1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #293 聞けば納得!九鬼周造が..
2025-02-19 43:40

#293 聞けば納得!九鬼周造が解き明かした「いき」の3つの要素とは?

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。




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サマリー

このエピソードでは、九鬼周造の『粋』に関する哲学が掘り下げられている。『粋』を構成する三つの要素、具体的には美体の概念と生き地の重要性が論じられ、それに関連した人間関係や欲求についても触れられている。九鬼周造の「粋の哲学」に基づき、「粋」を構成する三つの要素として美体、生き地、そして諦めが考察されている。これらの要素は、恋愛や人間関係の中での余裕や遊び心を表現し、「粋」を実現するために必要不可欠である。九鬼周造の「粋」の哲学においては、意気の概念が重要視され、その中に情緒と儚さが含まれている。文化や人間関係における意気は独自性を持ちながらも、普遍的な側面もある。九鬼周造の哲学をもとに、「粋」を構成する三つの要素について探求し、芸術や日本文化との関連を考察している。

粋の哲学の紹介
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回も九鬼周造さんということで、前回は何でそもそも粋っていうテーマを選んだのかとか、
あとどういったやり方でそれを深めていくのか、解説していくのかというところを見てきたというところでした。
はい、今回から実際にその構造の方ですね、そこの話に踏み込んでいこうと思っておりますよと。
前回ちょっと最後にお伝えして、少し分かりづらい部分もあったかなと思うんですけど、
実際に粋っていうものを掘り下げていくにあたって、
九鬼さんはですね、まずその意識現象という言葉がちょっと固いんだけど、
要はその意気っていうものを意気たらしめているとか、意気だと僕らが理解できる、
そういう要素っていうものを確定しようとするんですよね。
はいはい、だからあれだよね、意気堪定士みたいな人とか、超優秀な意気評価みたいな人がいるときに、
この辺のポイントが全部8ポイント超えてたらイキゲイスっていう要素を決めちゃおうみたいな。
そういうことですね、そうですそうです。
そのチクリリストを作ろうよねって話で、概念だから分かりにくいんだよね。
そのものだとさ、例えばリンゴだとしたときに、要素として、例えば丸いみたいな形もあればさ、
皮で包まれてて、中は木と実が生えて、基本的には白いとかさ、
そういう要素って洗い出そうとしても洗い出せるじゃないですか。
そうね。
っていう風に、ある程度そういうチェックリストを作っていこうとするんだよね。
意気って概念なので、そういう風に見た目とかではなかなかできませんよというところから難しいんだけれども、
とにかくこういう要素が含まれているっていうのを考えていくんだよね。
それをただ並べるっていうだけじゃなくて、何が一番根本にあって、その上に積み重なってるのかっていう風な、まさにこれも構造だよね。
へー、はいはいはい。
そう考えようとしていきますよという感じなんだけど、ただここはちょっと説明が若干足りない感覚があって、
いきなりこれとこれとこれだよみたいな風に3つ挙げるっていう形になってるんだよね。
あー、その本の中だとね。
美体の解説
その本の中で。
ご本人の中ではきっといろんなものを考えた上で、あ、これじゃないこれじゃないとかやってらっしゃったと思うんだけど、
本の中でいくと1つ目はこれですっていう風に書かれてるんですけど、
しかもちょっとね、これ馴染みのない言葉なんで、少しそれを説明していくんですけど、
1つ目が美体っていう言葉で、
初めて聞いた、美体。
美体の美はこびる。
こび、こびへつらいとかのこびに態度の態。
で、これ美体って言うらしいんですよね。
へー、美体。
美体、そうね。
これもね、気にならない言葉だし、僕も知らなかったんですけど、
辞書で見てみるとね、
男にこびる生めかしい女の態度、
また、人にこびへつらい取り入ろうとする態度、
っていう風に書いてるんだよね。
あんまりいい意味の言葉ではないんですけど、
ただそのままの意味っていうよりは、
たくさんの美体をどう定義してるかっていうと、
美体っていうのは、これも難しい言葉でまず言うよ。
一元的な事故が事故に対して異性を訴定し、異性というのを特定して、
事故と異性の間に可能的関係を構成する二元的態度である。
って書いてるんだよね。
ふーん。
全然わかんないよね。
ふーん。
事故っていうのは、普通に考えたら孤立したというか、
孤の存在じゃないですか。
意味で言うと、一元的な存在というか、他と関係のない存在なんだけど、
異性っていうものが現れた瞬間に、
自分と、他人じゃなくてあえて異性っていうのは、
やっぱり男女間、別に今で言うと男性と男性と女性と女性だから別にいいと思うんだけど、
異性の関係を持った時に、
自分と他者っていう、そういう二元的な存在が生まれますよね。
っていうようなことを言ってるんだよね。
ふーん。
なのでこの美体っていうのは、ただ単純に人間関係とかじゃなくて、
いわゆる性的な欲求とかも含むような関係性において、
自分っていうものをそこに向き合わせるような態度ですよっていうふうな説明をしてるんだよね。
なんかハヤトの説明も結構難しいけれども、
お付き合いしたいとかそういうだけじゃないの?
