1. そろそろ美術の話を...
  2. #008 コロナ禍と岡本太郎の言..
2020-10-10 46:31

#008 コロナ禍と岡本太郎の言葉(川崎市岡本太郎美術館学芸員 大杉浩司)

川崎市岡本太郎美術館の大杉浩司さんをお迎えして岡本太郎についてお話をしました。

https://sorosoro-art.vercel.app/ep/008 番組の感想は、#そろそろ美術の話を でお願いいたします。

Guest Profile

  • 大杉浩司(おおすぎ ひろし)
  • 川崎市岡本太郎美術館キュレーター。岡本太郎記念館客員研究員。多摩美術大学大学院修了。設立準備室時代から岡本太郎美術館に勤務し、「太陽の塔からのメッセージ」「明日の神話・完成への道」「まる裸の太郎」「岡本太郎美術館20周年記念展」「高橋士郎 古事記 展」など話題の展覧会を数多く手掛ける。現在もキュレーターとして岡本芸術の研究普及活動に従事するかたわら、全国を歩いて岡本太郎のパブリックアートの調査研究を続ける。また客員研究員として岡本太郎記念館の研究活動もサポートしている。

Show Notes

  • 日本万国博覧会 
  • 岡本かの子
  • 学芸員になるには | 文化庁
  • 平野暁臣
  • 現代芸術研究所
  • 街の中の岡本太郎 パブリックアートの世界 | 川崎市岡本太郎美術館 | 美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ
  • ウチの中の岡本太郎(常設展 会期 2020年10月15日 (木)-2021年01月24日 (日))
  • 明日の神話 | 岡本太郎記念館
  • ヤフオク! -「岡本太郎 顔 グラス」の落札相場・落札価格
  • ヤフオク! -「岡本太郎 人間ボトル」の落札相場・落札価格
  • 密買東京|心までも泳ぐ|商品詳細(TARO200(太郎鯉) - 岡本太郎 -)
  • ヤフオク! -電電公社 テレカ 岡本太郎の中古品・新品・未使用品一覧
  • 岡本敏子
  • 明日の神話保全継承機構
  • Mission21 《明日の神話》をすす払いせよ! | アートテラー・とに~の【ここにしかない美術室】
  • Close to ART: The Taro Okamoto Museum of Art - Persevering Beyond the Coronavirus - 15 Minutes | NHK WORLD-JAPAN On Demand
  • ▽“特別編 コロナの時代 岡本太郎の力” - 日曜美術館 アートシーン - NHK
  • 岡本太郎VR美術館 川崎市岡本太郎美術館 高橋士郎 古事記 展
  • どこでもTAROアトリエ|川崎市岡本太郎美術館
00:10
さあ始まりました、アートテラー・とにのそろそろ美術の話を。この番組は、アートテラー・とにが、アートに関わる方をゲストにお迎えし、脱線を交えながらトークを繰り広げる、決定期ポッドキャスト番組です。
さあ今回は前回に引き続き、川崎市岡本太郎美術館の画像芸員大澄広さんをゲストにお招きし、今回は大澄さんご自身のことを交えつつ、前回以上にさらに深掘りした岡本太郎フォークを繰り広げていきたいと思います。
さあ改めましてということで、前回もチラッと来ましたけども、大澄さんは岡本太郎美術館でいつから働いているのですかということ。
はい、実は1996年の3月から、この美術館を作るための準備室に配属されたんです。
太郎さんが亡くなったのも96年?
の1月7日。
じゃあ2ヶ月後。
はいはいはい。
でもそれやってる時っていうか、その頼まれてる大澄さんは何の仕事をされて、どういう立ち位置だったんですか。
実は僕は川崎市内の中学校の先生やってたんですよ、美術部。
それ何年くらいやってたんですか。
なんだかんだ10年くらいやってたんですけども。
元から先生になりたくて先生やってたってことですか。
なりたくてなったっていうよりも、やることがないからやってたっていう感じですけど。
でも美術部の教師やってたのに急に声がかかったってことですか。
そうなんですよ。
普通声乗って募集するじゃないですか。
募集する。
ですから僕よりも、もうちょっと後の若い世代の学園さんは工房で入ってるんですよ。
僕は何か強制労働みたいな感じで入ったんですよ。
でも川崎市にはたくさん美術の先生がいるわけじゃないですか。
たくさんで抜擢されたんですか。大杉さんだけですか。
そうです。
なんかアピールしてたんですか。アピールというか、岡本太郎好きをどっかで垂れ流してたじゃないけど、あいつだったら引き受けるなみたいなのがあったってことですか。
とんでもないですよ。
もう全然、今度岡本太郎の美術家ができるらしいっていう話は聞いてたけど、はぁーっつって思ってたんですよね。
