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はい、アートテラー・とにのそろそろ美術の話を。この番組は、アートテラー・とにが、アートに関わる方をゲストにお迎えして、
脱線を交えながら、ダラダラトークを繰り広げる、ポッドキャスト番組です。
さて、本日はですね、川崎市岡本太郎美術館にやってきました。今回は、こちらの学芸員の郷杉博さんをゲストにお迎えして、
岡本太郎について話していきたいと思います。
はい、この番組の7回目ということで、ついにリスナーさんからお手紙が届きました。読み上げたいと思います。
とにさんのファンなので、すべてウキウキと拝聴しました。
アートツアーには何度も参加していますが、ご自分のことを改めて振り返られている話を聞ける機会、楽しかったです。
番組を作っていただき、ありがとうございます。
音声がクリア、お話のスピードも良くて、聞いていて心地よいです。
すごいですね、ここまでずっと褒めて。
こんな自分で読み上げて、どんな番組なんでしょう。はい、今後も学芸員さん、
ギャラリーの方、若手作家さんや、とにさんとは別のスタンスでアートを盛り上げようとしている方との話など、
いろいろ聞いてみたいと思います。楽しみにしております。
この学芸員さんの中に、今無償に岡本太郎の話が聞きたいです、ということがありまして、
今回はですね、
岡本太郎のことといえば、この人に聞くしかないということで、大杉さんに来ていただきました。
どうぞよろしくお願いします。 よろしくお願いします。
いやー、まさか大杉さんとこういうことをする機会が来るとは。
そうですね。
もう長いんですか、こちらで学芸員して。
実は、僕はこの美術館を立ち上げる前から、
準備の段階から入っているんですけど、
かれこれもう20年以上、
仕事はしています。
その話もね、後で掘り下げていきたいなというふうに思うんですけどね。
さあ、今回ですね、ぜひぜひプロデューサーが、これは聞いてくれということで、
岡本太郎の生涯、いかにして芸術家、岡本太郎は生まれたのですかと、
まあね、一般の方もそうだと思いますけど、太陽の塔とか、明日の神話を作ったイメージ、それから、
アヴァンギャルドなイメージがあるんですが、有名になる前の話っていうね、あと社会的この評価を得るまでの話っていうのを、
色々と聞いていきたいなということなので、色々と教えていただけたらなというふうに思いますが、いいですか、ぜひ、はい。
そうですね、あの、岡本太郎といえども、
生まれた時から岡本太郎ではなかったんですけど、
そもそもが、岡本太郎さんのお母さんっていうのが、文学者なんですよね、あの、家人であってね。
で、お父さんというのが、まあ、いわゆる大正、昭和の時代には、
総理大臣の名前は知らなくても、岡本一平の名前は誰でも知ってるって言われたぐらい、
もう一世を風靡した漫画家なんですよ。
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手塚治虫さんよりも前に、でも有名、国民的な。
そうなんです。まあ、それぐらい有名だった漫画家なんですよね。
まあ、いわゆる良心が芸術家なわけですよ。
サラブレット中のサラブレットですね、そこだけ聞くと。
そうですね。
で、その、まあ、もともと岡本一平さんというのは漫画を描く前に、
あの、いわゆる、今の東京芸大で、やっぱり油絵を描いてたんですけどね。
あ、そうなの、はいはいはい。
で、もともとね、油絵を描くというよりも、あの方はどちらかというと文才があった。
小説家になりたかった人なんですけどね。
あ、そうなんですか。
で、実は岡本太郎のおじいちゃん、なんか一平のお父さんは、書家なんですよ。
へー。
岡本家庭というね。
どういう字描くんですか、家庭。
家納の家に、あのー、何とか庭の。
はいはい、あのー、月庭家長という庭の字ですね。
月庭家長が通用するのもいいですね。
そうですね、例えば古賀。
はい。
あのー、そういうすごい書家でね、実はあの北王子路山人さんってご存知ですか。
おーはいはいはい、書家でも有名な。
はい、陶芸家でもある。
あの北王子路山人というのは、おじいちゃんの家庭さんのお弟子さんなんですよ。
もうなんかすごい、あれ、家計図みたいなのができてる。
そうなんですよ。
ですからね、実はね、あの北王子路山人は、小さい頃から太郎さんをよく知ってて、
すんごく可愛がってるんですよね。
へー。
太郎さんはどっちかっていうと、あのうるさいクソ親父みたいなんで、あんまり好きじゃなかったんですけどね。
可愛がってもらってたのに。
もらってたのに。
まあそういう、なんか家柄なんですよね。
じゃあ芸術家にしてなるべくしてなったようなところはあるんですか。
カノコさんという方が、家人であって、またこの方は非常に変わってる女性なんですけども、
岡本太郎さんに言わせれば、同女がそのまま大人になったような。
子供のまんまってことですか。
すごくやっぱり、芸術に対するパッションがすごいんですよ。
実はね、芸術家の家計をいっぺんに求めて結婚するんですけども、
いっぺんという人は、ちゃきちゃきの江戸っ子でね、
そんなね、はっきり言ってね、しこしこアトレにこもって絵描くようなタイプじゃなかったんですよね。
いわゆるザ芸術家って感じじゃなかったんですか。
それに、カノコさん、奥さんは厳滅しちゃって、そのエネルギーを太郎さんに持っていくわけですよ。
英才教諭。
でね、たまたまいっぺんさんが、当時ロンドンの軍縮会議があって、
その取材のためにロンドンに行かなきゃいけなくなるんです。
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ちょうど朝日新聞に勤め始めた頃なんですよ、いっぺんさんが。
そこで新聞の差し絵画家をね、やってたんですよ。
で、その軍縮会議の模様を、当時テレビないですから、差し絵でもって描いて、
それを日本に送って、日本の新聞に掲載するっていう。
なるほど、今では裁判の傍聴器の感じのってことですか。
そのために、逃亡しなきゃいけないと言うんで、
じゃあいいだろうって言うんで、いっぺんさんはカノコさんと太郎さんを連れてフランスに行くんですよ。
これ、太郎さん何歳の時くらいですか。
18歳の時ですね。
じゃあ一番多感な時期に。
東京美術大学を入るんですけども、もうその途中で大学を辞めて、
そっかそっか、ついてったんですフランスに。
もうそれはね、いっぺんカノコの仕組んだことですよ。
あなたはパレで絵を学びなさい。
普通は大学4年やるだけやってんだけど、じゃなくてもう大学いいからみたいな。
日本の大学なんてどうでもいいから。
あの当時は芸術の中心はパレでしたからね。
ピカソとかいる頃ってことですね。
あなたはパレに行ってね、本当の絵をお学びなさいっていう感じで連れて行くわけですよ。
だから高校卒業して大学野球やらなくていいからいきなりメジャー行ってこいみたいなことですよね。
そういうことですね。
それで自分たちはロンドンの軍手会議とかの取材を終えて、
しばらくパレなんかで滞在してゆっくりするんですけども、
しばらく日本に帰ると。
18歳の太郎は一人残されてですね。
今でこそパレに行くと日本人、ワンサと言いますかね。
あの当時パレにいる日本人なんて僕わずかしかいなかったですね。
じゃあ藤田粒春とかとは会ってるんですか?
