1. そろそろ美術の話を...
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2025-12-07 1:07:04

#145 館長スペシャル 前編(オペラシティアートギャラリー 天野太郎、東京ステーションギャラリー 冨田章、泉屋博古館東京館長 野地耕一郎)

今回は、特別編。オペラシティアートギャラリー、東京ステーションギャラリー、泉屋博古館東京館のお三方をゲストに「ボクらの時代」風にお届けします。

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://sorosoro-art.vercel.app/ep/145⁠  番組の感想は、⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠#そろそろ美術の話を⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ でお願いいたします。⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠番組公式Twitter⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠もフォローをお願いします!


Guest Profile

天野太郎

  • 東京オペラシティアートギャラリー チーフ・キュレーター
  • 美術評論家連盟所属


  • 『横浜トリエンナーレ』でキュレーター(2005年、2011年、2014年)、札幌国際芸術祭2020総括ディレクター

冨田章

  • 慶應義塾大学、成城大学大学院卒。(財)そごう美術館、サントリーミュージアム天保山を経て現職。専門は、フランス、ベルギー、日本を中心とした近現代美術。

野地耕一郎

  • 昭和33年神奈川県生まれ。成城大学卒業。美学美術史専攻。58年より山種美術館の学芸員として勤務。その後、練馬区立美術館学芸員、主任学芸員を経て、平成25年泉屋博古館学芸課長。現在東京館長。


Show Notes

美術史・美術関係者の名称

お互いの展覧会への話題

サマリー

このエピソードでは、東京オペラシティアートギャラリーの山本太郎氏、東京ステーションギャラリーの冨田章氏、泉屋博古館分館長の野地耕一郎氏が参加し、美術館の運営や展覧会の企画について話し合います。彼らは互いの関係や美術館での経験を通じて、現代アートの取り扱いについて深い議論を展開します。天野太郎氏、冨田章氏、野地耕一郎氏の三人は、アートや展覧会に関する自らの経験や思い出を語ります。特に、オペラシティアートギャラリーや東京ステーションギャラリーの役割、美術品の取り扱いやハンドリングの重要性が強調されます。彼らは、美術館運営におけるノウハウや展覧会の成功事例について意見を交換します。互いの美術館への評価を通じて、彼らのアプローチや考え方が明らかになります。このエピソードでは、天野太郎氏、冨田章氏、野地耕一郎氏が、美術展や日本画の歴史について議論を交わせます。彼らは、美術解剖学や新しい日本画の潮流に関する見解を共有し、実際の展覧会の経験を踏まえた話をします。また、天野氏、冨田氏、野地氏が、写真やアートの歴史、そしてそれぞれのアプローチにについて語る特別なエピソードです。ここでは、現代写真や日本の美術における影響力についての深い洞察が盛り込まれています。