ただね、俺なんか美術の先生だったんですけど、人のやったような美術を教えたくないというのがあって、自分が好きなことと自分が興味の持てることしか教材にしなかったんですよ。
先生としては変わってたんですね。
ちょっとね。
それはちょっと問題にはなったりしたんですか。
いや、大杉くんね、こんなことじゃないよみたいな言われたい。若き日の大杉さんが。
もちろんね、自分の学校の校長には怒られたことがありましたけど、案外やってることがね、川崎市の先生たちの研究会みたいなのがあってね、面白いですねって。
03:08
例えば、あの時1年生に入ってきた子どもたちにね、絵を描くのは好きですかって聞いたら、子どもがね、嫌いでーすって言うの。
じゃあ分かりました。物を作るのは好きですかって言ったら、嫌いでーすって。
無言で描いたり作るのは嫌いなんですかって言ったら、上手く描けないから、上手く作れないから、嫌いでーすって。
あー分かりましたと。
じゃあ今日から作る授業も描く授業もやめましょうって。
一気に最初からですか。
大杉、子どもが、え、何やるんですかって。壊す授業やりましょうって言って。
へー。
実はね、ちゃんとある程度準備はしてたんですけどね、やめたんです自分も。
もう嫌ですっていうものを無理くりにさせるのも嫌だから。
なんか突発的にね、じゃあやめましょうっていうことになってね。
その時にね、瞬間に思いついたのがね、壊す授業。
何壊したんですか具体的に。
その代わり、壊すったって、いろいろ壊し方があるんだけども、
お家にある家電とかね、いらなくなったもので、もう持ってきなさいと。
壊せいいものを。
例えばラジオでやるとか、オーブントースターでやるとかね、
ビデオのデッキでやるとか、持ってきなさいと。
で、子どもたちがワンサと持ってくるわけですよ、また大きなテレビ持ってきたりね。
じゃあ今日はこれから壊しますけどね、金槌でガンガン叩いて壊すんじゃなくて、
ドライバーでちゃんと分解しながら。
もう休憩時間だって休憩もしないでみんなやるんですよ。
いやでもそれは楽しそう、確かに。
でも僕は壊す授業だから、それを組み立てろなんて一言も言ってないんですよ。
ただね、あらかじめ全て壊し終わったらね、子どもって何するかっていうとね、
そこらにあったホットメルトのホットボンドを使ってね、
そのバラバラになったパーツをボンドで組み立てて、
えー先生なんか像ができましたとかね。
あんなに作るの嫌いって言ってたのに。
ほらみんな好きじゃないっていうことになって、
あー先生こんな授業だったらやりたい。
それは楽しそう、僕だって中学校の時も美術嫌いだったんですよ。
なぜかというと相方と二人で結構ふざけてた時に、
たまたま筆かなんかが女の美術の先生の服についたから、
もうそっから1しかつけてこなくなって、
もう本当に何やってももううんともすんともないっていうのがあったから、
僕はもう美術嫌いになっちゃったんです。
で多分中高大学4年くらいまでは美術に全く触れなかったんで、
こういう先生がいたらいいなって今思いました。
06:00
あーそういうことがあったんです。
え、でも、え、じゃあ事例でってことですよね。
事例はこれから美術館でやる時に。
そういう美術の、例えば一つのこういう教材があるんですよっていうのを、
研究会なんかで先生たちが知るわけですよ。
先生ちょっと公開授業やってくるじゃないですか。
そういう公開授業やってるんです。
でもなんか2、3年も経ったらね、
どっかの学校でも壊す授業がやってる。
結構名物先生だったんですか、美術の先生。
名物でもないですけどね。
でもみんなやってたんです。
じゃあ川崎市はそれやったんですね、ある時期は。
ある、やってましたね。
結構やってましたね。
だから川崎市民に聞いたらちょっと今度行ってみたいですよね。
美術の時間でやりましたみたいな。
知らなかった。
でも急にもう美術館なわけです。
それは、でもそんだけ楽しい美術の授業やってきたから、
僕は美術の先生に続けたいっていうのはなかったんですか。
ありましたよ。
実はね、この事例をもらったのがね、
3年生の卒業生を出して、新しい1年生を小学校から受け取って、
その子たちのクラス分けをして名簿を作っている時に、
校長先生に呼ばれて、お前オコモットの美術館作るらしいから、
行くか行かないかは、はいかイエスで答えなさいって。
うわーすげーな、その校長も面白いって言っちゃいけないけど、
ユーモアはありますね。
でもね、本当に僕子供だとそうやって美術の授業やるの楽しかったし、
子供がすごく可愛かったので、それでも良かったんだけど、
それ以上にね、実はね、オコモット太郎好きだったんですよ。
それは言ってたんですか。
いやいや。
たまたま巡り合わせですね、それは。
1970年の大阪万博で初めて太陽の男を見てからね、
ともかくあの当時の自分の日記とか教科書がね、
みんな太陽の塔だらけですよ。
その時の大杉少年は何歳だった?
10歳でした。
大杉さんってどちらにお住まいだった?
