生別に先生なのに、私があまりにも作業が遅いから、私の編集一緒に手伝ってくれて、もともと編集の先生だったから、本当そういうね、一緒にやってた、録音やってくれた池内さんって女の子も、私が学校に来なかった時も彼女がずっと一人で編集してくれて、本当皆さんのおかげで卒業することができました。
そこだけでいい一本の映画みたいな重要エピソードはありがとうございます。
ありがとうございます。
日大の芸術学部、卒業されてからはどんなお仕事だったんですか?
さっき申し上げたようにですね、3月とかまで卒成の作業をしてまして、燃え尽きちゃったんですよね。
もう本当に一生懸命やりすぎて、もういいや別に就職とかどうでもみたいな感じだったんですよ。
当時私洋服も好きだったから、ソフィアコッポラが当時ミルクフェドってやってたんですよ。
懐かしい。
ミルクフェドが当時大好きだったから、ミルクフェドで洋服の販売員さん募集してたから、これでいいやとりあえずと思って受けに行ったんですけど、なんかすっげえ感じ悪くて。
いつも店員さんで優しかったお姉さんがすっげえ感じ悪くて、うまく面接がいかなくてそこを浮かんなくて、どうしようかなとりあえずブラブラするかって思ってたら、さっき話した宮ちゃんが機材のレンタル会社でインターン探してるから、お前現場向いてるから行ってこいって言われて、じゃあやりますみたいな感じで。
卒業して半年後ぐらいにそこのナックっていう機材屋さんで働き始めたんですね。そこを出るときぐらいに、さっきご紹介いただいた柴主さんって、当時柴主さんは黒沢あきらじゃない、あきら新年だろ、黒沢清監督の明るい未来を撮影されてたんですよ。
私明るい未来は当時映画館で、今はもうないんですけどシネアミューズイーストウエストってあったんですけど、当時ミニシアター全盛期だったんですよね渋谷って。私も大好きで。
アミューズに明るい未来見に行ったときに、映画自体も素晴らしかったんですけども、映像が本当に素晴らしくて、明るい未来の。この人すごいなと思ってたときに、ちょうど見習いを探してるからっていうので、そこで柴主さんに弟子入りして、今から18年前の世界なんで、本当弟子なんですよ。
なるほどなぁ。
すごい撮影部っぽいな、この。
僕もなんかここ切るかわかんないんですけど、音響の世界に専門学校に出たりしてたんで、PAの現場とかね、音響の現場ももうみんな男女構えるっていう感じだったし、スピーカー重いの持ち上げて。
技術職ってそうですよね。意外とだからそんなに言うほどジェンダーイコーリティーはなかったわけじゃないと思うんですよ、技術職は。
要はやらなきゃいけないことは決まってるから、そういうのはそんなになかったかなって思いますね。
映画の撮影アシスタントの仕事って、すっごいやりがいがあるんですよ。
映画の撮影現場って本当楽しくて辛いんですけど、大の大人が嘘っぱての世界をね、みんなで一生懸命作るのって、それ自体すごい面白いじゃないですか。
1ヶ月2ヶ月合宿みたいな感じで毎日毎日みんなで一生懸命一つのゴールに向かってやるのって、すごい達成感もあるし、しかも一期一会で毎回毎回同じスタッフが集まるってことはないんですよ。
映画の現場ってみんなフリーな集まりだから、初めて会う人と一つのゴールに向かってやるっていうのと、毎回話も違うから毎日すごい新鮮だし、全然飽きなくて、めっちゃ楽しい、もっともっと上手くなりたいみたいな感じで気づけば時がすごい過ぎてましてですね。
もともと私映画の監督がやりたかったんですけど、さっきの恩師の真鍋先生から監督なんて大学で勉強したってなれるもんじゃないから、とりあえず技術を勉強した方がいいって言われて、それで撮影コースに入って、その流れで結局ずっと撮影助手でカメラマンになるまで行っちゃったんですけど、監督やりたいっていうのはずっとあったんですよ、心の中に。
