ゲームの本質
それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回、ついにウィトゲンシュタイン最終回となるかと思うんですけれども、
前回に引き続き、今度は言語ゲームは何なのかという話になっておくというところでした。
そうですね。久々に、唐突なお兄さんへの質問コーナーをやりたいと思うんですけど、
お兄さん、ゲームって何でしょうか?
ゲーム?
はい。
ゲーム、スーファミとか、任天堂スイッチとか、ああいうものとかかな?
そう、でもいいね。ゲームって何?って言われると、あれとかこれとかそれみたいな感じになっちゃうと思いますよ。
うんうんうん。
いきなりウィトゲンシュタインの話に入っちゃうんですけど、
実はウィトゲンシュタイン自体がゲームには全てに共通する特徴、いわゆる本質がないんだって話をしてるんですよ。
要はスーファミとか任天堂スイッチとかって言ってくれたじゃない。
これはある種、いわゆるテレビゲームっていう本質があるよね。
共通項があるよね。電源で動くみたいな。
でもさ、例えばカードゲームみたいな、トランプとかさ、UNOみたいなさ、電源を使わないものもあるし。
そうね、ジャンケンとかもそうだよね。
ジャンケンとかもそうそうそう。あれカード使わない、道具さえいらないよね。
例えばさ、じゃあかくれんぼとか鬼ごっことかもそうだし、あとサッカーとか野球もさ、ゲームって言われたりするじゃない。
はい、そうだね、はいはいはい。
そう、そういうと、じゃあ例えばそういうスポーツとかも一部ゲームに含まれる?
なるほどなるほど、確かに。
じゃあでも、ゲームって勝ち負けがあるよねとか、絶対対戦相手がいるよねとかって言うと、
一人でやるゲーム、例えばソリティアみたいなものもあるし、
そもそも、ソリティアもまだ上手くできちゃできないと勝ち負けあるけど、勝ち負けがない、要はあやとりみたいな、
あれはちょっとゲームと呼ぶかっていうとちょっと広いかもしれないけど、遊びみたいな意味で言うと含まれるよねと。
そういうときに、要はゲームってすごく広い概念なんだけど、その中でこれがゲームの共通コード、
これを満たしているとゲームと言えるのだっていうものがないよねっていうふうにウィトニー・エース・タイムはまず言うんだよね。
へー、そうなの。そこには反論もありそうだけど、ウィトニー・エース・タイムはそういうふうに定義していると。
定義している、うん。し、反論しようと思うと結構難しいなと思ってて。
確かに野球とニンテンドー・スイッチとスマホのアプリと言うわけがないゲームってあやとりと言うときに、
その共通項が何って言われると結構難しくない?
家族的類似性
はいはい、なるほどね。ゲームって我々が定義しているものの本質、共通項を述べようとね。
楽しいか。遊びとかだと、それはあれか、多分説明にはなっていないって話なのか。言葉を言い換えているだけだよねみたいな。
そう、なっていないし、要は野球みたいな真剣勝負のゲームがあるわけだよね。
あー、遊びじゃない。プロフェッショナルがやっているのもゲームって言うとすれば、それは遊びじゃないと。
うん。
なるほど、そう言われるともうすでに難しいね。
そうそう、だから、もしこれは本質だっていうことがあればぜひ教えていただきたいんですけど、
大事なのはその本質がないということっていうよりも、本質がなくていいんだってことをビートゲーム社員は言いたいんですと。
どういうと、ビートゲーム社員が何をゲームをゲームにたらしめているかっていうと、
なんとなく似ているとか、それっぽいみたいな類似性っていうのが、ゲームっていうものの括りを与えているんだっていうふうに言うんだよね。
だから、なんだろう、これがゲームだって言えないんだけど、
あやとりは確かにゲームに含んでもいいっぽいよねとか、さすがにその場でジャンプするだけっていうのはゲームとは言えないよねとか、
そういうなんとなくでしか言えないみたいなものが、ゲームのまとまりなんだっていう感じなんですよ。
論考を書いた人とは思えないふわっとしている言い方がある。
それっぽいとかって言い始めてる。
それっぽさ。
そん中には言っていないんだけど、説明しようと思うとそうとしか言えない。
一応ちゃんと学者っぽく言おうとしているのは、家族とか親戚のあり方に近いんだって話をしてて、
例えば夫婦、お父さんお母さんと男の子女の子みたいに4人の数がいるときに、
例えば当然親の子は一部似てるんだけど、目は似てるけど口元は違うとかさ、
性格もなんとなくみんな穏やかなんだけど男の子だけ少し勝気だとかさ、
そういうのはもちろんあるわけだよね。
だからそういう、いわゆる、
例えば観音家の本質って何?って言ったらわからないわけよ。
観音家の本質あるかどうかわからないんだけど、でもなんとなく家族としてのまとまりがあるとか、
なんとなくね、観音ハエスと観音キョウスケは兄弟だから姿形とか声が似てるみたいな、
よくポッドキャスターの上では致命的な特徴がすると思うんだけど、
でもそういうので、何かこう、
家族っていうまとまりがあるよねっていうことも言うんだよね。
これも正直言ったらDNAが違うとか言おうといえば言えるから、
厳密な議論かというと難しいんだけれども、
こんな風に、なんとなく似ているとか、そういう緩やかにまとまっているっていうものを、
