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2022-07-02 52:41

#061 ルートヴィヒ美術館展の魅力について(国立新美術館 学芸課長 長屋 光枝)

国立新美術館学芸課長 長屋 光枝さんをゲストに国立新美術館やルートヴィヒ美術館展についてお聞きしました。

https://sorosoro-art.vercel.app/ep/061 番組の感想は、#そろそろ美術の話を でお願いいたします。

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Guest Profile

長屋 光枝(ながや みつえ)

  • 2000年に名古屋大学文学研究科博士後期課程満期修了後、ベルリン自由大学美術史学科留学。名古屋大学博士(文学)(課程)。専門は、ドイツ語圏を中心とした20世紀前半の西洋美術史。
  • おもな展覧会に、「20世紀美術探検―アーティストたちの三つの冒険物語」(2007年)、アーティスト・ファイル 2011(2011年)「アンドレアス・グルスキー」(2013年)、「イメージの力-国立民族学博物館コレクションにさぐる」(2014年)、「こいのぼりなう!」(2018年)、「イケムラレイコ 土と星 Our Planet」(2019年)、「古典×現代-時空を超える日本のアート」(2020年)

Show Notes

国立新美術館について

ルートヴィヒ美術館展について

ドイツの近代美術史の話題

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アートテラートニーのそろそろ美術の話を、この番組は私アートテラートニーがアートに関わる方をゲストにお迎えしてトークを繰り広げるポッドキャスト番組です。
本日は国立新美術館学芸課長、永谷光栄さんをゲストにトークをしていきたいと思います。
始めていきたいなと思いますが、今日はやりづらいよ。
ギャラリーがたくさんいるので、笑い声が入るかもしれませんが、楽しくやっていきたいと思います。
ということで、ゲスト出演よろしくお願いします。
改めて自己紹介を。
国立新美術館の永谷光栄と申します。
当館は今年で15周年を迎えるんですけども、私は準備室の頃から勤めているので、今いるメンバーの中で一番古い。
もう生き地引きみたいな感じですか?
そこは話せないですけど、一番古い。
だって、今館長されている大阪さんも横浜美術館時代にも高校生になっているから、一番働いているのか、長い人になるってことですか?
そうですね。準備室が4年あって、その後15年なので、もう20年近く働いています。
それなのに、今日初めましてというか。
よろしくお願いします。
担当されている展覧会は結構全部見ているんですけども、そんな話もね、途中でできるようになっています。
途中でできたらなというふうに思っておりますが、改めまして、国立新美術館ってどういうところですか?
実はこの番組、いろんな学園さんが出ていただいたんですけど、国立初だよ、ミュージアムとして。
そうなんです。ついに上り詰めた感じ。国立とかは言ったけど、別に今、優劣ないけど。
ただ、英語で言うとミュージアムではないんですよね。ミュージアムは、著作品がある施設をミュージアムというので。
国立新美術館は英語にすると?
ナショナルアートセンター東京ですね。
でも、まあ一応国立は国立。場所は六本木にある美術館ですが、準備室があってって言ってたんで、開館がいつになるんですか?
開館は2007年1月ですね。一番寒い時に開館したんです。
その日覚えてる感じなんですね。寒かったなみたいな。
え、1月のどれくらいに?
1月の21日にですね。
僕も多分、来てはいるんですけど、確かに4月とかじゃないんですよね。
そうなんです。それで、何周年記念とかやる時に、1月展覧会やってないことが多くて。
え、なんで1月に開館しちゃったんですか?
いや、もう私には全くわかりません。
え~、そうか。でも、日本で5館目の国立美術館なんですね。
独立行政法人国立美術館というグループがあるんですけど、その中の5番目の施設です。
これ、多分いろんな人に言われてると思いますけど、いつまで国立新美術館、新が。
なんか、けんちゃんラーメン新発売みたいな。ずっとみたいな感じの。
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これは、新はどういうところに来たんですか?
新は確か、工房で決めたと思います。この名前自体は。
そうなんですね。で、先ほどもちょっと話が出てました。コレクションを持たない美術館。
はい。所属品を持たない美術館って言い方は、ちょっと言葉として矛盾してるんですけれども。
主に発壇を言うと、工房団体さん。2.3とか2.7とか、いろんな工房団体があるんですけども。
その人たちが作品を発表するっていうのが、多分最初の設立の理由付けの発壇だったっていう風に聞いてます。
今まではあれですもんね。東京都美術館がその役割をしてたってことですよね。
手狭になって、そういう希望する団体さんも多くなったんで、国に陳情がいき、
ただ、工房団体さんだけのための施設をあえて作るっていうのは、ちょっと問題だろうという議論になったようで、
それで、きちんと国民の皆さんに見ていただけるような展覧会をやる施設ということで。
ことでできた。今、展示室はどれくらいあるんですか?
展示室は、工房団体さんが使用する展示室、千平米が10室。
年間どれくらいに、ざっくりやってるんですか?
今、80団体以上が所属されてる。
へぇー。年間80店、工房店やってる?
工房店やってるはずです。
もう必ず何かしらやってるってことですよね、そしたら。
そうですね。はい。
高さとしては、地上4階、地下1階。これは大きさとしては、日本最大?
最大9。大塚国際美術館さんの方が、確かちょっと広かったような。
そうなんですかね。
ただ、まあ、最大9。だから、最大とは言ってないです。
最大9。でも、天井高も結構あります。特徴的ですよ。
そうですね。1室だけすごく高い部屋がありまして、それが今回、るとび美術館展で使用する展示室なんですけども。
何階になるんですか?
2階の2E、企画展示室2Eと言われてるところです。
よく企画展で1Eか2Eでやってるじゃないですか。
そうですね。
1Eと2Eって天井高違ったんですか?
違います。1Eは5mですね。工房大体の部屋と同じ高さです、5mは。
2Eだと?
2Eは8mあります。
そんなに違いました?
