1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #145 プラトンもデカルトも超..
2023-09-13 54:29

#145 プラトンもデカルトも超える!真理との新しい付き合い方を探求するデューイのプラグマティズム

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

1859年に生まれたアメリカの哲学者デュイは、ヘーゲルの哲学とダーウィンの進化論を基礎にして、永遠不変の真理を追い求める傍観者の立場の哲学を批判し、変化と不確実性を重視するプラグマティズムを発展させています。プラグマティズムは、永遠普遍の真理に対する信仰や理性の正確な利用を否定しており、人間が世界と共同して知識を生み出していくことを主張しています。デューイのプラグマティズムでは、絶対的な真理は存在せず、その時々の共同体の合意に基づく信念として捉えられます。共同体の中で議論し、価値観や問題に対して共感や協力を重視することが民主主義を築く上で重要だとされています。デューイの哲学はプラグマティズムの代表として、現実のプレイヤーとしての生き方を探求し、進化し続けています。

デュイの背景と哲学的な源泉
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回はプラグマティズムの中でもジェイムスという方を見てきましたというところで、今回は3人目、デュイという方に入っていくというところでした。
はい、これまでパースというプラグマティズム創始者というのを話をして、その人は科学的な領域で話をしていました。
前回はジェイムスという人の話をして、結構人間の心も含む芸術とか宗教的なところも含めて話をしていました。
それぞれ結構ユニークな考え方をしているんですけれども、それだけで本当にプラグマティズムがめちゃくちゃ強い人間だったかというと、たぶんそんなことはなかっただろうと言われているのがこの3人目のデュイという人なんですけど。
はいはい、ついにだね。
ついに。いわゆる椅子とか机でもそうだけど、点が3つあるとか3点で支えると安定するみたいなのってあるじゃないですか。
たぶんそんな感じで、パースとジェイムスっていうそれぞれ独創的な人たちを、このデュイという人がまるで3点目でまとめあげるというか、ちゃんと大きな哲学的な流れにしたみたいな感じの人なんですよ。
思っていると、結構ジェイムスさんも前回お伝えした、そもそも哲学って理性が大事だとか純粋な真理があるというような価値観でやってるだけだみたいな、結構哲学そのものを批判するみたいな感じってあったと思うんですけど。
うん、あれ恐ろしかったね。
結構衝撃なんだけど、まさにデュイさんもプラグマティズムを使って、結構その哲学自体、いわゆるメタ的にちょっと哲学批判みたいな感じをするんだよね。
その上でプラグマティズムっていうものを、実際社会とかあるいは政治っていうものにも使えるようにしたっていうのが結構大きな意味での功績ですと。
じゃあ前回で結構ジェイムスがそもそも哲学って違くないみたいな話をしたんだけれども、それをやっぱり本当に強化してるんだね。
そうそうそう、やっぱり一歩進めてる感じがあって。
デュイのプラグマティズムと傍観者の立場の批判
やっぱりさ、もともと哲学と政治とかって切っても切り離せないんだよね。
それこそアテネの時代も、やっぱり哲学とかソフィストみたいに呼ばれる人は、ソフィストは哲学者とはちょっと違うんだけれども、
要はポリスをどう運営するかとか、どういうふうにこの共同体をより良くするかっていうところってやっぱり切っても切り離さない感じなんですけど、
それはやっぱり19世紀とか20世紀っていうこの時代で、やっぱりいろんな価値観がもちろん新しくなっているし、
その当時もいろんな変化が起きている中で、じゃあその哲学とその社会のあり方ってそもそもどういうふうに関係するんだっけみたいな。
そういうのを押し進めていったのが、このデュイさんのプラガマティズムだっていうふうに言えるんじゃないかなって思ってるんですよね。
なので、プラガマティズムを発展させたというよりは、デュイさん自身もいろんな問題意識があって、
その中でプラガマティズムに出会って、これだったらなんかいけるかもしれないみたいな感じで、それを自分の武器として使っていったみたいな感じなので、
それを今日今回の第1回分として見ていきたいなというふうに思います。
そうすると、これまでの科学みたいなところとか、あとは芸術みたいな人間的な部分と、
あとは今回で政治とか社会みたいなやったときに、やっぱり結構それも人間の生活する領域のかなり広い部分をカバーできると思うんだよね。
っていうようなものに対して、このプラガマティズムっていうものがどんな影響を与えることができるのかみたいな、
そんなことを今日で理解していただけるんじゃないかなって思ったりしていますというような感じですね。
はいはい、なるほどね。個人的にはこれまでの哲学、ハヤトがメタ的に哲学を批判したという話だけど、
どこまで批判し切ったのかっていうところがちょっと深いところがね、やっぱり前回からの流れで。
ここ本当に面白いからね、ぜひそこに行く前に一回冷静になって、デュイさんの追い立ちというか。
もう既に熱くなってきたけど。
ちょっとテンション上がってきてるから。
ちょっとそこから入りたいと思うんですけど、ざっくりいきます。
デュイさんもですね、パースさんとかジェームスさんと同じで、アメリカ出身の方ですと。
生まれたのが1859年っていう感じなので、ジェームスさんよりもちょっと15年ぐらい後かな。
ちょっと一世代下ぐらいな感じなんですよね。
結構長生きをされてまして、92歳まで生きたので、亡くなったのが1952年。
なので、第2次世界大戦後まで生きた方ですと。
第1回でプログラマティズムって南北戦争の後の混乱した時代から育われてきたよみたいな話をしたと思うんですけど、