え?じゃないんだよ実は。
そういう時にアプローチのこととかそういうことではないんだよね。
イメージから言ってもわかりやすいかなと思うんだけど、
この生きっていう言葉がもともと花町、夜のお店とかで使われてる言葉らしいんだよね。
だからあれだよね。多分辞書で言うと、
さっきの辞書で言うと、男にこびる生めかしい女の態度っていうのはまさにそういうことだよね。
そういうお店で着引をしてる人のことを想像してるんだよね。
そうそうそうです。
今で言うとキャバクラとかホストとかもあるかもしれないけれども、
結局、夜遊びが上手いとか粋な遊び方ができるって、
のめり込むというよりはさ、ある種遊びだってわかってるけど楽しむとかさ、
お金は気持ちよく使うけどそれにとらわれないとか、そういうふうなイメージってないかな。
なるほどね。確かに花町の遊び方での意気みたいなのって何かで見たことがある気がして。
あれでもね、例えば何回か通うまでは手を出さないみたいなさ。
はいはいはい。
あんまりがつく男は意気じゃないみたいなさ。
はいはい。
そういうのなんか読んだことある。あそこの作法じゃないけれども、
そういうのは何かで見たことある気がするな。
たぶんね、漫画とかアニメとか歴史的なあれかわかんないけど、
何と言うかそういうイメージって日本人でも全員が持ってるかわかんない。
でもあれじゃない、今最近だとあれじゃない。
なんかある?
最近だと鬼滅の刃のほら。
見てないな。
見てないのか。
あのイメージとかあればだし、
あとじゃあヘイとか言うところで言うと薬屋。
独り言。
独り言の実家。実家はそうでしょ、まさに。
そうね、確かに確かに。
女性がたくさんいて男性に接客するっていう確かにお店だったはず。
うん、確かに。
そうそうそう。
そういうことで言うとまさにそういう本当の恋愛とかっていうのはまたちょっと違う態度なんだよ。
この美体っていうものが。
ああ、そうなんだ。
お付き合いしたいとかそういうのとはちょっと違う話ってことなのね。
実はだいぶ違っていて、これがまさに面白いんだけど、
恋愛漫画とかあると思うんだけど、
そういう付き合いたいとか、付きすぎて一つになりたいとかっていうセリフがあったりするじゃない。
これを久喜さんの説明から読むと、
一つになりたいっていうのが要は二元的な関係を自分と他者っていう、
二元的な立場を解消して一元化したいっていう欲求なんだよね。
これは要は普通にあるのよ。
要は異性を求めるときにこの人は自分のものにしたいとかさ。
一つに溶け合いたいとかって言ったときに、
それってまさに一元化をしたい、二元化を解消したいっていう欲求だっていうふうに、
哲学的には言えるじゃないかって話なんだよね。
実際こういうことを久喜さん自身が言っていて、
異性が完全なる合同、つまり一つになるっていうことを遂げますと。
そうすると緊張感がなくなるっていうふうに久喜さんは言うんだよね。
なるほど。
そうすると美体は消滅しちゃいますよと。
例えば付き合う前が楽しいとかさ、結婚したらドキドキしなくなったとかっていうのも日常的にあると思うんだけど、
多分それで要はそういう緊張感、要は相手に気に入られるかどうかとかさ、
これが本当にピッタリと思ってもらえたらどうかとか可愛いと思ってもらえたらどうかみたいな、
そういうふうな一つになりたいけどなれないとか、
なろうとするけどでも別になっちゃいけないみたいな、
そういうふうな関係性も含めて表現しているのがこの美体っていう言葉なんですよっていうふうに言ってるんだよね。
めちゃめちゃコンテキストが多いというか。
すごい確かに。
いろんな意味がある言葉だよっていうふうに説明してるんですけど、
そう考えるとこの美体っていう言葉は単純に異性を求めるとか、付き合いたい、好きですとかってことじゃなくて、
性的に惹かれてるとか、自分のものにしたいっていう気持ちはあるんだけど、