はい。
あ、知らなかった。3mも違うんですね。
そうですね。
へぇー。また展示も全然イメージ変わってきますね、そしたら。
やっぱり2階でやる展覧会っていうのは、現代美術が多いのは、小さい作品だとバランスが悪すぎて、展示しにくいので、主に現代美術をやってます。
それとか、三社展のような巨大な作品が来るときに使用してます。
なるほど、なるほど。でも8mってなかなかないですもんね。
そうですね。2,000平米全部8mなんで、それだけ。
長谷さんが担当ではない展覧会、三社展やってた時にお伺いしたのは、あの会場できるのはここしかなかったみたいにおっしゃってましたよね。
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巡回なんかできないぐらい、実は天井高もあるし広さもあるしって。
そうか、そういうことなんですね。
この美術館としては、建築は黒川貴昭さん。
はい、黒川先生が生前に完成した最後の建築作品ですね。
なんか本当におしゃれな美術館ですね。外観。よく使われてますよね、外観を。
そうですね、いろいろお菓子してパーティーに使ってもらったりとか、撮影に使われたりとか。
なんならあれじゃないですか、『君の名は』にも出てきましたよね。
そうですね、カフェが出てきましたね。
おしゃれな美術館デートみたいな感じで。あれはこっちにオファーが来たんですか?
オファーというか、『君の名は』で使っていいの?みたいな。
来ましたよね。
勝手に。やっぱりそうなんですね。
で、新海誠さんの展覧会もここでやりましたしね。
そういう繋がりとか、あれですけど。
そうなんです。でも、美術品コレクションは今はあるんですか?
今はないです。もう収蔵庫が、それ専用のものがないので、収集活動は全くしていなくて。
代わりに、さっき『ココナン』みたいな部屋があるってお話したんですけど、それ以外に企画展示をやる部屋が2部屋ありまして。
そこで年間、今ちょっとコロナで減ってますけれども、開館当時は年間8本とか9本とかやってた時期もあるんですよ。
で、それは学芸員さん何人で対応してるんですか?
ちょっと時期によってニーズが若干変わってるんですけど、今、展覧会で主担当をやる人っていうのは5人ですね。私も入れてるんですけど。
結構カツカツですね。
カツカツですね、結構。
そのままですね。でも、準備もしつつですもんね、さらに。
あと、アシスタント的な役割を果たしてくれる職員もいるので、みんなでチームでやっています。
しかも、いわゆる巡回展的なものもあれば、本当自主開催の展覧会もかなりされてますもんね。
そうですね。現代美術を中心に自主的な展覧会もやってます。
今日はそんな話もできたらなと思うんですが、さらにここにあるんですけど、日本の展覧会カトラブルを収集してるっていう。
そうですね。
どこに置いてるんですか?
多分、お客様から見えないところに書庫がありまして、そこにぎっしり詰まっているので。
結構な量じゃないですか?
スケートブレードで全然足りなくて、外部にも倉庫を借りたりしてます。
そんなに?でも、いわゆる図書館とは別ですよね?図書館スペースもありますもんね、4階。
皆さんに閲覧していただくスペースの裏に、実は結構な広い。
量があるんですね。
あと、そうですよ。国立新美術館の投稿、こんなに広げる必要ないのかもしれないですけど。
もう一個言うと、あれですよね。
レストラン5、おしゃれな美術館の結構走りに近くないですか?
そうです。
近備のみくにさんもあったけど、近備ってなかなか、近備の会があったらちょっとやりづらいから、わざわざ近備ってなかなか行かないじゃないですか。
近備に用があるから行くだけであって。
でも、新美さんって、展覧会じゃない人も通過できるから、通り道として使っているじゃないですか。
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通り道も使います。
そこで高級レストランがあってっていうのは。
そうですね。レストランもあり、カフェもいくつかありますし、あとショップもありますし。
そうだ、スーベニアフロム。
そういうのも準備室時代から、おしゃれにしていこうみたいな、六本木らしいみたいな。
まあ、コンピはやらせていただいてますね。コンピで選ばれましたね、ショップもレストランも。
今でこそ、結構そういうの増えてきたけど、やっぱり走りですよね。
そうなんですかね。
うーん。
それはでも、本当に六本木っていうのを意識したんですか?
それを意識してます。
通り抜けできるってこともそうですし、オープンな、開かれた感にしようっていうことで。
特に、小倉川先生の建築のコンセプトとして、大きなガラスファサードがありますよね。
ちょっとうねうねして波打ってる。
そこで、教会が一応区切られてはいるんですけど、うちと外の関係がかなり曖昧ですよね。
ガラスなので、開かれたスペースにしていこうって意識は、開館の頃からありました。
ちなみに、準備室時代に、長屋さんが「これはどうしてもしてみたい」って押したものはあるんですか?
新しいビル図鑑ができるように。
この中の施設とかですか?
いや、特に。
でも、じゃあイメージ通りのものはできたんですか?
私たちが入った時は、建築はかなり出来上がってしまっていたんです。
開館する4年前に採用されているんですけど、その時点で建築のあらがた一生ができてしまっていたので。
あと、細部はこうした方が使い勝手がいいとか、そういうリクエストはしましたけど。
でも、展覧会の部署に採用されたので、エレベーターとか搬入口とか、そういうマイナーチェンジ的なリクエストは色々した記憶があります。
ちなみに、コレクションがない以上、展覧会をやるのは自由度が高そうな気がするんですよ。
「このコレクションを使わなきゃいけない」ってなる。
とはいえ、国立新美術館としては柱じゃないけど、こういう展覧会をやっていくって決まりみたいなことはあるんですか?