会ってます会ってます。
仲良かったんですよ、一平さんとしても。
一人単身パレで生活するんだけども、
奥本太郎っていうのは、
そういう良心家のものすごいプレッシャーを感じながら絵の勉強を始めるんですけども、
さてパレに行ったもの自分は何を描けばいいのかわからない。
わからなきゃしょうがないんで、
もうパレに来たら俺はもうフランス人になってしまおうっていうんでね。
まず言葉ですよね。
要するに日本だったら美大に入ったわけじゃないですか。
フランスって美大には行かなかったんですか?
行かないです。
まずフランスの小学校、小学生と一緒に寄宿舎に入って、
小学生と一緒にフランス語を学ぶんですよ。
そっから始めるんですか?
ですからね、実は案外皆さん知らないのが、
奥本太郎のフランス語はすごく綺麗なフランス語です。
ネイティブなの?
ネイティブな。
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そうやってフランス語を身につけて、
それから一応絵の勉強をしようっていうんで、
結局絵描きさんっていうのはね、
なんか自分の中に、
これが描きたいっていうような衝動がないと、
やっぱり絵って生まれないんですよ。
でも何を描いていいかわからない。
わからないから、パリのいろんな人の作品を見ようと。
そしてある日、ギャラリーに入って、
ピカソの作品を見るんですよね。
そのピカソの作品っていうのが、
偶像のような、抽象のような、
水差しと果物が籠っていう、
そういう作品だったんですけどもね。
いわゆるキュビズムの時代とか?
まだ言ってない。
若き日のピカソなんですね。だからピカソのピカソで。
その作品を見たときに、
あ、抽象画ってすごいなって、
太郎さん思ったんですよ。
何がすごいかっていうとね、
偶像が、例えば日本の浮世絵なんていうのは、
日本の文化を知った上でないと、
浮世絵の面白さってわからない。
はいはいはい。
聞き物が何だとか、
そういう文脈を知らないとですね。
ところが抽象というのは、
丸とか四角とかね、
そういうのが組み合わさってできた絵だから、
これだったら、
国籍とか、男女とか、年齢とか関係なくて、
もうホントオールマイティな表現ができる。
なるほどなるほど。
これはね、抽象の道を走るしかないなって。
抽象画を描き始めるんですよ。
これだから日本の美大にいたら、
そこに気づかないですよね。
だからやっぱり他国の文化に行って、
自分が小学校で一緒に習ったりとかしてるからこそ、
思いついたことなんでしょうね。
そうですね。
抽象画を描き始めるんですけどね、
最初から上手くいくはずはないんですけども、
これだっていうものがあって、
そういうものを発表しようとした時に、
ちょうどその当時のパリの街というのは、
シュルレアリズムという一つの流れ。
だから抽象という二つの表現の流れが、
すごい二分してたんですよね。
どっち派みたいな感じですね、当時の芸術家は。
それで抽象の作家たちから、
俺らと一緒に抽象表現の仲間として、
活動したいかって誘われて、
それで抽象表現のグループに入るんですよ。
アブストラクション・クレアシオンの会っていうんですけどもね。
そこには例えばアルプとか、
ドローネとか、
当時パリで抽象をやってた第一線の絵描きたちがいるわけですよ。
そこから勧誘を受けるんですか?
最年少で入るわけですよ。
しかも日本人で。
これが当時描いた、
空間という絵なんかがあるんですけども、
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これは非常にウケてますね。
それはここの美術館が持ってるんですか?
持ってるんですよ。
実はね、うちが持ってるのはね、
パリ時代のものっていうのは戦争でみんな焼けちゃってるんで、
太郎さんが戦後再制作したものなんですよね。
でもいい作品なんですか?
いい作品ですよ。
ただね、太郎さん自身も言ってるんですけども、
周りの抽象作家の作品と比べて、
なんか自分の作品は違和感があったっていう。
本人としては自覚があったんですか?
なんか違和感あったけど、
みんながいい言い伝わってくれるし、
だからまだパリの評論家もね、
リリカルないい抽象だって。
抽象作品にリリカルっていう評価。
まあ確かにね。
それで抽象会話グループと活動するんですけどもね、
なんとなくその中で太郎さんね、
なんか違うなって思うんですよね。
やっては見たものの。
結局ね、
抽象会話のグループがやってることというのは、
芸術活動のための芸術じゃないかなって思うんですよ。
誰かを感動させようとかそういうことじゃなくてってことですね。
今、パリのいわゆる表現の支流は抽象である。
あるいはシュールである。
芸術運動のためにみんな作品を作って、
それをグループが発表して、
今どっちがいいんだっていうのを競ってると。
そういうところにね、太郎さんすごい違和感を感じたらしいですよね。
でもそれはあれなんですかね。
お母さんの芸術家はこうだ、パッションだっていう
英才教育をずっと受けてきたのもあるのかもしれないですよね。
あるかもしれませんね。
芸術とはこうあるべきだみたいなものがあったんでしょうね、本人の中では。
じゃあやめちゃうんですか、その抽象。
そうなんです。
やめるだけならいいんですけどね。
ここでね、パリ時代の代表作が生まれるんですよ。
抽象画なのに、実際の人間の生の腕を描いて、
その後ろに赤いリボンを描いちゃうんですよ。
この美術館にもあるあの作品ですか、
痛ましき腕。
それなんですよ。
あれは抽象画として描いてるんですか?
