1. そろそろ美術の話を...
  2. #086 柳宗悦が直観で見出した..

日本民藝館 学芸員  古屋真弓さんをゲストに日本民藝館や柳宗悦についてお聴きしました。

https://sorosoro-art.vercel.app/ep/086 番組の感想は、⁠⁠⁠⁠⁠⁠#そろそろ美術の話を⁠⁠⁠⁠⁠⁠ でお願いいたします。

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Guest Profile

古屋 真弓(ふるや まゆみ)

  • 1974年生まれ。国際基督教大学卒業。2015年より日本民藝館の学芸員として、主に広報・教育普及・国際関係業務を担っている。
  • 担当した展覧会に「藍染の絞り 片野元彦の仕事」(2019年4月~6月)、「アイヌの美しき手仕事」(2020年9月~11月)、毎年開催される公募展「日本民藝館展」、「Silent Beauty」(フィンランド国立アテネウム美術館、2019年6月~10月)など。
  • 民藝を軸として、ものが生まれる土台となる社会や人の暮らしのあり方、異文化の受容に関心を持つ。

Show Notes

日本民藝館について

オープニングトーク

民藝についての話題

柳宗悦と親交があった人物

展覧会について

サマリー

本日、日本民芸館の学芸員である古屋真弓さんをゲストに迎えました。古屋さんはアートテラーの長い付き合いであり、アートが好きで、ラジオ番組や玉結びという番組を毎回楽しみに聞いていました。日本民芸館は柳宗悦さんが作った美術館で、民芸品が収集されています。学習院時代には、柳宗悦さんは西洋美術を紹介し、朝鮮のロダン彫刻を収集しました。その後、柳さんは朝鮮民族美術館を作り、民芸の考え方が広がっていきました。また、バーナード・リーチさんと濵田精二さんも柳さんと知り合い、長い友情が始まりました。河合勘次郎さんの作品についての展示を、濵田翔治さんが仲介し、実現させられ、三人が集まることになりました。今回は古屋真弓さんがゲストとして登場し、柳さんの美の発見や工芸の魅力についてお話しいただきました。