いわゆる家族的類似性みたいな言葉を作っていて、
本質主義の批判
そうなんだ、なるほどね。
ゲームっていうものの雰囲気を理解するためのたとえとして。
そう、たとえとして。
そういう家族的類似性があるようなものが実はゲームなんだ。
ゲームもそういうゲーム的類似性みたいなものがあって、
そこに生まれるものを我々はゲームと呼んでいるんだっていうふうに言うんだよね。
なるほど、なるほど。
こういう話を使って彼が何を言いたかったのかっていう話なんだけど、
結局僕らっていうかその哲学をする人たちって、
やっぱりこう、ある種の本質は何かとか、
ある一つのものにたどり着きたい。
これはプラグマティズムの時にも心理のところで言ったと思うんですけど、
ある一つの真理とか本質とか、
これだっていうものにたどり着きたいみたいな、
そういう発想にある種落ちりがちだっていうことをまずウィトゲンスタイルは考えるんだよね。
もうちょっと難しい言葉で言うと、
あるカテゴリー、ゲームでもいいし、
例えば人類とかそういうものでもいいんだけど、
そういうものにはカテゴリーとして求めている本質があるんだ。
そういう本質主義っていうような言葉で言うんだけど、
それを批判してるんだよね。
ほうほう、なるほど。そこを批判し始めてるんだね、今回は。
批判し始めてる、うん。
ちょっとそれが何でってまた後でお伝えするんですけど、
ちょっとこの本質主義の話をすると、
例えばさっき言った通り、人間っていうカテゴリーを考えた時に、
一人一人個人には個性もあるし、
当然違いがあるわけだよね。
でも人間ってものを語ろうとすると、
その違いっていうのはいらないっていうか困るわけだよね。
それぞれみんな違ってみんないいだと、
人間っても全然語れなくなります。
だから人間の共通項として、
理性を持つとか正しく理性を扱えるみたいな、
それが人間の本質だみたいな、
そういうことを考えようとしてます。
僕の兄貴はもちろん違う人間なんだけど、
理性を持っているとか、
うまく練習すれば理性を正しく使えるっていう意味においては、
同じく等しく人間だみたいなことを、
哲学では考えがちだし、
これまでそういうふうに考えてきた人だったよね。
という意味ではこの本質重視の姿勢っていうのは、
すごく哲学では大事なんだけど、
ビートゲー社に言わせると、それがむちろん、
女の子と正しく扱えるっていうのを妨げてたんじゃないか、
障害になってたんじゃないかっていうふうに言うんだよね。
なるほど。なんとなくここまでの話は間に合い切るかな。
変にステレオタイプを作っていることで、
そのステレオタイプにっていう色眼鏡で、
個々の事象も見ちゃうっていう順番が規定されちゃうみたいなね。
そうだね。
私まさにその眼鏡を持って世の中を見ちゃうから、
例えば人間が戦争とか起こした時にさ、
どうして人間は正しい理性を持って使えるはずなのに、
こんな悲惨なことをしてしまったのかみたいな、
そういう順番で考えちゃうんだよね。
普通に思ったらさ、人間も生き物だから別に互いに争い合うとか、
自分の領土のために他者を蹴落とすっていうのは、
普通に起こり得ることだとも言えるじゃない。
人間というのは理性を持っている、
正しい理性を扱えるとかっていう世界観で物事を見ちゃうと、
そういう発想がそもそも出なくなっちゃうみたいな。
そんなことが起きるわけなんだよね。
面白いね。
そのステレオタイプみたいなものに引き付けようとしちゃう、
っていう重力みたいなのが働いちゃうんだね。
そうそう。
これは別に過去の哲学者だけじゃなくて、
いわゆる論理哲学論語を書いたときの、
いわゆる人間社員自身も言葉としての本質、
言語とは何かとか、それは論理であるとか、
前回言ったときは論理っていうものから構築していったものが、
論理哲学論語だとしたときに、
言語の本質に論理があるみたいなことで、
やっぱり考えちゃってたんじゃないかと、自分自身がね。
なるほど。
それによってむしろ言葉の本質がそもそもあるって思ってたから、
言葉っていうものを捉え間違ってたんじゃないかとか、
ある種そこに穴があるようなことをやってしまったんじゃないか、
っていうふうな反省があるわけなんだよね。
そうすると、いわゆるじゃあどうするかって言ったら、
言葉の本質を捉えようとか、
それを突き詰めるんだってことじゃなくて、
言語とは何かみたいな抽象的なものをやることでもなく、
あくまでも現実に言葉ってどう使われてるのとか、
日常の僕らが今こうやって喋っている言葉って、
いったいどんなふうに働いてるのっていう、
そういうことを考えようぜっていうふうになっていくんだよね、
水戸玄師さん自身が。
そりゃそうだみたいな話にも聞こえるし、
これがどうなってくるんだろうね。
確かに。
だし既に水戸玄師さんもやってたはずだよね。
いわゆる世界の文化の中で、
世界側を見てるときには多分そういう、
どういうふうに言葉が使われてるかっていう事実を多分、
認識はしているはずだよね、水戸玄師さんもね。
多分ね、そうそうそう。
それをもうちょっと多分、
世界側にアプローチしていくみたいな話なんだ。
ゼロベースにしたから、
世界とかいう言葉も使っちゃダメなのかもしれない。
そうだね、そうだね。
ウィトゲンシュタインの言語ゲームの概念
