1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #129 矛盾?調和?老子の理想..
2023-07-19 40:56

#129 矛盾?調和?老子の理想を体現する「聖人」の条件

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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サマリー

最後のエピソードでは、聖人の条件について話を進めます。聖人は道を体現しており、自己を捨てて自然に生きる存在です。無私、無欲、無名というキーワードに焦点を当て、老子の思想の特徴をまとめます。老子の理想を具現化する「聖人」の条件を考えます。それは矛盾と調和の関係や、道の法則に従うこと、無名な世界と現実世界の関連性などを探るものです。老子とソーシの思想は異なりますが、次回のエピソードでソーシについて詳しくお話しします。

聖人の条件
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回は老子編の最後ということで、聖人ですね。これが何なのかという話を見ていきたいと思います。
はい、そうですね。聖なる人、聖人。これもね、たぶん老子にとってのっていう感じではあるんですけど。
はいはいはい。
これまでの話で言うとね、聖なる人、聖人っていうのは、要はその世界の根本原理である道っていうものをまるで体現していて、誰かのままに生きてますよとか、
政治的な面で言うと、そういう人が君主になるべきだみたいな、そういうことをお伝えしてきたんですけど、
この説明だと、聖人って結局政治でどんな人なのよみたいな、あまり説明できないというか、そういう感じかなと思うので、
今回はそこにフォーカスを当てることで、老子の思想の特徴というか、結局こういう生き方、あり方、存在がリソーズされているんだなみたいなところをお伝えしていくことで、
老子編のまとめにしたいなというふうに思っています。
はいはい、そうだよね。確かにここまでの話だとね、老子が本当にすごい人なのか、愚かな人なのかわかんなくなってきてるからね。
まあね、そこまでやっぱり時代時代って変わってくるだろうとは思うんだけど、でも面白いと思うんで、僕の感じている部分とかはまた今回の最後の雑談とかでもお伝えしたいと思うんですけど、
まずはちょっとね、この昔人と何かっていうのをお伝えしていこうというふうに思っておりますと。
今回もキーワードを3つぐらい取り上げてお伝えしていこうと思うんですけど、
1つ目が無私。一回見たら私がないってやつね。
2つ目が無効。
効っていうのはイサオとかさ、手柄みたいな話。
公明エルとかいうじゃん。
その意味での効。
で、効がないって話ね。
3番目が無名。
これは前も話した、名がない。名前がないってやつね。
で、この無私、無効、無名っていうこの3つのキーワードに、この成人っていうのを深掘っていこうというふうに思っております。
まずは無私、私がないっていうところからなんですけど、前回もお伝えした通り、老人の言葉って要は王様っていうのは海で、民衆が山、谷で、
王様が民衆より低いところにいるからこそ統治できるんだみたいな、そういう話をしたじゃないですか。
普通だったら王様の方が高いところにいるよね、みたいな意味では逆説的な表現だと思うんですけど、
この無私、私がないっていうのに似たような表現があって、実際に老人が書いてるのが、私がないからこそ、つなげて成人としての私がいられるみたいなことを言ったりするんですよね。
これだけだとなんとなくわかるけど、実際どこで言ってるのみたいな話だと思うんですけど。
そうね、全問答的な感じがするね。
これね、理解できるようなついになる表現があって、それが、天地、要は空とか地面、要は世界だよね。
それが永遠に存在できるっていうのは、存在しようとしないからだみたいな表現がありますと。
まあ同じだな、よくわかんないけどね。
こっちも説明しやすいので話していくと。
今の自然科学的な知識でいうと、仮に天地が地球だったり宇宙だったとしても、それが本当に永遠かとか、いつまでも存在するかっていうと、多分そうじゃないとか言えちゃうんですけど、