それをしちゃダメだとか、それをしないことによる美学みたいな、
そういうことが含まれた言葉がこの美体っていう言葉なんだよね。
生き地の重要性
へー、そうなんだ。
だからあれですね、辞書的にはコビヘツラルとかっていうだけはちょっと足りないんだけど、
久喜さんはそういう言葉として、いろんな緊張関係を含む言葉としてこの美体っていうものを使っています。
なるほどね。その駆け引きを楽しみ続けたいみたいなところも含めた、
もうちょっとポジティブな感じだね。コビヘツラルとかじゃなくてね。
今だとね、ちょっとなかなかリアルに想像しづらいけれども、
その花待ちを感覚と言われると少しは想像できるかな。
そうだよね。
そうそう。だからやっぱり入れ込んじゃうとかっていうのはダメだよっていうのはもちろん金銭的なところもあるけど、
そもそも遊び方としてそれは良くないですよねっていう。
行きじゃないよねっていうのはまさにそうなんだよね。
なるほど。
じゃあこれね、美体イコール行きなのかって言うとやっぱりそうではないと。
3つある中1つっていう意味だと思うんだけど、
美体であれば行きなのかって言うとそうじゃないよっていうふうに福木さんは考えるんだよね。
2つ目の要素は何かっていうと、美体に加えてさらに生き地って言われるものが必要ですと。
これね、今だと育児なしって言われたりするんだと思うんだけど、
意識の意と気持ちの気と地面の地で、これ生き地って読む言葉も普通にあるんだよね。
あるんだけど、合ってるらしいんだよね。
育児じゃなくて生き地ね。
そう、生き地。イコールは意地みたいな感じなんだけど、
4は辞書でこの生き地ってのも引くと、自分自身とか他人に対するメンツから自分の意思を通そうとする気構えみたいに書いてるんだよね。
まさに意地を通すとか意地を張るとかっていうふうな話なんだけど。
ちょっとね、もう一度繰り返して。
自分自身が他人に対するメンツから自分の意思をあくまで通そうとする気構え。
気構えか。
気構え。
だから結構かっこいい言葉。
これどっちに出るかみたいな話か。
まあそうだね、その意思がかっこよければ多分こういう意地があるらしい。
意地を張るってなっちゃうと、それそんなものを通そうとしなくてもみたいになっちゃうっていう。
いわゆるイコージみたいになっちゃうよね。
そうそうそうそう。
っていうふうな意味で生き地って言葉があります。
へー、はいはい。
これも久喜さんのもちろん捉え方があって、どういうふうなことを意味するかっていうと、
粋の定義
さっきね、美体っていう言葉を説明したと思うんですけど、
その中に一つになりたい、要は相手を求めたいという気持ちもあるって言ったじゃないですか。
で、この一つになりたいって思うに対する反抗心というか、
一つになりたいんだけど、その欲望に俺はとらわねえぞみたいな、私はそんな軽い女じゃないぜみたいな、
そういうふうな心の強みのことを含めて意地って言ってるんだよね。
うんうんうん。
なんとなくあるこの感覚。
例えばね、もし美体イコール行きだってしちゃうと、さっき言った花町の話をしたときに、
そういうお仕事の女性と付き合いたいとかさ、むしろ自分のものにしたいってやっぱそっちに引っ張られちゃうわけなんだよね。
まあそうね、ある意味本気になるなよっていう話だよね。
そうそうそう、そういうこと。
だから本気にならないぞ、自分はあくまでもこれを、なんだろうな、そういうルールだと知っているぞとか、
そういうふうに自分を立しているみたいな、それからある種一線を越えないスタンス。
これが大事だよっていうふうに言ってるんだよね。
へー、例えば全部そっち系だけれども、やっぱ意気っていう概念が結構そっちから派生している部分が大きいからなのかな、もともとが。
そうだんだよね。
あとね、ちょっとこれ言えてなかったと思うんだけど、
久喜さんのお母さんの初産だったかな?で、いましたよって言ったと思うんだけど、