その概念、もう世界とローリー空間って、
世界観はもう一旦誇りしてもらって、
そうそうそう、またね、
違う発想にもなっているんだけど、
でも実は兄貴が言ったことはまさに正しくて、
やっぱり同情な哲学者からしても、
それでやっぱりそんなことして何になるんだとか、
それで哲学じゃないよねみたいな批判っていうのは、
結構あったみたいなんだよね。
いやー、難しいよね。
だってね、アリストテレスじゃないけどさ、
なんか例えばいろんな、
虫とかでいいや、
いろんなアリを見たときにさ、
これとこれのアリは違うってことをやり始めたって話だよね。
ある意味フィールドワークっていうかさ、
それはそうだみたいなさ、そういう意味で。
言語っていうものがあったときに、
これとこれは違う、
実際に歩いてみるとこういう言葉が生息していた、
こういう言葉は絶滅主っぽいみたいな、
そういうのをポテトライズしていくみたいな、
これまでも哲学っぽいけどさ、
それに考えていくと当たり前のことを始めてるねって思っちゃう。
なるほどね。
はいはい。
ありがとう。
でもね実は、
ウィトゲン社からやったことはちょっと違うんだよね。
はいはいはい。
でもその違いを見出していくっていうのは、
要は何か共通のものがあるっていう前提では、
これは違う、これは違う、
要はアリっていうカテゴリーの中でも、
このAってあるとBってあると違うみたいなことだと思うんだけど、
とか、
昆虫っていう中でもアリとハエは違うみたいなさ、
っていうのは、
それ自体がもうある種カテゴリーを前提にした営みなんだよね。
だから実際はそもそもカテゴリーっていうものを外して、
もう言語そのもの、
日本語なら日本語だけとか、
例えばね、
英語なら英語だけとか、
別に今存在しない言語も含めて、
あれは言語自体が、
何でその言語と繋ぎ立つのかとか、
使われることができるのかとか、
そういうことを考えようとするので、
それはちょっと抽象的に言うと全然わかんないと思うので、
まさに言語ゲームっていう、
まさにゲームとして彼は捉えているから、
それをちょっと兄貴にやってもらいたいと思ってます。
楽しそう、やるやる。
やってもらっていいか、
言葉と物の対応
ごめん、やってもらっていいかね、
ちょっと参加しようという感じかな、
別に兄貴が何かを答えてもらうわけじゃないんだけど、
こういうような例をちょっと僕の中でアレンジしてるんだけど、
ちょっと聞いてみてもらいたいですと。
そこでちょっと注意したいのは、
言語ゲームっていうのは、
いわゆる僕らが想像するゲームみたいに、
遊びとかっていうことじゃなくて、
言葉っていうのは遊びみたいなものなんだ、
とかっていうことなんじゃなくて、
ゲーム、さっき言った通り、
要は本質とか共通の要素がない、
けど似てるっていうので隠れるみたいな話をしてたじゃないですか、
こんなふうに言語とか言葉っていうのは、
別に本質を特定なんてしなくても、
言葉とか言語としてのまとまりを持つんだっていう、
そういう概念が言語ゲームっていう概念なのね。
なるほど、こういうゲームを作ったわけじゃなくて、
そういった言語の在り方だったりとか、
ウィトルジネス社員的な捉え方を、
言語ゲームっていうふうに表現してるに過ぎないんだ。
そうそう。
面白い遊び作ったわけじゃないんだね。
わけじゃない、わけじゃない。
それは残念だな。
申し訳ないんですけど。
なのでそれは遊びがあればよかったんだけど、
違うんだが、
彼が想定している場面っていうのは結構面白いと思うんで、
ぜひヒントをお伝えすると、
前回まさに最後に雑談的なエントリーした、
子供がふりかけっていう文字を読んだときに、
ふりかけっていうものを別に意識してなかったと思う、
みたいな話をしたと思うんだけど、
そんな観点でぜひ聞いてみてほしい。
そんな観点、はいはいはい。
そういう言葉とものが分かれているような世界観で、
話を聞いてほしいです。
ちょっと今からそれを説明していくね。
まずある人、全然自分と関係ない人、
Aさんみたいな人で大丈夫なんですけど、
Aさんが突然さらわれちゃいます。
さらわれて、全然知らない場所に連れて行かれて、
言葉が話せない状況で、
置いてけぼりにされた状況をまず思い浮かべてください。
何したいんだろうと思って辺りを見回すと、
一枚の紙切れが落ちてます。
その紙切れの中には、
ブダモノ、ゴ、アカ、リンゴという記号が書かれています。
ブダモノ、ゴ、アカ、リンゴ、はい。
という紙が書かれていたので、
目があると思ってさらに辺りを見回すと、
いろんなお店屋さんの中に、
ブダモノという看板を掲げたお店があります。
なのでそこで急いでそのお店に行って、
店員さんにそのメモを渡します。
店員さんは黙々とリンゴと書かれたケースを開いて、
アカという記号が書かれた色見本を取り出して、
そのリンゴを見比べて、
赤いものだけを取り出して、
1から5までを数えて渡してくれます。
そうすると、
さらわれたある人は、
ブダモノのところから赤い5個のリンゴを手に入れて、
これでミッション完了です。
以上で場面設定終了なんだけど、
ちょっとここで兄貴に考えてみてほしいんだけど、
果たしてこの連れ去られたある人っていうのは、
自分が何をすべきかを果たして知っていたでしょうか?
