1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
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2024-01-24 53:54

#182 西洋哲学が2000年以上見過ごしてきた「他者」という不思議な存在


「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。
▼おたよりフォームラジオのご感想やコメントなど、お待ちしております!https://forms.gle/ThJocrLap77ELG7B7


00:06
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
このラジオは、身近なテーマをきっかけに、哲学について楽しく学んでみようという番組です。
哲学好きの弟と、哲学いなずみのない兄の兄弟二人で、お送りしていきたいと思います。
改めまして、兄の神田聡介です。
弟のハヤトです。よろしくお願いします。
はい、お願いします。
なんか、ここ何回かさ、この前講序を言い忘れてた気がしてね。
そうだね、なんかヌルッとヌルッと始まりましたね、テーマが変わっても。
確かに。
でもあれですね、やっとね、本当に身近だよねというか、ちょっと日常的なところから考えれるよねっていう風に、今年からなってるかなと思うので。
前回はね、ちょっと人じゃないテーマですよっていうところで、存在と性質っていう言葉で言うとちょっとね、あの堅いすぎますけど。
まあ、物があるってどういうことだろうねとか。
そういうところから考えるとのは、ちょっとね、題名に、ちょっと看板に偽り出してきた感じになってきたんじゃないかなと思うんですけど。
今回はもうちょっとさらにね、存在とかよりはさらに短いかな。
そうですね、今回のテーマは確か他人かな?
はいはいはい。
テーマについて取り上げていきたいですよと。
まあ身近だね、すごい身近だけど、改めて考えたことはあんまないなっていう感じだよね。
そうね。
そうそうそう。
よくね、ちょっとそういうことが哲学っぽいって感じでいくと、いわゆる当たり前のものを改めて考えるみたいな。
うんうんうん。
やっぱり常識とか、普段は考えないことを考えるという意味で言うと、この他者とか他人っていうのもすごいね、そういうものに近いかなとは思うんですけど。
なるほど、まあでもね、ほら最初のソクラテスやった時に友達とは何かみたいなさ。
あー、まあそうねそうね。
なんかね、他者、他人って、そういう感覚ではなんかね、ソクラテスの感覚じゃなくて、友達とかさ、親友ってなんだろうみたいな、友達ってなんだろうとかさ。
うんうん。
あと恋愛ってなんだろうとかさ。
確かに確かにね。
そういう意味では他人っていうのは意識しているはずなんだよね。
うん。
そことまたどう違うのかっていうところをちょっと気を引き締めていこうかなとは思った哲学の話だからね。
まあまあ、そうですね。
でもやっぱ出癖自体は、それこそこれまでの哲学者の話でもお伝えしたかなと思うんですけど、やっぱり自分自身の素朴な疑問とか、やっぱりちょっと不思議なことだと思うんですよね。
うんうんうん。
それこそソクラテスの友達とは何かとかも、じゃあ私とあなたが友達だとしたら、それってどうなんだろうねとか、
03:04
あなたとAさんとBさんが友達って言ってるけど、そこに本当に友情はあるのかねみたいなところから始まってますよ。
ああ、そうなんだ。
うん。そんな話を第1回してたと思う。
第1回でしょ。
今回他者みたいな話でいくと、いわゆる哲学的な流れ、西洋哲学において他者がどう扱われてきたのかみたいな話はちょっとあまり普通というかありきたりな話じゃないんでまた後ほど説明してるんですけど、
今回僕がちょっと他者っていうのをどうして取り上げたいなと思ったかっていうと、結構ここ1年半年くらいなのかな、自分の意識が結構他者と自分とか、他者との関わりみたいな方に結構向いてきてるなっていう感じがするんですよね。
ほうほうほう。
うん。そうじゃなかったんかいって話で言うと、でも本当そうで、割と自己完結してたというか、他人は他人、自分は自分みたいな、だからある種その他人に左右されずに自分の道を貫くのじゃみたいな、そこまで別に言わせんけど、
やっぱり自分の中にどう基準を作るかとか、自分がどうするかみたいな、結構自分ディクトリーみたいな感じだったんだよね。
なんかさ、前、ハヤトが当初疑問に、それこそ中学生、小学校の時に疑問に思ったさ、幸せとは何だろうかって話した時にさ、でもやっぱそれも自分が中心なのかな。
やっぱ自分が幸せになるためには、人類が幸せになるっていう定義、幸せのイデアみたいなものを見つけて、それを実現することで自分が幸せになるっていう意味では、やっぱり自分発信、自分着地というか、そういう感じなのかなとか。
本当にそう。別に他人がとかじゃなくて、人類っていう種において、自分っていう子がどのように幸せになるかっていう。だからあんまり他人のことをその時は考えてないんだよね。
なるほど。あくまでも自分のためか。自分がそうなるための知識というか。
そうそう。理解かな。自分の中で何かを理解すれば幸せになるんじゃないかみたいな。それが自分出発っていうよりは人類っていう普遍的なもので見つけられたら、当然自分の幸せが見つかるんじゃないかっていうふうに思ったんだよね。
なるほど。価値観とか尺度みたいな話だよね。自分の中の尺度を作るためにそういうものを利用してたみたいな話か。当時はね。
そうそうそう。そうなんです。
06:01
自分が結構長かったんだけれども、そこから子供を産んで育てたりとか、あとは今キャリアデザイナーっていう仕事をしてますよっていうのは何回かお伝えしてると思うんですけど、
そういう中で本当に毎日いろんな方とお話しさせていただくわけですよ。そうなると当たり前なんだけど、他者を抜きにした自分というか、自分と他者との関わりみたいなところをやっぱりすごく重要だなっていうふうにやっと思えるようになりました。
