はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 宜しくお願いします。
宜しくお願いします。
今回もふっさるということで、前回の続き行ってみたいと思います。
はい、前回の幻想学というのは、一人称的な視点、自分が世の中を見る時に、自然的な外に物があって、自分がそれを見ているのかという態度ではなくて、
そういうのを停止、エポケイという言葉を入れたと思うんですけど、そういうやることで見えてくる世界があるよと、そこから始まるのが幻想学だよという話をしたかなと思います。
エポケイも、判断停止とか保留と言われちゃうと、何も考えなくていいと思っちゃう気もしたんだけれども、
多分そのスタート地点が、人間というのは自然的に、この前、自然とかニュートラルみたいな話だったけど、何もしてないと結構勝手に判断しちゃってるよねとか、判断させられちゃってるよねみたいなところを、
一旦その回路を止めましょうぐらいの、止めた上でフラットに持っていきましょう、みたいな雰囲気だったって感じがしたね、前回の。
そうそうそう、本当に無意識でやっちゃってることにちゃんと気づいて、それを止めましょう、意識的に止めましょう、みたいな意味合いの方が近いかなとは思うんですけど、
このエポケイして物を見るっていうのは、具体的なもの、サイコロとか花とかだけではなくて、
いわゆる想像することとか描くのとか、手が指すみたいな、そういう空想の存在とか概念とかにも使うことができるんですよね。
こういう視点からもいろんなものを考えていくと、どんなものがテーマとして出てきて、どんなふうにそれを考えていくのかみたいなことを、
ちょっと今回と次回でしっかりお話ししていきたいとは思うんですけど、
今回はですね、一番大きな話、現象学的に見た一印象的な視点の中で一番大きな世界とは何かっていうテーマをちょっとお話ししたいなというふうに思います。
はいはい、やっぱり出てくるんだね、哲学とかやってるとこのテーマね、我々の生きる世界とは何かと。
普通に考えるとさ、これは普通にっていうとニュートラルな自然的な態度で考えると、世界っていうのは自分として独立してあって、
まさに客観的な、むしろ世界の中に自分が一部を占めるものとして存在しているっていうような、そんな考え方になると思うんですよね。
あるいは哲学好きな方とかだと、最近では現代で有名なマルクス・ガブリエールさんっていう哲学者がいるんですけど、
その人もやっぱり世界っていうものをテーマに扱っていて、なぜ世界は存在しないのかっていう。
彼は世界は存在しないって言ってるんだけど、そういうところが話題になったのをご存知の方もいるかなと思います。
世界ってあるのないのとかって言うとまたちょっとあれなんですけど、
フッサールの方が言っても160年以上1900年とかのところなので、だいぶ前の人なので、
フッサールが絶対正しいとかっていうことでもないんですけど、そこの考え方を知っておくのは楽しいんじゃないかというふうに思ってますと。
フッサールに言わせると、それはエポ系状態の人に言わせるとって話なんですけど、
世界っていうのは直接経験、前回言ったような物事をある種ゼロベースで見るみたいなことの前提となるもの。
ゼロベースで見ても違うから、別に知識とか経験とかあってもいいんですけど、
そういうエポ系状態で見るっていうことを成り立たせるその前提となるものなので、
世界がなければ何も存在しないんだけれども、世界が存在しているかって言われると、
っていうことが空間的に考えた場合、世界っていうのはここからここまでっていうのは線が引けませんというか、そういうふうに想定するのが結構難しい存在だぞ、対象だぞっていうことが考えられますよねと。
はいはいはい。
それはエポケ状態で見たとしてもってことだね。
エポケ状態で想像したとしても。
意外と宇宙っていうものはそもそも物理的な感覚だから、宇宙っていうのを直接再現するのは難しい。
それこそ本当に地球を出て初めて見れるものだけど、空間を最大限広げた時に、その最大限広げる最大限っていうところが限りがないんじゃないかっていうことは想像できると思うんだよね。
意味不明だもんね。この瞬間から何もないですってどういうこと?みたいなね。
そうそうそうそう。
だから昔の人も地球が平らで水が落ちてみたいなことを想像してたのと同じようなことがここでも起きちゃうんだよね。