僕広島出身なんですけど。
じゃあ別に地元で見たわけじゃなくて、万博に旅行で行ってみて、
今まで親戚なのに会ったこともない親戚が、急に近しい親戚になって、
そこの家に泊めてもらって、5日ぐらい通うんですよ。
20世紀初年とか、万博のあれじゃないですか。
あの時って万博楽しみで行くわけじゃないですか。
その時にはもう太陽の塔見に行きたいぞってのがあったんですか。
それとも別にその万博、要するにディズニーランドみたいな感じで、
いろんなの楽しみで行ってるんですか。
最初はそうですよ。
えー万博ってなんかすごいもうね、
一番高いビルって言うと、うちの田舎なんか農協のビルしかなかったからね。
09:05
そういうあんなすごい近代都市みたいなパビリオがあるわけでしょ。
動く歩道もあったり、月の石も来てても。
それはもうあの当時で日本中が行ったわけですから。
でもその時は別にメインじゃなかったんですね、太陽の塔は。
もちろんあるけどもっていうぐらいで。
太陽の塔がどうとかも知らなかったですよ、小学校4年生だしね。
ただウェーって言ったんですけど。
もういきなり心は静かになったんですか。
ビビりました。
えー。
あとは、あ、こいつはね、自分の味方だと思ったのよ。
うーん。
こいつは絶対裏切らない。
うんうんうん。
変な子供ですよ。
うんうんうん。
まだね、造形はどうだとかね、コンセプトがどうだなんてどうだっていいんですよ。
うんうんうん。
もう純粋にね、あ、こいつはいけると。
へー。
太陽の塔5階入ってるんですよ僕。
え、じゃあ5日間、毎日入ったと。
毎日入った。
それさすがに親とか、親戚の方とかも、もう良くないっていう。
みんな他が回りたいからね、今日はうちの親父、今日はお袋が僕にくっついて。
ね、大体2時間待ちですからね。
あ、そっかそっか、そんなにすぐ入れるわけじゃない。
え、じゃあ当時の大杉少年はほとんどあんま見なかったんですか、他のものを。
ほとんど見てないです。太陽の塔しか見てない。
太陽の塔。
へー。
え、じゃあその美術の先生に会ったのもやっぱり太陽の塔で衝撃を受けたのは結構大きかった?
いいえ、とんでもないですよ。あの、太陽の塔が好きだったんだけども、美術の大学行ったんですよ。
油絵を勉強しようと思ってね。
で、美術の先生、大学の先生に、君何の作品が好きかって言われて、太陽の塔ですって言ったらね、あれは昭和の蘇大ゴミだって言われてね。
あ、そんな扱いだったんですか。
あんなものはね、アートとも美術とも言えないみたいな。
へー。で、前回の放送で太陽さんの評価が低い時代があったっていう。まさにその時代だったってことですか。
あの、万博を批判すればインテリジェンスだと。
前の世代よ。
でもそれ言われた時に反論はしなかったんですよ。
ショックでしたよ。がっかりしましたよ、私。
じゃあ、それで逆にそっちの美術の世界に行こうではなくなったと。
画家というかアーティストになろうっていうのはちょっと。
まあもちろんね、そんな売れるような作家のような絵描いてたわけじゃないし、もうすることもないし、まあ学校の先生にでもなるかってなったんですけどね。
でもそれがまさか戻って、運命の出会いですよ。
だから岡本太郎の美術館に行けって言われた時に、内心ね、なんかすごい運命的なものを感じましたよね。
だから他の美術館だったら言ってなかったんですね。川崎市に別の美術館できるよって言ったら、学校の先生そのまま続けです。
もう嫌だって言ってたけど、校長はね、はいかいやして答えろって言うから。
12:04
でもそもそも川崎市に岡本太郎美術館ができるきっかけって何か?
いろんなところが作りそうなものですけど。
結局ほら、お母さんの、かの子さんの実家が川崎ということで、
岡本太郎さんね、その以前に市民ミュージアムっていうところで川崎市が岡本太郎展をやったりしてたんですよ。
そもそもその時に市長さんが、いやー太郎さんせっかくだから川崎市に絵を一枚売ってくれませんか?
それまだ生存されていると。
太郎さんがね、俺は絵は売らない主義。欲しければみんなやるよって。
一枚どころか。
全部寄贈しちゃったんです。
それ川崎市に寄贈したんですか?
そう。
それ何点くらいですか?
トータルで言えば1800円。
うわー太っ腹ですね。
ビビったのは多分市長だと思いますよ。
そうですね。市長室に飾ろうかなぐらいの話ですよね。1点くれっていうのは。
全部くれた。
それで受け皿というか箱を作らなきゃいけなくなったってことなんですか?
この美術館を作ることになりました。
じゃあ全部一応寄贈なんですね。
寄贈なんですね。
川崎さんご本人から。
へー。
今日ヘラヘラ美術の先生やってたような僕が呼ばれて準備しようって。
ということは第一号になるんですか?この美術館。
その時に同期というか何かはいかんの?
もう一人ね、やっぱり学校の先生、高校の先生やってた先生が同じようにここに入れるとしてました。
でも二人とも美術の先生だったんですか?
そうです。
へー。そこから何年目になるんですか?開館して何年でしたか?
開館して去年が20周年を迎えたんですよね。
へー。でも運命ですね。
そのもう一人の先生もやっぱ岡本太郎好きだったんですか?
好きというかその方は調べていろんな広く美術を勉強されてるっていう感じですね。
今は大杉さんはベテラン学芸員ではありますが、その時は一年目ですね。だし学芸員経験ゼロ。
そうなんですよ。実は僕は学芸員さんっていうのは学芸員資格がいるんですよ。
はいはいはいはい。
僕は油絵を描いてましたからね。大学の時代学芸員としての管理持ってないんですよ。
教員免許は持ってるけどってことなんですね。
だから美術館作るのに学芸員としては行くのはいいけど、僕学芸員資格持ってませんよって言ったらね。
当時の役所の人がね、そんなものは履いてから取りゃいいだろうって言って。
いい加減だね。今だから言えるんですよ。
じゃあ一年目、今は途中で取ったってことですか?