一旦そこは置いておいて、ここで老人が言ってるのは、仮に自然とかにも存在し続けようという意図とか意思みたいなものが仮にあったとすると、
結局存在し続けるっていうのは努力になっちゃうから、どこかで歪みとか滅びが生まれちゃうよねっていうことを言ってるんですね。
要はそういう存在し続けようとかっていう、自分の意思とか気持ちみたいなものが仮に自然になったとすると、
それによって自然とかって永遠に存在できないよねみたいな、そういうふうな主張をするんだよね。
これは論的には別に正しい主張ではないんだけど、言おうとすることはわかるというか、確かにそういう想像を働かせたら、永遠に存在しないかもねって言えるよねっていう感じかと思います。
言おうとすることはね、なんとなく。
なので、成人としての人間にあっても、よく生きようとか、素晴らしい人間であろうとか、そういうふうにすればするほど無理が生じちゃうよねと。
なので、前回もおっしゃった通り、無欲というか、そもそもそういう思いみたいなものを、自分意識とかを取っ払っちゃって、自分がとか、何かが良い悪いとかっていうふうなことじゃなくて、
ただただあれがままに生きる。
無私、無効、無名
それも、あれがままに生きるのが良いとかじゃなくて、ただただそうする。それが結果的に、よく生きるってことに繋がるんだみたいな。
はー、まあ難しそう。なんかね、わかる気もするけどね。そうか、頑張らなくていいよってわけでもないんだね。そもそもそこの頑張る頑張らないの概念を超えた存在が成人であってみたいな話ね。
だからそういう意味で、そういうふうに、ちょっとこれは西洋的な考えになっちゃうけど、私っていうのは理性とか実態としての思う私だとしたときに、
何かを頑張るとか頑張らないとか、これができたらすごい良くないとかって思ってて、私自身がもういらないから、それはなくそうねっていう感覚がこのローソン成人の無視っていう感じなんだよね。
うーん、なるほどね。でも面白いよね。確かにこの前聞いた有名無名とちょっと同じ感覚がここにもあるんだろうね。
もうすでに無視の前の、これの反対の言葉は有視みたいなさ、ある私がみたいなことを仮にしたとすると、それって自分っていう何もでもないというか、何かわからない存在について、何か名前だったりとか意味を持たせると有視みたいな、それが多分普通の感覚、人間の感覚なんだけれども、
それに対して自分という存在に色を付けない状態を無視みたいに表現するとしたら、すごくこのローシの概念の中の話としてはこの無視っていう概念はすごく納得性が高いというか、すごく理解しやすいかなとは思ったね。
確かに有意識みたいな言葉は多分出てこないんだけど、そういうのを確かに想像してみるとわかりやすいかもね。
人間もやっぱり誰かに見つけられたりとか、自分で見つけちゃってるっていうところを全部取っ払うっていう意味で、それが聖人だよって言われると、無視だよって言われると、ちょっと今までのハイドから聞いてきたいろんな哲学者の話とかを総合すると何となくイメージはできる気がする。
確かにね。
やっぱりローシの面白いのは、たとえば聖人っていうのは、冒頭にも言った通り、いわゆる理想的な生き方っていう話と、聖地、本氏みたいな色の両方があるんだよね。
だから単純に聖人としてよく生きるとかって言っても、道徳的な意味っていうよりは、やっぱり結構統治者としてみたいな意味合いが残るんですよ。
はいはいはい。
だからここでいくと、いわゆる民衆を支配しないことで、かえってやっぱり民衆がついてくるみたいな、結構そういうふうな発想っていうのはどうしても出てきて、実際ローシはこんなことを言ってますね、ちょっと紹介するんですけど、
その善人、良い人っていうのはこれを善、良いとすると。善人でない者もこれを善としますと。これによって善人ばかりになる。
信頼できる人は信頼するし、信頼できない人も信頼しますと。これによって信頼できる人ばかりとなります。
普通に聞くとあまりにもお気楽っていうか、人生そんな甘くないぜみたいな感じもあると思うんですけど。
なんかこっちの捉え方次第だよみたいな話でもね。騙されても信じ続けるみたいな。
これはあくまでも聖人の年ばかりの話なんだよね。捉え方って言うと、それで私がある前提じゃない?