このお母さんがそういう肌町の出身というか、そこと縁が深かった方らしいんだよね。
へー、あ、そうなんだ。
うん、結構ちっちゃい頃からそういう世界を知ってたっていうのも多分あって。
じゃああの薬屋のマオマオみたいな話があったんだね。
まさにマオマオ、そうそうそう。
久喜さんはもちろん男性だけれども、やっぱそういうふうな世界観とか、
そういうこうやっぱりそれで良くない遊び方をする人とか見てたんだろうと思うんだよね。
あー、そっかそっか。あの経営側からの視点があるんだね。
そうそうそう、お店側からのね。
だからちゃんと美体っていうだけでつかず必ずウロウロするというだけじゃなくて、
自分はちゃんと自分の欲望わかってますよと。
遊ぶ時にはちゃんと遊ぶけど、出たらちゃんとシャキッとした大人ですよっていうふうな、
そういうふうなものを含めて、やっぱり粋だよねと。
そういうものがないと粋じゃないよねっていうふうに考えていくんだよね。
遊びと恋愛の関係
今の後、美体っていうものに生き地がプラスされて、生きに近づいてきましたよと。
そんな話なんだけど、3つ目があって1個足りないよっていう話をするんですよ。
それが何かっていうと、3つ目は諦めなんですよね。
諦め。
諦め、そうそうそう。つまりはさっきも言葉で言っちゃったけど、
遊びだとか、疑似恋愛だっていう話なんだよね。
これがないと異性との関係って真剣なものになって、
真剣に恋愛すれば別にいいんですよ、いいんだけど、それは意気ではないんだよね。
だし、それのあれだよね。真剣に恋愛するっていうところと、
さっきの一つになるっていうところを混同しちゃうと、
その一つになるのがゴールになっちゃうと、もう終わるじゃん。
終わりが見えてる。一つになるっていうのが結婚するとかなんでもいいけれども、
そうじゃないと、この緊張感みたいなものを維持するためには、
その一つになるみたいな次元化がゴールではないよっていう、
そこをちゃんと意識しとけよみたいな話だよね。
ゴールではないっていうよりは、意気ではないよっていう話かな。
そうか。今回、意気かどうかの話をしてるのか。
そう、意気かどうかの話。恋愛でそれを求めてもいいんだけど、
そうなると意気ではなくなっちゃうよと。
付き合って結婚しても意気な夫婦とかっているかもしれないし、全然いると思うんだけど、
通常は理体とか意気地とか諦めっていうのがあるし、要素としてなくなると、
意気ではなくなっちゃうよねっていう話をするんだよね。
さっき3番目で諦めですって言ったんだけれども、
そういうのは執着しないっていう話なんだよね。
これも夜の話だと分かりやすいと思うんだけど、
やっぱりつかず離れずの距離感を楽しみましょうと。
それが目的になる。だから変に入り込みすぎてもダメだし、
お店まで来て、でも所詮夜のお店だろうとかっていうのも楽しめてないよねみたいな話があった時に、
ちょうどいい塩梅で距離感っていうものがあるよね。
しかもそれが諦め、要は、これは何なら遊びだよとか、
そういうお店のことだよっていうふうにバカつかないとできないよねっていう話があった時に、
そういうような要素が加わると、行きだよねっていう話が出てくる。
余裕と諦めの重要性
っていうふうにファクトリーさんは捉えるんだよね。
へー、なるほど。
うん。
ある種、これって虚しいというか、別に二次恋愛だからそれは叶わないのよね。
し、叶えちゃダメなんだよね。
そうだね、そういうゲームじゃないよっていうね。
そうそう、そういうゲームじゃない。
でもそれを分かってて楽しむっていう、
ある種の風化さって言ったら言い過ぎかもしれないけれども。
ポジティブに言うと余裕だよね。
でもそれはあるよね。
そうそうそう。
だから余裕がある、確かに余裕があるね。
で、それは本当に多分ね、兄貴が言ってくれた通りで、
これをやっぱり福岐さんはですね、ちゃんと哲学で、