30代も半ばになって撮影の仕事をちょこちょこっとできるようになったけど、当時日本の映画業界に対してもすごい行き通りというか、ちょっとこのままここでやってくるのつらいなっていうふうに思い出して、そのぐらいの時にやっぱり監督やりたいし、自分で監督できる場所を探したいなっていうのはずっと思ってたんですよね。
撮影部をやりながらも。そういう時に高城剛さんがご自身の会社でカメラマンを探してるっていうのを、メルマがそういう広告を出していて、どうせわかんないだろうけど、とりあえず応募してみようと思って応募したんですよ。
そしたら次の日ぐらいにメールが返ってきて、その週末ぐらいにそこで4時間ぐらい映画について、映画を撮りたくてみたいな話とか、今技術はこうなっててみたいな話をすごいわーってお話ししてもらって、じゃあ一緒にやりましょうみたいなことになったんですよ。
その時に私は高城さんにも、私撮影でずっとやってきましたけど、本当は監督もやりたくてって話をしたら、全然うちらったら監督もできるし、逆に編集のこととかも全部覚えられるからみたいなことで、すごいいいじゃんと思って。で、一緒にやることになりまして。
撮影の仕事って結局は監督がいるから、答えは自分で出さなくていいんですよ。監督がこういうことやりたいって言ってて、じゃあこれはAやBやC案ありますけどどれがいいですかみたいな。じゃあそれがいいんだったらこういうのもできますけどみたいな。答えがあるものに対してこういう選択肢ありますよみたいなサジェストションをするっていうのがメインの仕事なんですけど。
やっぱり監督ってなると自分で問いかけも見つけなきゃいけないし、自分で答えも見つけなきゃいけない。そこの部分がやっぱり私は本当に苦労して、高城さんにもそこは本当に一番突っ込まれましたね。
それまであまりカメラマンとしてやってたから、そこがやっぱり初というか、そういったことを求められる機会っていうのがやっぱり仕事の中ではなかったんですかね。
そうですね。なかったというよりは、私の中で物を作るっていうことを甘く考えてたんですね。やっぱり監督をする、作品を作るっていうことをやっぱりすごい甘く考えてたし、今までカメラマンの立場から監督の人に本当好き放題言ってたから、本当にすいませんでした。こんな大変なことを皆さんやってたんですね。本当にすいませんでした。生意気なこと言ってって思いましたね。
なるほどな。どちらも知ってるからね。
そうですね。
それが生きてるんじゃないかなと、今でも。
先ほどね、アマゾンのジャングル大口までっていうところもちょっとご紹介させていただきました。世界中いろんなところにやっぱり巡られたと。
はい。
だから世界で、なんでしょう、やっぱりその海外に出ると日本との文化ですとか経済格差とかなんかいろんなものがあるかと思うんですけど、それまでは海外とか行くことってあったりしたんですか。
そうですね。私、夫が外国人なので、イギリス人なので、彼と出会ったのがすごい大きいんですけど、あとは東日本大震災。
その2つが結構私の中でこの日本を見る目が大きく変わった2つのことで、それまでやっぱり内側でしか日本を知らなかったから、外側から見た日本がどういうものなのかみたいなのは、やっぱり彼と会って、ヨーロッパの人たちのスタンダードな考え方だとかっていうのを聞いたりだとか、
映画を通してということであれば、最初に作ったドキュメンタリー、チョコレートのドキュメンタリーなんですけど、それで南米の野生のカカオを探しに行くっていうのがメインの映画だったんですけど、そこで行ったやっぱり南米の国々っていうのが、すごい貧しいんですよね、カカオ農家の皆さんって。