有志の世界であって、無志の世界からすると、そもそも善人とか善人じゃないとか、それと言えば人のような話であって、無意、道の世界にはそういう区別もないんだよね。
なるほど。良い悪いっていうのがすでに意味付けされちゃってるというか、有名なものばかりだから、それを無名視点で捉えるよって話ね。
そうそう、無名視点で捉えるとか、私がないっていう状態で捉えましょうと。
成人の解釈
そういう意味で言うと、まず兄貴が言ってる通りで、そもそも道にはやっぱり善も悪もない。それはもう名がついた後の世界の話だから。
やっぱり誰かを信頼できないとかっていうのも、それは信頼できる人と比較して、この人は信頼できないというふうに判断してるわけで。
やっぱりそうやって相対的な世界に生きちゃってるよねって感じなんだよね。
なるほど、なるほど。そうかそうか。信頼できない人っていう人はそもそもいないんだと。
ただ、自分にとってこういう意味のある情報を持ってきた人みたいな、ちょっと西洋っぽくなっちゃうけど。
捉え方が二元論じゃなくて、さっき言ったようなお気楽な悪人を信じろとか、悪い奴を信じろってわけじゃなくて、
あれがとりあえず捉えてみろみたいな、ちょっとまた次元の違う話をしてるんだぞっていう感じなんだよね。
そういうことです、そういうことです。
なんとなくわかってきた気がする。
そうなんだよね。
いかまでも道と一体化した観点からするとか、また成人がクラッシュだったらっていう、またその前提があるからこそこういう言葉が出てくるんだけど、
そういう言葉をすると、道徳とか法律があればいいとか、これはダメあれはダメっていうのをバシバシ国の方が作って民衆を押しつけるとかじゃなくて、
成人である王っていうのがある側にいるだけで良いと。そうすると王の姿を見て民衆もそれでいいんだと思って、
要は自分もそうアロードするとか、そういう分別のついた相対的に見る見方じゃなくて、
全てがあれば世界っていうのに民衆もある種たりつくよねみたいな、そういう感覚があったんじゃないかと思うんだよね。
なるほどね。さっきの成人が1だと、さっきというか前回の成人が1だとすると、民衆とか国っていう2とか3、
そういったもの自然と1の上に成り立ってるから同じようになっていくよみたいな話をたぶん同士は考えてるよね。
そうなんだよね。
一方で、そういう世界が生まれる前提にはそもそも大きな課節として、みんながそういう成人になりたいと思っている。
成人としての生き方が良い生き方だっていうのがやっぱり共通認識としなきゃダメだから、
いつのようでも成り立つわけじゃないし、そもそも前回お伝えした通り、それを取り入れる勲士とか少なかったっていうのもやむなしみたいな。
「善」と「悪」を分けない世界観
まあそうだね。これは実現が難しいよね、確かに。話だったりとか持ってき方とかはすごく理解できたり許可を受ける部分は多いんだけれども、
これをやれって言われてもやりたくないよねっていう難しさがあるね。
ただね、これも前回の話だけど、やっぱり善とか悪を分けて裁いて、法律で刑罰を与えて、一応ある人が死刑にするみたいな、例えば世界が当たり前だった時に、
でもそんな区別って結局人間が作ったものであるみたいな世界観を持っておくということ自体は、結構バランスというか、物事の捉え方という意味では結構役立つんじゃないかと思ったりするんだよね。
はいはいはい、そうだね。自然とは何かみたいなところを持っておくって感じだね。
なので、マックはローソン、自然というのは未知、無っていう世界から生まれてくるものだから、
弱影響種か自然だとかっていうものと自然とはちょっと違ったりするっていうのも難しいところではあったりするんですけど、
でもね、いかに無私がないっていうのが、政治にとって根本的な要素というか、コアにあるのかっていうのは何となく掴んでいただけたんじゃないかというふうに思います。
うんうん、そうだね、はいはい、なるほどなるほど。
その次がね、2つ目のキーワードである無効、功名とか勲がないって話ね。