いや、知らないよね。
もしかしたら気づいたかもしれないんだけど、
このある人と店員さんが連れ去ったのって、
本当にリンゴだったでしょうか?
いや、気づいてないよな。
え、なにそれ。
怖い怖い。
リンゴでしょ。
ちょっと待ってね。
ブダモノ、リンゴ、5、赤。
え、分かる。
リンゴだと思ってたけどね。
あとは台本を読み直すんですけど、
こういうふうにしたと思うのね。
いろいろなお店屋さんの中に、
言葉の使用と理解の関係
ブダモノという看板を書かれたお店があり、
店員さんは、
リンゴと書かれたケースから、
リンゴを取り出しましたっていうふうに言ってるんだよね。
リンゴとリンゴ、
リンゴとリンゴ、
リンゴって書かれたケースから、
リンゴを取り出してるんだよね。
でもこの場面設定において、
果物が何かとか、リンゴが何かを知らなくても、
この2人の中ではやりとりが成立しちゃってるのよ。
つまり、さっき言った通り、
僕らが果物屋さんでいたら、
スイカとかみかんとかメロンとかを売ってる果物屋さんを想像し、
果物屋さんの中にあるってことは、
リンゴが入っているだろうっていうふうに想像しちゃうんだけど、
全くそうじゃなかったとしても、
この話って成立しちゃうのね。
なるほど、それはわかる気がする。
例えばタイに旅行に連れ去られて、
タイ語は読めないとしてね、
実際読めないんだけど、
連れ去られて、
その辺ちょこーんと、
知らないところに連れ去られて、
下ろされて、
そこで紙を渡されるわけだよね。
言葉が4つくらい書いてある。
周りを見渡すと、
同じ並びがあるお店があったから、
とにかく今何もわからないから、
そこに入ってみようって。
これを渡したら、何かもらったっていう状況だよね。
それが何かわからない。
要は、僕らはリンゴとして認識しているから、
おそらくリンゴだろうとか、
物を見たらこれはリンゴって言葉だったんだ、
という風に後から理解するんだけど、
果たしてそれが全く見たことない物を渡された時に、
全然知らないんだけど、
これはタイではこの言葉で読めないけど、
という風に理解しかできないはずなんだよね。
確かにね。
真っ青な果物をもらって、
悪魔の実みたいなやつをもらって、
これとさっきの紙切りを、
この言葉がこれだよ、みたいに指差されて、
5個悪魔の実をもらって、
これか、みたいなね。
食っていいのか知らんけど、みたいな状況だったかもしれない。
例がリンゴだったからリアルに想像しちゃったけど。
そういうことです。
そこがまさに言葉と物を、
対応させちゃうっていうことの、
僕らの無意識な働きなんだけど、
それが何?みたいなことを思えるかもしれないので、
急いで補足をするんですけど、
今回の言語ゲームっていうのは、
要はフザモノとアカとゴとリンゴ、
4つの言葉、
希望しかない世界で行われるゲームでした。
要は、そもそも世の中、
僕らの世界の中の一部、
全然別世界でもいいんだけど、
フザモノとアカとゴとリンゴっていう、
言葉しかない世界があるっていうふうに、
一回想像してほしいよね。
この4つの言葉しかない世界なんだけど、
ゴっていうものだけはね、
5まで数えたから1、2、3、4、5まではあったっていう、
ちょっと厳密に言うといろんなことはあるんだけど、
それ以外のフザモノとかアカとかリンゴっていうのは、
実は何も定義されてない。
ただ、いわゆる、
突然さらわれた中で、
目にかれていたとかっていう、
いろんな状況が合わさると、
とりあえずそれを手に入れようとか、
それが手がかりじゃないかとか、
リンゴって何らかのものだとかっていう意味っていうのが、
その環境の中で初めて生じてくるんだよね。
その概念というのを知らなくても、
言葉とか記号っていうものを通じて、
やり取りすることができる。
それを言葉が使えてるっていうふうに考えてもいいんじゃないかっていうのが、
ウィトゲンシュタインがここで提示している、
世界観っていうのが、
ウィトゲンシュタインがここで提示している、
世界観とか言語観ですと。
これって何が面白いかっていうと、僕らは普通逆なんだよね。
言葉を覚えて初めてそれを使えるっていうふうに、
基本的には思ってるじゃない。
要は、前回をさせた子供がまず言葉を覚えて、
リンゴっていう言葉を覚えたから、
リンゴっていう言葉を使えるようになる。
っていうふうに僕らは思いがちなんだけど、
言葉の指すもの
逆で、リンゴっていう言葉を使えて初めて、
その言葉が意味を持ってくる。
これはリンゴだよ。
これはリンゴじゃないよっていうふうに言われて、
リンゴっていう言葉がこの現実世界を指すものと、
対応してるとか、それを状況を指す言葉として、
使えているっていうことが分かって初めて、
リンゴっていう言葉を、
子供はなのか人間は覚えるんだとか、
理解できるんだっていう、
そういう順番で考えてるんだよね。
なるほど。ここは、なかなか難しいね。
感覚を見せつつ。
なるほど。
なんでだろうね。
その現体験を我々は忘れてるんだろうかね。
そのリンゴっていう言葉を覚えた時のね。
忘れてると思うし、多分ね、
僕らは英語を覚える時もさ、
言葉単語帳から入っちゃうじゃない、例えば。
単語を覚えて覚えて覚えて、
これは日本語のリンゴが英語のアップルであるとか、
っていう風になるんだけど、
本来は違うはず。
物の中にいろんな物が先にあって囲まれていて、
This is an appleとかThis is a bananaとかっていう、
その言葉、
その使用される空間の中で、
生きていく中で身につけていくもの。
っていうのが、分かんなくなってるんだと思うんだよね。