なるほどね。
弱い34になろうとしてるんだけど。
はいはいはい。環境がね、自分だけに当てさせづらくさせてきたんですね。
そうです。
これはちょっと雑談なんだけど、やっぱり人によってはチーム競技とかチームワークっていうものを小さい頃からやってる人もいるじゃないですか。
部活とかでも野球やってましたとか、チームで何かやってたのが好きでしたっていう人もいると思うし、兄貴もサッカーとかアイスホッケーとかやってたと思うんだけど、バスケもやってたか。
うん。いろいろやってた。
僕はやっぱりチーム競技苦手だっていうのを小3ぐらいの時に確信して。
ああ、そっか。野球やってたよね、最初ね。
野球やってた。やってたっていうか、親があるしやらせたいっていう話でもやってたぐらいだったんだけど、チーム競技は僕は苦手だっていうふうに思っちゃったね、その時に。
キュウリとかスポーツとかじゃなくてチーム競技が苦手だったんだって。
そうそうそう。誰かと一緒にやると何任せにするし、自分でも自分が頑張るっていう気持ちもよくわからんみたいな。
そういうふうになっちゃって、野球やってた時に、僕多分ファーストとかサードとかやってたんですけど、ファーストは結構忙しいから大丈夫なんだけど、サードとかやってた時に、前に空とか見ちゃって、何で僕はここにいるんだろうみたいな。
そう、結構そういう時間が多かった記憶があるんだよね、試合中とかに。
全然閉まっていけてない感じだったから。
そうだね、ワン・フォー・オール・オール・フォー・ワンの精神、カイムだね。
なのでその後、球道とか、個人、自分と向き合う系の競技が好きだったなと思うんですけど。
そんなわけで、ごめん、僕の話としてだったんだけど、野球はさ、そういう意味ではチームとか他人と生きる、他者と生きるっていうのは、結構当たり前の感覚としてあったりするのかな?
あー、まあそうだね、何て言うんだろうな。
チームとはちょっとずれるんだけど、人のために何かするのは好きだから、そういった意味で人と何かやるっていうのは、若い頃は特に嫌いじゃなかった、好きだったと思う。
09:11
ただ、チーム競技が得意かって言われると、ちょっとその、多分ね、やっぱ人とのコミュニケーションが雑だったと思うんだよ、今振り返るとね。
雑だった、雑だった。
なるほど。だからそういう意味で、好きだけど多分人の気持ちはあまり理解できなかったりとか、自分の気持ちも伝えないというか、お互い一心一致し別れだろうぐらいに多分思っちゃってたんだろうね、きっとね。
あー、なるほどね。
そういう意味で多分チーム競技には適してなかったっていう、多分あまり良くない状態だったかなと思うけどね。今分析してみると。
はいはい。でも面白いね。やっぱりこう、小さいことにやってきたことって、なんだかんだ自分の価値観とかさ、そういうものが含まれたりするから面白いなと思うんだけど。
そういう意味ではね、ある種そういうふうに人と関わったからこそ一人でやるのが得意だと思ったみたいな自分もいれば、ある種人と関わる中で、好きだったけど得意じゃなかったなっていうふうなことを思う兄貴がいた時に。
でもどっちにしてもやっぱり自分がいて他者がいるとか、逆に他者がいるから自分がいるみたいなのは、ある種当たり前のことかなと思うんですよね。
だから普段やっぱりそれを考えることはないし、疑うことはないなとも思うし、あるいは、なんだろうな、そういう疑うことってそれによってはあったかなとも思うんですよね。
他者がいるっていうのを。兄貴ってそういうことある?自分だけが人間で他の人がロボットじゃないかみたいな、そういうやつ。
ああ、どうだろうな、そういう。
それこそデカイト的な、我々の流に言われるんじゃないけどさ、そういうのを聞いた時とかに、考えたことはあるんだけど、なんて言うんだろうな、
人のことを考えるときに思うのは、多分こういう感覚があるって人が何人かって聞いたことがあるから、一定程度なのかメジャーなのかはわかんないけど、
例えば、自分の中で他人を想像するっていうのは、自分は岩手出身で、結構人口密度も低いところにいるんだけど、
例えば新幹線に乗って東京に行きますと、窓から見える高層ビル群だったりとか、最寄りに見えるオフィスとかマンション、
いっぱいいるじゃん、すごい高いさ、こっちだと点々としかないような、もう隣立つしてるわけね。
それが窓を見た時にちょっと気持ち悪くなるの。
12:05
あと、たくさん人が乗ってる電車っていう時に、そうするとその人たちの人生だったりとか、あるわけでしょ、全員が主人公でしょ。
その想像した時に、ちょっとそれが入ってきすぎて、すごく溢れて気持ち悪くなる感覚があるんだよね。
あるんだね、それが。
でも確かそういう感じなのかな。
あんまり使いにするとちょっと気持ち悪くなるから、あんまりやらないようにしてるっていうのは、今言われて思うとそんな感じなのかもしれない。
面白い。聞いてる方も自分もそういうのあるよとかあったらぜひ教えてほしいなって思ったんですけど。
でも面白いね。僕もそういう風に感じるっていう方の話を聞いたことがあって、やっぱり人の重みを感じてしまうとか、この人が、全部の人が何らか自分なりに考えているっていうことを考えてしまって辛くなるみたいな。
そう、重いんだよね。
はいはいはい、そうだよね。なるほどね。そういう意味では、たぶん兄貴からすると、他人っていうのはむしろ自分と同じような重みを持つ、むしろ自分よりもしかしたら重たいかもしれないみたいな、そういうのがいっぱいいるっていう感じかもしれないなって思って。
僕は結構逆で、たくさんいると、こんなにいっぱいいるんだから一人ぐらいいなくなってもいいんじゃないかっていうタイプなのよ。
危ない思考だね、それは。そうなんだ。
そうそう。結構それは違うなと思ったようなのを聞いてて。
そうか、じゃあ一種のある意味、心地よさみたいなのがあるの?この薄くなっていくっていう心地よさみたいなのがあったりするのかな?