当然その後にもう第1次世界大戦があったりとか、大恐慌っていう経済的なものがあったりとかっていうのがあったわけで、
やっぱりその激動の時代なんですよね。
そこを生き抜いた哲学者みたいな感じでして。
彼がどんな人だったかっていうと、ジェームスさんみたいに女子参加でみたいなことは全くなくて、
普通の食料品店みたいなお店の産卵坊として生まれて、
別に豊かではない普通の暮らしだったので、最初にお母さんの勧めもあって、いわゆる牧師さんになろうと思ってたんだって。
たぶん、やっぱりまずは学校の先生みたいな感じだと思うんだよね、当時の牧師さんって。
やっぱり一番身近だし、イメージしやすいし、お金にも困らないしみたいな。
はいはい、ちょっと公民チックな。
そういう感じだったんだけれども、やっぱりリュウジさんも大学で哲学を学んだ時に、自分は宗教より哲学だって思ったんだって。
あー面白い。宗教を学ぶ時に哲学もついてきちゃうのかな。
それもあれだろうね、やっぱり宗教で満足できないみたいなのもあったんだろうね。
で、哲学の教授の道を凍らせるんだけれども、30歳で教授になってるんで、結構やっぱり優秀な人があったなと思うんですよね。若くして教授みたいな。
で、実際1880年代なので、たぶん20歳とかぐらいには直接パースの講義にも出てるらしいんですよ。
あーもうそういう繋がりがあるんだね。
なので、いわゆる指定関係みたいなほどではなかったらしいんだけど、直接そういうパースの教えを学ぶとか、プラグマティズムの考えを知るという機会はやっぱり実際ありましたと。
うん。で、そこにすぐにプラグマティズムにつき合いとなっていったかというと、実はそんなことはなくて、
実は隋さんの発想の根源っていうのは、ヘーゲルの哲学とダーウィンの進化論、この2つを基礎にしてるらしくて、そこから結構独特な問題意識を持つようになりましたよっていうふうに書いてたんですよ。
独特って何よっていう話していくと、ヘーゲルの哲学もダーウィンの進化論もどっちも結構変化とかプロセスを重視してますよねっていう話なんだよね。
デュイの変化と不確実性の重視
進化論の方がわかりやすいと思うんだけど、生物っていわゆる昔言われたみたいに神が一人一人作ったんじゃなくて、単純な単細胞みたいな生物から、両生類とか爬虫類とか哺乳類みたいな感じで、どんどん複雑なというか、そういうふうに進化してきましたみたいな。
のがダーウィンの進化論だし、ヘーゲルについてはソイテッドラジオでもあんまりちゃんと抑えできてないんで、またやりたいっていつも言ってると思うんですけど、人間の精神みたいなものも歴史と共に発展していくよねみたいな発想がヘーゲルにはあるんだよね。
あー、確かにその部分やってないよね。
そうそうそうそう、あんまりちゃんとやってないんだけど。
で、デュイになった時に、まずそのダーウィンみたいに進化していくとか変化していくみたいな話と、ヘーゲルもそういう精神っていうのが進化していくみたいな、すごく言い方は荒いんだけど、みたいなものがあった時に、
デュイっていうのはやっぱり物事がより良くなっていくとか変わっていくっていうことをすごく重視するんだよね。
あー、じゃあそこについては肯定的に捉えていたって話。
そうそうそうそう。
はいはい。
っていうかそっちのほうがむしろ世の中の本質じゃないっていうふうに考えるんだよね。
はいはいはい。
で、そんなデュイさんがプラトンエラーに続いている哲学っていうのを見ると、実はある一つの価値観が潜んでいるんじゃないかっていうふうに言いますと、
それはちょっと前回ゼムさんの時にも言った話ではあるんだけれども、プラトンエラーに続いている哲学っていうのは要はその永遠不変の真理ってやっぱりあって、
それをやっぱり人間の理性によって捉えるとか、その真理の基盤っていうのを知性によって明らかにしていくのが大事なんだっていうことが、やっぱりこのプラトンエラーに続いている哲学にはあるよね。
っていうふうなことをやっぱり指摘するんだよね。
なるほど、はいはいはい。
引っかかっちゃうんだね、やっぱり。
そうそうそう。
で、やっぱりこれって永遠不変の真理っていうのはまさにプラトンのイデアだし、確立な理性っていうのはデカルトの我、コギトなんだよね。
うんうんうんうん。
やっぱりね、パースの時にもデカルトとプラトンを乗り越えようとしたとかってあったと思うんですけど、まさにデュインもやっぱりこの二人っていうのが結構間違ってるんじゃないかっていう話があって。
はいはいはい。
で、かつ時代的には全然違うし言ってることもプラトンもデカルトも違うんだけど、デュインに言わせるとこの二人っていうのは、いわゆる傍観者とか観察者っていう立場で世の中を理解しようとするっていう、そういう見方をしてる点でめっちゃ近いやつらだっていうふうに言うんだよね。
ほうほうほう、なるほどなるほど。
なので、結構プラトンって古代の哲学、スグアーティストから始まる哲学の創始者みたいな感じだし、デカルトまでやっぱり近代哲学の創始者っていうのはすごく偉大な人たちなんだけど、それがゆえにこれまで行われてきたほとんどの哲学とか思想っていうのは、こういう傍観者の立場で世界を理解するっていうような、そういうものを前提に共有しちゃってるんだと。
だから、プラトンの時代からの哲学っていうのは、この永遠戦の変わらない真理を正しく知りたいっていうことを思うし、それってよくよく考えると、要は不確実なことは嫌だっていう、人間の素朴な感情の裏返しじゃないかっていうふうにデュインは言うんだよね。
おー、なるほど。はいはいはい。
だから要は、そういうのは崇高なことで人間の理性を正しく使うっていうことなんだっていうふうに、イニシアの哲学者たちは言ってたんだけど、あ、いやいやそれってただただ不確実性から逃げたいだけじゃねっていうふうにデュインは批判しますと。
おー、ただの人間の挙動だよと、自然な。
そうそうそうそう。気持ちを、ただ哲学って言ってるだけじゃんみたいな。