館長たちの紹介
はい、アートテラー・とにのそろそろ美術の話を。この番組は私、アートテラー・とにがアートに関わる方をゲストにお迎えして、
トークを送り受けるポッドキャスト番組です。本日は年末特別編、館長スペシャルの前半をお届けしたいと思います。
ということで、番組始まって5年が経ちまして、スペシャル企画を行おうということで、今日はですね、お3方に集まっていただきました。
ということで、館長スペシャルでいいのかわかりませんけれども、どうぞ今日よろしくお願いいたします。
ということで、まずお一方ずつぜひ自己紹介を。誰からいきましょう。
じゃあ、先輩からお願いします。
え、先輩ってどういう意味でいい?
いえ、文字通りでしょ。業界でも先輩でしょ。
もうぺいぺいですね、どうも。ぺいぺいですけど。
まず名前を名乗ってください。
私、山本太郎と申します。
館長の会っていう意味で言えば、僕、館長じゃないんでね。平なんで。
現在、東京オペラシティアートギャラリーでチーフクリエイターをしております山本太郎と申します。よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。この番組の最多出演という。
あ、そうですか。ありがとうございます。
織に触れ、いつも来ていただきまして今日はありがとうございます。
さあ、そしてじゃあお2人目。
はい、東京ステーションギャラリーで館長しております富田でございます。
館長するのと同時に平野学芸も兼任しております。
よろしくお願いします。
さあ、そしてお3方目でございます。
はい、千億八個館東京の館長の野次郎一郎です。館長しております。
一軸館長。
これもう最初から、最初からこういうのが飛んでくるんですか、今日は。罰が。
でもプレイングマネージャーみたいな感じだから、もう同じですね。
だからそういう方が揃った感じですけれども。
実はですね、それぞれと名刺はあるんですけれども、なかなか多分お会いする、
それぞれがお会いする機会がないのかなと思って、この番組を使ってちょっと全員呼び出してみようということで。
今日どうなるか全くわからないので、すごい予測不能になるんですが、
まずそもそもですけど、お互いは関係性でいうとどういう感じですか。
学芸員の役割と関係性
富田さんと野次さんは結構。
大学の同級生。
大学時代から。
先生が同じなんで。
あ、そうなんですね。
同門なんです。
同門。
大学時代からずっとですか。
いやでもね、その頃は僕は知らない。
入れ替わりだった。
どこで知り合うんですか。
どこだろうな。
大学院。
大学院の飲み会が何回かかな。
だから40年以上だね。
これもう盟友って感じですね、そしたら。
そうね。野次っていう代わり者がいるからって紹介されても。
当時からそんなイメージだったんですか。
もう全然変わんないでしょ。
大和さんは横浜美術館の学園として活躍されてたんで、遠くから尊敬してました。
先輩。
その頃僕は横浜の初号美術館で学園やってたんで、近くから尊敬してました。
どういう存在だったんですか、大和さんって。
いろんな数ある学園生がいると思うんですけど、どんなイメージでした。
僕のイメージは、現代アートの一番新しいところを真っ先に紹介したみたいな。
ほめ、ほめ、まんざらでもないもん。
そういうイメージ。
僕はさ、よく大和さんに間違えられたの。
江藤寺。
なんかこう、背かっこが似てるでしょ。
シンジュレット的な。
今全然違うけど、ラジオに聞いてる方はわからないかもしれないけど、
まだね、ふさふさしてるじゃない。
当時は僕も同じだったから、よく間違えられた。
僕には間違えられないと思うけど、多分大和さんはね。
だから他の学園半ばから大和さんって呼んでるんですか。
僕は大和さんって言うから、やめてくださいよって。
おそれ多いですね。
会うのは今回。
いやいやいや、何回か会いました。
でも基本的には、よく天野さんが、学園は2種類いるってよくおっしゃってて、
生物と乾き物を扱うみたいな言い方もされるじゃないですか。
ちょっとそれを一回まず教えていただきたいんですけど。
ここで前話しましたよね。
改めてね、今日から聞く人もいる。
だから、わかりやすく言うと、作り手の人がね、
復古作家っていうか、歴史的な文脈に入られた方と、
今は現役でバリバリやってる作家と。
だからどっちも展覧会やる立場からすると、
めんどくさいことはめんどくさいでしょ、どっちも。
それぞれのめんどくささがある。
例えば、今生きてるっておかしいけどね、の方は、
日に日に言うことがコロコロ変わるとあるでしょ。
じゃあこれでいきましょうって言ってたのに、
次になって、いや、ちょっとやっぱり考えてこうしますっていう。
で、復古作家の方は、それは当たり前なんですけど、そういうのはないじゃないですか。
ただ、関係者が多くて。
ご遺族とか。
いやいや、ご遺族もそうなんですけど、
例えばその方を研究してる人とか、たくさんいる方だと、
やっぱりそういう方に対する配慮がないと、
全く意見も聞かないし、何もしないと、ちょっとまずいことになるようなことがあるので、
だから両方は手法がやっぱり違うっていうかね、
展覧会を組み立てていく手法が違うっていうのはある。
館長としての挑戦
生きてる人は扱うのは生物で、浜野さんはもうずっと生物。
僕ね、実言うとね、もともと僕、仏教美術だったんですよ。
大学ではっていう。
そうそう。
それで僕、北海道立近代美術館に入ったときに、
野石さんは58年より大和谷美術館にあるんですけど、
これ昭和58年のことですか。
そうですそうです。
ってことは1983年ってことですか。
僕ね、83年かな、に北海道立近代美術館で、
大和谷美術館のコレクション展を東と西で分けて、
あのときに先輩のキュレーターがいて、
あれと一緒に行って、集長で行ったりとか。
大和谷さん。
大和谷の作品を仮に、ちょっとどことは言うとまずいんで言いませんけど、
そこの倉庫行ったりしたので、
たぶんそのときでどっかでお会いしてるかもしれない。
覚えてます。
ペペだからコレ、まだ。
僕も全然ペペですよ。
ペペです。
そのとき山田さんに会ったって記憶は何となくあるんですか。
僕はね、倉田さん。
倉田さんはご元気でしたからね。
それと竹田さん。
竹田さんもお元気だったんで。
竹田さんだったと。
で、当時は草薙さんとか。
そうでしたね、やっぱね。
その時代。
だからそのときは、言ったらまだ現代アートの学芸者ってなかったんですか。
いや、だからね、現代美術なんてね、横浜に移ってからですよ。
あ、そうかそうか。
だからもともと出はというか。
出はというか、いろんなこと勉強しなきゃいけないし、
だから道立近代美術館というとって、密教店とかね、巡回の。
だからゴーヤさんに週間に行ったりとか。
だからまあ本当にいろんなことしたので。
だから学生のときしてるような人から言うと、
現代美術ってどういうことを言ってるか。
それはでもやっぱりお二人もびっくりしたんですか、最初。
そういう、最初からも現代アートな人って言ってたんですか。
僕のイメージでは横浜に行く。
だからもう現代アートの人だと思ってたからね。
でもそうすると、まあ富田さんも野次さんもどっちか。
まあ天野さんの言い方で言うと川崎の人が多い。
僕はどっちかというと、生川崎の人。
嫌な感じの言い方がありますね、生川崎。
俺もそうだね。
生川崎さんはどういう感じのことですか。
いや、どっちもやるんですよ。
だからね、どっちもできる方って安くないんですよ。意外と。
そもそもこの三方といつもお世話になって仲良くさせていただいてるなと思うんですけど、
多分このもうクラスになると言ったらですけど、
もう普通に館長職とかやって、天野がやらない人が多い気がするんですけど、
なんかお三方は共通点で言うと、いまだに現役でやってるじゃないですか。