抽象画として描いてるんじゃなくて、
抽象界がグループにいながら、
あれを描いちゃうだけです。
思いっきり偶像ですよね、腕があったりリボンがあったり。
あんな偶像以上に偶像ですよね。
確かに。
アヴァンギャルドですね、そこからして。
当然自分からね、やっぱりもうちょっとやめると。
自分はその抽象界グループをやめるんですよ。
で、まあやめたはいいんだけども、
ちょうど何か当時ね、岡本太郎がよく使ってたのはね、
パルパーブルなものが描きたいっていう。
日本語にするとどういう意味なんですか?
手に届くもの。
お客さん、見る側からしてってことですか?
もうそうです。
自分にとっても、
なんかこう、丸太の資格だろうね、
描くだけの抽象表現。
自分の何か生活、心情、
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そういったものが滲み出るようなもの。
リンクできるようなものっていうような意味ですか?
いわゆる生活からかけ離れたものではなくて、
今の自分の生活、心情そのものが
打ち出された作品でないと、
自分の描く絵じゃないって思うんですよ。
それで、「痛ましき腕」というのを描いちゃうんですよ。
それはなんかやっぱり、
痛ましき腕ってタイトルですから、
ちょっと悲しい絵のイメージがあるんですけど、
あるいはそういうのもあるんですか?
悲しさという。
戦争とか関係してるんですか?
戦争はもうちょっと後なんですよ。
その次元がパリに進行してくるんでね。
なんですけどね、考えてみたらね、
18、20歳の男の子が一人でパリで暮らしながら、
自分はどういったものを自分の芸術として
いくのかということに苦悩する、
その気持ち、熱情のようなものが、
やっぱりあの絵からは伝わってきますよね。
バックグラウンドを知るとそう見えてきますね、確かに。
ギュッと握りしめた強い意志を持ちながらも、
その腕は皮が剥がれてるんですよ。
手の腕の部分ですか?
あれ赤くシマシマに見えるのがね、
剥がれた手の皮膚なんですよ。
包帯っぽく見えてたけど、
そういう腕はないんですか?あれは。
だから痛ましいんですよ。
そういうのを込めてるんですね。
僕はすごくリリカルな、
当時の二十歳の男の子の気持ちがね、
すごくそう思うと伝わってくるような気がするんですけどね。
しかも今でもフランス一人って言ったら寂しいけど、
当時ですもんね。すぐ帰れる位置じゃないわけですからね。
そうですよ。
船で行ってるような時代ですからね。
船でもう1ヶ月かけていくわけですからね。
そこで一人で。
しかもある程度持って行ったら分かるんですよ。
例えば東京とか日本で美大である程度4年やって、
ある程度芸術家としては何か一つできてから行ったんだろうとか、
向こうで模索してるわけですもんね。
そうなんですよね。
いやよく心折れなかったですね。
相当折れてたと思いますよ。
そういう時の手紙とかって残ってるんですか?
親にあげたとか。
この時にね、お母さんは本当に最愛の息子を
一人パリに残しているし。
岡本太郎さんはマザコンですからね。
自分で言ってるんですけど。
大好きなんですよ、お母さんが。
お母さん以上の女性はいないっていうぐらい。
このお母さんと太郎との手紙のやり取りが
後に母の手紙という本になって出るんですよ。
そうなんですか。
これはね、涙出てきますよ。読んだら。
これはどっちが書いたんですか?太郎さんが書いたんですか?
太郎さんが書いたのもあるし、
18:00
かの子さんが太郎さんに書いたのもある。
要するに往復書館になっている。
これを全部太郎さんが取っておいて、
本にしているんですよ。
太郎さんも取ってるし、お母さんも取ってたってことですよね。
情報を取ってないと残らないですもんね。
そうなんですよ。
ちょっとこれ読みたいですね。
今でもね、書籍として販売。
販売してるんですか?
僕はね、ぜひ読んでもらいたいです。
ぜひぜひ。
ちょっと話逸れるんですけどね、
岡本家というのは異常なお家なんですよ。
どう異常なんですか?
かの子さんというのは当時は仏教研究家としても知られていてね、
要するにかの子さんと一平さんの間には、
ものすごい夫婦の葛藤があるんですよ。
朝日新聞に入ったと言いましたけど、
急に収入が増えてね、
お父さんはね、宝刀が始まるんですよ。
なるほど。
収入を湯水のように使っちゃうんですよ。
何に使うんですか?
それを飲み食い。
なるほど。
遊ぶですよ。
飲む、食う、打つみたいな。
酔い腰の金は持たないというのが江戸っ子ですからね。
なるほど。
これをね、江戸っ子が服着て歩いてるような一平ですから。
でもそうか、国民的漫画家だからお金はどんどん入ってくるし。
で、もう家にも帰らないわけでしょ。
ちょうど太郎さんが生まれた頃でね、
いつ帰ってくるかわからない主人を待ちながら、
あおちこい顔してうなだれて髪の毛を前に垂らした、
当時太郎さんが言ってるような幽霊かの子。
母親のこと?
幽霊のようなかの子のことをね、
太郎さんがじっと後ろで見てるわけですよ。
そのかの子さんはその寂しさをお紛らわすために恋をしちゃうんです。
誰と恋をするんですか?
早稲田大学の学生。
若い?
若い男です。
若いツバメです。
そうです。恋愛しちゃうんです。
しかもこともあろうかの子さんはそういう女性ですから、
ご主人の一平さんに、
あの子を一緒に同居させていいかしらっていう。
奇妙な生活が始まるんですね。
かしら生活です。
それも太郎さんは生まれてるんですか?