実はね、ある程度準備しながら岡本太郎の展覧会やったり、論文を書いたり、ある程度の実績を持ってたら
15:05
文化庁の長官がね、無試験認定っていう経験と実績を積んだ人に直接学芸員資格を認定してくれるんですよ。
ダメ元で出したらね、認定してくれたんですよ。
じゃあ別に単位取ったわけじゃないんですね。改めて大学に行ってっていう。
なんちゃって学芸員なんですよ。
いやいやそんなことはない。結果だってずっとやってきたわけですもんね。
でもその代わりね、僕の学芸員資格っていうのはね、文化庁長官から直接もらってるんですよ。
それはすごい。貴重ですね。
でも最初はやっぱり右も左も分かんなかったじゃないですか。
急にやれとは言われたところで、何からやり始めるとかって。
美術をやってはいても、学芸員としての勉強をしたわけじゃないですからね。
あの当時はね、休みといえばね、自腹でね、いろんな美術館に行くわけですよ。
そっかそっか。
一から学ぶんですね。しかも目で盗むパターンなんですね。誰かに教えてもらうじゃなくて。
あわよくば電話して、すみません、学芸員さんにお話を聞きたいって言うんで、
これこれ岡本太郎美術館っていうのを作るんですけど、私そこで働いてるんですけど、
美術館って何やればいいんですかって。
あちこち聞いて回るわけ。
その時にね、ほんといろんなその当時の学芸員さんたちが、いろいろ親切に教えてくれてね。
今その当時の学芸員さんたちってね、結構ね美術館の館長さんに行ったりしてるんですよ。
そういう繋がりがあるんですね、今。
結局準備期間は何年くらい準備して?
96年に入って、99年の10月に開館したから、7、8、9の3年間は準備。
その準備室が、例えば今美術館って常設展示室と企画展示室あるじゃないですか。
常設展示室って迷路みたいなちょっと変わったレイアウトじゃないですか。
そういうのも大須さんたちが考えたコンセプト的なものとか。
展示のプロデュースをされた方がいて、実はその方が今の岡本太郎記念館の館長の平野さんですよ。
あの方はもともとが空間プロデューサーのお仕事でしたから。
平野さんがいる現代芸術研究所っていうのは、もともと岡本太郎さんが作った会社でもあるんだよね。
そうなんですね。
やっぱり岡本芸術を一番知っているのは現代芸術研究所だろうというので、特命随形で展示を設計をお願いしたんですよ。
なるほど。
ですから今のうちの常設展示室の空間というのは、平野さんとのデザインに我々のいろんな要望を交えながらできたものなんですね。
18:07
そうなんですね。じゃあ当時からあまり変わってないんですね。
変わってないですよ。
結局ね、作品をどう見せるかっていうのはね、
当時ちょっと僕も変えてるんですけどね、
基本的に美術館っていうのはホワイトキューブル。
白い壁の音質な感じ。
それが一番である。変な演出を加えることは作品の見方を変な方向づけることになるっていうのでね。
ゴハットの時代ですね。今でもそれがあると思うんです。特に現代美術の場合はね。
結局僕はホワイトキューブルを無印良品の器に例えたんですよ。
無印良品の器に岡本太郎が漏れるか?
確かに確かに。
持て余しますね。
無印良品の白い皿じゃなくて、岡本太郎の作品に合わせた器を作る必要があるんじゃないですか。
なるほどなるほど。
そうやって考案されたのがうちの常設展示室なんです。
あれは岡本太郎の作品を飾るために作られてくれたんですよ。
でもそういうのも一からやったんですもんね。今考えれば。
面白かったですよ。
美術館の学園医さんってあなたがいるんですけど、この館を作るところから参加できるっていうのはすごく僕はラッキーなことだと思いましたね。
確かに。
いやーちょっとなんか熱い話ですね。そう考えると。
今日あれなんですよね。さっきチラッと収録前に分かったけど、大須医さん今赤いベストを着てらっしゃるんですけど。
この収録の数週間後になんと60歳、歓励を迎えられている。
今日は赤というよりもワインレッドのね、かっこいい。
これは買ったんですもんね。
普通ね、皆さんにお祝いしてもらうものなんですけどね。お祝いしてくれる人がいないから、ゾゾータウンでね、自分で買いました。
いやーだから、その話もさっき聞いたから、いやーその若い大須医さんがここまで来たなら、俺の方が全然年下なのに成長したなと思いながら、何様だよと思いながら今聞いてました。
いやーすごい。
ちょっと話をこれも聞いてほしいということでありました。
平面作品や立体作品など多作な岡本太郎さんですけれども、生涯で何点くらい制作していますかという。
今絵が千何百点くらいありましたけど、これは数えられるものなんですよ。
あの僕、岡本太郎っていうのは彫刻とか油絵とか版画だけが作るんじゃないと思ってるんですよ。
あの人のやってるパフォーマンスもそうだし、あと例えばね、今でこそメディアートって言われるけども、
21:01
太郎さんも既に1950年代に光を使って作品を。
絵を描くみたいな。
そういう試みもやってるんですよ。もう形として残ってないですよね。
これもカウントしていくとってことですね。
だからね、もう考えたこともないですけど、すごい数ですよね。
でもあとグッズも多いじゃないですか。
グッズ多いですね。
これやっぱ他の画家というか芸術家とはちょっと違うところですかね。
一人の作家の作ったグッズがこれだけ数多いっていうのは他にはないでしょうね。
そうですよね。
なんか今度、10月から展覧会もやるみたいな。
そうなんです。
実は2年前にね、街の中の岡本太郎っていうね、岡本太郎のパブリックアートを集めた展覧会があったんですよ。
お辻さん担当されて、日本全国こんなのあるよって展覧会ですよね。
はい、ありました。
今回は常設展なんですけど、自分の担当ではないんですけど、うちの若い女の子に、
街の中の岡本太郎があるんだから、今回家の内の中の岡本太郎があってもいいだろうって言って、
え、何するんですかって言ったら、岡本太郎が生前に作ったグッズとか、
あとは岡本太郎が亡くなっても太郎さんのグッズって。
今も多いですよね。
もうそれを全部集めて見せちゃえって。
面白そうですね。
つまり外に出れないんだったらね、うちの中で岡本太郎を楽しもう、このコンセプトでやろうって言って、
それを今準備してるんですけど。
例えばどういうものが有名な作品としてあるんですか?
