1. そろそろ美術の話を...
  2. Artist Live Talk Vol.7 ~ア..
2025-08-22 1:03:14

Artist Live Talk Vol.7 ~アーティスト 近藤智美~

番組が推したい”旬なアーティスト”を紹介する「Artist Live Talk」の第7回目です。弥生美術館で開催中の「ニッポン制服クロニクル  ー昭和100年! 着こなしの変遷と、これからの学生服ー」出展作家の近藤智美をゲストに、2025年8月8日 午後6時頃に生配信した内容をお届けします。

番組の感想は、⁠⁠⁠⁠⁠#そろそろ美術の話を⁠⁠⁠⁠⁠ でお願いいたします。

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Guest Profile

近藤智美(こんどう さとみ)

    • 体験から実感した事を起点に、悲劇を喜劇に変換するメソッドを、絵画上で展開する。美術史と個人史を接続させ、重層的に作り込むのが特徴。 2003年から2004年代に、渋谷で実際にマンバギャルとして、ブームの中にいた当事者でもあり、ヤマンバギャル文化を美術史として、資料的に残すことをライフワークとしている。


    Link

  • サマリー

    近藤智美さんが参加する弥生美術館の企画「日本制服クロニクル」に関するトークが行われ、制服やギャルファッションの歴史と変遷について議論されています。特に、ヤマンバギャルドシリーズやそのスタイルがもたらした影響について深く掘り下げられています。近藤さんは、自身のアートにおける表現の過程や影響について語っています。特に、マンパギャルとしての経験が現在のアート作品にどのように反映されているのか、また彼女の作品における個性や女性表現について深く掘り下げられています。アーティストの近藤智美さんは、1920年代のプロレタリア美術運動についての研究を通じて、過去のアバンギャルたちの思いを受け継ぎ、アートを民衆に開く意義について語っています。彼女は、ヤマンパの時代とその終焉に関する個人的な経験を交えつつ、文化の継承の重要性を強調しています。トークでは、携帯電話のストラップとそのデザインの文化について議論し、過去の文化遺産としてのプリクラやガングロについての理解を深めています。また、アートイベントとその割引特典についての告知も行われています。近藤智美さんはヤマンバ・ギャルとの対話を通じて、美術と神話、民俗との関係について探求し、作品制作への思いを伝えています。

    アーティストの紹介
    はい、アートテラー・とにのそろそろ美術の話を、この番組は私、アートテラー・とにが、アートに関わる方をゲストにお迎えして、トークを繰り広げるポッドキャスト番組です。本日は、アーティストライブトークの第7弾を配信します。
    近藤智美さんのご好意により、配信予定のなかったアフタートークも特別に配信いただけることになりました。
    エンディングテーマの後に流れますので、ぜひ最後までお聴きください。
    はい、ということで始まりました。番組の主体、旬のアーティストを紹介するアーティストライブトークの第7回目です。
    ということで、今まさに生で配信しています。ということで時刻は、2025年8月8日午後18時1分を回ったところとなっています。
    はい、ということで閉館後の弥生美術館から番組の公式リプスで、今ちょうど生配信をしているところということでございます。
    ということで、途中機材や回線トラブルなどがあった場合はご容赦くださいませ。
    そしてこれをポッドキャストで後日聞いている方もいらっしゃると思います。
    こちらはその生配信のアーカイブとして聞いていただけたらと思います。
    ということででは早速ゲストを紹介したいと思います。
    本日は現在弥生美術館で開催中の日本制服クロニクル昭和100年着こなしの変遷と
    これからの学制服出展作家の近藤さとみさんです。よろしくお願いします。
    ギャルファッションの歴史
    はい、よろしくお願いします。ということで場所も今弥生美術館から行っているということでして、
    前にこの展覧会の取材に来て、その時ちょうどたまたま近藤さんいらっしゃって、
    担当している学園医さんが内田さんという方で、この番組にも以前出ていただいて、
    制服の展覧会やってますよって話をしているので、多分リスナーさんにはおなじみの内田さんの展覧会なんですが、
    内田さんが紹介してくれて、そこから多分2時間ぐらいですよね。
    2時間ぐらい。
    結構ずっと2人、なんか盛り上がりすぎて。
    そうですね、世代が、世代間の話ができたので、リアリティのある認識ができる人だったんですね。
    で、盛り上がって、もうこの人面白いなと思って、もうぜひ番組に出ていただきたいということで、
    今日ちょっとラブコールさせていただいて、今日来ていただいたということでございます。
    お邪魔します。
    しかもこの番組の月一レギュラーで、新井丸さんっていうのがいるんですけど、
    丸さんのお友達でもあると。
    そうなんですか。
    というふうに伺っておりまして、縁も色々と感じておりますので、よろしくお願いします。
    ということで、改めてでも番組で初登場ということですので、近藤さん、自己紹介をまずしてよろしいでしょうか。
    はい。近藤さとみと申します。
    東京を拠点に絵画を中心に発表していて、広島出身なんですけど、18歳で上京してきて、
    山んばになり、それから絵を描くようになりました。
    一行で済ますことではない。どう考えてます?
    ちょっと端を張ります。
    そうですね。体験したこと、自分が実感したことを起点にして、作品に個人紙と美術紙を接続させながら、
    抽象的に作り込むみたいな、そういう感じで作業をして、油絵を主に描いて発表しています。
    かたがきだとどう名乗るんですか?画家っていうわけでもないですか?
    絵画のバージョンは、発表のスタイルもあるけど、絵画だけじゃないですもんね。
    でも、主に画家って言ってます。絵描きとか。
    なんか、木彫りみたいで可愛いです。
    確かに。画家って言うより、絵描きって言ったり。
    って説明しますね。
    さらっと出てしまった、ヤマンバッキャル時代があって、作品も今回も出展の参加の理由ってのは、そういうところからお声掛けがかかった?