それがこう、それお互いのことをどう見てるんですか。
なんかこう、戦友的な感じになります。
いえいえ、よくやるなと思ってますけど。
お互い。
だって快楽だから。
展覧会作ったり、美術館でいろんな人に会ったりっていうのは快楽だから、やめられないですよ。
やってたいんですよね、これから。
ずっとやってたい。
もう後ろに行きたくない。
学芸員としての仕事をしないで館長の仕事だけやるんだったら、多分やめる。
そうなんですか。
つまんない、つまんない。
館長の仕事ってすっごいつまんない。
つまんない。
何が一番つまんない。
いろんな会議に出ないといけないとか、いろんな人に挨拶しなきゃいけないとか、
そういう社交的な。
天野が作ってるほうが面白い。
そういう人でも割合としては少なくないですか。
今、たぶん芸員役で、意外にいらっしゃいますからね。
やりたいけどやらないっていう人は結構いるかもしれない。
それは天野さんもずっとこのまま芸員役で。
いやだから、どのくらいだろう、僕の場合って言ったら、
何でしょうね、横浜美術館退職して、定年退職で延長雇用みたいなのがあってね。
で、そのときも特に自分でね、就活しなかったんですよ。
だから、もしね、依頼があれば、つまり賞味期限があれば、
ありがたいな、ぐらいしか思ってなかったんで。
だから実際にはやっぱり、その年の職を失ってフリーになって、
4月から本当にフリーでね、オンゴイングで行財やったりしてた時でした。
ああ、言いましたね。だから横浜の後に、あざみの行ってですね。
あざみの後の。
まあそこの財団を辞めたりというか。
1年フリーランスでした。
で、1年じゃなくて、確か10月か11月に、たまたま初代のオペラの横を歩いてたんですよ、僕。
うんうん。
オペラの用事があったからって。
で、それから電話がかかってきて、そこの学院から、ご相談があるんだけども、
わざわざ横浜まで来ていただくのも何なんですけど、
言って、ちょっと調整していただいて、下におるけど。
もうびっくりしたでしょうね。狙ってたかのような。
母みたいな。毎日下で待ってたみたいな。
でもそれじゃあ速決。
速決するとさ、さすがになめられるから、ちょっと家で妻とも相談したいと思います。
相談もクソもさ、とにかくMさんから早く働けって言われてたから。
速決もクソもないわ。
もう断るっていうあれはないんですね、選択肢としてね。
そんなことしようもんなら。
奥さんはね。
一応ためてみたら。
ためらないとさ、やっぱり。
待ち望んでたからね。
他にもいろいろあるんですけどっていうふうな顔しとかないと。
まあいろいろあって、だからそれはありがたいなと思う。
でもって言うとね、本当は今年の3月31日で3年契約で終えなんですよ。
なんですけど、今年の1月か何かに理事長という人に呼ばれて。
という人。
もう2年、言われてまでいるんですよ。
そうですよね。
だからこの番組、授業ちょいちょい出てらっしゃるんで、
前回のときには、もしかしたらこのままフェードアウトみたいな。
番組載せれないけどっていう話はありましたもんね。
気づいたら延長されてたからね。
そういうことで、天野さんはコロナの最中に採用ってこと?
いや、その後なんですよ。
だからコロナでいろんなものが中止になってましたよね。
もうちょうどだから、2020でしょ、あれ。
あのときに札幌国際芸術祭のディレクターやってたんですよ。
もう全部できて、リストもできて、カザログも出来上がろうかいっていうとこまで行ったんですけど、
天野さんとの出会い
市長に呼ばれて、天野さん、来年延期しませんかいって言うから、
いや、延期するぐらいならキャンセルしましょうって言って、
結構僕も札幌にいたんでね、知ってるのみなさんとか潰れてね。
それ、芸術祭って言ってる場合かいっていう気もあったんで。
だけどね、カザログもできたんでよかったんですけど、その後です。
そのときに、初めて、天野さんとはちょこちょこお会いするんですけど、
初の差し飲みが一回あって、かちまちさんが呼んでいただいて、
で、そのたぶん札幌芸術祭、やるねん。
ちょっと広報じゃないけど、なんか手伝ってほしいみたく言ってるので、
それで一軒家当てがわれたんです、住むところ。
で、一部屋空いてるからお前そこ住めって言われて。
えー、超に思ったわけじゃない。
なんかそんなシェア、天野さんと一ヶ月シェアだった。
え、どんな話それ。
しました、しました。
だからお前そこいっぱい部屋があるから、お前もそこ住んでええからみたいな感じで言われたから。
札幌で。
札幌で。
なんか一軒家当てがわれたって言ってたんですよ、天野さん。
え、いや、おかしましたけど、なんやろ。
だからその時期に、向こうにいることになるから、お前そこ使えみたく言われてっていう。
でもさかなかなったんですもんね。
そうそうそうそう。
でもまあお互いは住むフィールドが違うから、どういうときに会うんですか、それぞれ。
あんまり会わない。
会わない、やっぱ会わないです。
会う日から。
会わないよ、そっか。
あんまりないよ、学園でじっくり話すことない。
だから今回初めて。
知り合いの結婚式で会ったとか。
そうそう、見かけたとか。
会えないときにちょっと会って挨拶して。
習慣のときに会ったとか。
ああ、そういう感じなんですね。
だから今回ちょっとレアな回ですね。
作品の借り方と取り扱い
俺が覚えてるのは、一度だけすごく叱られた。
なにそれ、何のときですか。
横浜美術館にいらしたときに、俺作品借りに行った。
で、俺手持ちで借りたいからって言ったらさ、手持ち困るんだよねって言われて。
それで慌てて2、2、4でバーンを借りて行った。
それ何を借りたんですか。
軸物の小さなのだったよ。
え、俺そんなこと言ってないよ。
ほら、山田根美術館にいたじゃない。
山田根はさ、手持ちが基本だったから。
あれ倉田さんの教えでしょうかね、あれ。
いや、僕ね、手持ちだったら手持ちだったらなんて言ってんやろ。
1時間45分遅れて連絡も来なかった学園に帰らせたことありますけど。
それは私じゃありません。それは僕じゃない。
それはしょうがない。
それはしょうがない。
連絡もない。
たまにいるね、でもそういうやつね。
あ、いるんですか。
まあ、いた。
そういうの。
電話ないのよ。
でも普通だよ、顔してさ。
じゃあもうさ、はいって言うから、いやいやいや。
いや、遅れてきたのにお宅の入り口分かりにくいねっていきなり言ってる。
えー、いた。今もそんな人業界いるんですか。
知らないよ。
知らない。
えー、その怒られたことは覚えてないってことですね、じゃあその。
怒ったってことは。
怒ったっていうか、叱られたんだよ。
いやー、そんなん、知らなかった。
手持ちでなんの?って言ったのかね、ちょっとすみません、それは。
風呂敷持ってったわけ、俺。
でもヤマタネ方式だからさ、一番安全なわけよ。
逆に言うと。
いや、その倉田気味野さんっていうのが、ヤマタネにも関わられて、サントリーを作られて。
で、僕が入った北海道地域伝説館の時に館長やったんや。
で、ハンドリングというか扱いを徹底的に鍛えられたんですよ。
確かにおっしゃるとおり、日本画の鎌倉にお住まいの方に借りに行くときは、
じきじき一緒に行って、作法全部行くまでに教わって。
例えばアルコールの手拭くの。今でこそぴゅっとあるけど、そういうの買ってきてさ、
山野これを見させていただくときに、手をやって。
消毒して。
日本のときにやっぱりね、風呂敷で包んで、それこそ手持ちで。
横浜は違うって言われちゃうんですよ。
北海道時代だったら足りてたのに、横浜でそれはダメだ。
いや、途中で車で轢かれたらどうするんや。バーンだぜって言われて。
言われても覚えてるもんだからね。
どうせ僕もこれくらいだからね。
まあでも、その後の経験を借りて。
いい思い出です。
宮島さん、ありがとうございます。
富田さんは怒られた経験はないんですか。
