生きてる人は扱うのは生物で、浜野さんはもうずっと生物。
僕ね、実言うとね、もともと僕、仏教美術だったんですよ。
大学ではっていう。
そうそう。
それで僕、北海道立近代美術館に入ったときに、
野石さんは58年より大和谷美術館にあるんですけど、
これ昭和58年のことですか。
そうですそうです。
ってことは1983年ってことですか。
僕ね、83年かな、に北海道立近代美術館で、
大和谷美術館のコレクション展を東と西で分けて、
あのときに先輩のキュレーターがいて、
あれと一緒に行って、集長で行ったりとか。
大和谷さん。
大和谷の作品を仮に、ちょっとどことは言うとまずいんで言いませんけど、
そこの倉庫行ったりしたので、
たぶんそのときでどっかでお会いしてるかもしれない。
覚えてます。
ペペだからコレ、まだ。
僕も全然ペペですよ。
ペペです。
そのとき山田さんに会ったって記憶は何となくあるんですか。
僕はね、倉田さん。
倉田さんはご元気でしたからね。
それと竹田さん。
竹田さんもお元気だったんで。
竹田さんだったと。
で、当時は草薙さんとか。
そうでしたね、やっぱね。
その時代。
だからそのときは、言ったらまだ現代アートの学芸者ってなかったんですか。
いや、だからね、現代美術なんてね、横浜に移ってからですよ。
あ、そうかそうか。
だからもともと出はというか。
出はというか、いろんなこと勉強しなきゃいけないし、
だから道立近代美術館というとって、密教店とかね、巡回の。
だからゴーヤさんに週間に行ったりとか。
だからまあ本当にいろんなことしたので。
だから学生のときしてるような人から言うと、
現代美術ってどういうことを言ってるか。
それはでもやっぱりお二人もびっくりしたんですか、最初。
そういう、最初からも現代アートな人って言ってたんですか。
僕のイメージでは横浜に行く。
だからもう現代アートの人だと思ってたからね。
でもそうすると、まあ富田さんも野次さんもどっちか。
まあ天野さんの言い方で言うと川崎の人が多い。
僕はどっちかというと、生川崎の人。
嫌な感じの言い方がありますね、生川崎。
俺もそうだね。
生川崎さんはどういう感じのことですか。
いや、どっちもやるんですよ。
だからね、どっちもできる方って安くないんですよ。意外と。
そもそもこの三方といつもお世話になって仲良くさせていただいてるなと思うんですけど、
多分このもうクラスになると言ったらですけど、
もう普通に館長職とかやって、天野がやらない人が多い気がするんですけど、
なんかお三方は共通点で言うと、いまだに現役でやってるじゃないですか。
それがこう、それお互いのことをどう見てるんですか。
なんかこう、戦友的な感じになります。
いえいえ、よくやるなと思ってますけど。
お互い。
だって快楽だから。
展覧会作ったり、美術館でいろんな人に会ったりっていうのは快楽だから、やめられないですよ。
やってたいんですよね、これから。
ずっとやってたい。
もう後ろに行きたくない。
学芸員としての仕事をしないで館長の仕事だけやるんだったら、多分やめる。
そうなんですか。
つまんない、つまんない。
館長の仕事ってすっごいつまんない。
つまんない。
何が一番つまんない。
いろんな会議に出ないといけないとか、いろんな人に挨拶しなきゃいけないとか、
そういう社交的な。
天野が作ってるほうが面白い。
そういう人でも割合としては少なくないですか。
今、たぶん芸員役で、意外にいらっしゃいますからね。
やりたいけどやらないっていう人は結構いるかもしれない。
それは天野さんもずっとこのまま芸員役で。
いやだから、どのくらいだろう、僕の場合って言ったら、
何でしょうね、横浜美術館退職して、定年退職で延長雇用みたいなのがあってね。
で、そのときも特に自分でね、就活しなかったんですよ。