生まれてるんです。
太郎さんにはお父さんもいるけど知らん。
別に離婚したわけじゃないわけですよね。
次のお父さんではなく。
お父さんもいる。一平さんもいる。
お母さんもかの子さんもいる。
その若いツバメもいる。
若いツバメは結局すごい芸術家として体制するような人なんですか?
文学好きの青年だったんですけどね。
すぐね、老害で死んじゃうんですよ。
そうなんですか。それはドラマですね。
ドラマです。
今で貫通罪になりますよ。
そうかそうか。当時はまだ。
でも一平さんは結構許したってことですよね?
許しちゃうんですよ。不思議なんですよ。
それは愛情があったからなんですか?かの子は。
それとも自分も結構そういうことを知ってるから遊んでるから
それで許してくれるならまあいいか。
みたいなところはどっちなんですか?
一つはね、やっぱりそうやってほったらかしてしまったかの子への
21:02
祝福罪の気持ちもあったけども
なんて言うんだろう。
一平さんという人はね、ものすごい不正を持った人なんですよ。
なるほど。
生きと男屋の大きなスケール感みたいなものを持ちましたね。
それを許しちゃうと。
すごい家に育った。
実はね、家族こんだけじゃないんですよ。
そうなんですか。
実はね、そこにね
常松康夫というね
これはね、早稲田大学で先生やりながら
当時早稲田大学のね
ごめんなさい忘れてた。慶応です。
慶応のね
先生やりながらね
慶応の野球部のキャプテンも
首相かな?やってた人なんですよ。
その人は実は後に島根県知事になる人なんですけど
めちゃくちゃすごい人ですよ。
しかも総計選って昔有名なラジオ漫才のヘタになってるから
今でいうプロ野球のめっちゃすごい選手みたいなことですよね。
慶応のキャプテンなんて言ったら。
そうですよ。
もちろん早稲田の文学部のガキなんてもう
そうかそうか、相手になる。
とんでもないですよ。
で、その人とのカノコさんは恋愛?
いや、あのそれはね一応初生という形で
岡本君が。
初生なんていうのは名ばかりでね
もうね、太郎さんのは常松さんに育てられたんですよ。
あ、そうなんですか。そういう関係性になるんですか。
カノコさんは卵焼き一つ焼けないんですよね。
育児もできない。
実は太郎さんにはね、あと二人妹と弟がいるんですけど
共に一歳か二歳でみんな死んでるんですよ。
そうなんですか。一人っ子ってわけではなかったんですね。
小さな赤ちゃんを寝かしてるんだけども
一平さんは一平さんで自分の仕事してるし
カノコさんはカノコさんで自分の歌を作ってるわけですし
全然ほっとけなんですよ。ほったらかしなんですよ。
あらまた踏んじゃったわって言ってね
そのうち死んじゃうんですよ。子供の二人。
逆に太郎さんよく生き残りましたね。そう考えると。
太郎さん言ってますね。
俺はよく家で育ったなと。
何度も踏んづけられてたんでしょうね。
でしょうね。
だから育児から身の回りの生活してくれたのは全部常松さん。
へえ。それはもうずっと関係性は続くんですか。
常松さんもそのうち処生を終えて
実家の島根県に帰るんですけどね。
基本的に太郎さん育ったのは常松さんですよ。
へえ。うまいことできてるんですね。太郎さんの人生。
なんですよね。野生児ですからね。
あれほっといたってなんとか生きてたと思いますけどね。
どっちにしろ。
いやいや全然。
24:00
でもフランスに行ってたじゃないですか。いつ戻ってくるんですか。
これはね。
岡本太郎としてはフランスに行ったからにはフランス人として生きるんだって思ってたんですけど
やっぱりね。
ナチシドイツがフランスに入ってきて
パリが陥落するんですよ。
で、明日陥落っていう前日まで太郎さんね
フランスで留まるんですよ。
粘るんですかギリギリ。
最後にマルセウから船で脱出しちゃうんですよ。
あ、そうなんですか。
それ何歳の時ですか。
それがね。
29歳?
29歳ですね。
結構長いこと、青春はほぼフルフルフランスで座ったってことですね。
一番いいところフランスで座ってました。
ってことですよね。
へー。でそのまま日本に戻ってきたってことですね。
日本に戻ったほうがいいんだけども
戦争中ですからね。
また第二次世界大戦まだ始まってないんですけども
もういわゆるいろんな完成下の下にあって
暗い日本ですよ。
で翌年かな日本に戻ってから
いわゆる兵役に借り出されるんですよ。
兵隊にね。
で太郎さんはいわゆる兵隊としての
孔子合格がないと兵隊には行かれないんですよ。
初秋礼状がまだ早いですからね。
赤札とかの時代じゃないんですね。
で実は太郎さんで考えたんですよ。
江戸川にその時に住所を移してるんですよ。席を。
わざとですか?
江戸川っていうのは当時本当に農村なんですよ。
なるほどなるほど。
農村に席を移して
農村の一人として兵役の検査を受けたら
自分みたいなひ弱な男は絶対落ちるだろうと。
屈強なメンバーがいっぱいいるから。
メンバーというかそこの。
百姓ばっかりである。若い百姓がいるから。屈強なね。
そんなんばっかりだから自分は落ちるだろうと思ったらね。
合格しちゃうんですよ。
撃つなきゃよかったかもしれないですね。もしかしたら。
そうやね。
それで日本に戻ったはいいんだけども
本当に一年足らずで
中国の戦争に駆り出される。
前線まで行っちゃうってことですね。
行っちゃうんですよ。
このね案外知られてないけど太郎さんのね
戦線の話も面白いですよ。
例えばカイツマンでいうとどういうのがありますか?
例えば兵隊にとって
拳銃というのはね
天皇陛下からの賜り物ですから
なるほど。
それを失くしたって言ったら銃殺ですよ。
当時は。
4回も失くしてるんですよ。
結構失くしましたね。
それ何で残ってるんですか?書いてるんですか?