おー、デュインもなかなかあっついね。別に傍観者とか観察者って悪いことじゃない気はするけどね、今のところね。
はいはいはい、そうだよね。それはすごく、なんだろうな、デュインからずっと良くない考え方じゃないかっていうふうに言うんだよね。
はいはいはい。
で、「それってなんで?」って感じなんだけど、要は世界を永遠変なものとか、イディアみたいな、そういう真理の世界と、いわゆる変化して、いわゆる万物ある点数じゃないけど、そういうふうに変わっていく世界っていうふうに分けるっていうのが、プラトンのいわゆる人間的な発想じゃないですか。
うんうんうん。
で、なった時に、そもそもそういう発想自体が、やっぱりこの確立なものがあってほしい、どこかにあってほしいっていう、もう願望でしかないんだっていう、それをやっぱり繰り返しているわけだよね。
うーん、なるほど。
そう、なんかそれを宗教で神の国って言おうが、哲学でイディアの世界って言おうが、科学で、要は人間がまだ見つかってないけど、なんだろうな、どこかに大統一量みたいなものがあって、それあるかないかわかんないんだけど、
うんうんうん。
プラグマティズムの批判
そういうふうに、どこかに確立なものがあるって言おうが、それって結局本質としては変わんない。要はその宗教的なものも、科学的なものも、哲学的なものも、全部そういう確立なものがあってくれっていう願望を土台にあるっていう意味では、全部同じなんだっていうふうに言うんだよね。
おー、すごいな。古代の神話と一緒レベルだよって話だね。雷は神様が作ってますと同じっていう、怖いからみたいなね。
そうそうそうそう。
そこに説明を求めちゃうっていう挙動の高尚なバージョンが哲学じゃないみたいな、高尚というか同じだよと。
確からしいとか、それって確かに検証もできるし、特に科学とかだとね。雷っていうのは自然の雲とか水分の摩擦の現象でとかっていうふうに言えるし、
まあ確かにそれは正しいんだろうけど、そもそもそれを追求するっていうメンタリティーの中に不確実性を避けるっていう、そういう素朴な感情があるよと。
そっかそっかそっか。より具体的な話になったね。その神話で雷怖いから神様を制してたのと、雷結局怖いのは同じで、その現実が雲の中で摩擦が云々云々みたいな、
それって同じだよねと、そのメンタリティーだと。
そうそうそう。やってることは全然違うんだけどね。
ただ科学的にというか、より客観的にはなっただけで、それが哲学も同じだよと、その変なものがあるよって言ってるのは同じだよと、さらに抽象化していくと。
そうそうそう、抽象化していくと全部一緒だよと。
なんかきついなあ、ジェームズもデュイもなかなかきついとこ言ってくるね。
本当に僕も痛いなって、別に僕が痛がる必要ないんだけど、何となく無意識にどこかに真理があって、そこにたどり着けるとか、そこにたどり着いたら楽になるみたいなものを何となく無意識に思ってるわけだよね。
なるほど、でもまだあれだね、前回のジェームズと一緒で、まあそれはソーダやオネグレの話かなとかといって、神話レベルでいろんな国でいろんな人がいろんな神話作ってるよりも、
雲の中で云々の方が確かに正しい、そうじゃないみたいな、それっていいことじゃないみたいなね。そういう意味ではまあきつい質問というか、主張だけれども、まだまだ大丈夫ですよっていう。
そうそうそう。じゃあそこをね、ある程度ジェームズも指摘したとこなんだけど、さらにデュエは一歩進めていて、何を主張するかっていうと、要は結局さっき言った通り、僕らが世界に対して暴行者とか監察者っていう立場を取ってるっていうのが、
そもそもそういうふうに、永遠編の真理があるとか、具立なものを持ちたいっていうことと密接に結びついてるんだっていうふうに言うんだよね。要は自分は外にいて、世界は正しいものがあって、それを主観と客観で正しく理解しましょうっていうのはこれまでの世界に対する態度なわけだよね、人間の。
これまでのっていうか、たぶん素朴に生きてると僕らもそういう態度を持ってるんだ自然に。それっていうのは、要は全部密接にくっついてるから、それを全部要は捨てなきゃいけないですと。
どんなふうな態度で僕らは生きるべきなんですかっていうと、そもそも世界そのものに介入して、世界との共同作業によって知識を生み出すんだっていう、そういう発想をするんだよね。
分からんっていうかは知れると思うんだけど。
難しそうだね。
具体例で言うと分かりやすいんだけど、要はこれも自然科学的な発想から来ていて、要は科学でも何かを発見するとかっていうときに、要は観測技術が上がるって言うとそこって切っても切り離せないんだよね。
でも天文学において、要は望遠鏡みたいなものがどんどん精度が上がることによって、木星の衛星を発見したみたいな話と同じで、結局手段とか世界に対する関わり方が磨かれていくと、僕らが世界に対して持つ知識とか理解とか、僕らの行動も変わるよねっていうふうに言ってて、
それって傍観者として世界の外にいるんじゃなくって、まさに世界の中で世界に関わってから新しい発見があるよねっていう態度なんだよね。
こうやって伝わるかな。
まだちゃんと伝わってないかな。
傍観者とか観察者の在り方の違いみたいな話なのかな。
それで言うと、この傍観者とかって要は、これデクライトの時にもお伝えしたんだけど、誰もが理性を持つ人間であれば、誰もがちゃんと理性を働かせれば正しい理解にたどり着くっていう、そういう人間という種ならばそうあるべきだみたいな発想なんだよね。
個人がどう生きるかじゃなくて、理性っていうこの神からの贈り物をどう働かせるかっていうことに主眼がありますと。
なるほど。じゃあこの傍観者とか観察者っていうものは、今ハエットが言った定義の上での誰もが持ってる理性みたいな感覚でいいのか。
個人として世界の外にいるとかじゃなくて、理性っていうものが主体で、それを働かせる個人っていうのは別にあんまり尊重されない。要は心身逃げるので体が尊重されなかったみたいな話と一緒で。