    今回の展覧会は、やっぱり制服の変遷、着こなしの変遷の100年っていうことなので、
    最初にお声かかったのは、こっちに入り口すぐにかかってる200年後のキス&クライっていう、
    セーラー服の子たち、14匹いる。
    14匹、忍者だ。
    トリプルアクセルを飛んでる、この絵画で最初にオファーが来て、
    まさに展覧会のコンセプトと合致する絵、100年っていうことと、あと靴下がトリプルアクセルを飛びながらずり落ちていくんですね。
    最初は膝の上まで白いハイソックスがあるんだけど、くるくる、同時イズホーみたいな、あれですよね。
    同じ人が連続写真のように並んでて、その飛んでいく姿でどんどんルーズソックスのようになっていってる。
    ルーズソックスになり、ピンクのルーズソックスで、だんだん靴の中に巻き込まれてるというか、
    2020年代ぐらいのくるぶしソックスになっていく。
    靴下の流行りの変身もここに入れてるっていう絵画で、これがぴったりだっていうことだった。
    ひかしの変身とまさにリンクしてるっていうことで、こちらの作品がまずきっかけで、お話ししてたら、
    これが2018年の作品なので、結構前で。それで、今現在はヤマンバシリーズを作ってると私が言って。
    ヤマンバシリーズっていうのが、また大正ヤマンバギャルドシリーズあったので。
    ヤマンバギャルドじゃなくて、ヤマンバギャルド。
    そうです。アヴァンギャルドと掛け合わせた。大正時代のアヴァンギャルドたちの前衛運動と、
    ヤマンバギャルドをちょっと運動として捉えて、接続させた展覧会を作って。
    そのシリーズの話をしていたら、たけひとゆめちさんとか、まさに大正時代のことともリンクしてるので、
    そちらの作品もちょっと見たいっていうので、お見せしてたら、やっぱり着こなしの変身の得意点。
    ギャルファッション。90年代のギャル部門っていうところを、私が若干担当する感じになりました。
    今、会場には本当に学生服の歴史から始まるのに、本当にプレーンの学生服から始まり、
    つっぱりのが、70年代、80年代、つっぱりのココナシがあり、DCブランドがあり、そして90年代があって、このギャル部門担当。
    はいはい、簡単にざっくり言うとそんな感じですね。
    たぶん、お会いしたのが先月とかで、たぶん1ヶ月ぶりに来たら、ギャルの女の子の着こなしはそんな変わってないですけど、男子の方が格好がよりルーズになってるんですけど。
    セントラルな交流
    これは気のせい?変わりました?ここ最近。
    たぶん、裏付きが。
    裏付きが。だからね、腰バンダンシがね、腰バンダンシ。
    今、つっかえ棒でちょっと支えた。
    そうですね、ギャルは姿勢がいいんですけど、ちなみにあのマネキンも私がアドバイスして作ってますね。
    どこがポイントになるんですか?ギャルマネキンのポイント。
    当時の子たちに話を聞きながら、渋谷の流行ってる時だから、ニットですかね、ロングカーディガンを腰巻きしてる。
    それはラルフが最初だったし、ローレンだったと。
    渋谷の子たちは、私の世代はもうユニクロでロングカーディガン売ってたので、ユニクロだったり。
    だからラルフ見えないから、ワンポイントとか見えないし、やってる感じが出ればいいんだ。
    スカートをもう三つ折りぐらいまで折ってるので、そこを隠したりするためのロングカーディガンだったり。
    そもそもは膝を見せたいから、スカートをたくし上げてるけど、そのたくし上げてるところを見せたくないんだ。
    はい、若干。
    女子はそうだったんだ。
    もうちょっとスカート丈短い方がリアルだと思います。
    ルーズソックスのシワの寄せ方とかもある。
    あれももう少し膨らみ。
    ふくらはぎのところよりちょい下ぐらいがリアルだと思います。
    本能さんもこの時代はあるけど、まずヤマンバギャルになる前のギャル時代もある。
    そうです。やっぱりそれも進化系なので、ギャル時代っていうのは広島時代です。
    ヤマンバの時はもう制服は着てないので。
    ヤマンバの時は何を着る?主に何?
    もう卒業して上京してるので、私服でアルバローザっていうのが出てたね。
    みんなアルバローザもロキナミ、もともとは高級リゾートファッションだったけど、ギャルたちが奪還してしまった。
    アルバローザの人からは思わしくないような現象があったんですね。全員アルバローザを。
    そんなに人気だった?
    希望でしたね、着る。
    だから僕がこの前聞いた時には、本能さんはヤマンバギャルの世代で第何世代になるんでしょう?
    第2次世代です。
    それは何年か。第2次世代の一番前世紀というか。
    たぶん2003年くらい。私も上京したのがそこなので、2003年から2004年の本当に短い期間だけど。
    そんなに1年間なんですか。第1次が出てきたのは何年くらい前?
    それが99年って言われてます。
    その99年の時にもアルバローザも人気だったんですか?
    その時にもイケテルは来てた。雑誌にも載ってましたね。
    99年の第一世代の人たちの間でも、もうちょっとしたアルバがイケテル、ハワイアン的なものとか、
    それをブリテリさんとかゴングロさん兄弟っていう人たちがだんだんゴングロというところまでやっていくと、
    今度は部族的な、もっとプリミティブな方にファッションを取り、美意識がそこにあったのかなと。
    顔黒いけど目元白いみたいな時期ちょっとあったな、それはプリミティブ。
    それで画面的になっていく。それを発明したのが第一次世代の人たちなんですね。
    第一次が99年、第二次が2003年、4年?