うんうんうん。
これは結構文字通りで、あらゆることを自分の手柄にしたりとか、執着したりしないというような意味合いですと。
はいはい。
これについてはね、結構老舗も普通にシンプルに言ってて、手柄を挙げて知りづくだから、いわゆるちょっと自分が一歩引くとか、あるいは引退するみたいなのは天の道だったと言ってるよね。
うんうんうん。
あるいは手柄を成し遂げて、自分の名を挙げてやろうとか、
これは自分が言ったんだ、自分のものだと言わないようにしようねとか、そういうことも老舗は言ってたりするんですよ。
で、これもなんとなく恥ずかしいからやめなさいとかっていうよりは、そもそも政治は無視、私がないから、別に自分が何かを成し遂げたっていう、そもそもそういうことも起きないよねとか、
結局道に従ってるだけだから、その手柄って言ったら究極全部道のおかげだよねみたいな。
うんうんうんうん。
いわゆる自分が何かをしたんじゃなくて、ただ道に従ったらそういうことができたかもしれないけど、別に自分がやったわけじゃない、人為じゃないっていう。
はいはいはいはいはい。
そういうような考え方なんですよね。
なるほど、謙虚みたいな話かな。
違うだろうけどね。
僕らが見ると謙虚な人ってなるんだけど、謙虚さっていう評価も政治に対しては多分当てはまらないんだよね。
うんうんうんうん。そこももう有名な世界だからね。謙虚、謙虚でないっていう。
はいはいはい。
もっと言うとさ、兄貴も言ってくれた通り、要は君主とか王様っていうのが一で、そこから民衆としての二とか三が生まれてくるから、成人からしては全部自分なわけだよね。
うんうんうん。
要は他人も自分の一部だし、自分も道の一部だから、いわゆるポータルな、包括的な世界観からすると、誰かに対して何かをしてあげるとか、
自分が民を束ねるとか、そういうことってほぼほぼなくて。
はいはいはいはい。
なんか、気づいたら束ねていたとか、何かをさせてもらっていたぐらいな。
功名や勲を求めない態度
やっぱさせてもらうのもちょっと違うけど、そういう表現でしか表現できないのが多分成人の境地。
うんうんうんうん。
面白いね。老子の頭の中のイメージでは、今回の話もさ、まず王様がいて、国があって、民がいてみたいな、一があって、二があって、三があるっていう風にどうしても表現はしてしまうんだけれども、
多分老子の頭の中ってもっと構造、雰囲気的な、多分全体的なイメージが頭の中に入っていて、前回もあったさ、あまり人数が多くない国っていうものがあって、そこに人々が幸せに暮らしていますと。
そこに王様がいますと。多分そういう構造というか、その景色、その全体が頭の中にあって、それをあえて表現するならみたいな感じで多分出してるんだろうね、っていうのをすごい感じた、今の話から。
だからそうすると、その全体の中にコマとしての一つ王様とか聖人っていう人が、コマがピースがあって、その人の挙動ってどうなんだろうなーって考えると、もうその世界観から考えると、何かその中でいいことがあったとか、仮にどこから攻められちゃったけど勝ったとか、守りきったみたいなことがあったときに、
その聖人はガツポーズするかなーってなると、別にしないよねーみたいな世界観が王様の中ではあると。それを表現すると無効になってるみたいな感じが。
すべてが道の働きだからって、そこの一番大きな大前提がある。そういうトータルというか、ちょっとカオスの感じの世界観。カオスっていうのは入り混じってる。個人が区別されずに全部がジャッとなってるみたいな世界観が王子にあるのかなって感じですね。
さっきも言ってくれたように謙虚だね、みたいな感じだと思うんだけど、一方で偉い人はそれなりに感覚を持ってるかなって。権威とか意向を持って人を統治する感覚って中はないじゃないですか。
私は民衆というか、他の人たちも自然と思っちゃうよね、そういう感覚って。そういう自然なのかは知らないけど。
そういう感情的な部分はあるじゃないですか。カリスマに導いてほしいみたいな。