ないないない。
絶対仕事でこう、抵抗がなかったもんね。
貸し借りもそんなないってことですよね。
そんななかったですもんね。
今でも、美術館ってほとんど過剰すぎるところもありますよね。
あるいは扱いとか、多い質度とかさ、過剰すぎるような経験してるもんね。
どう思いますか。
いや、温室の問題よりも、
さっき言ったように僕、本当にね、今でも監視とか病部とか、
冊子もそうですけど、扱えるんですよ。
かけていくの、普通にね。
で、そういう意味の扱いができる人が減ったなって感じますからね。
ちゃんと教えてるんですけどね。
千億も千億もね、ほら、乾き物やってるからさ。
そりゃそうですよね。
絵の持ち方とか、楽の絵の持ち方もそうですしね。
だから、意外と大丈夫かな、こいつ。ってなるもんね、やっぱり。
みんな日通まかせとかさ、
そういうのになりすぎちゃってるよね。
そうなんですよ。
移動と運搬の経験
あれはね、まず、関係者じゃない人から見ればね、
どうして学園やらないんだろうって。
あれはね、保険の問題があってさ、
勝手に学園やってポコポコと落としちゃうと、
保険は輸送会社さんが入ってるわけですよ。
ドアツードアって言うんですけど。
だからその間は、彼らがハンドリングするっていう鉄則なんで。
だから、そういうことがあってね。
だけど本当は、学園だって自分で、個人のとこなんか行ったときに、
個人のコレクターの人はわざと学園に扱わせる人いるのよ。
ええー、いるんですか。
扱いができるかどうか見てて、
お菓子出せなくOKみたいな。
そこでお菓子出さないみたいな。
いや本当よ。
本当に、古い寝室の童謡さん。
童謡さんだし、関西にもそういう子はいたんですよ。
有名な人がいるんだね、業界。
だから例えばね、陶器借りたときに切り箱から出して、
そこらへんはよかったんよ。
納めて、紐の結び方も、最初にどうやってたかっていうのもちゃんとやったんよ。
その次の瞬間にさ、じゃあお借りしますって。
こうすればいいのに、こうしちゃったんよ。
箱の下に手をせなかったから。
でも瞬間アウトやったね。
もうそこで終わり、ゲームオーバーみたいな。
もう帰って、言っちゃった。
でもそれはそうっすよ、やっぱり。
基本ですからね。
それは今だにでも、お酒屋でもやっぱり借りに行くときに行くんですか、個人と。
僕は行きますよ、行きますよ、たまに。
最近だいぶ若い連中に行ってもらえるようになってるけど。
あと調査に行ったりとかね。
美術専用車っていうの。
あれに乗るのが大好きなの。
どういうことですか。
なおまのさんも俺も見てる。
でも何が楽しいんす。
普通の車とはまず違うんす。
トラックはトラックですよね。
トラックはトラックなんだけど、エアーサスペンションがあったり、今いろんなフル装備だもん。
振動がないよね。
振動がなくて、オーミスドもちゃんと管理できるような車にはなってるんですよ。
でね、普通トラックって運転席だけじゃない。
だけど後ろに席があるのね、微線車っていうか。
後部座席があるんですか、トラックが。
で、作品が後ろに積んであって一体化できるようになってるわけ。
すごく安心できる仕様になってる。
運転手さんとか美術品作業員さんたちと一緒にいるっていうことがすごい楽しい。
今でも。
今でも。
だから前日からではウキウキする。
ウキウキしちゃう。
そうなんすか。
いまでもそうっすけど、集荷とか返却とか。
まあお前らスタッフがそんなにたくさんいないんでね、ヘルプしないといけないんですけど、
特に、集荷先とか返却先が、飯の旨いとかあるじゃないですか。
まあまあ、そりゃあるじゃないですか。
特に港関係。山の中じゃなくて。
海の先。
俺が行くから、大丈夫。
行きたいんですかよ。
で、野井さんと一緒で、僕ね、その作業員の人とすっげえ仲いいのよ。
あーなるほど。もう顔見知り人がいっぱいいるんですね。
顔見知りのたくさんいる学園はたくさんいますけど、
ちゃんと裏ネタまで言ってくれるような関係なんですよ、僕ら。
だから作業員の人と一緒に仕事するのは、野井さんと一緒だと思うけど、楽しいんで。
だから、これやっとけっていうタイプの学部もいるんだよ。
早く片付けろみたいな。
そんなこと絶対言わないで。
一緒になって片付けるしさ。
それが楽しい。
で、あの学園感じ悪いよなーとか言って一緒に行く。
で、富田さんもあれですよ、一緒に行くの好き。
まあ、ただね、僕ちょっと腰が悪いんだよね。
あーなるほど。
ただの長距離はね、ちょっとね、辛い。
それだけちょっときついでしょ。
それさえなかったら、やっぱ楽しいことは楽しい。
楽しいことは楽しい。
でも、どれぐらい乗ってるものなんですか。それこそ関西とかも全然。
もう一週間とかはね、これがね、最近やっぱりね、働き方改革があって、
休みに休みに行かなきゃいけないんで。
例えばね、横浜から名古屋行って、それから大阪行くじゃないですか。
昔だったら、そうか、朝出て、名古屋には一泊しなきゃいけないんだけど、
まあ頑張ってとにかく京都と大阪行けるなとかいうコースが、一気に行けなくなったんですよ。
あ、そうなんですか。何時間までしか行けないみたいな。
っていうかね。
10時間とかの処理とかもいろいろあって。
それは僕、もちろん北は北海道も、南は九州、沖縄まで行きましたからね、車で。
一番今まで人生でマックスこんだけ乗ったのはどれくらいですか。
僕はね、熊本を朝たって、そのまま一日間で横浜まで休みなし。
休みなしっていうか、ところどころ休むんだけど、運転手一人で、僕一人で、
朝早く乗ったって。
当時ね。
で、明け方っていうか3時ぐらいに、エビナに着くんだよ。
え、朝たって午後3時にはもうエビナにいるんですか。
午前3時。
つまり一周回って。
一周回って。
で、エビナでちょっと仮眠をとって、その総合美術館が開く時間に走る。
で、朝7時か8時に見れるっていう。それが僕の最長キロ。
えぐいですね、それは。
僕ね、富山さんとほぼ同じコースなんですけど、熊本県美なんですけど、県美に借りて、その前、ちょっとどっか置いたかどっか行ったと思うんだけど。
でね、そっから横浜に戻るわけですけど、したらね、台風来たんですよ。
台風。
来てんのは知ってたんですけど、本当に追いかけられたんよ。
ネットヒーロー、ストラップヒーロー、そんなことある?
で、これ多分追いつかれるなと思って、広島の市の厳県西南学園にいるんで、ちょっと悪いけど、
久しぶり。
一晩。
避難、避難。
一晩。
で、そこで一泊して、台風一過、その後に横浜で行ったりもありますね。
でもじゃあ結構、移動距離は長い。
美術館運営の話
スリリンだったですね。
スリリンだったですけど。
頑張れば逃げ切れたんじゃないですか。
あのね、僕学生についてはそうなんですけど、台風のときに飲みに行くの好きなんですよ。
なんでですか。
あのね、まずギャップがほとんどいない。
そっか。
で、最初ね、嫌な顔されるのよ。
どうしたらいいのよ。
寝ようと思ったら。
で、そのときも広島について、二人、某運送会社の人と三人で、行こう行こうって言って。
それがやりたかっただけで。
で、実際に台風で倒れたら大変なんですよね。
それは野次さん、最長は。
最長はね、やっぱり九州だよね。
九州はいろんな利益品たくさんあるところは、コレクションもあるし。
九州で借りて、だいたい広島で一回休んで、京都。
そうですよね。
で、京都と東京はね、そんなに遠くない。今、同盟がちゃんとできてる。
遠くなくはないですけどね。感覚はちょっとおかしいですけど。
いやでも、8日ぐらいずっと一筆書きで回るなんて普通だったんだよ。
昔はね。だからさ、酒が食らってね、翌日ちゃんとしてるみたいなところがないと、学園には勤まれませんね。
なるほど、なるほど。
あのね、今ちょっと思い出したけど、最長ってことで言えば、ベニスですね。
え?
何で?
昔だし。
ベニスまで行ったと。
