1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
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2023-09-10 42:44

#144 「プラグマティズムは哲学に非ず!」そんな批判をはねのけたジェイムズの会心の一撃

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

プラグマティズムの創始者であるジェイムズの考えによれば、真理は我々の思考方法において有用なものであると考えられます。また、人間の行動には信じるという意志が背後にあると考えられます。彼の哲学書『信じようとする意志』では、信じることの意味や背景について深く探求しています。ジェームズは、哲学の真理と役立つことの区別を批判していますが、彼自身も真理と価値の分け方に疑問を持っています。ジェームズのプラグマティズムの主張による批判に対して、彼は答えることなく自己の態度を示すことで、哲学との関わり方が開かれた宇宙観を提案しています。この宇宙観は、プログラムアーティスムの始まりと発展、パースとジェームズの批判的な話、そしてデュイの広がりなど、プラグマティズムの強さを示しています。

プラグマティズムの創始者、ジェイムズ
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回もプラグマティズムということで、前回のパース、プラグマティズムの創始者、パースに引き続き、今回はジェイムズというところでした。
はい、前回お伝えした通り、パースというのは、このプラグマティズムを生み出した人、創始者です、みたいな感じなんですけど、
このジェイムズさんという人が、いわゆるそれを広める役割を果たした人みたいな、育ての親みたいな、産みの親に対する、そんな感じで言われることがあります。
ちょっとこれもね、もちろん人によって違うと思うんですけど、パースさんだけだと、もしかしたら科学的な、前回もやったじゃないですか、どっちかというと研究とか科学っていうのが大事みたいな感じだったんで、
でもするとその領域だけに留まっちゃって、そんなに広がらなかったかもな、みたいなことが言われてるんですよね。
はいはい、本人はあれなのかな、哲学をやってるつもりだったのかな。
哲学者ではあるし、哲学としてもちろん物事を考えてはいるんだけど、
っていうふうに自分でも思ってた?
そうそうそうそう、パースさんはね。
フッサールの時にやったみたいに、学問の基礎を形作るとかっていうのも立派な哲学だから、
そういう意味では全然いいというか正しいんだけど、
それをね、このジェームズさんがより広いところに適応したみたいなところがあって、
もっといろんな人がプラカンティズムっていいとか悪いとか、そんな盛り上がるきっかけになったみたいな感じなんだよね。
なるほどなるほど。
ジェームズさんの言葉には結構衝撃的な言葉があって、どんなものかっていうとね、
真、いわゆる真理っていうのは極めて端的に言えば、ただ我々の思考という方法において有用であるということであるって言葉があるんだよね。
おお、結構これさね、これ怒られそうだよね、昔の哲学者に。
いや、めっちゃ怒られてる。
最初のあれだよね、プラグマティズムの実用的とか実利的の対する批判を一心に受けそうだね。
そうそう、言い逃れできないみたいなね。
だから真理って役立つことだみたいなぐらいに言ってるのよね。
ちょっと今兄貴も驚いたと思うんだけど、これって一般的な真理とは何かとか、真理ってこういうものだよねっていう捉え方とやっぱり大きくずれてるんだよね。
感じがするよね、これまでついてきた真理とは何かみたいなものに対してね。
結構僕も衝撃的だったんだけど。
じゃあなんでそんなこと言ったんですかとか、やっぱり兄貴が言ってくれた通り、これに対して同じ時代の哲学っていう世界とか界隈においてもどんな反応があったのみたいな。
ちょっとお伝えしながら、このジェームズのことをお伝えしつつ、プラグマティズム全体のことっていうのもちょっと発展してお伝えしていきたいなっていうのは今回やりたいことでございます。
最初からぶっこんできたね、ジェームズね。
たぶん後からは増えると思うけど、この話しちゃうとさ、じゃあそもそも猶予とは何かっていう真理を求め始めちゃいそうじゃん。
そこでなんかね、いたちごっこというかね、結局昔の真理とは何か、真理は絶対的なものであるっていうことと、
ジェームズの主張においても猶予であるっていうところに対して、そこに対する真理を求めちゃいそうだから、そういう話、たぶんそういう違反もあったのかなと勝手に思っちゃうよね。
いいね、確かに。猶予であるとは何かみたいな、そういう話だよね。