太郎さん書いてるんですよ。
あそこで失くしたとかね。
あの時下痢で乗り遅れてね
宿舎に置いてきたとかね。
人間性がでもいいんでしょうね。
だって1回目でも許されないのに
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4回はもらえたってことですもんね。
別にそれはね
許してもらえたわけじゃなくて
なんか不思議にね
鉄砲が出てきたらしいんですよ。
いやでももしかしたら
太郎さんの3回目の銃のせいで
なんか失くした他の人が
酷みになったかもしれないですよね。
その3回目の銃
誰かになってるわけですから絶対。
だからすごい運はいいんですかね?
そう考えると。
運はいいと思いますよ。
運とか生き延びる力的な
サバイバル能力的なものが。
野生児ですからね。
ほんとですね。
あれはあのほら
太郎さんの31歳で平均につくんだけど
初年兵ですよ。
初年兵っていうのはね
軍装にねめちゃくちゃ殴られる。
戦争も見ますねそういうシーンは。
ここに並べ!って。
何の意味もなく順番に殴っていくんですね。
私は貝になりたいみたいなやつですよね。
あのやつですよね。
太郎さん古いの知ってますね。
フランキー坂井さん。
フランキー坂井さん。
あんな状況
えー結構苦労してるんですねそう考えると。
その時すごいなと思うのはね
太郎さん4番目主義って言ってるんですけど
こういう戦争の不条理な状況の中で
負けてられないと
ここで自分がそれに負けたら
自分は一生ダメになると。
例えば上官が一人ずつ前へ
名乗りを挙げた兵隊を殴っていくんだけど
すごい理不尽な暴力ですね。
最初はねやっぱり上官もね
勢いがつかないらしいんですよ。
一発目は。
二発目三発目とだんだん調子が乗ってくるらしいんですよ。
4番目が一番ね調子が出るらしいんですよ。
なるほど。
あとはね上官も疲れてくる。
でも俺は一番激しい時に
名乗りを挙げようって言って。
あえてですか。
分かってるのにそれを。
なになになになにってこう言うでしょ。
4番目に岡本太郎
岡本太郎でありますって4番目に名乗りを挙げると
あえて
一番強いパンチで殴られるらしいです。
それ何の意味があるの?
あえてそこに立ち向かうってこと?
そうそうそう。
もう恐れちゃダメだと。
恐れるぐらいだったら
一番ひどい時に自分から向かおうと。
すごいですね。
それは他の人を救ってますもんね。
逆に一番ピークを自分がもらってるわけですから。
ですよね。
あとはもうだいぶ元気なくなりますからね。
上官もね。
そっかその四発目で。
そういう方なんですね。
根性が座ってますね。
だからそこで分かってて
じゃあもう俺は一番に行こうっていう人は
こんな風に残んないんですね。
その仕組みが分かった時に
あえて逆境の4に行ってやろうみたいな人間が
最終的に生き延びるんでしょうね。
30:00
でしょうね。
なんかちょっとこれは
人生に役立つ言葉のような気がしてきました。
岡本太郎の4番目主義っていうね
あのいわゆる太郎さんの意気込みっていうのはね
これ今後の作品にすべて通じてると思うんですよ。
その根底にあるんですかそういうものが。
例えば大阪万博のタイヤの動画ってね
あの時にいろんな人の名前は出てたけども
プロデューサーは誰がいい。
でもね誰に指名されてもみんな断ったと思うんですよ。
あんまりやりたくない仕事だったんですかあれ。
国家のお金を使ってね
国家のイベントのテーマ感を作ったらね
どんなものを作ったってね絶対に批判されるんだから。
なるほどなるほど。
で周りはね
あの太郎さん組織は嫌いだし
もうボコボコにされるから
プロデューサーだけは引き受けるなってね
心ある人たちがみんなね太郎さんに忠告するんですよ。
忠告されたらされるだけ太郎さんの中にはね
よしならやってやろうという気持ちになるんですよね。
そういうとこがあるんですか。
困ったもんですよ。
学芸員さんとしても。
調べる側としても。
え、なんでって思うんでしょ。
なるほど。
この話だけ聞いてると太郎さんは
一のタイミングでブレイクというか
美術界で戦争も
まだ日本ではほぼ知られてない状態ですよね。
無名の状態。
フランスにいますからね。
戦争に戻ってきまして
そこからどうやって
日本の美術界に岡本太郎が
先列デビューというかあったんですか。
そうですよね。
一つ大きな要因というのは
一平かな子という人が
いわゆる大正・昭和の時代から
日本にはある程度知られた芸術家なんですよ。
一平は有名な漫画家だし
かな子文学っていうのは
そこそこいろんな評価を受けてたんでね。
むしろね
岡本太郎というよりも
一平かな子の息子。
それはもう30代
例えば美術を発表する時には
結構そういうまず扱いだったんですか。
扱いはあったと思います。
二世みたいな。
二世タレント的な感じの。
しかもまたあの当時
フランスで10年も勉強して
帰った芸術家というのは
そんな数はいないんですよ。
例えば
日本で洋画を書きながらね
半年か1年ちょっとパリに行ってね
エコールドパリ風の絵を描いてね
私はフランス帰りの絵描きです
っていう作家はいっぱいいたの。
なんだけど10年も本格的に勉強して
しかもエコールドパリじゃないですよ。
当時主流とされてた
33:02
中小絵画グループにいた。
そうかそうか。
逆に言ったらでも
最先端を学んできたとおりですね。
ですから当時世界の最先端のアートというものを
一心に受けた
ひぞっことして日本に帰ってきたわけです。
なんならプレイヤーだったわけですもんね。
学んだどころか。
じゃあそれでその時に
最初にデビューした展覧会とかってあるんですか?
ありますよ。
例えば戦争が終わって
戦争じゃないな
パリから帰ったその年に
太陽作品展というのを展覧会でやるんです。
さっき言った兵役に取られる前?
前。
その時にもう日本でデビューはしてるんですか?