これはさっきの兄貴が言ってくれたタインの話と一緒ではあるんだよね。
要は、
言葉が分かんなくても、
言葉を覚える順序
その青い真っ青な悪魔の未来を押さえた時に初めて、
これはこの果物の名前とか言葉を指してるんだって分かる。
ふんふんふんふん。
だけど、
うちらは、
母語を覚えた時の感覚を忘れちゃってるから、
言葉を覚えれば、
そのものを捉えたつもりになっちゃってるみたいな感じなのかな。
そうだね。
言葉を今使うっていう話と、
言葉を覚えるっていう話を2つ分けて話すんだけど、
覚えないと使えないっていうふうに思っちゃってるんだよね。
覚えないと使えない。
そこを、
使わないと覚えないっていう順番だよっていう話を今してるんだよね。
そう。
使えるからこそ覚えられるっていう、
その順序の違い。
なるほどだけど、それがどうしたみたいになっちゃうけど。
そうだよね。
なので、
そこまでは一旦、
なんとなく理解したっていうところから進んでいくんだけど、
そこまでは一旦、
なんとなく理解したっていうところから進んでいくんだけど、
そこまでは一旦、
なるほどって思ってくれたとすると、
前回ちょっと触れたとおりで、
ミッドゲーム社員自身が最初からアプリよりに意味があるって言う言葉とか、
意味がないって言う言葉がないんじゃないかって話をしたじゃないですか。
なので、スマホが手元にあるみたいな言葉も、
僕が本しか持ってなかったら、
おかしいでしょみたいな感じの言葉になっちゃうと思うんだけど、
そんな感じで、
言葉っていうのは状況とセットですってなったときに、
通常の言語ゲームで言うと、
最後までこのビンゴっていう言葉が何を意味しているかっていうのは、
わかんないんだよね。
そうなんだ。
果物で書いてあるから果物屋さんだっていうのは、
僕らは知識が入ってりこんじゃってる。
で、リンゴとして渡されたものが、
本当にリンゴだったのかっていうのは、
今のさっきの話では説明が特にない。
ただリンゴを渡しましたって言われてるから、
僕らは赤いリンゴを想像してしまうっていうだけで。
なるほどね。
これらの言葉も仮の話ってわけね。
リンゴっていうものを渡されたんだけれども、
そこは間違いないんだよね。
リンゴって書いてるケースから取り出したから、
かといってその中に入っているのがリンゴとは限らないっていう話ではなくて、
でもね、多分そこがちょっとね、
この具体的なものを
想像しちゃってるから難しくて、
一応そのリンゴ、
この話の中の紙に書いてあったリンゴを
手に入れたんだけれども、
必ずしも、
リンゴとは限らないよっていう話。
そういうことです。
もっと言うと、
この場面でのリンゴっていうものが本当に何を意味しているかっていうのが、
正直わからない。
この文章だけではね。
それでもこのシチュエーションにおいては、
詳しく言葉を扱われているように振る舞っているし、
それでいいんだっていう話なんだよね。
だから、
仮にそれがリンゴじゃなくてみかんだったとしても、
彼ら店員さんとか、
ある人の中ではもう別に、
それがみかんだろうがぶどうだろうがメロンだろうが、
言葉の本質とは
別にどうでもよくって、
リンゴと思ったものをリンゴとして渡されたっていう、
それで成立してるじゃないかって話なんだよね。
そういう箱庭みたいなものを想像したときに、
そこの住人同士では、
リンゴっていう言葉を使ってメロンをやり取りしてても、
世界観の中では全く何の支障もないよって話ってことだよね。
そうそうそう。
だから、
こっちは多分忘れてたんだけど、
最初、早藤がさっきの果物の赤リンゴの語の話をしたときに、
言葉だけの世界を想像しろって言ったけど、
それ忘れてたりとか、それ難しいね。
難しいよね。難しいと思う。
だからもうXとYとZと変わらないって話だよね。
まあ、そうだね。
だから、
どうしてもね、
僕らがどれだけ言葉を言われた瞬間に、
物と合わせて考えてしまうかとか、
物と言葉ってのは切り離さないかっていうことが
まさにここにも出てると思うんだよね。
そうだね。さっき想像してくださいって言われたことを
想像できてないもんね。
そうそうそう。難しい。
でも、これこそ言葉っていうものをちゃんと捉えようとしたときに、
言葉の本質とか論理みたいな話っていうのは
別にいらなくて、
さっき言ったように、
ここには、中ではリンゴっていうものが
メロンを刺すとかバナナを刺すとかいいみたいな話と一緒で、
あるシチュエーションにおいて、
ある人がその言葉を使って正しく物事を
やり取りできているとか、もっと言うと生きている
っていうことができれば、
それが言葉っていうもののまとまりなんだ
っていう風に認識したら考え出すんだよね。
はいはいはい。なるほどなるほど。
確かにそれは本質はないね。
そうそうそうそう。本質はないし、
あくまでもこの論法でやってるやつは、
いわゆる論理空間とかを作って、ちょっと実験室っぽく
いろいろ組み合わせたりとか物事の順番を変えて、
ああだこうだ考えるっていうのじゃなくて、
あくまでも生きている、僕らが生きている空間の中で
生きている人間が使うものとして、
言語を扱う。
これがその後期ウィトゲンシャインが
ある程度1週2週何週したかわからないくらい
多分やってそれについては境地なんだよね。
これは境地だろうね。
ある意味何回言ってもしちゃってるからさ、
うちらからすると当たり前じゃんとか言いかねないような
話をし始めてるもんね。
そうなんだよね。逆にそれは
学問なんですかとか言われちゃいそうだもんね。
カテゴリーしませんよって言い出すとさ、
じゃあ何をあなたやってるの?