別に心地よくはないんだけど、それこそパーティーとか行って、なんか帰っちゃうみたいなそういう感じ?
帰っちゃう?じゃあ自分がね?
自分とかいなくてもいいと思って、早く帰るし、それこそ壁に密着にいちゃうみたいな、そういうやつ。
なるほど、なるほど。
あとは逆にちょっとこれは思想的に危ないって思われそうであれなんですけど、結局他人の重さも僕は撃棄しちゃうんだよね。
マイネスとかだって結局人がいっぱいいるけど誰もいないなって思っちゃうみたいな。
あー、はいはいはい。
結構そっちに感覚が寄っちゃうんですよ。
なるほど、なるほど。
だから面白いね、そういう意味ではある種他人の感じ方とか、自分と他人の距離感みたいなものも全然違うのかなって今思ったんですけど。
15:06
そういう話も念頭に置きつつ、それを哲学的に考えてみるとどんな感じなんだっけっていうところを今回のテーマとしてはぜひいろいろ話していきたいな。
で、その中でも兄貴が言ってたような、他の人をむしろ大飲みが辛いとか、逆に僕が言うような、いやむしろ他の人がどんどん消えていってしまうみたいな感じとかって何なんだろうねみたいな。
なんかそんな話もできたらなんか面白くなっちゃいけないなって今思ってましたと。
そうだね、まだボス2だけどすでに違うからねかなり。
そうね、だいぶ全然ベクトルが違ってびっくりした。
僕台本で書いてるのは、誰しも他人がロボットだと一度は疑ったことがあるんじゃないかって書いてるんだけど。
あーその思考危ないねもうね。みんな自分と同じはずだって。
そうそうそう、絶対ダメですね。そんな風にしちゃダメですね。
そんな意味ではここから哲学っぽい話というか、その哲学の流れみたいな話をしていきたいんですけど。
実はその西洋哲学の流れでいくと、これ他者とか他人の問題ね、これっていうのが扱われるようになったのって、実はそのいわゆる現代哲学みたいな題からで、まだ200年も経ってないんですよ。
あーそうなんだ。じゃあ冒頭言ったソクラテスの話はまた違うんだね。明確に他者っていうのとは違うんだ。
そうそうそう。あれはどうしようかと言うと、自分と他人とよりはその人の間に感じる友情っていうものが何かみたいな話だから、あんまり事故と他みたいな感じではないんだよね。
へーそうなんだ。意外と新しいんだ。
もっと深く読んだらあるかもしれないんだけど。
そういうふうなことを言ってただろうって引き付けることはできるかもしれないけれども。
西洋がね、いわゆるソクラテスとかからすると2500年っていう哲学の歴史を持つとすると、やっぱりまだ十分の一を満たないくらいの歴史の浅いテーマなんだよね。
えー意外だな。
そうそうそう。それはなんで?みたいな話はまたこの後もしてくるんですけど、逆に今度は東洋の方ね。
大乗仏教の方を考えると、実はこっちでは他者の問題って結構古くて厄介な問題なんですよ。
あーなるほど。そっかそっか。そこがまた違うんだった。
そうそうそう。やっぱり他者の扱い方とか、それがテーマとして重要になるかどうかっていうのがやっぱりそういうグラウンドとかによって変わってきてて。
で、こっちはね、おそらく、いわゆる大乗仏教と小乗仏教が分かれたよとかっていうと、1世紀とか2世紀くらいの話だし。
18:02
あとね、優衣式ってやったの覚えてます?テーマとして。
ナーガール・ジュナの時かな?