アートテラー・とにスと古屋さんの付き合い
アートテラー・とにスのそろそろ美術の話を。この番組は、私アートテラー・とにスが、アートに関わる方をゲストにお迎えして、トークを繰り広げるポッドキャスト番組です。
本日は、日本民芸館学芸員古屋真弓さんをゲストにトークをしていきたいと思います。
ご視聴ありがとうございます。
よろしくお願いします。
古屋さんとは結構付き合いが長いというか、だいぶ長いと思うんですけど。
そうなんですね。その全体像がわからないんで。
たぶんこの数ヶ月でぐっと距離が近づいたという。
というのも、僕が前に出演していた玉結びという番組があるんですけど。
もう熱狂的なファン。
本当にね。そもそもラジオが大好きなんですけど、玉結びは毎朝通勤時に必ず聞いていました。
どっちが先?僕が言いましたけど、玉結びはレリアが決まりましたって言ったんですか?
そうですね。そうですそうです。それは素晴らしいもの。
そうなんですよ。
で、最後の番組が終わる最終回が決まって、
それで出番があと3回しかないっていう時に、大吉さんに飲みに連れてってくださいみたいな話をしたみたいな。
そういう話とかも、ここに取材に来るために大吉さんと最後の玉結び情報を。
本当になんか良かったですね。
ぜひ日本民芸館に赤江さんは多分民芸好きだから絶対来てほしいって言って、
取材の帰り際にチケットをいただいて、これをぜひお渡ししてほしいって言われたんで。
最終回でしたね。
最終回が1個前ですね。
番組でじゃあ言っちゃおうみたいな。
本当は番組の収録終わってからにしようかなと思ったけど、
いやこれきっと古谷さん聞いてるから、番組中で言った方が面白いなと思ってお渡ししたんです。
ちょっとリアクションが来なかったんですよ、古谷さん。
今日来るかなと思って。
出張出てたんですよね。
韓国?
韓国からだとラジコが聞けなくて、空港着いて気になってたんで、
空港から家に帰るバスの中ですぐラジコを聞いて。
リスナーさんがツイッターかなんかでつぶやいたんですか?
私の知り合いがフェイスブックで、これは古谷さんに違いないって言うので、
名前は出してないですからね。
そうなんですよ、この学芸員さんって古谷さんでしょっていうのをあげていて、
それでもう放送中やってくる?私本当にそんなつもりじゃなくて、
渡していただければ十分だったので、
そう、まさか放送中でその大事な尺が決まっている、大事な時間を割いてくださっていると思ってなくて、
韓国で言ってることあったんですかね?
そう、ここをすぐに聞きました。
もう感動でした、本当に。
ありがとうございました、その説を。
いやいや、お役に立ててよかったなと。
そもそも博多花丸大吉さんがすごく好きなので、
お二人にも花丸さんの分までお渡ししてしまって、
そのくだりもやって。
そのこともちゃんとお話ししてくださって、ありがとうございました。
そんな縁もあって、
もう番組はいつか出て欲しいなと、こちらの番組にもと思っていたので、
古谷さんには出ていただきます。
よろしくお願いいたします。
日本民芸館の介紹
ということで、今日本民芸館で収録していますけど、
日本民芸館ってどういうところですか?
改めて教えてもらえたらと思います。
今ここに収録している場所は、
民芸館の道路挟んだ向かい側の、
柳宗吉という民芸館を作った人が住んでいたお家になるんですね。
ちょうどここが食堂で、
民芸館自体が1936年に開くんですけれども、
道路挟んだ向かい側のこちら側は1935年、
ちょうど1年前に開かれたんです。
今は美術館的には日誌館と呼んでいて、
1ヶ月に3回くらい、4回公開している日があって、
第2、第3の水曜日と土曜日だけいっぱい公開しているんですけど、
お家が先にできたんですね。自宅だからとおりですね。
そうですね。
それで道路挟んだ向かい側に民芸館というのができるんですけど、
そもそも民芸って言葉自体は馴染みのある言葉になってきて、
東京国立近代美術館で民芸の展覧会があったりとか、
年に1回はどこかの雑誌が民芸特集をしたり、
民芸の器とか、馴染みのある言葉になっていますよね。
民芸品とか民芸屋さんもあるし、
味の民芸みたいな、
関係ないですけど。
でもこれくらい民芸って言葉は、
なんとなくみんなイメージはボヤっとだけど、
若い人にも浸透しているのかなと思うんですけど、
そもそもその言葉を作ったのが柳宗吉たちで、
新しい概念、比較的。
昭和11年当時ってことですね。
そうですね。その当時は全く新しい概念で、
明治とか大正の人は別に民芸って言葉を使ってなかった?
ないですね。
1925年に柳宗吉たちが言葉を作ったんですよね。
命名して。
だから本当に新しい考え方で、
民芸館っていうのは新しい民芸っていうものを、
具体的に言葉ではなくて、
ものを見せることで、
人と共有をしよう。
これが民芸だよって浸透させる意味もあった?
そうですね。民芸っていうか美しさっていうことですけど、
浸透させる、共有するっていうふうに柳言ってますけど、
そのために建てられた美術館っていう感じですね。
1936年って言ったら相当古いですよね。
そうですね。昭和11年。
都内でも結構、
日本全国で見てもかなり初期の方ですよね。
美術館としては。
今でも民芸館って名前が付いてるとか結構あるんですよね。
日本中に。
そうですね。
ここがやっぱりスタートになる。
ここがスタートで、
三道社が結構たくさんいて、
各地域でそれぞれ、
たくさん美術館があるんですけど、
それぞれ成り立ちが違うっていうか、
初代館長になっている、開いた人も違うし、
時代違うんですけど、
でも結構ありますよね。
ここが一番相応なんて言い方あるかもしれないけど、
柳さんの考えが一番ダイレクトに出てくるところってことですね。
そうですね。
収集品の8割、9割ぐらいは柳収集なので、
やっぱり柳の目が、
神秘眼が通ってるっていうのは、
他とはやっぱり全く違うところじゃないかなと思います。
今収集中だけど、
今数は何点ぐらいあります?
公式発表で1万7000点。
ちょっと増えたりもしてるので、
もうちょっとありますけど、
そのぐらいありますね。
そのうちの9割だと、
少なくとも1万何千点は、
柳さん自身が選んでる。
すごいですよね。
1万何千点だって、
1回の展覧会というか、
展示でどれくらい出せてるんですか?
大体500点ぐらいですかね。
多くて500点ぐらい。
1年間で4回展覧会として、
2000点出るとしても、
重複してるんで。
10年通って、