だから、もしね、依頼があれば、つまり賞味期限があれば、
ありがたいな、ぐらいしか思ってなかったんで。
だから実際にはやっぱり、その年の職を失ってフリーになって、
4月から本当にフリーでね、オンゴイングで行財やったりしてた時でした。
ああ、言いましたね。だから横浜の後に、あざみの行ってですね。
あざみの後の。
まあそこの財団を辞めたりというか。
1年フリーランスでした。
で、1年じゃなくて、確か10月か11月に、たまたま初代のオペラの横を歩いてたんですよ、僕。
うんうん。
オペラの用事があったからって。
で、それから電話がかかってきて、そこの学院から、ご相談があるんだけども、
わざわざ横浜まで来ていただくのも何なんですけど、
言って、ちょっと調整していただいて、下におるけど。
もうびっくりしたでしょうね。狙ってたかのような。
母みたいな。毎日下で待ってたみたいな。
でもそれじゃあ速決。
速決するとさ、さすがになめられるから、ちょっと家で妻とも相談したいと思います。
相談もクソもさ、とにかくMさんから早く働けって言われてたから。
速決もクソもないわ。
もう断るっていうあれはないんですね、選択肢としてね。
そんなことしようもんなら。
奥さんはね。
一応ためてみたら。
ためらないとさ、やっぱり。
待ち望んでたからね。
他にもいろいろあるんですけどっていうふうな顔しとかないと。
まあいろいろあって、だからそれはありがたいなと思う。
でもって言うとね、本当は今年の3月31日で3年契約で終えなんですよ。
なんですけど、今年の1月か何かに理事長という人に呼ばれて。
という人。
もう2年、言われてまでいるんですよ。
そうですよね。
だからこの番組、授業ちょいちょい出てらっしゃるんで、
前回のときには、もしかしたらこのままフェードアウトみたいな。
番組載せれないけどっていう話はありましたもんね。
気づいたら延長されてたからね。
そういうことで、天野さんはコロナの最中に採用ってこと?
いや、その後なんですよ。
だからコロナでいろんなものが中止になってましたよね。
もうちょうどだから、2020でしょ、あれ。
あのときに札幌国際芸術祭のディレクターやってたんですよ。
もう全部できて、リストもできて、カザログも出来上がろうかいっていうとこまで行ったんですけど、
あれはね、まず、関係者じゃない人から見ればね、
どうして学園やらないんだろうって。
あれはね、保険の問題があってさ、
勝手に学園やってポコポコと落としちゃうと、
保険は輸送会社さんが入ってるわけですよ。
ドアツードアって言うんですけど。
だからその間は、彼らがハンドリングするっていう鉄則なんで。
だから、そういうことがあってね。
だけど本当は、学園だって自分で、個人のとこなんか行ったときに、
個人のコレクターの人はわざと学園に扱わせる人いるのよ。
ええー、いるんですか。
扱いができるかどうか見てて、
お菓子出せなくOKみたいな。
そこでお菓子出さないみたいな。
いや本当よ。
本当に、古い寝室の童謡さん。
童謡さんだし、関西にもそういう子はいたんですよ。
有名な人がいるんだね、業界。
だから例えばね、陶器借りたときに切り箱から出して、
そこらへんはよかったんよ。
納めて、紐の結び方も、最初にどうやってたかっていうのもちゃんとやったんよ。
その次の瞬間にさ、じゃあお借りしますって。
こうすればいいのに、こうしちゃったんよ。
箱の下に手をせなかったから。
でも瞬間アウトやったね。
もうそこで終わり、ゲームオーバーみたいな。
もう帰って、言っちゃった。
でもそれはそうっすよ、やっぱり。
基本ですからね。
それは今だにでも、お酒屋でもやっぱり借りに行くときに行くんですか、個人と。
僕は行きますよ、行きますよ、たまに。
最近だいぶ若い連中に行ってもらえるようになってるけど。
あと調査に行ったりとかね。