決まりというか、やっぱりこういう立地で、お客さんにとって利便性が高い立地で、なおかつすごく展示室も大きいので、
たくさんの方に来ていただけるような展覧会。
すごくマニアックな展覧会というよりは、多くの人に美術に親しんでいただけるような、
そういう親しみやすく、なおかつ、あの頃まだ海外旅行って、皆さん今よりはずっと行ってた時期ですけど、
海外の名品とか、あまり普段皆さんが目にすることがないような、
そういうちょっと晴れの舞台みたいな、そういう展覧会をやっていこうという話はありましたね。
一つは、今回、美術館というも日経新聞さんと一緒にやらせていただいてますけども、
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そういう、いわゆるブロックバスターといわれるような、
皆さんが見たいなと思えるような展覧会が一つの大きな柱で、
もう一つの柱はやっぱり、現代美術だったり、
あと、最近デザインとかファッションの展覧会もやってますけど、
あと建築の展覧会、そういう現代の表現を見せていくような展覧会も一つの柱。
だから、日本柱でスタートしました。
やっぱりさすが国立新美術館だから、なんかそういうところはあるのか。
新しい感じのいろんなことやってますもんね、そういう意味で言ったら。
そうですね、そういう努力はしてます。
じゃあ、そこで今お話が出ましたけど、ルートビビ美術館展についてということで、
このブロックバスターの展覧会というのは、
藤本さん、元産経の藤本さんが出てくれた回の時に、そういう話題が出たんですけど、
もうコロナ禍なんで、ブロックバスターの展覧ができないんじゃないの問題みたいな、
そういうふうに話が出たんですけど、無事開催できて。
まあ、なんとか。
でもやっぱ大変ですよ、コロナ。
大変です。もうやっぱり、だいたいこういう展覧会やると、今回ルートビビ美術館の作品を開催するので、
こういう場合は必ず事前にあちらの美術館に行って調査させてもらったりとか、
向こうの学園の方とミーティングしたりっていうのを必ずやることが多いんですけど、
今回全然行けなかったので。
そっか、そっか、向こうからも来れてない。
向こうからもいらしてないので、オンラインミーティングをその代わり何回かやって、
実際ちょっと作品を見てない作品がやっぱり今回ちょっと含まれているので。
見てみるまでわからない。
ルートビビ美術館には私は何回か行ったことはあるんですけど、展覧会やるつもりで見てたわけじゃないので。
もう観光というか。
そうですね。向こうに留学してたりとか、ちょっと旅行で行ったりっていうときに訪れてたので、
ちょっとそういう意味ではコロナ禍の中で準備するっていうのはやっぱりこういう大変さがあるんだなっていうのはよく感じました。
ちょっとそのルートビビ美術館って何ですかっていう。
結構ちょっとやっぱ日本ではあまり。
向こうでも有名なんです。
そうですね。国際的に有名な美術館ですけども。
ルートビビってのは人の名前なんですか?
人の名前ですね。ペーター&イレーネルートビビさんっていうコレクターの社員で、
その方たちがまともた作品をケルン氏に寄贈したっていうのがこの美術館の設立のきっかけです。
これはケルン氏立になるってことですか?
そうですね。ケルン氏が運営してる美術館です。
できたのは何年頃?
1976年にその夫妻が350点ぐらいの作品を寄贈したんですよ。そこで設立が決まり、そこから建物を建てたりとか準備が始まり、開館したのは1986年です。
結構新しい作品ですね。
そうですね。新しいですね。
ちょっと失礼な言い方なんですけど、350点ってそんなにすっごい多くはないじゃないですか。
そうですね。
よくこれで美術館を、箱を作ろうと思えたなって言ったらあれですけど、1000点に1000点の、だからよっぽど質が高いコレクションだったってことですよね。
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そうですね。ケルン氏が当時、今もありますけど、バルラフリヒャルツ美術館っていう、また別のシリーズの美術館を持っていて、
当時そこの美術館はもう中世から現代美術まで集める館だったんですけど、そこのコレクションから20世紀以降をルトピー美術館に移管をして、ちょっと再編をしたんですよ、その時に。
だから、あとルトピー夫妻もものすごい数の作品を、まあ、計14000点。
それは何のもの?
これは、ルトピーさんっていうのは、非常に優れたコレクターなんですけど、作品を購入して自分のものにするだけで終わるんじゃなくて、それをもう世界中の公的な美術館に寄贈したり、帰宅したりしていて、
今、ルトピー財団っていう財団になってますけども、26かな、26とか7、世界中の美術館に寄贈してるんですね。
結構まとまって、ボンボンと。
それがまあ、計14000点ぐらい。
そんなに?
すみません、350点で。少ねえとか言って。
ケルのルトピー美術館は最初350点ですよ、その後もう何回も何回も寄贈してる。
そういうことなの?
今、総数わからないんですけど、多分何百点何千点っていう単位になってるはずです。
これでも、ケル、このあれですね、バルラフ・リハルツ美術館、めちゃめちゃ言いづらいですけど。
これも確かバルラフさんとリハルツさん、人の名前でしたよね。
そうです、人の名前ですね。
ケルン市は、というかドイツはこういう感じで、寄贈した人の名前を美術館名にされることって結構多いんですか?
結構ありますね、結構多いと思います。
日本だと、寄贈はされても、わざわざその、個人名、国立とか私立が。
そう、プライベートの美術館ってありますよね。例えば大原美術館さんは。
ネズ美術館さんとかもいろいろありますけど。
公的な美術館も、ルートビヒの名前をつけてる館いくつかあります。
あ、じゃあルートビヒ美術館いっぱいあるんですか?
いっぱいあります。
今回はその中ではどこ?
ケルンの、多分一番格好となる、一番多分規模が大きい、ルートビヒって名前がついた館の中で一番多分中心的な存在。
そういう感じなんですか?じゃあドイツに行ってルートビヒ美術館って言ったら、ケルンのもあれば。
ケルンもあれば、コプレンツにもある。あと、ズールモントルートビヒ美術館っていうのがありますし、あとブタペストにもあるし、ローシアにもあります。
そんなにある?チェーン店みたいな感じですか?ルートビヒ、ケルン店みたいな感じ。
ケルン店が一番多分本店に近い感じ。
ケルンがそう、本店に近い。
本店に近い。コレクションとしてのものもすごい良いものが。
すごい良いものですね。
今回、ここに来るってことは、今ルートビヒ、ケルンは改装中とか?
いや、特にそういうことはないんです。ものすごいコレクションあるので、日本に今回152店をお借りするんですけど。
結構来ますね。
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結構来ますし、中身も。
最近ブロックパスターテンも60点、70点ぐらいみたいな、結構それで抑え目になってきて、それで数ちょうどいいのかなと思って。
150って、10年前、20年前の話みたいなぐらい?
そうですね、多いですね、今回。写真がでも1/3ぐらい。それでも油彩とか、彫刻で100点ぐらいになってるはずです。
これは結構名品が来るって言っていいんですか?
そうですね、もう代表的なコレクションがあります。
ちなみに、今さらなんですけど、ルートビヒ美術館展自体は、これまで日本で開催されたことっていうのは?
結構何回もあるんですけど、例えば「ピカソだけ」とか、あと「ポップアートに絞りました」とか、もうちょっと規模も小さくて、内容も絞り込んだものが多いんですけど、
今回はルートビヒ美術館のコレクションの成り立ちを一望できるような構成になっています。
ルートビヒ美術館展って言い方自体も結構初めて。これまで「なんとかがんとかルートビヒコレクション」みたいな感じだったんですか?
そうですね。ピカソ展ルートビヒコレクションというのもありました。ただ横浜美術館で何年でしたかね?95年でしたっけ?