ようやく全部見れるかな?
全部違うもの展示したとしてもね。
そんなにあるんですか?
まだ今でも、
こんなの見たことなかったっていうものは、
私なんて全然新しい王なんで、
いっぱいありますし、
古谷さん自身のお客さんがではなくて。
じゃなくて、
退職されて、
長いこと民間にいらした方でも、
こんなのあったねっていうふうに、
コメントされることもあるんで。
見え方も違ったりするんですよ。
隣に何があるかとかで。
見え方も違うから、
ハッとするっていうね。
どういうふうに収集されてるんですか?
普段。
保管されてるんですか?
保管は、
収蔵庫に何か所か。
敷地内に収蔵庫はありますけど。
ものによっては、
小さなものもいっぱいあるじゃないですか。
そうですね。
物によりますね。
やっぱり、
奥から出てきたりするわけですよね。
そうですね。
結構なからさ。
そうですね。
そこで改めて聞きたいんですけど、
柳宗悦の民芸の概念
民芸って、
ジャンルも広いと思うんですけど、
そもそも民芸って、
何ですか?
民衆的工芸の略で、
民芸になったものですけど、
それまでって、
美術館っていうのは、
偉大な画家たちとか、
芸術家たちの作品を展示する場所で、
そういうものが、
鑑賞の対象で、
美しいものってされてたんですけど、
柳が、
人々の暮らしの中で、
使われるために、
作られているものの中にこそ、
真の美があるっていうふうに、
発見して、
それを収集したものが、
民芸なので、
すごく、
簡単に言ってしまえば、
生活の中で、
使われるために、
作られたもの、
っていうことですよね。
でも、
それって言ったら、
いっぱいあるじゃないですか、
山ほど、そんなものが。
その中で、
真美眼はどういうところに?
それは柳の、
柳の言うところ、
直感で、直感って言っても、
直に見て、そこに美しさを見出している、
っていうことなんですけど、
感覚的に、
これっていうような、
直感の漢の字が、
感動の漢じゃなくて、
観察の漢を書くんですけど、
ちょっと誤解されやすいのは、
感覚的に、
パッと、
きらめき、
きらめきで、
選んでいるっていうのとは、
ちょっと違う、
直に見て、
美しさを見出している、
っていう感じ。
それの真美眼をどうやって、
柳が育てたのかっていうのは、
ちょっとね、
そこまで、
それを持って生まれたもの、
って言ってしまったら、
それまでなんですけど、
でも、
種造品を見れば見るほど、
いやー、すごい人だなって、
毎回思いますね。
なんか、
全然、ジャンルも色々、
漆もあれば、
鉱品もあるし、仏像もあるし、
でもなんか、
一人の人が選んでいるんだろうなっていう、
通ずるものはありますよね。
作者も絶対バラバラだし、
それもあれですもんね。
日本のものにも限ってないですよね。
生活の中の、
使われるために作られたものの中に、
美しさがあるっていう風に、
柳の目を開かせた、
きっかけは、
そもそも朝鮮半島で作られた、
一つの壺、
染め付けの壺なので、
もうそれこそ、
そこで感動してしまって、
それで、
これはどんなアーティストが作ったのか、
って持ってきてくれた人に、
お土産として受け取ったんですけど、
っていう風に聞いたら、
生活の中で使われているもので、
特に芸術家が作ったものではない、
っていう風に聞いて、
そこからも心を動かされて、
それは柳さんは何歳ぐらいですか?
まだ20代ですね。
26とかですね。
25か。
そこからそっちの世界に?
そうです。
心を動かされてからの、
行動が入ってくるんですね。
だから、
心を動かされてからの、
行動が速くて、
速くて深いんですよね。
そこで感動して、
私たちだったら、
本人なので、
終わるじゃないですか。
好きなものとして置いていって、
めでたとしても、
当時、朝鮮半島に渡るって、
今みたいに、
飛行機で行けるところではないし、
船で行かなきゃいけない、
大変なところだったけれども、
すぐに、
現地に行って、
収集して、
そこで感動して、
っていうのを繰り返すんですよね。
そもそも25歳の時は、
何されてたんですか?
えっと、
宗教哲学者っていうのが、
一番いいのかもしれないですけど、
そもそも、
学習院に通っていて、
柳宗悦の活動の始まり
学習院時代に、
しがなおやとか、
武者の工事さんのやつとかが、
同期ってことですか?
同期ではないですけど、
年齢はそれぞれ違いますけど、
一緒に行って、
雑誌の、
白樺っていうのが、
文系雑誌であるんですけど、
それの創刊に、
一番最年少として、
柳は参加するんですよね。
そこで、
そもそも西洋美術を
紹介して、
西洋美術を紹介したりとか、
ゴッホとか、
白樺とか、
ミレーとか、
そうですね。
最初は西洋美術の人だったというか、
思想とか、
そういうのを紹介していて、
いち早く、
それを日本に紹介していた、
活動をしてましたね。
白樺で。
でもその流れで、
朝鮮民族美術館の創設
やっている最中に、
朝鮮発音の。
そうですね。
白樺で、ロダンを特集することになったんですよ。
ロダンを特集するときに、
自分たちはロダンの彫刻を
持っていないと。
紹介するのに、彫刻がない、
作品がないのはっていうので、
ロダンに彼らは手紙を書いて、
あなたの作品を、
日本の自分たちに送ってくれないか、
というふうに頼みました。
すごいですね。
ロダンは当時は、
大物ですよね。
知られた。
島風に、急に手紙で。
そうですね。
ロダンもロダンで、
それに答えてくれて、
自分の作品を日本に送ってくれて、
それで紹介をしていて、
そのロダンが送ってくれた彫刻を、
その時、
柳が当時住んでいた、
美孔のお家に、
置いていたんですね。
それを見に、
朝川範さんという、
朝鮮半島で小学校の先生をしていて、
彫刻家を志していて、
白樺の熱心な
読者だった方がいて、
その方が、
ロダンの彫刻を、
実物を見たいというふうに、
訪ねていたんですよ。
すごい話だけど、
痛い読者でもありますけど、
すごいですよね。
見たいがために。
いい時代ですよね。
その時に、
お土産として、
持ってきたのが、
朝鮮のメントリ図庫だったんですよ。
それで、
そこがまた始まるというか、
それで、
心を動かして、
朝川さんたちの、
朝川兄弟、匠さんという弟がいて、
その二人の力添えもあって、
朝鮮半島に渡って、
柳は収集活動ができた。
そのお金はどこにあった?
そんなにお金はなくて、
そもそも今でこそ、
朝鮮のものとかって、