本当、なので今日そういうところも考えながらというか、自分の中でも思いながら聞いていただけたら嬉しいなと思うんですけど、
信じるという意志の重要性
簡単にジェームズさんってどんな人なのっていうところからなんですけど、
彼は1842年にニューヨークに生まれていますと、
ファーストさんが生まれたのが1839年なので、ほぼほぼ同世代だね。3年違いとかなんで。
実際に友人同士で結構仲良かったみたいな話もあるんですけど、
ジェームズさんはですね、もともといわゆる資産家みたいな感じで、
おじいちゃんがアメリカに渡ってきて人財産を築いて、
お父さんも別に仕事をしているというよりはお金があるから、
定職仕事に就かずにいろんな研究ばっかりしてたみたいな。
そんな人だったらしいんですよね。
なんかめちゃくちゃ羨ましいなとか思うんですけど、
羨ましい。
羨ましい。僕もそんな人生が良かったみたいな。
そんな家だったので、ジェームズさんもですね、
お父さんが学校に行かせるんじゃなくて、結構ヨーロッパ、アメリカに生まれたんだけど、
ヨーロッパのいろんな街並みあたりとか文化とか、
そういう風に触れさせるみたいな生活を送ってたらしいんだよね。
なるほど。
だから別に学校でめちゃ優秀で勉強してましたとかじゃなかったんですけど、
むしろそんな暮らしだったから、彼も文化とかに興味を持って、
最初は画家になろうと思ったんだって。
おー、なんか金持ちあるあるっぽい。
そうそう。
先生のところに行って勉強するんだけど、
半年ぐらいで、あ、俺才能ないわって気づいたんだって。
すごいね、でもね。
そうそう。ちゃんとやったなって思うんだよね。
そこから辞めて、いろいろあってハーバード大学に入りますと。
結局あれだね、ストレートの学問の病気に戻ってきた。
そういうこと。
入れたから勉強もできたのか、このようなのかちょっとわかんないんだけど。
そこはね、なんとも。
でもただそこから普通に医学とか心理学とか学んで、教授にはなるんだよね。
ただやっぱり人間をより深く理解したいみたいな気持ちがあったときに、
それって医学というよりは体に向き合うとか、心理学というよりはここに向き合うんじゃなくて、
哲学だみたいな感じになって、哲学教授にもなりますと。
どこに興味があったんだろうね。
やっぱり人間の理解とか、より深く物事を理解したいっていうのがあったんだと思うんだよね。
天才派だったのか教育がね、お父さんの教育が良かったのかわかんないですけど、
普通にそうやってね、教授にもちゃんとなって活躍されますみたいな、そんな感じの方なんですよ。
ただそんなにいろんな学問を学んでるぐらいなので、哲学の本を出したっていうのは結構遅くてですね。
これが1897年なので55歳の時なんですよ。
そうなんだね。
だから哲学者としての活動っていうのは結構晩年みたいな感じなんですけど、
それでもやっぱり後世というか、現代に至るまで結構大きな影響を残すような方でございますと。
もしこのジェームズさんだけを取り上げるなら、医学ではこうで、心理学ではこうでとかってやるんですけど、
今回はちょっと1回分でやるので、哲学者としてというところにフォーカスをするんですけど、
彼がどんなことを考えてたかっていうと、最初に出した本の哲学書のタイトルが、「信じようとする意志」っていう本なんですって。
なんでその信じようとする意志みたいなものが哲学の話になるかっていうと、
前回パースの時に話したように、人間って何かをする、行動するっていう背後には、
何かを信じているとか、あるいは信念みたいなことを持っているって考えられるんですよね。
例えば前回自動販売機の話したの覚えてるかな。
本物の疑いとは何かみたいな話をしたときだよね。
そういうこと。パースが本物の疑いが大事だとか、方法的会議と比較してってやつなんですけど。
基本的にあれだよね。お金を入れれば自販機って出てくるけど、それが出てこないときに自動販売機が悪いのか、自分が悪いのか、お金を入れ忘れたのかみたいな。
これをお互い今、生じてみたいな話をしてたよね。
そうそうそうそう。それを検証して確かめていきましょうみたいな話だったんですけど、
逆に言うとね、要はその自販機にお金を入れたら飲み物が出てくるみたいな話って、
それやっぱりいちいち疑ってると、なんかそれこそ安心して生きていけないじゃないですか。
ちょっとデカルトっぽい感じになる、それは。悪い疑いみたいな。
そうね、悪い疑いになる。
パースが言うところの。
信じることの考察
あと単純に、日常生活においてやっぱり物事を信じてるって、もう本当基本の態度だよねっていう感じなんですよね。
そっか、ここの自販機はいいけど、次のあっちのコンビニの前の自販機ダメかもとかって既に思い続けるみたいな話になる。
そういうことそういうこと。
自販機で言うと。
自販機で言うとね。
で、やっぱりそういうことで生きづらい?