美術専用車っていうの。
あれに乗るのが大好きなの。
どういうことですか。
なおまのさんも俺も見てる。
でも何が楽しいんす。
普通の車とはまず違うんす。
トラックはトラックですよね。
トラックはトラックなんだけど、エアーサスペンションがあったり、今いろんなフル装備だもん。
振動がないよね。
振動がなくて、オーミスドもちゃんと管理できるような車にはなってるんですよ。
でね、普通トラックって運転席だけじゃない。
だけど後ろに席があるのね、微線車っていうか。
後部座席があるんですか、トラックが。
で、作品が後ろに積んであって一体化できるようになってるわけ。
すごく安心できる仕様になってる。
運転手さんとか美術品作業員さんたちと一緒にいるっていうことがすごい楽しい。
今でも。
今でも。
だから前日からではウキウキする。
ウキウキしちゃう。
そうなんすか。
いまでもそうっすけど、集荷とか返却とか。
まあお前らスタッフがそんなにたくさんいないんでね、ヘルプしないといけないんですけど、
特に、集荷先とか返却先が、飯の旨いとかあるじゃないですか。
まあまあ、そりゃあるじゃないですか。
特に港関係。山の中じゃなくて。
海の先。
俺が行くから、大丈夫。
行きたいんですかよ。
で、野井さんと一緒で、僕ね、その作業員の人とすっげえ仲いいのよ。
あーなるほど。もう顔見知り人がいっぱいいるんですね。
顔見知りのたくさんいる学園はたくさんいますけど、
ちゃんと裏ネタまで言ってくれるような関係なんですよ、僕ら。
だから作業員の人と一緒に仕事するのは、野井さんと一緒だと思うけど、楽しいんで。
だから、これやっとけっていうタイプの学部もいるんだよ。
早く片付けろみたいな。
そんなこと絶対言わないで。
一緒になって片付けるしさ。
それが楽しい。
で、あの学園感じ悪いよなーとか言って一緒に行く。
で、富田さんもあれですよ、一緒に行くの好き。
まあ、ただね、僕ちょっと腰が悪いんだよね。
あーなるほど。
ただの長距離はね、ちょっとね、辛い。
それだけちょっときついでしょ。
それさえなかったら、やっぱ楽しいことは楽しい。
楽しいことは楽しい。
でも、どれぐらい乗ってるものなんですか。それこそ関西とかも全然。
もう一週間とかはね、これがね、最近やっぱりね、働き方改革があって、
休みに休みに行かなきゃいけないんで。
例えばね、横浜から名古屋行って、それから大阪行くじゃないですか。
昔だったら、そうか、朝出て、名古屋には一泊しなきゃいけないんだけど、
まあ頑張ってとにかく京都と大阪行けるなとかいうコースが、一気に行けなくなったんですよ。
あ、そうなんですか。何時間までしか行けないみたいな。
っていうかね。
10時間とかの処理とかもいろいろあって。
それは僕、もちろん北は北海道も、南は九州、沖縄まで行きましたからね、車で。
一番今まで人生でマックスこんだけ乗ったのはどれくらいですか。
僕はね、熊本を朝たって、そのまま一日間で横浜まで休みなし。
休みなしっていうか、ところどころ休むんだけど、運転手一人で、僕一人で、
朝早く乗ったって。
当時ね。
で、明け方っていうか3時ぐらいに、エビナに着くんだよ。
え、朝たって午後3時にはもうエビナにいるんですか。
午前3時。
つまり一周回って。
一周回って。
で、エビナでちょっと仮眠をとって、その総合美術館が開く時間に走る。
で、朝7時か8時に見れるっていう。それが僕の最長キロ。
えぐいですね、それは。
僕ね、富山さんとほぼ同じコースなんですけど、熊本県美なんですけど、県美に借りて、その前、ちょっとどっか置いたかどっか行ったと思うんだけど。
でね、そっから横浜に戻るわけですけど、したらね、台風来たんですよ。
台風。
来てんのは知ってたんですけど、本当に追いかけられたんよ。
ネットヒーロー、ストラップヒーロー、そんなことある?