横浜美術館の、ダリかな。ダリの店内だったの。で、クリエで行って、ベニスが一緒でしょ。
あとね、オステンドって言って、ベルギーのね。あそこの美術館に2つは最長を最長。
一緒に行ったと。海外はあります?
ありますあります。
最長っていう。
ボストン、フィラデルフィア、ニューヨークからお借りして。
やっぱ行かなきゃいけないですね。
行かなきゃいけない、返さなきゃならないんだけど。クリエで来るときもあるんだけどさ。
あ、向こうの人が来てるんですか。
もちろんね、あるけど。そのときね、またカーゴがあったんですけど。
貨物もね。
で、僕ね、一個はジャルで一個はルータンだったんだけど、ビジネスなんですよ。
ただし、パッセンジャーじゃないんで、カーゴの後ろは全部荷物なんですよ。
で、ビジネスっていうか、どこ座るのかなと思ったら、貴重室あるでしょ貴重室。
あの後ろのほうに席があって、そこに座るんですよ。
で、もっと面白いのは、飛行機会社っていうかな、それの一種のルールなんだけど、
ちゃんとキャビンアテンダントつけるんですよ、一人。
アマーノさんはたぶんマンツーマン。向こうも嫌だったろうな。
言うのは私は意外。
僕、カーゴ乗ったことない。
あるんですか。
あとアマーノさんはでも、移動で言うと、ほぼいつも京都で行くラーメンありますよね。
朝好きなとこあるじゃないですか。
台地屋さんに。
だからそれが好きだっていうのはよく言ってます。
朝5時にね。
5時。
ラーメン。
5時からやってるんですよ。
で、そのときは、それも某、飛行機会社と一緒にいろいろ回ったときに、
3ゲームやったかな。
アマーノさんいい加減ラーメン以外なんか食べません?
ラフェ好きすぎますからね。
すみません。
なんかそれは楽しみだっていうのは言ってますもんね。
朝食べるの。
そういうことで話がいろいろ出てくるんですけども、
ちょっとここでノークテーマにしておきたいなと。
ビジネスの話してないじゃん。
お互いの美術館の運営覚を見ていて、これは真似できないな、
すごいなと感じるところはありますかということで、
お互いの美術館に対してのイメージをぜひ教えていただきたいなと思うんですが、どうですか。
オペラシティは今年、
ユノキさんが今やってますよね。
青春家の俳優さんも。
すごくいい展覧があって。
どういう、よく行かれるんですか、オペラシティ。
たまに行きますよ。
そのときってアマーノさん呼び出したりとか。
しない。悪いからね。
あんまりやれへんよ、あれ。
よっぽどそんなにやっちゃったらやるけど、
わざわざ学園呼び出しといて、あんまりしないですよね。
離れてたりするじゃないですか、富田くんのところなんてね。
悪いなと思ってたからあんまり呼ばない。
そうなんですね。でも感想は言ったりするんですか。
たまにね。よかったときは僕も言うし、言ってくれたりしますね。
逆にそうじゃないときは言わないです。
見に行ったことも言わないから。見たかどうかわかんないですよね。
展覧会の成功事例
ああ、そうなん。
それはよくなかったんだってのは、僕だったらこうするなみたいな。
その、良くないっていう。
そもそもその点の中で興味がある。
いやいや、そういうわけじゃなくて、やっぱり、
お互いの手法ってやっぱ大事だから、それぞれ尊敬してるからね。
だからその、真似しようとか、いいとこは取り入れようと思うけど、
手法自体を真似しようとかは思わない。
やっぱ自分がこのままでやってきた方法があって、
それをどう展開させていくかってことは常に考えるけど、
いや、この作家知らないのに、どうやって取り上げた、
見つけたんだろうっていうことは聞きたい時はある。
ああ、そういう時。
例えばさ、この間、あっぷり家の。
宮脇彩子ね。
宮脇彩子。
あれは素晴らしかった。
どこで見つけてきたんだろうと思って聞いたよね。
それはどこで見つけて。
それは豊田市美術館。
ああ、はいはいはい。
コレクションがあって。
俺も全然知らなくて。
行ったら、当時館長だった村田さんっていう人が、
いや、あっぷり家のコレクションがあって、
シテーションに向いてると思うんだけど。
って言われて、それで序説展示室に見に行った。
それでも、もともとは、それメインで行ったわけだよな。
全然別件で行った。
別件で行ったときにそう言われたから。
序説展示室に向かいながら、
あっぷり家か、ってこう頭の中でね。
思ってたわけ。
それで実際に序説展示室で見たら、
めちゃくちゃ面白いのよ。
なんだこれはと思って。
俺の持ってるあっぷり家のイメージが、
奥林信吉のチューリップのあっぷり家。
それのイメージだからさ。
もうそれを完全に突き崩されて。
それでちょっと調べ始めたら、なかなか面白い。
だけど、あっぷり家って主芸の世界で活躍した人だから、
主芸の世界ではすごい有名なんだけど、
美術界の人に聞いたら、ほぼ誰も知らない。
初めて聞いた。
互いの評価と意見交換
あのおじさんでもですか。
でもあれは本当芸術。本当の芸術。
だからこれ手の中にあるなと思って、
それでそれをどうやって見せるか。
手の芸術じゃない。
素晴らしい。
目がいいんだよね。
実際お客さんもかなり。
もう予想の3倍以上。
外場で並んでたってこれ反則じゃないかって。
行列作っちゃいけないんだよ。
そう、前回の番組でもその話で。
だから行列予期してないから、行列作るときはちゃんと行列整理をね。
人を雇ってコントロールしないといけないのに、
いきなり行列ができたから。
なんかバズったんですかね。
急にです。
でも初日からすごい人がいたのよ。
じゃあもう待ち望んでた人も多かった。
実はアプリケーションの世界では超有名人。
でも技術の世界では全く無名っていう。
おもしろいでしょ。
だって最初にプレスリリースいただいたときに、
略歴みたいなのが書いてあるじゃないですか。
そこに鉄子の部屋出演っていうのが書いてあった。
他に言うこといろんなこと書いてあったけど。
初めて見た技術家。
誰でもわかるだろうって思って書いてあった。
それがテレビで同じような人だったってことですもんね、当時は。
いやでも見ると、印刷ではまず出ないから、
図録見てもあんまりピンとこないんだけど、
本物見ると本当に素晴らしいんだよね。
色感から選び方、造形ね。
もうアプリケーっていうあるじゃない。
そういうのを見たときにはちょっと嫉妬もあったりするんですか。
いや俺やりたかったなみたいな。
いやそれはない。
それはないけど、よく見つけてきたと思って。
偉いと思って。
それはある。
お互い様だった。
お互い様だった。
逆にのじさんのアンテナであれすごかったなと。
僕は菊地要塞とかやったね。
あれね、練馬のクリスヴィース館時代に僕やったんですよ。
そうか、練馬の時か。
1999年でね。
もう10年ぐらいあっためてたんですよ。
菊地要塞って。
菊地要塞って。まずわからないから。
一旦誰?っていう説明からするわけじゃないですか。
菊地要塞のことを知ったのはね、
東博の資料館にね、菊地要塞の資料が一括してあったんですよ。
で、それをまずは見せてもらったら、もうすごい数あるわけ。
デッサンが。
デッサンがね。
で、それを寄贈してたのかな。
それが田本明さんだった。
ワセラの先生。
千葉の先生。千葉大学の教育学部の先生で、田後明さんなんだよ。
田後明さん。
田後明さんってね、あのほら、頭の体操っていう。
30巻。
子供の頃からお世話になってる。
名前だったから、誰?と思って。
田後さんの住所を聞いて伺ったんだよ。
僕のご先祖様ですって言われる。
そうなんすか。
田後さん。
これはね、菊地要塞。
菊地の名前が違うけど、菊地要塞の家はね、だいたい絵描きと科学者、医者なんですよ。
子供たちがどっちかなと。
田後さんは、宇宙工学が、物理学が最初。
東大の宇宙物理学で、途中で心理学に帰る。
で、教育心理のほうに行って、千葉大の幼児教育科なんかの教育学部のね。