現実を見てそのまま表現してるに過ぎないじゃんみたいなさ。
学問になり得ない感じがするもんね。
何かを証明するとか、
効率を見つけるっていうのが学問の
一つのスタイルだとすると、かなり逸脱してる感じ
するもんね、これは。
やっぱりすごくそこは難しいし、
さっきも言ってくれた通りで、
やっぱりそんなことして何になるんだとか、
それって哲学なの?みたいな。
せいぜいよくて言語学とか文化人類学、まさにいろんな言葉があるよね。
別に文化人類学とか悪いとかすることじゃなくて、
そうやって哲学になり得ないんじゃないか?
みたいな批判っていうのはあったみたいなんだよね。
そこのフィールドワークしかしてない部分じゃん。
そこから何かを見出すとかすらもしてないじゃん。
見えなくもないもんね、これは。
見えなくもない、うん。
でもやっぱり宇宙現象は言うんですよ。
哲学といえども学問といえども、
基本的にはよく生きることとか、
人生を良いものにしていくっていう目的はある?
ってなった時に、言葉の抽象度を高めて
いろいろ操作をするっていうことよりも、
僕らがそもそも言葉とともにどう生きているかとか、
その生活の方を明らかにするっていうことって、
ちゃんと意味があるよね、
みたいなことを言うんだよね。
そういう言葉では言わないんだけど、
だからこそ、やっぱりそういう、
さっき言った言語ゲーム、
果物と赤と五とリンゴしかないじゃないか、
ある種究極の空間というか、
思考実験をして、
それでも言葉っていうのは成り立っている。
そのシチュエーションにおいては、
この四つの言葉っていうのは正しく人と人を結びつけている。
だからこれも言語なんだ、
っていうふうに言うことで、
ある種言語っていうものをされ上がったっていうのは、
ある種一新させているのが、
東京イトゲン社員の言語ゲームっていう概念で、
やってることがやろうとすることなんだよね。
ここまで聞いて、さっきの例え話、
言語ゲームの例え話を多分もうちょっと
理解できたかなと思うんだけれども、
多分、やっぱ言葉に引っ張られちゃってて、
その本質、
さっきのゲーム、
ここまで聞いて本質の話をするかっていう話なんだけど、
さっきの言語ゲームの本質ではね、
何を言おうと教えたかっていうところを、
ちょっと解釈というか、
こうするとわかりやすいんじゃないかなと思ったのは、
さっきの例だとさ、さらわれた人が一人だったじゃん。
じゃなくて、もう箱庭に、
知らない言語だったりとか、
箱庭に二人、人をぶち込みますと。
そこに一人は、
建物の中に入れます。
もう一人は外にとりあえず待ててもらいますと。
という風にしておくと、
片方はさっきのカビキレイを渡します。
もう片方の人は、
建物の中に入ると、
上に果物って書いてある建物に入れられている。
何か見渡すと、
赤って書いたものとか、
ビートゲンシュタインの言語ゲーム
りんごって書いた箱とかが置いてある、
という状況にぶち込まれますと。
それで用意どん!