はいはいはい。
だからこそ、デカルトも疑うっていうことを大事にしたんだと思うんだけれども、
じゃあ、そういういろんな行動の背景にある信じるっていうことって、
人間の意志の力で実現できるんだっけみたいなことを考えだすのね。
はあ、そうなんだ。ちょっと興味深い感じするね。
疑うのを確かに反対が信じるとかって考えると、そっちの信じるみたいなものがテーマになったのって初めてかもね、この恐れてつらい情報で。
そうそうそう、そうなんだよね。
だから疑うとか懐疑とかね、やっぱりそれって本当なのってよく言うんだけど、
それって本当であると信じてるってどういうこと?っていうことに目を向けるんだよね。
はいはい。
つまりさ、僕らじゃあ、例えば自販機が置かれられても出てこないかもしれないとかって疑っているってなったときに、
そもそもそれっていうのは、自販機が置かれられたら出てくるってことを信じていることを疑うっていう、
その疑う前提にやっぱり信じるってことがあるわけなんだよね。
はいはい、なるほど。その土台としてね。
そうそう、土台として。
疑うためには信じてないとっていう前提がないと始まらないよねっていうね。
そういうこと、そういうこと。
なので、やっぱりその信じるっていうのはいろんなことの土台にあるわけだから、
何かを新しく信じるっていうのも一つの構造じゃないですか。
構造、はいはいはい。
何かを信じたいって思うとか、
例えばじゃあ兄貴が言った言葉をちょっと嘘っぽいけど僕は信じるよってなったときに、
それって何だろうな、自分の意思として信じることができるのかとか、
信じるってそもそもどういう働きなの?みたいなことを考えていくんだよね。
なるほど、あれだね、昨日庭で土の子を見たんだって言ったときに、
それをどう信じるか、信じないのかっていうね。
そうそうそうそう、信じないのか。
だから土の子を見たのは嘘、土の子がいるとは思わないから嘘だけど、
でも何かを見たのは本当なんだろうとかってやっぱりそういうところでいろいろ考えるわけだよね。
話、そもそも土の子はいないと信じているみたいなところも、
どこでそれを信じたのかみたいな話だよね、そもそもっていうね。
絶対に否定をされていないはずなのにみたいな、そういうのがあるじゃないですか。
そう考えるとちょっと複雑っぽいんだけれども、
実はそんなに入り組んだ話でもなくて、
要はファーストから言うのに客観的な証拠が集まれば、
信じるとか疑ってもできるわけだから、
みんなで探求して仮説を明らかにすればいいじゃんとかっていう話もあるんだよね。
要は土の子がいるって兄貴が言ったときに、
世の中の兄貴以外の人は土の子っていうのは見たことがないとしたら、
おそらく見間違いじゃないっていうふうなのが正しかろうと。
そうだね。こんなに探したのにいないよねと。
そうそうそうそう。
いうことはもうやってるよと。やってるよって話だね。
やってるよと。
ただそれって実は難しくって、客観的にはそうなんだけど、
兄貴がいやでも俺は絶対土の子を見たんだって、
もし信じているとしたら、
それってやっぱりなんだろうな、
それを疑いなよって言うってすごく難しいことだと思うんだよね。
なるほどね。
ちょっとそれが100%いないことを証明できてるわけでもないっていう。
だし兄貴は見たと言っているっていう。
いうようになったときに、
前回話した正義とは何かみたいな話は結構近くて、
正義とはこれこれだみたいな、
誰もが共通で定義できるものって多分ないんだと思うんだよね。
真理と価値の区別
正義を見たことがあるって言う人もいるかもしれないけど、
正義派の人は見たことはないよっていう話ね。
俺はあれが正義だとか、
いや俺はこっちが正義だってやっぱりそんな風に言えてしまう。
それって客観的、科学的にはなかなか検証できないよねって話があって。
そうなると、もちろん定義ができないから共有できないって話もあるし、
あとは何を良しとするかっていうところも、
共通認識が持ちにくいっていわゆる倫理の問題になってくるんだよね。
例えば僕にとっての正義っていうのは、
悪を許さないことだったときに、
それって良いことなの?みたいな。
あ、悪だからって断罪しまくってる。
お前って本当に正義なの?みたいな。
結局そういう問題が出てきますと。
そうだね。
悪とはそもそも何かっていうさっきの話と一緒だけどね。