で、これ多分追いつかれるなと思って、広島の市の厳県西南学園にいるんで、ちょっと悪いけど、
久しぶり。
一晩。
避難、避難。
一晩。
で、そこで一泊して、台風一過、その後に横浜で行ったりもありますね。
でもじゃあ結構、移動距離は長い。
スリリンだったですね。
スリリンだったですけど。
頑張れば逃げ切れたんじゃないですか。
あのね、僕学生についてはそうなんですけど、台風のときに飲みに行くの好きなんですよ。
なんでですか。
あのね、まずギャップがほとんどいない。
そっか。
で、最初ね、嫌な顔されるのよ。
どうしたらいいのよ。
寝ようと思ったら。
で、そのときも広島について、二人、某運送会社の人と三人で、行こう行こうって言って。
それがやりたかっただけで。
で、実際に台風で倒れたら大変なんですよね。
それは野次さん、最長は。
最長はね、やっぱり九州だよね。
九州はいろんな利益品たくさんあるところは、コレクションもあるし。
九州で借りて、だいたい広島で一回休んで、京都。
そうですよね。
で、京都と東京はね、そんなに遠くない。今、同盟がちゃんとできてる。
遠くなくはないですけどね。感覚はちょっとおかしいですけど。
いやでも、8日ぐらいずっと一筆書きで回るなんて普通だったんだよ。
昔はね。だからさ、酒が食らってね、翌日ちゃんとしてるみたいなところがないと、学園には勤まれませんね。
なるほど、なるほど。
あのね、今ちょっと思い出したけど、最長ってことで言えば、ベニスですね。
え?
何で?
昔だし。
ベニスまで行ったと。
横浜美術館の、ダリかな。ダリの店内だったの。で、クリエで行って、ベニスが一緒でしょ。
あとね、オステンドって言って、ベルギーのね。あそこの美術館に2つは最長を最長。
一緒に行ったと。海外はあります?
ありますあります。
最長っていう。
ボストン、フィラデルフィア、ニューヨークからお借りして。
やっぱ行かなきゃいけないですね。
行かなきゃいけない、返さなきゃならないんだけど。クリエで来るときもあるんだけどさ。
あ、向こうの人が来てるんですか。
もちろんね、あるけど。そのときね、またカーゴがあったんですけど。
貨物もね。
で、僕ね、一個はジャルで一個はルータンだったんだけど、ビジネスなんですよ。
ただし、パッセンジャーじゃないんで、カーゴの後ろは全部荷物なんですよ。
で、ビジネスっていうか、どこ座るのかなと思ったら、貴重室あるでしょ貴重室。
あの後ろのほうに席があって、そこに座るんですよ。
で、もっと面白いのは、飛行機会社っていうかな、それの一種のルールなんだけど、
ちゃんとキャビンアテンダントつけるんですよ、一人。
アマーノさんはたぶんマンツーマン。向こうも嫌だったろうな。
言うのは私は意外。
僕、カーゴ乗ったことない。
あるんですか。
あとアマーノさんはでも、移動で言うと、ほぼいつも京都で行くラーメンありますよね。
朝好きなとこあるじゃないですか。
台地屋さんに。
だからそれが好きだっていうのはよく言ってます。
朝5時にね。
5時。
ラーメン。
5時からやってるんですよ。
で、そのときは、それも某、飛行機会社と一緒にいろいろ回ったときに、
3ゲームやったかな。
アマーノさんいい加減ラーメン以外なんか食べません?
ラフェ好きすぎますからね。
すみません。
なんかそれは楽しみだっていうのは言ってますもんね。
朝食べるの。
そういうことで話がいろいろ出てくるんですけども、
ちょっとここでノークテーマにしておきたいなと。
ビジネスの話してないじゃん。
お互いの美術館の運営覚を見ていて、これは真似できないな、
すごいなと感じるところはありますかということで、
お互いの美術館に対してのイメージをぜひ教えていただきたいなと思うんですが、どうですか。
オペラシティは今年、
ユノキさんが今やってますよね。
青春家の俳優さんも。
すごくいい展覧があって。
どういう、よく行かれるんですか、オペラシティ。
たまに行きますよ。
そのときってアマーノさん呼び出したりとか。
しない。悪いからね。
あんまりやれへんよ、あれ。
よっぽどそんなにやっちゃったらやるけど、
わざわざ学園呼び出しといて、あんまりしないですよね。
離れてたりするじゃないですか、富田くんのところなんてね。
悪いなと思ってたからあんまり呼ばない。
そうなんですね。でも感想は言ったりするんですか。
たまにね。よかったときは僕も言うし、言ってくれたりしますね。
逆にそうじゃないときは言わないです。
見に行ったことも言わないから。見たかどうかわかんないですよね。
一人だけ褒めてくれた。今は富田さんを褒めてくれてるけど、
一人だけ褒めてくれた人が絶賛してくれたのが秋山照勝先生。
何の映画ですか。
東京大学といえば東大の先生用に興味がないオフチューの。
当時の。
前田先進という日本画家の無神年無子。
っていうのは自分のお宅にもあったんだよね。