じゃあ、21世紀に入って初の日本ではルートビヒ美術館展。
そうですね。そうですかね。たぶん、この規模で来るのは初めてだと思います。
このコレクションの一番、ルートビヒさんが集めた、先ほど出たピカソコレクションが一番?
そうですね。ピカソとか、あとポップアート、あとロシア版ギャルド。
結構いろんなの集めたわけですね。そもそもルートビヒ夫妻は何者なんですか?
ルートビヒ夫妻は、お二人とも第二次世界大戦が終わってすぐに、マインツ大学というところで、二人とも美術史を学ばれて、旦那さんのペータルートビヒさんは、近くで博士号を取っているんです。
そういう人なんですね。
1950年に。
研究者ってことなんですか?
博士号を取るところまで行って、その翌年に二人は結婚するんですけど、奥さんのイレーネさんはイレーネ・モンハイムという旧姓なんですけど、
モンハイム家っていうのが、ドイツですごく有名なチョコレート会社の製造会社で、結婚して、ペータルはそこの家業というか、モンハイム家の家業を継いだというか。
ちなみに、モンハイムは今もあるんですか?
今もあります。今は社名が変わって、ルートビヒっていう名前が付いていると思います。会社の名前。
会社名がルートビヒなんですね。
非常に詳細があった人みたいで、ビジネスマンとしてあっという間に成功を収めて、会社もすごく拡大して。
別に、もともと奥様のお母さん、お父さんのお母さんが家業がでかくて、そこを継いだってわけじゃなくて。
もともと大きかったんですけど、さらに大きくなった。
2人とも美術史を大学で学んだぐらいなんで、非常に早くから。
ご両親、それぞれのお家も裕福なお家で、モンハイム家のお家も美術コレクターだったし、
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あとペータル・ルートビヒの両親も、コブレンツっていうところで事業をやってたんですけど、
両親も美術コレクターだったみたいで、もうそういう素描がある。
(岡田)そうなんですね。 (瀬尾)そういう感じの。
(岡田)「わりには」とか言っちゃあれですけど、新しいものを集めるんですよね。
(岡田)結構、コレクターさんって昔の中世のものを集めたがりそうな気がするんだけど。 (瀬尾)そうですね。
もともとはやっぱり、中世とか古代のものを集めてたらしいんですけど、
オルサイは、オウチラ・アーヘンっていうドイツの西の方の街に、本拠地なんですけど、
ベルギーとかオランダの国境に近いところですね。
そのアーヘンの街で、アーヘンのジュール・モント美術館っていうところの、
理事会の理事みたいなのをペースで社会的活動をしてて、
そのジュール・モント美術館とかアーヘンの街に、いろんな現代美術が入り込んでいくんですよね、1960年代。
ちょうどドイツもやっぱり1950年代、60年代、日本と同じように急速に経済がこうしていくって言って。
それもあるし、ドクメンタもやるような国だし、現代にアートなんだ。
ドクメンタも一つ大きなきっかけなんですけど、そういう現代美術がどんどん入ってきて、
現代美術に目覚めたっていう、そういう経緯らしいです。
ちなみに、コップアートの作家とかと直接交流もあったんですか?
直接の交流もあったし、あと大きい出来事としては、
フサイがチョコレート会社を拡大していくために、アメリカとか南米とか出張に、販路拡大に。
そういう時に、モマに行ったりとか、ニューヨークのガローに行ったりして、
ちょうど戦前は美術の中心地ってヨーロッパでね、フランスを中心とした。
戦後はアメリカにそれが移っていくわけなんですけど、
一番ニューヨークが現代美術の中心地としてガーッと盛り上がっていくところに、
そこを見てる時代で。
そこでどうも、著名なガローをいくつか訪れて、
そこで作品を買ったりしたのが1960年代の話で、そこからすごい勢いで集めてたみたいな。
1960年代って、本当にポップアート全盛期に、
ウォーホルとかが活躍してる頃に集めてるってことですか?
そうですね。
そういうドイツでのポップアートのコレクションっていうのは、ルートビヒーガーにもあるもんですか?
カール・ストレイヤーとか、ダルムシュタットっていう町を文京地にした有名なコレクターがいたり、
ルートビヒーさんとストレイヤーが、どうもポップアートの2大巨匠、コレクターみたいな感じだったらしいですね。
でも日本じゃ聞かないですもんね。
当時の、その後集めたコレクションはいくつかポップアートがありますけど、
1960年にポップアート集めてましたっていう。
美術館ってないですもんね、日本だと。
そうですね。
当然今回はそういうものも来るってことですか?
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そうですね、その頃集めたものが来ますね。
このルートビヒー夫妻が、その奥様も集めてたんですか?
奥さんとも2人で2人3脚でやってたようですね、そのコレクション活動っていうのは。
でもそんなモマもいて、いろんな美術館とかも見てて、自分で美術館作ろうとはこの2人はしなかった?寄贈されてます?