すごい貧しいし、やっぱり電気も水道もガスもないようなところで暮らしてらして、でも別に不幸そうじゃないんですよ。本当に成功うどくという感じで、晴れたら働くし、雨が降ったらチチャっていうタロイモかな、タロイモか何かで自分たちで作るお酒があるんですけど、朝からそれをずっと飲みながらずっとどってるんですよ。
それが3日間、私たちがいたとき、毎朝村の集合場所みたいなところで現地のスタッフと集合してたんですけど、最初の日にまずみんなお酒飲んでて、お酒飲んでるなと思ったんですけど、2日目3日目になるともうみんなどんどんグネグネになって。
そんな雨が続いたってことですか。
あれはね、すごかった。すごい面白かったですね。
単純に経済格差っていうと、貧しいからかわいそう、彼らを助けなきゃいけない対象なんだみたいなふうに思うことがまずすごい間違いなんじゃないかなと思って。
結局彼らってそういうNPOだとかからいろんなもの提供を受けても売っちゃうんですよね。
明日のお金が欲しいからソーラーパネルとかを各家につけてもらっても次の日には売りに行ってお金に変えちゃうんですよ。
そういう価値観で生きてる人たちに、前の映画のテーマでもあるんですけど、西洋的な我々の価値観を持ち込んだとしてもやっぱり難しいんですよね。
単純に3年後4年後に良くなるから今我慢してっていうのは、やっぱり彼らにとってはとても難しい。
10年後20年後は良くなるかもしれないけど、じゃあ今日どうするの、明日どうするのっていう話だと思うんですよね。
でもそれって今回の海藻の映画をやった時に日本も全く一緒だったんですよね。
やっぱり漁師さんって10年後20年後の海が豊かになることはもちろん大事だってみんなわかってますけど、でも今日目の前にめっちゃいっぱい魚いたらやっぱり捕りたくなるし、
それって人間の本能的なものだからそこの生活に目指してない人たちがいくら行ってもやっぱり響かないですよね。
まずじゃあ生活保障してくれよってなるし、そこは単純に測れないところだなっていうふうには思いましたね。
なるほどですね。幸福とは何ぞやっていうところ。
みんなめっちゃ幸せそうでしたよ。ボリビアのカカオ農家さんとかもちろん洋服はボロボロだったり、家は自分たちの手で立てたりとかしてたけど、
赤ちゃんは常にお父さんお母さんに抱っこされて家族で革の地になって寝て、庭には鶏とかが駆け回って、それが次の日の食卓に出てきたりするんですけど、
すごい子どもたちも笑顔だし、だから本当幸せって何なんだろうって、日本でこんなに幸せそうな家庭が共同体があるだろうかっていうのはすごい思いました。
物質的な豊かさと精神的な豊かさって全然比例しないなと思いましたけど、と同時にそんな電気も水道もない村にも携帯の電波と渡ってるんですよ。みんなスマホ持ってて。
だからインターネットにアクセスしてるんですね。っていうことはやっぱりみんな他の世界がどういうものを持ってるかっていうことを知るじゃないですか。
そしたら彼らもより便利で快適な生活が欲しいと思うし、それをすでに持ってる我々が言ってね、いやいやそんな大したことない、精神的に別に幸せになるわけじゃないから今のままでいいじゃんって言ったって、それは無理じゃないですか。
そんな自分たちだけこんな良い生活享受して、そういう南米の人たちとかに対してはいやいや発展するなっていうのって本当にエゴだし、それって環境問題の今すごい大きな論点にもなってると思うんですね。
先進国はCO2は減らすって言ってるけど、これから成長しようとしている国々にそれを強いるのか、だったらその代わり金を払えみたいな話になっていて、それはやっぱり彼らからしてみればそういうのはすごいフェアだと思うし、さっきも言いましたけど自分たちの価値観だけで全てを測って、他の文化圏、他の生活をしている人、他の経済圏にいる人たちに努力を強いるっていうのは本当にエゴだと思いましたね。