前田先生が使ってた、こんな小さい文庫本型の前田小実がロゴしたんですよ。
前田先生は梶田半子の弟子なの。
そこ繋がってくるんですね、いろいろと。
昔、明治の20年代、30年代に弟子入りするじゃないですか、菊地。
そうすると最初にやらなければならないのが、人物の模写。
それがその本の模写。
本当にバイブルの時代。
明治の日本画家はみんなそれで勉強したっていうぐらいの有名な本。
そのときに展覧会したらめっちゃ入ったのかもしれないですね。
だってモデルを雇えないだろ。
いつの間にか忘れ去られちゃう。
やっぱり新しい日本画っていうのが明治の時代に出てくるわけ。
そういう、たとえば岡倉天神学を修行してね、
「妖怪の対岸」とか、「七夕の衝突」が出てくるから、
そういうものの陰に江戸時代からの流れを汲む、いわゆる大和絵系の画家たちは、
みんなこう埋没してる。
全近代的にみたく捉えられちゃったって。
捉えられるっていう。
その手の中、天野さん見たこと覚えてる?
見てないですよね。
乾き物だから。
それを見に来るんだ、乾き物っていう。
当時は生物ばっかりだった。
いやいや、日本画というか、わりとジャンル関係ないし、見に来るのは見に来るんですけど、
たぶんね、今のお話聞いてたら、冨田さんも野井さんもそうなんだけど、
やっぱりわりとしっかりした美術師のトレーニングを受けてられないっていう感じはしたんだよね。
で、僕ね、どっちか言うと、学部やからどっちでもいいんやけど、
一回ね、どっかの美術館の偉い学部員に、
阿波野君ってどっちか言うと美学だよね、言ってはどうだって。
どういう意味ですか?
もちろん調べはしますけど、
例えば特にグループ展なんかやるときに、
そのグループ展のテーマを決めるときに、
例えばその美術的固まりとしてっていうのはあるのね。
例えばその同時代とかもあるし、
それからどういう筆筆をしてたとか表現方法とかっていう。
で、俺ね、そうじゃなくて、
どっちか言うと、その時代が持ってる独特の雰囲気みたいなのが出てんちゃうかなみたいなことを、
どういうのかな、感じ取るって言ったらあれなんですけど。
で、その後は調べたりするんですよね。
だから僕一回、自分で面白いなと思ったのは、
現在僕写真を今、なんとなく写真って言われてるんだけど、
ジャンルとして写真家の手ながらやったんですかね。
僕ね、94年か5年くらいまで写真に何の影響もなかったんですよ。
それが、これいろんなところで言ってるんだけど、
たまたまロバート・フランクっていうすごく有名な写真家いるでしょ。
あれが溶岩美術館のある学院がどうしてもやりたいっていうのがあって、
で、僕も、ロバート・フランクって知らない。
なんやねん、そいつ。
写真、あんま知らないんですかね、すごい言われて。
で、その企画会議かけても、あんまり当時は写真ね、
溶岩美術館は写真コレクション持ってるんだけど、
館長にしたって部長にしたって写真あんまり知らないし、
何の範囲にいるのかいっていうことで、上げちゃおち、上げちゃおちしたんですよ。
で、それが僕、この話してるんかな。
たまたまね、出張でニューヨーク行って晩飯食ってたら、
隣のテーブルで、いよいよロバート・フランクの世界巡回始まるよねって話してたんですよ。
隣の人が。
で、すいません、何の話ですか。
お相手が来たなって思ったでしょ。
そしたら、ワシントン・ナショナル・ギャラリーから始まって、世界巡回するらしいですよと。
どこに行くかは知らないけどって言われて、
担当のキュレーターの方って、ギャラリー関係の方でしたけど、
サラ・グリーノっていう写真で有名なキュレーターがいて、
切りつけて、次の日に、経済も何もない時代ですよ。
なんで調べたか。
インターネットもない時代に、電話してたよ、公衆電話で。
サラ・グリーノに。
横浜美術館のね、天野と申しますかいって言って、
世界巡回がね、日本ではやるんですかいって言われたら、
今度ね、交渉に行きます。東京公立機材美術館と、東京都写真美術館に行きます。
で、この大卒いてさ、横浜美術館に行くと、東京から電車で15分くらいなんで、
ぜひね、立ち寄っていただきたいって言ったら、
それは私の判断ではできませんと。
で、フランクさんから行けって言われたんで行くので、
フランクさんに頼むしかないんですって言われて、
で、そのときはそれでもどうしようもないんで。
で、そのあとにロバート・フランクのさん、
もうほんといろんな、ちょっと住所教えてくれないかなーとか言ったら、
さすがに当時でも個人情報が出ないんですけど、
通りの名前だけ聞いたんですよ。ブリーカーイっていうね。
今でも覚えてるけど。
で、そんなに広くないんですよ、東西っていうのはね。
で、一軒だけさ、もうたぶんイカニモイっていうお家があったんですよ。
イカニモイ。
探しに行ったわけですよ。そうしましたよ。
で。
その場所に?