結局ね、ぐるぐる回っちゃうじゃないですか。
そんな風に、むしろそうやって客観的に定義できないとか、
みんなが共通理解を持てないものを、あえて共通理解を持てるって思い込んじゃってる。
むしろそれ自体が悪じゃないとかっていう話になっちゃうんだよね。
はいはいはいはい。
っていう風に、やっぱりパーソンの言うような客観的とか科学的な検証というだけだと、
やっぱり適応できないものがあると。
そうしたときに、このジェームズの発想っていうのがすごく役立ってきて、
ジェームズさんはね、まず大前提として、
今言ったような科学的とか客観的な方法だけが、
心理を探求する手段じゃないんだよっていうことを結構強く言うんだよね。
うーん、はい、なるほど。
うん、そうね。
さっき言った通り、いろんな文化に触れて画家にもなろうっていう人だから、
芸術とか宗教とか政治って、
やっぱり何を信じるかとか、
何が良い悪いとかって、やっぱり簡単に区別できない。
うんうんうん。
芸術とかもさ、すごく下手みたいな絵が実はすごいんだみたいな価値を持つこともあるし、
ただただ上手ければいいわけじゃないみたいな、そういう世界ってあるじゃないですか。
はいはい。
であった時に、ここでね、それって人間の理性は正しく使えてないから、
美っていうのはもう正確な美の真理みたいなものがあって、
それに近づくことが人間の芸術だとかって言ったらやっぱりおかしい。
うんうん、なるほど。
人間のいろんな想像力とか発想力とか、むしろ汚いものが綺麗だみたいな、
逆説的なものとかってあったりするじゃない、人間って。
そういうのを取り逃しちゃってるんじゃないか?みたいなことを言うんだよね。
で、なった時に、やっぱり冒頭に言ったような、
真理っていうか真っていうのは、いわゆる僕らの思考において役立つことだ、有用なことだみたいなことをね、
さっき言ったと思うんですけど、
うんうんうん。
ここと結構繋がってくるんですよね。
で、何かっていうと、
今、真理っていうのは状況と独立してあるんじゃなくて、
僕らはこの生きている現場の中で、
あとからこれは真理だったっていうふうに、
確かめられるものなんだっていうふうにジェームズさんは言うんですよ。
うーん、はいはいはい。
これどういうことかっていうと、
例えばさっき兄貴が言ったようにさ、
例えば昨日土の子を見ましたみたいな話があるとしますと、
言ったときに、僕はいろいろ考えるわけだよね。
要は土の子がいないっていうのは兄貴はきっとわかってるだろうと、
一般的な知識として。
はいはいはい。
でもそれを真理だって僕に言ってくるっていうことは、
きっともうそれは本当に土の子だとしか思えないものを見たのだろうかとか、
でもあるいは嘘をついて僕を騙そうとしてるんだろうかとかっていろんなことを考えたときに、
兄貴が土の子を見たっていうのを、
僕が信じたほうがいいか疑ったほうがいいかっていうのは、
その瞬間によって決まってくるというか、
僕と兄貴が話している現実の中において何が正しいか、
要は僕は兄貴を信じたほうがいいのか、
人間の善悪の判断
信じないほうがいいのかっていうことが決まってくるよねっていう感じなんだよね。
それはハヤトにとってってこと?
そう、僕にとって。
ハヤトにとってって感じかな。
はいはいはい。
だから信じるとか疑うって、
要は正しいことは信じて間違ったことは疑うみたいなそんなシンプルなことじゃなくて、
そういう生きている現場の中で、
これは自分にとって信じるに値するとか、
これは疑うべきだみたいな、
すごく主観的なものとか含んでるよねっていう風に言うんだよね。
うーん、はいはいはい。
なるほど。
なんとなく伝わってきてるかな。
そうだね。
ただここまでだと、
その有用っていう部分ではね、
その真偽とはなくて、
むしろその有用かどうか、
それこそ前に話した意味があるかどうかで決まるんだみたいな話で言うと、
何でもありみたいになってきて、
逆にその意味って何?みたいなさ、
そこにたどり着く感じがするから、
今ちょっとまだ拡散、
ふわーっと拡散してる状態な感じがする。
ジェームズすげえとは全然まだならないよね。
OK。
でもそこまで言ったら次のステップなんだけど、
あれからやってくれた通り、
それって結局真理っていうのを個人の好みとか好き嫌いとか、
マリアでもっと言うと偶然?