えっとそれはね。
あれは食うか。
食べた。覚えてないやん。
バスパンドゥとかアサンガっていう人たちがやった優衣式っていうやつがあるんだけど、それが5世紀くらいなので、そっから考えても1500年くらいは他者の問題っていうのは結構大事だっていう風に言われてましたと。
なのでやっぱり西洋では200年なんだけど、東洋では1500年っていう風な積み重ねがあるという中で、やっぱりこう何だろうな、他者っていう一つものを取り上げて、全然違うこのいろんな議論の積み重ねとかテーマの切り口があるんですよと。
今回この第1回分では、大まかに西洋と東洋でどの部分に他者っていうのが取り扱われてきたんだっけっていうところをざっくりお話しして、次回は西洋の流れっていうものをもうちょっと詳しく話しますよと。
それで第1回、第2回くらいやって、第3回、第4回くらいで、もうちょっと具体的にこの人が他者についてこんな風に考えてましたとか、ちょっと人ベースな話を大つかめてやるみたいな、そんな構成で今回行こうかなという風に思っていますよ。
前回は存在とは何かとか、存在とは何かっていう大きな問いに対して、アナとかフィクションとかっていう個別の話で深めてましたよっていうようなことをお伝えしたと思うんですけど、今回も他者っていうものを大きな括りとして理解した上で、具体的にはこんな風に言ってる人もいるとか、こんなことを考えてる人もいるよみたいな風にして、ちょっと深めていきたいななんて、そんなことを思ってます。
という感じですね。
はいはい、なるほどね。そこそこはではね、他者が存在するのかと、他者とはどういう性質を持っているのかみたいな話をたぶんめっちゃ掘り下げた人たちがいるみたいな感じなんだろうね、ちょっとね。
そうね、面白いのは、そもそも他者とはそういう風に語れるものなのかみたいな。
そこら辺のそもそもみたいな。
そうそうそうそう、扱い方からしてなんか違うんじゃないみたいなことを考えてる人もいて、本当にこうやっぱりね、西洋で200年ぐらいの歴史って言いましたけど、やっぱりそのぐらいあるとやっぱりこういろんな議論がどんどん広がっていくし、
やっぱり哲学自体の方法論とかもどんどん出演してるから、そういう意味では、他者っていう一つのテーマに対して本当にいろんな切り口が行われてますよみたいな話も今回できるんじゃないかなっていう風に思ってました。
はいはい、そうね。なんでこんなに壮大なテーマになったんだろうねって感じもね。
そうそうそうそう。
21:00
だから、もちろんそれね、さっき自分の興味としてのやっぱり、ある種、僕は基本的には自分べきとも人間だからどこまで行っても、自分とは何かっていうのを知りたいが故に他者とは何かを知りたいみたいな感じがあるんですけど、
それをやっぱり、いわゆる雑談レベルっていうよりは、一回哲学の雰囲気をくぐることで、よりちょっと自分自身をシャープに考えるんじゃないかなみたいな。
確かに確かに。
そういう自分の探求みたいなところも重ね合わせて、今回お話ししていきたいななんて感じですね。
いやー面白そう。
嬉しい。ありがとうございます。
なのでね、皆さんもなんかね、自分は他者についてはこんな風に考えてるかもなとか、いわゆる言われてみたら他人って自分にとってはこういう存在かみたいなね。
そんなことも感じながら、聞いていただけるとより楽しむんじゃないかななんて思ったりします。
なるほど。
早速ですね、この西洋哲学においての他者の扱われ方っていうのをちょっと見ていきたいという感じなんですけど、
今回はですね、本というか参照ごととしては、岩波書店が出ている哲学思想辞典っていう辞典ですね。
これをね、活用してみたいなと思ってます。
なるほど。たまに出てくるね、この名前。
すごい本だもんね、これは。
すごい本。本当にね、ホリダーとか多分ないと思うんだけど、見ていただきたい。
ものすごい分厚い。それこそ本当に、人殴ったら倒せるんじゃないかみたいな本なんですけど。
辞典って書いてるしね。
本当にいろんな言葉が載ってて面白いんですけど、その本で、やっぱりテーマをやろうと思った時に一回引くんですよ、その言葉をね。
そうすると大まかにこういうことが大事だよとか、こういう人が関係するっていうのが載っててすごい勉強になるんですけど、
この他者っていう言葉とか他人っていう言葉を引くと、実はこれ単独では載ってなかったんですよ。
へー、そうなんだ。
そう。じゃあどう載ってるかっていうと、自己スラッシュ他者っていう感じで載ってたんだよね。
他のとこに載ってるの?一応。
載ってなかった。だって実は、他者は載ってなかったんだけど、他者性っていう言葉が載ってたんだよね。
おーおーおーおー。
そう。で、他者性っていう言葉からここを見ろっていうので、自己他者っていうのが載ってあって、こっちにあったと思って、そうそうそう。
実際結構たどり着きづらいんだ、他者そのものを。
たどり着きづらいんだ、他者そのものを。
へー。
面白いね。
そう。だから、いわゆるゲームブックみたいなさ、この時はこっちに行けみたいな感じで。
うんうんうん。
それも面白いんだけど。で、そこを読むと、自己とはこういうものであるっていうのがまず書いてあって、その後に他者とはみたいなことが書いてあるんだけど、どんなふうに書かれてるかっていうと、ちょっと読み上げるんですけど、
24:12
事故に帰属する内的な世界、事故の意識からは到達できない無限の際、っていうふうに書かれてるんだよね。
おーほほほー。
もうちょっとわかんないじゃん。
なんかうん、すごい難しく書いてるな、なんか。
いやそうなんですよ、特に国防支援とかあったらね、他者っていうのは自分とは違う人ぐらいで書いてるんじゃないかと思うんだけど、やっぱりね、そこは哲学思想辞典なので、そのふうに書いておりますと。
で、これはね、すごいざっくり言うと、これは僕の解釈でもあるんですけど、やっぱりこう、ある種事故と他者っていう、これさ、事故スラッシュ他者って書いてるから、これは前提として事故と他者っていう二言論で考えてるんだよね。
あーそういうことなんだ、イコールではないんだね。
イコールではない、そう、事故イコール他者ではなく事故スラッシュ他者だから。
じゃあやっぱり他者の項目も受けてほしかったよね。
だったら。
そうそう。
思わせぶりな書き方しないでほしい。
なんかあったんだろうね、やっぱりそういう編集方針というかさ、やっぱりタイトルとしてね。
で、なので、やっぱり事故と他者っていうのが分かれてますよと。
で、すぐに考えた瞬間に、これはさ、日常的にもそうなんだけど、やっぱりこう、自分からは相手が考えてることとか思ってることっていうのは、やっぱりもう分かりようがない意味じゃないですか。
まあそうだね。
うん。だからね、僕が今こうやって喋ってる中で、やっぱり兄貴が本当に何を考えてるのかとか、そのことはもう分かりようがありません。
で、そうすると、やっぱりそれがいわゆる到達できない、無限の際とかって難しい言葉で表現されてるんだけど、要は自分っていうものから他者っていうものは、要は測り知れませんとか分かり得ませんみたいな、まあそういうことではあると思うんだよね。
まあね、そうだね、相棒はぶったりとか、あれだよね、分かるっていう人がいるかもしれないけども、それを証明することはできないもんね。
できない。できないし、そうそう。
だから相手がね、いやあなたは本当に、だから兄貴がさ、例えば、いやあなたは俺のことをよく分かってくれるよっていう言葉を言ったとしても、それが本当にどんな気持ちで言われた言葉かっていうのはやっぱり分かり得ないよね。
うんうんうん。
みたいな話で、事故と他者は違うよねっていう話もあるし、
あとは例えばね、もしかしたら忘れてる方も多いかなと思うんですけど、サルトルっていう人を以前取り上げましたと。
いわゆる実存主義みたいな感じで取り上げて、サルトル自体は事故と他者っていうものを互いに相手の自由を否定し合うんだっていうふうに見出してましたよと。
27:04
これはこの辞典にもそう書いてあったんだけど、結局サルトルは自分っていうところから世界を作っていくんだけど、その中に他者っていうのが現れてきますよと。
そうすると自分の世界に現れてる他者っていうのは、その時点で事故に含まれるはずなんだけど、ここ分かる?