個人コレクターって自分で美術館作られる方も多いんですけど、2人は全然そういう発想はなくて。
最初はどうもアーヘンっていう町が本拠地なんで、アーヘンのジュールモント美術館っていうところに自分たちのコレクションを帰宅して展示したりということをしてて。
ポップアートも初めてまとまったコレクションを公開したのが、そのアーヘンのジュールモント美術館で。
次に、それをケルンでやろうっていうことになって、バルラフリハルツ美術館で1969年に1960年代の美術展っていうのを。
(岡田)10年振り返るみたいな。 (小川)その時にあんまり自分たちが表に出ようって気はなかったらしく。開館式にも来なかったんで。
(岡田)そんなになんですか。 (小川)バルラフリハルツ美術館っていうのは、今回今、ルートビッヒさんの話ばっかりしてますけど、
今回来る展覧会の戦前の作品は、ヨーゼフ・ハウプリッシュっていうケルン出身の人がケルン市に帰宅、寄贈した作品。
(岡田)で、さっき言ったように、文系じゃないけど。 (小川)移動してきたんですけど。当時、ハウプリッシュさんが寄贈した表現主義とか新植物主義の作品っていうのは、バルラフリハルツ美術館にあって、
どうもルートビッヒさんは、ハウプリッシュさんの偉業をもちろん知ってて、学生時代にハウプリッシュコレクションの展示も見たりしているので。
(岡田)ちなみに、ハウプリッシュさんは何を? 今日、いろんなドイツ人が出てきて、必死にくらいついててますけど。 (小川)ハウプリッシュは、ケルンをベースにしたコレクターなんですね。
(岡田)結構いらっしゃるんですね。 (小川)いっぱいいますね。ドイツってすごく、ちょっと話が脱線してちゃうんですけど、
印象派のコレクターもいっぱいいたんですね、戦前に。とにかく印象派の需要に関しては、ドイツは非常に重要な役割を果たしているんですけど。
ハウプリッシュさんは、自国の表現主義の作家たちを集めてて。 (岡田)パトロネーズしてる感じだったんですかね。 (小川)そうですね。コレクターで集めてて。
ただ、戦争が激化しちゃうので、そういう時にも自分のコレクションを守ってますね。
よく戦前に大敗美術展って言った、ヒトラーが、ナチスが、あれは全国の公立美術館から作品を募集してたんですね。
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だから、個人コレクターの作品は、さすがにそこまでは募集されてないんで。 (岡田)そういうことなんですか。あれ、よく聞きはするんですけど、
実際、その1000匹は何が大敗美術?ピカソとかはもう大敗?同時代のものは大敗美術? (小川)もう、外国から来たものは大敗美術。
あと、抽象的なものとか、全員的なものも全て大敗美術。 (岡田)でも、結構、ほぼほぼ持ってかれちゃう感じ。 (小川)もう、ほぼ持ってかれちゃう感じですね。
ただ、ハウプリッシュさんは、自分の個人コレクションで、ハウプリッシュはドイツ人なんで。
ドイツ人が集めてた個人コレクションまでは、さすがにナチも手を出さなかったので、何とか守り通して、
それを、戦争が終わってすぐにケルン氏にまとめて寄贈して、ワルラフリハリツ美術館に入るんですけど。
(小川)それをルートビッヒさんも見てたんですか? (岡田)それを見てたんですね。どうもルートビッヒさんは、戦前のハウプリッヒのコレクションに、自分のコレクションが時代として接続していけばいいなって思ってたみたいで。
(小川)それで、じゃあ、寄贈するならあそこだなっていう気持ちもあったんだ。 (岡田)いろんな経緯もあって、ワルラフに寄贈するんですけど。
(岡田)だから、コレクターとして名を上げようとかそういうのじゃなくて、純粋に文化遺産として歴史をちゃんと紡いでいこうっていう気持ちで寄贈してるので、それで開会式にも出てこないし。
(岡田)開会式だと、今回の主役の誰々撮影するみたいな、なって「ありがとう」ってなるんですけど、そういうことは望んでなかったんで、来なかった。
(岡田)ただ、すごいその展覧会が話題になったんです。20万人来たんですって。 (小川)その当時でですか? へえ。
(岡田)その展覧会。カタログもバカ売れ、第5冊まで。 (小川)そんなになるんですか?
(岡田)それでようやく、コレクターっていうのは社会に役立って、それだけ注目を集めて、たぶん驚きだったと思うんですけど。
(岡田)それでどんどんどんどんいろんなところに寄贈するようになったっていう。
(小川)ちなみに寄贈した時はまだルート・ビヒさんはご存命だったので、さすがにルート・ビヒ美術館って名前ができた時には開会式には、オフサイバー。
(岡田)さすがに出てたんじゃないですかね。 (小川)その時はさすがに。 (岡田)86年に。
(岡田)でも、その後、この後はいろんな映像も残ってて、スピーチしてたりとか、いろんなところで。
(小川)たぶんそれが境になって、表にどんどん出るようになって、ものいうコレクターになってたんだと思います。
(岡田)仕事として、チョコレート屋さんの仕事もやりつつ。 (小川)もちろん。
(岡田)やってた。ちょっと今話が出てきた、ドイツ表現主義とか新植物主義とか、この辺って実際どんな運動だったのですか?っていう質問が。
(小川)はい。ドイツ表現主義、20世紀の初頭に出てきた動きなんですけども、大きく2つの流れがあって。
(小川)1つはドレスデンの舞台に出てきたブルッケっていう、ブルッケって英語のブリッジですね。橋っていう。
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(小川)キルヒナとか、オットミラーとか、今回出てますけど、そういった生き方が。
(小川)もう1つはミュンヘンを舞台にした、デア・ブラウェライターっていう、青岸って呼ばれてる、ブルーの青に。
(岡田)カンリンスキーとかマルク。 (小川)そうですね、カンリンスキーとかマルクの大きな2つの流れがあるんですけど、今回、その両方の主要作家は全て出品されている。
(岡田)それぞれのブルッケと、青岸の特徴ってどういうのですか? (小川)特徴ですね。
(小川)ドレスデンのブルッケの方は、もともと建築を学んでた若い学生が集まって、4人でスタートしたんですけど、当時、人間の内面を表すような。
(小川)彼らはすごいニーチェに傾倒してたりとか、あと、裸体文化。裸で外に出て。今でもドイツに。
(岡田)裸体の映画じゃなくて、本人自身が働いているって話ですか? (小川)そうですね。
(小川)屋外で、例えば、裸体文化ってあるんですよね、ドイツって。 (岡田)いや、そうなんです。ドイツってそういう文化なんですか?
(小川)今でも、あの…。 (岡田)どこまでの裸なの?上半身だ? (小川)全部脱いちゃった。 (岡田)下もですか?
(小川)うん。よく、大きい公園とかでみんな、なんか、叩かれて。 (岡田)男性が多いんですか?
(小川)男性も女性も、やっぱり近代に…。話がどんどん出せないですけど。 (岡田)興味深い話なの?
(小川)近代になって、ドイツも日本と同じように、高進国なんですよね、産業化っていう意味では。だから、フランスの方がずっとイギリスとか進んでたんですけど、
ドイツは19世紀に一気にその工業化が進んで、結構生活環境が悪化しちゃうんですよね。で、その反動で、ハイキングとか外へ出て行って、ワンダーホーゲルってドイツ発祥ですよね。
ワンゲルって、あれもそういう文学から出てきた運動なんですけど、自然の中に回帰していこうっていう、そういう流れが。
(小川)その解放的な気持ちになった結果、服からも解放されたみたいな。捕まんないんですか、女子は?
(岡田)みんなが大きい公園に行くと結構びっくりします。私も最初ドイツに行った時に。 (小川)ドイツってそんな国なんですか?
(岡田)20歳の時に初めてミュンフェンに行った時に、大きい公園に行ったら、もうみんながすっぱだかで。 (小川)みんなが?