そうだよね。それを宇宙で今やってるって考えるとちょっと滑稽でもあるもんね。
エポケ状態からすると、世界そのものっていうのは空間性っていうものをある種を超えているというか、もっと言うと世界イコール空間性だっていうふうに捉えることができますと。
そういうふうに考えていくとね。
これは実は時間についても同じようなことが言えて、やっぱり時間と空間ってものを捉えるときの基本的な仕組みなんだけど、
要は昨日あったものが今日あるとかっていうとそれは同じものが存在するってことだし、昨日あったものが今日ないってことはもう存在してないってことだから、
存在ってやっぱり時間とか存在と空間ってすごく密接に関わってるっていうふうに言えるんですけど、
逆に世界っていうのを考えるときに、じゃあ世界がなかったときに時間ってあったんだっけとかって考えようと思うと、
でも時間があったっていうならそれってもう世界がそこに存在するってことだし、
時間がなかったっていうのはそもそもなかったって何よみたいな話になってくるから、
結局世界と時間性みたいなものもそれって一緒じゃないっていうふうに考えることができますと。
一緒っていうか切っては切れないよねっていう話。
そう、切っては切れない。
例えば世界がなくなりました、そのとき時間って続くんですかっていうと、
時間が続いてるってことはそもそも世界なくなってないじゃんみたいな。
ああ、はいはいはい。
さっきの空間の端っこと同じようなことになっちゃうってことだね。
そうそうそう、そういうこと。
なので、ここで今時間とか空間ってもっと世界ってものを紐付けていると話したんですけど、
じゃあ最大限空間的とか時間的広がりを持つものが世界だとしたときに、
それっていうのは僕らの直接経験ではある程度捉えられない。
その想像して限りがなさそうってことはまだ言えるんだけど、
限りがなさそうまでしかいけないものだっていうふうに考えるんだよね。
うんうん、なるほど。
それはむしろ逆転して、そもそもそういう限りがない空間的時間的広がりっていうものがあるからこそ、
僕らはその中において直接経験ができる。
そもそもそういう直接経験が成り立つ場っていうのが世界なんだっていうふうにフッサルとか現象学でいうと捉えるんだよね。
はー、なるほどね。だからあれか。
じゃあ、いわゆる花とか花瓶とかと世界って同じとか言えないっていうか、そこが違うって明確に今の話から言えるわけなんだね。
そういうこと、そういうこと。
世界も一つのものではなくて、これは一つの前提なんだよみたいな話になっちゃうってことなんだ、どうしても。
そう、ほんとその通り。
世界があって初めてものが存在するしとか直接経験ができるしっていうふうに言えるんだけど、
世界が存在しているかっていうと、存在はしてるんだけどものとしては存在してませんよねみたいな。
はいはいはい。
これフッサルは世界っていうのは、いわゆる客観とか世の中にあるもののように存在するんじゃなくて、
唯一性において存在するのだと。
では直接体験する時間とか空間って何よっていう話ね。
やっていこうと思うんですけど、まずは空間からちょっと行こうと思うんですけど、
わかりやすいようにまずはこの自然的なニュートラルな態度からいくと、
普通空間って何かの枠とかで仕切られていたその内部空間が内部か、
そういった何もないっていう状況に対して僕らはそれが空間だっていうふうに捉えると思うんですよね。
うん、そうね。
これはやっぱりいわゆる客観的なとか物理的な話の空間のあり方であって、
そこに自分という人がいようがいまいがあるしか関係ありませんと。
これは主観的なとか一人称視点で見た空間の話ではないんだよね。
なるほどね。
それあくまで知識だったりとか一般的にそう言われてるでしょっていうふうな形で考えちゃってるよねと。
そうそう。こっちはニュートラルな話。
じゃあその空間が一人称的に見るとか捉えるとどうなるかみたいな話なんだけど、
空間って自分に対してどんな意味を持つのみたいなところを考えましょうって話なんだけど、
まずフッサールが何を言うかっていうと、
マズモってその空間性っていうのを一人称的なエポケ状態で考えた時に出てくるのは動くっていうことなんだと。
動く。ムーブね、ムーブ。なんだっていうのね。
何かが動くというからにはその動きの基準となる別の地点とか位置っていうのが定められている必要があって、