精神っていうものが大事で、それは世界の外にあるっていう、そういう発想を傍観者とか観察者っていうふうに言ってるんだよね。
理性と、多分留意的にはここを二元論的に比較してるわけだよね。
そうだね。
傍観者と主体者
ちょっと一直線上の反対に並んでない感じがするな、まだ。
なるほどね。
だってほら、理性とか持っててもさ、例えばやっぱり空をもっとクッキリ見たいっていうので望遠鏡、もっと見える望遠鏡が欲しいっていうので、すごく理性からでも説明できる気がするし、その欲求とかね。
その結果ガリランは木星の衛星を発見したっていうのは、なんかその理性からでも全然説明がつく気がするから、まだほんと聞けないと思う。
じゃあそのガリランの話で言うと、さっきさ、態度とかメンタリティっていう話をしたんだけど、これって本当に世界とどう関わるかって結構スタンスの問題なんだよね。
要は、例えばじゃあガリランみたいに木星を発見したっていう時に、既にある神様が作った真理っていうものを発見するためにっていうふうに思ってやっているのか、
そもそも木星の衛星を発見したということは、じゃあその先にある土星に関してもこんなような発想が生まれるっていう、要は知識の幅が広がるっていうふうに捉えるのかによって、
望遠鏡で木星を見たっていうことは同じなんだけど、そこから生まれてくる知識とか、そこから生まれてくる世界との関わりっていうのは全然違ってくるって話なんだよね。
そっかそっか。世界との関わり方の話を今していて、ここってすごい難しいというか、これはパースの時にたぶん話出たと思うんだけども、
でもね、この望観者観察者理性っていう側は、その時に話に出た、前回も出たかな、神様が作った自然っていう書物を解読していく作業に近いよね。
そうそう、その通りその通り。
ヤグマティズム的な流れでいうと、どっちかというと猶予性だよね。自分が楽しいから、自分が興味を持つから、なんで雷は怖いんだろう、光るんだろうっていう、自分自身が恐怖なのか好奇心なのかわからないけど、それに従って調べていくっていうのは全然違う営みなんだよっていう話をしていると。
難しいなあ、これをどう言えばいいんだろうね、これなんとなく分かってきた気がするんだけど、その違い。
僕もちょっとドンピシで言えないなと思うんだけど、もう一個補足すると、兄貴が言ってくれた知識を生み出していくっていうプラグマティズムの発想自体が、これまでの哲学にはないんだよね。
知識っていうのは全部あって、それをどう正しく読み解くかっていう話なんだけど、そうじゃなくて、自分たちがその知識すらも作っていくんだとか、世界と人間が関わることによって新しい世界が開けていくんだ。
これジェームズの時に言った多元的宇宙論とか、そもそも世界開かれていくっていう話なんだけど、そういう発想とか世界との関わるスタンス自体が全然違うよって話なんだよね。
面白いとこなんだけど、表現が難しいよね。
言ってみてよ。
言ってみてというか、この違いをがっちりと捉えるのが難しい。
なるほどね、確かにね。
違いがなんとなく分かってきたっていう程度で、この二つ違うわーっていう感じではまだないっていうんで、それをどう説明すればもっと負に落ちるんだろうっていう。
なるほどね、確かに。
そうだね。もうちょっと説明してみていい?
プラグマティズムの意義
お願いします。
いろんな概念がつながってるっていうのはこれのキーだと思うんだよね。
要は、永遠普遍の真理があるとか、究極的なものがあるから、人間はそれを正しく捉えることが大事であって、そのためには理性っていうものを正しく使わなければならないっていうのは一連の思想なんだよね。
これが全部つながってるのが、要はプラグマティズムが批判するプラトンとかデカルトの実悪ですと。
でもそれを突き崩すときに、そもそもプラグマティズムは永遠普遍の真理なんてないっていう風に言うんだよね。有用性だから。
はいはいはい。
ってなると、その真理がない中で僕らはどう生きてるかっていうと、そもそも世界と一緒になって僕らはその真理っていうのを作っていく。
さっき言えば傍観者だったけど、あるものを受けてるだけだったけど、それを作っていくっていう主体者に変わるんだよね。
そうすると、要は理性とかじゃなくて、それこそ身体的なものももちろんそうだし、そもそも人間の存在っていうもの自体がやっぱりもっともっと大事なものになってくる。
っていうのが全部一直線につながってくるんだよね。
うんうんうんうんうん。
そういう、なんだろうな、そもそもの人間の捉え方とか生き方とか世界との関わり方とかっていうのが全部ガラッと変わっちゃうっていうのがここの企画なんだよね。
だから真理があるって思う人と真理などないというか、それは変わり得るっていうような発想を変えるだけで、世界との変わり方とか変わらん、もう全部が全部変わっちゃうっていうのがここの面白さだと思うんだよね、僕は。
うんうんうんうん。はいはい。
そこでその傍観者観察者っていう言葉が出てくるんだね。その第三者的な感じになっちゃってるっていうね。
そうそうそうそうそうそう。
はいはいはい。
そこに人間はいなくて理性っていうものがあって、人間はちょっと特別な、やっぱり理性っていうものを持ってる特別な存在で世界を読み解いていくんだという、ちょっとやっぱり自分たちがプレイヤーとして存在しない箱庭をこう中に見てる感じがある。
あ、そうそうそうそう。
プラグマティズムはもう人間もその中の世界に放り込まれた一人であると。人間たちがね。
うんうんうんうん。
自分がその中の一人であって、あとはもう世界をそういう要請に従いながら、見出したい人は見出していくんだと。
うんうんうんうん。
いう話ね。
なんか。
そうね。
なんとなくそのプレイヤーとしての視点が違うっていうのは分かってきた気がする。
そうね。だからあれかも。なんか前もさえ言ったけど、プラグマティズムはちょっとマインクラフトっぽくて。
うん。
過去の、というかね、旧哲学はRPGっぽい感じかもしれない。
はいはいはいはい。