ものすごく高くなってますけど、
朝鮮半島で、
何でも判定案とか出たら、
結構な利益じゃない?
そうですよね。
それでも、
やっぱり収集家はいたと、
聞いてますけど、
それでも、
一応、雑費と言われて、
雑費と言われるような、
ものを集めているので、
他の人が、
目を向けないようなものに、
目を向けたというところで、
そんなに資金がかかっていない、
というのと、
あとやっぱり立派なのが、
金子さんという奥様で、
奥様は政学家だったんですね。
例えば、
柳が朝鮮半島に渡ります、
旅行費が必要です、
ってなったら、
リサイタルを開いて、
その資金を集めるのに、
協力するんです。
金子さんがいなかったら、
でもリサイタル開いて、
お金が集まるってことは、
それだけ有名だったと。
そうですね。
どのくらい有名だったか、
ちょっと分からないですけど、
そうですね。
でもちゃんと音楽界として、
金子さんは、
亡くなる前まで、
着物を着て、
リサイタルを開いていらっしゃるような、
大学でも教えたりとか、
されてたので、
はい。
それが一応収入源というか、
そうですね。
柳氏も現行界だとか、
サラリーマン的な仕事も、
一つ一つってことなのか。
で、朝鮮で買ってきて、
その段階では、
民芸って言葉もないし、
そうですね。
そこからどういう流れがあったら、
民芸家の誕生までいくんですか?
まず買ってきました。
でもその時っていうのは、
日本が朝鮮半島を支配している時代で、
そういう政策に、
柳は反対を示して、
こんなに美しいものを作る人たち、
そのものだけじゃなくて、
その後ろにいる人にも目を向けていて、
その人たちっていうのは、
あなたたちは素晴らしいんだっていうことを、
誇りを持つように、
っていうのを伝えるために、
まず朝鮮民族美術館っていうのを、
開こうっていうふうに決めて、
で、実際に開くんです。
それを朝鮮に作る?
そうです。
今のソウルに、
朝鮮民族美術館っていうのを、
京阜区の中にある集計棟に作ったんですよ。
それは何年くらい?
それが1924年。
日本民芸画が36年にできているから、
12年前に作っているんですか?
そうなんです。
そもそも自分で収集したものを、
ただの収集家じゃないんですよ。
収集して満足しているっていう人ではなくて、
そこには何かしらの使命があって、
それをちゃんと展示して、
共有のものにするっていう姿勢は、
そもそも白樺の時代から、
白樺美術館っていうのを設立しようという計画もあったんですよ。
それは実現しなかったんですけど。
でもそのイメージのものは、今清原芸術館もあって、
山梨市にありますよね、白樺の方に。
そういうのもあって、
朝鮮民族美術館を作って、
その後にまた上野で博覧会があったんですけど、
その時に民芸館っていうので、
パピリオンみたいなのを出品しているんですよ。
その時には民芸ってことが誕生しているんですか?
そうです。
でも白樺でも発表していたりしてたんですか?
民芸特集とか。
いやいや、私は白樺ではないですね。
結構著書も多いじゃないですか。
民芸っていうのを雑誌とかで広めていく感じですか?
そうですね。雑誌工芸っていうのを山梨たちは作っていまして、
そこで毎号特集がそれぞれあって、
例えば安藤皿とか、
ちょっとパッと出てこないですけど、
沖縄の読め物とか沖縄の陶器とか、
そういう毎号特集があって、
それで紹介をするっていうかなりしっかりした雑誌。
毎月ですか?
毎月を目標に、ちょっとずれたりとかはしてますけど、
どれくらいの関数で出たんですか?
120巻で出たんですね。
結構いろいろ特集を踏んでるんですか?
そうですね。
しかも紙にもこだわり、和紙を使って、
レイアウトとかも全部山梨が監修をして、
最初の方は芹澤圭介さんにお願いをして、
全部手仕事ですよね、もちろん。
それが印刷会社に頼まれてるんじゃなくて?
そうですね。
だからそれ自体が工芸と呼べるような、
美しい雑誌が出てます。
今でこそ話が飛んじゃうかもしれないけど、
日本民芸館ってかなり世界中の人も来るような、
人気のスポットだと言っても、
場所としてはあまり繁華街じゃないじゃないですか。
これ昭和11年に誕生してから、
結構早い段階からいろんな人が集まったんですか?
それともじわじわ?
そうですね。過去の記録を読むと、
あまりいらしてないみたいです、来館者は。
柳の言葉に、日本の人はあまり来なくて、
でも外国の人には最初の方から人気があったみたいで、
外国人はよく来るっていうようなことは書いてありますね。
じゃあこの民芸って言葉が広まったのは、
大きな転機ってあったんですか?
美術館できてすぐってわけじゃないってことですね。
そうですね。でもその時にも、
そういうちょっと変わった美術館という風に、
新聞にも書かれたみたいですけど、
出来て話題になって、
その時にやっぱり柳存明中は民芸ブームじゃないですけど、
第一次民芸ブームみたいなのがあったみたいで、
それはいつぐらいですか?
柳、開館してからじわじわと広まり、
柳存明中まではあったんじゃないですかね。
柳さんはちなみに何年まで?
1961年ですね。いなくなってます。
その後ちょっと苦難の時代があり、
第二次民芸ブームっていうのも来ていて、
その時にはディスカバージャパンっていうのがあって、
NJRのキャンペーンですね。日本中旅しようみたいな。
それで民芸っていうのが、
そもそも地域性っていうのをとても大事にしているので、
その辺とちょっとシンクロして、
その時にはどっちかっていうとお土産物屋みたいな、
ローカルな、今でもちょっと温泉とか、
韓国とかに行くと民芸とかいて、コマとか、
コケ紙とかなんかちょっと売ってたりするじゃないですか。
通行手形とか。
だからその当時ですかね、ペガントとか売ってたじゃないですか。
今見ないけど、あれ何なんすかねって思いますよね。
でもなんか買ってるみたいな。修学旅行行くと買ってるみたいな。
なんとなど町賃、なんかちっちゃい町賃ありましたよね。
そういうイメージでちょっと誤解がその時には。
それは日本民芸館的には民芸ではない。
もちろん全然。全く民芸ではないと思いますけど、
でもそういうイメージで各地に広がってしまって、
だからある年齢層には民芸っていうと、
なんとなく地方のお土産物屋みたいなイメージを
木彫りのクマとか。
持ってる方もいらっしゃるみたいですね。
言葉が拡大解釈されちゃったんですね。
でももうそこからでも浸透して、
でもそれで浸透しちゃって、みんな当たり前に使うようになったのかもしれない。