みたいなのに置き換えちゃうんじゃない?みたいな。
それって真理って言ってるけど、
全然真理っぽくない?みたいな感じで思うと思うんですよね。
そうね、悪い意味での相対主義みたいな。
そうそうね。
それは実はやっぱり当時もそう言われたし、
ジェームズもそこに対してはすごく考えてるんだよね。
これはもうちょっと哲学的に言うと、
そこで起きてる問題というか、
なんでモヤモヤするのかっていうと、
真理と役立つと有用性。
つまり真理って言うのは、
物事がそのようにあるとか正しいっていうことだから、
現実的にそうであるっていうことと、
役立つってことは要はそれに価値があるってことだから、
ある物事に優劣がつくっていう、
要は物があるっていう話と、
ある物が他の物より優れてるみたいなことって、
全然違うレベルの話なんだけど、
それを一緒にしちゃってるっていうのが、
ジェームズの問題なんだっていうふうに、
他の哲学者が捉えるんだよね。
他の哲学者が捉える。
他の哲学者が捉える。
もちろんジェームズ自身も、
そういう問題があるっていうのは理解してるんだよね。
例えばよくある例として、
よくあるっていうのは哲学的によく言われる例なんだけど、
人間は死ぬみたいな言葉がありますと。
これもいろんな議論はあるんだけれども、
普通に考えたらこれって真理というか、
疑いようがないことなんだよね。
みんな生まれてきた人間は基本的には死んでいると。
この言葉に何らかの良し悪しがあるかっていうと、
別にこれはニュートラルなんですよ。
例えば自分が死ぬってなったら、
それって悲しいとか嫌だとかってなるんですけど、
人間は死ぬっていうのは、
真理自体には別に色はついてないというか、
それは当たり前に起こることであって、
悲しいとか嫌だっていうのは、
人間が死ぬっていう事実とか真理とは、
全然違う次元の話なんだよね。
でもやっぱりジェームズはこれが、
一色体になっちゃってるような感じがするんだけれども、
ただジェームズが主張してるっていうことは、
人間はね、たとえ死んでも、
心の中で生き続けるみたいなさ、
そういう考え方があるじゃない。
それでその人の悲しみが癒されるんだとするならば、
人が心の中で生き続ける、
これも真理だみたいな、
そんなことを言ってますと。
これって哲学っぽくなさすぎるじゃないですか。
そうだね、カウンセリング的な。
哲学と価値観の対立
でも役立つよね。
兄貴が誰かが死んで、
身近な人が死んで悲しんでる時に、
いやいや人間は死ぬもんだよって言われるのと、
心の中で生き続けてるよって言われる時に、
どっちが自分にとって役立つかっていうと、
もちろんね、
それはその時だと分かんないとは思うんだけど、
そういうことは多分考えると思うんだよね。
まあね、はいはい。
でも哲学というよりは宗教の分野になってきてる気がするけどね、
そういうわけだと。
だよね。
で、手を合わせた時に、
いやいやとジムザ言うんだよね。
それで哲学っぽくなくない?
それこそ宗教じゃないってなった時に、
いやいや違うんだと。
むしろ根本的に言うんだけど、
要は事実と価値を分けるっていう、
それとも哲学的なまさに発想なんだけど、
それ自体が偏見なんじゃないかっていうことを言うんだよね。
おお、そもそもと。
そう、そもそも。
嫌みたいにもやもやしてるっていうのは、
要はもう哲学の伝統的な価値観に縛られちゃってて、
むしろちゃんと哲学できてないんじゃないかみたいなことを言うのよね。
おお、なんだ。
哲学を批判しといて、哲学できてないんじゃないかと。
そうそうそうそう。
じゃあ哲学とは何かと。
うん。
はいはい。
哲学をやっぱり乗り越えようとするわけよ。
例えばさ、もし本当に人間がね、
純粋な知性とか理性みたいなものを総動員して、
正しい思考にたどり着くとしますと。
うんうん。
っていうのがあるとしたら、
でも待ってよと、
僕らってもう2500年ぐらい、
その観念論だ、優仏論だとか、
よくね、それでスラジオである一元論だ、二元論だとか、
その中に真っ向から絶えずる思想が、
それぞれ自分が正しいって言って、
いっぱいできるわけがないよねと。
おー、はいはい、なるほど。
うん。
それって結局、何が真理かっていうのを議論してるんじゃなくて、
結局はその人その人の世界観の捉え方とか、
世界観の対立であって、
うんうんうんうん。
それって結局、事実の話じゃなくて、
価値の話、もともとしてないっていう風に言うんだよね。
おー、なかなかきつい。
うん。
すごいね。
あー。
そっか、そもそもあれだよね、
少なくとも例えば、人間が哲学をやり始めて二千何百年、
理性だ理性だ言い始めて数百年経ってると。
そうそうそうそう。
もし本当に人間が、
人間という存在が理性っていうもの、
さっき言った、純粋な知性だったりとか、
そういったものを本来その備えていて、
それぞれが本気で考える、
それぞれが真理っていうものを考えたときに、
もし絶対的な真理っていうものがあるのであれば、
すでに人種はそれにたどり着いてるでしょうと。
そうそうそう。
なのにこんなにもいろんな、
対立概念だったりとか、