それで、頭の体操みたいな本をずっと出しつつしてる。
だいたい病院の待合室にあったりとか。
子供のときになんか。
カッパですね。
大ベストセア。
で、30何巻があるんですよ、今ね。
そんなにある?
その方が持ってたことになる。
そう、その人が持っていたものを、田後先生が持ってたものを、東博に帰宅していた。
で、それ見て、田後さんのとこ行ったら、
田後さん、うちにもこんな絵があるんだけどって言って見せてもらった。
帰宅してないやつもある。
帰宅してないものがあって。
その中に、司法者の自画像ってのがあった。
自画自賛像ってのがあって。
江戸時代の人が自画像を描くっていうのはさ、あんまないわけ。
あー、なるほどなるほど。
ないじゃない。
伝統画流派の人たちが自画像を描くってのはあんまりないから、
しかも自画自賛像って書いてあるんですよ。
すごい人だなと思っていろいろ調べてみたら、
で、禅憲古実っていうのを出していて、
それがね、店舗年間にある程度も脱稿できてるんだけど、
交換したのは明治元年。
本が。
本が。熟刊も出てたのがね。
どうしてかっていうとね、熊本の細川家から天皇に贈呈されてる。
その本。
その本が。
どういうのが載ってる本?
古代から南北朝時代までの間の天皇に尽くした、
いろんな君臣とかレップとかそういう人たちが571人描いてある、
いわゆる人物表伝。
人物像と画像と表伝が一緒になってる。半本が。
それは菊池詠祭が絵が上手いから絵だけ描いてるって他の人がテキスト描いてるんじゃなくて、
そっちも調べるのも調べてる。
そっちも調べる。
美術解剖学と手塚治虫
だから歴史家でもあるんですよ。
すごい。
それで、僕の同僚の塩屋さんっていうのは文化財研究所にいる彼と一緒にやったんだけれども、
塩屋さんがおっしゃるには、今神戸大学の宮下菊郎さんっていう。
イタリア人。
イタリア人。
兵庫県民でいた人でしょ。
そうそう。
宮下さんがね、手塚治虫の漫画で、なんだっけ、有名な。
じゃなくて。
自伝的な。
ひだまりの木の中に菊池詠祭が出てくるっていうわけ。
知ってた。菊池詠祭のこと。
出てくるっていうわけ。
菊池詠祭の周りにいた手塚涼仙っていう人がいるんだけど、手塚涼仙は手塚治虫の前途で、医者だったんだよ。
その流れか。
大阪大学。
半田医学部の。
半田医学部の出身じゃないですか。
繋がってくる。
繋がってくるわけ、そこで。
面白いなと思って。
その東博の資料の中に、外骨とか筋肉とか書いてある下図とかスケッチがあるわけ。
っていうことは、美術解剖学的なことやってたってことが分かるわけ。
その当時。
美術解剖学はね、今でこそね、皆さんやるけれども、その当時あんまりないじゃない。
っていうことは手塚涼仙が、そういう美術解剖学的なことを菊池詠祭に教えてた可能性が非常に高いのと、
前見後実の講演室の中に手塚涼仙の名前が出てくるわけ。
医者の名前が入ってるっていうのはさ、そうするとやっぱり、
肉体の書き方とか骨のつき方の正しいかどうかっていうのを講演してた可能性があるというふうに思って、
それを展覧会にした。
梶田繁子の展覧会
それがヒットした展覧会になった。
全然。
100は来ないよ。
100は来ないよ。
今聞いてたら面白そうだなって思ったんですけど。
すっごい面白いんだけど、だってみんな知らないから。
宣伝も菊の美術館だからそんな宣伝費ないしね。
でね、最終的に5000人来たかな。
え、誰?
2ヶ月。
2ヶ月?
2ヶ月ぐらいで。
でね、カンコ鳥を僕は本当に見た。
ギャラリーで。
ギャラリーでカンコ鳥を見たな。
いやでもね、すごくいい展覧会。
僕は洋裁展の前に、初号美術館時代に、
梶田繁子っていう日本画家の展覧会を無謀にもやったので、
もともと西洋近代美術を研究してて学芸になって、
3年目か4年目に梶田繁子をやりたいってやったんだけど、
それは大変だったのでそれは置いといて、
その梶田繁子が勉強してたのは、今の菊地容子さんが書いた禅剣古事。
梶田繁子はその禅剣古事10巻分を、
全部絵は空で描けたっていうぐらい勉強してた。
だから菊地容子さんすごいっていうのは知ってたんだけど、
展覧会になるとは思わない。
東博にあるとか知らないし。
しかもそれがふたを開けたら、文字がやってたんだみたいな感じですか。
文字がやってたのは知ってたけど、
ついに容子はやるのか。
ずっと動いてた。
ロバート・フランクとの出会い
一人だけ褒めてくれた。今は富田さんを褒めてくれてるけど、
一人だけ褒めてくれた人が絶賛してくれたのが秋山照勝先生。
何の映画ですか。
東京大学といえば東大の先生用に興味がないオフチューの。
当時の。
前田先進という日本画家の無神年無子。
っていうのは自分のお宅にもあったんだよね。
前田先生が使ってた、こんな小さい文庫本型の前田小実がロゴしたんですよ。
前田先生は梶田半子の弟子なの。
そこ繋がってくるんですね、いろいろと。
昔、明治の20年代、30年代に弟子入りするじゃないですか、菊地。
そうすると最初にやらなければならないのが、人物の模写。
それがその本の模写。
本当にバイブルの時代。
明治の日本画家はみんなそれで勉強したっていうぐらいの有名な本。
そのときに展覧会したらめっちゃ入ったのかもしれないですね。
だってモデルを雇えないだろ。
いつの間にか忘れ去られちゃう。
やっぱり新しい日本画っていうのが明治の時代に出てくるわけ。
そういう、たとえば岡倉天神学を修行してね、
「妖怪の対岸」とか、「七夕の衝突」が出てくるから、
そういうものの陰に江戸時代からの流れを汲む、いわゆる大和絵系の画家たちは、
みんなこう埋没してる。
全近代的にみたく捉えられちゃったって。
捉えられるっていう。
その手の中、天野さん見たこと覚えてる?
見てないですよね。
乾き物だから。
それを見に来るんだ、乾き物っていう。
当時は生物ばっかりだった。
いやいや、日本画というか、わりとジャンル関係ないし、見に来るのは見に来るんですけど、
たぶんね、今のお話聞いてたら、冨田さんも野井さんもそうなんだけど、
やっぱりわりとしっかりした美術師のトレーニングを受けてられないっていう感じはしたんだよね。
で、僕ね、どっちか言うと、学部やからどっちでもいいんやけど、
一回ね、どっかの美術館の偉い学部員に、
阿波野君ってどっちか言うと美学だよね、言ってはどうだって。
どういう意味ですか?
もちろん調べはしますけど、
例えば特にグループ展なんかやるときに、
そのグループ展のテーマを決めるときに、
例えばその美術的固まりとしてっていうのはあるのね。
例えばその同時代とかもあるし、
それからどういう筆筆をしてたとか表現方法とかっていう。
で、俺ね、そうじゃなくて、
どっちか言うと、その時代が持ってる独特の雰囲気みたいなのが出てんちゃうかなみたいなことを、
どういうのかな、感じ取るって言ったらあれなんですけど。
で、その後は調べたりするんですよね。
だから僕一回、自分で面白いなと思ったのは、
現在僕写真を今、なんとなく写真って言われてるんだけど、
ジャンルとして写真家の手ながらやったんですかね。
僕ね、94年か5年くらいまで写真に何の影響もなかったんですよ。
それが、これいろんなところで言ってるんだけど、
たまたまロバート・フランクっていうすごく有名な写真家いるでしょ。
あれが溶岩美術館のある学院がどうしてもやりたいっていうのがあって、
で、僕も、ロバート・フランクって知らない。
なんやねん、そいつ。
写真、あんま知らないんですかね、すごい言われて。
で、その企画会議かけても、あんまり当時は写真ね、
溶岩美術館は写真コレクション持ってるんだけど、
館長にしたって部長にしたって写真あんまり知らないし、
何の範囲にいるのかいっていうことで、上げちゃおち、上げちゃおちしたんですよ。
で、それが僕、この話してるんかな。