(岡田)すごいたくさん、すっぱだかで寝転がってる人たちが。 (小川)マジですか?今やっぱりコロナの時期に行くと、マスクだけはしてすっぱだかで。
(小川)どういう状況なんですかね、ドイツは。 (岡田)公園とかマスクはしてないと思う。 (小川)そうですよね、ももはや。
(岡田)でも、ブルッケアは、だから、その、水浴する人たちとか、あと、森の中で、人間性を回復するような、そういう近代化によって、
人間性が圧迫されたような、そういう反動で、人間性を回復していこうという、そういう主題で描くものが、割と主要な。
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(小川)これは1904年に結成されたのかな? (岡田)じゃあ、元に一桁。 (小川)ちょっとごめんなさい、その辺が何年かが。
(岡田)元のほんと前半ってことですね、もう19世紀、20世紀始まってすぐぐらいになった。
(小川)1905年でした、失礼しました。 (岡田)1905年。 (小川)2年にドレスデンで、ブルッケっていうのが。
(岡田)この運動は、結構長いこと続くんですか? (小川)そんなに長くなくて、もう、その後、ベルリンに彼ら出てくるんですよね。
(小川)1911年から、ちょっとご覧ください。 (岡田)おー、11年前。 (小川)で、もう、その数年後に解散してしまうので、割と短い。
(岡田)ベルリンは服着なきゃダメってことですね。もう、そっち出たらやっぱり。 (小川)そこでガラッと変わって、今度は都市に生きる人たちを、テーマにしたりしてますけどね。
(岡田)当然、若者なわけですもんね、当然。そりゃそういうもんですよね、最初だけで。
(岡田)じゃあ、青岸は? (小川)青岸は、ミュンヘンを舞台にしてて、青岸って、割とグループって言われるんですけど、
(小川)もともとのホットアングループじゃなくて、カンディースキーとマルクが一気投合して、雑誌とか年間「青岸」っていう本を作ろうっていう、それが多分、活動の一番コアなところなんですね。
(小川)彼らは、なんか共通した様式とか、なんか共通した描き方を作っていこうって言うよりは、もうちょっと、見た目の統一ってことにあんまり関心がなくて、
(小川)もっと古いものから新しいものまで、もっと自由にいろんなものを取り入れていくんですね。
(小川)例えば、民族芸術みたいなのを差し入れたかと思うと、アンリルソーとか、ロベルドロネとか、当時フランスで流行ってた人たちの、載せたりとか、
(小川)とにかく、何か内的必然性っていう言葉をカンディースキーは使うんですけど、彼らが精神的なものを感じたものは何でも取り入れちゃうっていう、そういう自由さがすごくあって。
(岡田)確かに、だってカンディースキーなんて中小がだって、マルクは青色で馬を飼いたりみたいな人ですもんね。全然違いますもんね。
(岡田)でも、言い方悪いけど何でもありというか、面白ければ何でもいいぜみたいなノリってこと?
(小川)そういうところもあると思うんですけど。あとは、いろんな芸術を横断していこうっていう、総合芸術的な構想を持ってて、その雑誌の中には音楽の話題が出てたりとか、舞台芸術について書かれてたりとか、
(小川)バグナの総合芸術ってありますよね。芸術も細分化されてっちゃうけど、近代になって絵画、彫刻とか、どんどん生活から切り離されていってしまうんですけど、
(小川)そういうのをもう一回統合して、ちゃんと自分たちの生活とか精神性とか、生きることにもっと芸術を結びつけていこうっていう、非常に大きな試合に立ったものなんですが、残念ながら、1914年に第一次世界大戦が起きるんで、そこでちょっとみんなバラバラになっちゃう。
36:16
(岡田)これでも今更なんですけど、それまでのドイツってどんな美術があったんですか?なんかドイツって、そういうことは、ベートーベンとか音楽が結構いるじゃないですか。
(小川)そうですね。 (岡田)なんかドイツ、フリードリヒーでしたっけ? (小川)そうですね、ロマン派、そうですね。
(岡田)僕も彼女で知ってるんですけど、そこからこの青木人が出てくるまで、なんかあんまりドイツ美術はあることはあるんでしょうけど。
(小川)アカデミーもちゃんとあって、でもやっぱりフリードリヒーたちのロマン主義の寄付っていうのは結構、ずっとフリードリヒー自体は一時忘れられてて、20世紀に入ってから再発見されたりもするんですけど、
(岡田)背中姿を描いてたり。 (小川)そうです、後ろ姿を描いてたり。 (岡田)後ろ姿が描かれる。
(小川)ロマン主義的な、なんかちょっとセンチメンタルな感覚を呼び起こすようなものは、そういう流れっていうのは強かったですね。
(岡田)19世紀くらいずっと続いてたら、急にこの若者が全く。 (小川)でも、ビーダー・マイヤー様式とか、あれもドイツですし。
(岡田)なんかちょっとこう、普通、市民的な作風のものもありますし、あとは象徴主義が結構強いですね。
(小川)そういう感じなんですね。 (小川)象徴主義、ベックリンとか、ホイヤーバッハとか、なんかそういう流れもあり、
(小川)ただ、ドイツって小国に分かれてて、フランスみたいに強大な中央主義国家じゃないんで、今もそうですけど、州が違うと国が違うくらい、なんか色んなことが違ったりもして、
(小川)ドイツって、あとはベルリンがあったり、ドレスデンも大きい街で、ミュンヘンがあったり、デューセルドルフがあったり、各都市にそれぞれ文化があるし、
(小川)でも、19世紀はドイツがまだ分散されてて、フリールリーもそうですけど、すごく愛国主義的な運動も強くて、なんとかドイツを、
(小川)一つの国にしようという歴史があって、それが叶えられたのが1871年でしたっけ、ドイツ帝国ができる、不服戦争に勝って、
(小川)ドイツ帝国ができるんですけど、そこでようやく非願、ドイツ美術とは何かみたいな、そういう論争も常に盛り上がっているんですけど、
(小川)表現主義っていうのは、そういう意味では、ドイツが初めてというか、獲得したドイツ的な表現ですね。
(岡田)なるほど、なるほど。
(小川)なので、ナチに利用されたりも、ナチズムに利用されたりとかも、最初はナチのゲッペルスとかもすごく表現主義好きだったんですよ。
(岡田)そうなんですか、タイヤ芸術家とか言ってた割にはってことか。
(小川)最初好きだったんだけど、それがちょっと反転して断されちゃうんですけど、表現主義っていうのはそういう意味では、すごくドイツが誇る、ドイツ的な表現ということで、と言われてますね。
39:04
(岡田)それやっぱりドイツの国民性にも合ってるってことですか。
(小川)そうですね、非常に精神性が強い、人間の内面を炙り出すような、新作物主義は逆に凄く写実的なんですけど、人間の汚い部分も含めて、えぐり出すような写実性とか、今回そういうディックスとか、オットーディックスとか。
(岡田)オットーディックスは、牛の首が描いた作品とか見たことあります?