それもまた一つの感覚というか、本能的なのはあるような気がするけどね。
やっぱり兄貴と今回ロボットシリーズについて話したような感じで、ロボットシリーズも一面的であまりにも道のほうに立ちすぎちゃってて、融通が効かないなって僕も思い始めてるんだけど。
面白いもんね。無意義と自然みたいな話をしてるのに、結構自分は自分の理想の中で生きてるというか、その矛盾を感じて面白いなと思うんだけどね。
その説明はすごい納得できるんだけど、そもそもの前提がおかしくないみたいな面白さがずっと感じる。
ちょっとその部分が僕は面白いなって思ってるんだけど、何事にもやっぱり表と裏があって、さっきみたいな偉い人は必ず持っておかなきゃみたいなものももちろんあるけど、
僕らっておかげさまでみたいな、自分が何かしたっていうよりも周囲におかげでたまたまそういう役を引き受けましたみたいな、そういう側とは別に仲はないじゃん。
それがうさんくさく聞こえるかどうかとか置いといたとしても、やっぱりそこも両方あるよねとか、おかげさまでっていう世界観の極致みたいなのが、この成人の無法みたいな世界かなっていう感じですね。
名のない世界での生き方
最後のキーワードは無名ですね。これもまさに第2回で、無名っていうのが分別というか区別がない世界で、有名っていうのが分別というかいろんなものが区別されて、一個一個に分けられた世界ですとみたいな話をしたと思うんですけど、
成人っていうのはこの無名の方の世界に生きることができる人なんですよね。
文章で明確に道は常に名無し、道は常に名無しって言ってるらしくて、道っていうのは名を超えているとか、名っていうような働きでは捉えられないよってことを言うんだよね。
はいはいはい。
道っていうのは無名そのものだと。
これっていうのが、まさに前回から話している、それって人間の世界の話だよねっていうところに紐づくところで、
社会とか人間世界ができるためにはその名とか名っていうのは絶対必要なんだけど、この名によって表されるとか形作られる世界っていうのは常に限界があって、その外というか、その枠の外にはやっぱり無名の世界っていうのがあるよねっていうことが老子の考え方なんだよね。
はいはいはい。あくまでも無名の世界が本質というかで、有名、名がつけられた世界は仮でしかないよぐらいの感じなのかな。
そうそうそう。
順番で言うと。
やっぱり無名から有名があるとか、無から一が生まれるっていう感じだから、そこの大きな含む関係っていうのがどうしてもあるんだよね。
それって、ウィトゲンシュタインって聞いたことある?哲学者。
名前は?
聞いたことあるよね。
そういう哲学者もいつかやりたいなと思ってるんですけど、そのウィトゲンシュタインの有名な、めちゃめちゃ有名な言葉に語り入れているものについては沈黙しなければならないって言葉があるんですよ。
これもすごく意味が多いというか、いろんな意味がある言葉なので、まさにこの言葉を説明するために1回分ぐらい僕やりたいなと思ってるんですけど。
はいはいはい。
これもより普通の理解で言うと、要は足りない言葉は言葉にできないとか、言葉として表現できない世界があって、そこに対しては言葉っていうのは無力だとか、そういうような捉え方ができるんですけど。
そことほとんど同じようなことを言っているというか、世界観的にはそういう理解からすると近いんじゃないかなと思ったりします。
なるほどなるほど。
だから普通に、ヴィトリン自身は20世紀の方だと思うんですけど、そういう人たちが考える人間の思考の限界とか、人間の思考に捉えられない外の世界の本質に言及しているのが、老子の思考の奥深さだというか、広がりだよっていうことも言うこともできる。
これも絶対にここに政治的な側面がついてもあるんですよ。
そうなんだ。
これはやっぱり老子の面白さで、この言葉がありますよ。また紹介するんですけど、自分の治めている国とかで民衆が勝手なことをしようとすると、その時には運命の素朴な気、これイコール道って感じなんだけど、これで対抗しましょうと。