自分の世界に他者が来た時に、それは他者じゃなくて自分になるっていう感覚というか言葉って分かるかな?
うん。サルトルの感じで考えると、多分想像できるというか、目に映った何もない真っ白なものに自分で色をつけていく感覚なので、
自分が見てる景色の中に他人がパッと映り込んできた時には、それは自分が真っ白な何かに他者っていうふうに作り上げているので、
それは自分の世界の中に存在すると認識するっていう意味でサルトルの感じだと、そういう感じで思っている。
その取り方でいいと思うし、なのにやっぱり自分の思い通りにならないとか、自分の測り知らないところがあるっていう意味で、
本当なら自分が自由に白い世界に色を塗っていけるのに、他者というものがいるせいで思い通りにならないじゃないかみたいな。
そういう意味で自由を否定しようみたいなことを言ってたかなと思うんですよね。
例えばそういうふうに事故と他者っていうような項目の中でサルトルって人の名前が挙がったりとか、
むしろ逆にそういう絶対的な差とか、たどり着けないようなものだからこそ他者は足り得るのだみたいなことを考えたレビューナースっていう人がいるよとか、
そういうふうな名前と簡単な主張みたいなものがバーって書いてるんですよね。
なのでそういうふうな話があったり、逆にさっき言った通り事故と他者っていうのを化けるっていうこと自体が、
いわゆるデカルト的な感覚、さっき兄貴も我を思うより我ありって言ってくれたと思うんだけど、
デカルトっていうのはいわゆる現代の哲学からするとちょっと一個前の近代哲学の創始者なわけで、
少しいわゆるすごいけど古い人だよねみたいなふうに言われがちなんですよね。
さっき僕も兄貴とこうやって喋ってるけど、兄貴がどう思ってるかわからないみたいな話をしたと思うんだけど、
それっていわゆるデカルトの心身二元論で体と心っていうのを分けてる考え方を前提にしてるんだよね。
そうなんだ。他者とかじゃなくて体と心の問題になってくるんだ、そこは。
要は事故と他者っていう二元論もあるし、人っていうのが体と心っていう、要は精神と肉体っていうのが置かれてるっていう、そういう二元論も両方を前提にしちゃってるんだよね。
30:14
確かに他者っていう時にそうだね、どっちの話してんのと体の話してんのと精神の話してんのって時に、確かにこれは精神の話の方がメインだと思うんですよ。
そうなんだよね。だから他者を理解するとは他者の考えてることとか思ってることを理解することであるって言った時点で、それは心身二元論っていうデカルトの罠にはまっちゃってるんだよね。
なるほど。
別にそんなことを理解しなくてもっていうか、兄貴が本当に肉体と精神が分かれてる存在かっていうと別にそんなことはないかもしれないし、
心の奥底みたいなことを考えなくても別に兄貴が普通に俺のこと分かってくれるよって言った言葉をそのまま信じて、別にそれを本当に兄貴のことを理解できたって思ってもいいわけじゃない。
でもそれは違うと思ってるとしたら、その奥にある測り知らない心っていうものを勝手に想定しちゃってるねとか、それを無条件前提として無意識に話しちゃってるよねっていうふうなことを言えちゃうんだよね。
なるほど。
そういうふうな感じで、そういう二元論みたいなことを否定するみたいな方向も出てきて。
面白いですよ。そもそもって話だね。確かにそれはデカルトに支配されてる感じがしてきた。
そうなんだよ。
だからそういうふうなそもそも論とか無意識の前提っていうものを暴こうぜみたいな感じでいくと、いわゆる他者っていうのは本当に身体と精神、それは人間っていうのもそうなんだけど、肉体と精神って本当に分かれてるんでしたっけ?