それこそ仏教とかと絡めて考えるんだよね。
へー。
仏教もある種、当然というか悟りとかって思った時に、
運命に対する諦めようが、自分がどんだけ頑張っても、
結局輪廻転生でずっと同じ世界を生きていくだけだとかさ。
結局世の中で諸行無常で露天するだけだから、
良いこととか悪いことがあったとしても、
結局は区別がない仏の世界からすると。
ということで、やっぱりそれって結局は、
もうある種定念、まさに諦めだよね、
とか静かに生きていくしかないよねっていう話があった時に、
態度っていうものが実は生きの中にはあるんだっていうことを考えるんだよね。
はー、なるほど。
なのでまさに余裕だよね。
ある種、世界をちゃんと捉えているからこそ、
例えばね、自分に辛いことがあっても受けられるとか、
生きる死ぬとかっていうことがあっても、
ある種冷静に受け止められる、
そういう余白とか余裕があるよっていう話。
男女の関係とか、生きっていうものに当てはめると、
まさにそういう遊びだよとか、
本気の恋愛じゃないっていうことを、
それをちゃんと楽しんでいるよみたいな。
そういう態度ですよねっていう話なんだよね。
なるほど。
なのでここで挙げたね、備体と生き地と諦め。
この3つがあると、
生きが生み出されるんだよっていう風に福木さんは言います。
なんでこの3つなのとか、
4つじゃないとかっていうのは正直説明しきれてはないんだけど、
その本の中ではね。
ただ福木さんとしてはこれを総括して、
赤抜けている、これが諦めだよね、余裕があるとか。
赤抜けていて、張りがある、これは生き地だよね。
緊張感があるみたいな。
あと色っぽい、これ備体なんだけど、
3つずつ赤抜けていて、張りがあって、色っぽい。
この3つが生きだよっていう風な。
そういう風に定義をしてるんだよね。
どうだろうね。
これで生きっていうものが掴めやすくなったかな、どうだろうか。
そうね。
前回はいとも言ってたけど、
この部分にこの3つに生きっていうものを説明しきることが、
疑問があるかもしれないみたいなことをはいとも言ってたけれども、
それはそうなんだけれども、
アリストテレス的にさ、
きっちりと生きというものを解剖して、
きっちり分けましょうって言うんだったら、
多分不十分なんだけれども、
いわゆるその全問答的に、
生きとは何でしょうか先生っていう時に、
この3つで説明されることで、
なるほど、そうですかって、
いわゆる腑に落ちる人って多分多いんだろうなっていう意味で、
十分なんじゃないかなとは思ったかな。
面白いね、確かに。
それは前回お伝えした、
抽象化してどんどん現実から離れていくんじゃなくって、
現実の生きっていうものを見たときに、
この3つでも確かにあるよね。
これの多い少ないで、
判断できるねっていうところまでが、
結構共感というか、
納得できるんじゃないかと思うんだよね。
そうだね。
たぶん久喜さんの出身も含めて、
あと当時の一般教養としての、
神奈川地での遊び方とか、
あるいは遊び方とかね、
振る舞いみたいなものが、
たぶん当時これがすごく一般的な例え、説明として、
たぶんわかりやすかったんだろうね。
だから現代風にやるとしたらまた別の、
この3つが必要なのかもしれないけれども、
そういう意味では現代ではわかりづらい可能性が、
リアルな説明としてはリアルじゃなくなってる気がするから。
まあ確かにね。
十分ではないと思うけれども、
すごくわかりやすいと思う。
確かにこの本が書かれたの自体が、
昭和5年か。
昭和5年は1930年なので、
ほぼ100年前だね。
95年前か。
するとまだ江戸の感覚が残ってて、
出身もあるだろうから。
今とどうだろうな。
例えばYouTubeでいかに成功するかみたいな、
例でもいいんじゃないの?
なるほどね。
まあわかんないけどね。
バズるとは何かみたいな?
バズりコンテンツの作り方でもいいかもね。
確かにね。
美体?