これめっちゃいい話だね。
めっちゃいい話ですね。なんか有名な話でありますよね。フィクションかわからないですけど、魚を獲って悠々自的に暮らしている人のところにあるビジネスマンがいて、魚をこうやったらもっとうまく獲れるし、うまく獲れたらどうするの?って。
それを会社に起こして、こうやったらお金儲けできるよって。その先に何があるの?って言ったら、悠々自的に釣りができるんだよみたいな。もうできてるじゃんみたいな。
でもやっぱりその話って、もうできてるじゃんって言ってる人たちの方はやっぱり発展したいんですよ。みんなやっぱりお金もっと稼ぎたいし、家族にもっといい暮らしをしたいし、電気があるところで住みたいし、その欲望って止められないし、止める権利誰にもないと思うんですよね。
そこのバランスがすごい難しいんじゃないかなと思って。ちょっとね、これ今、もうちょっと先に話したほうがいいのかもしれないけど、環境問題ってどうしてもすごい潔癖症みたいに環境問題の活動をするなら、じゃあお前は車に乗るな、飛行機に乗るなとか、そういうことになりがちじゃないですか。
でも私ちょっとそれに対してすごい違和感があって、だって無理じゃんって思うんですよ。
プラスチックとかもね、使わないのは無理じゃんみたいな。
もちろんね、減らす努力はするべきだし、必要ないことに大量にお金を費やしたりとかね、環境を悪くするって分かっていることを延々と続けることは良くないと思いますけど、でも無理じゃん。私たちがここまで発展した生活を江戸時代のような形に戻して国内自給率を上げてみたいなことってもうできないんですよ。
人口を減らさない限りね。だからそうじゃなくて、今じゃあできることってなんだろう。今、私たちは過去にはできなかったけど、今できることってやっぱり技術の進歩だったりとか、今までにない仕組みづくりだったりとか、あとは発想の展開になったりとかっていうことだと思うんですよね。
だからそこをうまくバランスを見つけていくのがすごい大事なんじゃないかなとはね、思いましたね。
なんかね、後ほどお聞きするお話も通ずる話をね、今いただきたいなと思うんですけども。
で、高城創一さんのお仕事で世界中を回られて、そして今、図書館にお住まいだというふうなところなんですけども、2020年にコロナ禍をきっかけに図書館に移住されたそうなんですが、なぜ図書館だったんでしょう。
まず引っ越そうと思ったのは、当時まだ1作目のTaste of Natureっていう高城さんプロデュースの映画を編集してた頃で、もうちょっとね疲れ切ってしまって、もうちょっと引っ越したいなっていうのはあったのと、ちょうどコロナ禍っていうのもあって、
当時東京の板橋の国道沿いに住んでたんですけど、ロックダウンになったときに、この家と近くの鳥津港ぐらいしか行けるところがなくて、これであと1年とか2年こういう状態で暮らすのはさすがにきついよねって話になって、
都道府県内に自然があるところに住みたいねっていう話をしてたんですよ。ちょうど姉がその1年前から2年前ぐらいに図書館に引っ越していて、何回か遊びに行ったので図書館いいかもなと思って、家を探したらちょうどいい家があったので、もう速攻で引っ越しましたね。
お仕事のスタイルとか、映画制作といったところに何か影響はあったりしますか。
今だったらね、ちゃんとデータを持っているような会社だったら、オンラインでリモートでもそんなにタイムラグなく編集一緒にできたりとか、グレーディングすらその場にいないでもできたりとか、色味の調整とかすらするので、今だったらそんなに感じないんじゃないかなと思いますけど、ただやっぱり映画作りってどうしても東京中心なんですよね。