(小川)あ、そうですか。
(岡田)生首的なやつがあった気がする。
(小川)いろんな作品が。
(岡田)でも、なんか結構、ちょっと気味の悪いというか、絵が多い感じの作家さんじゃないですか。
(小川)そうですね、匿名で描かれている。
(岡田)今回どういう作品が来るんですか。
(小川)今回はオットーディックスの有名な自画像ですね。
あとは、ジョージ・グロスのこの作品がすごく有名な作品ですね。
エドワールド・ブリーチャー博士の肖像とか。
あと、さっき申し上げたヨゼフ・ハウプリ博士の肖像、オットーディックスが描いた肖像画も出ます。
(岡田)これ、でも、今ドイツの芸術の話を聞いた後に、またルート・ビッヒさんに戻るんですけど、
ルート・ビッヒさん自体は集めているのが、ピカソだったり、ウォーコレだったり、ロシア・アバンギャルドだったり。
(小川)ルート・ビッヒ国際は、ドイツの美術は、そんなに集めていなかったんですか?
(小川)そう言われると、そうですね。
(小川)どちらかというと、ルート・ビッヒ国際って、今回はルート・ビッヒ美術館に焦点を当てているので、
(小川)20世紀美術なんですけど、古代とか中世の美術も集めていますし、
(小川)あと、民族芸術的なものも集めていますし、社会芸術って自分たちのコレクションを言っていて。
(岡田)ああ、社会芸術。ローゼフ・ボイスみたいなことに。
(小川)世界芸術って言っているので。今回、あんまり取り上げてないですけど、ソ連の同時代美術を集めていたりとか、東ドイツの美術も集めていたりとか。
(小川)日本の現代美術も買っています。
(岡田)例えば、どの?
(小川)エクサマイナイアイディさんとか。
(岡田)そういうものもあるんですか。
(小川)はい。あと、荒川修則とか。
(岡田)荒川修則は向こうのルートビッヒ美術館で展示されたりしているってことですか?
(小川)時々は常設展に出ているんじゃないですかね。1969年に開催された1960年代の美術展にも、荒川修則と草間さんは出ています。
(岡田)はあ。草間さんがそう考えると、まだご存知の人がいるってのは、すごい。
(小川)すごいですね。
(岡田)史上の人物の話を聞いているみたいな。1969年の展覧会に出ていたんですよね。
(岡田)ここで草間展もやりましたしね、新美術館で。
(小川)そうですよね。
(岡田)今回のタイトルに「市民が作ったコレクション」って書いてますけども、ルートビッヒさん以外も、さっきもいろんな人が出ていたけど、
(岡田)本当に市民が集めているのがあって、基本は市民がみなさん寄贈されているっていうのは、国民性的なのもあるんですか?
(小川)そうですね。ドイツは、また19世紀の始まりに戻っていくんですけど、
42:04
(小川)クンストフェラインっていう、美術愛好会みたいなものが19世紀の始めぐらいに、ちょっと大きい街にはどんどんできてくるんですね。
(岡田)クンストフェ?
(小川)クンストフェライン。クンストっていうのがアートの意味なんで、
(小川)フェラインっていうのが、アソシエーションみたいな感じですね。英語で組合とか、教会みたいな。
(岡田)美術コレクターが組合を作るってことですか?
(小川)美術が好きな人とか、コレクターだったり、あと作家さん?
(岡田)サロンとはまた別なの?
(小川)サロンとはまた別ですね。ドイツ語圏ってこれ特有なんですけど、スイスにもたくさんあるし、ドイツもたくさんあるんですけど、
(小川)集まって、例えば作品を買ったりとか、お金出し合って買ったりとか、あと版画みたいなエディションものを販売して、
(小川)お金を活動費にしたりとか、そういうクラブ的な活動が、すごい盛んになって、
(小川)そういうのが、今は美術館になっちゃったりしてるところもあるんですけど、
(岡田)ハンブルク美術館とかブレーメンとか、もともとはクンストフェラインっていう民間の組織から出てきたって。
(小川)そういう感じになるんですか?
(岡田)なんかすごく美術が社会に根付いてるというか、日本でいうと美術館というと、だいたい県が作ったり、都会が作ったり、
(岡田)行政が作るっていうのが、多分皆さん一般的なイメージとしてお持ちかと思うんですけど、
(岡田)ドイツは割とそういう草の根から出てきた、市民活動の中から出てきたコレクションっていうのは結構あって、
(岡田)そういう土壌があるので、そういう意味では美術館に寄贈するっていうのもよく行われてるし、
(岡田)ベルムもそういう意味で、バルアイアルツもそうだし、ルートビヒ美術館もそうだし、
(岡田)割と市民が主体的に作ってきたコレクション。
(西野)言ってないから今予想で言ってるわけなんですけど、さっき19世紀の時の地域でバラバラだって言ってたじゃないですか。
(西野)だからちょっとライバル視してると思うんですけど、あ、ケルンがあんだけ集めてるんだったら、こっちもちょっと集めようみたいな、
(西野)競争心があると、そんだけ集まるのかなって今気がしたんですよね。そういう感じは未だにあるんですかね。
(岡田)そうですね。結構ドイツ行くとおかしいのが、なんか方言の真似したりとか。
(西野)あー、ちょっといじる、ディスるじゃないけど。
(岡田)なんか、日本ってすごい東京一極集中みたいなところもあるし、なんとなく文化が、だんだん薄っぺらく平板化してるっていう傾向があると思うんですけど、
(岡田)割とドイツの人って、街が違うとすごくドイツ語の発音も違うし、言葉もきついし、挨拶の仕方も違うし、なんかそういうのをお互いバカにしたり。
45:01
(西野)なるほど。
(岡田)なんか面白いですよ。
(西野)そういう感じなんですか、ドイツって。でもなんか、サッカーも盛んですしね。そういう風利眼がすごい国ですもんね、ドイツって。
(岡田)そうですよね。ちょっと怖いですよね。
(西野)怖いイメージがでもあったけど、意外とアートに対してっていうのは、ちょっと意外でした。
(岡田)そうですね。だからすごく積極的ですよね、市民の人たちが。そういうのは日本と大きく違うなと思う。
(西野)これ、いまだにそういう組合まだあるんですか?