どうお客さんに媚びるか、媚びないかの選択肢と、
それをただ本気でやるかどうか。
ただ生き地で言うと、
世の中で流行ってるトレンドに自分が、
自分の芯もなく乗るのか。
それとも自分の最大コンテンツがあって、
その中できちんと自分の芯を持って、
やるのか流されてるのかの違いというところに、
その人の芯みたいなものが見えてくるだろうし、
最後、やっぱりこれで失敗したら死ぬみたいな、
変な焦燥感があるのか、
お客さんに絶対みんな見てほしい、
倒してほしいっていう変な焦りがあるのか、
それともちゃんと余裕があるのか、
これ外したら大丈夫ですねみたいな、
そういうのがいけそうだよね。
意気じゃなくて、この3つでバズーを説明したね。
でもね、それが全部揃ってるとバズるかもしれないし、
実際かっこいいかもしれないし、
意気だよねって言えるかもしれない。
確かにね、でも面白いな。
意気のほうを他にもあるんじゃないかとか、
要素のほうって思ったけど、
意気の概念
この3つで他のことも説明できるんじゃないかって思った。
意外と汎用的じゃんみたいなね。
でもね、方法論の話だからね、
前回最後でも言った通りね。
でも、今の人たちに意気を説明するとしたらって意味では、
今のじゃ多分不十分だろうけど。
確かに。
面白いね。
だからそういう意味で、
これが不十分だとは全く思わないかな、そういう意味で。
なるほどね。
そうしたらありがたいというか、
そもそも意気っていうもの自体があんまり日常語ではないからさ、
どうしてもリアルに感じにくいってあるかもしれないけれども、
今言ってくれた通り、この構造で色んなものを説明できるんじゃないか、
その中で意気っていうものをちゃんと説明していきますよっていう風な流れなんだよね。
やっぱりその3つを要素として洗い出したという話なんだけれども、
当然前回お伝えした海外と比較みたいな話でいくと、
当然それぞれの要素、諦めるとかさ、
パリがあるとか緊張感がある関係性とか、
あるいは色っぽいとかって、
それぞれの言葉は絶対多分各国にはあると思うんだよね、概念として。
美体ってあるかな、フランス。
美体っていうか色っぽいとか、男女のなんだろうな、
そういう関係性とかもあると思う。
キビみたいなね。
キビみたいな、そうそうそう。
そういったときに、この3つをうまくブレンドして、
特にこの美体っていうものを土台とした上で、
一つになりたいけどなれないとか、
相手を求める欲求とか欲望があるけど、
それを冷静に捉えるとかさ、
かつしかもそれ自体を楽しむ、
そういう態度自体を楽しんでいるみたいなことって、
結構複雑性が高いし、
なかなかないよねっていう風な感覚なんだよね。
はいはいはい。
これこそが意気っていうものの、
日本文化の独自性というか、
そういう風になるんじゃなかろうかって話で、
これは言われてみればイメージが沸くし、
確かにね、いきなり日本のことを知らない人にさ、
そういう手に入らない女性を追い求める楽しみがあって、
それ自体を楽しんでいるんですとかって言ってもさ、
分かるような分からないような感じだと思うんだよね。
何やってんのって怒られるかもしれないしね。
そこだけ聞いたらさ。
確かにね、無駄じゃんみたいなね。
ちゃんと誠実に期待しなよってなるかもしれないしね。
確かにね。
それが結局意気っていう言葉があって、
そこに備体とか意気辞とか諦めっていう要素がある中で、
日本のこういう風な夜遊びの文化とか、
意気な人と言われるような人がいるんですよみたいな話をすると、
確かにより伝わりやすくなるというか。
自分も今というか今回そう思ったからね。
意気ってそこと夜遊びみたいなところが全く繋がってなかったから。
そっかそっか、確かにね。
なんならそっちが大元で、
例えば江戸の街とかで、
店っていうのは例えば魚屋だとしても、
あの魚屋さん意気だねーみたいなときが、
どっちかというとその夜遊び的なイメージから引っ張ってきて、
そういうイメージの中で説明してるみたいな共通認識が生まれてるぐらいの順番なのかな、
もしかするとっていうのが全くわかってなかったというか。
確かにね、確かに。
やっぱり根底には福木さんの言う意気な根底には、
男女とか異性との関係っていうのがあるから、
拡張して魚屋さんが異性だが同性だだろうが、
単純にお互いにちょうどいい関係というか、
そういう風になれれば意気な関係とか、
お魚屋さんって風になるだろうっていう風にやっぱり広がってたんだろうね。
さっきも言った通り、やっぱり元の定義がちょっと難しいんですよ。
一元的とか二元的とかって言ったと思うんですけど、
これは僕の感想というか、受け取ったことっていう感じなんだけど、
やっぱりこの一元的な事故みたいなもの。
要は西田さんとかで言うと、事故っていうのも他者との関係で、
生きてるねとか、切っても切り離さないとかっていう話もしたと思うんだけど、
やっぱり僕らが生きてる感覚で、
どう考えても自分って他人とは違う存在だとか、
場合によっては自分こそが世界の中心だって人もいるかもしれないし、
一方で、なんで自分はちっぽけな存在なんだみたいな世界と比べて、
自分ってすごく取るに足りないみたいな、それはまさに二元論だよね。