そうですね、言葉としてはね。
ちょっと話に戻るんですけど、
民芸の浸透と仲間たち
柳さんがいて仲間たちがいるじゃないですか。
その仲間たちはどうやって知り合ってたんですか?
例えばバーナード・リーチさんがまず初めにいて、
バーナード・リーチさんは柳たち、
白樺のメンバーにエッチングを教えてたんですね。
イギリスの方ですね、バーナード・リーチさん。
そうですね、陶芸家のイギリスの。
そこで柳とは知り合いになっていて、
柳が阿鼻子に引っ越した時に、
阿鼻子の柳の敷地内にリーチさんが窯を作っていたんですね。
そこに一緒にいたんです。
リーチは陶芸家としてスタートしていたので、
リーチを訪ねて濵田精二が阿鼻子に来たんですよ。
そこで柳さんのお家のところにあるので、
そこで柳さんと知り合って、
そこで生涯の友情が始まるという感じですね。
濵田さんも実際に阿鼻子に濵田さん公館という、
日本民芸館みたいな感じの民芸を作ったりとか。
ずっと住んでいたところが、一部今美術館になっていますね。
濵田さんもいて。
濵田さんはその後リーチと一緒にイギリスに渡って、
センタイブスでリーチポタリを開く。
その時に3年間滞在するんですけど、
それで関東大震災があって、
日本から濵田に知らせがあって、濵田は帰国するんです。
震災があって心配で帰国したはずなのに、
なぜか濵田は、河合勘次郎とは同窓生なんですよ。
京都にいる河合勘次郎のところに、濵田は行くんですね。
その当時柳は、関東大震災の騒ぎが逃れるために京都にいたんです。
それで濵田と柳は知っているじゃないですか。
河合勘次郎と柳というのは、
河合勘次郎と柳宗悦の出会い
河合勘次郎が陶芸家としてスタートした頃に展示をしているんですけど、
その当時、河合先生が作っていたものって、朝鮮とかのものに偉く心を奪われていたので、
その模倣じゃないですけど、模倣とはまでは言わないけれども、
柳はそれを見て批判したんですよね。
そうしたことがあって、昔。
それから距離のある二人だったんだけれども、
濵田がイギリスからスリープウェアとか焼き物を、
同じものに心を動かされるっていう仲間として、濵田の仲立ちもあって、
濵田は朝鮮じゃなくてイギリスにいたからね。
それで帰国した時に濵田仲立ちもあって、河合と柳はそこでご対面をして、
昔の和高まりも亡くなって、息統合をして、その三人が集うっていうか。
そういう感じで仲良くなっていたんですか?
そうですね。
濵田がいなかったら、中高井様も。
そうかもしれないですね。
柳宗悦と濵田翔治の交流
同じものに美しいって感動し合える仲間だったっていうのも大きいと思います。
それでちょっと気になっていたんですけど、
民芸の展覧会をやると、濵田翔治作とか河合勘次郎の作品も紹介されるじゃないですか。
でも、もともとスタート時点で民芸というのは名もなき作家が作ったってなって、
ここにたまに矛盾を感じるというか。
濵田とか河合とかは作家ですよね。
それは別に、濵田とか河合が作ったものを民芸とは誰も言ってないと思うんですよね。
でも、よく紹介されるのは、濵田も河合も民芸の考えを持った人が作ってる作品だから。
そうですね。
あと、民芸を手本にしてるっていうんですかね。
そこを目指して自分たちが作党をしているっていう。
もう作家ではあるけれども、作風が変わっていくので生涯とは言わないですけど、
例えば自分の名前を売るためにとか、有名になりたいから作品を作っているわけではないっていうところが、
言うなれば民芸作家という感じなんですかね。
先ほど出た専職家の芹澤圭介も、やっぱりそういうタイプらしくて。
この柳さんとの直接繋がりがあった人もいますけど、
柳さんが今亡くなったこの後も、結構日本民芸館でも作家の作品を紹介したりするじゃないですか。
その線引きはどうして、今のこの人たちは民芸の人として扱おうじゃないけど。
あ、作家をってことですか。
それはなかなか難しいですよね。
でも一つには、日本民芸館展というのがあって、それは公募展になるんですけど。
ここは年に一回やってるやつですね。
はい。それは全国どなたでも、民芸という思想に共感をして、
そこを自分の制作の基盤としてやっているっていうことを、一応趣旨として公募しているので、
そこで審査をして、入選と純入選と落選等に分けて、
入選と純入選の作品は展示をしているんですね。
その時の、これは古屋さん的に答えづらかったなと言っていいですけど、
この人はちょっと民芸じゃねえなとか、この人はちゃんと民芸をリスペクトしてるなっていうのは、見てパッとわかるもんね。
明らかに違う方もいらっしゃるので。
それはどういう感じなんですか。作家性が強すぎるみたいなもんですか。
そういう方も装飾性が強い方もいらっしゃいますし、
あとはそれこそ土産物のイメージで作られたんだなっていうとか、
あと生活の中で使われるためだったらいいんでしょうみたいな。
そう思っていらっしゃらないかもしれないですけど。
受け取れちゃうっていう。
不安いなものとかもあるので、その辺はわかりますけど。
結構章としては難しいですよね。
難しいと思います。
他の公募店ももちろん難しいと思うけど、自分がいいと思うものとか美しいと思うものを作ればいいっていうのが大体公募店の勝負だとしたら、
民芸かどうかの審査っていうのって。
民芸かどうかで審査をしているっていうよりも、
そこに人の心を用としてもちゃんと成り立っていて、
人の心を何かしら引き付けるものがあるっていうところで審査の先生は判断してるんだと思いますけど、
そこが民芸か民芸じゃないかって言っちゃうと、
すごく民芸が条件として、これとこれとこれをクリアすれば民芸ねみたいなそういうものになってしまうので、
決してそういうものではないっていうのが大事なところじゃないかなと思いますけど。
それはだから柳さんが民芸の収集するときもそこで見てたってことですね。
条件とかで見てるわけでもないし、
こことこことここクリアしてるから、はいこれ民芸って言ったわけでは決してなくて、
いろいろ集めて、美しいなと思うものを集めて、
なんでこれらがこんなに美しいんだろうっていうことを考えて、
民芸館展での作品紹介とセレクトショップの比較
これは生活の中で使われるために作られてるんだとか、
自然の素材を生かしきっているんだとか、
それから誰かの生活が良くなるように祈りが込められていたりとか、
そういうことが見えてきたっていうので、
民芸っていうのはこういうものであるっていうふうに発表したわけですね。