あれね、高さが200メートルくらいなんですよ。
まあ両方に家あったけど。
でね、イカニモイっていうのはね、なんかね、
ベニア板打ち付けたみたいなドアがあってさ、
なんかグリーンかなんか塗ってるんだけど、
廃墟じゃなくてちゃんとした。
ちゃんとしてんねんけど、イカニモイっていう。
ああ、なんか感じ取ったんですね。
つまり空気だと思って行ったらさ、
ドアがこれくらい開いて、
ロボットフランが怒ったんよ、ほんとに。
その、ドア開けてくれたわけじゃなくて。
いやいや、誰やれっていう。
誰、ああ、向こうも出して。
何の用事みたいな話で、実はこうこうこうで。
言ったら、じゃあ上がれって言われて上がって、
で、横浜美術館の担当の何々が、
何年もあなたの展覧会をやりたいって言ってて、
せっかくこの世界巡回なんでね、
美術館で、うちもぜひとも巡回の候補として、
佐賀国之さんに行っていただきたいのをお願いしたいんですよって言ってね。
そしたら、熱心なね、熱心に言ってくれるよってありがたいから言っとくわよって。
結果で来てくれたんですよ。
東京都写真美術館とかに行かなかったんですか?
行ってたんですよ、もちろん行ってたんですよ。
で、3番目に来てくれって言ってたんだけど、
そのときも、当時またやったレストランの一番高いランチを、
そういう部長にさ、一番高いランチ出してくださいよって。
まあいろいろ担当の関係にも話して、
結果的にフランクさんも選んでくれたんだけど、
何よりもさ、お願いしたときにいい入れって言ったときに、
ところでね、君は僕の作品ってどう思ってんだよって。
そうですよね。
その時がない天野が来ちゃったんですよね、そのときは。
そしたらね、いや申し訳ないんですけど、知らないですって言って。
そこは嘘つかないですね。
そうしたら、写真集だし上でさ、アメリカンとかで有名な、今思えばよ。
上で見てたらさ、あ、結構いい写真。
嘘だこいつ。
今の若い子の言い方で言うとさ、結構イケてんじゃんみたいな。
生意気なのが来たなと思われたでしょうね。
それからね、個人的に、一年中行くたびにフランクさんがいいよって言われて、
いろんな話ができたんですよ。
それが、そのときに僕何思ったかっていうとね、
たまたまね、これもこの回で言ったかもしれないけど、
フランクさんに会いに行ったときにね、力転社員がまだ生きてたときがあって、
で、結構大型の作品ができたから、一緒に見に行こうって言って、
別の学園と一緒に見に行ったんですよ、アトリエ行って。
本当にでかかったんですよ。
こっちの壁ぐらいあるのが窓ぐらいある。
で、力転社員がね、これに3ヶ月かかったと。
で、明日からね、半年ぐらいどっかイタリアかどっかにバカンスで行くんだって言った。
力転社員。
一方ね、ロバートフランクは朝から晩までずっと写真のこと考えてたもんね。
はいはいはいはい。
乗っては鳥の。
どこに行ったりしてないんですかね。
みんな暇あるかいって言われて。
なんかね、24時間タイプでしょ。
俺勝手につけてさ。
で、それがこう、イメージがすごい服装的に重なってて、すごいかっこいいみたいな。
で、それをやって、そっから今度はね、墨で抽象を描きますわけ。
その写真の上に。それもまた別に。写真とはまた別の活動として。
で、その写真もそうなんだけど、墨の抽象画が、たまたま具体、大阪のね。
具体美術の展覧会なんかを見に来たタピエスの目にとまって。
フランスの方。それでフランスとか知ってるのに展覧会やったりして。
向こうでですね。
向こうで。
その時は、その方は具体に発表したわけじゃないんですか。
具体の展覧会にも出してた。
出してた。
メンバーじゃないんだけど、展覧会には出してた。
ともかく作品がね、めちゃくちゃかっこいいのよ。
今日、なんか持ってこなかったな。
もうチラシとか。
チラシができたわ。
その時はもう数学者を辞めたんですか。
いや、ずっとやってる。