    2003年から。
    ちょっと空いちゃうんです。一時期いなくなる気がある。
    そこで休憩があるんですよね。一回第一次世代の人たちが自分たち手で終わらせた。
    それを私たちは中学ぐらいで見てるんですね。
    中学ぐらいの昔のペックで見てたので、それをもう一回盛り上げたいっていう子たちが先代の思いを引き継いで、
    さらに今度はアレンジするんですけど、また第一次世代そのまんまじゃなくて、
    第一次世代がやまんばだったら、次の子たち、第二次はまんばっていう。
    この矢が抜けて。
    矢が取れて。
    人たちは名乗って、まんば。
    まんばっていうふうに言ってました。
    何人ぐらいいたんですか、チームというか。どうやったらなれるんですか。
    たくさん質問があるんですけど、自己申告性でいいんだと思うんですけども、もちろんパパになりますでいいんですけど、
    やっぱり渋谷の中の出来事なんですけど、センター街の本当に局所的な現象で、その中に40人ぐらいいたと思います。
    で、その40人がサークルだったりユニットだったりを、グループがマップがあって、それの緩やかに景色を作ってる。
    生息域とは言わないけど、出動域があるってこと。
    グループ分けられてて、まるで美術の運動みたいに。
    グループがたくさんある中で、どこも有名な子たちなんですよ、それは。
    で、その中に認識されにいくっていうのがセンター街の中に入っていく。
    近藤さんはどういうグループいたんですか。
    私は里見王国っていうグループ、ユニットでした。
    近藤さんが里見だから、もちろん里見王国は、じゃあ王、国王、女王ってことですか。
    いえ、ただ私の家を拠点にしてたからだけ。住み着いちゃってたから。
    何人くらいの子たちが。
    6畳に7人くらい。
    すごい。
    私の家賃とか公熱費とか管理して、計算して、みんなこれくらい日数いたから。
    これくらいとかやってたから、それで多分王様だっただけで。
    里見王国になった。
    里見王国、じゃあ他もう入れないんですか。物理的にも増やしようはなかったんですかね、それは。
    ずっと家にいたわけでもなく、その頃は十条に住んでたので。
    十条の商店街をぶらぶらしながら、それで万場をやるときは、ちゃんと万場の体制になって、それで渋谷に行く。
    常に万場ではなくて、ちょっとやっぱり着替えたり。
    ちょっとフレッド毛があるというか。
    いつもあの化粧だと疲れちゃいますので、やっぱり。
    着替えてから渋谷に向かって、渋谷行ってから着替えるんですか。
    着替えてから埼京線に乗ってセンター街に行く。
    もう通勤する感じなんです。
    更にスーツ着て行く感じで。
    まあ儀式に参加するかどうか。
    行って渋谷で主にすることって何をするんですか、みんなで。
    主に人間観察とかをするぐらいですね。
    ただただその格好をして、センター街のメッカ前、プリクラのメッカ前っていうところに生息して、
    人を観察したりするだけの。
    そういうことは例えばエッグとかみたいな雑誌に声かけられる街じゃないですか。
    そういうのとかもあったりしたんですか。
    モデルになりたい子は多分そういう街ですよね。
    マンパギャルとアートの関係
    編集者の目に止まりたいっていうので、ギャルの子たちがそうなったのかもしれない。
    まあちょっと論外なとこもあるし。
    現場でも乗りたい子は、あの化粧をするっていうことは結局遠くから見て目立つっていうことなので、
    編集者の目にも止まりやすいとかでしてる子もいたとは思います。
    なんか話だけ聞いてると結構パフォーマンスなんだなと思ったときに、
    最初にマンパギャルとアートってどこが結びつくんだろうと思ったんだけど、
    やってることはもしかしたらハイレッドセンターとか、昭和で言うと、
    格好が違うだけで街を舞台にしたパフォーマンスって考えたら、
    意外と実は誰よりもハプニングとかのあの人たちのアートみたいなことをやってた。
    それは自覚的にやってたんですかね。
    自分たちがこれやると街がちょっと面白くなるんじゃないかなのか、
    それとも自分たちが楽しいからやってるだけなのか。
    やらざるを得ないって言った。
    どういう意味です。
    誰しもある表現欲求だと思います。
    自分がこの格好をすることでようやく保てるって感じぐらい。
    そこも狙って、だからああいうおぞましいことをして、人を驚かそうとか、
    そういう意識ではなかったですね。
    近藤さんは今、この美術の道に進まれたじゃないですか。
    その時のメンバーで、やっぱり今、表現の仕事というか表現の道に進んだ人たちいるんですか。
    看護師になったり、キャビンアテンダントになった子もいたし、
    沖縄でポールダンサーを踊ったりする子もいたり。
    もうほんとバラバラ。
    バラバラですね。
    でも全員、あの時は全員表現してたようなこと。
    一人一人が結構葛藤があったので、その上ではやっぱり、
    全員こうだよ、ヤマンバはこうですとは私は語れないのは、
    やっぱりかなり一人一人は被らないように気をつけてたりしたので。
    見た目は一緒に見えちゃうじゃないですか、知らないと。
    本人たちの中でやっぱりそれぞれの個性を出した。
    全然違います。
    それを私がこうやって歴史ごとみたいに絵画作品にしてとかいう意識で作っちゃうと、
    やっぱりまとめがちなのね、パッケージに。
    それは自分としては一人一人表現が違ったっていう差異があるので、
    そこは大前提、忘れちゃいけないなと。
    そこに展覧会に飾ってあるので、マンバギャル1、2、3、4、5、6、7、8人ぐらいですかね。
    ぱっと見は同じに見えるって言ったら失礼ですけど、でもよく見ると髪の色が違ったりとか。
    あれはもうみんな決めてるんです、その髪の色がかぶんないようにとか。
    あの子が緑にしたから、ちょっと緑やめとこうとか。
    あの中にゴンドウさんもいらっしゃる?
    白いのです、私。髪の毛が真っ白の。
    頭にメガネかけてる?
    そうそう、赤いメガネかけてるの。
    玉城浩二の五年の時みたいな感じのメガネにしてたのね。
    結構イケてた。
    表現への葛藤
    これら元になる写真があるんですか?
    元になる写真があって、それをまずはこう、
    みなさんが写ってるのをやっぱり公開するのって、
    彼女たちも今の人生があるから許可とか全員に必要なんで、
    まずは絵なら絵にすればいいと思って。
    それで油絵に起こして、看板的なものを作ろうと思って。
    それで大正時代のアバンギャルドの黒妖怪って書いてあるのが、
    大正時代のフロレタリア美術運動の人たちの名前、冠を付けて黒妖怪って看板を付けて、
    大正ヤマンバギャルドシリーズの看板にした作品。
    実際の写真をそのままやってるわけじゃないですね。
    美術作品としてのアレンジの部分も当然あってっていうことなんですね。
    でもこの時から近藤さんはもう美術の道に行く。
    ヤマンバギャル時代にはもう美術の道行こうっていうのはあったんですか?
    いや、全くなかったです。
    そこからどうなってこの道に進んでいくことになるんですか?
    ヤマンバオスの時はもう絵が描けるっていうのを隠してたので、
    プリクラの落書きは上手いから。
    ちょっとバレる。チェンリーコでちょっと捨てちゃって。
    あんまり絵が役に立つ世界ではなかったので、自分たちの身体表現の方が忙しかったから、
    絵じゃなくて、運動として終わったと収束した。
    で、自分は今度は何をしようってまた葛藤が始まって、
    そこから私はインテリアの方に、インテリアデザインの方の学校に行き始めて、
    空間を作る仕事をしたいなって思い始めて、
    小空間デザイン、CADでカフェのデザインとかの学校を学んで、
    それでプレゼン大会みたいなところでプレゼンしたのが、
    確かCADで作ったものがテクスチャーが全く、私が出したい世界観が出なくて、
    それでプレゼンボードを隅から隅までびっしり手書きで。
    もう表現できないと。
    はいはい。それでいろんな装飾をプレゼンボードにつけてて、
    それがもう先生方に受けて、CADを使ってないの?
    君は横田なのに好きなの?ってそこで言われて。
    そんなぐらいの出来だったの?