そもそも自分と他人ってそんなふうに別個のものなんでしたっけ?みたいな話が出てきて。
そうすると、例えばこれはメルロポンティっていう人が言ってるって書いてあるんだけど、前妊娠性、妊娠って一妊娠だから二妊娠の妊娠に前っていうのは前。
いわゆる妊娠以前の状態っていうのがあるよねみたいなことを議論するんですよ。
そうなんだ。
逆に前妊娠性っていうのがこの辞典に載ってるんですけどちゃんと。
説明としてはね、私、事故っていうものはやっぱりそもそも初めから私じゃなかったよねと。
かつ隅々まで私であるわけでもないみたいな結構特徴的な説明がされてるんですけど。
つまり私とかいわゆるここで事故っていうものが認識されるときにはその前提としても既に自分以外の他者が存在しているのだと。
それが物理的に要は自分っていうものは両親っていう別の存在から生まれてるよねっていう話もあるし、それだけじゃなくって事故という認識とか意識とか概念っていうものは後から使えるんだと。
33:14
例えば赤ちゃんみたいなものはある種まだ明確な自己意識を持ってないよっていうふうに言われてるんだけれども、
この在り方っていうのは要は事故と他者が分かれてないとか、私というものを確立するためには他者というものの存在を通さなきゃいけないみたいな、
そういうふうな発達っていうのを本来誰しもが辿ってるよねみたいな、そんなふうに言うんだよね。
なるほど。
それを全認証、要は一認証の私っていうものになる前の全認証、要は認証の前の段階っていう意味で、そういう言葉が要は使われるというか和訳として扱われたりします。
なるほど、そうやってどんどんそもそもまでいくわけか。
そうですそうです。だから事故と他者っていうものがどんどん増える、そういうふうに発展していって、そもそもやっぱり自分とか私というものは括弧たるものでもないし、
だとしたらやっぱり自分というものは括弧たるものではないとすると、他者っていうものももっと曖昧になっていくというか、事故と他者という境界っていうものも解けていくよねみたいな話とか。
はいはいはい。
あとはさ、よく他人っていうのは自分をつつ鏡だなんて言われたりすると思うんですけど、そういう考え方もいわゆる哲学者がいて、クーリーっていう哲学者とか、この人僕も知らなかったんだけど、
あとはラカンっていう結構難解とか難しいっていうふうに有名なラカンっていう人がいるんだけど、この人たちが実はそういう哲学的に話した内容が一般的に浸透してきて、他者とは自分をつつ鏡であるみたいな。
へー、そうなんだ。
そういうふうな発想になってるんじゃないかなって思うんですよね。
そうなんだ、心理学とかでいうミラーリングとかとはまた違った次元で哲学的な感じからみたいな。
そうね。むしろ原理みたいな感じか。それこそフロイトが精神分析っていうのを始めたんだけど、そこからラカンっていうのは精神分析とかの感覚っていうのを持った上で哲学的に考えた人みたいな。結構そういう感じなんだよね。
はいはいはい。
いつか使いたいと思いながらちょっと難しすぎるよっていうのをインプットされすぎてて、ちょっと二重足踏んでるみたいな感じなんですけど。
なるほど、なかなか腰が上がらないんだよね。
上がらない。いつか読んでみたいけどなみたいな、そういう人ですね。
こんな感じで気づいたら3、40分くらい話したのかなっていう感じなんだけど、単純に他者とは何かっていう話にいくせいの、そもそも他者ってどんな風に扱われてましたっけっていう話を辞書をもとに見ただけでも、こんなにいろんな人がいろんな話を考えてるんですよね。
36:09
そうだね。
なので、やっぱり他者とは何かっていう問いにたどり着くまでにもいろんなハードルというか、道筋があるからこそ哲学って難しいよねというか、それは入り組んでるし入り込みにいくよねって思ったりしますよと。
そうだね、しかもこれまだ西洋の話だけだもんね。
そうそう、まだ西洋の話だけ。
いろんな人出てきてる。
そうなんです、そうなんです。
しかし辞書を読むとやっぱり基本的には西洋の話、他者に関してはほとんどですと。
なので今回は一気にグイッといくのが難しいので、一つ評估していくという意味でいくと、一段振り下げたステップとしては、やっぱり他者をいかに認識するかとか経験するか、さっき言ったデカルト的な部分に戻るんだけど、
他者というものがいて事故というものがいて、それがある種分かれた存在としているという風に考えたときに、ある種私というものは他者というものをどう認識するんでしたっけみたいなテーマがあって、
これを他が問題という風に言うんだけど、他っていうのは他の他人の他で、がっていうのは我ね。
つまり他者としての我、他者としての事故というものをどういう風に認識しますかっていう話なんだけど、
それこそまたデカルトぐらいから少しおさらい的に取り上げていって、どんな風な歴史があるんでしたっけっていうのを取り上げてみたいなという風に思っております。
その上でさっき挙げたレビーナスという人とか、あとはこれはまたちょっと別の文明が出てくるんだけど、ブーバーという人がいて、
その人は我と何時って結構有名な本を書いてるんですよ。
まさにそのもの。
我と何時。
そういうのがあるんで、この本とかを踏まえて、実際に具体的に提出した人たちが他者という問題を踏まえてどんな風に考えたのかとか、
どんなことを主張してるんだっけみたいな話っていうのを大まかに見るっていうようなことをしていきたいなと思っております。
これもテーマというもので切ったからこそできる構成だし、結構わかりやすいんじゃないかな、
レビーナスの話をしますとか、ブーバーの話をしますというものだけよりもわかりやすいんじゃないかなと思うので、
個人的には結構綺麗にまとまったらいいんじゃないか、嬉しいな、まだ台本書いてないけどみたいな、そんな感じですね。
という感じなんですけど、どうですか、ここまでの雰囲気感として。
39:04
そうだね、前半でそれぞれの他者感みたいなものを語ったけれども、土台みたいなものはここまで、