外にいる人がカビキレイを持って、
果物って書いてある建物に行くと、
同じ、何も知らない人が
そこに立っているんだけど、
その人が渡されると、
外に出て看板を見ると果物って確かに書いてるんだと。
赤って書いてるやつがあって、
りんごって書いてあるケースもあると。
2人が何も知らなくても、
何かコミュニケーションを達成されたみたいな。
そこで想像すると、
この言葉っていうものの働きを
見遂げる人がどう言いたかったか。
何も知らない2人が言っても、
何か成り立ってんじゃんみたいな。
その状況って方がリアルかなと思った。
分かっている人からすると、
そんなに繰り返してるんだってなると思うんだけど。
確かにね。
分からない人同士でも成り立つっていうのは、
本当にそうだよね。
片方は分かっている前提だったのかな。
ちょっと実は違う。
僕がレンジしちゃってる部分もあるから。
本当はね、果物屋さんに行くとかじゃ
全然なかったりするんだけど。
本当にその通りで、
1個あるのは、
ある種、2人とも分かんないってもそうだし、
1人は分かってて、1人が分かんないっていう状況でも、
別に相手の意図を知らずとも
それができるっていうのも結構面白い話なんだよね。
例えば、
さっきもパイの話分かりつけたと思ったあれなんだけど、
タイ語分かんない僕らが
お使い行ってきてっていうふうに現地の人に言われて、
何も分かんないけど、メモと
地図さえ渡されれば多分
お使い需要が達成できると思うんだよ。
それは多分言語以外のいろんなことを
もちろん使ってはいるんだけど、その知識とかね。
でもそういう、ある種言葉っていうものを
元にして、そういう
ある意図に基づいた行動ができる。
それを理解しなくても。
言葉っていうものが中の意味で記号として役立っている。
生活の中で
浸透している。
その中で僕らは生きてるよねっていう、
それを切っても切り離さないものとして捉えましょうっていう感じなんだよね。
極限状態みたいな話ももちろん
イメージとしてあっているし、
現実の世界に引き寄せても
それは成り立つなっていうふうには思ったね。
言葉の限界と翻訳可能性
なるほどね。
例えばリンゴっていうものが
必ずしも究極の
絶対的な一つのものを表しているわけじゃないよっていう話なんだよね。
そこを言いたかったって話だね。
リンゴに沿っても。
言葉に沿っても
リンゴっていうものが
仏教っぽくなってくるけどとか、
言葉ってやっぱりものっていうふうには
そこを思い込んでるよねっていうところに
効い込んでいったって話なんだね。
最後にビトゲンシュタインの
彼の言葉で言うと
名前とか文が意味を持つっていうのは
それが属している記号操作の体系においてであると。
この体系っていうのは言わば自律的である。
言語はそれ自身で
語るのでなければならないっていうふうに書いてるんだよね。
こう言われちゃうとちょっと分かりにくいと思うんだけど
記号操作っていうのが
さっき話しているところの
分かんない人を2人連れてきて全然違う世界に
放り込みましたっていう
そういう状況において
りんごとか果物っていう名前とか文が意味を持つっていうのは
そういう状況の中でも果物って書いてあるとか
りんごっていうものがある、そこに存在してるっていう
そうやって初めて
これがりんごなんだとか
これが果物なんだっていうのが後から分かってくるみたいな
すごい荒いイメージなんだけど
そんなふうに理解できるんじゃないかなっていう感じですね。
なのでやっぱり
ビートゲンシュタインの論理哲学論考であったりとか
哲学探求をそのまま理解しようってことは結構難しいし
なかなか一筋縄ではいかないかもしれないなとは思うんですけど
こんな感じで
なるほど、言葉っていうものの捉え方が違うから難しいんだ
とか
僕らが普段当たり前に使ってる言葉っていうものに
ここまで繊細な関わり方をしてる
なら
言葉で書かれた本がまさに読み取りにくいんだみたいな
そういうことを勘案していただけるだけでも
僕としては話した意味というか
でも伝えしてきた意味があるんじゃないかなっていうのは最終思うんですよね
そうね
でも今回このりんごゲームとかを通じて
ビートゲンシュタインはやっぱり
それまでの哲学は議事問題ですよみたいなことを
言いたかったのかな
それともまたそこの哲学に対するスタンスだったりとか
もしくは聞き崩し方というか
そこもなんか変わったのかな
そういう意味で言うと
治療としての哲学みたいな考えはずっとあったみたいなんだよね
そこはあったんだ
今までのは議事問題というか
やっぱり違うでしょっていうのはあったんだね
言葉の混乱によって
正しく物事を考えられたらいいんじゃないかっていう
発想自体はあり続けたみたい
なるほど
今回のりんごゲームみたいなものを想定した時に
それまでの哲学っていうのも
言語っていうものがある程度そういう
体系っていうのは
例えば自分が理解したのは
例えば家族内だけ理解できるとか
あとはこのコミュニティだけ理解できる
もしくは日本語だけ理解できるとか
多分いろんな社会とか文脈によって
使われる言葉の意味合いっていうのは多分変わってくる
同じりんごっていうものももしかしたら赤いものを指すかもしれないし
黄色いものを指すかもしれないし
緑のものを指すかもしれないぐらいやっぱり違うということがあった時に
哲学っていうものがそれを
黄色のりんごを消しちゃおうとしていて
言語の本質と正義の概念
赤なのか緑なのか黄色なのか
それすらもわからなくなってる
本当に意味わかんないことを言おうとしているみたいな
哲学やってる人たちもそういう言語の
限界じゃないよね
言語の
運用のされ方みたいな
そうなのね
ちゃんと言葉を使いなさいよみたいな
多分そういう意味の治療というか
言葉に対する感覚
適当に使うな勝手に本質とか
言葉に勝手に意味付けすんなみたいな
そういう継承というか
批判かな
こうしてるみたいなイメージなのかな
そうだね
本質みたいなものをそもそも考えるとか
捉えようとするってこと自体が
本当に意味があるんでしょうか
たぶん気持ちもあっただろうし
同じものを別の人が
言葉で語るっていうのは
難しさ
後の議論で言うと
翻訳可能性みたいな話になってくるんだけど
リンゴとアップルは翻訳できてるっぽい
英語から日本語にとか日本語から英語に
でもよく言われる
ミヤビとか
奥行かしいみたいな日本語があったときに
それって他の外国語に
完全に変換できますかみたいなものが
出てくるんだよね
奥行かしさを美徳とする文化があって初めて
いいものだみたいな
そういう文化とか風習とかがない国に
例えば言葉を持っていって
仮に現地の言葉をなんとか翻訳しようとしたときに
どうやってできるんですかとか表現できるんですか
みたいな話が出てくるんだよね
確かにこの前子供YouTube見てたんだけどさ
味の
子供向けの番組やってて
味って味覚のこと?