それが逆になっちゃうと、またちょっと違うかなっていう。
なるほどなるほど。
結構そこは難しいですけど、何回も見ていかないとわからないというか。
だから民芸館も僕もだからそれこそ何度も来るようになって、
だんだんわかってきました。
やっぱり最初いろんな美術、それこそアートテラーとしていろんな美術館見に行って、
何も知らないといいですよっていろんな美術館に行って、
あ、民芸館ってのもあるんだと思って行った時には、
やっぱり最初は正直戸惑ったというか、あれ絵画もないし、
あったとしてもなんか昔のペタズマみたいな絵らしい。
何を良しとする?
例えばお皿とかも作家さんのものじゃないわけじゃん。
お婆ちゃん家にあるのと何が違うんだろうとか、
戸惑ったけど何度も来るうちに、
日本民芸館のみんなが選んでるセレクションの良し悪しというのがわかってきて、
だんだんなじんでいった感じはあるので。
だからいかにこれは誰々が作ったものだからっていうので、
ものを見てるかっていうことなんだと思う私たちが普段。
だからそういう、誰が作ったんだろうっていうのに頼ってたりとか、
あとこんな、例えば殿様が使っていましたみたいな、
これだけの材料をふんだんに使ってますみたいな説明書きで、
なるほどすごいんだって理解してるとか、
そういう目でしかいられてないんだなっていうことが、
だから民芸館みたいなところに来ると説明書きもないし、
じゃあ自分の目で見ろって言われて、
そういうのに慣れてない人にとってみたら、
すごくハードルが高くて不安じゃないですか。
何を良いと思っていいんだろうみたいな。
でもそこを乗り越えてほしいっていうか、
それでまずその不安を知るっていうのもまず第一歩で、
自分の中にその主軸がないっていうか、
でも例えば外国の方なんかにとってみたら、
もっとキャプションがないわけですよ。
残念ながら日本語でしかキャプションを出していないので。
でもそんなことは本当は問題じゃないっていうか、
そういうのじゃなくパッと見て、
今すごく外国のお客様多いんですけど、
それですごく満足して書いてくださっているのを見ると、
偏見なくものを見て、
その美しさを感じ取ってくださっているのかなっていうふうに思います。
そうですよね、キャプションがなくて、
一回キャプションの取材をしたことがあるんですよね。
そうですよね、そうでしたね。
変わってて黒い板に種で書いてあるんですけど、
元々はそれすらも置かない予定だったって言ってましたね。
一番大事なのが柳さんの考えで。
そうですね、そうですね。
親切だってその当時にも言われてたみたいで、
それで悩んで柳は。
他の美術館なんかにも行って、見てる人を観察して、
そうするとやっぱりあまりにも説明が多いと、
みんな物は見てないと。
じゃあ物も見てほしいし、
その美しさ展示っていうのも創作だから、
その美しさを損なわないのにどうすればいいかっていうのを考えに考えて、
黒に種で書く、最低限の情報っていうのが一番いいだろうということでそうなって、
それをずっと踏襲しているって感じです。
すごいですね、今まで手書きですもんね。
そうですね。
でもそれを聞いて思ったんですけど、
確かに美術館最初に来た時にほんと戸惑って説明もないですし、
と思ったんですけど、
ちょっと語弊があったんですけど、
好きなセレクトショップあるじゃん、僕の中で。
そこ行った時はもう別に説明ないじゃないですか、セレクトショップ。
でもこのお店が選んでる物だから、
ここにある物は全部好きだなって思うんですよ。
だからセレクトショップと一緒にしてるわけではないけども、
日本美術館はそこに近くて、
柳さんっていう選手がいて、
この人が選んでる物を目で見くるみたいな感覚。
そうですよね、それってすごくいいと思います。
身を委ねちゃうっていうか、
そこもすごく自分も素直になって、
しゃに構えて何かこう言ってやろうじゃないけど、
そういうのとか何も考えずに、
ただ委ねて見るっていう、
それも直感の一つだと思うので、
本当に偏見のない人だったと思うんですよね、
委ねをして。
だから見る人もそうあると、
すごくいいと思います、セレクトショップっていう。
本当ですか、ありがたい。
でも柳由美さん、偏見ないって聞いたことがあるんですけど、
これも聞いたんですけど、
コケシだけは集めなかったみたいな。
別にそこにこだわって、
コケシだから集めないっていうわけではなかったと思いますけど、
実際に黒コケシっていう何も模様が書いてないのは1個あるんですよね、
集蔵品に。
だからそこに、何て言うんだろう、
本当こだわった。
でもその一万何千ってあるとかで、
その中でも柳由美が特別これは好きだったとか、
心にその美術館のマスターピース的なのって言われたら何になるんですか?
ちょっと1点っていうのは難しいと思いますけど、
柳由美が特に大切にしていたものは、
収納する箱に力が入っているので、
そこに仏言って言って、
短い言葉を書いていたりするんですよ、
そのものについての褒める言葉であったりとか、
特徴を言うような言葉を寄せているものがあって、
そういうものは特に大切にしていたんだなというのが分かりますね。
僕、いくつか挙げられたりしますよね。
えーとね、真っ直ぐには出てこないかな。
でも民芸館のパンフレットだと、
この表紙はあれですよね、
木軸の。
これは毎年、
そうですね、年間予定で書いていて、
木軸物もとても大切な作品なので、
大切にしていたと思いますけど、
これは次の展覧会に向けて選んでいます。
でも、500点くらいいつも見れるわけですから、
名品も出ていると思うんですけども、
聞いた話だと、
このオンエアが7月8日、
そして7月8日からですか、
でかい民芸展がちょうど始まっているという、
民芸館にももちろん皆さん来ていただきたいですけど。
大阪中野島美術館で、
民芸展という、
美は暮らしの中にあるという展覧会が、
ちょうど始まっていまして、
これは民芸館の作品が中心になって、
あとは静岡の清沢圭介美術館とか、
いくつか貸し出しありますけど、
これは外の企画なんですけど、
大阪から始まって、
いわき、世田谷、富山、名古屋、福岡、広島って、
結構全国ツアーですね。
そうなんですよ。巡回するんです。
それずっと、日本民芸館の名品が回るってことですか。
そうですね。1年半、2年近くかけて、
全国を巡回しますね。
普通に考えたら、
そういうのって、
海外の組織の、
その本館が、