朝も東京の渋谷か新宿に集合して現場に行くみたいなことが多いので、でもギリ、私図書館引っ越してからも結構低予算のレンドラーやったりしましたけど、ちょうどその時スケジュールをつくるチーフジョー監督が鎌倉に住んでたので、私たちが新宿に着けるときにしかスケジュール切らなかったから、なんかそういう自分がメインになればそういう融通は全然効くので、助手だと難しいかもしれないけど、
自分がメインだったら、じゃあ今日の現場は車で行きますとか、今日の現場はどこどこから乗りますみたいなことができるから、全然大丈夫だと思いますね、ギリ、図書館だったら。東京にも通える仕事もできる。
なるほど、鎌倉に住んでてよかったですね。そうそう、あの時本当に千谷さんありがとうございます。
ちなみに図書館に来られてから、ある短編映画の制作の撮影を手がけられたと聞いたんですけども、聞かせていただけますか。
はい、姉が私がちょうど図書に引っ越すよってなったぐらいから、図書で今ママ友で映画監督の人がいるから紹介するよみたいな、そんなことあると思ったんですけど。
ママ友に映画監督とかいる?みたいな感じだったんですけど、結構引っ越してすぐじゃないですかね、姉が山下つぼみさんっていう方を紹介してくれたんですよ。
うちで姉家族と山下つぼみさん家族みんなで集まって一緒にご飯を食べるみたいなのがあったんですけど、そこで結構意気投合をして、山下さんがちょうど短編とかを撮りたいみたいな話を確かその時してて、
私そういう話聞くともうめっちゃプッシュするんですよ。ぜひもうやりましょう!みたいな。絶対やった方がいいですよ!みたいな。本当に思うし、監督をやる人は本当に作品いっぱい撮った方がいいと思うので、カメラマンとして助けられることはあると思ったので、ぜひやりましょう!みたいな感じで。
山下さんが本当に本気で考えてくださって、もともと撮ろうと思っていた作品を、ちゃんと他のスタッフも入れて撮るような体制の作品にしてくださったんですよね。私の知り合いのスタッフが来てもらって、みんなで短編映画を撮ろうという流れになりました。
その作品のお名前が?
カノヤマと言いますね。これでもね、みんなで撮ろうって言いましたけど、これ本当山下さんがご自身の資金でね、ご自分のお金を貯めて、全部お金を払って作り上げた作品で、そういう意味では本当に尊敬に値しますね。
これもすごいやっぱりリスクじゃないですか。やっぱりそれだけの作品を作るのってお金もかかるし労力もかかるから、それをやったっていうのは本当に素晴らしいことだなとは思いますね。
なるほど。そのカノヤマが第78回のベネチアの国際映画祭のオリゾンティ短編部門にノミネート。
山下さん、やっぱり才能あふれる方だというか、私それまで映画の現場って何本もやってきたんですよ。アシスタント時代から年4本とか5本とかやってたので、でもやっぱり映画の現場って30人40人50人が毎日動くから、現場1日動かすのに100万かかるって言われるんですね。
だからやっぱりスケジュールは守らなきゃいけないし、時間通りに効率よくやらなきゃいけないっていうことも求められるんですよね。プロとしてそこは守らなきゃいけないラインだっていうのもあるし、でもカノヤマを作ってるときは本当にすごい贅沢な時間だったんです。
本当にクリエイティブをちゃんと追求するというか、ちゃんとお芝居を作る時間を設けて、ちゃんとみんなが納得するまでは回さないし、きちんとリハーサルの時間をたっぷりとって作品を作るっていうことができたので、これってなかなかプロの現場だとね、想像できることではないんですよね。
実習政策ならではだし、本当にすごいいい現場だったなというふうに思いますね。
これが2021年の頃ですか?