ある程度決められた世界と決められたシナリオの中でやっていくっていう方とね。
そうそうそうそう。
攻略する感じがあるっていうのと、もっとそのマインクラフトの方は自分で世界を作っていくっていう。
そうだね。
うんうんうんうん。
協働作業である。
要はちゃんとその世界に働ける世界からもフィードバックがちゃんと返ってくるし。
それっていうのはちゃんとその自分なりのとか、その場その場なりのやっぱりこう出来事っていうのはちゃんと起きていくっていう感じかな。
うーん。はいはい。ごめんちょっとここにね。
ここにちょっとすごい時間取っちゃったんだけども。
いや、でも大事だと思う。
ここの違いっていうのがやっぱすごくなんだろうな、プラグマティズムの本質だと思うから僕も。
プラグマティズムの理念
なるほど。前回のジェームズから何歩か進んでるわけだよね、そこがそもそもと。
そうそうそうそう。
要はジェームズはそれを批判して、ノーガードで殴り合うっていうのをやったんだけど、ちゃんとドイツはそこに違う柱を立てたっていう感じがするんだよね。
有用性である、そのいわゆる真理、絶対的な真理とはないよっていう話をした上で、そこに対する人間との関わりっていうものをね。
そうそうそう。
先のメンタリティっていうところをここでさらに話している。
それによってやっぱプラゾンとかデパートを乗り越えるぞっていうのがやっぱり留意の大きな方向性なんだよね。
で、ちょっとその後の時に、やっぱ前回のジェームズとかでも話したと思うんですけど、
じゃあ、世界そのものに関わるとか知識を生み出すとかって言ってるんだけど、
じゃあ個々人が勝手好きに作っていいものなのかみたいな話って出てくると思うんですよね。
はいはいはい。
そこはやっぱりディーは全然そんな風には言ってなくて、
そこはパースに近い、結構その客観的とか科学的に、やっぱり仮説検証を繰り返していくべきだっていうことは言ってるんだよね。
ただ他のパースと違ってやっぱ面白いんだけど、
いわゆる検証しましょうっていうと検証のほとんどの行動っていうのは基本的には言語を用いて行われますと。
これも行動主義的なやつと思うんだけど、
言語自体がそもそも社会的なとか文化的なとか、あるいは監修的な、伝統的なものとかを含んでしまうってことは避けられないんだよね。
だから言語である検証っていうのは結局どんな信念にたどり着いたとしても、
結局その言語を共有する共同体の中でとりあえず正しいよねとか、
一定受け入れられるよねっていう、ある種一定の保証付きの信念だっていう風にしか言えないんだよね。
なるほど、その言語の特性上っていう話なんだ、そこは。
もっと言うと僕らの思考とか何かを仮説を明らかにしていくっていう行動を言語でやる以上っていう感じかな。
多分数学とかはまたちょっと違うんだと思うんだけど、
でもできるだけ数学的な言語っていうのを共通に持ってる人じゃないと理解できない、やっぱり真理になるわけだよね。
そういうのも言語の一種かもしれないしね、ある意味ね。
かつずいは信じるっていうのはそういう一定保証されたっていう札付きぐらいでいいんだっていう風に言うんだよね。
要は場にに共通する真理とか信念とかっていうのはそんなに考えてなくて、後までも保証付きですと。
じゃあ真理なんてないんだみたいな、アナーキストみたいなことを言ってるかっていうとそんなこともなくて、
仮に僕らがこれが真理だとかって言ってるのも、結局はある特定の共同体、
要は言語は超えてるかもしれないけど、この21世紀な21世紀っていう時代に生きているっていう共同体の中で合意されたっていう保証を持った信念でしかないよね。
だから真理っていうのはあるかもしれないけど、それは別に永遠普遍でもないし、時代とか場所を超えて必ず受け継がれるかっていうとそんなことはわからん。
だから真理そのものに価値があるとは言わないんだけど、そういうふうに共同体の中で受け入れられる真理とか信念、信じられてることとか、
そこを合意していくみたいなことのプロセスとか、そういうことにはちゃんと価値があるよねっていう風に言うんだよね。
これがさっき言ったダービーの進化論とか平原哲学みたいにはプロセスとか発展していくってことを重視するっていうところにつながってきますと。
かつ、じゃあこことさっき言った世界に関わっていくとか主体的にプレイになっていくっていうことを組み合わせると何が起こるかっていうと、
要はここに人間がどんなふうに社会を作っていきますかとか、どんなふうに共同体を作っていきますかっていう政治の問題が出てくるんだよね。
はい、なるほど。
要は絶対王政とか、要は神が国を作ったみたいなことじゃなくて、ちゃんとその時々の課題とか、その共同体において大事なことっていうのにフォーカスをして、
それに取り組んでいきましょうよっていうことを言っていて、デューイからするとそれが民主主義なんだっていうふうに言うんだよね。
一気に政治の話に映ってたね。
要は共同体の話だからね。
普通は民主主義って要は選挙をして代理人を立てて、その人たちが集団でいろんな議論をして、ある種民意に基づいて国家を運営していくことだみたいに理解されてるものなんですけど。
そうね。
でもデュイっていうのはその仕組み、もちろん選挙とかって大事なんだけど、その仕組みの根底には要はある共同体、やっぱりその共同体ベースなんだよね。
それがちゃんとある問題についてみんなで取り組みましょうとか、それに対してこういうふうな解決の道筋を立てていきましょうとか、
言語と検証
っていうのを模索したり議論したり、一緒に協力したり、あるいは時には反発したりっていうふうなことをやる。
そのスタイル自体が民主主義だ。
要は彼からするとみんなで生きるスタイルを突き詰めていったら民主主義になりました?みたいなことを言うんだよね。
確かにそれは本当にそうで、今も結構政治的な問題で難しいけど、高齢者の福祉にお金を使うのか、次の次世代の子どもの教育にお金を使うのかってやっぱり難しい問題じゃない?