たまたまね、出張でニューヨーク行って晩飯食ってたら、
隣のテーブルで、いよいよロバート・フランクの世界巡回始まるよねって話してたんですよ。
隣の人が。
で、すいません、何の話ですか。
お相手が来たなって思ったでしょ。
そしたら、ワシントン・ナショナル・ギャラリーから始まって、世界巡回するらしいですよと。
どこに行くかは知らないけどって言われて、
担当のキュレーターの方って、ギャラリー関係の方でしたけど、
サラ・グリーノっていう写真で有名なキュレーターがいて、
切りつけて、次の日に、経済も何もない時代ですよ。
なんで調べたか。
インターネットもない時代に、電話してたよ、公衆電話で。
サラ・グリーノに。
横浜美術館のね、天野と申しますかいって言って、
世界巡回がね、日本ではやるんですかいって言われたら、
今度ね、交渉に行きます。東京公立機材美術館と、東京都写真美術館に行きます。
で、この大卒いてさ、横浜美術館に行くと、東京から電車で15分くらいなんで、
ぜひね、立ち寄っていただきたいって言ったら、
それは私の判断ではできませんと。
で、フランクさんから行けって言われたんで行くので、
フランクさんに頼むしかないんですって言われて、
で、そのときはそれでもどうしようもないんで。
で、そのあとにロバート・フランクのさん、
もうほんといろんな、ちょっと住所教えてくれないかなーとか言ったら、
さすがに当時でも個人情報が出ないんですけど、
通りの名前だけ聞いたんですよ。ブリーカーイっていうね。
今でも覚えてるけど。
で、そんなに広くないんですよ、東西っていうのはね。
で、一軒だけさ、もうたぶんイカニモイっていうお家があったんですよ。
イカニモイ。
探しに行ったわけですよ。そうしましたよ。
で。
その場所に?
あれね、高さが200メートルくらいなんですよ。
まあ両方に家あったけど。
でね、イカニモイっていうのはね、なんかね、
ベニア板打ち付けたみたいなドアがあってさ、
なんかグリーンかなんか塗ってるんだけど、
廃墟じゃなくてちゃんとした。
ちゃんとしてんねんけど、イカニモイっていう。
ああ、なんか感じ取ったんですね。
つまり空気だと思って行ったらさ、
ドアがこれくらい開いて、
ロボットフランが怒ったんよ、ほんとに。
その、ドア開けてくれたわけじゃなくて。
いやいや、誰やれっていう。
誰、ああ、向こうも出して。
何の用事みたいな話で、実はこうこうこうで。
言ったら、じゃあ上がれって言われて上がって、
で、横浜美術館の担当の何々が、
何年もあなたの展覧会をやりたいって言ってて、
せっかくこの世界巡回なんでね、
美術館で、うちもぜひとも巡回の候補として、
佐賀国之さんに行っていただきたいのをお願いしたいんですよって言ってね。
そしたら、熱心なね、熱心に言ってくれるよってありがたいから言っとくわよって。
結果で来てくれたんですよ。
東京都写真美術館とかに行かなかったんですか?
行ってたんですよ、もちろん行ってたんですよ。
で、3番目に来てくれって言ってたんだけど、
そのときも、当時またやったレストランの一番高いランチを、
そういう部長にさ、一番高いランチ出してくださいよって。
まあいろいろ担当の関係にも話して、
結果的にフランクさんも選んでくれたんだけど、
何よりもさ、お願いしたときにいい入れって言ったときに、
ところでね、君は僕の作品ってどう思ってんだよって。
そうですよね。
その時がない天野が来ちゃったんですよね、そのときは。
そしたらね、いや申し訳ないんですけど、知らないですって言って。
そこは嘘つかないですね。
そうしたら、写真集だし上でさ、アメリカンとかで有名な、今思えばよ。
上で見てたらさ、あ、結構いい写真。
嘘だこいつ。
今の若い子の言い方で言うとさ、結構イケてんじゃんみたいな。
生意気なのが来たなと思われたでしょうね。
それからね、個人的に、一年中行くたびにフランクさんがいいよって言われて、
いろんな話ができたんですよ。
それが、そのときに僕何思ったかっていうとね、
たまたまね、これもこの回で言ったかもしれないけど、
フランクさんに会いに行ったときにね、力転社員がまだ生きてたときがあって、
で、結構大型の作品ができたから、一緒に見に行こうって言って、
別の学園と一緒に見に行ったんですよ、アトリエ行って。
本当にでかかったんですよ。
こっちの壁ぐらいあるのが窓ぐらいある。
で、力転社員がね、これに3ヶ月かかったと。
で、明日からね、半年ぐらいどっかイタリアかどっかにバカンスで行くんだって言った。
力転社員。
一方ね、ロバートフランクは朝から晩までずっと写真のこと考えてたもんね。
はいはいはいはい。
乗っては鳥の。
どこに行ったりしてないんですかね。
みんな暇あるかいって言われて。
なんかね、24時間タイプでしょ。
俺勝手につけてさ。
写真の魅力と都市の風景
その後僕がやったルイズブジュアルっていう人も24時間タイプやってたんですよ。
とにかく暇さえ、何かの瞬間に質問してくるんだよ。
で、この人一日中考えてるんだよなっていうのがあってね。
どっちがいいとか悪いじゃないんだけど。
で、とにかくそのときからそのときに、なんか写真って面白いなっていう。
で、見出したら本当になんかね、面白かったんですよ。
そのときに最初にやった展覧会がね。
一応リサーチで世界中回ったんですよ。
アメリカとヨーロッパ。
そしたら、なぜかみんな廃墟、廃墟っていうか都市のね、
せいられたような風景ばっかり撮ってるやつがたまたま何人かいたんですよ。
で、聞いてみたら、あのなんとかっていう写真が今撮ってるって知ってる?とか。
全然知らないよって言うんだけど。
たまたまそういうものが、その世界の写真家が撮ってたんですよ。
で、それも、後になってわかったんですけど、テランバーグっていう言葉があって、
1990年代かな。
要するに都市、70年代にスクラップアンドビルドがあってね。
アメリカも日本もそうですけど。
で、その後に整備されたんですけど、都市が。
で、そういうものの整備されてる横の空き室みたいなところが、
いかにも打ち捨てられたみたいな、どっちすかずの、何かはよくわからないような。
で、そのテランバーグと称して、その論文会としてはいるんだけど、たまたまそれがあったんですよ。
大西しげるの独自なアプローチ
つまり、歴史的に調べてという、今のお二人のね。
違うアプローチでというのが、やっぱりちょっと違うんやなと思って。
ちなみになんですけど、あれですよね。次のステーションギャラリーも、何か変わった写真家の。
大西しげるね。
大西しげるっていうね。
これはね、ほんと業界の人に全然。
またなんか掘り出してきた。
うちの学園から掘り出したんだけど。
せっかくなんで口も叶えて。
大西しげるっていうのは、もともと数学者で、それこそ北海道大学で数学の勉強をしてた人なんだけど。
それが、自分の数学理論を確認するというか、実践するために、写真を撮り始めるわけか。
この写真がね。
どこで勉強するんですか。
それ俺に聞かないで。ものすごく難しいんだよ。
その中の理論があって、それをなんかこう、今だったらパソコンでもしかしたら図式とかやるみたいな感じなのか。
でもね、ちょっとね、異次元みたいなのが入ってくるね。すごい難しいことやった。
うちの担当学院の若山は少し理解したみたい。論文読んでるから。
まあ、とにかく写真撮ってたんですね、そのために。
でもその写真が、要は普通の写真じゃなくて、現状とか焼き付けの時にいろんな手を加えるわけ。
もっとモンタジュ的な。
だからほとんど全部モノプリント。
モノタイプですよね。
美術教育とアートの繋がり
で、それがこう、イメージがすごい服装的に重なってて、すごいかっこいいみたいな。
で、それをやって、そっから今度はね、墨で抽象を描きますわけ。
その写真の上に。それもまた別に。写真とはまた別の活動として。
で、その写真もそうなんだけど、墨の抽象画が、たまたま具体、大阪のね。