そうしたら民衆は恥ずかしみを受けたことになりません。
どういうことかというと、例えば民衆が何かやらかしました、それが悪いこと、法規とか参乱を起こすとかちょっとわかんないけど、そういうことが起きたときに、感情とか仁義の世界の理でそれを処罰したら、結局それが恨みつらみになっちゃって、あともう火種になっちゃうような感じなんだよね。
はいはいはい。
でも無名の立場、要は道の立場でそういう人の分別とか、自分があるないとかを超えてその人たちに接すると、それっていうのは問題にならない。
矛盾と調和の関係
要は受けた方も、これはその人王様の好き勝手とか、そういう感情でやられてるんじゃないんだってことが伝わるから、民衆の側もスッと受け入れて、その後異根が残らないよみたいなことを言ったりするよね。
なかなか難しいですね。ちょっと無理がありそうだな。
なかなかちょっと納得しづらいよね。
法で規制しましょうっていうのを、すごく強化しそうな話でもあるよね。逆に。法律大事だよって言われてる気もする。
はいはいはい。法律は人間が作ったものだけど、道っていうのは道の世界の法則だから、そこに従いましょうっていう意味では近いかもしれないね。
いやー、その道の法則を教えてくれってなっちゃうもんなー。有名の世界に生きる我々としてはね。そこは感じろって言われても、恨みは残ると思うなー。
これは無名の世界の道であるって言われながらぶん殴られたりとかさ、家族が殺されたりとかさ、でも怒ると思うけどなー。
そうね。でもやっぱりね、道は無名だから表現し尽くせないみたいな。
なんか恐ろしいよね。逆に無法な気がするけどね。悪い意味で無法な気がするけど。
そう。だからやっぱり現実世界は難しいって話なんだけど、無名って世界観も人間の認識とか、存在の奥深さとかっていうと確かに無名だねって思うんだけど、いきなり現実世界に持ち込んじゃうと、それは本当に意味あんの?みたいになるっていうこの楽さね。
まあでもそうだね、そこもろうしだってね、五千字しか残ってないでしょ?五千字でそこを語り尽くせっていうのは確かに無理があるからね。
もう現実の世界にそれをインストールというかさ、やってこうという視点で、すでに有名の世界でやろうとしてるからっていうところは多分この哲学全体の難しさでもあるわけもするね。
そうだね。思ったより人間の難しさだと思ってて、千代とかでも戦略作る人と現場作る人が分断しちゃって、あいつらは現場が分かってないとか、あいつらはこの規格とか戦略を理解しないっていうふうにお互いに別れちゃうとかさ、
本部と現場があって、やっぱりそこが一番大きな現場が本部は分かってないみたいな話と多分近くて、
法則にはお前らは無名の世界が分かってないって話があり、君主とかからしたらこいつは実際の政治とか現実は分かってないみたいな。
多分そういう取ってる観点の違いっていうのがどこにもあるんだろうなって思うんだよね。
本当はね、多分それも一つというか、お互い理解し合えるポイントもあるはずなんだけどね、それが絶対的な真理ではなくて、その時の世界というか、その時の時代の流れだったりとか、その瞬間瞬間で言えば多分お互い分かり合えるポイントってあるはずなんだけど、みたいなところだよね。
だからね、やっぱりそういう意味で老子もね、ある人と歩み寄って、ある人は有名な世界に頼りすぎてるというか、そっちの世界しか知らない人に対して実はこんなに無名な世界もあるんだよっていう感じだったと思うし、
道の法則と無名な世界
だからこそそっちの世界を知ることでこんなに良い政治とか、こんなに良い君主になることができるよっていうようなものをある程度伝えていったんじゃないかなと思うんですけど、
そうじゃなかったらね、やっぱりもうね、無名最高とか、お前らも全員政治になれみたいな、多分そういうふわふわしたものだけが残ったと思うんだけど、
政治についてが残ってるっていうのは、そこに何とか現実に生きようとした、実在したとしてっていう、ちょっと格好分けはつきますけど、そういう人とかね、感覚を持った人なんじゃないかなっていう、そういうところは感じるんですよね。