デビューしちゃうんですよ。
パリ時代に描いた絵をみんな持って帰って
それを一回はお披露目してるんですよ。
それがその時から話題は沸騰というか
注目はされてたってことですか?
注目されてましたね。
例えばその時の展覧会の図録に寄せた
人のメッセージが
例えば藤田嗣氏もそうだし
それから岡本一平も描いてるんだけども
岡鹿之助も描いてるんです。
岡鹿之助とかが太陽さんの展覧会に寄仰してるんですよ。
異例の扱いですよね。
新人と言っちゃ新人なわけですもんね。
そういうデビューはしてるんだけども
11月にその展覧会やって
翌年の1月に兵隊に取られてるわけだから。
なるほど。
戦争が終わった後に本格的ブレイクみたいな感じですか?
そうです。
その4年兵器が終わって
ボロボロになって青山の家に帰ってきたら
空襲で焼け野原になって
今岡本太郎記念館がある場所?
あるところ。
だからパリ時代に持って帰った絵も
みんなそこで焼けちゃうんですよ。
さっき言った痛ましき腕も再製作なんですか?
そうなんです。
パリ時代ものは全て。
本当に無一物で
太郎さんは戦後のスターと記憶ですよ。
でもそこで折れないのがすごいですね。
そこで折れた可能性もありますもんね。
ここは太郎さんの運勢の強いところかなと思うんだけどね。
なんとその時の太郎さんを支援したのが
お母さんの実家なんですよ。
カノコさんの実家?
カノコさんの実家というのは
これが川崎の高津というところにあるんですけど
大抜き家というね。
江戸時代、江戸幕府からの御用商人の家柄で
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そういう家柄なんですか、カノコさんは。
いろいろ48クラを持ったっていうものすごい。
クラが48個もあるんですか。
今もあるんですか、その家。
もう亡くなってます。
当時は川崎で言ったら超有名な家なんですね。
大抜き家の自称というのは
今のちょうど渋谷の池尻大橋の辺にもあったというぐらいだから
もうこの辺の大尻の人です。
その娘がカノコですからね。
そっかそっか。
音波冷やされ育った女性ですよ。
それで支援してくれる。
いわゆるおじいちゃんが支援してくれたってことになるんですかね。
そうですね、おじいちゃん生きてました。
実は大抜き家というのは銀行もやってたんですけどね。
取り付け作業があって銀行潰れちゃうんですよ。
もうちょっと大抜き家は昔の繁栄こそないんだけども
大抜き菊蔵先生というおじいちゃんが病院を始めるんですよ。
医者の家系でもあるんですよね。
すごい家ですね。
漫画の世界ですね。
慶応のお医者でもある。
大々大抜き病院というのは地元の有名なお医者さんだったんですよ。
その大抜き家のいろいろ支援を受けて
大抜きからすぐ川を挟んで
世田谷の神之毛というところにね。
神之毛に一回アトリエを作るってことですか。
太郎さんが。
作るというよりももともとあったアトリエを提供してもらって
そこを戦後の活動の台、拠点としては。
そこから戦後の本当の岡本太郎の活動が始まるんですけども
いきなりね。
例えば日本アンデパンダンテンというのが昔あったんですけど
東京都美術館でやったじゃないですか。
誰でも出せるっていう。
アンデパンダンテンのオープニングにね
最極主義宣言みたいなのをみんなに配ってね。
これからのね。
今までの芸術は終わったと。
これからの芸術は岡本太郎から始まるみたいなね。
結構最初からパフォーマンスはしてたんですか、そういう風に。
誰も集まってこなかったっていう。
それ何歳ぐらいになるんですか。
これがね、いくつだろう。
これから?1950年?
ことはもう40歳近くだ。
どうですか。
49年頃ですね。
30代ですか。
30代ですね。
30代でそんな。
もうピチピチだから。
そうか。
最初はでもそんな風に誰も相手にしてくれなかったけど
どんどん仲間が集まってきた感じ。
そうなんですよ。
岡本太郎ってね、あんまり正直言ってね、絵描き仲間って少ないんですよ。
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結構経験されてたから。
それよりも文学の人が仲間が多かった。
でも太郎さんも文章書いてた?
太郎さんの文章すごいですよ。
当時から書いてたってこと?
うまい。
川端康成絶賛してますからね。
それは何を書いてた?論文?小説的なものを書いてたってこと?
小説というよりも本当に色々な芸術論とか書いても川端さんすごいねって。
実は川端康成とも昔から仲良いんですよ、太郎さん。
すごいね、絵画ドラマみたいな感じですよね。
登場人物がさっきから。
家康は出てくるやらの俺仲間いるやら。
いつかやるのかもしれない。
太郎さんだけでできそうですよね、1年間。
ここだけの話でもう第一部みたいな感じですもんね。
すげえ話だなこれ。
そうなんですね。文学者ともやりとり。
ちょっといまいち僕の中でまだ使うんじゃないのが、最初は画家だったわけで。
で、たぶん今度まだ行くなんで。
太陽の塔になるまでがぶっ飛びすぎてて。
絵を描いてて、どこのタイミングで太陽の塔のプロデューサーになれるって。
その間って何をやってたんですか?