    知らなかったんですよ。
    そっか、当時は。
    はい、当時。天井雑誌記って書いてて、
    どっかで見たんでしょうね、天地をひっくり返した壁を作ったんですね、デザイン。
    雑誌記って書いてたんで。
    でもまっきり横田なのにいいスタイルだって言われて、
    私全く知りませんってことになっちゃって。
    君はもう少しデザインじゃなくて、絵を描いた方がいいんじゃないかっていうことを言われて、
    そこから古典をするにはどうすればいいんだろうっていうのを調べ始めて、
    そこからですね、絵に意識がいって、
    で、だんだん急速に話が転がるんですけど、デザイン会社にちょっくら入ることができて、
    社長と知り合いだったので、そこでデザイン会社というのを、
    ちょっと違和らしい契約書もあったんですけど、
    そこで社長の命じるままに作品を描けってやって、
    もう作品っていうのは思いっきり写実的な、夜桜とか魅力菩薩とか、社長が好みのものを描けばお給料が出る。
    強制的にそういう練習じゃないけど、そういう時期もあった。
    そこに突き落とされて、それから鬱屈した環境だったので、やっぱり自己表現がしたいと。
    最初から絵っていうのがお金、給料が出るために描くものってスタートになっちゃったんですけど、
    やっぱり自己表現がしたいと思って、
    そこから社長が、この会社がちょっとパンクした。
    そこから亡くなったので、自分のそこで貯めた絵を持って、それから発表する場所を探し始めて、
    銀座のギャラリーとかは1日8件とか巡って、どうやって、何を使ってこういう絵になるんだろうとか、
    そういうのをビッシリノートに書き連ねていって、そこから研究が始まったっていう。
    独学からそこに関して言ったら、別に美術系の学校に行ったわけでもなくてってことで。
    でも、絵だけ見ると相当完成度が高いから、昔から会社の花とか、もしくは正当な美術教育ってと思ったけど、ここまでいけるもんですね。
    練習しました。
    でもそのエンテコリーな写実画を命じられてたのは、今考えたら訓練であったと思います。
    意味は絶対あったんだなっていうのが見ててわかりますよね。
    フリムンの踊りと女性表現
    でもそこから最初に発表した時って、美術界にデビューっていう言い方がわからないけど、自分なりにここが起点だったなって思う時はどこだったんですか?
    最初の個展ですね。
    2011年に最初の個展をすることができて、初めての発表かな。それが山下雄二さんっていう美術師さんの先生が来てくれて、隠し玉っていう連載に取り上げてもらって、そこが多分世に出たのが初めてだったと思います。
    その時の作品はまだマンバギャルとかでも当然なくて。
    なかったですね。まだヤマンバ封印してますね。
    どこからこの封印解いてもいいなってなったのは?
    大正マンバギャルの。
    それで山下さんに、次防火店に行くわけで、推薦いただいて。
    上野の森でやるやつですね。40歳以下の人が定面の店の中に。
    投入もあって。そこに推薦いただいた時に、江戸白でやってた500ラカンズ店。
    500ラカンズね。
    500ラカンズとヤマンバを掛け合わせたマンパラカンズっていうのを書いて、それで山下先生にあげたんですね。
    村上隆より先に500ラカンズ。
    森美術館にやるより前にね。
    それで結局、その時はヤマンバをシリーズにするつもりもなくて、ただただヤマンバ達と500ラカンズの戯れみたいな。
    非常にヤマンバがいい演技をするんですよね。
    その絵の中で。
    ヤマンバって演技がいいなという感じで、すごい実感があって。10年以上前なんですけど。
    やっぱり日本の絵画の、群雑図とか描いた時に、日本人が変にダイナミックな演技してる絵画ね。
    たまに言うとあれとか、ちょっと演技があざといなみたいなのが。
    絵画の世界だけど、ちょっと形式的すぎたりとかね。
    やっぱり西洋人がダイナミックに歴史観で描いた演技とは、なんか日本人が演技するとなんか違うなっていうのがあって。
    でもヤマンバに演技させると結構良かったんですね。
    ハマったんですね、カチッと。
    ハマって、これ面白いなあ、なんか動かせるなあとか思ったのを、そこからヤマンバを作品すぐにはせずに、
    結局ビジュアルとしてしか捉えてなかったので、なんかもうちょっとヤマンバ現象を運動として、なんか解明したいなあって思い始めてから、
    まあ10年生かせてるんですね。あまりにも多分、持ち行くとしても思い入れも強すぎたし。
    なんなら中にいるわけだもんね。
    中にいたわけだからですね。
    家中にいると作品化はできないじゃないですか、死んで見れないし。
    中すぎて、まあ当事者ですよ。
    当事者すぎて、距離感も近いから、そうやって解明するっていうまでなかなかならなくて、見え切らない状態でずっと寝かせてて、
    そしたら2021年にフリムンの踊りっていう作品で、どーんって大きく変えたんですよ。
    フリムンってのは何ですか、フリムン。
    沖縄。
    沖縄、うんうん。
    それはでも天見大島を主題にした絵で、久保さんのガングロ族の最後の拍子になった。
    あの本ですね、研究者の方の。
    顔の拍子になった作品を2021年に描いて、天見大島でもフリムンっていうのはちょっとおバカさんとか、ちょっと愚か者とか、そういう意味合いがあるので、
    でもなんかこう、地域ではこう尊敬されてたりするような存在っていう、なんかいい存在だなと思って、天見を取材した時に思ってて、
    いつか作品にしたいなと思って、それが2021年にようやく、なんか女性の応援、応援する絵、女性応援画みたいな、そういうご依頼ですね、まずあって。
    で、女性画とか、幕。
    ちょっとその時期急に出てきた時はありましたよね、今の百花展とかでもね。
    そうなんですけど、そこにどうお答えしようかなって思ってて。
    女性画って言っても、なんか考えてみたら、女性画、女性画、女性を描く幽霊があって、どうして美しい女ばかりなんだろうなっていう疑問がすごくあったんですけど、
    女性は、それは男性側から見た、恨みつらみを持った状態で幽霊になったっていう女性像は、男性側から見たもの。男性が作り上げてる。でもやっぱり美しかったり儚かったりする。だからそれに対して、たくましい幽霊が描きたいなと思って。
    いろんな幽霊がいてね、おさしてもらえるわけだから。
    たくましい幽霊になって死んだことにも気づいてないような、たくましい幽霊となった幽霊で描きたいと思って。それでフリングの踊りが爆誕したんです、そうね。
    なんかいろいろと結びついたんですね、タイミングも良かったし。それがどこで発表したの?
    それは中島清さんですよ。
    中島清さん。言い忘れますね、あの。
    NHKとかの絵を描かれるの。その方の定覧会の描き合わせみたいなので、女性が描く女性画とかのゾーンに。令和の女性画みたいなところに描き合わせみたいな感じですかね。
    でも当然他の方も女性画家で女性が描いてる人もいるけど、みんなは生徒悩みが多い中でってことですよね。
    そうでしょうね。
    でもその時の反応はどうだったんですか?