グッズという作品がグッズで。
例えば、顔のグラスっていうのが昔あったんですよ。
それはね、グラスの底に顔が彫ってあるんですよね。
グラスってタンブラー的な感じなんですか?
本当にウイスキーグラスみたいな感じ。
なんとね、その当時ロバート・ブラウンっていうウイスキーが発売されて、キリンシーグラムっていう会社から、
当時そのウイスキーを買うと、おまけで付いてきたんですよ、顔のグラスが。
1個に付いてくるってこと?
1個に。
何枚集めたらっていうパターンじゃなくて。
1個に1個付いてます。
たまに今でもありますよね。
トリス買ったら付いてくるみたいな。
そんなノリで太郎さんの作品?
山崎パンの春のパン祭り。
あれですらだって20枚か30枚集めなきゃいけないですから。
あ、そうなんですか。
あれはね、1本に1個。
それはすごいですね。みんな結構手に入りますよ。
太郎さんに依頼があったんですか?
あったんです。
周りの人はみんなね、止めるんですよ。
太郎さん、そんなことやったら岡本芸術がね、大ヤスリになるから。
そんなことはやめたほうがいいです。
でも太郎さんのコンセプトですよ。
本当にいい素晴らしい芸術なのね。
みんなでお家で使えればなおいいだろうっていう。
逆に喜んだんですか?そのパンに対して。
24:00
しかもタザですからね。
それ人気はあったんですか?やっぱり。
すごい人気あったんですよ。
最初は男の顔だったんですけどね。
1年後に女の顔も。
バージョンもできたの?
そのうちに、岡本太郎の人間ボトルとかね。
太郎さんの作った陶器のボトルがね。
ウィスキーが入っているようなボトルとかね。
すごい数にいっぱいいろんな種類が出てくるわけですよ。
みんなそれ欲しかったってことなんですか?
欲しかったけどね。
嫌なもんですね。太郎さんが亡くなってね。
もう世の中に出回ってないといえばみんな欲しくなる。
あーなるほどね。
あの頃はただでくれるんだって。
みんなあんまり価値を持ってないもんだと思ってる。
だからもちゃ漬けのりに入ってくる浮世絵カードは別にいらんくらいの感じだったんでしょうね。
ただだしみたいな。
いや今となってはコレクターズアイテムだけどね。
でも結構ヤフオクでね。
1個5000円くらいで売ってますよ。
今ですか。
あれ多分ね、当時酒屋さんでね。
景品としていっぱいくるけど履けないから。
なるほど。在庫になっちゃって。
在庫になってた。それ今頃ヤフオクで出してるんだと思うんですよ。
そういうことなんだ。そういうことって太郎さん他にもやってたんですか?
何かの企業とコラボしてとか。
たとえば恋のぼり。
太郎さんがですね。
太郎さんがね恋のぼりを描いてる。
それは当時俺が出したんですけどね。
いわゆる当時の恋のぼりっていうのは大きいんですよ。
田舎のね、田んぼのところに。
じゃなくて太郎さんが作った恋のぼりはね、ダンチサイズ。
なるほど、そういう時代になって。
ベランダで。
ベランダで出せる。
ところがね、すごく極彩色のね。
生き生きとしたね、すんごい素敵な恋のぼり。
太郎さんが言うにはね、恋のぼりが5月5日のね、
節句に飾るなんて誰が決めたんだと。
誰が決めた。
それは江戸の人が決めたんでしょうよですけどね、本当はね。
なんで恋のぼりは男のもんなんだと。
3月の3日に女の子の節句に恋のぼりが上がってもいい。
クリスマスに恋のぼりが上がってもいい。
別に子供のものじゃない。
経老の日に恋のぼりが上がってもいい。
もう1年中恋のぼりがこの空を泳いでる。
これはこんな素敵なことはないだろうと作ったのが恋のぼりなんですよ。
それは販売されてたんですか。
そうそうそう、売ってた。
つい最近までに売ってたんですよ。
あ、そうなんですか。
今もう中止になっちゃったんだけどね。
あれはいいですよ。
サイズはどれくらいの大きさになるんですか。
大きいのでね、3メートルくらいかな。
なるほど、じゃあいくつかサイズがあったんですか。
ミニ恋のぼりっていうのがあったんですよ。
それがタローさんのところに入ってくるんですか。
もちろんどういう形で契約してたのかわからないけども
27:03
1個恋のぼりが売れたらいくら入るっていうことじゃないと思います。
でも普通に考えたらそれほど有名な人だったら
A1枚売ってドンともらった方が
全然メディアいいのにそれはしなかったってことですよね、タローさん。
あとあれありませんでした?