それもうね、語りだしたらね、3日はかかるんじゃないかと思うけども。
だから画家というか絵画じゃなくなって収まりきんなくなった時が来るってことですよね、途中で。
あのね、一つ岡本太郎が芸術を語る上で一番大事なことはね、
岡本太郎の芸術っていうのはね、何のために太郎は芸術をやったかってことなんですよ。
それはね、全てね、芸術というものを紙棚にあげて一部の評論家とかコレクターのものにするんじゃなくて、
芸術というものは本来大衆のためにあるべきだっていうのが根底にあるコンセプトなんですよ。
ずっと変わらないんですよ。
それはね、もうパリ時代から考えてたって言うんですけどね。
戦後ね、これも面白いんですけどね、髪の毛のアトリエにね、風呂がなかった。
で、太郎さんはね、今リクシュっていうね、稲瀬棟っていうタイルなんでね、
あそこに電話してね、風呂作れって言うわけですよ、うちに。
ただね、岡本太郎ですからね、稲瀬棟の東京支店長が来てね、私が担当します。
これ小林外勤という人なんですよ。
実はね、ちょうど稲瀬棟がその頃、カラーモザイクタイルというね、
すごいいろんな種類のモザイクタイルを発売したばかりなんです。
で、もうすでに東欧政治なんかは、そのモザイクタイルを使って引き止めたものを作ってたんです。
ピクセルみたいなことですかね。
そうそうそうそう。
組み合わせればいいってことですね。
で、太郎さん、風呂を作る時にね、小林外勤さんが、支店長が、
いや、当社でこんなモザイクが出たんですけどいかがでしょうかって、進めるわけですよ。
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太郎さんそれ見てね、お、いいの?というのが、
じゃあね、自分の描いた絵をね、これ一枚貸してやるからね、
これモザイクにしてこいよって言って。
いいよ、私に。
小林外勤さんね、とこなめの稲瀬棟へ持って行ってね、
それを見事にモザイクで表現するわけですよ。
へー、うんうんうん。
それを見た太郎さんがね、これはすごいと。
オリジナルな村絵っていうのは、これ一点しかないけども、
これを見ながら、モザイクでいわゆるドットを組んでいけば、
どんまでも同じものができるじゃないか。
しかもタイルだから、美術館なんかに置かなくてもいいわけですよ。
外にも置ける?
置ける。
なんなら雨風大丈夫ですもんね。
これはいいと。
常々芸術は大衆のためにあるべきものなら、
自分の作品をモザイクで量産すればいいと。
ほうほうほうほう。
つまりこれからの芸術というのは、
映画とかテレビとかラジオみたいに、
極めてたくさんの人に見せることと、
複製することによって、
より多くの人が芸術に触れることが大事なんだぞ。
一点ものではなくてドットなの?
そこなんですよ。
だからオリジナリティを、
オリジナルというものを否定するんですよ。
一点主義を。
だいたいでも普通逆ですよね。
みんなオリジナルが大事だと思うけど、
じゃなくてってことですか?
特に日本人はオリジナルが好きですから。
普段ね、
仏さんに手を合わせたこともないのがね、
10年に1回の御開帳って言ったらね、
お寺行って拝みに行くんじゃない?
確かに確かに。
10年に1回しか見れないから価値があると思う。
岡本太郎に言わせれば、
毎日見れるところにあるから価値があるっていう。
逆なんだ、なるほど。
そうかそうか、そういうことなんですね。
そこで岡本太郎は、
このタイルを使っていろんな壁画をできるんじゃないか。
これ今でもいわゆるパブリックアートなわけじゃないですか?
昔では別にパブリックアートっていう概念ではなくやってたってことですか?
そう。
ただ壁画という概念はあったからね。
壁画だったらね、
どっかの通路にそれ作れば、
誰でも見れることができる。
お金払わなくても見れるし、
これは自分のものだと思えば、そう思っていればいいし、
これはいい。
当時銀座の高島屋がリニューアルするんですよ。
その地下道をね。
坂倉…
純蔵さんですか?
坂倉純蔵がデザインを手掛けてるんです。
岡本太郎、坂倉さんのところへ行ってね。
俺は最近モザイクタイルっていうのを作りだしたんです。
あんたなんか随分高島屋の地下の通路なんかデザインしてるらしいから、
俺の作品加えてくんない?って言って。
売り込みに行っちゃった?
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売り込み。
坂倉さんがね、いいでしょ、面白いですよって。
自分のデザインの中に太郎さんのモザイク壁画を入れるんです。
入れたんですか。
それがね、今無くなった手はいるんですけど創生というね、
これ岡本太郎さんが手掛けた一番最初の壁画なんですよ。
でもやっぱり人通り多いところですもんね。
そこに置いたの。
まだ戦後間もないからね、東京の地下道なんてね、
千歳古寺の玉振り場で汚い陰気なところだったのよ。
それを坂倉さんが綺麗なデザインにして、
またそこにね、坂倉さんっていうのもいわゆる近代的なね、
中小のデザインだから。建築もそうだし。
建築西口もデザインしてますもんね。
すごいね、それに逆行するような非常に古代的な絵を
太郎さんが描くんですよ。
でもそうか、今話聞いて確かに地下で、
だからあれですよね、ホタルの墓のラストシーンみたいな感じだったんですよ。
ちょっと前までは。
それをだから太郎さんと坂倉さんが。
すごい綺麗な空間にしちゃった。
そんなふうに太郎さんが国民的スターになって、
今でも大人気じゃないですか。
僕ちょっとこの前大須部さんに聞いてびっくりしたんですけど、
忘れられされてた時期があるんですよね。
そうですね。
どういう感じだったんですか?
僕が物心すぎた時には、
芸術は爆発だって言ってるおじさんのイメージだったんですけど。
今だから太郎さんがブレイク前夜を行きましたけど、
その後の太郎さんってどういう流れが?
実はね、岡本太郎さんって絵を売ってないんですよ。
作品を買い?