はいはいはいはい。なるほど。王様とかもガッカリしただろうね。すごくわかってそうな人来たって多分思うと思うんだけど、じゃあ具体的な戦術とか教えてくれるかなって言ったら、
国は小さくしましょうみたいなさ。そこじゃねえんだよ。こんなそこそうな人なのに、そこじゃないんだみたいなね。そこも面白そう。いいね。
僕の伝え方が少しよちゃっとってあるかもしれないんですけれども、中途半端というか、なかなか実際に政治に受けられなかったっていうところの要因もあるよねって思ったりするんですけど、
やっぱり老少年思想時代に逆説とか矛盾が多かったみたいに、二面性ですよね。やっぱり世界とはとか、種族的な、そういうものを感受させながらも世界について生きるとか、
ちょっと経時枠的に、やっぱり現実世界とは離れたことだというふうに感じるんだけど、どうしても政治的な側面がついてくるとか、そういうふれ幅とか解釈の豊かさみたいなものが改めて老子の魅力だし、面白さだなって僕自身感じたんですよね。
そうだね、だし今思ったのが、この老子の考え方だよね。無とかゼロとか、有名の世界から無名の世界に引っ張ってくれるような力強さだったりとか、自分を俯瞰で見させるような気づきを得られる力強さみたいなものが、多分冷静にしてくれるっていうのがあるのかなと思って。
はいはいはい。
それが多分具体的な、どこは使えないんだけれども、当時の王様を想像するとね、ただ一方でそういうすごく有能な王様だったりとか、その側近だったりとか、もしくは現代とかでも言ってもすごくクリエイティブな仕事をする人、
無からゼロから一を生み出すような仕事をしている人においては、多分こういった感覚を持っておくことっていうものは、自分が何かを判断すること。そこそこいろんな信頼できる人、信頼できない人、いろんな人がいる中で、それを全部受け入れて、受け取って判断していかなきゃいけない。
しかもその判断の一個一個が精神に関わる。自分だけじゃなくて国の。そういうレベルになってきた時の、すごく強い芯というか、軸になるっていう強さは持ってるんじゃないかなって、今回は老子から感じて。
そうだねそうだね。
だからそういったエッセンスだけをうまく、本当に老子が有能じゃないって言ってるじゃないんだけれども、その時代でやっぱり必要とされる能力だったり、姿勢っていうのは変わるわけで。
そういうとやっぱり王様、当時の春秋戦国時代の王様とかが、生き抜くっていうよりは正しいというかね、強かったとすると、そことこの老子の根本的な冷静さみたいな、不貫復みたいなものが合わさった時の力強さっていうのは間違いなくあったんだろうなっていう感じだね。
有能な王様であればあるほどそのエッセンスをうまく取り入れて、自分の判断、自分の政治、そういったものにうまく応用していったんだろうな。そういう人が、自分の成功の理由は何ですかって聞かれた時に、その辺をうまく言語化してきたからこそこの老子の名前が残ったというか。
知らないけどね。そういう応用力というか、奥深さだよね。何とでも調理できる感じ。
そうだね。
老子の思想の応用
それが伝わってきたかな、今回。すごい魅力的な人だね、本当。
良かった良かった。
なんとなく最初は謎の人というか、本当に分からないじゃないですか、その老子ってなんじゃみたいな。
っていうところからこうやってお話をして、入稿で感想をもらえたら嬉しいし、本当に兄貴が言った通りで、時代がやっぱり違うけど、それをうまく取り入れて使う人とか。
前回も言ったけど、前回の王様というか皇帝も、老子のこんなことがやっているっていうのをうまくちょっとだけ拝借して、自分の権威をするみたいなやったことって、全然あるじゃないですか、老子に限らず。
やっぱりそういうね、自分にどう引きつけるかとかもそうだし、あとやっぱりこの老子の力強さって、物事を分割してバラバラに捉えていくんじゃなくって、トルトルとか、最近のホームレスみたいなこともあるけどさ、