好き勝手に俺はこう思うよっていう話じゃなくて、そもそも他者とは何だろうね、他者という存在について考えていくという土台を掘りまくっている人たちの話だから、
こういう人たちが一体何を考えて、別に他者について考えなくてもそんなに苦労というか困らないじゃん。
困らない、困らないですね。
例えば愛って何、幸せって何、正義、善悪って何っていうのはちょっとこう、自分の人生にもうちょっとダイレクトに関わった人だけどさ、
他者って何っていうのはそんなに意識しなくても生きていけるというかさ、
喧嘩しちゃうとか、あの人と仲良くなりたいとかあるかもしれないけど、そういうレベルに留まる気がしてね。
いろんな他者感があるっていうのは前半でね、お前2人の話だけど。
その土台をどうこういう人たちが掘っていったのかみたいなところがちょっと興味ができたかな。
いいですね。いいしね、今の兄貴の話は面白いなと思うのが、
今の兄貴の話はすごく生きているこの世界とか自分たちが生きているこの現実において、どこまで他者というものを問題にするかとか、
やっぱりそれで言ったらやっぱり正義とか愛とかね、そういうもののほうが大事じゃないかっていう話だと思うんだけど、
逆に考えるとね、正義とか他者、愛とかっていうものを本当に考えていこうと思った時に、
両方何が正しく何がダメなのかとか、何が良い愛何が悪い愛なのかとかって考えた時に、倫理観みたいな話だと思うんだけど、
倫理って人と人の間に生まれるものじゃないですか。
なるほど、確かに。
ということは、他者っていうものがないと倫理っていうものを考える必要もないんだよね。
なるほど、なんかしていられた感じがするね。
確かに今話した全部の倫理観みたいなものって、確かに他者とか社会みたいなものの前提がないと想定する必要がないもんね、確かに。
そうなんですよ。
普通に生きてる間は他者とか社会とか資本主義でもいいんだけど、そういうものを前提として物事を考えたほうがシャープだし、
よく物事を考える、役立つように物事を考えられるんだけど、倫理観の元になっている社会とは、
社会を構成している他者とは、みたいなことを考えていくと結局そういうテーマになっていくし、
42:01
前回言った存在と性質っていうのはさらに奥にある、そもそも他者という存在とはとか、事故という存在とはっていう、
そもそものところを考えるとそこに行き着くみたいな感じなんだよね。
なるほど。
より一般民衆というとさ、そこまでたどり着けないよね、感覚に、たぶん、その次元に。
なるほど。
逆に法律を作るとか、人を治めるみたいなレベルも、レベルって次元のことを考えなきゃいけない人たちにとっては、
倫理観を作るためには、やっぱり人とは何か、他者とは何か、
あの人とあの人の利害調査をするには、その人とその人のことを知らなきゃいけない。
その人とその人は何なんだ、そもそも、みたいな。
そういうことを考え続けていると、こういうところに行き着いたりとか、
意外とそこが必要な場面っていうのが出てくるのかもしれないね。
だから、ニュースとかでも、いわゆるGoogleとか、海外のトップ企業で哲学者っていうのが、仕事として活躍していますよ、みたいな話があったりするんだけど、
AIっていうものが広まったときの世の中の倫理っていうものはどうなるべきかとか、
そういうふうな世界で正しさとはどういうふうに変化するのかっていうことが、やっぱり哲学者がたぶん得意としているというか。
そういうふうな仕事だっていう話だと思うんだよね。
この前ちょうど何かで見たんだけど、自動運転、AIとかそういうのが広まってきている中で、
自動運転している車がさ、前に例えば高齢の方と赤ちゃんがいて、どっちかは必ず引かなきゃいけない状態にその車が落ちたときにどう選択するのか。
その場合どっちかなんだけども、これには第三の選択もあって、その二人を避けて自分が死ぬっていう。
自分が事故るという三等輪ぐらいはあるのかな。
でもその二択か、例えばもう他の道はないみたいな、ブレーキも効かないみたいな。
それをAIにどう判断させるのかみたいなのが読んだことがあって、それ確かにいいと思った。
でもそれをプログラムするのは人間だよ、みたいな話。まさにその話なのかな。
そう。そういう意味では倫理の話もそうだし、人とどう関わるかっていう話を考える上で、
そもそも他者って何ですかとか、他者と呼ぶのをどう捉えますかっていうことが、実はすごく根幹にある。根幹にありすぎて意識できないっていう感じなんだよね。
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それを取り扱う食糧だったりとか、そこが気になっちゃう哲学者的な人も、センサーがすごい人もいるみたいな話なのかな、そこは。
今のハーニキの話を聞いて浮かんだんだけど、生きているとは何かっていうのはまさにそこに近くって、
いわゆる医療とか生命の領域なんだけど、例えば植物状態って話だったときに、どこまでを生きていると捉えるか、どこから死んだと捉えるかっていうのはめちゃめちゃ難しい問題で、
生きてる間は医療従事者は治療をしなきゃいけないんだよね。そうすると税金が投入されて費用がかかります。
経済的にはある種、亡くなったっていう判断をした方が合理的なんだけど、個人からすると一番長く生きてほしいみたいな気持ちになるわけだよね。
心情的にもね。
生きてるとか死んでるってどういうふうに線引きするかっていうのは、実はめちゃめちゃ切実な問題で、
他者とか生きているとか死んでいるとかっていうことが、やっぱり出てくる領域だったりするんだよね。
みたいな感じなので、やっぱりそこはサクッと切れることではないし、他者っていうものもサクッと切って、他者とは越え込まないと言いにくいテーマなんだけど、
だからこそ、そういうふうに哲学的にいろいろな人がいろいろなことを考えているとか、そういうことを考えることは僕は意味があるし楽しいと思っているみたいな、そんな感じなんですよね。
面白そうだね。それ言われちゃうとあらゆる倉賓議官は、他者を前提にしてるなんて言われちゃうと、いかないわけにはいかなくなってしまう。