そんな3年も前なんだ、あっという間ですね。
そうですね。
なるほど。
そういった形で寿司でも、撮影も寿司でもされた作品だと思うんですけども。
その撮影のときもね、今もう綺麗になっちゃいましたけど、あの古墳あるじゃないですか、桜山公園の。
あの古墳公園って今すごい整備されて綺麗になっちゃいましたけど、当時カノヤマを撮影してたときには、まだ結構木がボーンって追い茂って飛んでるみたいになってて、
あの当時のあそこの桜山古墳の様子が、あの映画には残ってるんですよ。
まだブランコもできる前のね。
ブランコできる前。
できる前。
だからそういう意味でもね、ぜひもし皆さん機会あったら見てほしいなと思います。
ほんと寿司の魅力にあふれた映画になってるんで。
だったらこれは映画としてみんなに伝える価値があることなんじゃないかなっていうふうに思ったのがやっぱり一番最初のきっかけですね。
なるほど。制作期間っていうのはどれくらいだったんでしょうか。
一番最初にプロデューサーから話を回想についてちょっと話を聞きに行きませんかって言われたのが2021年のちょうど今頃で、
本格的に撮影を開始したのは2022年の1月とか2月とかからですかね。
早いね。
早いですね。
映画のシーン、冒頭で本当に海の中なのに森のような海藻が生い茂っているシーンも。
めっちゃ綺麗ですよね。
めっちゃ綺麗でしたね。映画のシーンの中で南貝部の昆布漁師さん、漁協関係者さん、
そしてその昆布でお出汁をとっている日本料理のミシュランをとられているようなお店の料理人の方だったりとか、
老舗の昆布加工製造会社の大阪のそういったところの昆布の土井さんだったりとか、
それだけではなくて様々な分野の指揮者の方々ですとか研究者の方々へもインタビュー行かれたってところで、
やっぱりその制作取材を通じて海に対する思いみたいなものですとか知識もそうですし、
そういったところが変わってきたと思うんですけども、その辺思いの変化みたいなのもあったんでしょうか。
そうですね、まず作る、制作するときから、まずロケーションをどこにするかっていうところを選定するときに、
天然の海藻で大きい産業を持っていたけれども、その海藻自体がなくなってしまった場所はどこかっていう観点で探したんですよ。
そこで南海辺っていうのが持ち上がってきて、漁師さんだけにしない方がいいなっていうのは思ってたんです。
漁師さんだけじゃなくて、その末端の消費者というか昆布を使う立場の人たちの意見も必要だし、
それと行政、公の立場の意見と研究者の立場の意見、それぞれの皆さんのお話を聞くことで全体が理解できるっていうふうに思ったので、
制作を始めたときから、その中立な立場で現象を描こうっていうのはすごい思ってましたね。
どこかに偏るんじゃなくて、漁師さんの目線だけじゃなくて、ちゃんとあらゆる目線から問題を炙り出したいなっていうふうには思ってましたね。
はい、ただやっぱいろんな人と、本当にいろんな人と会って、今回の映画多分100人以上にインタビューしてますし、
映画では残念ながら、本当に全員使えなかったんですけど、本当に今でもあれはカットしなきゃよかったって思うシーンが山ほどあって、
それぐらいその磯焼けの問題について、昔から研究されていた90歳を超えている研究者の方、
新村弥和さんとおっしゃるんですけど、の話だとか、たくさんの方が海のことを本当に真剣に考えて、
それぞれの立場で今のこの問題を、危機感を持ってるんだっていうことがすごいよくわかりましたし、
あと、結果として今回の映画は漁師さんの目線っていうのに一番多くの時間を抑えてるんですけど、
それも何でかというと、私が一番シンパシーというか共感できたのがその漁師さんなんですよね。
それはなぜかというと、彼らの文化的な背景というか、やっぱり世襲なんですよね、漁師さんの文化って、
親から引き継がれていくもので、私の実感はやっぱり世襲性なんです。
邦楽演奏の世界って親から血がつながった人がついていくっていうのが決まりというか、そういうものなので、
なおかつ失われつつある文化でもあるんですよね。本当に自分が娘でこういうこと言うのもあれですけど、やっぱり今って邦楽の世界って、
補助金をいただかないとなかなか継続するのが難しい状態で、漁師さんもやっぱり今そうなりつつあるんですよね。
北海道はまだ水揚げが潤沢だから大丈夫かもしれないですけど、特に長崎とか南の方の個人でやってる漁師さん、