考えたね、お金をね。
それをちゃんと特定してとか、ちゃんとリソースを割り振って、しかもそれがちゃんとオープンな議論の場で行われる。
それによってより正しそうだとか、よりその共同体の中でこっちが正しいという信念がちゃんと浸透している。
そういう状態で物事が前に進んでいくことが大事なんだよっていうのをプログラマティズムから言うと、政治の場面で言えるよねっていう感じなんだよね。
なるほど、この合意形成の部分をね。
そうそうそうそう。
というふうに、もともとはパーソナルの科学の領域で、科学的な環境をどうするかとか、真理にどうたどり着くかっていうようなことをすごく拡張して、
やっぱり国家の運営とか、そもそも社会ってとか、そういうとこにも適応させたっていうのはすごく重要な功績なんだよね。
うーん、なるほどなるほど。確かにここに関しても絶対的な真理がね、国の運営とか社会的な問題ね、絶対的な真理があるんだみたいな話になっちゃうと、
やっぱそもそもこのプロセスではね、合意形成するプロセスを重視するっていうとこがちょっとごちゃごちゃになっちゃうもんね。
そこが合意もないもん、いや真理あるんだからみたいになっちゃうと、なんか下手すると声大きい人分かっちゃったりとか。
そうそうそうそう。
その真理らしきものを、真理を信じさせる合戦みたいになっちゃうみたいなね。
そうそうそうそう。だから結局さ、王権信じてみたいに、やっぱ神が与えた権利で自分は王なんだとかっていう、そっちに行っちゃったりとか。
あるいはもうこの国っていうのは、例えばもう代わりの英国を滅ぼすために今はやるのだみたいになっちゃうと、本当にそれこそ目も当たらないことになっちゃう。
結局こういうような発想がやっぱりこのいわゆるね、現代というか自由とか平等とか言論の自由とオープンさみたいなものに繋がっていくし、
今思ってるとやっぱり世代とか立場を超えてちゃんと議論しちゃうのっていいことだよねとか、そういうことの発想の根本にはそもそもこういうプラグマティズム的な発想が横たわってるんだよね。
わー、なるほど。面白いし難しいしだし、このプラグマティズムっていうものももちろん全然ちゃんと捉えられていないんだけれども、
ここ捉え間違うとさっきのスタンスというかポジション、ただの自分の真理はこれだっていう真理のぶつけ合い合戦みたいになっちゃって、
それがこのプラグマティズムの方向から良しとされるみたいな変なことが起こりそうな感じだね。
そうだね。
そうじゃないのにみたいなね。その真理はないと。それぞれの文脈だったりとか時代だったりとかいろいろなものによって違う。
民主主義と共同体
ただ、今この共同体、僕たちの中でどれが一番真理に近いんだろうねっていうことをきちんと捉えて議論しつくす。
みんながある程度合意できるところ、それはとても難しいことだとは思うんだけれども、それは一種の理想としてのプロセスを重視しましょうっていう、
そこずらしちゃうと違う方向に行っちゃいそうな、やっぱりこれもあれだね、哲学あるだけどさ、変な方向に使えちゃうんだよなって。
そうねそうね、協力であればこそ。
でも逆に言うと、協力な哲学ってものがプラグマティスムにはありそうだっていうところで伝わってきた気がする。
良かった。嬉しい。
まずね、兄貴、前回ジェームズさんとかに言ってくれた通りで、真理は有用性である、役立つことであるという時に、役立つって何よっていう問題は絶対出てくるんだよね。
ただそれはもう主体的に生きていく人間同士が作っていくことでしかない。
どこかにこれが良いことだとか、これが役立つっていう真理なんだってことはやっぱりないから、それぞれお互いに、でもないっていう前提のもとで話し合うと、
じゃあ何が一番大事なんだねっていうような落とし所がちゃんと見つかるよねっていうような、そういう考え方でもあるんだよね。
はいはい。だからそのぐらいの理性は人間には備わってるでしょと。理性とメンタリティーが備わってるでしょぐらいの。理性って言うと混ぜすぎかな。
そうね。理性って言うと混ぜすぎじゃないか。どっちかっていうと、そういうスタンスで生きる時に我々はどんな哲学を持てるんだろうか、みたいな感じかな。
はいはい。人間は不動って実はそっちが自然なんだよって言ってるってことか。
そうそうそうそう。そういうことそういうこと。そうじゃないと結局、真理はこっちだから俺に従えっていう、やっぱそれを超えられないんだよね。
より真理を知っている俺こそが正しいっていう風にしかならないから。
なのでやっぱりこの、さっき言ったダーウィンの進化論がちょっとわかりやすいかなと思うんだけれども、デュインがある一定の条件で一定の保証付きの真理みたいな、信念かなって話があったと思うんだけど、
実際そうだよね。エラ呼吸っていうものがあった時に、水の中で生きる生物にとってエラ呼吸って大正解だと思うんだけども、
エラ呼吸こそが酸素を取り込む、もう真理である、絶対的な真理であるエラ呼吸最高っていうのは違うという話だよね。
その時は絶対それが真理なんだけれども、じゃあその自分が住んでる区域がちょっと冷やがっちゃったという時に死ぬでしょと。
その時にエラ呼吸こそがゼだと言っている人は死ぬでしょと。もしくはね、他の水あるところに逃げることができればいいけれどもできない人どうすると。
やっぱりその口呼吸、肺呼吸みたいなものをちゃんと取り入れていかないと死ぬでしょみたいな、その時々でやっぱり水なくなっちゃったら、やっぱ肺だよねみたいな。
そういう世界に実は人間は生きていると。ずっと水があると思ってるんだけれども、そんなことはなかったでしょという話をプラグマティズムは想定しているのかな。
そうだね。やっぱり前回も信じるってやっぱりすごく無前提に置かれていた話をしたと思うけど、やっぱり例えば僕ら今21世紀でいわゆる平和っていうのを信じている。