世界と自分と比較するみたいな。
そういう時に、やっぱり両方の捉え方がどうしてもあると思うんだよね。
っていう時に、やっぱりこの安易に一元論とか二元論を考えちゃうと、
これを福木さんの言う生きた哲学、要はまさに現実を理解するってことから離れちゃう。
そういう意味でいくと、やっぱりその美体っていうものも、
やっぱりその関係性というものに基づいて、
ある種、孤立した、独立した自分っていうものと、
やっぱりそれを誰かを求める二元的な自分と相手の関係性っていうものをうまく捉えながら、
何だろうな、説明しようとしてるっていう意味では、
かなりそういう、何だろうな、根材論というか、まさに自分とは何かとか、
人間という存在とはっていうことが根底にあるからこそ、
こういう説明をしたんじゃないかってやっぱり思うんだよね。
言いたいのは要は単純に男女の色恋だとの話をしてるんじゃないですよっていう。
その根底にある人とはとか、人間存在とはっていうところにも、
日本文化の独自性
やっぱりちゃんと踏み込んでることなんじゃないかなって思ったっていう感じだったね。
確かに確かに。だからこの例え話だけでいくと、
生きっていうものが多分、すごく狭い範囲でしか理解されない可能性があるからってことだね。
そうそうそう。そういうことそういうこと。
夜の街の話っていうだけじゃなくって、
根底にある人が人を求める気持ちとか、
でも人と繋がってない、自分は一人ぼっちだっていう気持ちとか。
そういうことを捉えた上で、分かりやすいと、
生きっていうものを捉えたときの男女関係っていうものを語っているだけであって、
根本にはやっぱり結構もっと深いものがあると思うんだよねっていうフォローっていうか。
フォロー、なるほど。くきさんのこの話に対するフォローね。
そうそうそうです。ごめんね。あまり夜の街みたいな話をしすぎちゃったかと思ったから。
ちょっとバランスを取っておこうと思って。
はいはいはい。自分は魚やがみみたいな話をしたけれども、
だから男女の話に限らないよっていうことだよね。
そうそうそうそう。
あくまで例えばマンションはそういう話で、大本はそうかもしれないけれども、
くきさんはもちろん大本のそういうのありかい説も構造の話をしてるからっていうところを思い出そうねっていう話。
そうですそうです。その通りです。
はいはいはい。
はい。なので、これも考えていれば当たり前なんだけど、
そんな簡単に人って、仏の無差別の世界とかさ、
全てが万物平等でみたいな世界で生きられないじゃないですか。
うん。そりゃそうだ。
当たり前に。西原さんの無限の絶対無の場所とかっていう話もされてたけど、
その絶対無の場所を本当に心で理解、ちゃんと理解して生きていく人とか少ないわけですよ。
うん。
っていう時に、くきさんの現実の世界を捉えるとか、現実の人間を捉えるっていうのは、
まさにそういう仏の世界に憧れる部分もあるけど、でも現実の色濃いさにも引き込まれちゃうみたいな。
それ触れ幅を持った存在としては人間、特にやっぱり日本人だよね。
っていうのを表す時に、この生きっていうものがとても豊かな概念を持っている。
男女の関係でオロオロすることもあれば、諦めというか、ある種の余裕を持って、
それを超越して、それも遊びだよっていうふうに言い話すこともできるみたいな。
そういうふうな現実的な人っていうのを捉える時のきっかけとして、
この生きっていう概念っていうのを扱ったんじゃないかっていうふうに思うというふうな話なんだよね。
なるほどなるほど。確かにね。
生きっていうスタンスと、今回はからずしもというかちょっと悟りがある意味さ、
スタンスとしては似ているというかさ。
構造として似てるよね。
対人だったりとかいろんな世間みたいなものにすると生きだけれども、
対人生、対世界とすると悟りみたいになっていくっていうね。
だから本当にそこが入れ替えの機能な部分はあると思う。
悟りの構造とかでやろうとした時に、たぶん近い考え方でいける部分もある。
もちろんね、それは邪道だとか、そんなものは悟りとしてはやったものじゃないとかっていう人もいるかもしれないけど。
でも面白いかも。今回悟りの話じゃないけれども、
さっきもハヤットが言ってたけどさ、自分の人生っていうものを捉えた時に、
さっきの美体でいうと、自分とこの人生だったり世界が一つであればいいのにっていうのは、
無であればいいのにって、ある意味究極というかさ、
そうすればコントロール可能そうなんだけれども、
現実はそうはならないっていう意味で、
じゃあこの現実とどう付き合うっていう時に、
あくまでも二元論として付き合わざるを得ないという現実を諦めるみたいなさ。
それに対しても生き地みたいなとこは捨てない。
そこなくなっちゃうと多分共主義みたいになっちゃうから、きちんと自分として生きる。
この人生をどう生きるかって部分は持ちつつも、
この世との二元論的な距離感をうまく測りながら、
諦めと余裕を持って生きていくのだっていうのは、
ちょっとこれが悟りの説明ですって言われても、
生き方の理解
少し、あーなるほどって思わされちゃう部分ってあるかもって思った。
でも今すごい良いこと言ってくれてたと思うな。
本当?