    なんかあの絵自体はすごく反応良かったですね。
    そこからじゃあもう爆発したように描いていこうっていうのもそこからですか?
    アートのエネルギーとモチーフ
    なんかその作品描いてる時もちょっと個人的にいろいろあった時期だったので、描きながら絵ってやっぱりエネルギーの変換なので、すごくスライスされるようなことが起きるんですけど、
    それを振り向いて描いてる時、描いてたら励まされるような感じになってきて。
    絵自身に?
    なんかエネルギーがもらえるモチーフになってるなと思って。これは結構元気出せよって感じがするなと思って。
    なるほどなるほど。
    そこからこれだったら描けるかもしれないなと思って、絵はその絵で終わらしたんですけど、もうちょっと突っ込んで運動として捉えたいなって思ってたら、
    1920年代を調べるきっかけが仕事であって、それは浮世の画家っていう和尚石黒さんが描いた小説の、映像化する際の私が劇中画を担当して、
    その時に1920年に描かれた絵っていうのを、
    当時の絵を描いてたんですか。
    画風の戦争画を再現する。中文画としての戦争画っていう非常に重いテーマなんだとしても、その背景を調べないとやっぱり描けないということで、
    それで1920年代を徹底的に調べていって、結構大きく調べてたら、プロレタリア美術運動大正時代にまずはぶち当たって、その前身に大正気振興美術運動があって、
    その大正気振興美術運動にそこでやっと出会いまして、なんかめちゃくちゃかっこいいって痺れちゃって。
    ツーフルところが。
    大正気振興美術運動のアバンギャルたちの短いスパン、もうほんと5年ぐらいで終わるけど、一人一人がものすごいカットして作品も描いてるし、
    なんか踊りも踊ったり顔に絵描いたりも、なんかめちゃくちゃ面白い。
    日本のだがって言われたりするような、そういったアバンギャルのたちは、芸術を芸術に閉じ込めな。民衆に開く大衆に開いていくみたいな、そういう意識がはっきりと100年前にあるのを知って、
    私もやっぱり開いていきたいと思ってね。それに励まされたので、こういう人たちがちゃんと100年前に、なんか頭いいなと思った。
    それに彼らの思いを引き継ぎたいと思い始めて、その人たちの資料ももちろん少ないですし、
    やっぱり今残さねば、永遠に語られなくなるような、忘れ去られてしまうような運動っていうのを、その大正気振興美術運動の第一人者の尾向俊春先生の研究文で、
    それで、レイドした時の熱量もいただき、これぐらいの研究者の熱で残さねばって思ってる、ものすごい本だったんですね、それ。もう痺れちゃって、もう太い本なんですけど、それにこうやって今残す、資料を貸して残すみたいなことをやってるっていう、
    ヤマンパの文化と歴史
    そちらの研究者の熱にも影響を付けちゃった。
    プレイヤー側もだし、それを伝える側にもっていうことなんだ。確かに河野さんのやってる作品って、たぶん実際プレイヤーだった時のもあるし、たぶんその気持ちもわかるし、それを残さなきゃっていうのもあるから、両面があるのはよくわかるし、
    なんかすごく絶妙なのが、たぶん山場にある、たぶん当然、生きてるに、僕らね、セライアンにとっては知ってるけど、もうすっかり忘れちゃったもので、調べられるかって言ったら、たぶんYouTubeがちょうどないし、スマホも今みたいにスマホもないから、ちょうど記録が残せない、なんかギリギリのところだったんだよね。
    ブラックボックス化してるって言われてる、2003年。
    これがあと5年後とか10年だったら、もっと記録映像とか記録媒体とか、インスタも始まってるんですけど、まだミクシーの時代。
    まだミクシー。
    写真あげれて2枚とかだから。
    まだ個人ホルペ。ガラケージで。だからその、一旦台頭して、前夜に滅びてしまったので、それで資料がやっぱりインターネット上にない。
    だからやっぱ、これは伝え続けないって気持ちもあるんでしょうね、近藤さんの中で。
    たぶん、伝わってしまってる情報の方が、私もテレビ的に一旦取り上げられた、演出が入ったやらせ的なものがある方が、たぶんみなさん知ってると思うんですけど、あれはテレビ的なもので。
    だから、勝手なイメージですけど、記憶あれだと、今流行りの風呂キャンセル界隈ってこともなかったけど、なんか風呂入ってないみたいなイメージとかはあった?
    いや、風呂入ってましたよ。
    そういうのから正していかなきゃっていうね。
    でもその、部屋とか汚しておいてとか、やっぱりプロデューサーとか言ってた。
    そうなんだ。だから、お部屋のおギャルって言葉もたぶんなかったけど、そのイメージ。
    でも、おってつけるのは、あだ名とかにおってつけるのは、なんかこう、強めでしたね。
    汚れる。
    でも、あの時代なんだ。
    そう、あの時代ではありますね。
    でも、非常に演出が入ってたりすることを、ヤマンパ達も合わせちゃう子達だったので、それこそ。
    合わせちゃう子達。
    テレビに出ると、ポケット貸しもちょっともらえたりするし、なんか、はーいって感じでやってる。
    で、特にあんま気にしてなかったですね。どう思われようか。
    なんかそれ自体を、ヤマンパ達も愉快犯として、まあいいやって感じでやってたんですけど。
    なんとなく私はなんか、中はそうじゃないとか、伝わってる。
    ヤルゾーとかヤマンパゾーっていうのは、かなり演出が入ってるので、ちょっと、ちょっと、まあ、私も一丁噛みしていこうというか、誤解。
    でも、今やらないともう、次の世代はだから、もうヒントがないというか。
    カッパとか追われてるし。
    本当のヤマンパ。
    民族的な。
    確かに。
    民族みたいに、伝説の生き物じゃないですけど、本当に若い子達が古典に来てくれて、本当に実在したんですね、みたいな感じで。
    確かに確かに。
    カッパみたいな扱いなんだと思って。
    でもちなみに最後はどうやって、今日もう辞めるっていう瞬間はどうやって辞めたんですか。
    もうそこは話し合いをして。
    メンバーで、その王国のメンバーで。
    一応、私たちの周りの話にしますね。
    それはもう、ヤマンパも町自体も渋谷の町が終わったねって感じの感覚があって、もう町に拒絶されてるような感じがあったんでしょうね。
    それで渋谷の町とセットだったんで、もうなんか辞めようかっていう感じで、ちょっと話し合いしたのは覚えてます。
    で、もうそれでスパッと辞めるもんです。
    スパッとでした。
    あるから、だからいなくなっちゃったんですよ、本当に、そこに関しては。
    いなくなった、なんかそんなに発信したりしなかった、自分たちの2003年ぐらいのヤマンパは、もうなんかやり切ったじゃないけど、本当に極めた。