平和な世の中だって信じているとか、何か怪我をしたら病院に行って治療を受けると信じているわけだよね。
それはやっぱりこの戦争は既に起きているし、世の中、世界を見れば。怪我をしても治療ができないような人も世の中にいっぱいいれた時に、
あくまでもこの日本っていう国の一定のちゃんと収入があるとか国家の保障を受けた人たちだけのやっぱり真理というか常識なんだよね。
プラグマティズムの現実的な生き方
やっぱりそこに目を向けないと結局そこから、まさに言ったように、そうじゃない現実に向けなきゃいけないとか、やっぱりそういう現実を結局気づいたら失われているみたいな。
ちょっとそうなると陰謀論っぽくなっちゃうけど、そういう可能性までちゃんと目を向けないと、やっぱりなんとなく信じるというか信じさせられているというか、
そういう無意識の中でただただ生きちゃうみたいな感じになると思うんだよね。
なるほど。
ちょっとぜひこの調査時間を取ったこの違い。
お患者と観察者というところと世界に介入するという違い。
ここちょっとぜひまた改めてやってほしいかな。ここがすごく微妙な違いな気がして。
大きい違いなんだけど、微妙な違いに見えるっていう意味でね。
今のハエトンは世界では治療が受けられない気がしてもあるんだけど、でもそういう地域にとっても、例えば平和ってさ、すごく真偽な感じするじゃん。
はいはいはい、それはそうだね。
そこと、そういった地域でプラグマティズム的に生きるってどういうことっていうところの違い。
いいね。
たまたま同じところを向くかもしれないんだけれども、そのプロセスが多分違うはずなんだよね。
はいはいはい。
ただやっぱりそういう平和じゃないところの方が、多分その真偽っていうものが多分有用な場合って多いような気もしてるので、
平和じゃないからこそプラグマティズムは生きる場面で、ただそのプロセスが違うけどたまたま平和って大事だよねっていう。
答えは一緒にたまたまになっちゃったよねみたいなことって結構多いような感覚なんだよね、今、ふわっと。
プラグマティズムの価値観と統一性
ここの微妙な、微妙なけど大事な違いっていうものをね、どっかでまた深掘ってほしいかな。
やっぱりね、この共同体とか、やっぱりどういう世界で生きている人なのかっていうことと、やっぱり切ったのが危害犯罪なんだよね、これって。
ちょっとごめん最後雑談っぽくなっちゃうんだけど、僕すごいニュース見ててわっと思ったことがあった。
前も言ったことないと思うんだけど、バイデンさんいるじゃないですか、アメリカ大統領の。
別にこれは何か、ただただそう思ったっていう話なんだけど、なんかね、去年か一昨年かな、
我々は正義、だから平和のためにどこどこにミサイルを撃ち落としたぜ、言え!みたいなことを言ってたのね。
要は正義の戦争っていう言葉がアメリカにはあるんだよね。
正義のための戦争かな。でも純粋に考えたら、ミサイルを落とすのって正義なのって普通に思うじゃん。
落とすってあれか、ミサイルを発射されたものを撃ち落とすじゃなくてね。
現役とか、どこかの国を守るとか、撃ち落とすだとあれだな、発射したんだね、単純に。
我々は正義のためにミサイルを発射したんだね。
すごい違和感なんだよね、僕にすると。
でもニュースだとアメリカの人たちはヒューみたいな感じで拍手とかしてるわけよ。
やっぱりそれは正義とか平和とかって、たぶん捉え方もそうだし、それを何と信じているかっていうことは全然違うんだよね。
もしかしたら彼らは平和というのはそうしないと保てないものだというふうなことを信じているかもしれない。
僕からするとミサイルを発射するというのはとても平和とは思えない。
でもこれってそれぞれ信念の違いだけなんだよね、たぶん。
逆に言えば平和のために侵略されている時に完全降伏した白旗を挙げました。
その結果国が全部滅びました、全員死にました。
それも平和なのかねと。
逆に言えばね。
ちょっと憲法急増的な話になっちゃうけど、そうなるとさ。
でもそういうことなんだよね、やっぱり。
だからやっぱり永遠編の平和とか平和の真理というものはないとした時に、
僕らはどうやってその平和というのを守りますかとか、
あちらが言う平和とこちらが思う平和って同じじゃないですか、違うんですかとか、
やっぱりそういうのはすごく、何だろうな、
別に日々の中で僕もそんなこと考えないけれども、
プラグマティスム的な発想で言うと、本当はたぶん追求できるとか、
追求することに価値があるっていうことかなって思ったりするんだよね。
なるほど、確かに。
そうだしね、プラグマティスム的な批判から言うと、
今までの哲学が有用なのであれば、
すでに人類は平和にたどり着いてるでしょと、
なのにまだたどり着いてないでしょっていうことは言えたって話だよね。
そうだね、そういうこと、そういうこと。
批判としてね、これまでの哲学に対する、
絶対的な不変な真理、絶対的な平和、みたいなね、対する。
そうそう。
みたいな感じ、やっぱりすごくプラグマティスムって、
僕らがやっぱり考えることの根底にあるというか、
第一回にも言ったじゃないですか、
コンサレのシンキングもプラグマティスムっぽいし、
アイヌキが言った海賊王になるみたいな夢を持つのは良いことか、
プラグマティスムだみたいな話って言ってたと思うんですけど、
それは結局プロディスが大事とか、
やっぱりそうやってオープンな場で真理とか見つけていくとか、
その知識を増やしていくという営み自体が、
やっぱりプラグマティスム的な発想の中に含まれるんだよね。
なるほど、なるほど。
何にでも適応、適応って言っちゃっていいの?って言ったんだけれども、