タローさんのテレフォンカードみたいな。
あれもね、最初にね、電電公社の時代だって
何人もの人のテレフォンカードを作ったらしいんですよ。
最初のテレフォンカードがどの人で行くかっていうとき
第1号ってことですね、テレカード。
その電電公社の担当者が
絶対岡本タローで行きたいって言うんで
テレフォンカードの第1号が岡本タローの絵になって
それが鶴の一声だったんですか。
そういうのも並ぶんでしょうね、今度の展覧会。
並ぶんですよね。
そういうグッズが。
結構いろんなもの作ってるんですか。
着物も作ってね、絨毯も作って、家具も作って
いわゆるティーポットとかネクタイは作る。
とにかく岡本タローっていうのは
我々の生活の中で芸術を活かしたいっていうのが根底にあるから
岡本タローの親スリーダーなんて考えないわけですよ。
自分のデザインした洋服を
女の人がドレスを着て街を歩いてる
こんな素敵なことはないだろう。
喜びなんですね、それが。
別に岡本タローの服じゃなくてもいいんですよ。
街との服がね、街の中を触れたテキスタイルのデザインとしてね。
そういう芸術が生活にあふれるっていうことが
岡本タローにとっては大事なことなんですよね。
なるほどなるほど。
あとちょっとこの話も聞きたかったなと思うのがあるんですけど
明日のシーンは今渋谷にあるじゃないですか。
これ大杉さんがちょっと関わったっていう。
関わったなんておこがましいんですけどね。
なんらかんら美力ならお手伝いはしましたよ。
メキシコに行かれたっていう。
それはね、その後のことなんです。
僕が行ったのは明日の神話を修復再生してる時に
四国にちょっとお邪魔したっていう程度で
そんな私何をしたわけでもなんでもなくて
ただ面白い話があってね。
明日の神話が発見されたっていう時に
実はその年の12月ぐらいかな。
発見されたんですよ。
翌年の。
2003年の秋。
翌年の夏の展覧会僕担当だったんですけどね。
まだ何展覧会やるか決まってなかったです。
12月に明日の神話が発見されたっていうのを聞いて
30:02
よかったわよかったわって。
そこで正月に酒飲んで寝てたんですよ。
大杉さんが。
実家に帰ってね。
寝たら誰かがマクロンをバーっと蹴ったんですよ。
びっくりしてね。
何するんだって起きたら誰もいないの。
ちょっと急に怖い話が起きて。
ちょっと怖い話でした。
はーっと思ってね。
その時にね、本当に変な話ですけど
瞬間にね、明日の神話を展覧会にしなくちゃって思ったんですよ。
誰だーとかじゃなく、誰が蹴ったんじゃなくて
パッときらめいたんですよ。
だってもう誰もいないんだから。
で、パッと思いついたんですよ。
思いついたの。
これでね、もうお正月でしたけどね。
すぐ明日の神話の原画を持っている美術館の
友達に電話してね。
夏にやるんだけど貸してくれないかって。
みんなね、どういうわけかね。
開いてるからいいですよって言ってくるんですよ。
だから出す予定なかったんですか、そのタイミングで。
もう決まってますもんね。
だいたい来年何出すかっていうのはどの美術館?
あれよあれよという間にね、展覧会がうまく組み立ってね
僕はその時に、あ、なんだあれを
枕蹴ったのは、あれは岡本太郎だなと思ったんですよ。
ちょっと雑な起こし方ですけどね。
俺のね、あのメキシコの壁画が見つかったことを知っててね
何も何もやらないで
正月に酒飲んで寝てるんだって言ってさ。
このタイミングだろと、やるならみたいな。
カーンと蹴られたの。
その瞬間、はっ!と。
明日のシーマン、手伝うかしなきゃって思って。
それでね、このスタンプでね、やってながら立ち上がっていくんですけど
明日のシーマンのドキュメントを作ろうと思って
その当時岡本敏子さんに結構聞き書き?
はいはいはい。
明日のシーマンに関して。
言ってたんですよ。
こう言ったらね、ある日ね
岡本敏子さん亡くなりましたっていう話を聞いて
はぁ?ってなってね。
あんなに元気だったのにってことね。
それが、4月ですよ。
7月の展覧会やるためなんですけど。
だから結局敏子さんは見てない。
日本に来たのは見れなかったってことですよね。
見てないんですよ。
でもね、生前敏子さんはね
あの壁画を持って帰ってくるのは
私最後の仕事ねって言ってたの。
予言のように。
で、その時はね
何を言ってるんですかって言って
もう元気だったしね。
でも本当になっちゃったのね。
そういう流れがあるんですね。
でも明日のシーマンといえばあれですよね。
去年一緒に掃除しましたね。
そう、毎年ね。
毎年やってるんですって。
14月にね。
やってるんですよね、あの掃除を。
また今年も14月が来ますね。
あ、そうか。今年もやるのかな。
やるんでしょうかね。
やりますよ。
そう、すごいんですよ。
今は渋谷駅のJRと
井の頭線の間の通路に置いてあるんですけど
あれがここに溜まっちゃうんですよね。
33:00
そうなんです。
年間30万人ですよね。
あの前を人が通るから。
結局こう人の衣服から出てきた
埃が溜まるので
11月何日ですか?
いつもね、ちょうどハロウィンの頃
掃除してるんですよ。
あ、そうです。
これはだから設置された時に
合わせてですか?