柳宗悦と日本民藝館の関係
改修工事するんで、
名品貸し出して、
なんとかみたいになるけど、
その期間も日本民芸館は空いてるってことですか。
もちろんです。
それだけ出しても、
全然遺作も書いてないというのは失礼ですけど、
去年のそれこそ、
東京国立近代美術館でやったやつも、
ほとんど日本民芸館の名品になってます。
その時も聞かれました。
日本民芸館はお休みするんですか、
という問い合わせは結構ありました。
でも関係ないってことですね。
関係ないですね。
東京国立近代美術館でやった民芸館も、
だいぶでかい民芸属じゃないですか。
今回はまた違うんですか、
その民芸展とは。
そうですね。
どっちからかというと、
現代につなげるとか、
生活のライフスタイルみたいなところに、
フューチャーした展覧会かなと思います。
参照立てになっていて、
最後の部分はビームスさんがちょっと関わって、
今の現代の人たちのものがセレクトされて、
一緒に並んだりとかするみたいですね。
主催は民芸館じゃないので、
詳細はお問い合わせくださいという感じですけど。
でも日本民芸館の名品も見れるというか、
ほとんど見れるということですね。
はいはい、いろいろ出ますね。
面白いと思います。
そしてさらにですよね、
今手元にいる。
それこそ日本民芸館と現代の作家の関わりというと、
湯之久三郎さん、大吉さんと赤江さんにも渡したのも、
湯之久三郎展のチケットでしたからね。
すごいいい展覧会でしたけど、それも。
そうですね。
8月の23日から、
こちらは高島屋さん、大阪の高島屋さんが先になるんですけど、
湯之久三郎と仲間たちという展覧会が始まります。
百貨店さんでの展覧会なので、
ちょっとそれぞれ会期が短いんですけど、
大阪が8月23日から9月3日までで、
その後東京の日本橋に移って、
9月6日から9月25日まで開催します。
これは製飾家の湯之久三郎さんと、
湯之久先生は今100歳を迎えられていて、
今なお現役で、
ちょっとポッドキャストって見ていただけないですけど、
この大字は湯之久先生が今回この展覧会のために彫ってくださったんですよ。
書いたのに彫ったんですか。
肩彫りしてくださって、染めてくださったんですけど、
現役でそういう活動もされていて、
でもその湯之久先生が、
自分はラッキーなことにこの年まで生きてるけれども、
自分は一緒に歩んできた仲間たちっていうのがいたんだっていう、
そういう人たちもきちんと紹介されるべきだっていう風に、
すごい強い思っていらして、
今回湯之久三郎と仲間たちっていう風にして、
同時代を一緒に歩まれた陶芸家の竹内誠二郎さんとか、
船木賢治さんとか、
それから猪木先生が、
芹澤圭介さんに支持してずっといらしたんですけど、
芹澤圭介さんを中心に作られていた、
萌木会っていう染色家の集団があって、
その萌木会に名前をつらねていた、
作家さんたちの作品も、
そんなにたくさんではないですけど、
展示をします。
湯之久さんと日本民芸館のつながりはいつぐらいから?
湯之久先生はそもそものスタートとして、
民芸に関わっていらして、
もともと大原美術館で、
戦後働いていて、
そこで雑誌工芸に出会って、
その当時大原美術館ってお客さん少なかったんですって。
それで仕事が暇だったから、
工芸を読む時間があって、
その考え方にすごく惹かれて、
大原美術館の売店で、
芹澤圭介さんが作った型染めのカレンダーも見て、
すごい心を動かされて、
その時の大原美術館の館長さんが、
竹内清美さんという方で、
その方は柳先生とも交流もあった方で、
柳先生の信仰者だったんですよ。
だから大原美術館に民芸館みたいなのもあるんですか?
そうですね。
芹澤先生がデザインして。
そもそも民芸館ができたのは、
話に戻りますけど、
大原孫桜さんという立派な方の寄付があっての、
そうなんですか。
ちょうどここじゃなくて、
違う部屋ですけど、
西館に大原孫桜さんが、
大原美術館を作った人ですよね。
そうです。
長屋門という民芸館の西館の方も見にいらして、
その時に民芸館の設立の話があって、
自分が資金提供しようと言って、
当時のお金10万円をポンと出してくださったんです。
当時のお金10万円、今にすると10万円なんですか?
調べたんですけど、
いろいろ説があって、
何を基準にするかで違うみたいなんですけど、
企業物価指数で考えると、
636倍なので、
商売2年なんですけど、
もうちょっと上かもしれないけど、
6千万くらい?
でもお米の値段で換算すると、
818倍だったので、
1万くらいのお金を出してくださって、
他にも賛同者がいっぱいいて、
小原さんが一番多額なお金を出してくださいましたけど、
その資金があったからこそ。
すごく失礼な言い方をするんですけど、
民芸館ってすごくいい感じの建物で、
そんなにお金がかかっているとは思ってなかったんですけど、
今できるととんでもない、
1千万ものができたくらいの金額ですよね、6千万。
そうですね、お金かかってる。
かかって作ってるんですね。
それかもしかしたらかかってない方なのかもしれないですよね。
それでもですか。
やっぱりあれだけのものを建てるって、
結構なお金かかると思うので、
そんなにすごく立派な素材を使ってるわけではなさそうなので、
かかってない方かもしれないです。
もしかしたらそのお金で新しく収集してたかもしれないですよね。
いただいたお金の中で。
いやいや、それはさすがに。
それで青原で働いてた柳さんが、
柳さんが、
そうですね、それで紹介してもらって、民芸館を訪ねて、
柳先生の紹介で星座先生とも会って、
そうなんですか。
それで星座圭介に、こういうふうに修行するといいよってアドバイスをもらって、
静岡の方の講演講座さんに弟子入りするっていうのが、
そもそもの柳先生のスタートで、
民芸館にもししげく通われていて、
柳宗悦の目磁器収集
展示もずっとやってらしたので、民芸館での展示替え。
展示替えの作業を柳さんがやってた。
職員じゃないのに。
職員じゃない。当時はそういう作り手さんたちとか、
民芸運動に関わっている人たちが、
展示替えにかなり関わって、
みなさんでやってたみたいですね。
今改めて思ったとき、柳さんは100歳までって言うからあれですけど、
柳さんとかって、結構歴史の人物だと思ってたんですけど、
全然普通に高齢されてたってことですね。
そうです。
それこそですよね。
生きしめきみたいな。
そうですね、なかなかそういう方いらっしゃらなくなっちゃって。