その動くものと動く基準っていうのの位置を捉えた時にそこにそもそも空間っていうのがあったっていうことに後から気づきますよねっていうふうに言うのね。
まだピンときてないけど。
なぜかっていうと要は空間っていうのは当然普通に考えたら経験できないというかその意識に上がってこないじゃないですか。
なるほど、そのエポケ状態でね。
空間っていう概念がそもそも生まれてくるかねって話ね。
どうしたらそれを経験できるかねとか想像できるかねって話なんだよね。
だからまず第一人称的視点でいくとそもそも世の中に広がりがあるっていうことすら言えないのよ。
ただ何かが自分の視界の中で動いたってことは経験できますと。
目でいうと視界の中にあるその対象、別にサイクローでも動物でもいいんだけど、それが動く。
要は自分から見て、左とか右っていう方向性を使えるとして、左から右にそのものが視界の中で位置を変えたっていうことは言えますと。
位置を変えたっていうことは、つまりこれ時間にもかかってきててめちゃめちゃ深い話なんだけど、
さっきまで左にいたものが今右にいるっていうことは時間と空間の両方にかかってるんだよね。
今ちょっと空間の話だけを捉えたときに、空間的にさっきの場所っていうものを起点にしておかないと、
犬が右に動いたっていうことは説明できないんだよね。
あー、はいはいはいはい。
そう、難しいんだよ。これすごい難しいんだけど。
そっか、だからその順番なのか。犬が動いたからそこには犬が動く余地があったよね、空間があったよねっていうのを後から、
あそこにはそういう空間があったんだねっていうふうに空間っていう言葉を使うかどうかとは別として、一応そういうふうに認識はしてるはずだと。
それを空間だと一応定義してるよねという順番っていうのはなんとなくわかった。なるほど。
まあそれ欲しいけどわかった。
いや難しいんだよ。
すごいね。
自然的なニュートラルな態度で言うと、部屋っていう空間の中を犬が自由に動き回っているっていう、
やっぱりその空間が先にあって犬が動くっていうのが後なんだけど、
なぜかっていうと、フッサールは学問の基礎を付けようとしてるじゃない?
でもそれを知らずにみんなその基礎っていうのを覆い隠されたまんま、みんな数学とか物理学とかやってるよねっていうふうに言ってるわけよ。
全然しっくりこない顔してるね。
ちょっとそうはね、しっくりいきたいね。
つまりそれは何かっていうと、自分が何に寄ってたっていうのかとか、なんでその学問の正しさを正しいと言えるのかっていう基盤がないままにみんないろんなことやってるよねっていうことをフッサールは考えてるんだけど、
これって人間が生きてるときも一緒じゃんっていうことだと思うんだよね。
要はなぜ人は動くとか生活するとか物を認識するとかっていうことの土台を知らないままに認識とか行動とかってことをしてるよねと。
それで生きていけるんだけど、それで本当の哲学とか正しさとかってわかるんだっけっていう話を言ってるのではなかろうかと。
僕のだいぶ想像というか思いも込められちゃってるんだけど。
だから物事はちゃんと理解しようとする。
例えばよくある、別に僕らはパソコンの細かい仕組みとかを知らなくても別にインターネットができるし、こうやってズームで話すこともできるんだけど、
より良いパソコンを作ろうとか、もっと優れたものを形にしようと思うときにはパソコンの構造とかそれがなぜ動いているのかということをやっぱり理解しなきゃいけない。
それは電気的なこともそうだろうし、物理とかもしかしたら数式的なこととかも含めてやっぱり理解しなきゃいけない。
人がなぜ生きているのかとか、どうすれば正しく生きていけるのかっていうことを考えようと思ったら、そういう生きているっていうことの根底にあるものを知らなきゃいけない。
でもそれは普段覆い隠されてて僕らから見えないんだよね。
要は世界っていうのは、たどり着けないもので、存在とは違う仕方で存在していてとか、
僕らが何かをやる中では空間とか次に言う時間とかっていうものが根底にあるんだけど、
それは全部覆い隠されていて客観的な物理的な空間とか、流れているように感じる過去未来現在みたいな時間とかっていうものに覆い隠されてしまっている。
ふっさるとか現象的に言うと、僕らが普段自然態度に接している空間とか時間っていうのは直接的な経験じゃないから間違ってるっていうか誤解を含んでるんだよね。