本当にやっぱね、今までの哲学を覆すほどの大前提まで聞き込んでいるから、
こそ言えたんだね、何にでも適応できちゃうよ、みたいなね。
ある程度、そうそうそう。
そういう発想、
雑魚さんもそういう発想の元に僕らは考えてるよねっていう、
その土台だよっていう感じなんだよね。
私、パースとかこのデュイとかジェイムズ的に言うと、
それこそが人間の自然な挙動だよとまで言っちゃってるからって話だね。
そうそうそう、そういうこと、そういうこと。
なぜなら真理はないからね、みたいな、そういうこと。
ごめんなさい、真理はないじゃないか。
真理はあるかもしれないけど、永遠不変ではないからか。
そこ大事だね。
プラグマティズムの進化と現代への適用
大事だね、そうそうそうそう。
いやーでもこれがね、本当にまさにブーメランでさ、
プラグマティズムのこう言ってるのも一つの価値観かもしれないっていう意味で、
たぶんこういう風に言ってる人たちはね、自分がこういう風に言ってるのもっていう話はしてるんだろうね、たぶんね。
一個の価値観というか態度だよっていう話はもちろんしてる。
してるんだ、はいはいはいはい。
ただやっぱそれを相対主義で、じゃあ何でもいいとやっぱならないためにどうするかっていうのは結構大事な話で、
だからこそ、じゃあパースやってジェームズやってデュイやって、これでプラグマティズム完成ですってならないのはまさにそこで。
あ、ならないんだ。そっかそっか、まだあんだ。
ならないならない。
ある程度その土台はできたって話なんだけれども、
じゃあこれでプラグマティズムがね、哲学性で万着になったかって言うとやっぱそんなことはないんだよね。
あ、そっかもうなんか最終回ぐらいの気持ちで聞いてたけど違うのか。
そうだよね、そうそうそうそう。まだ実は続きますと。
なんだかっていうと、やっぱ兄貴が言ってくれた通りちょっと理想論的な話でもあるし、
さっき今回言った通り、このデュイが来てる時代にも南北戦争があり、大恐慌があり、第二次世界大戦がありみたいな感じで、
やっぱそんなもうオープンな対話とか言ってらんねえよみたいな。
もうそんな時代なわけだよね。
そっかそっか、実際もうやばい時代経験しながら来てる。
かつ、ちょっとその第一回も言ったかもなんですけど、哲学的にも論理実証主義みたいな結構強い発想がバンってイギリスとかの方で生まれて、
結構それにも押されて、プラグマティズムって結構勢いを失いかけるんですよね一時期。
もうちょっと下火になっちゃってるんだけど、そっからさらに息を吹き返して、
ネオプラグマティズムみたいな、やっぱりプラグマティズム大事だみたいなものが1950年代以降に盛り上がっていきますと。
やっぱそれっていうのは、いろんな反省を踏まえながら、
でも根本的にはプラグマティズム的な、これまで第三回でお伝えしたけどのことを土台にしながら、
もっともっと現代に合うような発想を繰り広げていくみたいな感じなんだよね。
なるほど。さっきさ、サムを感動しましたみたいに、
ハエトンが倍年にアメリカは平和を言いながらミサレルを撃つみたいな。
こっちは平和と言いながら滅ぼされていくみたいな話をたとえましてしてたんだけど、
もう実際にデュイとかその後の人たちはある意味経験してるんだね、それはね。
そうそうそう、そういうことを実体験というか、向き合わざるを得なくなってるんだよね。
プラグマティズムはそれを経てるんだね、ちゃんとね。
そうそうそう、そうなんです。
なのでちょっと次回と次次回、ちょっと2回分くらいで、
じゃあその後のプラグマティズムってどうなのよとか、
じゃあ現在においてプラグマティズムってどうなってるのみたいなところまで、
ちょっと話を持ってきてみたいです。
なるほど、危うく終わっちゃうところだったね。
そうそうそう、やっぱりね、この3人がプラグマティズムの代表者っていうのは間違いないから、
やっぱりここまで結構いってきれいにはなるんだけど、
きれいすぎるんだよね。
現実に切り込んで、現実のプレイヤーとして生きていこうっていうには、
ちょっと理想的すぎる部分もあるから。
ちゃんとね、もっとここからデュインが来た時代から、時代もやっぱり50年、何十年経ってるから、
その分、ちゃんとプラグマティズムというものは進歩し続けてるんだよという話ですね、そこは。
そうです、そうです。終わってないんだよ。
いやー、安心しました。
そのまま滅びたやつじゃなくてよかったですね。
だからね、やっぱり僕もすごい面白いなって改めて思ったし、
聞いてる方からしてもちょっとお腹いっぱいという人もいるかもしれないんですけど、
ちょっとご自身のペースで楽しんでいただきつつも、
ぜひプラグマティズムもう一歩深く楽しくお伝えしていきたいなと思うので、
もうちょっとお付き合いいただけると嬉しいなと思っている感じですね。
ちょっと熱くなってきたところでまた次回というところですね。
いやー、でも本当思ったより深いというかね。
偉そうけどね、思ったより深いなって。
いやいや、でも兄貴がそう思ってくれたってことは、やっぱ哲学として、
それこそちゃんとした発想なんだとか思想なんだって思ってくれたってことだと思うから。
そうね、素人が今の感覚で聞いてもすごい楽しめる部分が、
今の時代にも繋がっているということで、すごく身近な感じもするし、
ちょっとさらに現代に近づくというところで、
プラグマティズムがさらに洗礼されていくと。
どういうふうに洗礼されていったかみたいなところを見ていきたいと。
では次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
54:29

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