日本民芸館のショーの展覧会の時のポスターとかも柳さんですよね。
そうですね。結構長い間、柳先生が作っていらして、
今のポスターも柳先生にご許可いただいて、
数字だけこちらで入れ替えて使わせてもらってます。
そういう繋がりなんですね。
そうですね。
審査もされてました、柳先生は。
そうなんですね。
本当に日本民芸館にとっても重要な活動ですよね。
そうですね。柳先生にとっても、
やっぱり民芸館がとても重要な場所だというふうに思っていらっしゃいますね。
それこそフレイミュージアムってところで柳さんの展覧会が大々的にあって、
それもすごい面白かった。
この番組でも紹介したんですけど、
その翌年、今年の頭に柳さんが日本民芸館に出たんですよ。
どっちがいいって言うのもちょっと失礼なかもしれないけど、
やっぱりこっちで見た方が落ち着くというか、
なんか収まるべきところに収まった感じがして、
やっぱりすごくそれは面白かった。
両方見たから言えるかもしれないですけど。
そうですね。だからまたちょっと百貨店で見ると、
またちょっと違って見えるんだと思いますけど、
空間も大事ですからね、どういう空間で見るかってね。
あれですね、今大阪も紹介しましたし、
百貨店の展覧会も紹介したんですけど、
肝心の日本民芸館ではどんな展覧会が今行われているんでしょうか。
今はちょっと渋いというか、
製造・仏造・彫装っていう展覧会で、
柳の収蔵品を彫刻っていう観点で収集した、
特集した展覧会を開催しています。
もともとちょっと出た目磁器物。
そうですね。目磁器民芸館に7体あるんですけど、
それは全部展示しているので、
目磁器物ってやっぱりファンが多くて、
今見られますかっていう問い合わせ、
多分ナンバーワンなんですよ。
そうなんですか。目磁器物は。
はい。目磁器物は。
柳の目磁器って江戸の人ですね。
江戸時代のお坊さんが作った、
ちょっと味わい深いもとめですね。
男性なというよりは。
美少物って言われてるぐらい、
この前に出すとちょっと微笑んでしまうというか、
本当に手を合わせていかれる方が多いですよ。
やっぱりそういう民間の信仰の対象なんだなっていうのが、
とてもよくわかる。
柳さんはどこで手を合ったんですか?
これは話すのが難しくなりますが。
朝鮮にまず行ってたじゃないですか。
その当時に、
山梨に朝鮮の当時の収集家がいるっていうので、
その収集品を見に、
小宮山さんという方を訪ねるんですよ。
そしたらその時に、朝鮮当時目的で行ったんですけど、
玄関入って暗がりのところに、
ハッと目を向けたら、
目的物があったんですよ。
小宮山さんという方が収集してたものだと。
お持ちのもので、
ただその当時って目的物っていうのは、
特に注目はされていなくて、
誰も実像というか全体像を知らなくて、
もちろん美の対象でもなかったものなんですけど、
柳はもうそれに惹かれて、
さっきの朝鮮島じゃないですけど、
それでこれはなんだっていうので、
それを小宮山さんに感動を伝えて、
小宮山さんが目的物を柳先生に贈るんですよね。
そこから始まって、
柳は目的物調査っていうのをすぐ始めて、
320体だったかなぐらい、
自分が集めたわけではなくて、
実像を全国をいろいろ旅して歩いて、
発見して、撮影もして、
すごい立派な本を表しているんです。
工芸品の民芸化
昭和初期の感じですか?
今だったらネットとかで、
目的どこで検索すればあってもいけますけど、
そんなダメなんですよ。
尋ね歩くんですか、目的がどこで。
それも金子さんが目的物の調査のための、
音楽会というのを開いています。
すごいですね。
それでも目的物を調査するために、
全国を歩いたおかげで、
その土地に、
例えば台所とかにある蕎麦チョコとか、
それから仏壇に飾られている、
民間の仏具とか、
そういうものに心を動かされていくんですよ。
目的は先なんですね。
目的調査した結果続いて、
日本での民芸品が分かったんですか。
そうなんです。
それがやった意味があったんですね。
そうですね。目的だけじゃなくて、
そこに絵もいわれぬ感動するものが、
こんなにたくさんあるっていうので、
集めていくんです。
古屋真弓さんの美術の話
目的だってコレクションするわけじゃなくて、
集めて回ったって聞いて、
何のためにと思ったんだけど、
一回やったらよかったんですよ。
全部を明らかにして、
本にして紹介したい、
こんな素晴らしいものがあるっていうのを紹介したい、
っていう熱意ですよね。
すごいと思います、本当に。
全然足元にも及ばないんですけど、
ちょっと通ずるというか、
面白いと思ったものを広めたいっていう仕事だから、
気持ちは分かりましたけど、
ただその自分でも、
初めて見た目的見たからといって、
日本全国回って、
出版しようまでは思わないから。
しかもこれ評価されてないものだから、
そこに揺るぎない自分の目に対する自信というか、
信念がないとできないですよね、なかなか。
でも日本全国回った中で、
結局集めたのは7点ですか?
そうですね。
やっぱりこれはそこの土地で、
みなさんが生活の中で祈るためのものなので、
7体だけここにあるだけでも、
それはすごいことなのかなと思います。
でも今回その7体が展覧会では全部?
そうですね。
これは過去にあったんですか?
あるはありますね。
ただそんな滅多にないですね。
ファンも多いぐらいですから、
1体出るだけでもみんな喜ぶのに、
今回7体。
それはぜひ見たいですね。
そのうちのどれが小宮山さんから?
これです。
今回のポスターに使われているやつですね。
地蔵菩薩祖。
地蔵菩薩祖、ぜひみなさんこれも見に来てください。
そうですね、手を合わせていただいて。
小宮山さんみたいな関心のお家の方が、
もし見たらビビッときて、
日本全国回っちゃうかもしれないですよね。
これを聞いて。
同じように。
ちょっと前にニュースで、
岡山県で目撃物が発見されたっていうニュースがありましたね。
小宮山さんも見てないものがあるんですね。
ぜひみなさん見に来ていただきたいと思います。
これはいつまで開催されているんでしょうか?
9月3日までですね。
ぜひみなさん足を運んでいただければと思います。
この後、さらなる話は後編でということにしたいと思っております。
ということで、次回は古谷さんのご経歴を交えつつ、
美術についての話を続けていきたいと思います。
58:52

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