普通、絵描きさんって絵を売って生活を立てるんですけども、
正確に言うと絶対売ってないわけじゃないんです。
一回ね、何個か売ったんですよ。
自分の個展でね、売った作品を出したいから貸してくれって言ったらね、
コレクターが嫌だって言って、俺のもんだって言う。
岡本太郎はね、なんだと。
それでね、売るの嫌になるんですよ。
そういうことがあったんですね。
岡本太郎っていうのは、絵は一生懸命描くけども、
描いたらね、みんなのものだと。
俺はみんなに見てもらうために描いたんだ。
一人の個人のために描いたんじゃないんだ。
で、そっからもう全然絵を売らない。
売らないから、その代わりにパブリックな空間に
作品を据えることで、みんなに見てもらえるっていうので、
パブリック作品が非常に多いんですけどね。
そういうこともあって、どういう流れでしたっけ。
じゃあ、テレビに出てたのは、活動としてでしたってことですか。
よくね、岡本太郎さん、
80年代はすごいテレビに出てましたねってよく言われるんですけど、
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とんでもないんですよ。
テレビ開局って1953年なんですよ。
1953年にね、
ル王の展覧会を実況放送してるんですね。
東博でやったやつですか。
日本初のル王展。
表敬館でやったね。
あれはね、テレビで解説してるんですよ。
レポーターをやってるんですか。
レポーターやってるんです。
昔はね、まだテレビは主流じゃない時代ですから。
ラジオが主流の時代ですけどね。
ラジオのクイズ番組の司会者までやってるんですよ。
そんな時代もあるんですか。
実は太郎さん、むしろ60年代頃のほうが
テレビ番組の出演多いんじゃないかっていうぐらい。
そんなイメージで人だったんですね、テレビで。
ドラマもやったっていうのはこの世に挟んだ。
ドラマにも出ましたね。
ただ太郎さんのセリフのところは何も書いてない。
書いても絶対それ読まない。
そういう役回りで。
僕がね、太郎さん、俳優さんが聞いたことに対して
適当に答えてくださいっていう。
アドリブで。
すごいな。
でもそうやって出てったら
亡くなったのが80年代ですか。
96年ですね。
結局ね、絵は売らないから
太郎さんの作品って基本的に
太郎さんがみんなモテたんですよ。
ところが93年か94年くらいかな
パーキンソン病になっちゃって
ちょっと体が不自由になったら
なかなか太郎さん自身も動けなくなる。
そうなってくるとね
岡本太郎の展覧会もできなくなる。
作品もないし。
外にないから。
みんな持ってるから。
そういう意味でね、岡本太郎の作品は見れない。
太郎もテレビには映らない。
昔出してた本も
どんどん本は売り切れたら
それで終わりですから。
増殺しない限りね。
そういう意味で90年代の始め頃から
やっぱりしばらく岡本太郎の存在っていうのは
世間から恐らく消えた時期であったと思うんですよ。
あの人は今じゃないけども、本当ですか。
じゃあどのタイミングで再ブレイク的なものが
あのね、再ブレイクしたのはね
亡くなるのが96年の1月なんですけど
その後岡本太郎に50年勤めた
秘書の岡本敏子さんがね
太郎が亡くなった後で
まず記念館を立ち上げるんですよ。
さっき出てきた南青山の
そこで岡本太郎の作品を展示し始める。
同時に、これは太郎さんが死ぬ直前ですけど
川崎市にこの作品をほとんど寄贈しちゃった。
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で、99年に岡本太郎を美術館も開館するんです。
タイミング的にと。
だからようやく岡本太郎の作品を見れるようになるわけです。
亡くなってから初めてなんですね、それは。
そうですね。
同時に岡本敏子さんという人が
今でこそ太郎さんをもう一度
世の人たちに知ってもらいたいというので
果敢に本を出すんですよ。
太郎さんに関する。
敏子さんから見た太郎のも書いてるけども
太郎さんの昔の語録を集めた本を出版するとか
それがね、かなり大きかったと思います。
いわゆる強く生きる言葉。
あの本ですか。
それによってね、もう読むことができなかった本が
いわゆる太郎さんの言葉を
その当時の若い人たちが目にすることができたんですよね。
世代を超えて。
もちろん作品も見ることができるけども
やっぱり太郎さんの言葉を知ることができたんですよ。
その当時の若い人たちが
すごくその言葉に勇気づけられた。
例えば宮沢理恵ちゃんもね
あの当時太郎さんの本を好きで
なんかベッドの横にいつも本を置いて
適当に寝る前に開いたところだけを読んで寝るんだ
みたいなことを言ってましたよね。
やっぱりそういうタレントさんもそうだし
東洋さんなんかも太郎さん大好きだったんだけども
そういう有名なタレントさんとか俳優さんとか
あるいは若い学者たちが
岡本太郎いいねっていう
どっちかっていうと言葉から入った
絵も好きだけどっていう
僕言葉だと思うんですけど
今に生きる猫の言葉っていうんでね
みんなやっぱりそれに影響されるんですよね。
本を読んだ若者に浸透していったってことですか?
その若者なんて現役の岡本太郎を知らない世代なんですけどね
言葉がいいっていうわけですよ。
最近の愛明さんとか浜岡本さんとか
岡本なんかもっていて
ずっと若者に刺さり続けてる状態が続いてるんですね。
2000年代から。
そういうことですね。
僕ね、確かに作品は素晴らしい。
でもね、その作品を見るためにね
太郎さんの言葉を知ってみると見ないとでは
だいぶ違うような気がしますね。
絵として見るだけとかでなくてってことなの?
だから、なんだろう
実は僕もね、1970年に
万博の太陽を見て
刺さった人間なんですけど
やっぱりその僕よりもっと古い人たちっていうのは
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戦後、岡本太郎の活動に参加して
岡本太郎に刺さって
いわゆる今、日本を代表する
絵描きさんとか
美術家になっている人たちってたくさんいるわけですよ。
例えば、この間お亡くなりになった山口勝博さんとかね
メディアアート
メディアアート
あの人だって太郎さんに影響を受けて
作家になったんですからね。
あの人本当は最初は弁護士の勉強してたんだけど
全然違う方向に行っちゃったんですね。
すごいですね。あれじゃないですか
昇華尊塾みたいな
吉田松陰的な感じですよね。
いろんな人育てて
山口さんたちの時代は
そういう若い人たちに刺さった
僕らは僕らの時代に刺さった
今は今の若い人たちに刺さった
もうずっと刺さってるわけですよ。
でも基本的には若い人になるんですね。
と思いますよ。
岡本太郎さんね
自分の絵や作品を理解できる
子供だけだって言ってましたよね。
年を取って大人なんで
カリカリに頭が固まったらダメですね。
若いうちですよ。
影響を受けるのは。
なるほど。
この辺りもこの後
ぜひぜひ後半で聞いていきたいな
というふうに思います。
ということで
次回はさらに大杉さん
個人の話を交えつつ
さらにディープに岡本太郎の話を
掘り下げていきたいと思います。