数学者をやりながら。
生涯数学者。
数学者としての専門は何なの。
だからそれを俺に聞いて。
超難しいんだって、これが。
活躍した時代はだから、もう1070年代とか。
いや、もうちょっと前か。
60年代ぐらいが。
具体って言えばさ、昔オペラスティでさ。
知らなかったぞ。
やらば知らなかった。
あれはヤマノさんがやってないから。
いやいや、僕あの時は横浜美術館でしたから。
前回のマツタニ。
マツタニは一応担当者がやってましたけど。
あれだけでもオペラスティで、具体も作品も。
あれちょうどコロナの年の春だったんだよ。
お正月ぐらいで始まって、3月の終わりぐらいまでの期間で、
俺は最初の方見に行ったんだけど、
すごい良い展覧会で、知らなかったぞって。
それまでフットペインティングとか、ああいう大きな。
あの人はね、仏教にすごく詳しい。
題名が大体、仏教的な題名がついてるから、
全部見てたら、ほぼ北極教だから天台宗ですよね。
天台でね、その念仏を見てたわけ。
念仏の中にね、イエーザンで千日解放とかああいう修行をして、
最終段階まで行った人なんです。
白賀さん自身が。
白賀自身が。最終段階まで行って。
最終段階まで行って、もちろん得度は。
成就してないですよね、確か。
成就はしてないんだけれども、でもずっとやってる。
8年か9年ぐらいやってるんですよね。
で、フットペインティングをやらなくなる時期っていうのがあって、
その時期に北極のことをずっと書いていって、
あんまり仏教のことにのめり込んだ作家あんまりないんじゃないかと、
その時感じたわけ。
で、これいい展覧家だなと思ったら、ふーんと途中でやめちゃったんで、
あんまり話題にならなかったけど、
ショコレートはまだいけなかった。
裏置きも結構してた展覧家。
そうそうそう。
白賀さんってね、小学校の先生してたんですよ。
で、僕は横浜美術館時代に、
戦後日本の税美術っていう、アレキサンド・ローン・ロイっていうね、
アメリカのゲストキュレーターを読んで、
本当にもうなんすよ、それこそ。
だって戦後日本の歌って戦後45年からずっと90年までやんなきゃいけない。
どえらいことをやってたなと思ったけど。
で、そのときに白賀さんと、
で、白賀ね、奥さん、奥さんね。
白賀、今ちょっと主戦の名前出ないんですけど。
奥さんもすごいいいアーティストで、
天崎に住まれてたんで、家に行ったんですよ。
出品工廠でしたね。
そしたら、僕実は大阪生まれなんですけど、
幼稚園、小学校、中学校が天崎だったんですけど、
僕の小学校の先生だったからね。
もう辞め、僕のときはもう辞めない。
そうかそうか、君、何々、あの小学校の。
って言われて。
えー。
でね、たぶんね、小学校の先生はしてたけど、
お寺の、なんかしてたんじゃないかな。
お坊さんっていうか、そうかもしれませんね。
そうかも思い出してましたね、今。
小学校の図工の先生でした。
えっとね、だと思いますと。
子供たちにまさかフットペースに。
何年の卒業生一度みたいな。
壁とかに足で書いてあるみたいな。
でもほとんど深淵を描ける人だって思いました。
ただね、あの、保健教図をずっと読んでると、
深淵が描けるようになりますって書いてあった。
そういうものなんだ、と思って。
いやもうちょっと仏教と美術みたいなものを、
ちゃんと勉強しないといけないなと思って。
それを見た時。
見た時。
で、最近うぞうのこと話したっけ。
最近うぞうもお寺の生まれですよね。
で、最近うぞうも、あれ前週だったかな。
あ、違う違う。
えーと念仏教ですよね、たぶんね。
だから、なんまみだ仏を必ず備えていた人だから、
なんか最近うぞうってそういうあれだったなと思って。
そういう指定のなんまみだ仏はないですよね。
あんまりないでしょう。
で、ほらパリの風景とかに文字がこう書いてあるじゃん。
ポスターのなんか文字が。
ポスターの。あれね、お経?