そういう視点から物事を捉えるっていう意味ではすごく強力な思想だと思うんだよね。
やっぱり例えば無視とかっていうのは無理だとしても、私っていうのは使うにしても、この私は捨てる、この私は嫌いとか分割していくんじゃなくって、私は私っていう世界で生きるあり方っていうのもやっぱり一つあると思っていて、
そっちの方が今のじゃやったらちょっと豊かに生きやすいよねみたいな、無視とか自分を捨てることまではいかなくていいけどみたいな、そういうチューニングとか全然あると思うんだよね。
だから使い手次第みたいなさ、ただ応用範囲がめちゃくちゃ広いみたいなさ、面白いと思ったし、技術的には全然知らないんだけど、適当なこと言ってるかも言うかもしれないんだけど、半導体的な、私は電気を通しますし通しもしませんみたいなさ。
そういう幅広さよね、だって今半導体何にでも使われてるでしょ。
でも多分半導体って、うちら渡されてもさ、電気を通すし通しもするし通しもしない物質できたよって、うちら文系が渡されるじゃん、何の知識もないやつが。
それ渡されてもさ、ポカーンとしちゃうじゃん。でも実際はね、世の中でなくてはならない存在みたいな。そういう感じなのかなって、ふと思ったね。
面白いね。でも確かにそういう広がりはまさにあったと思うし。
あとね、ローシーに関しては今回でおしまいなんですけど、次はソーシをやっていくんですよ。きちんとちゃんとお話してるんですけど、前期もやってたローソーシソーっていう風になることが多いじゃない。ローソーソーシでローソーだみたいな。
もうそれしかない。
これも後々の時代のカテゴライズみたいな感じらしくて、いわゆる西洋でいう、例えばソクラテス、プラトン、アリストテレスみたいに直近のデシとかってこっちは明確に伝わってるんだけど、ローソーシがそういう指定関係だったとかってことではないらしいんだよね、別に。
そうなんだ。
かついろいろ読んでると、やっぱりソーシの方がもっと抽象的な概念だったりとか、いろいろな思想の広がりっていうのがある人だなっていうのを感じたりもするし。
さっきのインスピレーションの話で言うと面白いのが、ノーベル物学賞を受賞した湯川秀樹教授っていう方がいらっしゃるんだけど、だいぶ前の方なんだけどね。
その湯川先生もソーシの話とかにインスピレーションを受けて、そういう仕事について考えてたみたいな、そういう話も残ってるぐらい。
はいはい、ソーシの方なんだ。
そういう道とか、一気に世界観が影響を与えたっていうのは、やっぱりあれだっていう話があるんで。
そんなエピソードとかも織り交ぜながら、次回はソーシの話について、一つのテーマというか、集め上げる人としてお話していきたいというふうに感じに思っております。
はいはい、了解しました。そっか。
はい。
老子編終了
そこね、なんか一つ今止めてたけども、一応というか全然また違う人だと。
そうそうそうそう。なんか似てるとか共通の度合いはありそうではあるんだけど、やっぱり全然違う思想だし、実際の結構違うんじゃないかな、ちょっとまた次回にちゃんとお伝えするんですけど。
はいはいはい。
老子とソーシはちょっと全然別であさえますけど、ちょっと念頭においてまた次回も見ていただけると嬉しいなっていう感じですね。
わかりました。じゃあちょっとそうはね、もう昔の教科書の知識で老・ソーシ層と一体化してるんだけども、一旦そこは分けてね。
僕もそう思ってた。
老子とソーシということで、じゃあ今回は老子編ここまでで、また次から改めてソーシ編に入るよとちょっと頭切り替えていくぐらいの感じでちょっと聞いていきたいと思います。
そうですね。また繋いで一回挟んでて感じだよね。あのまあ、月月夜々と聞いていただければという感じでございます。
はいわかりました。では次回ソーシ編ということで、また次回も引き続きよろしくお願いします。
よろしくお願いします。今回もありがとうございました。
40:56

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