具体美術の展覧会なんかを見に来たタピエスの目にとまって。
フランスの方。それでフランスとか知ってるのに展覧会やったりして。
向こうでですね。
向こうで。
その時は、その方は具体に発表したわけじゃないんですか。
具体の展覧会にも出してた。
出してた。
メンバーじゃないんだけど、展覧会には出してた。
ともかく作品がね、めちゃくちゃかっこいいのよ。
今日、なんか持ってこなかったな。
もうチラシとか。
チラシができたわ。
その時はもう数学者を辞めたんですか。
いや、ずっとやってる。
数学者をやりながら。
生涯数学者。
数学者としての専門は何なの。
だからそれを俺に聞いて。
超難しいんだって、これが。
活躍した時代はだから、もう1070年代とか。
いや、もうちょっと前か。
60年代ぐらいが。
具体って言えばさ、昔オペラスティでさ。
知らなかったぞ。
やらば知らなかった。
あれはヤマノさんがやってないから。
いやいや、僕あの時は横浜美術館でしたから。
前回のマツタニ。
マツタニは一応担当者がやってましたけど。
あれだけでもオペラスティで、具体も作品も。
あれちょうどコロナの年の春だったんだよ。
お正月ぐらいで始まって、3月の終わりぐらいまでの期間で、
俺は最初の方見に行ったんだけど、
すごい良い展覧会で、知らなかったぞって。
それまでフットペインティングとか、ああいう大きな。
あの人はね、仏教にすごく詳しい。
題名が大体、仏教的な題名がついてるから、
全部見てたら、ほぼ北極教だから天台宗ですよね。
天台でね、その念仏を見てたわけ。
念仏の中にね、イエーザンで千日解放とかああいう修行をして、
最終段階まで行った人なんです。
白賀さん自身が。
白賀自身が。最終段階まで行って。
最終段階まで行って、もちろん得度は。
成就してないですよね、確か。
成就はしてないんだけれども、でもずっとやってる。
8年か9年ぐらいやってるんですよね。
で、フットペインティングをやらなくなる時期っていうのがあって、
その時期に北極のことをずっと書いていって、
あんまり仏教のことにのめり込んだ作家あんまりないんじゃないかと、
その時感じたわけ。
で、これいい展覧家だなと思ったら、ふーんと途中でやめちゃったんで、
あんまり話題にならなかったけど、
ショコレートはまだいけなかった。
裏置きも結構してた展覧家。
そうそうそう。
白賀さんってね、小学校の先生してたんですよ。
で、僕は横浜美術館時代に、
戦後日本の税美術っていう、アレキサンド・ローン・ロイっていうね、
アメリカのゲストキュレーターを読んで、
本当にもうなんすよ、それこそ。
だって戦後日本の歌って戦後45年からずっと90年までやんなきゃいけない。
どえらいことをやってたなと思ったけど。
で、そのときに白賀さんと、
で、白賀ね、奥さん、奥さんね。
白賀、今ちょっと主戦の名前出ないんですけど。
奥さんもすごいいいアーティストで、
天崎に住まれてたんで、家に行ったんですよ。
出品工廠でしたね。
そしたら、僕実は大阪生まれなんですけど、
幼稚園、小学校、中学校が天崎だったんですけど、
僕の小学校の先生だったからね。
もう辞め、僕のときはもう辞めない。
そうかそうか、君、何々、あの小学校の。
って言われて。
えー。
でね、たぶんね、小学校の先生はしてたけど、
お寺の、なんかしてたんじゃないかな。
お坊さんっていうか、そうかもしれませんね。
そうかも思い出してましたね、今。
小学校の図工の先生でした。
えっとね、だと思いますと。
子供たちにまさかフットペースに。
何年の卒業生一度みたいな。
壁とかに足で書いてあるみたいな。
でもほとんど深淵を描ける人だって思いました。
ただね、あの、保健教図をずっと読んでると、
深淵が描けるようになりますって書いてあった。
そういうものなんだ、と思って。
いやもうちょっと仏教と美術みたいなものを、
ちゃんと勉強しないといけないなと思って。
それを見た時。
見た時。
で、最近うぞうのこと話したっけ。
最近うぞうもお寺の生まれですよね。
で、最近うぞうも、あれ前週だったかな。
あ、違う違う。
えーと念仏教ですよね、たぶんね。
だから、なんまみだ仏を必ず備えていた人だから、
なんか最近うぞうってそういうあれだったなと思って。
そういう指定のなんまみだ仏はないですよね。
あんまりないでしょう。
で、ほらパリの風景とかに文字がこう書いてあるじゃん。
ポスターのなんか文字が。
ポスターの。あれね、お経?
新説が飛び出して。
お経じゃないかと思い始めた時があって。
お経を見てるとこうなるような文字に対する感覚。
あー、感覚として。
ダメですかね、これ。
いや、僕ね、今だから最近うぞうがね、そういうバックグラウンドって聞くと、
一般的にはえ?って言ったらね、ヨーロッパだっかなーってなるじゃないですか。
でね、僕オペラ行った時に、あれあの寺田コレクションっていう、
寺田ポタローっていう方のコレクションがあそこのメインなんですね。
で、そもそもあの敷地が結構広大なんですけど。
松田への場所っていうの。
あれ全部寺田家の持ち物だったんですよね。大見商人でね、もともと。
その時にどっかの雑誌社が寺田コレクション中で書いてくれって言われて、入ったばっかりだったんですよ。
でね、ちょっと興味があったんで、
僕としたら、公立の美術館渡り歩いて、一種プライベートじゃないですか。
公益財産法人ではあるけども、四つの会社がね、関係らしいっていう。
で、たとえば、禰豆美術館とか、僕関西だったんで、白鶴とか。
それから千億をね、韓国もそうですけどね。
三井美術館もそうなんですけど、ちょっと面白いことに気がついたのは、
たとえば禰豆さんとこ、禰豆海一郎も2代目なんですけどね。
で、2代目が、三菱もそうやったかな。
1980、70年代なんですよ、生まれたのが。
370年代。
で、その先代は、もちろん江戸時代にカステラのとこもあるんだけど、
1870年代の人たちって、官籍の所有もあるんですよ、学校で学ぶのは。
ところがね、いわゆる欧米の知識も、同じぐらい入ってくるんだよ。
でね、渋沢栄一がね、海一郎とか、1970年代の経営者ですよね。
それ連れてね、アメリカに研修旅行行くんだよ。
そのときにフィランソロフィー勉強するんだよ。
つまりロックフェラーもそうですし、カーネギーもそうかもしれないけど、
つまりアメリカが社会貢献なんだけどね、いろんなコレクションを見つけて作るっていう。
で、つまりヨーロッパの、たとえばわかりやすいと言うと、
僕らだって官籍の所有ゼロじゃないですか。
勉強した人は別やけど。
あの世代の人って完全に官籍の所有が一つの肉となってるわけじゃないですか。
人知識の中の一つね。
そうそう。だからその流れでいくと、今の細球像なんかの話もね、
その世代っていうかな、子供っていうか小学校、中学校、高校ぐらいまでの、
おそらく旧世代だと思うんだけど、
もう完全に古典形式の漢文、官籍、ラテン、ギリシャ語っていう教育を徹底的に受けるわけよね。
そういうのってね、ヨーロッパの絵を描いてるっていうか洋風の絵を描いてるかもしんないんだけども、
その人のレイヤーとしてさ。
所有として持ってるもんね。
なるんちゃうかなと思うな。
すごい真面目な話。
そうだと思うよ。
基本官籍ですよね。岡倉天神みたいな。
なんかすごいいい話が。
急に真面目な締め方を。
これまだまだ話はちょっと尽きないんですけども、
この後後半に。
前半はあれでしたけれども、引き続きこの後もトークを続けていきたいと思いますので。
後半はちょっと楽しい感じでさらに進めていきたいと思いますので、
この後もどうぞよろしくお願いいたします。
次回も3人をゲストにトークを続けていきたいと思います。
01:07:04

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