    極めるっていうキーワードで、まあ美意識を競ってたんですけど、極めたっていう感覚が。
    まあそのヤマンパ同士見たら、戦闘能力がいくつか数値化できるぐらい。
    戦闘能力があるんですか、ヤマンパって。
    やっぱりもうどれぐらい極めてるかっていうのが見える。
    スカウターのようにと。
    スカウター。ヤマンパとかギャルって昨日今日では慣れないじゃないですか。
    積み重ねがある。
    かなり時間がかかるので、やっぱ長く蓄積した、その形になっていくクラスになるともう数値化できます。
    数値はどれぐらい、何点満点みたいな。100点満点。満体です。
    どんなイメージでした、数値を。100点中あいつは何十点。
    100でしまったんです。
    この極まった時に近藤さんは、自己採点だと100がマックスだといくつまでいくんですか。
    盛り切ってます。
    もうこれ以上は進めないっていうのがあるんだ。
    臨界点がはっきりとあって、もうこれ以上だと自己模倣にも陥るっていうか。
    自分の中でも。
    もうやれないっていう段階があって。
    もちろん現象としてこういう、これはアバンギャルって言っていいのかわからないですけど、やっぱり終わる運命はもともとないものなので。
    だから終わりをみんな滅びるっていうのを自覚しながらやってたので。
    で、もう極まったなっていうところで、みんなものすごく潔く。
    アスリートみたいな感じですね。だからちょっとそのところにね。
    走り抜けて、その瞬間でしたね。それでもうバーってね、極めて、はいおしまいって感じですよね。
    でも青春ではあるんですか、自分の中でもやっぱり。
    青春だし、戦いでもありましたし、みんなが自分の看板書っていうキャラクターで競ってるわけだし。
    でもみんな平和主義で仲もいいっていう感じだけど、それを各々の普通の10代の子の戦いですね。悩みがあって。
    そういう切実さ、めちゃくちゃポジティブってわけじゃなかったかもしれないです。
    でもなんかこういう話で多分当時聞けなかったし、僕がもし多分当時マンバギャルの近藤さんと会ってたら、多分怖くて話しかけてなかったから。
    やっぱこうやって話し捨てることでやっぱり色とわかることってあって、やっぱその対話って大事だなって思うし。
    対話を諦めないでください。みんな優しいんですよ。まず広島から出てきて思ったのはみんな意外に静かでしたね。
    当時のマンバ。最初に来た時はもうヤマンバになりたくて来たんです、状況。
    ヤマンバになるために渋谷に来てます。
    その時にどうやってデビューできるんですか。ヤマンバの格好したら、さっき最初に言ったようにメンバーに入らなきゃいけない。
    どうやって入るんですか。
    渋谷人っていう、なんか入る。入るにはまずはメッカ前にずっとしゃがんでたりするんですけど。
    座ってて、そこを新キャラみたいなのがいると、ちょっとメキシキのスカウトマー的な。
    スカウトマー、ヤマンバみたいな。
    ヤマンバが。先輩ヤマンバ。その先輩が声をかけるんですね。
    私の場合はものすごく頭に大きいハイビスカスをつけてて、すごく頭ぐらいでかかったんです。
    今はね、小軽の声もつけてる。あれよりもっとでかいんだ。全然でかい。
    巨大なハイビスカスをつけて、で、座ってたら、そのメキシキのスカウトマー、ヤマンバみたいな人が、
    なんかどこで買ったの、それって言ってきて。それで、100均で売ってるベンジョのインテリアだよって。
    だから飾りじゃないところが買ってきた。普通のヘアセサリーじゃないところが。
    ベンジョのインテリアって答えたらしくて、それで先輩ヤマンバが、この子伸びる。
    伸び性あるぞって。
    この子合格じゃね?みたいな。
    それがなかったら、そこにその格好してただただいるだけの人があった。そのメキシキに見つからなかったら。
    だからそれでまあ、別にチームに所属するわけでもなく、ただただ認識されていくって感じです。そこに。
    名前がこう上がっていく。あの子強めだよね、強くせよねって言うので。
    やっぱそのプレビュー戦みたいな感じは仕掛けた気がしますね。
    やっぱ大事なんだ、そういうのが。
    先輩ヤマンバに、それは当時の話を僕の前会ったときに聞いて、
    この子伸びるって思ったんだよねーって言ってたエピソードで、私全く覚えてなかったんで。
    そんなことあったっけって言ったら、やっぱギャルってもう通り過ぎるほど景色みたいにいっぱいいるじゃないんで。
    その中で伸びそうな子をよく目につけてたっていう話で。
    それこそ戦闘能力の話につながるんですけど。
    やっぱりあの子は何かしらの証言として成立してるみたいな。
    作品の紹介と資料の重要性
    やっぱ先生のスタッフも多かったし、渋谷の方は。
    へー。
    良かったですね。
    この文化はやっぱり語り継いでって欲しいのはよくわかりました。
    多分もう時間足りないぐらいなので、また結果がたまったらぜひ言ってほしいなと思うんですけど。
    全部語れないと。
    もう一個せっかくなので、今回出典作品の中で、今ね、2点。
    100年後のキス・アンド・クライト、それから集合写真のやつもありますけど。
    もう一個絵が飾って、その下に物体がなんか垂れ下がってますけど。
    あの作品もせっかくなので、最後ご紹介していただいてもいいですか。
    あれは、やっぱり当時を資料的に残すっていうことを、結構最初の作品としてのシリーズの手続きとしては、
    博物学的に残すとか資料的に残すみたいなことで、それで当時の写真のコラージュと。
    絵画というかね、キャンバスになりました。
    キャンバスは1920年代的なタッチでコラージュして、そこでぶら下がってるのは、その当時の柄形ですね。
    これ実際の私物。
    実際の。
    だいぶ柄形にいろんなデコレーションされてるけど、これ本当当時こうだった?
    そうです。もうなんかちぎれちゃってますけど。
    ストラップ文化の考察
    これドコモの柄形の504ISシリーズの、それをセンター街のシール屋さんでアルバロザ風にデコって、
    そのストラップはもうストラップ付き携帯。携帯付きストラップ。
    じゃなくて、ストラップがもうメインになった。
    いや、違う。携帯付きストラップ付き絵画にしてるんですね。
    ほんと、ほんと。タイトルが携帯付きストラップ付き絵画。
    ストラップがメインじゃんってなってたので、当時。それにさらに絵画が付いてるっていうので。
    なるほど、なるほど。ちょっとだから今、僕がぶら下がってるって言っちゃったけど、メインは携帯であり、ストラップで。そこに絵画が付属してるってイメージでもあるってこと?