英語のやつやってて
サワーとか酸っぱいとか
ビター苦いとかやってたけど
その中で一ついきなり英語の人が
うまみって言い始めたの
なるほどね
英語は知らないんだけど
英語の子供向けの
やつでうまみって言ってるってことは
言ったことのうまみは
向こうには外来語として
そのまま言ったのかなっていう
家族で笑ってたんだけど
なるほどみたいな
そういう話だよね
実際そうみたいな表現がなかったから
一体日本語を釈用してますみたいな
ごめんごめん
最近あったなと思って
本当そう
うまみっていうものを
らしく言い表してないよみたいな
それってできるんだっけみたいな話とか
いろいろ出てくるんだよね
それをそのまま理解できるかって話ね
理解したと言えるのかみたいな
面白い
たしかにうまみがこの世に存在するのかって言われたときに
うちらは確かに存在するこれだって
言えるかもしれないけど
そもそも存在しないみたいな人もいるわけで
それはじゃあ正義とか美だったらどうするみたいな話だよね
そうなんだよね
そういう人を日本に連れてきてこれがうまみですよって言って
食べさせることはできるけど
言うことはたぶん難しいよね
それも似たような話になっちゃうよね
こっちに連れてきてこれが正義ですよって
あちこちで言われるだけに過ぎない
正義の共通項とか本質があるかっていうと
たぶんなんとなく
これが正義っぽいよねってものはあるけど
正義の本質みたいなものを追求するのはすごく難しい
もしかしたらできるかもしれないけど
ただとても難しそうで
言語と似たような話かもねと
そんな感じで非常に荒い話だったんですけれども
一旦哲学探検における言語ゲームの話と
加えてウィザゲインしたいという話は
一旦今回は終了でございます
前回もお伝えしたんですけど
もっと深く内容に触れたいんだという人は
スタジオ参考文献に向かって検索すると
僕のノートが出てくると思うので
そこからご覧いただけたら嬉しいなと
せっかく更新したので宣伝したいという
今回は雑談とかも挟みながら
西洋はだいぶ続いたので
スターハープラグラマティズムイトゲインしたい
結構大変だったかなと思うので
東洋は大変じゃないというわけではないんですけど
大変じゃないというわけではないんですけど
空海をぜひ取り上げたいなというふうに思っております
ついに日本の人を
ちゃんと取り上げるのは初めてじゃないかな
そうか確かに
中国とかインドの人とか
基本的に仏教とかやってたけど
中国インドギリシャとかやったけど
日本人はね多分
有名人とか
空海の哲学的な面白さ
教科書に載ってるような人で取り上げるのは初めてなので
面白いんじゃないかなと思うのと
空海って神言宗じゃないですか
そうなのかね
最澄と空海でしょ
最澄と空海がどっちなのかがね
分かんないよね
曹洞宗と神言宗だけか
天台宗
全然分かってないじゃん
ごめんごめんそういうレベルなんです
次回ちゃんと言ってくるんですけど
神言宗って誠の言葉なんだよね
真なる言葉じゃないですか
全然違うレベルなんだけど
言葉について考えた人なんですよ空海って
もうそれだけでアンキンがはかどるね
なるほど
言葉について考えた人なんだね
僕は真空と天才って合わせて覚えてたけど
空海は神言宗で真空で
最澄は天才だから天台宗
それはただの語呂合わせ
アンキンの語呂合わせだし
そんな意味でね
言葉について全然違う時代に
レベルで考えた人って見ては
結構面白いつながりがあるんじゃないかと思うので
そんな発想の飛び方も味わいながら
引き続きトレゼントラジオを楽しんでいただきたいな
空海の思想について
という風に思っているような感じでございます
待ちかねてましたね
投与
投与やると西洋やりたくなるし
西洋行くと投与やりたくなるしみたいなね
だいぶ左脳を使った感じするしね
そうだよね
カイトも言ったけど
プラグマティズムとか
最近の人になればなるほど厳密な感じ
出てくるから
楽しみだね
本当に楽しいし
空海は本当に面白い
本読み直してるんですけど
大天才だなって思う
そうなんだ
空海はなんとなくは知ってるけど
思想的な
哲学的な話で言うと全くわかんないから
そういう意味でも改めていいんじゃないかなと思うので
ぜひまた楽しみにしていただけたら
嬉しいなと思っています
分かりました
イトリエンシュタインが結構ガチで長かったというところで
皆さんお疲れ様でした
ありがとうございます
次回は空海が増えていきたいというところで
楽しみにしていきたいと思います
次回も引き続きよろしくお願いします
お願いします
今回もありがとうございました