これは設置してから何年か経って
明日の深夜は保全機構っていうグループが
何か活動しようって言って
すす払い始めたんですよね。
しかもだから人がいない時にやらなきゃいけないのは
深夜なんですよね。
終電後。
終電が行ったら始まるんですよ。
足場を組んで。
で、大体朝5時頃に解散。
そうそう。
掃除機で済むんですよね。
それをね、大体
ハロウィンをみんながね
やってるところをね
上から見ながらね。
スクランブル交差点を見ながら
掃除するんですよね。
だからそう、あれが綺麗に見えてるのは
毎年そういう陰の努力があるっていうのを
ちょっと去年初めて僕はちょっと
少しだけお手伝いさせていただいて。
すごいみんな喜んだんですよ。
トニーさん来てくれると。
いやいや、そんなことはない。
いや、でも大杉さんは結構毎年
参加されてるんですね。
で、終わった後は朝5時から飲むと。
そう。山賀で。
で飲んで、僕はその日の
金曜日だったんです。
で飲むって言われたらはいって。
その後土曜日は建築ツアーって
企画してたから
徹夜で行きますね。
掃除明けで。
行きましたね。
そういうのがありましたけれども。
タブですよね。
トニーさんね。
ちょっとあれは頑張りましたね。
タローパワーいただきましたんで。
ちょっと悪いなって思いながら
つい誘っちゃって。
いやでも、また今年もあれば
ぜひぜひ行きたいと思っておりますけど。
まぁちょっとあのタイミング
最近の話ということですけども
岡本太郎もコロナの時に
そういう番組があった
オファーがあったっていう。
あの話ってしていいんですか?
ぜひぜひしていい。
コロナと岡本太郎の関係というか
まぁちょっとね
お話を伺えたらなと思うんですけど。
実はね、ほんとこの話ってね
すごい僕
いい話だったんでね。
いいですいいです。
この番組アーカイブになりますんで
5年後10年後にまたみんな聞いてくれるかもしれないですから。
あのコロナのね
自粛で
うちの美術館閉館になったんですよ。
でも作品は展示してやるわけですよ。
でもお客さんに見てもらえないんですよ。
ちょうどその時にね
クロストゥアートって
NHKの国際放送から
電話がかかって
大杉さんこの時にね
太郎さんが
生きてたら
どんな言葉を残すでしょうか
っていうのを
電話で言われて
それは乗り越えるでしょうね
大杉さんそれを
岡本太郎の作品に
絡めて
ビデオで撮ってもらえませんか
撮影に来るわけじゃなくて
自粛期間中で
36:00
自撮りしてくれって
取材に行けないから自分で撮ってこい
その素材を送れ
で僕
乗り越えろという言葉を
使いながら
明日の神話の壁画と
太陽の塔を引き上げ出して
太郎さんはこういうイメージで
今このメッセージを
発するでしょうということを
自撮りしてね
送ったんですよ
そしたらね
その番組が
プロデューサーがね
これはすごいと
これで1本番組作ろう
ということになって
今の番組とはまた別にということですね
その番組はもうそれにしてしまおう
本当はいろんな選択肢が
あったけどそのうちの1つが
大杉さんのコーナーだったけど
大杉さん1本で行きますみたいな
太郎1本で
それで
自粛が終わって
開館できるようになってから
今度
本体が来たんですよ
改めて撮影
丸2日かけてね
館内の作品を
撮って
例えば僕のコメントって
3時間くらいね
ずっと
フィルムを回しながらね
ずっと俺も喋ってるわけですよ
いろんな質問に対して
今日みたいなもんですよね
それで1本番組ができましたと
国際放送ですから
世界に120カ国で
配信するわけです
結構ね
受けたらしいんですよ
反響が大きかったわけですね
それの番組を埋めた今度はNHK
エディケーショナルの人が
これはいい番組だと
これをぜひ日曜美術館の
特別編でやりましょう
ほぼそのまま
その番組が
日曜美術館で放送されたんですよ
まるまる特集ってことですか
まるまる特集
言われましたよ大杉さん
あんた一人でよく
中国の番組NHKが作りましたね
僕はすごいんじゃなくて
太郎さんのメッセージがすごいんですよ
でもその太郎さんの言葉は
乗り越えろなんですね
それ今までも別の時にも
言ってた言葉だった
よく太郎さんが使ってる言葉ではあるんですけど
乗り越えろっていうことは
何かに勝てっていうことじゃないんですよ
相手と向き合って
相手の存在を認めて
共存する
それで次の
そういう社会を
作っていくっていうことが太郎さんに
言われる乗り越えろなんです
コロナに勝てとかそういうことじゃないんですね
例え今人類がコロナに勝って
コロナを克服するような
薬でも作ったら
ウイルスっていうものは
なんとかなるもんだ
人間の奢りが必ず出ると
おそらくそれはまた
39:00
新しいウイルスと
対峙しなきゃいけないことになる
例えば戦争でもそうだけども
相手と戦って
相手に勝ったら
相手を奴隷化したり
人間の奢りというものは
さらに次の
人間との戦いを生むことになる
勝つことじゃなくて
共存することが
大事なんだというのが
乗り越えろだと思う
太陽の塔っていうのは
人間が古代から
自然と向き合って
自然と戦いながら
自然と共存して
その中で
文明ができたという
その象徴が
太陽の塔なんです
阿蘇神話というのは
広島長崎におくとされた
原水爆がテーマなんですけども
日本は2回も
原爆を落とされている
あの夜景の原になった
日本正土から
日本人が
その悲劇を乗り越えたからこそ
今の社会ができたわけです
だから
人間が生存している以上
いろんな戦争とか
自然災害とか
悲劇というのは必ず起こる
亡くなることはない
問題はその悲劇を
やあ悲劇だ悲劇だ
っていつまでもグチグチ
引きずってないで
それを笑いの力で乗り越える
これが
大事なんだよってことを
太郎さんは乗り越えろの言葉で
この5文字に込めた
走ってますよっていうことだと
おそらく番組になったんですけどね
なるほど
いいですよ
いいこと言ってました
太郎さんってすごいですよ
今でも通用するし
今でも生きてるんだなって思います
大杉さんを通じて太郎さんの
言葉を聞いた感じだから
死なないんですね
俺は乗り越えろの番組収録の時に
3時間ぐらいずっと
喋って
だんだんだんだん
ヴルテージが上がってきて
最後涙が出ちゃって
そこはね
ここだけは
使わないでください
あれ
ウロウロ来るんですよ太郎さんの言葉
へー
でもよかった
ちゃんと多分太郎さんの言葉を
伝えたんだと思うんですよ
枕蹴られますもんね
蹴られますね
俺の言葉じゃねーぞ
みたいになってないってことですもんね
へー
今度はなんか落とされるんじゃないかと思って
上から
お伺いしたことがいっぱいあったわけですけども
そろそろお時間ということなんですが
どうですかちなみに大杉さんまだまだ
喋りたいことありました?