    でも最後の締めが一応絵画にしてるので、絵画にくっついた。
    なるほど。
    かかってるはずですね。
    ストラップ付き絵画。
    当時、スマホの世代の人から見たら何だろうと思うけど、僕とかプロデューサーも世代だから、実際僕ら男子はやってないけど、やってたわ女子こんなのっていうのが、これも資料として面白いっすね。
    そう、資料としてですね。あのコードもちゃんとやらけの、充電器のコード。
    そうか、昔はそうだそうだ、充電器だ。
    充電器のコードがまだみんなコブコブで、コブが何個もできる状態になってて、よく引きちぎれてるみたいな、その、やっぱり全部リアリティが必要なので、それでぶら下がってて、とても定調に扱うべき文化遺産。
    これはたぶんさ、今後も作品を近藤さんが作っていくとしたら、近藤さんの私物は1個とか数個しかないわけですから、今この番組聞いてて、家にあるよっていう方で、ぜひ近藤さんに作品にしてもらうとかいいんじゃないですか。
    もうめちゃくちゃ、当時の子たちが本当に資料として持ってるかっていうのを調査しても、なんかだいたい燃やしてるんですよ。だいたいプリ鳥とか、なんか燃やしちゃったみたいな感じで、燃やされがちなので文書じゃないけど、それ私はもうすごい貴重なのに。
    確かに確かに。 私が今、残さなきゃって言って渾想してても、本当にみなさん当時のものを捨てちゃってる。
    だから、捨てちゃうぐらいだったら作品に紹介してもらったほうがいいと思うので、じゃあこの番組聞いてる方で、うちにプリ鳥とか。 1000年代のものが使用。
    欲しいのはプリ鳥と携帯ですか。 あとアルファノーザの服。アルファノーザのグッズ。それも結構もう、メルカリでももうほとんどない。
    それは番組で聞いてる方、ぜひぜひ。 ありますよ。 あったらぜひ連絡いただけると、近藤さんに。
    あったら写真でも、やっぱり自分ごとなんですけど、やっぱり歴史ごとにしていきたいなと思っているので、まずはたくさんの情報をお待ちしてます。
    はい、ありがとうございます。そして、近日中にトークイベントも実際、近藤さんに実際話を聞きたいという方もいらっしゃると思いますので、
    ちょっと最後その告知もしていただければと思います。 8月の23日の3時からですね。
    メディア環境学者でガングロ研究もなさってる。 ガングロ族の最後の著者の久保由加さんとトークショーが、いわゆる美術館であります。
    しかもなんか割引があるって聞きましたよ。 割引が、参加費が無料で、それで入館料がかかるので、その時間に来てもらったら入館料のみなんですけど、
    ルーズソックス割引ってことで、ルーズソックス、ルーズを履いてきた人は100円割引で入ります。
    初めて聞く言葉でしたよ。当たり前のように言われましたけど、これは男子も履いたら100円割引。
    男子様も、なぎさまも。 でも、履いてもらったらダメなんですね。持ってきたところじゃなくて、そこはもう気合い入れて。
    やっぱりね、公文出た瞬間からルーズに履きかかると。 厚み繰り出さないと。一度街を歩いて。
    せめて地下鉄の駅からルーズソックスで来ると。 先生の目逃れられる。
    他にもね、地下鉄駅まで開いてって、そこで履いてもいいですけど、皆さんはそれで100円割引ですので、ぜひ来ていただきたいと思います。
    改め、展覧会自体は日本西部プロニクル、こちらは9月14日まで開催しているということですね。
    本堂さん作品が一応3点、プラス本堂さん監修のマネキン、ギャルマネキン。 アドバイスしたくらいです。
    見れますので、ぜひぜひですし、実際トークショー来れる方には、買った時にプリキュアとか持ってきていただけると、より盛り上がると思います。
    本日のアーティストライブトークはいかがだったでしょうか。この会員の感想や、こんなアーティストを取り上げてほしいなどありましたら、番組にお便りください。
    文化的背景の考察
    また今後も生配信をしていきますので、番組公式アカウントをフォローください。
    ありがとうございました。そしてここからは、ここだけの話。
    本当にありがとうございました。
    たぶんね、同世代の人が聞いてくれると思いますので。
    同世代の人が多いと思います、さすがに。
    いろいろな思いがあると思いますけど。
    いやだから懐かしいなと思ったのは、確かに昔の充電器はそうだったわ。
    コネクターの部分があった。
    カチッとね、あそこがよくちぎれたりしながらも。
    でもバッテリーは剥がさなかったっけ?バッテリーはバッテリー入れたままだった?
    バッテリー入れたまんまですよね。蓋を閉めて、それがなんか熱でパンパンに。
    あ、そうそうバッテリーがくらんでたんだ。
    壊れるなっていう。
    バッテリーに恋人とのカップルの、あの、アーティストがいたよね。
    カバーの人。
    そうそう、プリクラを飲まれてる人っていう文化があった。
    まさにプリクラ、プリクラは、先ほど話した久保由加さん、研究者の久保さんはもうプリクラの機種を私より詳しいです。
    機種、どういうのが流行ってみたの?
    花鳥風月とか。
    あったあった、花鳥風月。
    美少女とか。
    あったあった。
    機種に、もうやっぱり技術のことをそちらの研究をされてる方なので、
    プリクラっていうのを文化遺産として残すっていう。
    あーでもでも、それはいいかもしんない。
    そう、だからもう全然私より詳しくて、あと渋谷の歴史もですし、
    自分の知り合いに結構インタビューされてたり。
    あ、なるほどなるほど。
    あの子だ、全然。
    え、でも今回、トークショーを聞かれてて、久保さんとはそのアースト戦ではいつだったんですか?
    このギャル時代は会ってない?