実際にその、
ジョの本の話は前回もしたと思うんですけど、
その中にジシさんがまさにこの生きっていうものに関して、
結局は我が民族、日本人独自の生き方の一つではあるまいかっていうのも言ってるんだよね。
要は生きとか生き方であると。
あーそうなんだ。だからひらがなでわざわざ書いてるのかな、生き。
あるかなと思う。
だからやっぱり、なんていうのかな、
もちろん今言ったような男女のこととか、夜遊びのこととか、また次回以降話すんだけど、
芸術とか振る舞いとか、そういうことにやっぱり生きっていうのは感じるんだけど、基本的には。
まさにその根底にある生き方とか、世界との関わり方だよね。
っていうところは本当にそうだなと思う。
あーそうなんだ。
はやとがさっき言ったことを言い換えただけになっちゃうね。
何もオリジナルなものはないんだけど。
本当に?
わかりやすく言ってくれたなと思って。
生きの構造の考察
だからね、そういう意味ではなんだろうな、ちょっと今いろいろ言いたいことが出ちゃったんだけど、もうちょっと。
で、ここまでで実は生きの構造っていうのはだいたい表現できてるかなっていう感じなんですよ。
あーそうなんだ。
美体と生き地と諦めがあるような。
ここからは前回言ったような客観的表現の方の生き。
で、実際どんなものなのとか。
だいたいどうやって分析するのみたいな話とか。
またさっき言ったような芸術論とかね。
生きな芸術、生きを感じる芸術って何?みたいな。
そういうところが結構この本の後でまた書かれていくので。
どっちかというと掛け足になっちゃうんですけども、その辺りを見ていく中で、
クッキーさんが実際にこの要素3つを捉えた上で、どんな風に生きっていうものをさらに明らかにしていくか。
ということで見ていきたいなという風に思っておりますという感じですね。
現実の分析と芸術との関連
なるほど、そっかそっか。
これがわかったから現実である生きをこれで持って分析してみようみたいな、説明してみようみたいな。
そうそうそうそう。前回で言うとリンゴを見て、自分はこれをリンゴだという風に理解できた。
この3つの要素があるという風に理解できたから、この3つの要素に基づいて世の中のいろんなものを見ていって、
これがリンゴかどうかを確かめていこうみたいな。
確かめていこうだったりとか、みんながリンゴだって言ってるものをそれで見ていくと確かにリンゴなのか確かめてみようみたいな。
そうだね、そういう事。
NHKとかで言うと、じゃあ外に出て見てみようみたいな話だね。
そうそうそう、虫眼鏡持ってやってみようみたいな。
実際虫を見てみようみたいな。
はい、ですね。
なので、こっちでどっちかっていうと芸術論とか日本の文化みたいなものに興味がある方はすごい面白いと思う。
あーそうだね、面白そうだね、それは。
ファッションとかそういうのもすごいマサイソー分野だからさ、どういう服を着るかとか、すごい親和性が高そうだなと思う。
変わると思うし、そういう事で模様とかね、こういう模様は行きたいみたいな。
そうなんだ。
そうそうそう、とかもあって面白いんだよ。
その時はっていう話ね。
そうそう、当時はね。
哲学的にはちょっと次の偶然性の問題とかっていう本とかのテーマを取り扱っていきたいんで、
ちょっと次回かけ足で、ファッと浮気の構造の残りの部分を見て、
さらにその次は偶然性の問題っていう、またちょっと別の柿さんのテーマの方にいきたいなという風に思ってますっていう感じですね。
次回の予告とフィールドワーク
あーそこそこか、息だけをやった人じゃないのか、そっか。
そうそう。
やっぱり人生、人生では生きる、現実に生きるってことを色々目を向けてる人なので。
はい、分かりました。
では次回ですね、喜津幸行きのケーススタディ、ケーススタディじゃない。
行きのフィールドワークですね、街に出ようなやつですね。
はいはいはい、街に出てみようということでやっていきたいと思います。
では喜津幸よろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
43:40

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