あーだこうだ、まだ正義とか、
そういうものについてもうたどり着いてないと、
これがいいんじゃない、これが悪いんじゃないと、
いう話をまだしていると、
っていうことはそんなのないでしょうと、
そうそうそう。
そんなのないし、
一言論っていうのは、
全部が一緒だとか、
っていうのが好きな人が言ってることで、
二言論っていうのは、
かっちり分けたい人が言ってるっていう、
それに過ぎないんじゃね、みたいな感じなんだよね。
はいはいはい。
ジェームズのプラグマティズムによる批判への回答
うわー、そこはちょっと批判難しいかもね、確かに。
そうそうそう。
どうかなー。
これが結構、
ジェームズがプラグマティストとして、
実は世界に投げ込んだ問いなんだよね。
はいはいはい。
結構これって、
言われてみたら、
確かにね、みたいな。
結構通列だね。
科学的にね、
人間っていうものを捉えたときに、
そういう挙動になってないっていうね、
挙動になってるはずって言ってるのになってないじゃん、
そうそうそうそう。
現実をね、
事実を突きつけられるわけだね。
そういうことそういうこと。
事実らしきものかもしれないけど。
そうだね。
へー、これは面白いね。
そう。
だから批判には答えてないんだよ。
お前の哲学宗教っぽくね?って批判には答えてないんだけど、
そもそもお前が言ってる哲学って間違ってね?っていう、
そっちから切り崩していくみたいな感じなんだよね。
論点ずらしたようには見えるんだけれども、
ただそういった質問自体はね、
あなたに言ってることは哲学じゃないっていう質問に対して、
その質問自体が哲学っていうものに一脚してないんですよって言われちゃうと、
相手の語る質問とか、相手の主張が全部崩れちゃうっていう。
そうなんだよね。
まあ恐ろしい手法だね、これは。
恐ろしい。
なんかノーガード戦法みたいな、
お互いにぶん殴り合ってるみたいな感じなんだけど。
結構だから僕は、
プラグマミティズムを第1回、
もっと早く読んでおけばよかったみたいなことをお伝えしたと思うんですけど、
結構ここも衝撃的だったんだよね。
確かにね、みたいな。
いやー、すごいね。
リティカルシンキングだね、哲学に対する。
いやー、そうだね。
そうそうそうそう。
だからやっぱりね、
もっと言えばさ、
前回もパースの時にお伝えしたように、
やっぱりそもそも人間の外、
世界の外にやっぱり真理とか明石な理性とかがあって、
物事を新しく捉えるんだっていうのって、
やっぱりそのデカイレットとかから始まってるわけだけど、
そこに対する通列な批判というか、
反省がやっぱりプラグマティズムにはあるんだよね。
そんなもんじゃねえだろうと。
どっちかっていうと、
その経験を積み重ねて、
都度都度反省をしながら、
世界と関わり合って生きていくっていう、
それが人間じゃないかと。
だから逆に言うと、
この世界にさ、
神とか究極的な原理みたいなものがあって、
それが世界を全部秩序化させて作ってて、
人間がそれに気づいてないだけみたいな話っていうのが、
結構昔の考え方なわけだよね。
これって哲学者だけじゃなくって、
ガリレイって言うじゃないですか。
科学者というか天文学者の。
彼も残して言う言葉として、
神には二つの書物が書かれたと。
二つ。
一つは聖書で、
一つは自然だみたいな言葉があるらしくて。
自然っていうのは神が作ったものを、
人間が解き明かすっていう、
そういう作業なんだみたいな考え方があるんだよね。
はいはいはい。
そうなっちゃうと結局、
全ての物事っていうのは、
一つの神とか、
究極的原理みたいなものにつながっていて、
そこに至るのが人間の、
幸せだとか、
最終的な目的だみたいな話。
これって結構哲学とかプラトンも言うところの、
善のイデアを知るみたいな感じなんだけど、
それがそもそも間違ってるんだと。
世界っていうのはあくまで開かれてるし、
究極的なものもないし、
瞬間瞬間に作り出されてるものなんだと。
宇宙観の変化
だって僕らの世界ってそうじゃないと。
いろんなことが起きるし、
正しいことは間違ってることはあるけど、
それを一つずつ乗り越えていくのが人間じゃんみたいな、
結構そんな感じなんだよね。
うーん、はいはいはい。
ただそれを、
なんとなくこうだってポエム的に言うんじゃなくって、
今日はそこまで言ってないんだけど、
いろんな哲学者の考え方とか、
学術的なこととかも使いながら、
ジェームズさん自体は、
多元的宇宙論っていうような言葉で、
それを表現するんだよね。
なんかすごい世界観がどんどん広がってるね。
宇宙。
そう、宇宙論。
だから要は神が作った一元的な、
一つの真理しかない世界なんじゃなくって、
いろんな物事が起こっていいんだっていう、
そういう開かれた宇宙観とか世界観っていうのを、
やっぱりジェームズさんは提出しますと。
だからやっぱりこの世界っていうのは、
誰かの意思のもとに作られたわけじゃないし、
もし仮にそうだったとしても、
この世界は誰かが作ったっていう信念、
それを信じるっていうことが、
あなたにとってプラスになりますかどうですかっていう、