    会ってないです。
    私も取材されずに、友達が取材されてたんですけど、
    で、私は久保さんとはとある芸術祭で会うことが始まりだったんですね。
    それは秋野の市の芸術祭があって、
    そこで自己紹介で私が渋谷で元ヤマンバやって、
    それで大正のアヴァンギャルドと繋げたような作品を制作してます。
    みたいな自己紹介をしたら、久保さんがヤマンバの研究してますみたいな感じで。
    出会うべくして出会った2人みたいな。
    本当に本格的なように、もう私ももう誰も研究してくれないから、
    自分が一人でやるしかないって感じだったんですけど、
    やっと現れてくださった。
    確実的に研究なさってる方が、やっと現れてくださって、
    もうそれですぐにフットワークがなくて、もうすぐ取材。
    へー、でも意気投合して。
    意気投合して。
    でもヤマンバギャル的なものって海外にはないんですか?やっぱり日本独自の文化。
    本当なんかそれもね、やっぱり特徴的なんだと思うんですけど、
    先々月に中国に行って、中国でちょっと作品を発表するって機会の時に、
    いろいろと表現も難しかったところもあったり、
    とにかく中国にはギャルはいませんって言われたんですね、最初に。
    発表するの、ギャルに。
    じゃあギャルって言葉に相当する言葉がないんだ、中国語で。
    ギャルがいないっていうことが、まず、存在がないって感じでしたね。
    そもそも外人として。
    ギャルはいないって。
    でも大学生の子と女の子と話す機会があって、
    その子が日本の女子高生みたいに部活とかあったり、制服着たりみたいなのが、
    中国にはなくて、勉強して勉強して、部活もなくてずっと勉強する。
    だからすごく日本の女子高生に憧れがある。
    でもセーラームーンとかも人気じゃないの? 中国語と言いよ、たぶんそういうのもあるのかもしれない。
    セーラームーンとか。
    青春の象徴なのかもしれない。
    そういう文化っていうのは、やっぱり日本の土壌、こうやってリボンの結び方とか、
    ルーズのシワの寄せ方とか、ディティールを追求できるような、
    ある種の好奇心を追求して、ディティールで差をつけるみたいなことっていうのは、
    本当に日本の緩さがあって、厳しい、そういう好奇心の追求ってキリスト教圏では悪とされたりするから、
    こう日本ならではの仏教観が関係してるのか、
    この緩い、社会全体がそれを容認して社会現象にまでなったっていうことが、
    やっぱり海外では見られる、調べたけどないですね。
    でも確かに日本的なのは、もしかしたら戦国時代の歌舞伎ものも同じようなことじゃないですか。
    たぶんそれらの違いはあるかもしれないけど、やっぱりもしかしたら要所要所に日本ではそういう、
    要するに戦国時代の前だったら悪党って呼ばれる人が出てくるとか、別にバゲルが悪さをしてるってわけじゃないんだけど、
    やっぱり一定の違うことをしたい人が出てくるんだけど、そこが面白いのは、その中ではみんなある程度同じような発行をするのよね。
    全く一人で行くんじゃなくて、やっぱりもうじゃないけど、なんかまとむけど、でもその中でちょっと差異をつけないから、
    菊がちょっと違うとか、スタナの差異が違うとか、なんか実は、ランクとか出てきてるんだろうね。
    その生まれた社会背景だった頃が、やっぱり17世紀の第一波グローバル化って言われた、その時の混乱と不安、社会不安みたいなものから、そういった奇抜な状態をした人たちが現れ、
    権力者に立てつくような行為をすることも、民衆はそれを痛快に見てたりとかしたっていう現象が、そこにも発生してる。
    面白いの、ヤマンバ・ギャルが出た1999年って、まさに世紀末に日本が不安だった時で、そこに現れた、なんか自分たちの代弁者じゃないけど、イメージなのかもしれないし、
    なんか確かになんかこれ文化史で考えたらすごい面白い。 ヤマンバ・ギャル やっぱり社会不安みたいな背景はあるかもしれないですけど、なんかこう、大人への反抗とか、そのバブル経済崩壊のこの閉塞感が発するとか、
    いろいろ言われたりね、95年っていうのも起きた。 震災があったり、サリン事件があったりとかの年もあるし。 ヤマンバ・ギャル それにギャル爆誕見たこともあった。
    ヤマンバ・ギャル そうかそうか。だからそういう意味で言うと、ギャルがいなくなった時が、もしかしたらちょっと日本が平和になった時かわかんないけど、やっぱり渋谷が変わったっていうのも、町を変えていかなきゃいけないって言って。 ヤマンバ・ギャル 排除されたかもなと。
    ヤマンバ・ギャル その話聞いてて、平成たぬき合戦ぽんぽこ思い浮かべました。なんか、町住めなくなったたぬきたちがみたいな話だとしないの。 ヤマンバ・ギャル 町ごとを引っ越す。 ヤマンバ・ギャル そうそうそう。だからなんか、決して特殊な話じゃなくて、いざ同じような出来事が、また今も起こってるかもしれないし。
    ヤマンバ・ギャル なんかすごく一部の話じゃないっていうのが、非常に面白いですね。 ヤマンバ・ギャル 特殊な現象というよりは、やっぱり歴史的には繰り返されてきたような、もう奇想の系譜。
    ヤマンバ・ギャル でもそれなんだけど、やっぱりありがたいのは、世代の辺りにとっては、やっぱりその入り口として面白い。面白いというか、ヤマンバ・ギャルだって言われると、気になって見てきたら、意外と不安ってなるから、入り口としてすごく、この世代にとってはすごく強みがあるし。
    ヤマンバ・ギャル それは面白いですね。 ヤマンバ・ギャル そしてても、やっぱり美術としても、いろんな方向にして、これを起点としてかなり繰り下げることができるモチーフになってて、女性主体の活動だったし、
    トークショーの告知
    ヤマンバ・ギャル あんなにね、学校で、男性受けよりも、女性、メイクダウンとか、ボクさんも言ってたけど、メイクアップじゃなくてメイクダウン。本当に自分たちの存在を、男を受けしたら死って言ってるんだから、受けする人はちょっと極めたりするんだから。
    ヤマンバ・ギャル 戦闘能力が低いんですよ。 ヤマンバ・ギャル とか、マヨ系的な存在って自分たちにも言ってたり、何かしらのそういう要素。美術に繋がる要素が、そういう。造形的にも美術に近いものがたくさん出てくるので、神話世界と繋がったり。
    ヤマンバ・ギャル 結構、今、問題として、問いとして投げてたら、そうなんですよ。面白いな。 ヤマンバ・ギャル 美術史とも結びつくし、民俗史とか、いろんなといけるし。 ヤマンバ・ギャル そこもね、かすめとってはいけないところなので、慎重に。
    ヤマンバ・ギャル 今後の作品がすごい気になるので、もし今度、個展とかやる機会があったら、もう正式にまたこの番組に実施を兼ねてね、来ていただきたいと思うし。 あっという間だって、いつもの回よりも伸びたもんね。聞いてくれてる人もだから、離れずにね、いる方がすごい多かったのも印象的でしたが。
    ヤマンバ・ギャル 最後じゃあ、みなさんに一言、近藤さんから言いますか。 近藤 いや、元気出せよと。みんな。 ヤマンバ・ギャル 確かに、確かに、強いメッセージだった。 近藤 そういう思いを込めて、作品作っていますので、みなさんも今後ともよろしくお願いしますということで。
    ヤマンバ・ギャル 本当にどうもありがとうございました。ということで、この時間まで聞いていただいた皆様、どうもありがとうございました。また次回よろしくお願いいたします。
    近藤 ありがとうございます。
    01:03:14

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