(岡田)アクスタライティーまでも、ドイツに一回調べたことがあって、何百ってあるんだよね。ちょっと大きい街にはあって。
(西野)今も寄贈されてるんですか?
(岡田)今もホームページとかで作品変えたりとか、クンストフェラインが作品売ってたりして。
(西野)六本木にもクンストフェラインがあれば、コレクションが増えたのに。今からでも作ったらあれですよね。
(西野)そういう文化なんですね。なんかちょっとドイツのイメージが、いい意味で変わったというか。
(岡田)あ、そうですか。でも最近、私もコロナで全然行ってないので。行ってないんですよ。
(西野)ちなみに、展覧会でいろんな作品が来ると思いますけど、どれも見どころだと思いますけど、これはもう、ぜひ見てほしいっていう。
(岡田)そうですね。
(西野)今まで出てきた話のやつ以外でも、もし。
(岡田)そうですね。今回、私は、京都国立近代美術館の池田さんと2人で担当していて、池田さんが宣伝を担当して、私は宣語を担当してるんです。
(西野)長谷さん、これはもう絶対持ってきたいって言ったやつはどれか。
(岡田)そうですね。珍しいと言えば、ドイツの戦後すぐの作品ってあんまり見る機会ないですよね。
(岡田)この辺は、ボルスの結構大きな庭がですね。
(西野)ボルス、はいはい。
(岡田)ボルスって、早く亡くなってしまったこともあるし。
(西野)死ぬ方が衝撃ですよね。生肉食べてしまう。
(岡田)腐った場合に腐れて死んじゃう。笑っちゃいけないけども、衝撃的ですよね。
(西野)アルコール中毒だったので、そういう作品数が多くないんですけど、油彩画はあんまり日本で見る機会ないんですけど、今回は割と大きな油彩画が出てたりとか。
(岡田)大きいんですか?神村記念美術館さんがボルスを持ってるけど、小さいですよね。小品ですよね。
(西野)ボルスにしては、結構大きい方だと思う。50、70くらいかな。
(岡田)タペストリー。
(西野)タペストリーという作品ですけど。あとちょっと珍しいところで言うと、ドイツのコンラート・クラーフェクっていう人の面白い作品。
(岡田)コンラート・クラーフェク。
(西野)タイプライターとか、メシンとか、日常の工業製品を、すごいシルエリスムのようなテイストで描いた大きな作品。
48:06
(岡田)やっぱりドイツも、日本の戦後だと戦後シルエリスムで日本版だけど、ドイツもやっぱりシルエリスムの影響がある。
(西野)ドイツの影響がすごい強いですね。この辺の作品はあんまり日本で見る機会ないので。あとはゲッツとか。
(岡田)なんですか、ゲッツ?
(西野)ゲッツって、あの…。
(岡田)ゲッツ、ダンディ・サカンですか?
(西野)K.O.ゲッツ。中小画家ですけど。
(岡田)そんな人がいたんですね。何ゲッツって言うんですか?
(西野)カール・オート・ゲッツって。
(岡田)カール・オート・ゲッツ。ちょっとなんか覚えたくなってきた。
(西野)K.O.ゲッツです。
(岡田)どんな絵が描かれたんですか?ゲッツ。
(西野)中小絵画ですね。下塗りしたカンバスに絵の具を描く前に別の色を置いて、体全体で描いたような。
(岡田)なるほど。日本でいうと具体美術工会みたいな。結構似てるんですね、日本の戦後。ちょっと通ずるところがもしかしたらあるのか。
(西野)グループゼロっていう、戦後ドイツの前衛運動を牽引したグループ。
(岡田)グループゼロってのがある?
(西野)草間良一さんとかは一緒に展覧会やってたりするんですけど、アルミニウムとか、釘とか、それまであんまり全然…。
(岡田)ちょっと工業的なってことですね。
(西野)そういう素材を使って、ガラスとか、アクリルとか。
(岡田)しかもモーリス・ルイスとか、ジョセフ・ワルバースとか、アメリカのものも来られるんですね。
(西野)あとボイスもありますし。
(西野)あとは、これも日本であんまり、あんまりというか、多分ほとんど展示されたことがないと思うのが、旧東ドイツの作家とか。
(西野)ライプツヒ派っていう。今もライプツヒって、旧東の中では美術盛んのところで、東西分裂した頃からすごく美術が盛んなんですけど、そこで活躍してた一連の画家たちのことをライプツヒ派っていうんですが。
(岡田)言いづらいのばっかですね、今日。ライプツヒ派。
(西野)ライプツヒ派の中のマットフィアという人の、これすごい当時の状況をなんとなく暗示してて、海に浮かんだ孤島で人々が何かこう、うずくまって。
(岡田)ほんとだ。
(西野)イカロスの神話ってことですか、飛び立とうとして。
(岡田)ローで固めた鳥の羽で。
(西野)落ちちゃって。
(岡田)はい。ありました、ありました。
(西野)イカロスが、ちょっと見にくいんですけど、イカロスが墜落して横たわって、羽だけが残った。
(岡田)ここだから聖書とか神話の物語を描いてるんですか。
(西野)結構、カイン・ターベルとか神話の素材で、当時東ドイツで生きていくっていうことの鬱屈した感情みたいなのを表したような作品を描いてる。
(西野)マットフィアの作品もルートピーさん、すごいたくさん集めてたみたいで、集めてたんですね。
(岡田)現代アートまで、かなり揃ってるんですね。
(岡田)1900年から2000年代までの作品が全部見ることができて、156点。
51:05
(西野)152点。
(岡田)152点だそうですので。
(岡田)もうちょっとまだ他にも聞きたい話がありますが、それは後半に行くということで。
(岡田)すいません、改めて最後に会期とか、改めてよろしくお願いします。
(西野)ルートピー美術館は、2020年6月29日から9月26日まで、長めに開催します。
(岡田)この後巡回して。
(西野)京都国立近代美術館に巡回します。一部写真作品など入れ替えがありますが、紙裏作品は同じ内容で巡回します。
(岡田)関西圏の方もぜひ楽しみにしていただければと思います。どうもありがとうございました。
(西野)ありがとうございました。
(岡田)次回は長谷さんのご経歴を交えつつ、美術についての話を続けていきたいと思います。
(音楽)
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