定置網とか会社でやってる人たちはまだ全然大丈夫ですけど、一人で船を出して一人で網を出してやってるような、
個人で営業されてる漁師さん達って本当に厳しいんですよね。そういう人たちの姿と、なんか私のバックグラウンドっていうのが、
すごい交差する部分がやっぱりいっぱいあって、今回これを映画にする意味っていうのもすごい考えたんです。
単に情報を伝えたいっていうことだったら、映画って別にそんなにいい手段じゃないじゃないですか。やっぱりすごい時間かかるし、
完成してから劇場にかかるまでのタイムラグもあるので、単純にこの状況を今すぐに伝えたいんだったら、やっぱり映画っていう手段じゃないと思うんですね。
今だったらYouTubeでもいいし、でもそうじゃなくて、私たちは映画っていう手段を選んだからには、やっぱり10年経っても20年経っても30年経っても、
見るに耐えるような価値観をその中に描かなきゃいけないっていうふうに思ったんですよね。その時にやっぱり、
階層だけじゃなくて日本の文化とか、家族の形態、共同体の形態っていうのが今、
すごい大きく変わる過渡期にあるっていうふうに思ってるんですね。そこで失われてたあるものって本当にたくさんあって、
それを階層が象徴してくれてるというか、それをトリマックスにあみかやべの古くはね、あそこって縄文文化からある、
もうそんだけ1万年以上、縄文文化っていうと昔からあそこには人が住んでいて、もしかしたらそこでコンボを取って生活してたかもしれない。
それぐらいずっと紡がれた人の営みと文化っていうものが、今失われつつある。それをやっぱり守りたいって思うこと、
親から受け継いだものを守っていきたいって思うことって、すごい普遍的だと思ったんですよね。
それはやっぱりみんなの心に深く訴えるし、今だけの話じゃない強さがあるなっていうふうに思いましたね。
劇中にね、あのみなみかやべの記録映画。
あれ見つけたとき、マジよっしゃーって。
あれがね、こういう時代があったんだっていうね、天然のコンボをワンサが撮ってるシーンがあって、
そこと現在の対比みたいなところもやっぱりシーン、衝撃的だったりもしましたし、
なんかそういった立ち位置でこの作品がね、結構その価値のあるものとして今後見ていかれていくといいなぁなんてちょっと僕は思いましたね。
ありがとうございます。
あれね、ちょっとあんまり言うとネタバレになるから。
めっちゃ言いたいけど。
見てください、みなさんね。
でも、そういった形で膨大な、先ほど100名ぐらいって言ってましたけど、
それで言うと映画の中に登場されているのはその中のほんの一部だと思うんですけど、
膨大な量のインタビューですとか、制作の撮影されたものを一本の映画にまとめるのって結構大変だったんじゃないですかね。
めっちゃ大変でした。
めっちゃ大変でした。
死ぬほど大変だった。
それはぜひ後半のエピソードで詳しく聞かせてください。
お願いします。
じゃあ後半が気になるところですけども、ここで改めてこの映画、
ここにいる、生きている、消えゆく海藻の森に導かれての今後の上映スケジュールをお知らせします。
畑川監督の方から上映スケジュールをお知らせしてもよろしいでしょうか。
アップリンク吉祥寺では1月の10日から上映が始まって、
もしかしたらもう皆さんがこのラジオを聞いている頃には終わってしまったかもしれないんですが、
でも大丈夫です、ずしの皆さん。ずしでの上映が決まりました。
まず2月の8日にずしの文化プラザホール、さざ波ホールのほうですね。
夜の19時からになると思います。ちょっと時間、19時くらいからになると思います。
の1回上映と、その後2月の16日からシネマアミーゴさんでも上映が決まりました。
ぜひ、ぜひ、ぜひ、文化プラザホールのときはですね、
トークイベントなども合わせてやりたいなというふうに思っているので、
ぜひ皆さんいらしてください。
いいですね。やっぱりその映画をね、みんなで見て、トークショーも含めて、
そこにいるみんなで体感してね、共有して持ち帰るというのは結構いい体験になるんじゃないかと思います。
思うので、ぜひそのさざ波ホールの上映のほうも皆さん足を運んでみてください。
次の日、私誕生日なんで、誕生日プレゼントだと思って、ぜひ、よろしくお願いします。
はい、そんなわけで大変だったというふうな1本のドキュメンタリー映画にまとめる
そういったところについては後半のほうでお聞きしたいと思います。
続きは来週の回でお届けします。お楽しみに。