それを有用性、役立つっていう基準を持って、
生きてるのが僕ら人間だよねっていうふうに言うんだよね。
むしろそれをすることが人間が、
その真理と関わる態度。
だから神とか教育的な原理が作った真理っていうのを、
一心に信じるとか、
そこにたどり着こうとするんじゃなくて、
ずどずど自分でこれは真理か真理じゃないかとか、
そういうものをやっぱりどんどん発見していく、
探求していくっていうのが、
新しい哲学的な態度なんだっていうのが、
このジェームズのプラグマティズムの主張なんだよね。
はいはいはいはい。
なるほどなるほど。
ここで言ってるのは、
ここで言ってるのは、
さっき悪い相対主義になりかねないみたいなさ、
ある意味自分にとって、
有用なことを信じるってことが、
ある意味人類だったりとか、
他の人にとって悪とか、
害になりうる場合ってあると思うんだけども、
たぶんそういう批判もあるかなと思ったんだけども、
ここまでの話を聞いて、
おそらくこのジェームズが主張してる、話してるのは、
あくまで態度の話であって、
その後の話はしてないんだよね、たぶんね。
そう、そこまでしてない。
哲学、何か真理を求めることが哲学だ、じゃなくて、
人間とは、
その哲学というか真理との関わりっていうのは、
そんな絶対的な何かにたどり着くような、
その神が書いた本を開いて、
解読していくような作業ではなくて、
あくまでその時々に、
個人個人だよね、
何かと出会った時、
何か事実に出会った時に、
それを良いとか悪いとか、何か思うよね、
それはもう、それぞれがそれぞれの分野けど、
思っちゃうよねっていう、
そこまで、みたいな話だよね。
そうそうそうそう。
その前提で哲学ってものを考えることが、
これからの真理っていうものとか、
哲学を考える上で、
必要な土台となってくんですよ、まで、みたいな話。
おっしゃる通りです。
はいはい、これ難しいというか、
すごい批判されそうだね。
そうそうそう、そうなのよ。
また、またというか、
この時代はまだナチスとか全体主義ってできてないけども、
そうだね。
やっぱその自分にとって、
例えばそのユダヤ人がダメだってことを信じることが、
もしくは信じないと逆に自分が死ぬみたいな立場に
置かれちゃった人たちもいるだろうし、
本当に信じていた人たちもいろんな人がいる中で、
プラグマティズムと他の哲学的な視点との関連性
そうするとこれが減らすとやっぱり、
こういったことが正当化されかねない理論ではあるんだけども、
そうじゃないよっていう話だよね、ここまで。
そうだね、そうだね。
だからそれが悪い方向に出たのが全体主義だけども、
と言えるかもしれないけども、
あくまでここまでっていうね。
そうそうそうそう。
そうなんだよね。
だからそこの何をじゃあ信じなさいとかってことまでは言ってなくて、
人間とはそういうものだし、
哲学というのはそういうところから始めませんかっていうところなんだよね。
はいはい、そういう挙動があるからね、その前提でと。
そうそうそうそう。
はいはいはい。
でもすごい、兄貴が今言ってくれた通りで、
ただやっぱり聞く人からするとというか、
ジェームズの本を読んだ人はすごく簡単に批判をするわけだよね。
それってまさに壮大すぎじゃんとか、
好きかって言ってるだけじゃんみたいになるんだけれども、
やっぱりその、なんだろうな、
じゃあこの態度自体を否定できるかっていうと、
やっぱりそれを否定しきるのはすごく難しいような、
あまりにも正しいことを言ってるようにやっぱり僕は感じるんだよね。
いやーあれだよね、さっきの人は死ぬっていう話だよね。
そこの話だよね。
人は真理を求めるっていうとこが、
ずーっと哲学の原理だと思ってた、事実だと思ってた。
ところを、人は有用なものに従う、みたいなところが実は、
そっちの方が実はスタンダードは挙動、事実なんだよ、みたいな、
そこの置き換えだよね、そもそもの。
そういうこと、そういうこと。
やっぱりこれも一つの人間観とか世界観であるって言われたらそうなんだけど、
でもそれってオタクらも一緒でしょっていう話なんだよね。
同じ土俵までは持ってったんだね、それをね。
そういうこと、そういうこと。
確かに僕は、例えばジェームズさんは、
真理は有用性だっていう価値観のもとに生きてるんだけど、
でもむしろそれはジェームズさんの中では正しい言い方なんだよね。
逆にあなたたちは真理ってのは絶対的なものだとか、
理性っていうのは人間の外にあって純粋独立なものだって言ってるんだけど、
それもやっぱり一つの価値観、世界観ですよねって言われちゃう。
なんでそれ信じてるんですか、そもそもっていう話になってくるってことだよね。
そういうこと、そういうこと。
もし本当にそうなら、さっき言った通り、
そもそも一元論とか二元論とかそういう対立概念ってもうなくなってますよね、みたいな。
そういう感じなんだよね。
結構強烈な気がするね。
そうそうそう。
だからやっぱり当時から、どっちかっていうと嘲笑されるみたいな、
なんかこいつこんなこと言ってやがるぜみたいな、
哲学者の肩高みにもおけんわみたいな、