そういうのも含めて、別にそんなことはいいんだとか、その抽象的なことよりも周りの人を大事にするんだっていう人がいてもいいと思うし、もちろんね。
ある意味それが自然な感覚でもあるしね。逆にそういった利害調整というか、そっちの方が自然な感覚の人もいるし、
自分みたいに周りの人がとか、そういう感覚もある意味自然だからという話だよね。
確かにそういうふうに言われてみたら、兄貴みたいに、他者っていう問題もちょっと大事かもなとか、そこは考えたり見えるものがあるかもねって思ってくれる人が多分聞いてくださってるのかなとも思うので、
そういう意味ではね、好きだって僕はそこを進んでいきますぞという話なんですけど。
次回詳しい話をしていくんだけれども、東洋の話、もうちょっと触れる時間がなくなっちゃったんで簡単に触れたいなと思うんですけど、
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これは全然さっきのデカウルトとかサルトが全く違う話として聞いてほしいんですけど、
東洋というか仏教、特に大乗仏教という話でいくと、あれは宗教なので、やっぱり悟りとか救いみたいなものが大事になってきますと。
そこでいくと大乗仏教の人たちって何が違ったかというと、それまでの人たちは小乗仏教だというふうに言って、
結局その自分だけが救われるんじゃなくて、いわゆる一切主乗、要は他者っていうのを救済するんだというふうなことを言ってるわけですよ、大乗仏教の人たちはね。
そこにまさに今ちょっと他者を救済するという、他者という言葉を使っちゃったんだけど、ここに他者の救済というテーマが出てきますと。
自分だけが修行して救われるんじゃなくて、他人を救った時に、他者とか他人というものが大前提として入り込んできちゃうんだよね。
で、優位識という話をしたんですけど、これが何だったかというと、すっごい簡単に言うと、全ては識、つまり心の問題だというふうに言うんだよね。
ちょっとサルトラっぽいんだけど、要は自分の心というものがまずあって、そこに他者というものは立ち上がられてきますよと。
そうすると、これってどうやって救うんだとか、他者を救済するって言ってるけど、全ては自分の、自分のというかその識という働き。
だから、そもそも他者っているんだって、他者を救うって何だっけという話になってくるんだよね。
で、じゃあ自分の心とか自分の識というものが救われた時に、もう他者は救われてるんだっけとか、でもそれってじゃあ自分は悟るって言ってる象徴仏教の話、何が違うんだっけとか。
そういうふうに結構自分たちのアイデンティティに関わってくるような問題になっちゃうんですよ。
確かに確かに。
結構そういう、じゃあ何だろうな、他者とは何かとか、他者を救うと何かとか、そうやって有意識じゃないじゃない、ただ識があるって言ってるけど他者もいるじゃんみたいな話っていうのが結構問題になっちゃったよって話があるらしく。
そこどう解決したのか知りたいな。
知りたい、ちょっとそれもやろうかな。実はこれもたまたま他者について調べてるときに、教育大学の高橋浩二さんという准教授の方がおられて、その方がまさに有意識思想における自社っていう論文があったんですよ。
面白そう。
まさに。ちょっとそれも取り上げてお話したいななんて思います。
まあちょっとね、自分の知りたがりなだけがかもしれないけれども、もし今回のテーマにつぶわなかったら雑談会とかでもいいからね。
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そうねそうね。
なんか今までの仏教側の真面目さというかさ、もちろん悟るという宗教ではあるんだけれども、その中でちゃんと緻密な理論論理を構築して積み重ねて。
でしかも真面目にそうやってカット押しながらさ、みんな救うって言うけど、そもそも存在するんだっけみたいなさ、それをガチで考えてて、ある意味滑稽だし、すごくやっぱり純粋じゃん。
まあね、それはほんとそう。
それに本当に悩んだ人がどういう解決策を取ったのかなっていうのは、すごい面白そう、話としては。
OKです。そしたらじゃあそうだね、ちょっと次回は西洋哲学の歴史的な部分をやって、レビナスとブーバーをやって、最後ちょっとその優位識ってどうやって使っていきたいかみたいな。
そんな3本立て4本立てぐらいな感じで今回ちょっと盛り盛りですけれども。
でもね、せっかくなのでぜひやっていきたいなというふうに思っておりますという感じですね。
はい、読みました。
ちょっとそうだね、だいぶ他者って身近なんだけど、哲学における他者っていうテーマっていうものが今回で少し身近になった気がすると。
そうねそうね、そう言ってもらうと嬉しいし、逆に言うと遠いのよ、他者っていうテーマって。
そうだよね。あれでもね、日常的に身近すぎて、逆に哲学的に遠いみたいな話だよね。
そうなんです、そうなんです。
そういう意味では身近なテーマをきっかけにっていう、身近って何だろうみたいな話ね、それも何でもありなのかもしれないね。
たびたびさ、反省してきたけど我々は。
反省してきたけど確かにね。
やっぱり身近なことほど難しい、やっぱり存在とかも本当そうで、みんな存在してるから存在って本当は身近なはずなんだけど、でもじゃあ身近ってなんだみたいな、あさり今の兄貴の話だよね。
うん。
この話をし始めるとまた雑なんかみたいになっちゃうよね。
そうですね。
またね、その感覚で何かを倒すべきな。
確かにね、一周回って確かに良い向上というか良いコンセプトだったのかなって今初めて思いました、2年経って。
今同じく、今喋りながら思った。
そうですね。
じゃあね、その感じで身近な他者というテーマについて引き続き楽しんでいきたいと思いますので。
これにされていただきたいと思いますので、次回も楽しんでいきたいと思います。
じゃあ、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。
今回もありがとうございました。
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