僕らはその誤解の中で生きてるっていうことに気づかずに生きてるんだけど、
それを覆いを剥がしてちゃんとエポ系して、正しく認識するっていうことが正しく生きるとか、正しく物事を考えるっていうことに近づけるんですってみたいな。
なるほど。ちょっと分かってきた気がする。
なるほどね。そっち言うと分かりやすいね。分かりやすいというか。
学問とかちゃんとやったことないから分かんないんだけど、学問の方でも同じようなことが起きてるよねっていうふうにふっさるは思ってたってことね、さっきの。
そうだね。
なぜ正しいかが分かんないまま正しさについて議論してるみたいな話と一緒で、
そもそも僕らはどういう環境で生きてるか、世界とか空間とか時間とかって理解しないまま世界について語っているとか、世界の中でそもそも生きているみたいな。
音にするとドレミらしいんですけど、例えばこれで真ん中のサーイーターのイの音を聞いている瞬間、その場面っていうのを直接体験で考えてみましょうと。
これをいわゆる体験じゃなくて概念で考えると、レを聞いた瞬間はレの音しかないから、これじゃあメロディー成り立たないじゃんっていう話になるんだよね。
要は時間っていうのは区切られたもので、その瞬間だけを取り出したものみたいに考えちゃうと、それはもうレの音しかないから、その前にあるドとかミの音っていうのはそこには影響してこない。
つまりメロディーとしてサーイーターっていう音楽が生まれるっていうことが説明できないっていう風になりますと。
これは直接体験の説明で言うと間違いというか違うよねって風になるんだよね。
それはふっさわれがどう考えていくかっていうと、その一印象的なエポケ状態の感覚の中では、現在っていう時間がちょっと幅をもって厚みが出てくるんだみたいな風に捉えますと。
どういうことかっていうと、その一瞬前に起きたドの音と、あとはその後に起こるであろうミの音っていうのも一定に人間は予測ができるんだと。
その現在の中に今起きているレの音、これは現印象的現実みたいな言葉で言って、ちょっと前に起きたことを、これを把握するのに持つ持続の時年的に現実ではあって、
ちょっと後に起きそうなこと、これを予測のように持つ持続の時年的現実ってこの3つの現実があって、それが現在っていう直接体験の幅の中に3つが入ってくるんだよっていう説明をするのね。
なので、今起きている音はレの音だけなんだけど、さっき聞いたドの音も自分は経験しているし、この後たぶんサーイーまで聞いたらミの音が出るだろうなっていう予測までを現在直接的に体験しているっていう風に言いますと。
ちょっとこれは苦しい説明でもあるんだけど、確かにサーイータのタが全然違うジャーンみたいな音だとびっくりするじゃないですか。
びっくりするっていうのは要はその予測とか予示、あらかじめ想定したものが違ったから驚くのであって、その予測とか現在が未来を捉えてないとその驚きも起きないよねみたいなことを言ったりするのね。
なので、直接経験的なエポ系状態の在り方っていうのをイメージすると、過去があって今があって未来に続くとかっていう過去から流れる時間じゃなくて、まず現在その現印象。
現在感じているものっていうのがあり、そこに対してちょっと前の影響を与える8時っていうものがあり、未来をちょっと予測するっていう意味での4時っていうこの3つが直接体験に含まれてるよっていう風にはね。
客観的に言うと全部現在、今って所属してはいるんだけど、そこがちょっとはみ出してる過去とか未来っていうのがあるから人間はちゃんとこういろんな体験っていうのを積み重ねていけるんだみたいな、それが直接体験から考える時間の在り方だよっていう風に言うんだよね。
そんなデジタルなというか、一瞬一瞬聞き取っていくような感覚ではないってことなんだね。ある意味その前後の文脈だったりっていうものが全然あるよっていう話はね。
これはまさに学問的な話でも一緒で、例えば僕らって普通0.00001秒、何秒みたいなものって認識できないじゃないですか。すごい超高速のシャッターを切るカメラとか何かがあればその世界を見ることはできますと。
でもそれも物理的にそれを捉えるよりは、経験っていうところで言うとあくまでもそれは一つの幅のある現像の中に含まれている。
0.00001秒とかっていうのも、その前後にやっぱり幅を持っているからこそちゃんと存在できるというか、その時間の中に捉えることができるよねみたいな。そんな考え方っていうのが出てきますと。