じゃあもう間違いなくまた
お呼びしますのでぜひ来ていただきたいな
というふうに思いますけども
一応この放送が多分
10月中になるんじゃないかなということで
もし告知とかがあればぜひぜひ最後
42:00
よろしくお願いします何でも
本当に
このコロナ
に対して
三太郎美術館をVR始めたんですよ
はいはいはい
360度のカメラでね
カーソルを動かすと
館の中を
歩いてるように見える
VR
今やってる展覧会
だから次の展覧会も
また引き続き
新しくVRで撮影して
美術館に
直接来れなくても
来たような臨場体験ができる
というのを今売りにしてるんでね
これは公式ホームページから見れる
VR
岡本太郎VR美術館というのをクリックしてもらうと
見れますから
ぜひ楽しんでいただき
今この収録の
2月時点でやってる展覧会も
10月でも見れるとアーカイブになっている
アーカイブにはならないですよ
今やってる展覧会が
見れるということですので
ぜひぜひ
本当はアーチャー運んできていただきたいですけども
コロナの状況なのでまだ来れないという方は
ぜひVR岡本太郎で
楽しんでいただけたらという
ふうに思います
もう1個ある
もう1個
実は岡本太郎美術館の
作品とか
今教育普及でやってる
うちの
岡本太郎の作品を
お家で作れるっていう
これ告知も
いいですか?
なるほど
先ほど
会議しまして
色んな美術館が
動画を作ってるんですけども
岡本太郎美術館も
動画を作ろうということで
僕が監督企画編集を
頼まれましてオファーを受けまして
それをやると
せっかくだからやっぱり
他の美術館がやらないことやりましょうって
僕がけしかけたらどうぞどうぞと
なりまして
ちらっと言っちゃっていいですか?
僕が最初持ってきたのは
普通に今色んな美術館が作ってるのは
作品の前で解説するとか
ひとつあと作品だけじゃなくて
例えば
ワークショップやってるものを
やり方を伝えるみたいなのが多いんですけど
せっかくならドラマ仕立てでやりたい
っていう話をして
ドラマ仕立てどうですかって言ったら
いやここには若いスタッフいっぱいいるよって
大杉チルドレンみたいな人が
いっぱい集まってきて
じゃあこれを大家族ドラマに見立てて
あなたは長女役
あなたは長男役って決めて
自分で言っても自分でも首絞めてるな
と思ってるけど
一応全6話の
岡本太郎劇団のドラマが
始まるそうですので
僕は今から作りますけど
これが
10月か11月ぐらいから
随時配信されてくる
これすごい楽しみですよ
でも大杉さんにも役出てもらおうと思ってます
45:00
僕も
昔の
金ちゃんの番組みたいなノリになりそうだから
金ちゃんがやりそうな格好で
金ちゃんがやりそうな監督の格好ですね
ベレー帽被ってベストで
首から黄色いメガホンで
ちょっと叩きながら
違うぞお前ら
やりつつ
ちゃんと岡本太郎の魅力も紹介する
動画が作られる
こういう緩さが岡本太郎美術館に
僕は最大限の魅力だと思って
でもこの空気を作ったのは
大杉さんですからね
っていうのを聞いて納得しました
ですので
今後も岡本太郎美術館
ぜひ注目していただけたら
という風に思います
この番組は定期配信です
各種ポッドキャストサービスでのフォロー
報読をお願いいたします
そして感想はハッシュタグ
岡本美術の話をでお願いいたします
また今後聞きたいテーマやゲストは
番組ウェブページでお願いします
今ならですね
こういう風に書いていただけたら
今回の岡本太郎美術館すぐ来たように
多分すぐ即リクエストが採用されると思いますので
ぜひぜひ皆さん
感想をお待ちしております
ということでお付き合いいただきまして
どうもありがとうございました
46:31

コメント

スクロール