新説が飛び出して。
お経じゃないかと思い始めた時があって。
お経を見てるとこうなるような文字に対する感覚。
あー、感覚として。
ダメですかね、これ。
いや、僕ね、今だから最近うぞうがね、そういうバックグラウンドって聞くと、
一般的にはえ?って言ったらね、ヨーロッパだっかなーってなるじゃないですか。
でね、僕オペラ行った時に、あれあの寺田コレクションっていう、
寺田ポタローっていう方のコレクションがあそこのメインなんですね。
で、そもそもあの敷地が結構広大なんですけど。
松田への場所っていうの。
あれ全部寺田家の持ち物だったんですよね。大見商人でね、もともと。
その時にどっかの雑誌社が寺田コレクション中で書いてくれって言われて、入ったばっかりだったんですよ。
でね、ちょっと興味があったんで、
僕としたら、公立の美術館渡り歩いて、一種プライベートじゃないですか。
公益財産法人ではあるけども、四つの会社がね、関係らしいっていう。
で、たとえば、禰豆美術館とか、僕関西だったんで、白鶴とか。
それから千億をね、韓国もそうですけどね。
三井美術館もそうなんですけど、ちょっと面白いことに気がついたのは、
たとえば禰豆さんとこ、禰豆海一郎も2代目なんですけどね。
で、2代目が、三菱もそうやったかな。
1980、70年代なんですよ、生まれたのが。
370年代。
で、その先代は、もちろん江戸時代にカステラのとこもあるんだけど、
1870年代の人たちって、官籍の所有もあるんですよ、学校で学ぶのは。
ところがね、いわゆる欧米の知識も、同じぐらい入ってくるんだよ。
でね、渋沢栄一がね、海一郎とか、1970年代の経営者ですよね。
それ連れてね、アメリカに研修旅行行くんだよ。
そのときにフィランソロフィー勉強するんだよ。
つまりロックフェラーもそうですし、カーネギーもそうかもしれないけど、
つまりアメリカが社会貢献なんだけどね、いろんなコレクションを見つけて作るっていう。
で、つまりヨーロッパの、たとえばわかりやすいと言うと、
僕らだって官籍の所有ゼロじゃないですか。
勉強した人は別やけど。
あの世代の人って完全に官籍の所有が一つの肉となってるわけじゃないですか。
人知識の中の一つね。
そうそう。だからその流れでいくと、今の細球像なんかの話もね、
その世代っていうかな、子供っていうか小学校、中学校、高校ぐらいまでの、
おそらく旧世代だと思うんだけど、
もう完全に古典形式の漢文、官籍、ラテン、ギリシャ語っていう教育を徹底的に受けるわけよね。
そういうのってね、ヨーロッパの絵を描いてるっていうか洋風の絵を描いてるかもしんないんだけども、
その人のレイヤーとしてさ。
所有として持ってるもんね。
なるんちゃうかなと思うな。
すごい真面目な話。
そうだと思うよ。
基本官籍ですよね。岡倉天神みたいな。
なんかすごいいい話が。
急に真面目な締め方を。
これまだまだ話はちょっと尽きないんですけども、
この後後半に。
前半はあれでしたけれども、引き続きこの後もトークを続けていきたいと思いますので。
後半はちょっと楽しい感じでさらに進めていきたいと思いますので、
この後もどうぞよろしくお願いいたします。
次回も3人をゲストにトークを続けていきたいと思います。