結構そんな感じでやっぱりレーグされてた感じではあるらしいんだけど、
やっぱりいわゆる批判してた人たちが、
でもやっぱり一周回って、やっぱり実際そうじゃないとなるみたいなところがあったらしくて。
へー、はいはいはい。
やっぱりプラガマ実務結構正しいかもとか、
これやっぱり批判、要はちゃんと見なきゃいけないわみたいな感じにどんどんなっていくのが、
1950年代以降みたいな感じらしいんだよね。
なるほどなるほど。
なんかちょっと素朴な疑問というかさ、
もう過去に聞いたものも忘れ始めてるから、
結構実存主義に近いのかな。
そうだね、ある種その、
自分っていう存在から世界との関わり方を始めていくとか、
そもそも世界と関わるっていうことが自分にとって大事だって意味では近いんだけど、
でも何だろうな、別に自分の存在から始めるとも言ってないんだよね、このプラガマ実務は。
あー、そっか、その前やった構造主義的な視点も持ち合わせているみたいな感じか。
そうそうそうそう。
自分だけじゃないと。そっかそっかそっか、あったね。
プログラムアーティスムの始まりと発展
別にどこが出発点かとかっていうよりは、
そもそもその真理にたどり着くとか、
真理との関わり方って何かっていうところから始まって、
それって結局、自分たちの行動とかと、
密接に関わっているねっていうのがコアな概念なんだよね。
あー、そっかそっか。
だから自分ありきではないんだね、そもそもね。
そうそうそうそう。
なるほどなるほど。
だからそのプラガマ実務では別に他者との関わりとかってそんなに問題にならなくって、
みんなもうすでに他者と生きてるから、もうそういう世界に生きてるもんだっていう前提でやってるから、
その中で例えば自分にとってプラスな人とは付き合うし、
マイナスな人は付き合わないとかって結構シンプルに言えるんだけど、
逆に実論主義は他者とは何かとかさ、結構やったじゃん、サルトルの時に対事存在がとか。
そうそうそう。
のがやっぱり問題になるのが、そこの出発点がやっぱり違うからなんだよね。
だから結構ね、やっぱりその素朴なんだけど、そのさやっぱり真理とは役立つことだみたいなのって、
それ言えばやっぱり強力というか、なかなか打ち崩すような強さを持っているなと感じるんですよね。
いやー、そうだね。ここ単純にどっちが良くてどっちが悪いとも言えなさそうだっていうね。
もうプログラムアーティスム最高ともならないけども、それはそうだっていう強さがある感じがするね。
そうそうそう。
でね、今回ちょっとじゃあパースでそういうね、なぜそういうのが生まれたのかとか、科学的な領域でっていうのを見て、
今回ジェームズで、確かにそれって結構哲学、これまでの哲学に対して結構強烈な批判だよねみたいな話を感じていただいたと思うんですけど、
大きくはこの2人っていうのがプログラムアーティスムを立ち上げて作り上げたっていう感じなんですけど、
それをさらに実はもう1人、次デュイっていう人を取り上げるんですけど、
この人がさらにこのプログラムアーティスムをもっとより社会的なこととか、あるいはもっと言えば政治的なことっていう、
要は現実の世界にもっと適応させるようにしたっていう広がりを作った人なんだよね。
はいはい、そっか、いたね。3人だったね。
だからやっぱりプログラムアーティスムと言えば、パースとジェームズ、デュイって3人で言われるぐらいなんだけど、
逆に言うとこのパースとジェームズが作ったことって、似たような発想であるんだけど、結構違うことを言ったりとか、
デュイの広がり
一方はやっぱり科学で、もう一方は真理というか芸術とかも含めたものっていう、結構やっぱり違う領域で話をしたりするんだよね。
それはある種まとめ上げるというか、くっつけて一つにしたみたいな感じがデュイって、すごくざっくり言うと言えるので、
それを次ぜひまたお伝えして、プログラムアーティスムってまだフワフワしてる感じだと思うんですけど、
哲学としてどこまでやっぱり強い発想力なのとか、どんだけ広がりがある哲学なのっていうところをぜひお伝えをしていきたいなというふうに思っております。
ちょっと早く聞きたい、これは。
そうですね、三段構えでね、ちょっとじらしてる感じですけど。
わかりました。プログラムアーティスムがやっと凄みみたいなものだよね。
まだこっちを信じるみたいな感じには至ってないし、そうなるほうがいいってわけじゃ全然ないんだけれども、
そこまでやっとこれまでの哲学と今回のプログラムアーティスムというのが同じテーブルに並んで、
どっちどっちみたいなね、前の哲学やばいんじゃないみたいなところまで来てるんで、次回それを屈折せるのかと。
嬉しい。
次回デューイさんの話聞いて、プラグマティズムをより深くというか、より哲学らしいところになっていくのかなと勝手に期待してるんで、
そのあたり楽しみにしていきたいと思います。
それでは次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
42:44

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